2014年9月20日土曜日

下稲葉康之(ホスピス医・牧師)  ・人生最後のもてなしを

下稲葉康之(ホスピス医・牧師)     人生最後のもてなしを
75歳 日本で最大規模のホスピス病棟を持つ福岡県の病院の名誉ホスピス長です。
ホスピス病棟とは末期癌の患者に苦痛を和らげる手立てを施す専門の病棟です。
下稲葉さんは30年以上に渡ってホスピスに取り組み患者自身の体痛みはもちろんのこと、病気がもたらす家族の精神的な苦痛にまで心を配ってきました。
下稲葉さんが働くホスピス病棟では、患者さんが入院している平均日数40日、誰もが避けては通れない死が目前に迫った時、人はどのようになるのでしょうか。
キリスト信仰を土台に死に直面している患者や、家族と向き合ってきた下稲葉さんに、ホスピスでの日々を伺います。

私は一人の人間で聖書の言葉に従うと、罪人で、少しでもお役に立つとか輝くとかができるとすれば、私を心にとめて愛してくださっている神様の愛によって生かされるという事が、突き詰めていくと私の支えになっていると思います。
ホスピスと言う概念、場所をあらわさない、ホスピスはケアの内容、その実質を著わす言葉、建物が無くても施設が無くてもホスピスを提供できる。
ラテン語のHospitiumHospiceHospitalHospitality  「温かいもてなし」と言う意味がある。
人を温かく持てなす。 病気を持って人生最後の日々を過ごすその人自身をお世話をするという事が物凄く大事なことになるし、身体とこころとその人が持つあらゆる痛みにかかわるのがホスピスケアだと思います。

4つの痛み 
①癌性疼痛(身体の身体的苦痛)  
②迫りくる死をしょいこんでいるので、不安、恐怖 (精神的苦痛)
③患者さんが亡くなる時、最も親しい人間関係(夫婦、親子) 激しくゆすぶられて壊れよいうとする
 (親しい人間関係が脅かされるという苦痛  社会的苦痛)
④自分の死に向き合う魂の苦痛(スピリチュアルペイン)
「まさか」と言う言葉 まさか自分が。 人間が経験する最大の最後の極限状態だろうと思います
30年以上の経験から、スピリチュアル ケアに宗教的な援助、これが必要だと思っています。
患者さんの質問、ある日突然出てくる。(内部で葛藤し、苦しみ、それを私たちから見ると突然)
聞いてさしあげるという、心の状態、心のそなえが無いと、死ぬのが怖いという風な訴えに対して、医療従事者は受け止められないばかりか、逃げるとか、まかすとか、かかわりを深めて心と心の通いあいを持ちながらサポートする、一緒に痛みとか苦しみを共有する事は不可能ですので、質の高い、患者さん家族が満足してもらえるようなケアはちょっと難しくなるのかなあと思います。
私がクリスチャンであるという事は、一つの確かな土台になっているという事は事実だと思います。

(下稲葉さんがホスピス医として世話をした患者は30年余りで7000人を越えます。
医師としてだけでなく信仰に生きる一人の人間として、人の命と向き合い続けてきました。
中でも印象に残るのが、高校生の若い女性のことだと言います)

えりこさん、8歳の時に癌がおなかに出来て、2年間にわたって、腫瘍手術を受けて、かなり強い抗がん剤の治療を受ける。
小学校、中学校を通学するが、16歳になった時に腰の痛みを訴える。検査の結果再発。
腰の痛みも強くなって、両親が相談に来られて、私たちのホスピス病棟に入院することになる。
入院して早々に課題がクローズアップした。
当人は厳しい2年間の治療で病気は治ったと思っていた。
腰の痛みが治ると退院できると思っていたが、私たちの判断によると余命数カ月と思った。
ここにおおきなギャップ、ずれがある。
彼女が自分の病状を正確に認識しないまま、彼女と関わってゆく、段々病状は進行する、治るはずの腰の痛みが治らない、そういう風なことではとても信頼関係は結べないし、時間を過ごせない。
両親に今の事情を説明して、ある程度の事を言葉で本人に説明する必要があると言った。
お任せしますと言われた。
告知についてはある程度慣れてはいましたが、しかし相手が16歳という年齢を考えた時には緊張しました。
自分の部屋で手を合わせて神様にお祈りしました。
神様、私が落ちついて彼女の話を聞きながら、説明ができるように、まず私を整えてくださいと、そして彼女の心に働いて慰めと支えを上げてくださいと、祈って彼女の部屋に行きました。
神経芽細胞腫と言う事で治療をを受けたんだけど、話が腫瘍が、 と来た時に彼女はぴーんときた。
途端に身体がガタガタとして、「再発したの、私は死ぬの、怖い怖い」  ですね。
告知を何十回何百回とやってきた私ですが、説明しなければいけない、背中をさすりながら暫く落ちつくまで待ちました。
「3年だけど再発した」と言いました。
表現を考えながら説明してゆくんですが、彼女の場合1時間ちょっと掛かりました。
治療方法は残念ながらないと説明したが、「治るの治らないの、死ぬの死なないの、復学できるの、出来ないの」 の質問です。
死ぬという事は言いにくい、死なないという事は嘘をつく事になるので、答えになっていない訳です。

「誰も死なないと言ってくれない、嘘でもいいから死なないと言って」と言われ 本当に切なかった。
彼女と会うたびに私たちが追い詰められてゆく様な、そのような時期が3~4週間ありました。
毎日のように彼女のことで、どういう風に対応すべきか、ミーティングを行いました。
二つの原則を確認しました。 絶対に嘘をつかない、出来るだけ真実に接する。
結論を持って彼女の所に行きました。
「えりちゃん 残念だけど死なないとは言えないと言いました。」 担当医としては辛い事です。
「えりちゃん あなたに死んでほしくない」 と言いました。
それから2~3週間経ったときに、話の間ができた時に
彼女は「死ぬんだったら、その場合に一つしたいことがある」(死ぬんだったらと本人が使ったのは、初めてだった。)
「死の前に一度ウエディングドレスを着たい」 と それを聞いて御両親と相談しました。

(えりこさんの願いだったウエディングドレス姿の写真  えりこさんの叔母が営む美容室に出向いて撮影されました。)

自分の病室に数枚張ってありましたが、見るたびに思ったことですが、この写真を撮ったからと言って死ぬという事ではない、死にたくはない、その気持ちは強い物がありました。
ひょっとして死ぬのかもしれない、そうしたら、言う事ででき上った写真。
私にとって彼女とは色々かかわりがあったて話をするんですが、えりちゃんの死を前提にした会話、そういう風な死を一人称の死としてえりちゃんと会話を交わすという事に大きな躊躇がありました。
或る日、お母さんが本人を前に私に「先生 えりこは小学校1,2年生のころに聖書を読んだことがある」と言って、天井を突き抜けて天から一条の光明が私に注いだような思いになった事を思い出します。
それから「えりちゃん 讃美歌、歌っていいかなあ」と歌った。(「忘れないで」という讃美歌)
「忘れないで いつもイエス様は 君のことを見つめている だからいつも絶やさないで
胸のなかの ほほえみを」

「先生 素敵 もう一回歌って」言われてもう一度歌いました。
それから一緒に歌う様になりました。
こっちからイエス様は見えないけれど、イエス様はいつもえりちゃんを見つめている、だから怖かったり、不安だったりしたらイエス様恐い、でいいんだよ。
イエス様におすがりすれば必ずイエス様はあなたが死んでも天国に迎えてくださる、そんな話を出来るようになった。
えりちゃんが死んでも、という言葉を使った表現が出来るようになった。(壁だったが壁が無くなった)
17歳の誕生日を金曜日に迎えて、月曜日に天に召されました。

信仰30数年間 死という事に対して正直に言ってやりたいと、患者さんも向き合う事ができる、家族も向き合う事が出来るお手伝いを出来ればと、想いを持って関わってきました。
(下稲葉さんは1938年昭和13年鹿児島県生まれ 
小さい時から音楽の好きな少年だったといいます。
医師を志す様になったのは高校3年生の時 10歳年上の姉がリュウマチの痛みに苦しむ姿がきっかけでした。
1957年昭和32年九州大学医学部に進学した下稲葉さんにキリスト教との出会いが訪れます。
ドイツ語の講師を務めていたヨハネス・ルスコーさん キリスト教の伝道のため日本にやってきていた宣教師でした。
最初、授業中に聖書、キリストの事などを話す事に憤りや、反発を感じたと言います。
ルスコーさんの姿に自分にはない何かを感じるようになりました)

何が彼を動かしているのだろう、私たちが何かをするときには動機がありますが、動機は何だろうとおもいました。
それが知りたいと思うようになって、「先生が持っておられるものが欲しいのですけれども」と
私がクリスチャンになりたいという告白のスタートでした。 (大学2年の終わりの頃)

(大学を卒業した下稲葉さんは医師の道を歩み始めます。
1965年昭和40年にドイツ、ボン大学に留学しました。 帰国後病院の勤務医をしながら福岡市内でキリスト教の伝道にも取り組みます。
1980年昭和55年下稲葉さんの人生を決める出来事が起きます。
当時、経営難に陥っていた病院の再建が下稲葉さんを含む3人のクリスチャンの医師に託されたのです。 下稲葉さんは病院再建のひとつの柱に、重い病のために死と向き合っている人達との身体と心をケアするホスピスを据える事にしました。)

今から34年前なので、ホスピスは一般的には無いです。
患者さんは私の先輩(癌になった経験が無い、末期状態を経験したこともない)だなと思います。
後輩が先輩を理解するのは困難だし、援助するのはもっと困難。 
1年半でこの問題にぶつかる。
今でも背負っている。
「先生 もうあきらめの心境ですよ」と言われて、人間そんなに簡単に死の問題を諦めるという事をできないとおもうが、諦めるに至るまでの経験、時間が色々あるでしょう、と言うとぽつりぽつり話始める。 それを聞いてあげる。
①傾聴 本当にお聞きする、心を寄せるという事が、患者さんに接する第一のポイント
②どうにか患者さんのお気持ちを共有したい、という私たちの姿勢。
そうすると患者さんの気持ちが判る、共有出来る、それに答えられなくてもそれでいい。

すこしでも患者さんの痛み、苦しみを共有させてほしいという、私たちの姿勢と言いますか、それがその次から後は、そう思いますね。
患者さんが亡くなると、その家族との関係も無くなるのが普通ですが、ボランティアに加わっていただいたり、感動するのは亡くなった患者さんの身内の方が同じ病気になる場合があります。
主人が亡くなって奥さんが入院してくる。 
普通同じ病院には来たくは無いはずだと思いますが、「お世話になります」と言ってくれるのは私たちに対する一番の褒め言葉だと思います。
私の人生にとってかけがえの無い日々でした。
クリスチャンホスピス病棟で働かしていただいて、患者さん、家族と関わりを持たせて頂いたという事は
私の宝物、大きな財産だと思います。
単なる職場ではなかった。
患者さん、家族の方々に、こちらこそ有難うございます、とそういう風な気持ちです。