2014年9月13日土曜日

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長) ・今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(1)

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長)   今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(1)
91歳になります。 大正11年 生まれ 戦時中は海軍の大型攻撃機の操縦士として、長く厳しい戦いを生き抜いてこられました。
戦後は、操縦技術の教官として数多くの後輩を育て、赤十字飛行隊の隊長として、災害時の薬品や血液の輸送、医師や看護師の搬送などボランティアで活動されて来ました。
今も毎週日曜日には教官として操縦桿を握るという高橋さん、その言葉の端端には長い操縦士としての経験から得られた、数多くの人生のヒントが込められています。

私の場合は、大型の旅客ジェット機以外は、小型の飛行機はほとんど乗っています。
今のっているのは、セスナ、特殊なパイパーカブとかに乗っていることが多いです。
教官をやっていることと、グライダーを引っ張る事、グライダーの教官もやります。
日曜日は静岡の富士川に滑空場があるので、静岡県航空協会のグライダー、飛行機があるので、そこで飛んでいます。
普段は調布の飛行場から、頼まれた仕事で飛びます。
視力は今、メガネをかけているが、下が老眼鏡がはいっているだけで、視力は1.0あります。

飛行機との出会いは?
子供の時は飛行機に憧れていたので、おもちゃは飛行機だった。
模型飛行機屋に入り浸りで、模型飛行機を作って飛ばしていた。
4人兄弟だが直ぐ上の姉とは9歳違っていて、一番上の兄が大学を出て新聞社に勤めていて、羽田から乗せてもらったのが最初のフライトです。(小学校5年)
上から見た景色が凄く素晴らしかったので、パイロットになろうとそこで決めた。
父は医者だった。赤坂見附に高橋病院があった。 
大正12年の関東大震災で、震災にあって、大森に移って医院をやる様になる。
家から自転車で羽田飛行場に飛行機をよく見に行っていた。
C5の羽根が一枚の飛行機がありそれに魅かれた。(朝日新聞社の飛行機)

小学校2年に父親が亡くなり、一人っ子見たいに母から育てられて、何事も中庸であれと言われて育てられた。
中学に行って、3年の頃からグライダーの講習会が新聞社などで催されて、好きで参加してグライダーに乗っていた。
当時徴兵検査があり、軍隊に取られるなら、どうせなら飛行機をやってやろうと思った。
予科練で試験を受けて海軍パイロットになり、4~5年で民間に移ればいいかなと甘い考えでそう思った。
倍率は凄かったが、一生懸命勉強して予科練に受かって海軍に入ったわけです。
同期生は840人ぐらい入った。  土浦航空隊に行く。
「お前たちは国に身体を捧げてるんだから、戦争が始まれば戦わなければならない、戦死をして靖国神社に祭られることが一番名誉なことだ」、と言う様な教えの精神訓話が年中ありました。
一人へまをすれば全員が殴られるというような状況だったが、誰も辞めなかった。

予科練に入ってすぐに、大東亜戦争が始まった。
海軍だから海の上ばかり飛ぶ、ナビゲーター、無線通信者、が必要なので840人いても全部パイロットになれるわけではない。
適性検査をして、操縦はグライダーに乗っていたので問題はなかった。
しかし何故か占い師がいて、一人一人判断した。
840人の中から約200人が操縦士のコースに行った。
全員が必要なのが無線、その訓練が一番大変だった。
暗号無線が来るので、1分間に90~100文字ぐらい送信、受信をしたりする。(カンニングには便利だった)
百里が原海軍航空隊 練習用の基地だった。 
飛行場が、1000mの四角があり草っぱらで滑走路は無い。
他に筑波航空隊、矢田部航空隊 3か所あった。(操縦士の訓練の飛行場)

「赤とんぼ」(オレンジ色の複葉機)に乗り出したのが、丁度真冬の1月、2月だったので、むき出しだったので非常に寒かった。
後ろに教官がいて、30cmぐらいの棒を持っていて、頭を殴られた。
教官は戦地から帰ってきたりしている人達で、常に入れ替わって又戦地に行く様な状況で統一した教育などは無かった。
乗りにくい、着陸のしにくい飛行機、尾輪式で前が見えないので自分が色々考えながら訓練を受けたので、本当にいい教官に習った覚えが無い。
着陸するときにほんのちょっと頭を挙げるので前が見えない、そんな飛行機だった。

当時はゼロ戦が憧れだった。
艦上攻撃機、急降下爆撃機、大型機に分けられるが、当時から背が大きかったので(180cm)軍艦に2週間乗せられて、頭をぶつけ通しだったので、船の生活をしたくなかったので、大型機なら船には乗らないので、大型機を希望した。
大型機が一番撃墜される率が一番多かった。(後に判る)
攻撃機(爆撃機とは言わなかった) 魚雷を積んで、敵の船を沈めるのが目的だった。
燃料を積んだら15時間ぐらい飛べる機体だった。
魚雷攻撃がそう当たるものではない。
魚雷攻撃で巧く当たったのは、戦争初期だけの、イギリスの「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」だけが当たったでしょう。  それ以後は大型機で魚雷攻撃に行けば、何機か必ずやられた。

まっすぐ飛んできて、魚雷を落とすので、守る方からすると守りやすいこともあるが、日本の飛行機は防弾設備が無い。(それを犠牲にして性能を良くしている  終戦までそうです)
一式陸上攻撃機は羽根の中がほとんど燃料タンクですから、燃料が漏れると直ぐに排気ガスから火がついて「ワンショット ライター」と言われる様に、直ぐ火が付く。
敵の船の1000m前で魚雷を落とせと言われているが、もう船のすぐ前。
弾をよける方法はマニュアルには書いてなくて、先輩から甲板よりも下を飛べと言われて、それが一番よけられる方法だった。(大砲は下の方向には向けられないので)
高度計は気圧計なんです。  
基地から何時間も飛んでゆくと気圧が違うので、高度計がまともに指していない。
戦場につく20分前に海面すれすれにして、しぶきがあがったところまで降りて、そこで高度計をゼロにする、そういったことまでしていた。

魚雷攻撃に行くと、半分は帰ってこなかった。
当たっても1割か2割しかあったっていなかったと思う。
火だるまになったら、敵艦に突っ込もうとの想いがあったが、私が他の乗務員の命を預かってるようなものなので、どうしても乗っている連中を殺したくないと思っていた。
攻撃の時点で「やばい」と思う様な人は精神的に負けている人、遺書を書く様な人、身の回りを綺麗にする人は大概帰ってこない場合が多い。
運は付いてくるものではない。
戦争が終わって、これで命が助かったなと思ったのが本音だった。
暫くしてから飛べなくなったなと、寂しかった。
家は神奈川県の鵠沼に疎開していた。
終戦は北海道の女満別の近くにいた。
大型機だったので、20~30人は乗れるので、8月24日に復員する兵隊を乗せて松島まで飛んで、そこから帰ってきた。(飛行機は8月24日までしか飛ぶことができなかった)