2014年8月31日日曜日

五木寛之             ・歌の旅人(埼玉県)

* 9/1,9/2は小旅行の為、休みます。
  後ほど、追って投稿しようと思います。
 
五木寛之         歌の旅人(埼玉県)
若いころ埼玉県子供の歌の作詞を依頼された。 
荒川の流れ、サクラソウ、秩父の山並みの言葉を必ず歌に入れこんでくれと言われて、苦労して作った事がある。
東京都との境目が判らないような傾向がある。
古代から栄えた地域だった。   キュポラのある町(鋳物) 川口  岩槻の人形 深谷のネギ・・・
東京が近いので農産物が栄えた。

歌手日吉みみ(浦和区)  「男と女のお話」  昭和40年代後半

日本で一番市の数が多い。 40市ある。
彩の国(ださいたま を払しょくしようと運動) 彩り豊かな県で有る。
創業者が多い。  渋沢栄一  あげきれないほど多い。
野球、サッカー等の本拠地がある。

尾崎豊(朝霞)  「アイ ラブ ユー」

川口の鋳物 1000年の歴史がある。   
行田市はたびの生産量の 一時は8割を生産 現在 2位
明治時代 秩父困民党事件 庶民たちの生活が困窮して、農民たちが抗議運動を行う。
金子兜太 (秩父出身 医者の息子) 「秩父音頭」 凄く猥雑な歌詞だった。
金子兜太の父が元歌の書きなおしをした。 凄くいい歌詞だった。
「秩父夜祭り」は一度は見てみたい。

狭山丘陵 トトロの森  川越 小江戸、鐘楼
(画家)小村雪岱:川越市   喜多川歌麿:川越市
若田光一 羽生善治  石川遼 樋口久子  
(作家) 森村誠一 佐藤優  吉永みち子 宮脇俊三 石井桃子
(漫画家) 臼井儀人 原哲夫  二ノ宮知子 さとうふみや・・・・・
(映画監督) 蜷川幸雄  石井裕也 
佐々木則夫(女子サッカーの監督) 川島永嗣
市民ランナー川内優輝  女子プロレスラー多数 北斗晶、ダンプ松本、キューティー鈴木、ブル中野・・・
俳優が多い  所ジュージ(所沢)  愛川欣也 本木雅弘・・・

歌手 冠二郎(秩父市)  「旅の終わりに」 作詞 立原岬(五木寛之のペンネーム)

食べもの 草加せんべい サツマイモ サツマイモ料理  焼き鳥(東松山) ウナギ料理(さいたま市)  武蔵野うどん 身近な食べ物が多い

歌手 沢田知可子(さいたま市) 「会いたい」

日本一 春日部 おおタコあげ 15m×11m  自転車保有台数 学習塾、予備校に使うお金
雑誌、書籍に使うお金、荒川 川幅2537m 日本の地質学が長瀞から始まる。
保健所も最初に設置された。
成人式が蕨から始まった。















2014年8月30日土曜日

岡本信人(俳優)         ・私の原点、萩の歴史と自然に育まれて

岡本信人(俳優)    私の原点、萩の歴史と自然に育まれて
昭和23年山口県岩国市生まれ 少年時代萩の自然の中で育つ。 俳優として「肝っ玉かあさん」や
「渡る世間は鬼ばかり」など多数のドラマに出演、最近では趣味の野草の知識の豊富さでも知られています。
萩の歴史や自然が原点という岡本さんの岡本流俳優人生をお聞きください。

「花燃ゆ」 来年の大河ドラマ。 萩が舞台となる。
萩城下町、萩反射炉等が世界文化遺産の登録を目指している。
昨年萩故郷大使に任命されました。
2年前、番組で萩を紹介した。  
明治維新で活躍した長州の志士のゆかりの地を辿ると言う番組。
関ヶ原の戦いで敗れた毛利家はこの恨みを忘れてはいけないと、江戸時代を通して、幕府のある江戸の方に足を向けて寝たという、いい伝えがあると聞きましたが、明治維新はその延長線上に有ったと思いました。
松陰神社は家が近かったのでよく遊びました。

2歳の時に父が肺結核で山口市に入院したので、山口市に暮らして、萩で手術をすることになり、萩に引っ越した。 小学3年~6年までだが最も思い出深いところです。
小学校時代に自然に興味を持ってそれ以来続いています。
松陰先生、松陰読本は小学校で習ったがよく覚えている。
昭和34年に当時の明倫小学校の先生方が編集された初版本で、習いました。
松陰先生が多くの門下生に影響を与えて、国のためを思って行動したのがおぼろげに判りました。
この小さな長州から近代日本の礎となる人物と成る多く輩出したことに誇りを感じますね。
20代の時にドラマでご一緒して、児玉清さんとずーと親しくしていただいて、クイズ番組で松下村塾を開いたのはだれか、言う問題、回答者は間違えた。
信人なら何と答えると言ったら、玉木 文之進 と答えたら、そうだとの事。松陰読本で習った。
NHK大河ドラマ「花神」の金子 重之輔を演じる。

明倫小学校は当時3000人いて、大運動会があり、明倫小学校ならではと思った。
町のお祭りも思い出深い。 時代祭りは壮観でした。
父は再発して、2度、3度手術をして闘病生活を余儀なくされて、生活が苦しくて、母は働きながら父の付き添いをするようになった。
家の近くに、春になると用水路の両脇に野草が群生して、料理されて家の食卓に並びました。
つくし、ヨモギなどを私も野原に出て、取ってきて渡しました。
擦り傷にはよもぎを揉んでつければいいと、教わっていた。

毒草なども教わっていた。
釣りもやったり、昆虫を取ったり、秋になると木の実を取ったりしていた。
生き物に触れて命を知りましたし、遊びながら人に対する思いやり、人の痛みを感じる気持ちが芽生えたと思います。
近所には子供をしかる大人たちがいました。 地域に守られていたと思います。
最近子供達は外で遊ばなくなってしまったが、外で遊んでほしいと思う。
人と触れ合いながら人間関係を築いてってほしいと思います。

野草を食べたり、さやで笛にしたりして遊んだりしました。
野草が暮らしの中に在り、今も野草と付き合います。
父の体がよくなって、横浜に行く事になる。
遊ぶところもなく、学校でも、家の近くでもいつも一人でポツンとしていた。
その1年半後東京に行く事になる。(借りてきた猫の様だった)
父が心配して、新聞に出ていた児童劇団に応募して、入団テストを受けるようにと言われた。
今の自分を何とかしたいとの思いもあり、テストを受ける事にする。
合格通知が来て入団する。(昭和36年 13歳の終わりころ)
一生懸命やっているうちに楽しくなって、気がついたらそこが自分の居場所になっていた。
その他大勢の役をやるようになる。

劇団からオーディションに行くように言われて、NHKのリハーサルにいくが20名ぐらい集まる。
台本を渡されて、最初が私で半分を読まないうちに、次の方と言われてしまう。(棒読みだった)
又機会があり、今度は感情を込めて読んだら、見事合格した。
NHKの「あすをつげる鐘」 少年福沢諭吉 昭和38年 福沢諭吉の友だちとしてデビュー。
TV、映画に出演するようになるが、高校2年の終わりころ、父が劇団をやめて大学へいって建築家になれと言う事だった。
一生の仕事にするなら芝居をやるよりも建築家になる方がいいのかなと、劇団をやめて、勉強に専念していたら、かつてのドラマの作家の先生から電話があり、事務所を立ち上げるので来ないかと言われて即断してOKした。
宮田達夫先生がいなかったら、今の私はこうして俳優としては存在してはいない。

石井ふく子プロデューサー 「肝っ玉かあさん」 石井先生との出会いがあり私の人生を決定したと思う。
その後、TBSの色々なホームドラマ45年に渡って出演してきた。
昭和45年に大学を卒業して、同時に俳優になることを決心する。
市川昆監督から「吾輩は猫である」の寒月をやってほしいと言われて、感激した。
前田洋一監督から「坊っちゃん」をやるのでうらなりをやってほしいとの要請があり、出演する。
その後、色々な映画にも参加させてもらった。
多摩川の土手につくしがはえていて、夢中になって取って、料理したがまずかった。
はかまを取ってなくて、あくも抜かなかったためと、母から言われた。
それがきっかけで図鑑を調べて、レパートリーを広げていった。
東京で目にする野草、200種、そのうち70種をたべて、旨かったのは30種ぐらいだった。
50歳の時に「道草を食う」を出版する。

最近は野草を通じて、珍しい光景をリポートする番組に出演して、地方へ行った時に野草をてんぷらにして子供達に食べてもらうが、美味しい美味しいと言って、自分の子供の時と変わらないなと思った。
野草の種が風に吹かれて、地に根付く様に私も何とか置かれたところで、何とかなじむように悪戦苦闘しましたが、そんな中でいろいろ出会いがあり、助けられ、導かれてきました。
くじけそうになった時は萩の野生人の自分を思いだして、自分らしく生きようと思った。
萩があって今の自分があると思います。




2014年8月26日火曜日

福辺節子(理学療法士)    ・義足の理学療法士として30年

福辺節子(理学療法士)    義足の理学療法士として30年
60歳 30歳で始めた理学療法士の仕事を今も続け、各地で介助者向けのセミナーや在宅介護の講座を開いたり、NHKのEテレの番組「楽々ワンポイント介護」にも出演しています。
理学療法士と言うのは国家資格の専門職で、病気やけがで身体に障害を持つ人に、座る、立つ、歩くなどの基本動作を指導するリハビリテーションの専門家です。
福辺さんはこれまでに身体障害者センターや在宅で経験を積み、他方でスポーツ専門学校で若手の養成にも尽力してきました。
福辺さんは永年の実践から、介助をする人が腰痛など、身体を痛めることを目の当たりにして、そうしたっことが起きないような、独自の介助法、力のいらない介助法を広めようと全国的に活動しています。
福辺さんに、福辺流介助法の真髄を伺います。

NHKのEテレの番組「楽々ワンポイント介護」に出演して、リハリビの普及を主張されている。
介助の基礎の基礎だと思っているが、当たり前のことが今の介助の教育の中はでされていないと思う。
相手の人がどんなことができるのか見たりとか、声かけ、相手の人の眼を見て、相手の人の動きを待って初めて触るとか、当たり前のことが教育でなされていない。

職業を選んだ理由?
30年前は男女の職業の差がかなりあった。  コピーライターに成りたいとは思っていた。
男女の職業の差がない職業、スーツの着ない職業と言う事で最終的に選んだ。
自分が事故で障害を負って、リハビリを受けて、こんな仕事があると思ったが、でもその時点ではこの道にとは思わなかった。
21歳の時に、冬山で、車が90m落下して、外に放り出されて、奇跡的に命は助かったが、左足首の骨折をして、感染して、高野山病院に入院して、段々悪くなって、和歌山県立医大に入って、膝の上から切断しないと命にかかわると言われて、父が膝から下にしてほしいと懇願して、膝から下からの切断になった。
膝があるとないのとでは、全然違うので、膝から上の切断だったら、理学療法士には成れなかったと思う。
私の場合は感染があって、嫌気性のガス壊疽という、空気があると広がらないと言うので
暫くの間、切った足を閉じないで、傷を開いたままにしたようなやり方だった。

直視しない時期があって、いろんな時期を経ながら自分の障害を見ていかなければいけないと、繰り返してきていると思う。
障害を持ったと言う事に関しては、それほど重い障害ではないので、仕方がないなあと、受け入れることになるまで10年ぐらいは掛かった。
最初は頑張ってリハビリするが、そのうちに仮義足とか、現実を目の当たりにしてゆくと、自分の足にあわなかったり、ハイヒールを履けないとか、色々あり、リハビリに行かなくなった。
自分の身体で生きてゆくしかないと思った時に、先生が来て横でじーっと座っていてくれて、感じて、そういう時期がなければ次のステップに上がっていけない。(空元気では駄目)
何回も繰り返しながら、障害を受容していった。 10年はかかったが。

3年間専門学校で勉強して、兵庫県尼崎身体障害者センターに就職する。(30歳)
そこに行ってなかったら今の道はなかったかもしれない。
深くは見れないので、在宅でその人たちがどんな生活をしているかを見ないといけない。
センターで色々訓練を受けるが、家に帰ると自分でしなくなって、家族がやってしまう。
退院時は出来ても、理学療法士は家の事までは想定していない。(家族、環境など)
ほとんどの場合はその人に能力があっても、直ぐにやらなくなって寝たきりになるという現状を見たので、家に行きたいなあと思った。

私たちは今まで何をやってきているんだろうと思った。
訪問のリハビリを始めた。 其れまで寝てきた人が立てるようになったりする。
又日が経って、家に行くと、又寝たきりになってしまっている。
当時障害を持った人、お年寄りが車椅子で、同じ食卓に並ぶと言う事は一番ハードルが高かった。
家の方、看護師が家に入ったりしているので、そういった方に介助を覚えてもらったら良いと思った。
そして今から20数年前に、介助のセミナーを始めた。
段々介護保険ができたりして、ヘルパーさん、セラピストの人に来ていただいた。
やり方を伝えたら出来ると思っていたが、私の介助と参加者の介助が違う事がわかった。
私の介助は、介助される人に動いてもらう介助、皆は形はまねてくれるが、介助者が勝手に動かしてしまっている。

相手の力を引き出す、相手の人に動いてもらう介助に変わってきた。
相手の人が先ずどこまでできるかを、見ないといけない。
8割はやり過ぎている。  残りの1割はやりなさすぎ。 適切な介助は1割ぐらいしかない。
そのギャップは出来ること、出来ないことの見方がおおざっぱ過ぎる。
痛い人と、筋力低下の介助は同じではいけない。
筋力だけでなく、認知能力、言語能力も見極めることが必要。
声かけをして、直ぐに介助してしまう。

介護拒否されたとか、介護された時に痛いとか、恐いとか言われた時は、介護をしている医療者、介護者は自分の問題として捉えてほしい。
声かけ、触り方、皆さんのさわり方はあまりにも無遠慮、痛い、強い、もっと優しく、もっと的確に触らないといけない。    意識としては1/100ぐらいの思い。
支え、手すり、杖等 支えの役割り しっかりしていて動かないもの、介助される人の力を感じながら最低限、机や、手すりにならないといけない。
介助者の手よりも手すりの方が安全と思っている。
触れているんだけれども、相手に影響を与えてははいけない。

介助は相手を動かすことではなくて、全ての五感を相手に伝えて、そこからの動きを引き出してゆく事。
自分の中に弱点があるからこそ、相手の中のそういうところが判ると言う意味では、足を失ったという障害ではなくて、自分自身の持っている物があるからこそ、出来てきたのかなあと思います。
やってきた原動力?
大変ではなく楽しい。 介助をやった時にちゃんとできると相手の方は変わってくれる。
ライブで伝わる。
その時の嬉しさ、其れを相手の人と共感できる。
福辺流ではなく、世界中にスタンダードとして広まったらいいなあと思います。
人がその人らしく尊厳を持って生きると言うのはリハリビテーションの原点、そういう想いを持ちながら一所懸命生きていきたい。
人として成長していきたい、介助する側、介助受ける側にもあるんだと、其れを信じられるような仕事ができたらいいなあと思います。







2014年8月25日月曜日

金田一秀穂(言語学者)    ・萩本欽一の人間塾

金田一秀穂(言語学者)    萩本欽一の人間塾(5)
日本語を学ぶ生徒の感想。 日本語が楽しい。 日本語は易しい。
日本語を勉強したいという人が、来れば日本語を勉強しようと皆さん思っているので、それに教えるのは簡単です。
皆さん口を開けて待っているので、日本語を上げれば皆食べるんです。
金田一 京助(祖父)、金田一 春彦(父) その二人が辞書を作った。
優しい言葉の方が説明が難しい。
右→南を向いたときの西の方向。(北を向いた時に東の方向という記述もある)
この辞書を開いた時に偶数ページが右、奇数ページが左 との表記もあるが
右が判らない人が偶数、奇数がわかるのか、との指摘もある。

「なんでそうなるの」 なぜそうなるのでしょうかでは跳びあがれない。
言葉は言葉、身体は身体は別々になっているが、欽ちゃんの場合は一緒になっている。
大きい声を出すと身体がついていく。
今は、言葉だけが動いちゃっている、大切になっているが、身体がついて行っていない感じがする。

最近驚いた事
コンサートに行ったが、コンサートの切符を手に入れたと言ったら笑われた。
切符と言わないでチケットと言うそうです。 切符 10%
飛行機の切符 チケット    切符 50%
新幹線の切符 チケット    切符 ほとんど
言葉は変わってくる。
電気釜と言ってやはり笑われた。  炊飯器
歯磨き粉 今は粉ではないが、若い人も歯磨き粉と言っている。
下駄箱、筆箱  下駄や筆が入っているわけではないが、そう呼ぶ。

娘が和菓子職人。
自分の道を見つけてとっても良かったなあと思います。
「ドアをバタンと閉めて出て行った。」  どうしてなのかと言ったら、娘はそんなの判るわけない、風でそうなったのかもしれないし、建てつけが悪かったのかもしれないし、色々考えられるからと言われた。
全く娘の言う通りだと思った。 国語は向いていないと思った。

試験の時にカンニングしていないことを、判ってもらうために、一度何にも書かないで答案用紙を出したら、先生がカンニングやらないと褒めてくれると思ってだしたら、職員室に呼ばれて、(褒めてもらえるのかなと思った)、駄目じゃないかもっと勉強しなければ、と言われてショック受けた。(萩本)
中学の時に何故か担任が国語の先生だった。(金田一)
兄は中間試験で平均点を取った(彼としてはそこそこ良かった)、後で先生から金田一君あなたは試験の時に身体の具合が悪かったのと言われて、兄は国語が大嫌いになった。
一言で大好きになったり、大嫌いになったりする。
国語ってどこまで人の気持ちが読めるかと言った事だと思います。

小さいころから喧嘩が弱かったから、ガキ大将の眼を見ながら、対応していて喧嘩はしなかった。
(萩本)
弟子は育てていると言うより、育てていない。(萩本)
小堺なんて、最初声が震えて声が出なかった。
お前最高だなあ、俺と一緒だ、と言ってやった。
将棋の米長 邦雄さん 弟子を怒ることはあるのですかと聞いたが、俺腹が立ったから3日後に来いといって、3日後は余計な事は言わないで一言で済むと言っていました。(萩本)
お前いつも100点でやる、たまには70点でいいんだよと、関根には言ってあげた。(萩本)
「間(あいだ)」の定義が難しい。  どう説明するか。







2014年8月24日日曜日

本岡典子(ノンフィクション作家)   ・ノンフィクションと向き合うパワー

本岡典子(ノンフィクション作家)  ノンフィクションと向き合うパワー
兵庫県 1956年生まれ 58歳  先日婦人誌で90歳を越える健康なご夫婦をインタビューした企画が話題になりました。
子供の頃戦争特派員になりたかった本岡さんは関西学院大学を卒業後、放送局でアナウンサーとして働きます、
その後、現場で取材して、ノンフィクッションを書きたいと、放送局をやめて多くのものを取材し、ノンフィクションライターとして活躍しました。
2011年には「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生あいしんかくらこせい)」を出版し、評判になりました。
現在は現代ルポルタージュや歴史ドキュメンタリー等様々な現場を取材しています。
ノンフィクション作家として多くのものを取材する本岡さんのパワーの秘密などを伺います。

高齢者 100歳近い元気な夫婦のインタビュー 戦争取材をする中で90歳を越えてかくしゃくとした人に出会って、必ず元気な人のそばに素敵な奥さんがいらしゃるという事が多かった。
愛情表現は自然で仲むつまじい夫婦が多かった。
取材する中で、二人いることでお互いがいい意味で影響し合って、其れが長寿に結びつくのではないかとヒントを得て、其れをきっかけに今取材を進めて、来年には本に纏めたいと思っている。
それぞれに現役でなにか社会的な仕事をしていたり、社会貢献している、生き甲斐を持っていらっしゃる。
NHKの「今日の料理」を47年間担当した堀江泰子先生と堀江正夫さん 食生活が大変バランスがいい、充実している。
若い時に戦争を経験している、職業軍人だったと言う方もいて、若い時に心身を徹底的に鍛えていらっしゃる。
60代から新たに足腰の筋力を鍛えている。
そういったところが共通している。

取材で注目したのは、夫婦と言う関係性の中で、お互いがいい影響をしあう事で寿命が延びるのではないかと、元気に長生きしたければ夫婦の関係を巧くやってゆけば、大変大きなメリットがあるのではないかと、取材している。
長寿の夫婦はマイペース、干渉しあわない、対等で自由度が高い、其れがストレスレスな関係が長寿に結びついていると思いました。
夫婦が仲良く元気で100歳を越えるにはどうすればいいか、ヒントになる物を出版したいと思っている。
どうしてノンフィクション作家を選んだのか?
古いうちに育った事、子供の頃はベトナム戦争の時代だった。 
そのころのTV、新聞記事を読んで真実を伝える仕事をしたかったのが小さなころからの夢だった。
小学校3年生の時に1枚の写真に大変感動した記憶がある。
5歳ぐらいの男の子がうどんを食べている写真、その子がきりっとした澄んだ目で見つめている。
男の子の誇りみたいなものを感じて、懸命に生きている子供や、その人たちの姿を伝える仕事に就きたいと、その写真をみて、思いました。
戦争特派員になりたいと言うのが小学校の夢でした。
その思いは変わらず、ジャーナリストになりたいと、大学で新聞を学んで大学を卒業しました。

500年続いた家で、江戸時代、元禄時代に建て替えをして、築300年を越える重要文化財の家に中学まで住んでいた。
奥座敷に一人、目をつぶって、自分自身でいろんな物語を造る様な子供でした。
家も大きくて、敷地も広かったので幼稚園に入るまでは外に出た事がなかった。
3人兄弟の真ん中だったので母が下の子にかかりっきりだったので、父のそばにいることが多く、父が時事問題に興味を持っており、父の影響が凄く強かった。(農林水産省に務めていた)
大学は出たが女性の就職先のない時代だった。
ジャーナリストになりたかったが、TV局のアナウンサーに卒業後1年半で入ることになった。
アナウンサーの仕事を続けているうちに、自分の心になじむ物をやってみたいと思う様になった。
全国紙にエッセーを連載して、其れがきっかけになり、自分のお金で東南アジアに旅行して、アヘンの取材をして、地元の新聞社に売り込んだりしていた。

一番新しい作品は「流転の子」中国のラストエンペラーの一族の弟一族の物語で、清朝の最後の血を引く最後の皇女、女性の半生を描く。
書くきっかけになったのは阪神大震災時、愛新覚羅嫮生さん(福永こせいさん)が100m近くに住んでいて、お互いに糸を引きよせ会うと言う様な形になり、この物語を書くと言うきっかけになった。
「ラストエンペラー」を見て、めいに当たる方が阪神界に住んでいることを知って、いつかは必ず書いて見たいと思う様になた。 
取材を始めたのが映画を見てから20年後の事です。

夫は新聞記者で、9.11があったころ特派員で南アフリカ、ヨハネスブルグに住んでいて、映像を見たときに、ヨーロッパ、アメリカ、日本の視点ではなく、アラブ、アフリカの視点で物をとらえるることができる様な子供に育てたいと言う想いがあって、直ぐに二人の子を連れてヨハネスブルグに行きました。
世界が大きく急展開しているのに、変化をアラブ、アフリカの場所にいて其れを知りたい、子供たちにも感じてほしいと強く思いました。
ヨハネスブルグに住んでいたが、そこを拠点にさまざまな国に行って、何かに抱かれているとか、何かから生かされているというか、そういう視点をいつも持つ事が出来る。
アフリカに行ってからは子供達は絶対に食べものを残さなくなった。
感謝をする、生きているだけで幸せになれる子供達、幸福度が高い子供達になりました。

アフリカでの経験(2年3カ月)、阪神大震災の経験で愛新覚羅嫮生さんと連絡を取る事になった。
日本人であることは、勿論ベースですが、それよりも地球に生きる同じ人間であると言う目線をもつことができたと思います。
アフリカにいると自分が豊かなものをたべていると、それは誰かの犠牲の上に成り立っている豊かさではないかと考え、おろそかにはできないという想いがある。
愛新覚羅嫮生さんとはどんな人物か?
清廉なたたずまいの人で、品格の或る美しい言葉でゆっくり話される方です。
語り口が静かで、壮絶な流転の話をされるが、あまりにも静かな語り口が、むしろ一族がどれほどの悲劇を中国、日本で受けたかと言う事を感じる話し方でした。
愛新覚羅嫮生さんは74歳 福永こせいさん 日本人と結婚して5人の子供を育てた。
満州国の愛新覚羅溥儀のめいに当たられる方。
父は「ラストエンペラー」 溥儀の実弟愛新覚羅溥傑(ふけつ) 母は天皇家の縁戚 公家の名門嵯峨侯爵家の令嬢嵯峨浩さん(流転の王妃と呼ばれる)
子供は二人 一人は19歳で亡くなる。 嫮生(こせい)さんは2番目の娘、清朝の直系を継ぐ最後の女性。
 
何百時間インタビューする。 断片的な記憶しかなく其れをベースにしながら物語を展開するので証言者、歴史的資料探して、裏付けをしながら進めてゆくという気の遠くなるような作業でした。
気が付くと150年の物語ができ上ったという感じです。
取材をする中で、日本の戦争は終戦で終わったが、満州は日本の敗戦から地獄が始まった。
亡くなられた方、生きて証言してくださった方の魂に導かれて、不思議な力によって、書かされているというそういう物です。
亡くなられた方々が私の周りに寄り添っていると言う様な感じで、涙があふれてくる4年間で、精神的には血を吐く思いで書いた作品です。
夜なかに書く事が多く、睡眠を削って書きました。

取材の中で一番心を動かされたのは、5歳の女の子が生きて日本に戻ってきたと言う事、其れは人を生かしたのは人の力で有ったという事。
一番伝えたいのは、国と国は争うが、人と人は助け合う事も出来るし、命をつなぐことができると言う事を伝えたかった。
凄惨な旅を支えたのは共産党軍の名もなき兵士だったり、やせ衰えた日本人の捕虜だった。
赤痢でがりがりやせ細ったこせいさんの為に中国の兵隊が生卵を買ってきて食べさせたり、持っていては軍規違反になるふとんを運んでくれたりした。
マイナス40度の満州の冬をこのふとんを失わなかったことで生きることができた。
日本人も捕虜として食べるものも着る物もなったが、自分の服を脱いでこの震える少女に着せてあげて命を守ってあげた。

生きるギリギリの場所で敵とか味方とか中国人、日本人、何人ではなくて、ひとの情、命のリレーで小さな命が繋がっていったという事実を、書いていきたいと思った。
流転の朗読講演会をやっていて、人間、そこにいるのは何人であるとかではなくて、人間は国境を越えて真心で通じあうことが出来るんだと言う事が判ったという風にいってくださって、私はそういう事を大切に、人間の愛と言うものを書いていきたいと思っています。
伯父の亡くなるまでの200通の書簡が見つかって、青年士官の姿と家族の深い愛情と言うものを感じて、伯父につながる人たちから大切な言葉を託されたと思っていまして、取材を進めているところです。
次のテーマは太平洋戦争、真珠湾攻撃、潜水艦、海軍兵学校68期をキーワードにして取材を進めているところです。










2014年8月23日土曜日

2014年8月22日金曜日

鈴木信太郎(画家)       ・7日間の遭難から得たこと

鈴木信太郎(画家)   7日間の遭難から得たこと
昭和24年東京生まれ  30年ほど前から東久留米市にお住まいで、地元の川などを中心に風景画を描いています。
鈴木さんは大型連休中 5月3日 スケッチのために東京、埼玉、山梨にまたがる雲取山に向かいました。
しかし遭難してしまい7日間さまよいましたが無事生還しました。
夜中はラジオ深夜便に励まされ、特に遠藤ふき子アンカーの夜明け前の締めくくりの挨拶「いま苦しい状況でお聞きの方もあると思いますが、どうぞ一日で有ります様に」その言葉にじーんとなった、と言う事です。

体重は5kg減ってしまったが、2kgぐらいは戻った。
雲取山にスケッチに行ったのは5回ぐらい。  ここ3年間は雲取山周辺に行っている。
登山は20年間行っている 奥多摩、奥武蔵等に多く行っている
奥多摩駅からバスで行って、三条の湯(山小屋)にいって一泊した。
圏外と言う事で、携帯電話はつながらなくなっていた。
登り始めて直ぐに川に雪があるのに吃驚した。
5月4日 飛龍山(2000m以上)に向かう。 
 
尾根道に出るのに雪が溜まっているところがあった。
尾根道に出て、山頂に向かう道があるが、雪が残っていて道が見えなかった。
山頂まで行ったが、景色は見えなくて、昼を食べて直ぐに降りた。
雪がまだら状態で、道が見えにくかった。 段々コースから違うなと思った。
途中からクマザサの原っぱになり、自分の背丈より高いので、かき分けながらドンドン降りてしまった。
尾根道ははっきりしているので、そこには必ず出るはずだとの思い込みがあって、降りてゆけば間違いないんじゃないかと思ってしまった。
戻れなくて、クマザサの中で一泊しなければいけないと思って、そこで一泊した。

食料はパンが3個、レーズン半袋、チーズ等は有った。
熊の入る様な穴があり、熊の爪痕と思われる傷もあり、そこから離れて、寝る場所を探して寝た。
まっすぐ降りないで、横に行こうと思った。
大きな谷になっていて、谷が雪で真白に覆われているので横にも行けないと思って、谷沿いに降りていった。
河原にでて、その晩はそこで寝ることにしたが、食料は底をついていた。
寒さは、しのぎ切れないと言うほどでもなかった。(Tシャツ数枚あり、薄手のセーター、ジャンパー着て、その上に薄いレインコートを着用) かなりの寒さではあったが。

小さいラジオを持って行って、最初よく聞こえなかったが、2日、3日目当たりから受信がよくなる。
5月6日 河原から川沿いに下を目指す。
途中、頭から落ちる事があり、唇などを切ったりした。
不安感、あせりはあった。 水は川、沢があったので飲めたが、食べ物はなかった。
クマザサの芽の部分を食べてみたら、食べられるので、何本かは口にした。
リュックサックは邪魔になるので、5日目当たりで全部捨ててきた。
4時には明るくなるので、ラジオはよく聞いていた。
其れが励ましになった。
食べものが無くなって、口に食べ物が入らなくなると、其れなりの体のシステムが自動的に変わってくることが感じられた。

空腹でどうしようもないと言う事はなくて、何とか動けたことが不思議だった。
体温は低く保たれていた。  歩いていても汗をかくと言う事はなかった。
食べられないならば、食べられないなりの動き方に、モードチェンジする、そういう風になっていると感じた。
明日あたりには里に出られるのではないかと言う思いはあった。
夜なかに「カンカン」という音が聞こえた。 里が近いのではないかと思った。
8日目 5月12日になって、クマザサをかいて歩いていたら、山道に出ることができた。
圏外ではあったが、状況について家にメールを入れておいた。
これで生きて帰れると思って涙が出てきた。
電波塔が見えたので、携帯をみたら、圏内になっていて、直ぐ110番して、どちらですかと言われたところで電池切れになってしまった。 メールも送信された。

降りたところは最初に宿泊したところから7kmのところだった。(後での確認では)
里に下りた時に人家があったが、叩いたが人はいなくて、歩き始めたらすぐに警察が来てくれて、多摩の警察署に行き、直ぐに救急車で奥多摩の病院に入った。
所見では飢餓状態、脱水症状、内臓疾患との事だった。
最初に迷った段階で何故元に戻らなかったのかと、自分でも判らない。
経験した事のない、河原の夕暮れとか、山の感じとか、こういう風なことを描いてみたいと、山の中で考えた。


2014年8月21日木曜日

三上修(生物生態学者)    ・すずめの謎を追い続けて

三上修(生物生態学者・岩手医大講師)    すずめの謎を追い続けて
1974年生まれ 大学で生物学を学び、鳥の生態や行動について研究しています。
特に都市に住む鳥に興味を惹かれ、最近は雀の研究に取り組んでいます。
三上さんは、雀は身近な存在でありながら、意外にその正体が知られていない鳥で、その生態は多くの謎に包まれていると言います。
以前に比べて身の回りで見ることが少なくなったと言われる、雀ですが実際はどうなのか、雀の姿から私たちは何をくみ取れるのか、見過ごされてきた雀の謎を追い続けてきた三上さんに伺います。

雀は身近な鳥です。 
日本には600種類の鳥が確認されているが、雀ほど普段見掛ける鳥はいない。
雀は人に対して人に近いところにいると言う意味で他の鳥と比べて圧倒的におかしな鳥と言える。
人のそばにいる割に、人に対して警戒心が強い。
他の鳥にくらべて圧倒的に高密度で、狭い場所にいる。
シジュウカラは縄張りを持つが、雀は直ぐ近くに巣があっても気にしない。
卵、普通の鳥の卵は全部同じ色の卵を産むが、雀は最後に産んだ卵だけ、ちょっと色が違う。
其れを止め卵と言うが。
桜の花を食べるのが最近判ってきた。 蜜の部分をちぎって、吸って花を捨てると言う事が判ってきた。(ここ20~30年)
どこかの段階で雀が蜜を吸う事をして之をまねて広がったのではないかと思う。

雀は鳥の仲間ですが、さかのぼってゆくと恐竜に辿り着く。(鳥の先祖は恐竜であると言う事が主流)  鳥の先祖が生まれたのは数千万年前と言われる。
小鳥が増えていったのは数百万年~一千万年と言われる。
雀は20~25種類いる。  日本には我々が見る雀と、山の中にしかいない入内雀、2種類。
入内雀はちょっと赤っぽいのと動きが機敏。
寿命は判っていない。 籠の中では長いもので10年という記録がある。
おおざっぱな推測 平均寿命で言うと半年。  小さいころにほとんど亡くなってしまう。
雀は雑食系、昆虫、米、植物の種等を食べる。

古事記に雀の文字が出てくる。
儀式として鳥の姿をして、葬式をするという事があった様です。 ある役割として雀が出てくる。
枕草子、俳句などにも出てくる。
万葉集には雀は出てこない。(雀を食べていたのではないか、雀に遠慮があったのでは)
研究のきっかけは?
誰もやっていなかったので、又都市の鳥に興味があった。
数千年の間に都市が出来て、環境が変わってそこに鳥がやってきて、どんな鳥だったらその環境に住めるのかと言う事で、雀に興味があった。

雀が日本に何羽いるのかと言う事から始めた。  まだ誰もやっていなかった。
或る面積で雀の数を調べておいて、そういう環境には何羽ということで、日本にそういう環境はどのぐらいあるかと言う事で、行った。
鳥の数は諦めて、巣の数を調べた。  商業地域、住宅地、農村地帯 をそれぞれ調べて面積でかけて調べた。
結果巣の数は900万巣と成る。 オス、メスで1800万羽  
オーダーとしては数千万羽としていいのではと考えている。
感覚的にある場所で減っていると言う事は事実だと思うが、情報の偏りがあるのではないかと思った。
雀による農業被害を見ると、ドンドン減っている。
雀の狩猟データ 是もドンドン減っている。 
20~30年前 1時間で200~300羽取れたが、最近は1日やっても100羽も取れない。
環境省 鳥の分布を見ても雀は減っている。
いろんなデータを持ってくると雀は減っていることは確かなようだ。
20年前と比較すると、半分になっていると思われる。
ヨーロッパでは家雀が身近にいるが、地域によっては凄く減っている事が知られている。
地域によっては1/10と言われる。

減少の原因は?
建物が変わって瓦屋根が無くなって、雀が巣を作れなくなったのではと言う事で住宅地を調べた。
巣の密度を調べた。  1970年頃の住宅地は100m×100mで4つ巣があるが、2000年ごろの住宅地では1/4ぐらいしかない。
住宅が新しくなると巣を造る場所が無くなってしまう。
昔は空き地が沢山あったが、今はそういったところが駐車場になってしまっている。
餌を取る場所が亡くなってしまった。(空き地)
総合的に働いて、巣の近くにいい餌場があることが重要だが、その組み合わせが日本中からドンドン減っているのではないかと思う。

雀がお互いの巣にちょっかいを出す様になった。  
まだ卵を産んでいない雀が巣を奪うために卵を落としてしまう。  
雀同士でマイナスの効果をする。
街中では小さい昆虫を与えているので、そこも巧く言っていない原因なのでは。
卵の数も少なくなっている傾向にあるし、うまく孵化しないとか、ある。
昔のデータがないので、因果関係は判らないところもある。
巣立ち雛の調査をしたが、街中だと1~2羽 農地だと2~3羽 街中だと餌不足とか、猫にやられるとか有ると思われる。
絶滅までは行かなくて、どこかで減少は落ちつくのではないかと思う。
他の多くの鳥も減っていると思う。
数の大きな種が半分になると、その影響も半分発生する事になり、影響は大きいと思う。

数が減ってゆくと我々にとって身近な鳥ではなくなってしまうかもしれない。
よくよく調べると変わった鳥だと言う事が見えてきた。
雀の研究をして、本を書くと、色々反応があり、凄く愛されているんだなと言う事が、判った。
巣箱を家の庭にかけてやると、巣を作りやすい。
雀が増える事によって迷惑する人もいるので、(農家)難しいところもある。
雀が子育てをする時期は控えた方がいい。
栄養バランスが崩れたりして返って阻害することになる。(ヨーロッパでは起こったりしている)
雀の声には意味があるのではないかと思うので、其れを突き止められれば、もっと雀の事が判るのではないかと思う。









2014年8月20日水曜日

中島浩一郎(建材会社・社長) ・私の人生を変えた里山の力

中島浩一郎(住宅建材会社・社長)  私の人生を変えた里山の力
岡山県真庭市 在住 森林面積が8割を占める典型的な山間地域です。
かつては出雲街道を行き来する人でにぎわいましたが、現在は人口およそ5万人、年年過疎化が進んでいます。
中島さんは昭和27年、この地で生まれて、横浜市立大学を卒業後、家業の製材業を引き継いで、中国地方で大手の建材メーカーに育て上げました。
中島さんの経営理念は木を使い切る事です。
修正材や、新たな建材開発に取り組んでる他、木の皮や木くずを燃やして、電気を作るバイオマス発電、製材の際にできる、カンナくずで燃料のペレットを造るなどこれまで廃棄物として処理していた物をエネルギーに変換するなど、木材の力を100%生かす事に取り組んでいます。
特にバイオマス発電は行政も出資し、地域の諸団体の力を結集して、発電会社を作り、来年の春には地域全体に電気を供給する計画が進んでいます。
身近にある森林資源、里山の力を見直して新たな地域作りが動き出しています。

木質バイオマス発電を始めたのは日本で初めて。
木屑をベースに、(皮、おがくず、カンナくず、切れ端等)行う。
16年前から施設が稼働、1時間当たり2000kw  1カ月140万kw/h
原子力発電が 100万kw/h なので約20日間かかってやっている事になる。
当時勝山町と言っていたが、人口が9000何百人だったので、全部まかなえる電力。
工場に利用、100%
1980年代にアメリカでこのようなことをやっていて驚いて、やってみたいと思っていた。
1984年 ボイラーの更新時に175kwの発電を始めた。 今は2000kw/h
設備投資は10億円 銀行にお願いに行ったが、年間3000万円の回収ができると言ったら、黙ってしまったが、なんとか説得して融資をしてもらった。

10年前、木屑を使ってペレットを作って、熱源への利用にする。
灯油の半値で継続的に提供できる。  カンナくずを固めるだけ。
ヨーロッパがペレットを一番使っていて、年間1000万トンぐらい使っている。 日本は6~7万トン。
木材を全部使い切る。
戦前 燃料は山から来ていた。(木と炭)
新しい用途 燃料、発電、   山地残材を持ちだすことができれば利用出来る。
来年 1万kwの発電所ができる。(地域全体が協力して会社を設立)
20年前、講師を呼んできて、勉強会をやって、16~17回開いた。
持続可能な地域にしようと、目の前に在るものを生かそうと、其れは組み合わせだろうと云う事で、地域の人の組み合わせ、ソフトネットワークの組み合わせ、物の組み合わせなどをやれば、新しい事業ができるのではないかと思った。

1997年オーストリアに合弁会社を造ることになり、オーストリアに行く機会があり、急峻な山があり、いろんな新しい仕組みができていて、町ごとバイオマスで熱供給ができている町があり、日本でもできないかと思った。
マーケット、人、技術があったりして、仕組みを作らない限り、資源は生きてこない。
昭和27年に製材市場を地域で立ち上げ、その経験がこの地域のDNAを引き継いでいる。
新しい発電所 民間出資、市が関わっている(バイオマス政策課がある、調整役)
来年4月から発電を始める予定。  1万kw/h 
太陽発電、風力発電と違って、バイオマス発電は常に人間が関与しないと前にいけない。
山地残材を何とか利用できるような仕組みを作りたい。

熊本、高知県にも製材会社を作っている。  従来と違った製材方法。
修正材は平行に張り付ける。
CLT工法 Cross Laminated Timber  直行方向に張って行って大きな板面を構成できる。
厚さが3cmを張ってゆく、6m×2.7m×30cmの塊ができて、其れを建築に使う。
ドイツ人が考えて、最初にオーストリアが展開する。
木材革命と言われるような勢いで、木造建築が立っている。
8階建て、10階建て と言った建物が立っている。
木造だと軽いため、基礎工事も楽になり、断熱効果もあるため、省エネになる。
地震対して圧倒的に強い。  イタリアは地震が多く、一番多く利用している。
イタリアで振動試験ができる装置にCLT工法の7階建てのもので試験したところ全然壊れなかった。
日本でも筑波の研究所で5階建て相当の建物で実験したところ、何にも起こらなかった。
将来的にはアジアに向けて輸出、出来ると思っている。
その為には仕組み作りだと思う。

2014年8月19日火曜日

柏秀樹(モータージャーナリスト)   ・笑顔でいつも安全に 二輪の楽しさを伝えて35年

柏秀樹(モータージャーナリスト、ライディングスクール校長) 笑顔でいつも安全に 二輪の楽しさを伝えて35年
8月19日は819のごろ合わせで、バイクの日、日本各地でバイクにちなんだ催しが行われます。
今日本のバイク事情は比較的年齢の高い50代以上の人たちが大型のバイクに乗る様に成っています。
こうした年齢の高い人達は、若い人ほどはバイクの動きについていけずに、事故を起こしがちだと言う事も問題になっています。
年齢の高い人たちにも、安全にバイクを楽しんでもらおうと、バイクの運転技術を教えて30年になると言うのはバイクジャーナリストでもある、柏秀樹さんです。
あくまでも滑らかなな運転を心がけるのが指導の中心と言う柏さんに伺います。

柏さんは1954年 昭和29年生まれ 60歳。
最近はバイク乗りは高齢の人も多い。
1980年代前半バイクのピークで年間300万台以上販売されて、若い人たちが子育てなどで降りてしまった人達が、再び乗る様な動きが出ている。
飛ばして、カーブでスリルを味わいたいと言う事は本能的にある様ですが、飛ばさなくてもうまくなる、ゆっくり走っても楽しいと言う要件を満たすような、ライディングのレッスンをしています。
高速で走れるが、停まる能力は弱い、安全を積極的に掴み取ってゆく。
小さい時から父親に乗せてもらって、色々なところに行く事が好きだった。
当時ガソリンが制限された時代だったので、エコな運転をやらざるを得なかった。
ニュートラルで転がして、スーッと止まる様なこともレッスンではやっている。

車よりバイクにおもしろさを見つけた。
当時新聞配達をして、自転車で経験したことがバイクでもそのままできる。
大学、大学院 では結構勉強をした。
作家の片岡 義男さんのラジオ「気まぐれ飛行船」を聞いていたら、バイクの話が出てきて、ピンときて、手紙を出した。
私の家で会う事になり、話している時に、番組に出てほしいと言う事になった。
バイクの音のレコード、本の出版などを片岡さんと一緒にやったりした。

博士課程までいったが、バイクの方向に行った。
取材に行って原稿を纏めることとか、自分のバイクを通してのツ-リングのこととか、色々忙しかった。
新聞コラムで10本以上、そのほか色々やっていた。
レース パリダカール にも出た。
1984年にファラオラリー、エジプトのラリーに参加したのがきっかけで、そこ走った経験がベースになる。
1996年にパリダカールに参加する事になる。 1997年、1998年と 3回出る。
1997年では篠塚 建次郎が車の部門で優勝したが、私はバイク部門では35位だった。(200台参加)
一人ぼっちで一回地平線を見ると言う事は、恐さを知ると言う事で有り、自分がちっぽけな存在である事、勇気がないと生きていけないと言う事実もあったり、本当に砂にのまれてしまう。
非常に水自体が貴重で、現代社会の凄い消費社会と言うのは、厳しい現実を体験しておくことは必要だと思う。
40歳そこそこの時に初めて自分のなかで弱さ、強さが混在して自分がいることがよくわかりました。

他の人に教えるきっかけは?
西伊豆で有るメーカーでニューモデルの試乗する事があり、編集長が私が走る姿を見て、ライディングテクニックのページを作るから、やってよといわれた。
1980年代の前半から、雑誌にライディングテクニックの記事を書き始める。
其れがブレークして、DVDも出すことになる。
教えることが判ってきて、特にこの10年、エントリーユーザー、高齢者がバイクに乗る時のイロハを少しはお伝えできるようになったかなと思います。
マンツーマン、少人数の人達に最初教えていたが、段々クラブ単位で教えることになり、スクールをやりましょうよと、周りから言われて、スクールを始めることになり、10数年が経ちました。
速くなるより、巧くなってほしいと言うのが、私の趣旨です。

教えるためのアプローチが色々ある。(厳しく、優しく、理論的、車種ほか)
ゆっくりと正確にやる事。
北京オリンピックの時の開会式でのピアニスト(ラン・ラン)が物凄く早く弾くが、どうしてそんなに早く弾けるかとの質問に「ゆっくり、正確に弾く事です」と答えたが、全くその通りだと思う。バイクも同じ。
丁寧にまっすぐ走ることは意外と難しい。
スピードを出してしまうと、全部できるように思えちゃうからおかしい。(誤魔化せる)
ゆっくり出て、ゆっくり止まる。 其れを楽しんでほしい。









2014年8月18日月曜日

伊澤紘生(名誉教授)      ・野生の猿に学んだこと

伊澤紘生(宮城教育大学名誉教授)  野生の猿に学んだこと
1939年生まれ 半世紀以上にわたって日本猿、南米アマゾンに住む野生の猿の調査、研究を行ってきました。
井澤さんは日本で初めて餌付けされていない野生の日本猿の生態研究を行い、日本猿の社会にボス猿がいないことを明らかにしました。
日本猿の社会と言うと、ボスを中心とする階級社会と言うイメージが強く残っていますが、猿学の世界ではボス猿が存在しないことが、現在は定説になっています。

猿研究へのきっかけは?
京都大学理学部に入ったが、生命の起源とか、人間の起源とかやりたかった。
オパーリンが生命の起源について有名な本を出したが、一斉を風靡した時代だった。
途中から実験室で、試験管を振っていることに、耐えられなくなって、又、終戦後、小学校に入る時に、ターザンの映画と、南洋一郎の冒険漫画に強く影響された。
疎開先伊豆の伊東で自然のなかで、食料を確保していたりした。
大学3年の終わりごろ理学部の動物学科に自然人類学、新しい講座ができる。 
人類の起源を問う研究室、チンパンジー、ゴリラをアフリカに行って調べて、そこから人類の起源を発想する。  是しかないと思った。

大学4年の時に、来年から今西 錦司先生が赴任することになり、卒業研究をしたいとその先生に話した。
卒業研究しているうちに、アフリカのチンパンジーの調査を始めているが、餌付けができない事だった。
イギリス、ジェーン・グドール博士が餌付けに成功して、ドンドン新しい発見をする。
兎に角、餌付けをして来いと言われて、アフリカに9カ月半いて、帰ってきて、修士論文を書いて、又直ぐに2年半あまり出掛けた。 京都大学アフリカ類人猿学術調査隊。
修士課程の時の隊長が今西先生、退職されて、そのあと伊谷純一郎先生が隊長だった。
二人の先生に教わった事は非常に大きな経験になりました。
アフリカの5年間は誰一人逢えない、野生動物だけだった。  感動した。
命の危険と言う様な観念はなかった。
象の隊列は20頭余りで、音もなく過ぎ去ってゆく。 
今でも鮮明に思い起こさせるほどの感動を与えてくれた。

人に接してきた事のないチンパンジーの居る場所を探せ、そこで餌付けをと言われたが、餌付けしてこいとの事だったので、餌付けに対しては人が住んでいて、集落があり、農業をやっていて、チンパンジーが荒らしに来ると言うところに拘った。(餌付けに対して)
そこに同僚が張り付いて、餌付けに成功した。
帰って来てからドクター論文を書いて、愛知県の日本モンキーセンターに就職する。
もう一回日本猿をやりたいと、あっちこち行って、白山に行った。
半年間は雪で、無人の山岳地帯と成る、まさにサバンナと同条件、惚れ込んだ。
群れの移動が見える。  どうやって群れが移動始めるのか、どう配列して餌を食べるのか、群れが一匹の生き物みたいに見える。
群間関係、 二つの群れが丸見えと成る。 そういう事が見えるのは白山しかない。

どういう事が判ったか?
従来からの研究で、日本猿はオスがいて、ボスが群れを統率して、集団は順位制、血縁制、リーダー制で統率されているとか、と言う様な社会構造が頭にある。
1週間見ても、それに見合う行動をしている猿は1匹もいない。
見方が悪いのではないかと、悩んだりした。
ボス猿は力が強い、仲裁、えさ場まで群れを連れてゆく、外敵に対して身をとして守る。
交尾ではメスを独占する、其れが役割だったが、群れの中でそういう猿を探すが、いない。
「いない」と言う眼で見たらどうなるかと、発想の転換をしたら、途端に猿が見えるようになった。
山のえさが豊作の時には、勝手に黙って強い猿も、弱い猿も黙々と食べる。
餌がない時、やはり黙々と木の皮を食べる。
食い物に対する、強い、弱いは何にも彼等の生きざまに関係してこない。

餌付けされたり、動物園の猿山、になると人がコントロールする。
一日2回とか、林檎、バナナなどいれるから、其れを食いたいと、力の主張が意味を持ってくる。
美味い物を求めての喧嘩が起り、強い、弱いがはっきりしてくる。
群れの1番から50番まで順位付けは、簡単、それぞれ二匹の間にピーナツを1個おいてやり食べたほうが強い、そうして順位付けが出来る。
自然界は強い弱いは全く意味を持たない。
自然は極端な物のあり方をしない。  独占するものがない。

徹底的に条件を一つに絞ってくる、そうすると競争が成立する。
ボスがどうのこうのとか、と云う話はできたのは、餌付けしたえさ場での猿の観察で、食い物を人間がコントロールして、食い物で競争が起こる場を作って観察したため。
社会は競争の世界、今の世の中は価値観が一つになっている、すなわちお金。
金を持っている人は偉い、価値が一つになると順番が判りやすい。
江戸時代は米という価値で、自然界を見ていたが(益鳥、害鳥、雑草とか)、明治以降は資本主義経済になり、金と言う基準になった。
競争があおられる。

高度成長経済下、競争の論理が通る。 日本猿学が受け入れられた。 
ボスがいて、と言った様な事が、判りやすかった。
野生猿の真実を見ると言うのは大変だと思う、どっぷり漬かっているから、難しい。
最大の恩師は自然ですね。  
自然と付き合わなかったら、人間の競争原理の中であくせくしていたと思います。
猿を調査するフィールドを多く開拓してきた。 白山、下北半島、金華山、南米アマゾン
是は面白そうだと思うと、そこに居つく。(地元の人に手伝ってもらう)
付き合いを通して、いろんなことを教えてもらう。
喉の渇きを、山の実で癒す。 
一口二口かじって吐き出すと、延々と唾液が出てきて渇きをいやしてくれる。

野性が一番いい形で残っている、そしてそこに私がいる、私が問いかける、自然も又問いかける、相互コミュニケーションみたいな、其れが楽しい。
猿がいて、猿が何かを食おうとする、どれもがそれぞれの価値を持っている。
ブナの実はブナの実として価値を持っている、猿は猿一匹、それぞれ価値を持っている。
全てが同等の価値を持っている、甲乙つけがたい。
我々は甲乙を付けることによって、物事を理解しようとする。
ほえ猿 アマゾン一の大声を出す。
涼しいところで休んで葉っぱを食べる。  早寝、遅起き  8時でも寝ている、夜は4時頃には寝る。
普通の猿は5時頃起きて、6時半ごろ寝る。
その一番の怠け者がアマゾン一の大声を出す。 3,4kmは届く。 2時間、3時間は鳴いている。
けんかすると傷つくので、声では傷つかないので音声攻撃とされてきたが、違う、種の誇りで動いている、何の役にも立たない。
隣接群、隣り合った同士で鳴くが、12年間 一つの群れをずーとみてきて、隣接群が3つあるが、交わった後、誘導域が全く変わらない。

蜘蛛猿 縄張り 15~20分しかかからない。 早く動く必然性は何もないが、恐らく他の猿から蜘蛛猿が種分化して進化するときに、俺はアマゾンの熱帯雨林で誰よりも早く動きたいと言う誇りなんです。(損か得かと言う事とは無関係に)
去年12月、下北に、今年2月に白山に入って、両方とも群れの動きが全然違う。 判らなかった。
猿の目線でどれだけ見れるかが、重要で、見れると思っていた。
しかし私は水量の変化を読めなかった。 大人の猿を代表としてしか見ていなかった。
1歳、2歳の子供にとっては渡れない場合がある。
大人と子供での猿の目線が違う事が判った。
自然にいると1回ごとに本当に新しいことが判ってくる。
人間からみると、出来るだけこれからの子供達に、そういう場を確保しておきたいと思う。











2014年8月17日日曜日

村山哲二(B・Cリーグ代表)   ・独立リーグにかける私の夢

村山哲二(プロ野球独立リーグB・Cリーグ代表)  独立リーグにかける私の夢
新潟県出身49歳 小学校から大学まで野球に打ち込みました。
大学を卒業後、車のディーラーを経て広告代理店に入社、サッカーJIのアルビレックス新潟の仕事を手掛ける中で地域貢献に果た力に気付いたと言います。
2006年カ社を退職してプロ野球の設立に奔走、2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団が参加する B,Cリーグを立ち上げました。
リーグにはその後群馬県福井県が参加、来年からは埼玉県、福島県のチームの加入が決まるなど広がりを見せています。
会社員の安定して生活を捨ててまで、立ち上げたプロ野球独立リーグ、何を目指すのか伺います。

プロ野球独立リーグ設立後、今年で8年目、あっという間の8年間だった。
辛かったことの方が凄く多かったと思います。
野球を通じて地域社会に貢献したいと思った。
日本のプロ野球 12球団があるが、そこには全く属していない新しいカテゴリーのプロ野球。
2005年 石毛さんが最初に作った四国アイランドリーグ 2つ目に出来たのが私たちのベースボールチャレンジリーグ、3つ目が関西でやっている、関西独立リーグ。
2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団ではじまり、2008年 群馬県福井県が参加 来年から
埼玉県、福島県のチームが加入、8チームになる。
震災復興と言う事で福島県は物凄い気合いが入っているので楽しみにしています。

新潟の広告代理店に勤めていて、アルビレックス新潟の運営を手伝っていました。
町が元気になる事をサッカーから其れを教えてもらって、大きな衝撃を受けた。
其れを野球で実現できないかなあと思った。
1997年広告代理店に入ったが、そのころワールドカップが日本に来る、新潟で開催にエントリーする。
うねりの中にのっかってサポーターが増えていって、熱く応援する姿を見て、気付いたら、サポーターと一緒に跳びあがって応援していた。
町がアルビレックス新潟と言うもので物凄く元気になってゆく過程が自分自身で感じていて、その頃が一番凄かった。
アルビレックスの創始者の池田弘さんが私に突然呼び出しがあり、バスケットのB,Cリーグも池田さんが中心に作られて、日本を元気にしたが、其れに反して日本のプロ野球は一部の限られた首都圏の人しか楽しめない、地方でも楽しめるコンテンツとしてのプロ野球のビジネスモデルを作ってくれないかと、私に大きな課題を与えてくれた。

サッカーの仕事も、バスケットの仕事もやっていたので之に私がモデルを作って野球の仕事をさせてもらえれば広告代理店のサラリーマン人生も物凄く今後楽しいものになると思って引き受けた。モデルを3つ出したが、プロ野球独立リーグが一番いいということになり、あなたが社長になってやりなさいと言われて、本当に困った。
楽しかったので、広告代理店を辞める理由が何もなかったから。
辞めるという決断をするまで半年かかりました。
妻は取り合ってくれなかった。 最後は泣きながら説得して、ある意味騙したかもしれない。
家族の生活は絶対に守るからという事だったが、給料は半分になった。
最初、スポンサーを集めるのがうまくいかなかった。

私が出した事業モデルを他の人がやって成功するのと、私がやって失敗するのと、どっちが人生悔しいかと思った。
最後の最後に決断したのは、他の人がやって成功したらいやだと思った。
42歳の時だったから、そのように決断できたと思う。
2006年7月に4球団でスタートしなければいけないが、3球団しかなく、頓挫してしまう状況に追い込まれた時に、新潟県の水島正枝さんから手紙を頂いた。
自分の息子が糸魚川の球場で、急性心不全で倒れて亡くなってしまった。(プロ野球の選手になるのが夢だった)
新潟にはサッカー、バスケットのチームはあるが何故野球のチームはないのかとしていて、葬式の日に新聞を見たら、私の記事を見て、涙が止まりませんでしたと、みきと(9歳)のために是非実現させてくださいと、その手紙を読んで、其れが原動力になった。
AEDの普及活動をしている。

順調にはいかなかった。 特に資金集め 球団維持に1億5000万円 審判、記録員など年間1億円
諸々ふくめて7億円を必要としたが、物凄く厳しかった。
辛い事件が2008年7月にあって、デッドボール合戦、厳しいヤジが飛んで、ボールボーイを少年野球にやってもらって、終わった後野球教室をして帰ると言う事だったが、試合をみた指導者があなたがやっている野球なんかちっとも子供達の為にならない、野球を見るより練習をした方がましだと、もう二度と試合を見に来ない、と言われた。
子供達は泣き出してしまっていた、野球教室をキャンセルして帰ってしまった。
今まで何をしてきたんだろうと、後悔した。
表現する場所は野球場なので、地域の人から一生懸命やっているねと言われるはずだったのに、蓋を開けてみたら、あなたたちは地域の子供達の害だと言われた。

当時6球団の代表と、7人で何が悪い、どこに原因がある、何を改善をすればいいか、3,4か月ずーっと議論した。
明確な目的を作っていなかったから、全部私が悪いのだと思った。
B,Cリーグ憲章を作った。(2008年 暮れ)
①B,Cリーグは地域の子供達を地域と共に育てることが使命である。
②B,Cリーグは常に全力のプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
③B,Cリーグは常にフェアプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
④B,Cリーグは野球場の内外を問わず、地域と地域の子供達の規範と成る。
全ての試合目にB,Cリーグ憲章をアナウンスしてから、プレイボールをかける事に決めた。
私が一番変わったと思う。  B,Cリーグ憲章が全ての判断基準になった。

長髪、ひげ、茶髪、ユニホーム姿での喫煙、はない。
出場停止、そして重ねると解雇したりする。
私の家は4代続いた教師の家だったので、社会に貢献できるものは何だろうと思ったときに、社会の子供達をきちんと育てることによって、地域がもっと元気になる、子供達が住み易い環境を作ってやる事が、もっと社会が元気になる一番の源だと、おぼろげながら判っていたので、唯一野球が私の夢をかなえることなのかなあと、思います。
最近嬉しかったのは、ある高校野球の指導者がB,Cリーグの試合はとても高校野球児にとっても勉強になると言う事をおっしゃって頂いた。
私の手本はプロ野球ではなく、高校野球です。
眼を輝かせて、自分の夢の実現に向けて一生懸命やっている、これをプロ野球で実現したい。

B,Cリーグ憲章ができたから、選手の質が上がっている、と同時に、選手の就職口が一流企業からのオファーがたくさん来るようになった。
150人選手がいるが、プロ野球から来るのは多くて5人、残りは、企業から話がある。
この2,3年 選手の質が物凄く上がった。
今400人来て、入れるのは20人ぐらいになっている。
年俸も月15万円 6カ月契約 地元の企業から契約社員として働き、週に何回は合同トレーニングをしている。
ステップアップの場として来ていてくれる場所です。
ラミレス選手も入っている。  もう一度プロ野球に戻るチャンスの場でもある。
サッカーのJリーグ等も立ち上げ時からドンドン変わっていったが、日本のプロ野球は80年経って、12球団に成って55年経つが12球団のままで、Jリーグの様に野球で町を元気にしたいという、夢をかなえる場所でもあります。

野球は選手がやるが、主役は地域の方にしたい。 
地元の合唱団が国歌斉唱したり、地元のブラスバンドが演奏したりドンドンやっています。
お祝い事を来場者皆で、お祝いしようと言う事もやっている。
震災後観客は厳しかったが、去年から観客が上向き始めて、観客動員が増えている。
24球団ぐらいになったら、日本のプロ野球も形を変えてくるのではないかと思う。
私が動けるのはあと10年だと思うので、そのくらいまでには何とか頑張りたいと思う。




2014年8月16日土曜日

2014年8月15日金曜日

相田一人(美術館・館長)    ・あんちゃんの戦死とヒグラシの声

相田一人(相田みつお美術館・館長) あんちゃんの戦死とヒグラシの声
詩集「にんげんだもの」を出版された詩人で書家の相田みつおさんは平成3年に67歳の若さで、お亡くなりになりましたが、彼が残してくれた様々な心に響く言葉は時代を越えて多くの人たちに勇気と希望を与えてくれます。
独自の世界を切り開いた相田みつおさんを動かした原点は、戦争で亡くなった2人のお兄さんと深くかかわっているようです。

父がそういう体験を原点に持っていたことは、意外と知られていない。
その点をぬかしては父の作品世界は成立しないだろうと思っている。
1924年 大正13年栃木県足利市で生まれる。  平成3年に亡くなる。
兄が二人いる 父は6人兄弟の3男  兄とは歳の離れた兄弟だった。
父は集中して筆を取って書くわけですが、疲れてくると気分転換に渡良瀬川が流れていて、二人の子供の手を引いて、釣りをしていたが、その時に自分の子供時代の思い出を語り出していた。
兄と一緒によく釣りをしていた思い出を話してくれた。
兄たちに対して、尊敬、感謝していた。
祖父が、家紋の刺繍など 刺繍の職人だったらしい。
父の兄たちは家が貧しいために、学業は優秀だったが、進学をあきらめて刺繍の職人なる。

3人で働くようになって、多少豊かになって、父から言われ足利中学に進学するようになった。
戦争に兄 2人が行って、兄 ゆきおは僅かで中国語が堪能になって、憲兵に抜擢されて、北京大学の学生たちと仲良くなり、柔道を教えていたりしていた。
兄ゆきおの仕事は反日分子を密かに摘発する任務だったらしい。
兄ゆきおから父宛に手紙が来る。 読み終わったら処分するようにと記載されていた。
自分が今やっている仕事について書いてあって、調書を書くときに、学生が危険人物だと書いたとすると、翌朝裁判もなしに処刑されてしまう。
優秀な学生たちで有り、将来中国をしょって立つような人たちで、自分にも弟たちがいて、とてもじゃないが処刑できないと悩む、自分の所に連れてきた学生は、全部無罪釈放にした、と書いてあった。 軍規に違反しているわけです。
判れば処刑されるし、家族も非国民と言う事なってしまうので、内緒で弟のみつおにだけは知らせておきたいと手紙をよこした。

あの手紙は残しておきたかったとずーっと父は言っていた。
恐しくてその場で父は手紙を燃やした。
昭和16年8月30日 戦闘に巻き込まれて、銃撃戦のすえに、撃たれて亡くなる。
電文が家に届いて衝撃を受ける。
そのころから、生きること、死ぬことを真剣に考えるようになった、と父は言っている。
当時名誉の戦死 英霊になったと言う事で、祖母は毅然と弔問客に対して対応していたが、夜になると、勲章も名誉も何にも要らない、お前さえ生きていればよかったと、泣き叫んで、すさまじい嘆きだった。

長男 たけお も亡くなる。
詩 「3人分」
「3人分の力で頑張れば、どんな苦しみにも耐えられるはずだ。
3人分の力で踏ん張れば、どんなに険しい坂道でも越えられるはずだ。
3人分の力を合わせれば、どんなに激しい波風でも何とか乗り切れるはずだ。
そして3人分の力を合わせれば、少なくとも人並みぐらいの仕事は出来るはずだ。
例え私の力は弱くても。
苦しい事ににぶつかるたびに、私はいつも心の中で そう呟いてきました。
3人分とは 一人は勿論 この自分。 気の小さい、力の弱い だらしのない この私の事。
後の二人は戦争で死んだ二人の兄たちの事。

豊かな才能と体力に恵まれながら戦争のために若くして死んでいった二人のあんちゃんの事。
学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の話すら咲かすこともなく、青春の硬いつぼみのままでしんでいった二人のあんちゃんの事です。
私の仕事はいつもこの二人のあんちゃんと一緒。
だから私の仕事は3人分で一つです。
二人のあんちゃんはいつも私の胸の中に生き続けてきました。
戦争が終わってすでに38年。 ずっと私の胸の中に生きてきました。
これからもそうです、私が生きている限りそうです。
そうでなければ、戦争のために自分の死とは全く関わりなく死んでいった、肉親の魂は浮かばれませんから」 

父は何かと言うとおじさん達の話をする。  身直にいる様な感覚を持っていた。
父は人間の強い面、弱い面 両方含めて人間を肯定する立場だった。
弱い面を平気で晒し出す人だった。
30歳ぐらいから独特の書体で書き始めた。
10代から本格的に書を始めて、20代はいろんなコンクールに入選。
父は書家であると同時に詩人、で有るので、自作自演 
「つまずいたって良いじゃないか にんげんだもの」 自分の想いを伝えるために、詩に合わせて独特な文字を作り上げていったのではないかと思う。

父が筆を取っている時は、周辺の空気がびりびりしていたので、子供心にそばに行ってはいけないんだと思いました。
文字の変遷はそばに居ながら判らない。
失敗の紙の山がたくさんあった。
(書の表現で、相手の心に食い込むようなそういう表現て、いったい何なんだろうな と思います)
どんなに詩なり短歌に感動しても、作った人の感動と、自分の感動とは一致しない。
言葉と書の間に隙間ができてしまう、嘘が交じってしまう、 自分で作ったもので有れば、書との間に隙間、嘘がない。
それが見る方に 強い印象を与えるのではないかと思う。

書の余白 大きな紙に書いて、トリミングをするが、mm単位で行っていた。
言葉の余白にも気を使って、全てを表現しないで、見る方に自由に解釈を委ねる。
そういったものが一体となって更に見る人にアピールしていくのだと思います。
「夢はでっかく 根は深く」  逆方向(上と下)のものが一つの作品に纏められている。
「幸せはいつも自分の心が決める」 この言葉に辿り着くには凄い時間がかかっている。
「道は自分で作る 道は自分で開く 人の作った道は自分の道にはならない」
「自分にとって一番大切なものは自分の命なんだよ だから全ての他人の命が皆大切なんだよ」
「どんな理屈をつけても戦争は嫌だな 肉親二人 私は戦争で失っているから」
肉親を失った眼から戦争を振り返ると、大変悲惨だった。

(人の痛みの判る人、其れを強く感じる こんな人がいっぱいいてくれたらと思ったりするが)
憂い  今の時代はあまり聞かれなくなったが、相手の悲しみ、苦しみが判る人が「憂い」を持っている人、其れが優しい人なんだと父は言っていました。
ゆきおあんちゃん(次兄) 優しい人だった。
たけおあんちゃん(長兄) 厳しい人だった。
次兄は心臓に銃弾を浴びて即死だったと思われて、其れが祖母にとっては苦しまずに済んでくれたのでせめてもの心のよりどころになっていたが、戦友から手紙が来て、心臓から少し外れて、苦しんで2時間後に亡くなったとの事だった。
2時間の間にいろんなことを話したようで、最後に言った言葉が「戦争と言うものは、人間の作る最大の罪悪だなあ」といって24歳で亡くなった。
相田みつおは命の詩人と言われるが、原点になったんだろうなと考えて良いのでは。

「ひぐらし」 詩 (挽歌)
「ヒグラシの声 あー今年もヒグラシが鳴きだした。 
ヒグラシの声は若くして戦争で死んだ二人のあんちゃんの声だ。
そして二人のあんちゃんの名を死ぬで呼び続けていた悲しい母の声だ。
そしてまた ふたりのあんちゃんの事には一言も触れず、黙って死んでいった寂しい父の声だ。
あー今年もヒグラシが鳴きだした。」

祖父は二人の死に関しては、一言も話さなかったが余りにもショックだったために、言葉に出す事ができなかった、と思う。
戦争は二度と起こしてはいけないと思う。
繰り返し繰り返し語り継がないといけないと思う。
美術館に訪れる人が、人間の命の大切さ尊さを、ちょっとでも感じて頂ければ嬉しいと思います。









2014年8月14日木曜日

佐藤朝代(保育園・園長)    ・園児が富士山頂に立てるまで

佐藤朝代(けやの森保育園・園長)   園児が富士山頂に立てるまで
埼玉県狭山市のけやの森保育園では、自然の中で幼児教育を行っています。
この教育方針は去年の埼玉環境省県民部門を受賞しています。
園の始まりは、37年前佐藤朝代さんが夫と共に始めた、生きる力を育む自然の教育を理念とする幼児教育でした。
19年前、佐藤園長は其れまで自然体験活動の一環としてやってきた、2泊3日の独り立ちキャンプを今年行いますと呼びかけ、猛反対を受けながらも万全のスタッフ体制を取ることと、予測されるあらゆる場面を想定したシュミレーションで、父母を説得して保育園の富士登山は始まりました。
その後富士山の環境汚染が激しくなり、やむなく5年間休止しましたが、今度は保護者から復活要望が起こり、2006年から再開、3400m地点をゴールとするグループと、山頂を目指すグル―プに分けられ、園児たちの富士登山は毎年続けられています。
これまで起きた想定外の出来事、その経験を積み重ねた結果でき上ったスタッフ構成、そして保育園の3年間を通じて行われる園児の自然体験教育について伺います。

下見に保護者と共に先日富士山に出かけたが、天候の急変を体験してもらって大変良かったです。
言語、造形、リズムの時間とかに区切られて勉強すると言うのが一般的でしたので、野山へ行ったり、畑をしたりと言う事はその時代は少なかった。
自分でも小さな子供がいたときなので、子供を育てながら、主人とどういう理念にしようとか活動をどうしようかとか、よく話し合ったものですが、当時の固められた教育で良いんだろうか、と疑問があって、子供らしさを発揮して生活するところがあった方がいいのではないかと感じた。
山に登らせたりスキーをやらせたり、色々実験をしました。
責任がかかってくるのでやらないほうがいいのではないかと、言う助言は頂きました。
手間、お金がかかるが、若かったので、主人が進めと言った様な感じで始めました。
一緒にやっているうちに、子供の方がちゃんとやっていることに気付きだしました。
疲れると歩かなくなって立ちん棒になってしまう。  判りやすくてよかった。

自然の生活の中で、注意してあげないといけない子とか、判りやすくなる。
守らなくてはいけない事、頑張らなくてはいけない事が、そういう場に置かれると子供自身が物凄く能力を発揮する。
天候が変化する時になると、濡れても何でも子供に対して夢中になってやると、先生を信頼をする。
富士登山を復活してほしいとの要望があり、歳を取ってきたし、無理だと言ったが、あのいいプログラムをやらない手はないだろうと言われて、渋々やることになった。
7合目までゆくが、その先は3400m、9合目まで、山頂までいくもの、自分で予測して決断する。
多くの子供は頂上まで行きたがるが、もう精一杯とか、行ける所まで行くとか、色々あるので、その希望を踏まえて、判断して班を編成する。
富士登山再開を要望した子は8合目で足が痛いと言う事で、(成長して半年後に靴が足に対して小さくなってしまっていた)、靴ずれ、説得したがじっと私の目を見て、嫌だと言う。
根負けして、行くんだったら最後まで頑張るんですよと言ったら、とうとう最後まで登った。

1995年が富士登山の最初、其れまでは秩父の山に行っていた。
当時12名しかいなくて、子供達は難なくこなした。
或るとき、天候が悪くて、むしむししていて、どこが頂上か、聞いてきて、苦しみをあたえるんだったら、頂上にいって登ってよかったとさせてやりたいと思っていたが、その年はいい景色は見られず、ぐちゃぐちゃした道を歩くだけだった。
子供達に申し訳ないようなことをしてしまったと思い、場所を変えようとしていた。
卒園生達のコースも一緒に行っていたが、色々な山に行ったので、最後富士山をやろうという事になり、富士山をやろうと言う事になり、幼稚園も一緒にやろうと言う事になり、父兄に言ったら全員が反対する事になる。

大学の先生にも手伝っていただいて、説明会を開いた。
いろんな場面を想定した説明を行ったが、納得してくれなくて、再度細かく説明した。
もういいです、預けますと言う事になり、なんとか了解をしてもらった。
高山病は頭の中では判っていたが、寒いと言うので、休憩地で一枚着せようと思って、手を取って登ったが、其れは高山病だった。
症状が悪くなり、気を失った。  ゆっくり組みと山頂組みと班を分けることになる。
職員が連絡して、山小屋の兄さんがその子をしょってくれて走る様に下がって行った。
私は山頂組と一緒について行ったが、色々心配はした。
回復して5合目で待っていてくれた。

体力、能力もあるが、ほとんどが精神力 やる気ですね。
其れがあると結構頑張れる。
担任がそばにいて、刻々と変わる症状を見ながら、いろんな言葉を投げかけながら、一緒に登る。
山小屋の案内人、東洋館には何度も足を運んで、いろんなことを学び、励まされた。
毎回お付き合いしてもらっている。
山小屋のスタッフ4~5名、幼稚園のスタッフは5名、自然塾のスタッフは12名付く。
ボランティアで若い看護師さんも2人付いてきてくださる。
そのうちの一人は山小屋の案内人になってしまう。
園児は17名参加する。 山頂へは1/3ぐらい行く予想。

9合目を過ぎると10歩、歩いては休み、30歩、歩いてはリュックをおろして腰を下ろすと言う様な状況で、苦しい。  精一杯の状況。
帰ってきて暫くすると、二度と登りたくない思い、又しばらくするとまた登ってみたいと思う様になり、まだ頑張れると言う事が判ってきたりする。
自然の危険な思いを共にするという事で、信頼感が凄く生まれる。(先生、親子の関係)
3年がかりで 年小、年中、年長 最後に年長が富士登山を実施する。
年少 1万坪の平地林があり、そこを借りて、週2回そこに行く。 
そこで色々なことを自由に遊ぶ事ができる。(冒険心、用心の両方を養う)
年中 日和田山で訓練をする。 年長とペアになって年長が指導役をする。














2014年8月13日水曜日

水澤心吾(俳優)         ・一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心

水澤心吾(俳優)    一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心
昭和25年滋賀県生まれ 高校卒業後上京し、劇団俳小に入団しました。
1977年[天守物語]
の坂東玉三郎の相手役にオーディションで選ばれ、本格的に俳優の道を歩み始めました。
その後NHKの連続TV小説「わたしは海」のヒロインの相手役を演じるなど広くTV、映画、舞台で活躍しましたが、30代後半でスランプに陥り、41歳で俳優の仕事を辞め、心理学を学びました。
13年後に舞台に復帰し、2007年10月からは一人芝居、「決断 命のビザ」を演じ続けています。
第二次世界大戦中、リトアニアで亡命を求めるユダヤ避難民に日本通過を許可するビザ発給し、ユダヤ人6000人の命を救った外交官・杉浦千畝の生き方を描いたものです。
水澤さんは杉原千畝の決断と行動に強く惹かれ、俳優としての使命感のあるものを演じたいとしています。
杉原千畝の生き方を一人でも多くの人に伝えたいと、1000回の公演を目指している水澤さんに伺います。

公演は190回を越えた。  目標は1000回。
最初は強い思いだけだった。  成長させてもらっていると思っている。(水澤さんの一人舞台)
お客様に想像して頂いて、芝居に参加して下されば、と言うのがシンプルになったひとつですね。
(ドイツが残虐行為をユダヤ人に対しておこなったこと、そしてユダヤ人が逃げてきて、杉原千畝に助けを求める5人の代表と話を行う事になる、冒頭の舞台の状況が流れる。)
28年後に5人のうちの一人と杉原千畝は再会する。

高校卒業後歌手の道に行こうと思っていた。
歌はうまくないし、注目されたいと言う想いが強かった。
一生続けられる仕事は無いかなあと思っていたときに、浮かんだのが俳優で、俳優の道に進もうと思った。  滑り出しは順調だった。
天守物語の坂東玉三郎の相手役のオーディションに応募して、相手役をやり俳優の道に本格的に進む。
20代の半ばから、TVに出させていただいて、大きな舞台に出させていただいて、
30歳で主演映画に出させてもらったが、31歳を過ぎて仕事も無くなってきて、お金もなくなり、人間関係も壊れてゆくと言う様な体験の30代なかばだった。
40歳の時「ふぞろいの林檎たち」パート3 でTVドラマに参加、しかし其れを見て愕然とした。
弟に生き方、意見をしてゆく長いシーンがあって、其れを見ていて、何故か役者辞めた、と思った。
俺に愛があるんだろうか、演技に情熱があるんだろうかと、思いが来て、辞めたと決めた。
自分の心を映し出していると思った。(今見ると元気にやっていると思うが)

尊敬する先生がいたので、ハワイに渡って、心理学を学ぶ事にしました。(41歳)
一遍、自分と言うものを見直そうと思うのが、目的だった。
心理学の深さを演技に用いていったら、すごい役者になるのではないかと勝手に思った。
54歳で舞台に復帰する。
大きな舞台に出演させてもらって生活も安定したが、何か物足りなさを感じた。
60歳を前にしていた時に、この方向性が自分の生き方だろうかと思い始めた。
使命感を感じるもの、もっと芝居を通して人にどんな貢献をしているのだろうか、と考えた時期だった。
オーストラリアに4カ月ほどいた時に、散歩していて、中国の映画が世界的にヒットしていた時だった。
日本の作品で、世界に見て頂ける様な作品は無いかと、思いながら、散歩していた。
杉原千畝に関するNHKの番組、その他の局の番組で杉原千畝を演じてみたいと思う様になった。
杉原千畝は寡黙な方、でも心の葛藤と言うのはすさまじいものがあったと思うので、杉原千畝の心の声、心の叫びを表現したいと言うのが始まりだった。
その為には一人芝居、どう表現したらいいか判らず、最初は朗読をした。(渡辺勝正さんの作品)
それからアクションが加わった。 しゃべることは朗読とほとんど変わっていない。
脚本家は杉本美鈴さん。
私は一人芝居をいろんな役になるよりも、一人称でずーと表現できたらと思っている。
2007年10月に一人芝居をやるが、最初20数人だったと思う。

恐かった、セリフを一行言うたびに、今から朗読にしたいんですがと言う思いが頭半部かすめながら、一行一行なんとか言っているうちに最後まで来た。
190回になると、セリフと表現自体は変わっていないが、自分の中が変わってきた。
杉原千畝のやったことに対しては自分にはできないと言う事があったが、何故この人にはできたんだろうと、それを知りたいというのが大きな動機でした。
常に、私にはできないと言うのが、今でもあります。
1000回やり続ければ何故杉原氏はビザを出したのか、水澤心吾もやっと出せた、その辺まで到達できたらなと、そういう目標は有りますね。

杉原千畝は外務省を解雇される。
名誉回復まで半世紀かかっている。
1968年 28年経って元避難民 、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリさんと再会する。 
ぼろぼろのビザを持ってきた。
イスラエルからは、杉原千畝はその後ヤド・バシェム賞」 表彰される。
(水澤氏自身も2008年12月にエレノア・ルーズベルト賞を受賞。)
一人芝居を開始してから、1年後だった。
ロサンゼルスで一人芝居を行って、海外の方が杉原千畝を重く受け取っていますね。
「決断 命のビザ」を演じ、無条件の愛はどこから来るんだろう、と言う事にぶち当たって、無条件の愛とは何なんだろうと、また追求したくなり、無条件の愛とは何なんだろうと言う事を追求させていただく事が私自身を非常に成長させて頂いていると感じる。

どう生きたらいいのかとか、生きる力はどこから来るのか、回数を重ねているうちにテーマになって、それを少しでも感じたり、少しでも見つけることが出来たら、お客様に対して少しでもお役にたてる存在になるのではないかと思いがあり、知りたいし、掴みたいし、もし具体的につかめたら、それが私の希望です。
結局希望がほしかった。
今この作品を通して、人様に希望を持ってもらったら、と言う事がテーマになってきた。
現在64歳、杉原千畝は86歳まで生きたので、そこまでは生きて、できれば1000回を達成したい。
私は希望をこの作品から頂いたので、今度は見てくださる方に受け取ってもらえたらと思います。






2014年8月12日火曜日

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(2)

雨宮剛(青山学院大学名誉教授)  我が体験、平和と和解を語り継ぐ(2)
英連邦戦没捕虜追悼礼拝 
フィリピンのバンダさんから教えても貰ったことは、私たち日本人は被害者であったと同時に、加害者でもあったと言う大変大きな歴史認識だったと思う。
日本人はとかく被害者で有ったことを大きく言いますが、加害者で有ったと言うもう半面はほとんど忘れてしまっている。
バンダさんは私の本当の恩人でした、その後の私の人生の諸活動、社会的国際的な活動はそこから出発していると思います。
戦争に勝った国々の人々に対して、私どもが加害者で有ったことは全く知りませんでした。
永瀬さんの仕事に大変興味を持って、イギリスで勉強した時に、愛想のいいご婦人だったのですが、私が日本人だと判ると、全く違った態度を示して、全く判らなかった。

後で親しい人に聞いてみると、戦時中に日本が英連邦の捕虜に対しての虐待をいまだに恨んでいる人が多くいる、多くの人は殺されて帰れなかった事を知ったことが、私の英連邦捕虜追悼礼拝に関心を持って、実行するに至った動機になりました。
追悼礼拝は1995年の戦後50年を機に 横浜市保土ヶ谷に在る、英連邦墓地で行われている。
今年20回になる。  1873人の方が眠っているという場所。 
一見、美しい公園墓地だが、むごい日本人残虐行為が原因でなくなった方々が眠っている墓地。
ジュネーブ条約 武器を捨てた捕虜は普通に市民だから、人間らしく扱えと言う条約を守っていさえすれば、無事に祖国に帰り愛する家族に会えることができた人々です。
戦争は絶対にいけない。  正義の戦争は無い。
いかなる理由があっても避けなければいけない。
平和的手段、外交的手段で避けなければいけない。

永瀬さん タイへの恵まれない子供達の支援、和解活動、平和活動をしてきた方、
英連邦捕虜追悼礼拝の呼びかけ人の一人。
きっかけになったのはオーストラリアのカウラ事件の教訓があると言われる。
カウラ事件で、オーストラリアで亡くなった日本兵を町ぐるみで、追悼していらっしゃる。
それに対する国際的答礼としてやらなければいけないという事で1995年 戦後50年を機に始めようとした。
カウラ事件→1944年 オーストラリアのカウラの捕虜収容所で日本兵捕虜1000人余りのうち、900人ぐらいが収容所で突撃して231人が亡くなり、オーストラリアの兵隊も4人亡くなった事件。
埋葬地をオーストラリア戦死者墓地の隣りの土地に整備して、桜並木でつないで、カウラ市民が毎年慰霊祭を行っている。
それに対する日本側の市民の活動として英連邦戦没捕虜追悼礼拝を始めた。
無我夢中で始めたが、20年続くとは思っていなかった。
若い世代で引き継いでくれる人が出てきて、ほとんど彼等に引き継いでもらっている。

被害者の国の家族、大使館の人に参加してもらっている。
国際社会へのメッセージが伝わりつつある。
日本のした負の歴史が広く理解されつつある。
私は子供のころ、将来は陸軍大将を夢見ていた。
1941年 昭和16年国民学校1年生の時 12月に戦争が始まった。
私は軍国少年の時代の産物でした。
戦争の認識が変わったのが、フィリピンのバンダさんの体験談、癒しと和解のメッセージのキャンプだった。 バンダさんに会えなかったら、今の私は無い。
日本軍の歴史の事を知っていたのでフィリピンには恐くて行く事がなかったが、1985年 私の教え子がフィリピンに海外青年協力隊として、行く事になる。
声を掛けてくれたので1985年 3月に出かけた。

私の希望通りの人に会えて、体験できたが、フィリピンの現実を知って、衝撃をうけた。
貧困が酷い、こんなに戦争の傷跡が深いと云う事を教えられた、その後2年間ぐらい思い悩んでしまう。
80%が貧困 70%ぐらいの子供が栄養失調 40%ぐらいの子供達しか初等教育が受けられない。
フィリピン大学 卒業生の就職がほとんどできない。(10%どうか)
帰って来てから、大学の教授の意味がない、教育なども意味がない、なんかフィリピンに役立つ技術があったら、何か助けられればいいかなあと、大学の教授をやめようと思った時期があった。
自分ができなくてもいい、この事実を次の時代の人に伝え、彼等に考えてもらおう、自分だけでは行き詰まってしまう。
次の世代に語り継ぐために、何かすべきだと、フィリピンに有志希望者の学生たちを連れてゆく、体験ツアーを計画するに至った。

一番大事な戦争の傷跡を訪ねる、体験者の生の声を聞く。
日本人に対する怒りをぶちまける様な人が一杯いた。 
生き証人から生の声を聞く事を第一の目的にした。
そして私たちの世代は何ができるかと言う事を考えてもらう。 こうしろとは言わない。
戦争責任を背負って、どういうふうに国際協力をしてゆくか。
許されて和解と言う最終ゴールに達するかという、計画を立てました。
1988年 2人だけでした。 フィリピンに対する関心が全くない。 マイナスイメージばかりだった。
二人もいるじゃない、とも云われた。(自費で出かけるツアー)
全部の体験を二人で、真正面から受けて、彼らのショックは大変でした。 なかば病気でした。
あまりにも衝撃が大きすぎて、精神的なアフターケアーが大変でした。想定外だった。 
焦らないで小さいことからしなさいと、諭した。
バタン半島での「死の行進」 体験者がまだいて説明してくれた。

学生が深い体験をするためには、3~6人まで。 
深い体験をして自分の心に刻んで人生を変える、どんな生き方をして行くかと言う所に深く影響する様な体験学習にしたいと考えた通りになりました。
フィリピン以外にもという声があり、タイが思いついた。
フィリピンとは対照的なところ。(独立国で植民地になった事はない、王国、大陸の一部になっている)
共通のこともある。  フィリピン、タイ両方体験した人もかなりいます。
タイでの体験 永瀬さんのゆかりの地を中心に、墓地の見学、少数民族が差別されているところ、孤児の教育している人がいて、知ったら拠点にして、お願いして宿泊費を無料にしてもらって、面倒を見てもらった。
タイは11回 フィリピンは16回 実体験する。

帰ってから、大量の知識、現実を見るので、レポートを書いて報告書を作った。
一つ一つの言葉が重い、言葉が磨かれてゆく、光ってゆく、宝石の様になってゆく。
私が一番衝撃を受けたし、一番学んだと思う。
其れがいろんな活動になってくる。
フィリピンの方たちとのかかわりも、アメリカの恩人に対して報告をして行った。
私の両親もクリスチャンで、信仰の深い両親でした、これが私の生まれながらにして与えられた遺産でした。
父は山梨県出身で、大変な理想家だった、信仰が深くて信仰をそのまま実行したい。 
もてるものは全員で分かち合う、という事をモットーとした、新しい村を築こうとした。
武者小路 実篤さんはトルストイの人道主義、ヒューマニズムで、新しい村を宮崎県に作りましたが、家との関係も少々ありましたけれど、父はヒューマニズムは駄目だと、最後は一線を画していた。

父も理想を実現できないで終わりましたが、離村して父は最後には一人になってしまったが、理想を持ったことは無駄にはならなかった、私が受け継いだ。
戦時中、激しいキリスト教に対する差別、偏見があった。
戦争がはじまると我が家は特高の監視下に置かれた。
聖書を焼け、神棚を置けと言われたが、両親は絶対に屈しませんでした。 是が私の遺産です。
権力に屈しない、信仰を曲げない。


追悼の言葉(雨宮道治 てる  両親)
「神様に言いつけられて、天使が海の底から一握りの砂を取ってくる事になった。
天使は波をくぐって砂を掴んできたが、浮かび上がってくるまでには砂は大方掌から流れてしまった。  天使はこれではと、また海にくぐった、やっぱり同じであった。
砂は掌から漏れてしまう。  彼は泣きべそをかいて神様に手を開いて見せた。
神様はそれでいいのだと神様はおっしゃった。」
行為そのものが大事、駄目でも努力する。 努力の過程が大事、意志力。
虚しい事はいっぱいあるが、でも続けてゆく、信念を貫いてゆく事が大事です。
そうすれば必ず、いずれは実る。 50年、100年経って理解されるかもしれない、そういった人がいたと言う事を伝えられるだけでもいいと思う。

「どんな時も人生には意味がある。  自分を必要とする誰かが必ずいて、自分に発見されるのを待っている。」・・・フランクル 「夜と霧」の著者
視点、目線を変える事によって、自分を必要としている人は一杯いる。
そういったことを発見する事は、教育ではないでしょうか。
その人に対して何がしかのことをして行くときに、人生は意味を持つんじゃないでしょうか。
お仕着せの人生ではなく、自分で発見して人間らしい自分しかできない人生を、歩むように絶えず言っていました。  その通りになりました。
永瀬さんが言っていました、雨宮さんの学生は皆厳しい難しい道を選ぶ、お仕着せの人生ではないからです。
名誉ある仕事を選ばないで、あえて人知れず良き技を、修行する人が沢山出てきたことは、彼等はクリスチャンには成らなかったが、クリスチャン以上に、クリスチャンです。 それを誇りにしています。
「信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける」 経験からそう思う。
今私が取り組んでいるのは難民の支援です。
 



2014年8月11日月曜日

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)

雨宮剛(青山学院大学名誉教授)  我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。
昭和32年青山学院大学文学部を卒業、その後アメリカにわたってコロンビア大学大学院修士課程を卒業されました。
雨宮さんは永年戦争を語り継ぐ、草の根平和講演会を主催したり、今年20年目を迎えた英連邦戦没捕虜追悼礼拝の呼びかけ人をしたりして、平和学習活動に取り組んできました。
雨宮さんを平和と和解の活動へと突き動かしたのは、高校生の時に出会ったフィリピンの戦争体験の話でした。
その後英語教授法を身につけるためアメリカに留学して、留学先で経済的な援助を申し出てくれたアメリカ人と出会います。
雨宮さんの人生は人との出会いと支えがあり、信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開けると言う想いを強くしたと言います。

英連邦戦没捕虜追悼礼拝 20回やってきた。
連合国、英連邦の武器をすててしまった捕虜の方々に、あんな残虐な行為をしてしまったことに何としても、形に表して謝罪をし、許しを請い、和解をしたいと言う想いがすべてでした。
1995年、戦後50年を機に追悼礼拝をすることになった。 どうしてゆくか計画はなかった。
永瀬先生、斎藤先生と発起人と成って始めた。  
何人集まるか判らなかったが、100人以上集まった。
反応も凄く良くて、結局毎年することになって、20年 信じられません、本当に嬉しいです。
永瀬隆さん タイへの戦争についての謝罪、お世話になった方のお礼とか支援活動をした。
斎藤和明さん 国際キリスト教大学の副学長になった方。 捕虜文学 捕虜の手記などを研究していた。 (二人とも亡くなってしまった)
「絶対戦争を起こさないでほしい」と言う長瀬先生の思いがあり、戦争の謝罪と償いのために生まれてきた様な人で、政府がやるべきことを全部自分でなさった。
相当の反対があったが、本当に意志の強い権力に抵抗される精神は極めて旺盛だった。

信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける、との想い。  数々の出会いがある。
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。 9人兄弟
4人の兄が亡くなっている。 (未熟児、病気などで)
開戦の時、終戦の日の事はよく覚えている。
日本が負けた事を聞いて一日中泣いていた。  
日本は絶対に負ける事のない国であると、神州不滅。 そういう信念を叩きこまれていた洗脳された国民学校の生徒だった。  100%軍国少年だった。
アメリカ人は野蛮だから殺されると思い、毒を用意して山に逃げようと考えていた。
国民幼年学校 憧れていてどうしても行きたかったが、これで幼年学校にも行けなくなってしまったと言う寂しさがあった。
社会が大きく変わって、戦時中教えられた事、叩きこまれたことが全部ウソだったと言う事を知った。  絶望です。 
戦争は嘘の塊である、為政者は嘘で国民を戦争に駆り立てた、どうしても戦争に関心を持たざるを得なかった。  私の戦後の人生の原点になりました。

高等学校2年生の時に三河で開かれた国際キリスト教ワークキャンプに参加した。
フィリピンの教会代表アモール・T・バンダ氏に出会って、(牧師さんの息子24,5歳)日本軍がフィリピンで行った残虐行為の事実を皆さんにお知らせし、それを我々は恨んではいない、許すと言う平和と和解のメセージを持って、自分は来た、と言う。
その事に私は驚いた。 肉親が被害を被っている犠牲者。
日本軍の残虐行為を初めて知らされて、それが私の戦争観をすっかり変えた。
私は自分を戦争の被害者だと思っていたが、ところが加害者でもあったと、そういった方々が無数にいらしゃると云う事、私の戦争認識を変えたのは、バンダさんの話を通しての事です。
私たちは抱き合って泣き崩れました。 
それが私の反戦、平和、和解などの運動の最も深い原点となりました。
私は謝罪文を書こうと、残虐行為を許していただきたいと、和解をしたいと、文にしてバンダさんに渡した。
それが向こうの若者の新聞にでかでかと出たらしい。 手紙が100通近く来た。
誠実に答えてくれて、君と友だちになりたい、という事に吃驚した。(憎しみの言葉は一つもなかった)

軍国少年に洗脳されたことに対して恥じた。
英語を勉強すれば、何か今後どう生きていくか、あの戦争は何だったのか、戦争に関する謎が解かるのではないかと思った。
留学の夢がかなえられた。
50通、60通の手紙をアメリカの大学に出した。
戦争体験、生い立ち、等を書いて是非アメリカの大学で勉強したい、と書いてだした。
同情して丁寧な断りが大部分から誠実な手紙が来た。 
2校は受け入れる手紙が来た。
アメリカで一番小さな戦後にできた大学のマールボロ・カレッジ  
生徒が65名 先生が16名 専任教授 非常勤を入れて25名。
学長が28歳 私の書いた手紙を見て感動して、いつでも受け入れると言う事になった。
全額奨学金を出す、但し図書館の仕事を20時間することだった。

行く段になって渡航費がない。 500ドル 貨物船でも275ドル それもなかった。
学長あてに率直に手紙を出したら、1カ月後に手紙が来て、275ドル用意したから来るようにとの事だった。
50ドルだけを持って、出掛けて、クリスマスまでは何とか節約して持ったが、全く無くなって学長に相談して、田舎なので働くところがほとんどなく、何とか高級レストランを紹介されたが、そこは厳しいとの評判のところで、どんなに苦しくてもやるしかないと思っていた。
面接を受けたが、だめだろうと思っていたら、いいよ働きなさいと云われた。

ニューヨーク、ボストンからお金持ちのスキー客がくるが、或る家族を一週間給仕しました。
一家の主が私に対して興味を持って、ここの大学に1年終わったら大学院に行って、英語を学んでもっとましな教師になりたいと言ったら、2月頃帰る時にニューヨークの私を尋ねなさいと云われた。
ニューヨークに行って、会ったら 大きな会社の副社長だった。
大学院は駄目だったといったら、どこへ行きたいのかと言われて、コロンビア大学に行きたいと言ったが、あまりにも生活費も授業料も高いので完全に諦めていたら、「いけよ、会社が全部面倒見るよ」、と言われた。
願書も責任を持つと言ってくれた。  即実行した。  信じられないことだった。
大学からも直ぐ合格通知を貰いました。 
生活費は自分で働く様に云われて、その会社の資料室、図書館で20時間働く事になる。
絶対一生忘れない、その後の活動、行動は全部感謝の念から湧き出ている。

学位を取って6月に帰ろうと思っていた。
5月ごろ副社長を訪ねた。 
お礼の言葉がないと申し上げたら、お礼は必要ない、自分と神に感謝しなさいと言われる。
君みたいな人間が日本に帰ったら、何をやるか興味があるから、1年に一回近況を報告してほしいと云われた。
事あるごとに、年に10通、15通も書きました。(論文、出版物、出来事など有った時)
ウォルターさんは2004年9月に亡くなる。
ブリジッド婦人から手紙が来る。

「夫 ウォルターの人生に対する大きなプライドは、人々が努力するのを励ますことでした。
夫はあなたがフィルピンの人々と理解を深め和解しようとなさっている全てのお仕事を非常に誇りに思っていました。
あなたの遺産は、ある意味でウォルターの遺産でもあります。
夫は第二次世界大戦でアメリカ政府が、日系アメリカ市民や日本人にしたことは間違っていたと考えていました。
それで夫はあなたの勉学を奨励する事によって、その過ちの償いをしようと努めたのでした。
あなたが夫の励ましの贈り物を受け取ってくださり、他の人々を励ますためにご自分の時間と才能を用いて、下さることに心からお礼申し上げます。 2004年9月23日」

受け取った時は衝撃でした。
最も深いところに、日本に対する戦争責任の、謝罪、償いと言う事があったと言う事を知って吃驚して、1時間ぐらい何も言えなかった。
アメリカ人でこんな考えを持っている人がいる、初めて会いました。
私の恩人がそんなに戦争を深く考えて、アメリカのやったことを深く反省してらっしゃるなんて、夢にも思わなくて、言葉を失ってしまった。

「信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開ける」
いろんなことをやってきたが、何にも初めから判ってるわけではない、これをやろうと思って苦労していると、必ず助けてくれる人が出てくる、本当に不思議です。
いつの間にかその仕事が成し終えることができる、道が開ける。












2014年8月10日日曜日

平田 周(個人学習塾経営)  ・長崎原爆、受け継ぐ命のバトン

平田 周(個人学習塾経営)     長崎原爆、受け継ぐ命のバトン
*台風情報のため中途から放送。
24万人のうち7万4000人が亡くなり、7万5000人が負傷しました。
爆心地に近い城山に住んでいた、平山さんの祖父、松尾あつゆきさんは妻と子供3人を失いました。
原爆で重症を負いながら生き残った娘、みち子さんとの二人だけの厳しい暮らしが始まりました。
その様子について、松尾さんが書き残した日記には、戦争によって引き裂かれる家族の苦しみが描かれています。
松尾さんの孫でみち子さんの長男にあたる平田周さんに伺います。

原爆が落ちた場所は長崎駅から北に2~3km離れたところ。 
「幸福のみことのり 妻を焼く火 いまぞさかりつ」  祖父が書いた句です。
祖父は奥さんと私の母と 母の妹1人 母の弟が2人 6人家族だった。
祖父は勤務中、母は魚雷を造る兵器工場で仕事をしていた。
4人は自宅にいたが、被爆して4人は亡くなった。
母は瀕死の重傷を負った。
それからは祖父と母はどん底の生活だった。
祖父の日記を5年前に私の手元で管理するようになって 30数冊あるが、今まで全く知らなかったことが書いてあった。

娘の看病で仕事も解雇され、その日その日を生きることに大変だった生活が続いている。
母は左に熱線を浴びて、皮膚がただれて指先まで垂れ下がっていた様で、逃げるのに邪魔でそれを引きちぎって逃げたそうです。
外傷としてはその傷が凄かった。  
後に皮膚の移植手術で、お尻の肉を腕に持ってきたりして、結果的にはケロイドが残ったが。
私は祖父には家に行って英語などを教えてもらっていた。
日記を見て母が祖父の懸命の看護があって、母が生き延びたことが判った。
それを読んだときには祖父には感謝、感謝だった。
祖父の看病がなければ、今の私はないのですから。
母からはすこしは聞いていたが、そんなにひどいとは思わなかった。

祖父はいっぱい句を残している。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」 と言う句がある。
祖父は幼いころ養子に出されていて、養父母に育てられた。 
自分は実の親には捨てられたと思って生きてきた、と日記に書いている。 
結婚して、昭和20年に城山に強制疎開された。 6人で楽しい生活を始める。
せっかく築いた家庭を8月9日を境に壊されてしまって、4人を失ってしまった。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」
この句は皆さんにお伝えしなければいけないと思う句です。
祖父は荻原井泉水主宰する同人に入って先輩には山頭火さんがいますが、日記に書いてあるが、山頭火さんたちは自分から寂しさを捨てた、捨てた寂しさと奪われた寂しさは違うと書いてある。
山頭火さんは長崎にも来たが、その時に祖父が案内している。

「身をよせにゆく 二人なら 皿も二枚」  
残された二人が親類縁者を二人がお皿2枚持って訪ねてゆく不憫さ、いままで本当に幸せな暮らしをしていた人たちが突然変わってしまう、この落差を この俳句は見事に表現しているのかなと思います。
原爆で亡くなられた方も大事ですが、残された人達の苦しみ、悲惨だったという事を伝えてゆく事も
必要じゃないかと思っています。
祖父からも、母からも詳しくは聞いていない。
母は頑張り屋さんだった。 
当時姉は看護婦になるために東京に出たが、私と弟を育てるためにきつい身体を酷使して働いた。 
今私がこういう年齢になって、大変だっただろうなあと思います。(56歳)
母が亡くなったのは55歳 診断は心臓死 永い間酷使した心臓が動かなくなったんでしょうね。
亡くなった日には弟は結婚していて、私が一番苦労をかけたんだろうと思います。
私は学校を卒業して、社会人になって長崎を出ました。
母を残して外に行くべきではなかったという気がする。
福島県の郡山に勤務していて、福岡への転勤が決まって、引き継ぎが終わった時に母の死の連絡があった。(結婚もきまっていた時期)

被爆二世は親から被爆体験を受け継いでない人が多い。
私も具体的な話は聞いていないが、日々の言動、戦争は絶対だめだと、母の意思はひしひしと伝わってきているので、原爆などはもってのほかだと、私の心の中にも刻まれている。
娘が2人います。 長女が結婚して孫がいます。
孫がこんなに可愛いいのかと、実際自分で手にするまでは思わなかった。
娘には祖父、母のことを話はしたが。

娘が全国中学生人権作文コンテストに応募、長崎県大会で優勝した作品。

「あの日以来生活も性格も変わりました。  ビデオの中で祖母がこう語っています。
祖母は今から55年前 15歳の時 学徒動員されていた工場で被爆しました。
城山に在った家は壊され、中学1年と4歳の弟、生後7か月の妹、母親も亡くしました。
自分の皮膚の移植手術を受けるほどのやけどを首と両腕に負ってしまったけれど、強く生き続けた祖母はその後、10数年間語り部として修学旅行の生徒に原爆の恐ろしさを語り続けました。
そして15年前55歳で亡くなりました。
今まで私は何度どなく戦争の映画や体験談を見たり聞いたりしてきましたが、いつも恐いと言う想いだけで耳をふさいだり眼をつむったり、してきました。
しかし、去年父が恐がっているばかりではだめだ、しっかり聞いて今から戦争をしないように伝えてゆく事が大切だと言って、一本のビデオを見せてくれました。
それが祖母の被爆体験ビデオでした。

その時初めて話をしている祖母を見、祖母の声を聞きました。
ほっぺのところがゆいに似ているねと母に云われて、そうかなあと嬉しくなりました。
それから祖母や祖母のお父さんが書いた体験談を沢山読みました。
そこにはやけどではがれた自分の皮膚を引きちぎったと言う事、やけどの跡が腐り何年も生死の世界をさまよってやっと生き延びたこと、それでも首から腕にケロイドが残り、赤血球の数が普通の人の半分しかなくずーっと病院に行っていた祖母の事、自分の妻や自分の子供達を自分の手で焼いて弔った曾祖父のことなど、本当は怖い地獄絵の様な事実が書かれていました。
しかし私はおばあちゃん ひいおじいちゃんに出会えたという気持ちが強く、おばあちゃんは私と同じ年ごろに必死で生きていたんだなあと、考えながら一生懸命に読みました。
かわいそうと言われるのが嫌で、何くそという気持ちでにらみ返していた、祖母はこういことも語っています。
又誰かが綺麗な手を取り換えてあげると言っても、私はそんなものはいらない、一緒に生きてきた手だからとも、 今の私が祖母と同じ状況だったら、多分自分のことだけ考えて、どうして私がこんな目にあうんだろう、今までの生活、今迄の私を返して、こう思うだろう。
でも祖母はだれを恨むのでもなく、自分が置かれた現実を見つめ、過去を振り返らず、之からどうしなければいけないのか、未来を見て生き続けたのだと思いました。
私は祖母をかわいそうと思ったり、同情する事は止めようと思いまいた。
前向きに生きた祖母を誇らしく思います。
今回祖母のことを書こうと思ったのは、本やビデオから55年前の真実を伝えてほしいと言う祖母からのメッセージを感じたからです。
唯ちゃん あなたと同じ年ごろの子供たちが、いえもっと小さい子供たちが、なにが起きたのか、どうして自分達が死ななければならないのか理由が判らず、命を落としてしまったのよと、私は祖母が頑張って生きてくれたから、ここにいられるのです。
これから私に、私たち若ものにできる事は生きたくても生きられなかった人達の分まで頑張って生きる事です。
最近、自分勝手な考えで、人を殺したり、自殺したり、むやみに人をいじめたりすると言う事を耳にします。
今の世の中は平和で有るはずだと私は思います。
けれども絶え間なく報道される事件の数々、私たちはこの平和な状態に甘え過ぎているのではないでしょうか。
平和を願い、生き続けた祖母たちのことを考えると戦争があったことや、苦しんだ人たちがいることを忘れそうになっている今の世の中に無性に腹が立ってきます。
今私たちがやらなければならないことは、2度と悲劇を起こさないよう、ずーとずっと祖母たちの願いを語り継いでゆく事、其れが苦しい状況の中で生き抜き、父へ そして私へと命を繋いでくれた祖母に対する唯一の恩返しだと思います。」

ゆいは今27歳で結婚して昨年子供が生まれました。
外国人と結婚してオーストラリアに住んでいます。
願わくば、孫に祖父の体験した事、母の体験したことを英語に書いてもらって世界に発信してもらっていけるのかなあと思います。 世界中に広げてほしいと願ってます。
被爆者が段々少なくなって、被爆二世、被爆三世とか家族の体験の継承を推進してゆくと言う事業が始まった。
被爆の継承にいろんな形があり、朗読、紙芝居、本にしたりしている。









2014年8月9日土曜日

山口岩夫(元NHKアナウンサー)  ・戦時下で放送を続けた日々

山口岩夫(元NHKアナウンサー)  戦時下で放送を続けた日々
太平洋戦争末期、日本各地の都市はアメリカ軍の空襲にさらされました。
ラジオからは連日のように空襲警報や警戒警報が伝えられました。
当時大阪放送のアナウンサーだった、山口さんは、中部軍司令部に詰めて、空襲警報、警戒警報をつたえていました。
昭和15年日本放送協会に入局した山口さんは、昭和16年には南太平洋パラオのパラオ放送局の初代のアナウンサーとして赴任します。
昭和19年から20年にかけては大阪放送局でマイクに向かい続けました。
戦時中のアナウンサーは何を見て、何を伝えていたのか、伺いました。

昭和15年 年に3回募集があり37人採用 もう生きている人はいません。 
藤倉修一さんと同期。
戦時中は、構えて朗々と話すような感じだった。
ラジオ年鑑 どのように活動したかの記録が残っているが、15年度の記録がとんでいる。
16年度の採用は3回に渡って採用している記録がある。
アナウンサーとは言わず、放送員と呼んでいた。
生まれは和歌山県、 友人がこんな試験があると言う事で、云われて、受けてみようと思って20数人応募して、2人採用だった。
大阪局は6~7人だった。  最初は簡単な天気予報だった。
招集が増えて人が減ってきた。
昭和16年4月には南太平洋パラオのパラオ放送局に転勤。(自ら手を挙げた)
横浜-神戸-パラオに13時間かかって着いた。 

開局2元放送 パラオの近況などを話した。
年間平均温度 28℃ 過ごしやすい。
パラオ放送局の使命はアメリカ向けの対外放送するためにやった。
南洋群島の人々に日本と同じ番組を送ると言うのが大義名分だった。
国策の拠点だった。
昭和18年、19年 船がやられるので米が届かず、食糧難だった。
パラオに来ていた人達も段々内地に引き揚げてきた。
昭和19年1月内地転勤の辞令がくる。  3月19日空路転勤。(軍の飛行機に乗ることができた)
サイパン経由で横浜に帰る。  直後アメリカの空襲があり、7月には大規模な空襲で放送局は機能を喪失し、8月1日には活動を停止する。(開局から3年に満たない)
結婚して、徳島放送局、大阪放送局勤務になる。
陸軍中部軍司令部に詰めて、空襲警報等の放送に交代で当たる事になる。

地下2,3階に作戦室があり、壁に地図があり、監視所から入ってくる情報で、オレンジのランプを点灯、航跡が判る様になっている。
原稿が放送室に差し込まれて、それを元に放送する。
最初にブザーが鳴り、其れが合図となり放送するように成っていた。
岡山大空襲は知らない間に、行われていた。(通信線が切られていた。)
後に岡山に転勤したときに、随分岡山の人に恨まれました。
神戸、大阪などが 次々にやられてゆく。
どこで空襲に遭ってもいい様に、ふんどしだけは毎日取り替えてゆくと言う様な生活だった。
玉音放送 放送局で聞いた。
前日に、重大な放送があることは知ることはできたが、多分戦争終了であろうことは判った。
ショックはなかった、むしろほっとした思いだった。
我々のところに原稿を運ぶ軍曹などは泣いていた。

戦争に入ってしまうと、人間は正統性を自分で持つようになる、其れが怖いと思う。
戦争ってつまんないですよ。
戦争の大義名分を作る様ですが、戦争で解決すると言う事は愚かですね。
私の兄弟、長男も次男も戦争で亡くなっている。











2014年8月8日金曜日

朝長万佐男(診療所長)    ・医師親子2代、被爆者に寄り添う(2)

朝長万佐男(診療所長)     医師親子2代、被爆者に寄り添う(2)
永い間被爆者と接していて、研究者は被爆の影響を世界に発信し、核兵器の廃絶の原動力になる役割りを負っている時を感じてきました。
アメリカと当時のソ連の医師が、核戦争防止国際医師会議を設立した時は、初めから参加して、国際理事も務め、会議の場で今も苦しむ被爆者の姿を医師として、被爆者として127カ国の代表に訴えてきました。
朝長さんは白血病の研究をしながら、恵の丘 長崎原爆ホームで40年間 週1回の診察を続けてきました。
今年からはホームの診療所長を務めています。

日本の社会は高齢化になっているが、被爆者も同様です。
69年前の影響を身体の方も心の方も引きずっているという問題がある。
400人入居者がいる。   身寄りのない人が多い。 一族郎党被爆して自分しかいないとか。
50周年の時に、精神科の先生と一緒に、長崎の被爆者の7000人の人の精神分析を行った。
近距離被爆者ほど、半世紀たった後も精神状態が良くないと言う事が判った。
PTSD 精神反応が出たり、はっきり統計に出て、英語の論文にして報告している。
心の傷はかなり根深いものがあって、どうやったら取ってあげるかという研究がされてなかった。
被爆者の心の病は、半世紀たってからの治療は不可能に近いという印象を持っている。
非人道性を科学的に証明しようとすると、心の問題よりも癌、白血病がいまだに出ると、云う風な医学的、科学的証拠を積み上げた方が、外国の人に判りやすいと言う事はある。
核兵器廃絶にかかわる人々に広めている段階です。

日本もすでに、占領時代には言論統制が行われて、原爆の人体影響がどうなのか、判らなかったが、研究は行われていた。
冷戦時代に入っていって、核の残虐性、非人道性をうんぬんする以前の問題として、米ソのデスマッチが始まってしまった。
最大の武器が核兵器だった。 核廃絶は夢の又夢になってしまった。
原子力の平和利用という事で、原子力発電所が増えていった。
非核兵器国は商業用原子力発電を持ってもいいという。  NPT条約1960年代に登場した。
核兵器は一時6万発になったが、このままでは人類はとんでもない絶滅の危機になるという考え方が、医者の間(米ソの医者)で高まってきた。 1980年代前半
IPPNW共同体が60万人の医者の組合ができた。
IPPNW共同体がゴルバチョフ、レーガン両国の首脳に訴えた。 
ゴルバチョフが今後核実験はしないと、声明を出した。
それによって核実験ができなくなった。
1983年ぐらいから私もIPPNW共同体に参加した。
核戦争防止国際医師会議 (IPPNW) 核廃絶運動のリーダーシップを取っている。
日本は広島の県医師会に本部があり 私は長崎県の会長  国際本部はボストンに在り、そこの副会長も私が務めている。  冷戦時を過ぎて、今は厳しい状況にある。

核戦争になると、都市が破壊され、放射能を帯びた塵が成層圏までまきあがって、太陽光線が遮断され、地球の温度が急速に落ちてきて、核の冬に突入して、食料生産が滞る。
人類は飢餓で倒れてゆく、人類の滅亡につながる。
最初は白血病とかの研究発表に行っていたが、段々核廃絶の運動にのめり込んでいった。
6万発から1万7000発までしぶしぶではあるが、減らしてきた。
ゼロにして行く段取りはまだまったく見えない。
アメリカ、ロシア、フランス、イギリス 中国  それインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮 9カ国が核保有国。
核廃絶の理論武装 核の非人道性を世界中で公認して、核兵器禁止の条約を作れるかどうか、と言うところまで来ている。
核の非人道性に関する国際会議 オスローで第一回があった。 今年はメキシコで有る。
国連とかいろんな場で、被爆体験を語ってきて原爆の悲惨さを訴えて、世界中に広まってきた。
それと私たちが癌、白血病のこととか、心の病の研究を発表して、正確に理解されるようになった。
オバマさんはプラハで、核兵器を唯一使った国で、道義的責任を感じていると、おっしゃった。
将来核兵器廃絶を実現させたいと、おっしゃているが、実際はアメリカの行動はそれに追いついていない。
国際会議には現在、核保有国は参加していない。 
核保有国を参加させようと言う方向、非核保有国が170カ国が集まって保有国も従えようと言う方向 その二つがいませめぎ合っている。
核抑止力 信仰している国が多い。

データを出してきた研究者自身が核廃絶運動をやることは、重要だと感じています。
非人道性国際会議に被爆者も7人呼ばれて、発表して感動をあたえて、そのあと私が研究発表して、という2本立てでやってきて、非常に効果はある。
「核廃絶ができますか? Yes I can。」 の「I can」運動がNGO団体などを取りまとめて行っている。
民間レベルで一致してノルウェー、スイス、オーストリア、メキシコとか核廃絶に積極的な国と共同歩調を取って、非人道性の世論を確立させようとしている。
核の傘 日本は核の傘に頼らなければいけない、というジレンマがある。
広島、長崎の合同国際フォーラムを10月に行う。 
被爆者、原子力発電所事故の被害者(日本、ロシア)なども招いて行う予定。

平和国家の役目としては、北東アジアから核を無くしていきましょう、アメリカに対して非核の新しい安全保障体制、方法を考えましょうと、訴えていきたい。
アインシュタインは 日本では湯川博士、朝永博士等と相談してパグウォッシュ会議(IPPNWと似たような会議)物理学者の核廃絶会議 を作った。  
いまも続いていて来年長崎で行われる予定。
核兵器廃絶しかない。  
原爆70周年記念の節目 オバマさんが一人のキーパーソン、日本政府がどうリーダーシップを取るか。





2014年8月7日木曜日

朝長万佐男(診療所長)    ・医師親子2代、被爆者に寄り添う(1)

朝長万佐男(診療所長)     医師親子2代、被爆者に寄り添う(1)
恵の丘 長崎原爆ホーム診療所
長崎で親子 2代 60年にわたって被爆者と白血病の関係を研究してこられた医師で、自らも被爆者の朝長万佐男さん(71歳)にお話を伺います。
一回目は永井博士の最後を看取った父
朝長万佐男の父、正充さんは「長崎の鐘」などで有名な永井隆博士の主治医で、その最後を看取った人。
白血病に取り組む永井博士の話を父から聞き、父の後を追う様に長崎大学医学部を卒業後、父正充さんが教授を務める部門、原研内科に入局、同じ道を進むようになりました。
父、正充さんが亡くなった後も、被爆者の治療や原爆放射線の人体への影響を研究してこられ、今年 日本赤十字社長崎原爆病院長から恵の丘 長崎原爆ホーム診療所長に就任されました。

ホームでは40年前から皆さんの面倒を見ている。
大学を昭和43年に卒業して、それ以来、診療を週に1回やっている。
被爆者の平均の年齢が79歳になってきている。
毎年何十人が亡くなってきている。  癌が多い。
白血病  第二の白血病と呼んでいる骨髄異形成症候群(MDS)がある。
最近被爆者の中に増えてきている。
2km以内の近距離被爆者は3倍ぐらい増えている。

2歳の時に被爆。 記憶はない、母親からの受け継ぎになる。 2.7kmの距離だった。
家は瞬間的に全壊している。 火災が起こって、梁に挟まっていなかったので、2階にいた私を母親が助け出して、近くの神社に避難したと言うのが、我々親子の原爆体験です。
2.7km、そのまま放射線が直線的に来ていれば、20ミリシーベルトを受けていることになる。
中学から高校時代に被爆を意識したが、そのころには白血病が同年齢の人から出ていた。
自分も可能性があるのではないかと不安にはなった。
医学部に入学して、6年間の中でかなり白血病の勉強はした。

父は白血病の専門家だった。
父が主催していた原爆の研究所の内科に入局した。
是が現在まで続くライフワークになった。
父は軍医になって、ビルマ、ベトナム、台湾に来て、そこで長崎に原爆が落とされたことを知る。
1年後日本に帰ってきて、大学病院の医者として復帰する。
父は永井隆博士の主治医だった。
永井博士は医学部の学生の頃バスケットボールをやっていて、中学生だった父は指導を受けた。
永井博士は白血病になっていて、広島、長崎でも白血病が出てきていた。
永井博士はレントゲンが専門で、放射線を浴びてしまっていたのではないか。
父が戻ってきたときに永井博士が闘病生活に入っていたことを知る。

永井博士は原爆爆発時の放射線科の助教授だったが、大学病院のなかで被爆して、緊急手術で命を取り留めて、3日3晩不眠不休で、被爆者の救護に当たる。
自宅まで帰ったら、台所で白骨になっている奥さんを発見する。
首にかけていたロザリオが骨の中に埋まっていたので本人だと判る、そのことが「長崎の鐘」の中に書かれている。
その骨を手ですくったけれども、その骨はさらさらと崩れたと言う。


永井先生は優しい人だった。
「長崎の鐘」 「ロザリオの鎖」などの本 17冊を書かれたが、先生は慢性白血病だったがその間、治療して支えていたのが父だった。
自分のライフワークに原爆研究をして行こうとしたのは、永井先生、父の影響は大きかったし、自分自身が被爆して、放射線は浴びていることがあったので、白血病を心配したと言う事はある。
白血病が減ってきて、高齢者の中に骨髄異形成症候群(MDS)が増えてきた。
当時子供たちが広島、長崎に多かったのが特徴。(産めよ増やせよの時代)
その子供たちが被爆者の中心になっている。 
被爆者の体の中で一生涯かかって、白血病を起こしている。  同時に臓器のがんも多い。
瞬間的に被爆しただけなのに、その人の体の中には生涯続く癌、白血病を起こす遺伝子の損傷し、そこから癌になる細胞が発生してくる。
放射線の影響は生涯続くと言う事が最近の一つの大きなトピックスだと思う。

核兵器が非人道的兵器だと言う事の一つであると言う事の医学的な証明になる。
国際会議とかいろんな場で主張している。
原爆が投下されてから2,3カ月後から永井先生などがデータを取り始めて、その後ずーっと続いている。
長崎医科大学は世界で唯一の原爆を受けた大学なので、大学の使命になっていて、其れが現在まで続いていて、私は第三世代になる。
市丸道人先生は私の父の直接の弟子であり、ずーっと続いてきた。
1857年に長崎の小島に初めての西洋式の病院ができる。(井伊大老の時代)
ポンペ先生(オランダ)が精力的に教育を行い、西洋式の病院を江戸幕府が作って、これが私どもの病院のオリジンなんです。 もう150年になる。

シーボルト先生が来ているが、シーボルト先生がヴュルツブルク大学を卒業しているが、1895年にX線をレントゲン博士が発見した大学なんですね。
その後原子学、原子物理学が発展して、キューリー夫人のラジウム発見、中性子発見と続いていって、原爆が製造されると言うところまで行ったのが、1900年~1945年の原爆までの歴史です。
シーボルト先生が長崎にいたと言うのも因縁めいたものがある。
X線が発見されてから50年後に原爆が出来ている。
原子力による核兵器、原子力による発電所 核の時代が1945年に開始されて今も続いている。
核廃絶運動をやっているが。
永井先生が闘病生活をしながらやった研究は、放射線を大量に浴びたときに、人間がどうなるかこの時初めて分かった。 急性放射線被ばくで臓器がやられて、骨髄が破壊されて血液細胞を作ることができなくなる。
貧血とか、又白血球が減ると、ばい菌の感染に弱くなるとか、そういう研究をされた。

父親はその後急性放射線被爆で亡くならなかった方たちが、癌、白血病を発病する事に遭遇した。
私は父が遭遇した白血病の研究を途中から引き継いだ。
白血病の発生は被爆者からは見られなくなると思ったが、あにはからんや、現在まで続いている、これが私の白血病の研究が生涯続いた一番の原因ですから。
何故被爆者の体の中で、白血病、癌になる事が一生涯植えつけられる事が、遺伝子のレベルで研究されつつある。
遺伝子の傷が拭い去られない結果、条件付けがされてしまっている。
通常爆弾とは全く異なる、非人道性を持つ一つの証拠になる。

福島で100万人が被爆している。
私が浴びた20ミリシーベルトぐらいが最高レベルの被爆、多くの人は数ミリシーベルト。
チェルノブイリ で被爆 25年間に7000人の子供たちが甲状腺癌になっている。
福島では30万人の子供が被爆しているが、危惧されているが、数十人が甲状腺癌がしんだんされているが、事故の影響なのか、結論は出ていないが、今後10年はかかるのではないか。
原爆、ビキニ、チェルノブイリ、福島があり、被爆した人にとって、白血病などがいつも心配になっている。
父親の研究下に入って、父は急に癌になってしまって、白血病の研究は大事だよ、とは言っていた。
永井先生 報告書 被爆者がいかに放射線で苦しんだかを纏めている。
あまりおおっぴらには報告できなかった。(占領軍との関係)
永井先生の御臨終の言葉はあまりなかった。
先生は曼性白血病 1960年代 染色体の異常が発見 1980年代 遺伝子の異常が発見
遺伝子の異常で作られる、異常なタンパク質が白血球をめちゃくちゃ増やす、これが白血病になると言う事が判る。  
たんぱく質を攻撃する薬が開発された。 1990年ぐらい
物凄い有効な抗がん剤と成る。  ほぼ治る病気になった。(9割ぐらい)
骨髄異形成症候群(MDS)は治療が難しい白血病  3割ぐらいの人は治療は厳しい。














2014年8月6日水曜日

三登浩成(胎内被爆者)     ・被爆を語り継ぐ

三登浩成(胎内被爆者)     被爆を語り継ぐ
三登さんは68歳 、母親のおなかの中で被爆した胎内被ばく者です。
高校で英語の教師をしてきた三登さんは、平和運動にかかわった経験はありませんでしたが、50歳の時に被爆の語り部の話を聞いたことが転機になりました。
58歳で教師を退職した後、原爆ドームの前に立ち、雨の日以外はボランティアで、訪れる人たちに原爆について語り始めました。
是までに三登さんの話を聞いた人は22万人だそうです。
三登さんは英語でも語るため158の国と地域、3万人の外国人も三登さんの話を聞きました。
被爆について三登さんは何故語り続けるのでしょうか、伝えようとしていることは何でしょうか。

ガイドを始めて、一番目的とするところは何かと言うと、世界中の多くの人が広島で実際に何が起こったかと言う事を知ることが、核廃絶の一番確かな道だと思うんです。
世論を変えてゆく、本当のことを知ってほしいと、云う事が一番ある。
朝9時前から5時頃までやっている。 雨の日以外はほぼ毎日やっています。
ファイルブックの中に、写真、イラスト、図表が入っていて、其れを見せながら説明する。
言葉だけではどうしても判らない。
モットー 事実を正確に 判り易く、心に響く様に。
被爆者健康手帳は最初に見せるので、ぼろぼろになってしまっている。
妊娠4カ月の母親が、爆心地から7kmに疎開していた。
3日後に自分の家が心配で見に帰った。(被曝する)
被爆者健康手帳を貰ったのが20歳の時、その時気が付いた。

母は被爆状況については一切言わなかった。
小さい時から病気ばっかりしていた。 小学校の間は1年間のうちの1カ月は休んでいた。
長生きはできないだろると思っていた。
父も被爆したが、父は93歳まで生きたが、母同様被爆時の見た状況は一切話さなかった。
医者になりたかったが、挫折して、父も親戚も教師だったので、英語の教師になった。
英語を使って広島のことを伝えられるので、結果的に良かった。
英語教育については、英語の語源とか、文化的背景とか、興味を持てるように教えていた。
50歳を越えたころに、被爆者の人の話を聞いた。
ショックだったのは、原爆の実相を、如何に知らないかということ、被爆者が言ったことが、歳だからそろそろ外の公園を回りながら日めぐりをするのが、体力的に難しいと、私の出番が来るのではないかと直感した。

58歳で退職。 教師を続けることが精神的に辛かった。
公募でガイドをしませんかと、新聞にあって、その時に入ってやり始めたが、修学旅行は春と秋にしかないので、説明したくても出来なくて、原爆資料館のボランティアにはいったが、1週間に一回しかできない。
ドームのそばで話しかけるしかないと、60歳の時から本格的に始める。
最初、1年間に2000人ぐらいだった。 
もっと大勢の人に伝える方法はないかと、いろいろ改善しながらやり始めた。
試行錯誤で今のスタイルになった。
一通り説明し、興味のある人は討論したり、疑問に答える様な形式で行った。
修学旅行生 年間70校やっている。  評価が直ぐ返ってくる。
授業と違って一回しかできない。  一期一会 緊張感もある。

本を買って読んだり写真集とか、200冊ぐらいはある。
新しい情報を得ながら、話に加える。
母の父親は悲惨な亡くなり方をしたことは、母から僅かに聞いた。
家族に起こったことをキチン話せなくてはいけないと思って、手記を書いてくれと頼んだが、けんかをしたりしながら1年掛かった。
日本語版が出来て、次に英語にしてほしいという要求が外国人からあり、(オーストラリア)世界中に広めたいと、母の手記をブログに載せたいと言う事で、知り合いのイギリス人にたすけてもらって展開した。
わたし自身4年前に日本語のブログを立ち上げ、手記を掲載、最近英語でも作った。

聞いた人は22万人、外国人3万人 毎日やっていたらそうなった。
ごく最近 アメリカ人が私のことを知ってほしいと言う事で、夫婦で核廃絶のドキュメンタリーを(20分間)作って、日本の大学とアメリカの大学で上映活動をやっている。(資金は寄付で賄う)
中国人の留学生が、中国の人にも読ませたいと、半年前中国語にして、作ってくれた。
チェコの人もチェコ語に現在翻訳中です。
外国人が知りたいこと 
①残留放射線がいつまで残ったか。 
②本当のアメリカの核を使った意図、目的、何故広島か。   
③アメリカ、アメリカ人に対して日本人、広島の人、被爆者、私がどういう感情を持っているか。
外国人の質問は鋭い、かなり勉強しないと、説得できない。

噂を聞いたりして、今10人になる。 最近若い人が入ってきて嬉しい。
フラインス人の留学生も参加してきている。
前よりも元気になったと言われる。
100%私の考えで出来るので、ストレスは無いし。
同じ内容でも、自分で読んで理解するのと、体験者、被爆者の生の声で聞くのは全然違う、心に響く、文字だけ読んだのでは心には響かない。
高い望みを掲げるとしんどい、できること、やりたいことを無理なくやるのが、長続きする。
義務感はそんなにない。 自分がやりたいことをやっている。 無理があると長続きしない。











2014年8月5日火曜日

実松克義(立教大学名誉教授) ・中米、南米の古代文明に魅かれて(2)

実松克義(立教大学名誉教授)  中米、南米の古代文明に魅かれて(2)
今日は、南米、アマゾン流域に残された文明の話です。
マヤ文明と距離的に近いと言う事もあるし、マヤ文明の調査が一段落したあたりから、次の目標として、アンデス地域に行ってみようと1997年の終わりごろに思いました。 
アンデス地域のシャーマンはどんな風なんだろうと、世界観、伝統、そういうものを知りたいと思いました。
アマゾン川、調べたところ、源流がペルーの南のミスミ山であることが判り、そこから起算すると6800kmぐらいになり、ナイル川より100kmぐらい長いと言う事が最近わかった。
(今まではナイル川が世界最長となっていた)
河川流域の広さは700万平方km弱、アメリカ合衆国と同じぐらいの広さになる。
ジャングルに覆われていて、よくわからないところがあるが、調査が進行しつつあり、かつてはこの地域はかなり高い人口密度を持つ地域だと言う事が判りつつある。
調査に依ることと、開発が進むとそれまでジャングルに覆われていたが、下に隠れていた模様が衛星写真で見つかったりして、人工的な模様ではないかと言う事になり、徐々に判ってきた。

一番有名なのがテラプレタ (ポルトガル語で黒い土)人工の土壌が存在する地域がかなりある。 
アマゾン流域の10%~15%は人工の土壌 テラプレタ  黒い、褐色の土壌 肥沃な土壌をつくって、其れを増やした形跡があり、そこで農業をやっていた。
(もともとは酸性土で赤い土で農業には不適)
いろんなものを混ぜて意図的に作った形跡があります。(科学的な方法)
ブラジルを中心に分布している。 ブラジル、アメリカで研究が進んでいる。
テラプレタ 2種類ある ①テラプレタ 真黒な土 ②テラムラータ やや褐色の土 
堆肥的なもの、排泄物、残飯を土にまいて、土壌が肥沃になってゆく。
本格的に広い地域に渡って、人工土壌を造ろうと、人工的に森を焼いて、炭を作って、熱帯の栄養価の低い処にまいて、肥沃にした。(テラムラータ)
アマゾン全域にわたって分布している。

アマゾン文明 13世紀~14世紀に滅びてゆく。
熱帯雨林だけではなくて、それと同じぐらいの面積の農耕地が存在していた可能性が高い。
衰退と共に農耕地が放棄されて、あっという間にジャングルに覆われてしまう。
マヤでも同じで、今はジャングルの中にしかない。
日本ボリビア合同学術調査プロジェクト 2005年から実際に始まって、2009年に終了した。
モホス古代文化 ボリビアの北東部 アマゾンの上流域 モホス大平原 南米で3番目に広く、ひろさが25万平方km 日本の本州と同じぐらい。 緩やかな扇状地。
古代文化の痕跡が残されていて、そこの一部を調査した。
2000年にこの文化があることを知った。
準備等があり、実際には2005年に調査を開始した。
建造物は無く、全ては土と水によって作られている。

テラプレン ナスカの地上絵に似たところがあるが、堤防、道の跡、水を制御するためのもの。
高さ2~3mぐらいでまっすぐで、長いものだと10数kmのものも発見されている。
全長は恐らく1万kmぐらいになるのではないかと思う。
それ以外に運河網  物凄い数の運河網 全長が1万km以上  
毛細血管の様に張り巡らされている。
運河は実際に交通網として使うのと、灌漑する施設として利用する。
定期的に氾濫するので、巨大な氾濫湖が出来てしまうので、運河と、高められた耕地が交互に在って、一つの模様を造っている。
高められたところに農作物を栽培して、その横に掘り下げた運河、灌漑用水、排水路が存在して、独特な工夫で古代モホス人が農業をやっていたようだ。
モホスだけで、少なくとも数100万人、1000万人の人口があった可能性がある。

痕跡の広大さ、居住地 (ロマ) 高められている処 2万個ぐらいある。
直径が10数mから1kmの広さの巨大なものがある。  
高さは最大で23mのものが見つかっている。
1年目に試掘、2年目に場所を変えてロマ・チョコラタリトで 中規模のロマを3年かけて発屈した。
土器が一番出てくる。 人骨も出てくる。 
かめ棺(直径70~80cm 高さも同じぐらい)、直葬のもの。(土葬)
複数の人骨が入ってるので、一度どこかに放置して白骨化したものを入れたのではないか。
この文化が滅びたのは西暦1300年前後。
一番古いのは、西暦1年ぐらいのものが見られる。

古代モホス大平原 非常に人口の多い社会が存在して、かなり高度な文化を持っていた。
土器文化、宗教文化を作り上げていた。
アンデスからは距離が離れているが、そこにもアンデス文明の影響がみられる。
アンデスとアマゾンは繋がっていた可能性がある。(行き来していた可能性はある)
一番驚嘆するのは、人造湖だと思う。
2000個ぐらい存在する。 最大のものは20km、幅10km
北東、南西の同じ方向を向いている。(理由は判らない) 
その方向にオリオン座があるので農業との関係があるのかもしれない。
2007,2008年 雨期に大氾濫している。 深いところは10m テラプレン ロマも水没してしまった。

西暦1300年前後に突然姿を消してしまうが、旱魃、大洪水などが考えられるが、旱魃ではないかと思われて、ロマが放棄されて、依り良いところを求めて、移動せざるを得なかったのではないか?
文明の、あるパターンがあって、滅亡の直前に急激に規模が大きくなる。
マヤ、アンデスでも言えるし、アマゾンの場合でも恐らくそういう事が起きた可能性がある。
食料生産の技術が革新的に進む→大量食料の生産が可能→人口が増える→もろくなる、滅亡しやすくなる→大干ばつ 大量に死者が出る。 
疫病なども起き、悪循環が起きやすくなり、そういったことが起きた可能性はある。

現在のアンデス文化 シャーマニズムを調べると、古代アマゾンの影がある。
チチカカ湖の南のほう、ボリビア領 古代ティワナク文化の遺跡が残されている。
最初の発祥は紀元前1600年  段々大きくなっていって、最終的に滅亡するのは西暦1280年前後だが、大干ばつで滅亡する。
古代ティワナク文化はアマゾンの文明の影響を受けている。
土器に古代の王をかたどったものがあり。口にボタンみたいなものが、下唇に付けた物があるが、パラグアイのグアラニー族が存在するが、グアラニー族の習慣の中にも残されている。
アンデス地域とアマゾン地域の中間地帯の発掘をすると、土器が出てくるが、最初の層はスペインの植民地時代の土器、その下はインカ時代の土器、その下はティワナクの土器、一番下の層からはアマゾンの土器が出てくる。
行き来があったことを証明する様な物が残されている。
アンデス文化の起源はアマゾンではないだろうかと言う気がして、始めた。
エル・ドラード伝説 スペイン人は黄金を求めてインカを征服、アマゾンにも入り込んでいった。
インカの伝説の中にも古代アマゾンに存在した非常に大きな古代帝国の話がある。
そういう風にして繋がっている。

アマゾン流域では、一時期は毎年四国に相当する面積の熱帯雨林が破壊されてきた。
アクレ州 リオブランコの街の近辺で物凄い数の地上絵が見つかった。
土地改良に森林を焼いて炭で土地改良を行ったようだが、やり過ぎてしまった可能性はある。
マヤも狭い地域で、大きな人口密度を持つメガロポリスを作り上げていた。
周りの雨林は全部消滅してしまって、残るのは農耕地のみで有った可能性は高い、最後には大崩壊を起こして文明が崩落した可能性はある。
アンデス文明に関しては、自然の破壊をやり過ぎた為に文明が滅びたと言う事はないと思う。
厳しい気候環境なので、自然が人間の膨張に歯止めをかけていたと言う事はあると思う。
自然の恵みに対する感謝を忘れないという儀式を定期的にやっている様で、まともな文明で有り続けた。
アマゾン文化は、乱開発をし過ぎたために、文明が崩壊してしまったと言う事はあり得る。
人間の業の深さ、人間は一度何かを始めると、判っていても最後までやめられない、滅びるまでやってしまうという事は有り得る。



2014年8月4日月曜日

実松克義(立教大学名誉教授) ・中米、南米の古代文明に魅かれて(1)

実松克義(立教大学名誉教授)  中米、南米の古代文明に魅かれて(1)
日本大学文理学部地理学科を卒業後、カンザス大学大学院修士課程を修了しました。
立教大学異文化コミュニケーション学部の教授を経て、現在は名誉教授です。
専門は宗教人類学及び英語教育学で、ライフワークとして、中米のグアテマラを中心としたマヤ文明シャーマン、及び南米のアンデス、アマゾン地域の古代文明の研究のフィールドワークを行ってきました。
マヤ文明の伝統を受け継ぐ、現代のシャーマンとの対話を中心に伺います。

宗教人類学 基本的には文化人類学で宗教にフォーカスした学問領域です。
古代マヤ文明は、メキシコの南、ユカタン半島、グアテマラ、ベリーズ、中心がグアテマラ。
特にグアテマラの南西部高地にマヤ民族がたくさん住んでいて、昔からの伝統が守られている。
伝統の継承者、キチェー語(マヤ民族は全部で30ぐらいあるが、最大のマヤ民族がキチェー族と呼ばれ、そこで話される言葉)でシャーマンのことを、アッハキッヒという。 光の人、光を導く人といわれる。
最大の伝統がマヤのカレンダーです。
マヤ文明は先古典期、古典期、後古典期 3つに分けられるが、先古典期は紀元前2000年ぐらいには生じたのではないかと言われる。
西暦200年、250年ぐらいに一段落して、次の古典期、古典期マヤの時代になる。
古典期マヤが終わるのが西暦900年ぐらいです。(古典期マヤの崩壊と言われる)
マヤ文明はほとんど全滅に近い状態になるが、その後復活して後古典期と言う時代、最後の輝きを見せる。
最終的に滅びるのが16世紀の初め。  グアテマラでは1524年になる
スペイン人の征服、全面的に征服される。

最初、20代の初めにある本を読んで、其れがきっかけになる。
1960年代の終わりから70年代に、カルロス・カスタネダが、当時のアメリカの若者を虜にした本を書くが、本の主人公がドン・ファン・マトゥスというネーティブアメリカンのシャーマンで、大変な智慧の持ち主、その本を読んで感銘して、シャーマンに会ってみたいと思った。
カンザス大学の文化人類学の学科に所属した。
(シャーマンに逢うきっかけがあるのではないかと思ったが、会う機会はなかった)
本の名前は 「ドンファンの教え」「分離された現実」「イクストランへの旅」 この三冊を日本で読んで、目からうろこが落ちるように感じた。(こういう世界があるのかと)
シャーマンの世界に対する驚愕。
1990年代 マヤ文明 の研究をする。
カンザス大学に入学し文化人類学の学科にはいったが、途中から魅力を感じなくなって、将来どうしようかと思って、別の道に進んで英語教育法でマスターを取って、日本に帰ってきて暫く英語を教えていた。
1990年4月に立教大学に赴任して、昔の興味が復活した。

セントトマス教会のなかで儀式をするシャーマン。
現在残されているマヤ最大の文書 ドキュメントがある。
ポポル・ヴフ」 聖なる時間の書  18紀の初めにこの教会に赴任したフランシスコ派の修道士、フランシスコ・ヒメネスと言う人がいて、あるときに偶然ポポル・ヴフの原稿を見せられて、内容を一読して、驚嘆してスペイン語に訳す。(キチェー語と対訳になっている)
複数のものが後で編纂された様な文章で、前半、後半に別れていて、前半は古代マヤの神話、創世神話、後半はマヤ、キチェー族の歴史を扱ったもので、二つが連続性のあるものとして、結びつけられていて、非常に複雑で読み解くのに大変な本です。
キチェー語をスペイン語に訳す時に間違いがあったようだ。

キチェー人が書いた物を、ヒメネスが見つけて訳したのではなく、間違いの多さ、その他のことを考えると、オリジナルが残っていないので、意図的に破棄したか、無くしたか、最初から存在しなかったのか、3つが考えられる。
長老的な人、生き字引的な人から、いろんなことを聞きだして、ヒメネスが纏めた可能性もある。(1701年から1702年)  神話として重大な神話になっている。

シャーマンは教会の中でも儀式をやっている。
シャーマンとの出会い、カトリックの教会なんだけれどもカトリックそのものではない、カトリック教会の床にろうそくが立てられていて、松の枝葉が敷き詰められていて、依頼人がいてシャーマンが祈りの言葉を捧げて儀式をやっているという、異様な雰囲気です。
依頼を受けて、目的に従って儀式をやるという事です。
依頼の内容は、病気を治すとか、幸福、安全を祈願するとか色々あるようです。
中南米のカトリックは純粋なカトリックではない。
ネーティブな伝統があり、それと渾然一体となっている。
(日本人に似ているところがある 日本では神棚、仏壇が渾然とある)

マヤの聖地 の洞窟の中で儀式を見せてもらったが、儀式が終わった後、(真夜中)
彼の特技、悪いものを身体のなかから、吸い出すことができる、吸い出したものを口の中で固形化して、ペッと吐き出す、それが髪の毛、馬の骨、コイン、ガラスのかけらだったりする。
吸うときに、患部にプラスチックの筒を当てて、口から吸う。
私も足の甲を痛めていて、やってもらって、2個ガラスの破片を口から出した。
心持良くなったのかな、と言う様な感じだった。  患部から出てくるが、体験をして驚いた。
依頼人が若い男女のカップルの場合 女性の体内から15,6個いろんなものが出てくる、さすがに驚いた。

印象に残っているシャーマン 穏やかな印象的なシャーマンに出会った。
マヤのカレンダーを使って、占いをする、神託を得る。  
キリスト教とのシンクレティズム 実力のある人でメキシコあたりから依頼人が来ていると言う事だった。
いろんな媒体を使うが、非常に印象的な人だった。
マヤ文明は16世紀にスペイン人によって滅ぼされるが、その時にマヤの伝統も変容した。
現在のこっている伝統は、かなりカトリックの影響を受けて歴史的に変わっていった伝統ですね。
でも変わらない部分があり、それがカレンダーです。
現在残されている伝統を頼りに時代をさかのぼっていって、オリジナルな意味でのマヤの伝統は何だったんだろうと、古代にさかのぼって行った。

マヤ人は優れた天文学者でした。  マヤ人は太陽の公転周期を365.2420日で計算しているが、現在は365.2422日で計算しているので、ほとんど同じ。
我々が使っているグレゴリオ暦よりも正確。
マヤ人は色々カレンダーを作っているが、一番重要なカレンダーが3つある。
①長期計算法  ②太陽暦  ③神聖暦(260日周期) マヤの宗教的な目的のために使われてきたカレンダー。
マヤ人はこの3つを複合的に使った形跡がある。
太陽暦、神聖歴(一番重要)は同時に使われていた。  20日×13サイクル=260日
20日 マヤ人は20進法を使った。 
人間の手足の指の合計が20  20は男性、13は女性を表している。
20×13=260 260日は女性の妊娠期間  人間そのものを表しているもの。
人間の生命の神秘を表したものと言われている。

20は、20人の日の神(ナワール)  時間の神が日替わりで管理している。
交代で管理する事に依って、時間が前に進む、世界が動く、そういう発想のもとに作られている。
4000年ぐらい前に作られたと思うが、神聖歴は現在でも伝統の中に残されている。
1998年 13回に分けて講演会を行った。
その一つに招かれた。  テーマが環境問題だった。 日本の環境問題を話した。
先住民族の社会、文化の中に行くと、宗教は限りなく文化に近い。 
古代マヤの伝統の研究、「ポポル・ヴフ」(古代マヤの神話) に基ずいてマヤの古代伝統を再現して、現代に復活させようという意図で作られた研究所での討論会。
政治、世界情勢、環境、宗教、教育など色々あり、13の異なったテーマの討論会。

魔術、呪術にはまっていて、本来の意味でのマヤの伝統を見失っていると主催者は嘆いていた。
本来のマヤの伝統は、呪術ではなくてマヤ科学であると、それを何とかして復元しようと努力している。




















2014年8月3日日曜日

保坂正康(作家)        ・昭和史を味わう(第5回)

保坂正康(作家) 昭和史を味わう(第5回) 
 昭和初期の子供達の暮らし 学校生活 夏休み
昭和一桁から昭和11年まで
都会の子供は、自分たちの住んでいる長屋、住環境の中で鬼ごっこをしたり、縄跳びしたり、郊外に出て行って、自然と触れていた。
紙芝居がこの頃はやってくる。 黄金バット、とかのらくろ とか文化に触れた。
田舎では本当に自然と触れることができた。  
川遊び、水遊び、動物と共生するとか、自然と触れ合う機会があった。
老人と昔話を聞くと言う、事が行われた。
昭和6年9月 満州事変  少しずつ戦争の影がはいってくる。  戦争ごっこが入ってくる。

昭和10年ごろ ラジオ番組 「のぞきメガネ」 ヨーロッパの風景が見えてきたりする。
雨の音など 効果音として作られていた。
童話、空想物語 作文、綴り方  「赤い鳥」 鈴木三重吉が作った雑誌(大正~)
新しい綴り方を通しての人間教育を進めた。
夏目漱石の門下生も協力した、レベルの高い雑誌だった。
綴り方を読むとそれぞれの中に光っている表現がある、其れは大人ができない子供の表現、其れを大事にしていかなければいけない。 人間としての広がりを持ってゆく。(鈴木談)

豊田正子さんは「赤い鳥」の綴り方で特選に度々なるが、後に作家になる。
鈴木三重吉も絶唱している。
豊田さんは職人の多い葛飾区に住んでいた。
父はブリキ職人、2人の弟と暮らしていた。
「火事」という題名の綴り方 特選になる。(小学6年生の時)  
表現が素晴らしい。 文章の写生。 描写の凄さ。
鋭い感性を持った人。
「うさぎ」、「赤い鳥」の綴り方で初入選した綴り方 (小学4年生の時)
キョロキョロ、モグモグとか擬態語が効果的に使いこなされている。
物を見る目が確か。 舞台になったり、映画化されたりしている。

昭和8年国定教科書の改定  
大正デモクラシーで、個人、人間と言うものはどういう人生を過ごすのか、人間、個人を見つめるような教育、昭和8年国定教科書の改定で国家が個人の上に立つ、国家に忠誠を誓う個人に傾斜してゆく。
作文は子供の世界では、ちょっと違っていた。(自由な雰囲気)
段々軍事が前面に出てくる。
陸軍省が文部省などに、軍事の事について教えてくれと、強い要望を出している。
教科書が軍事的に傾いてゆく。
昭和11年8月 ベルリンオリンピック  ヒットラーの時代  開会宣言もヒットラーが行う。
女子200m 平泳ぎ  「前畑頑張れ」実況放送  「頑張れ」が35回 「勝った」が15回 連呼。
男子200m 平泳ぎ  葉室鐵夫選手がやはり金メダルを取っている。

歌「ペチカ」、「二人は若い」、「小さな喫茶店」
昭和8年 防空演習 昭和9年 昭和維新  昭和10年 国体明徴  昭和11年 準戦時体制
と言う言葉がはやるようになる。
軍事がすこしずつ生活に入ってくる時代。









2014年8月2日土曜日

竹宮恵子(漫画家)       ・マンガと歩み、マンガの未来をつくる

竹宮恵子(漫画家、京都精華大学学長)  マンガと歩み、マンガの未来をつくる
64歳 徳島市生まれ 17歳で少女漫画雑誌の新人賞に佳作入選し、デビュー、SF、ファンタジー歴史大作、コメディーと多彩なジャンルで活躍、未来の地球の環境破壊とコンピューターによる、管理社会を描いた地球へ…(テライ) 小年の同性愛を描いた風と木の詩を昭和50年代に発表するなど常に時代を先取りした作品を発表してきました。
平成12年には日本で最初の漫画学科が、京都精華大学に開設され、専任教授として招かれました。
漫画学科から、漫画学部になって、学部長になり、今春プロの漫画家として、全国で初めて学長に就任しました。
ご自身の漫画の製作をほとんど休んでまで教育に打ち込んでいる竹宮さんに、半生を振り返っていただくとともに、世界から注目されるまでになった、日本の漫画の担い手をどう育てていこうとしているのか伺いました。

京都精華大学に5つの学部があり、その中に漫画学部がある。 漫画学部全体で800名
漫画学科、アニメーション学科があり、漫画プロデュース学科がある。(編集者むけ)
今も基本概論の講義はやっている。 漫画学部のベースになっている。
漫画家になってしまうと、当然の様に判っている大事なことは分かっているが、皆共通している。
皆同じことを言うので、ダブらないようにしてくれたら、もっといいことがいっぱい聞けるのではないかと、交通整理を始めて、カリキュラムを作ることが始まった。

母は子供にかまけない人だったので、ほったらかされて、一人で育つ時間が多くて、そこで出会ったのが漫画だった。
貸本屋に入り浸っているような状態でした。
最初は絵をまねると言う事から始めて、別のことがしたくなって、キャラクターを見ないで書くようになって、自分一人で書くキャラクターを書けばいいと言う事で、小学生の高学年まで続けた。
動作が繋がることがわかって、次にストーリーの漫画を書き始めたのは、中学校。
自分の感情のままにぶつけて書いていることが恥ずかしいので、人には見せなかった。
自分の中身がそこに出てくるという事の大事な部分では無いかと思う。

「漫画家入門」 石の森章太郎の本が出て、其れを見て、自分が漫画が好きで、職業として成り立つのかと言う事を知った。
どうやって実現していくのかと言う、一つの例として、自分のことを書いていた。
「漫画家入門」の続遍が出て、仲間が全国に沢山いる事が判る。
自分でもできるのではないかと思って、石の森先生にファンレターを送った。
仲間がいないので、是非友人がほしいという事を伝えた。
同人の人が見るだけの、肉筆回覧誌 10人ぐらいの人がやっていた。
石の森先生がその人たちに手紙を渡して貰って、仲間に入れてもらった。
17歳の時にマーガレット新人賞佳作に入選、デビューと成る。
徳島大学教育学部美術学科に入学する。  美術の先生になろうとした。
漫画家が海のものとも山のものとも分からない時代だったので、母からもたしなまれて。
途中で出来るだけ早く、仕事ができる状態になれば東京で仕事をしなければ、という想いがあり、教育実習の前に何とかしようと思った。(人前でしゃべるのが嫌だった)

中途退学して、同じ漫画家の萩尾 望都さんと同居するようになる。
大島 弓子山岸 凉子さんたちが集まってきて、大泉サロンと言われるようになった。
昭和24年前後に生まれたメンバーなので、花の24年組と言われて、現代の少女漫画を確立してゆく事になる。
萩尾さんのペンフレンドだった増山法恵(私の親友になった人)との出会いもあり、3人で同居生活しないかとの話があり、「ときわ荘」みたいなものにできないかと、考えた。
そこから大泉サロンと言う名前を付けて、始めた。
20代で風と木の詩 少年の同性愛をえがいたもの。  昭和51年
寺山修二 河合隼雄さんらが絶賛した。
読者は受け入れる気持ちが出来ていた。
50ページぐらいはすでに書いてあり、連載が得られるまで時間を待った。(7年間かかった)

肉体的愛情と言うものを話すときには、悪い部分を書かないで、語るわけにはいかないので、其れを知らないで、大人になってしまうのは良くないと、わたし自身思ったので、其れを知ってもらいたかったから、悪いものも書くが理解してもらいたかったので、書くと言うつもりでいた。
受け入れられて、代表作になった。
昭和52年 地球へ…(テラエ)  環境破壊で住めなくなった地球をでて、宇宙に散った人類が、今度は地球に戻ってこようとする話。
二度と環境破壊をしないように、コンピューターが人間を管理する社会。
赤ちゃんは計画的に工場の様なところで、作られる、従順な大人になってゆく。
環境破壊が起きてゆくと、人間はそれを止められるかと言う事が、私の最初のイメージ。
人間は止められないだろうと思った。
人間の悪い部分、自分一人がリードしてるわけでないので、責任を持たない。(集合体)

誰も書いていないものを書く。
深いメッセージが込められている。
人間が、集団の中に入った時に、自分自身の考えで、その集団から抜け出すことが非常に至難の業だと言う事を強く感じていて、人間のコントロールができるとしたら、どういうところからだろうと考えた。
漫画を書く技術を学ぶことが、漫画を学ぶ事になるが、漫画で学ぶと言う事は、漫画を書かなければいけないので、他のことを学ばなくてはいけない。 深く追及してゆく事になる。

バブルが終わったころ、漫画界は隆盛で出せば売れる時代だったが、売れるものしか作らないという形についついなってしまっていて、編集者も売れるもの探しになって行って、漫画の編集のこころいきはどうなってしまったのか、と言う気持ちがあったし、教育的漫画を大事に育てた編集者もいっぱいいたが、どこか崩れていませんかと言うのが、疑問だった。
色々欠点とカを指導する編集者が沢山いたが、それがないと言う事を知って、利益に繋がらないことを教える処も必要なのではないかと、思っていたら、大学からの話があり、大学で教えてみようかなと思った。

集団的徒弟制、学生70名に対して教員8名でみる。
沢山の先生たちから、自分の作品について意見を聞ける。
同じテーマでも別の先生の意見を聞ける。
学生としてはいろんな意見を聞いた方がいい。
漫画家は違う価値観があることを知っているので、其れを学生たちに判らせなくてはいけない。
違う価値観の人がNOといっても、其れは気にする必要がないと言う事です。
本人が何をしたいのか、を必ず聞きだす事、書きたいものを指導すると言うのは、教える側にとって最初迷いがあった、プロだからここを直せば良くなることは簡単に判るが、其れを教えてしまっては
その人の作品にはならないと言う事を感じるので、ここまでやっていいのかなあと感じる。
だから相手が何をしたいのか、によって指導した方がいい。
その人にとっても意味のあることになるので。

成功するためには、伝えたいことがあるかどうか、其れを持っているかどうか。
日本の漫画の魅力は?
絵自体が、云いたいことが伝えること、ができる。  伝えられた瞬間に、凄く相手が感動する、そこが見事だと感じる。
言葉が全く判らないのに、ストーリーが流れていることを知る、其れが日本的な作り方と、外国の人は評価してます。
漫画と言ったら日本流の書き方、アメリカなどのコミックとは違う。
絵だけを見ていても、動いている様に読み取れる。
海外の漫画は紙芝居的になっている。  セリフではなく、説明が入っている。  
その国の言葉に即して流れを造らなければだめだと教えている。
今後、世界で競争相手が増えるが、日本は勝って行ってほしい、と思っている。






2014年8月1日金曜日

中村雅俊(俳優)        ・デビュー40年いつもベストを尽くしたい

中村雅俊(俳優)   デビュー40年いつもベストを尽くしたい
宮城県女川町出身 63歳 デビュー40周年を迎える。
慶応大学を卒業して、直ぐ、TVドラマ「我ら青春」で主役デビューし、その挿入歌の「ふれあい」も歌って大ヒットしました。
その後も俳優として、歌手として活躍を続けてきました。
3年前の東日本大震災では、親族3人が犠牲になり、故郷宮城県、東北各地が大きな被害を受けたことから、中村さんはその翌月から被災地を度々訪れて、歌や語りでの支援活動をしています。
デビューから40周年の今年は、7月に「ワスレナイ」という題のアルバムを出し、その中の一曲「君がいてくれたから」は深夜便の歌として今放送しています。
9月からは40周年記念ツアーも宮城県など全国各地で行う予定です。

女川町からいきなり慶応に入って、居心地の悪さを感じた。 
高校は質実剛健みたいな、男子校だった。
大学の3年くらいに俳優になろうと思った。
大学に入って外交官になろうと思って、英語をやらなければいけないと思って、英語で芝居をするドラマセクションに入った。
芝居をやっているうちに、興味を持ってきて、中途から日本語で芝居をしたいと言う気持ちになって、4年になる時に文学座の研究生の試験に受かって、4年の時はずーと文学座の研究生としてやっていた。
芝居だけやろうと思っていた。
TVの主役に抜擢される。
12月にオーディションがあって、学校の先生役だった。  其れが決まって、主役デビューとなった。

「ふれあい」の歌が売れて、1位になってしまって、急に歌番組に出ることになり、周りにブレインがいなくて、どういう格好で出たらいいかわからなくて、下駄をはいてそのままででたら受けてしまった。
俳優のむずかしさ?
数学みたいに答えが一つではないので、リアリティーがあればいいと、ずーっと戦いでした。
どういう表現をしても、リアリズムがあれば成立してしまう、しかし成立させるためには持って生まれた才能みたいなものがあったりして、いい役者さんは、生まれつき持っている雰囲気、しゃべり方、しぐさ、等が本当になにをやってもはなやか、そういう人がいるが、自分はそんなに持ってなかったと思った。
この道を選んでずーとやってゆく、と言う事に関して言うと、自分がどこら辺の才能を持って生まれているかわかるし、これは歌でも言えるし、戦いみたいなものはあった。
自分でもっとがんばらなければと、結果が出た喜びもあり、いろんなことで自分なりに成長できるところは成長してきたかなあと思います。

人に少なからず良くも悪くもいろんな影響を与えるなと、云う瞬間を垣間見て、自分がやっていることは素晴らしいことだと思う時、やってて良かったと思う。
芝居は本当に難しい、難しく考えると。
反省するときがあるが、根っから楽天的なんで、まあ次の時にやろうと切り替えが早い。
高校時代はフォークソング時代で、大学では時間があったので、ギターで曲を作ったりもした。
役者は役者で100%、歌手は歌手で100%と言う気持ちでやってきた。
ツアーをずーとやってきていて、1400回はやっている。
連続ドラマも33回主演をやっている。
小椋圭山崎ハコ・・・ 音楽的才能のある方達との交流があって、本当にそうそうたるアーティストの人達が曲を書いてくれるので、歌手としてのキャリアの中では凄く恵まれていると思う。

アメリカ映画に挑戦、BSで報道キャスター 新しい挑戦
奈良橋陽子さんが演出をやっていて、音楽的なブレインになってくれて付き合いが長かった。
7~8年前に、オーディションを受けてみないかと云われて、受けた。
ユタ州で撮影したが、通訳なしだった。
アメリカ人のスタッフに囲まれて、仕事をするというのも、いつになくエキサイティングな感じがしていいなあと思いました、いい刺激になりました。
英語自体も取り組み方が違うし、日常会話と違って通じればいいというわけではなくて、パーフェクトな英語をしゃべらないといけないので、結構大変です。  でも自分では楽しい。

報道キャスター  結構いろいろなところに行く。
頻繁に被災地には行かしてもらっている。  ひたすら政治と経済。
「被災地の未来」と言うテーマで被災地を堀り続ける、レポートし続けるという事をやらさせてもらっている。
甘利さんとか、小野寺防衛大臣が隣りでしゃべるので、勉強しなければいけなくて、結構大変です。
最近になって、経済のことも勉強するようになって、すこしずつ判る様になった。
東日本大震災 地震があった時は駅のホームでドラマの撮影をしていた。
親戚が3人亡くなった。  チリ地震では山に逃げて難を逃れたが、今回の地震、津波はその時とは全然違っている。
陸前高田、大槻町、女川は人口の1割近くが亡くなって、死亡率は高かった。
最初に7月に入った時は吃驚した、瓦礫だらけで、あんな景色は無くて、言葉もなかった。

義援金だとか、自分も行って、歌ったり、話をさせてもらったりした。
震災で、明日何が起こるかわからない、明日の事よりも、今、今日の事がどれだけ真剣に精一杯生きられるか、と言う事を強く考えるようになりました。
ベストを尽くす、と言う言葉が気になるようになった。
本当にベストを尽くすと言う事は大変なんだなあと思うし、昔よりは逆に努力するようになった。
15年ぶりにニューアルバム。(新しい曲を中心)
震災に対しての自分の支援活動、歌の部分でやってきたので、ここ3年半の自分の活動を纏めてみたいと言う様なところがあったので、うたは裏に震災のキーワードはある。
「ワスレナイ」 自分のテーマは忘れさせない。
「君がいてくれたから」 いろんな解釈をしてもらっていいと思う。 詩が先に出来ている曲。
60歳過ぎても意外と元気で、まだまだやることも一杯有るんだなあと思って、走り続けてきたけど継続して、遅くは成るかも知れないが、走り続けて行かなくてはいけないのかなあと思います。