2014年8月11日月曜日

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)

雨宮剛(青山学院大学名誉教授)  我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。
昭和32年青山学院大学文学部を卒業、その後アメリカにわたってコロンビア大学大学院修士課程を卒業されました。
雨宮さんは永年戦争を語り継ぐ、草の根平和講演会を主催したり、今年20年目を迎えた英連邦戦没捕虜追悼礼拝の呼びかけ人をしたりして、平和学習活動に取り組んできました。
雨宮さんを平和と和解の活動へと突き動かしたのは、高校生の時に出会ったフィリピンの戦争体験の話でした。
その後英語教授法を身につけるためアメリカに留学して、留学先で経済的な援助を申し出てくれたアメリカ人と出会います。
雨宮さんの人生は人との出会いと支えがあり、信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開けると言う想いを強くしたと言います。

英連邦戦没捕虜追悼礼拝 20回やってきた。
連合国、英連邦の武器をすててしまった捕虜の方々に、あんな残虐な行為をしてしまったことに何としても、形に表して謝罪をし、許しを請い、和解をしたいと言う想いがすべてでした。
1995年、戦後50年を機に追悼礼拝をすることになった。 どうしてゆくか計画はなかった。
永瀬先生、斎藤先生と発起人と成って始めた。  
何人集まるか判らなかったが、100人以上集まった。
反応も凄く良くて、結局毎年することになって、20年 信じられません、本当に嬉しいです。
永瀬隆さん タイへの戦争についての謝罪、お世話になった方のお礼とか支援活動をした。
斎藤和明さん 国際キリスト教大学の副学長になった方。 捕虜文学 捕虜の手記などを研究していた。 (二人とも亡くなってしまった)
「絶対戦争を起こさないでほしい」と言う長瀬先生の思いがあり、戦争の謝罪と償いのために生まれてきた様な人で、政府がやるべきことを全部自分でなさった。
相当の反対があったが、本当に意志の強い権力に抵抗される精神は極めて旺盛だった。

信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける、との想い。  数々の出会いがある。
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。 9人兄弟
4人の兄が亡くなっている。 (未熟児、病気などで)
開戦の時、終戦の日の事はよく覚えている。
日本が負けた事を聞いて一日中泣いていた。  
日本は絶対に負ける事のない国であると、神州不滅。 そういう信念を叩きこまれていた洗脳された国民学校の生徒だった。  100%軍国少年だった。
アメリカ人は野蛮だから殺されると思い、毒を用意して山に逃げようと考えていた。
国民幼年学校 憧れていてどうしても行きたかったが、これで幼年学校にも行けなくなってしまったと言う寂しさがあった。
社会が大きく変わって、戦時中教えられた事、叩きこまれたことが全部ウソだったと言う事を知った。  絶望です。 
戦争は嘘の塊である、為政者は嘘で国民を戦争に駆り立てた、どうしても戦争に関心を持たざるを得なかった。  私の戦後の人生の原点になりました。

高等学校2年生の時に三河で開かれた国際キリスト教ワークキャンプに参加した。
フィリピンの教会代表アモール・T・バンダ氏に出会って、(牧師さんの息子24,5歳)日本軍がフィリピンで行った残虐行為の事実を皆さんにお知らせし、それを我々は恨んではいない、許すと言う平和と和解のメセージを持って、自分は来た、と言う。
その事に私は驚いた。 肉親が被害を被っている犠牲者。
日本軍の残虐行為を初めて知らされて、それが私の戦争観をすっかり変えた。
私は自分を戦争の被害者だと思っていたが、ところが加害者でもあったと、そういった方々が無数にいらしゃると云う事、私の戦争認識を変えたのは、バンダさんの話を通しての事です。
私たちは抱き合って泣き崩れました。 
それが私の反戦、平和、和解などの運動の最も深い原点となりました。
私は謝罪文を書こうと、残虐行為を許していただきたいと、和解をしたいと、文にしてバンダさんに渡した。
それが向こうの若者の新聞にでかでかと出たらしい。 手紙が100通近く来た。
誠実に答えてくれて、君と友だちになりたい、という事に吃驚した。(憎しみの言葉は一つもなかった)

軍国少年に洗脳されたことに対して恥じた。
英語を勉強すれば、何か今後どう生きていくか、あの戦争は何だったのか、戦争に関する謎が解かるのではないかと思った。
留学の夢がかなえられた。
50通、60通の手紙をアメリカの大学に出した。
戦争体験、生い立ち、等を書いて是非アメリカの大学で勉強したい、と書いてだした。
同情して丁寧な断りが大部分から誠実な手紙が来た。 
2校は受け入れる手紙が来た。
アメリカで一番小さな戦後にできた大学のマールボロ・カレッジ  
生徒が65名 先生が16名 専任教授 非常勤を入れて25名。
学長が28歳 私の書いた手紙を見て感動して、いつでも受け入れると言う事になった。
全額奨学金を出す、但し図書館の仕事を20時間することだった。

行く段になって渡航費がない。 500ドル 貨物船でも275ドル それもなかった。
学長あてに率直に手紙を出したら、1カ月後に手紙が来て、275ドル用意したから来るようにとの事だった。
50ドルだけを持って、出掛けて、クリスマスまでは何とか節約して持ったが、全く無くなって学長に相談して、田舎なので働くところがほとんどなく、何とか高級レストランを紹介されたが、そこは厳しいとの評判のところで、どんなに苦しくてもやるしかないと思っていた。
面接を受けたが、だめだろうと思っていたら、いいよ働きなさいと云われた。

ニューヨーク、ボストンからお金持ちのスキー客がくるが、或る家族を一週間給仕しました。
一家の主が私に対して興味を持って、ここの大学に1年終わったら大学院に行って、英語を学んでもっとましな教師になりたいと言ったら、2月頃帰る時にニューヨークの私を尋ねなさいと云われた。
ニューヨークに行って、会ったら 大きな会社の副社長だった。
大学院は駄目だったといったら、どこへ行きたいのかと言われて、コロンビア大学に行きたいと言ったが、あまりにも生活費も授業料も高いので完全に諦めていたら、「いけよ、会社が全部面倒見るよ」、と言われた。
願書も責任を持つと言ってくれた。  即実行した。  信じられないことだった。
大学からも直ぐ合格通知を貰いました。 
生活費は自分で働く様に云われて、その会社の資料室、図書館で20時間働く事になる。
絶対一生忘れない、その後の活動、行動は全部感謝の念から湧き出ている。

学位を取って6月に帰ろうと思っていた。
5月ごろ副社長を訪ねた。 
お礼の言葉がないと申し上げたら、お礼は必要ない、自分と神に感謝しなさいと言われる。
君みたいな人間が日本に帰ったら、何をやるか興味があるから、1年に一回近況を報告してほしいと云われた。
事あるごとに、年に10通、15通も書きました。(論文、出版物、出来事など有った時)
ウォルターさんは2004年9月に亡くなる。
ブリジッド婦人から手紙が来る。

「夫 ウォルターの人生に対する大きなプライドは、人々が努力するのを励ますことでした。
夫はあなたがフィルピンの人々と理解を深め和解しようとなさっている全てのお仕事を非常に誇りに思っていました。
あなたの遺産は、ある意味でウォルターの遺産でもあります。
夫は第二次世界大戦でアメリカ政府が、日系アメリカ市民や日本人にしたことは間違っていたと考えていました。
それで夫はあなたの勉学を奨励する事によって、その過ちの償いをしようと努めたのでした。
あなたが夫の励ましの贈り物を受け取ってくださり、他の人々を励ますためにご自分の時間と才能を用いて、下さることに心からお礼申し上げます。 2004年9月23日」

受け取った時は衝撃でした。
最も深いところに、日本に対する戦争責任の、謝罪、償いと言う事があったと言う事を知って吃驚して、1時間ぐらい何も言えなかった。
アメリカ人でこんな考えを持っている人がいる、初めて会いました。
私の恩人がそんなに戦争を深く考えて、アメリカのやったことを深く反省してらっしゃるなんて、夢にも思わなくて、言葉を失ってしまった。

「信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開ける」
いろんなことをやってきたが、何にも初めから判ってるわけではない、これをやろうと思って苦労していると、必ず助けてくれる人が出てくる、本当に不思議です。
いつの間にかその仕事が成し終えることができる、道が開ける。