2014年9月4日木曜日

熊谷 榧(画家)         ・我が人生 山と絵と、父、モリカズ

熊谷 榧 (熊谷守一美術館長・画家) 我が人生 山と絵と、父、モリカズ
1929年昭和4年 東京生まれ 日本女子大学在学中 北アルプス穂高岳の残雪に魅了されて、絵をかき始めて、父熊谷守一と同じ画家への道を進むことになります。
画壇の仙人と言われた熊谷守一は、晩年はほとんど外出する事もなく、庭で蟻やあぶ、カタツムリなどを観察し、絵をかいてきました。
父とは反対に娘の榧(かや)さんは、山スキーが大好きで海外の山にも登り、登山中の岩場では可憐な花に我を忘れてスケッチする程の、行動的な画家です。
85歳の今も山に魅かれ絵をかき、陶芸や石の彫刻にも取り組んでこられました。

熊谷守一美術館 この建物も作ったのも岡秀世さんと言って、コンクリートの塊みたいで面白い建物です。
子供の時から、父が二科会の会員だったためそこの絵描きさんの人を教えていたので、いつも家には絵描きがあふれていて、人間はみんな絵をかくものと誤解するほどだった。
絵が好きで4歳ぐらいの頃から絵をかいていたら長谷川 利行さんが面白い絵だと言って絵を交換したりした事がある。
食糧難の時代だったので、絵の学校には行かずに、食料を何とかならないかと理科系の大学に進む。    高校の物理、数学の先生の免許は持っている。
著作物 山のこと、と滑ることが多い。 
クラスメートに長野県松本出身の方がいて、その人が上高地に連れて行ってくれた、それがきっかけで山にいくようになった。
穂高岳が好き。 

熊谷守一  画壇の仙人と言われたが、極普通の人だと思う。
私は父が50歳の時の子供です。父が生まれたのも祖父が50歳の時の子供だった。
小学生の頃、アトリエで石炭ストーブに石炭を運んでいる時に、「生きるってどういうこと」と聞いたら、「燃えてるストーブも生きていると言えば、生きている」と言って えーっと思った。
[人の本を読まない、本は人の滓だ]と言っていて、自分で考えると言う人だった。
絵描きなのでよーく見て観察している。
最晩年は太陽をかいた、じっくりと自然物を見て、自分で考える、それが特色です。
守一は岐阜県中津川市生まれ 父は岐阜市長、子供の頃は何不自由なく過ごす。
絵をやりたかったが、父は大反対だったが、慶応大学に行けば絵をやってもいいと口を滑らしたため、しめたと慶応大学に行って、慶応大学を直ぐに止めて結局共立美術学館(東京芸大の前身)に入る。
父は成績が良くて首席で卒業する。

東北旅行は歩いて回る。 その留守中に父が亡くなって破産するが、樺太に2年ほど(カメラマンのかわりとして)絵描きが連れられて行ったが、その時のスケッチは残っていない。
故郷に戻って、6年間引っ込んでいる間に馬に乗っていたらしいが、最後の2年間は川で材木流しをやった。  ほとんど絵をかいていなかった。
クラスメートに斎藤豊作と言う人がいて、フランスから帰って来た時に、守一がいないので、故郷にきて引っ張りだした。
その人は埼玉の大金持ちで、月40円 守一にやっていたが、何年かしてフランスに永住して、音楽家などと付き合うようになり、経済的に援助してもらう様になる。
無欲の人と言われるが、ただお金がなかっただけ。(ただただ友情によるもの)

陽(次男)が死んでから私が生まれた。
「歴史」  出展して拒否された作品 真っ黒で何も見えないが、赤外線で取って一部再現出来て岐阜県美術館で展示される。 「陽の死んだ日」「ヤキバノカエリ」「土饅頭」「猫」
死と言う事が守一にとって一番の関心事だった。 死人の絵が多い。
「仏前」 黒いお盆の中に白い卵が3つ 3つ上の姉が肺結核で亡くなって、亡くなってからおそなえした。
女の人が列車に轢かれて、ばらばらになる事件、それを目撃して非常にショックを受けて、生きると言う事より死ぬ事に非常に関心があったようだ。
「母子像」 私が結婚して8年目に上の息子が生まれて、赤ん坊を抱いて来たら(ちっとも母性愛のない人だと言われていて、違和感を感じて)スケッチして油絵をかいたもの。

人に勝つ事が嫌いな人で、学生時代剣道をやっていたが、剣道の先生には強いが、勝つ気がないので試合をすると負ける、だから文化勲章なんて大嫌いだった。
晩年は庭にしゃがりこんで、猫、鳥、生き物に執着した。
視線が低く成ると、犬や猫の気持ちが判ると言っていた。
何でもじっくり見て、蟻の左の2番目から出すと言っていたが、アメリカの昆虫学者に聞いたらそうとも言えないと言っていた。
詩人のアーサー・ビナードさんは守一の何周年か何かに講演してもらったことがある。

「そこの壺に花が挿してあるとする、ただそれを書いただけで、地球の傾きかげんが判る様でないといけない」  守一の言葉
存在感のある絵でないといけない、筆が走った様な絵はいけないと言う事だと思います。
私は絵の学校には行かなかったけれど、父 守一の絵を見てて、やっぱり守一の絵に影響された。
守一の絵は線と面の張り絵みたいで、1954年 25歳の時に初めて個展をして、その時は張り絵だった。
当時山に行っていたので、山の絵を描く様になった。
段々守一の絵から離れて、山の絵を描く様になった。
最近は歳なので山にも登れなくなって、散歩にも行けなくなった。
今年パリで9月個展をやることになった。
スケッチブックを持たないで山に行ったことはない。
富良野で地元のガイドが案内してくれて、安心していたところ雪崩にあってしまったが、全員助け出された。

1977年に父が亡くなって、1978年から陶芸と彫刻をやる様になった。
2001年からは石の彫刻をやる様になった。 
のみで彫るのではなく電気カッターがあるので、でも電気カッターも危ないと言われる。
私立での美術館ではやっていけないと言われて、公共に寄付した方が続けられると言われて、2007年豊島区立になった。

守一はお金がなかったけれど、皆から好かれた。
クラスメートの青木繁さんは気があっていて、長文の手紙が10通ぐらい残っていたが、田舎に引っ込んでいたころに青木繁が死んだと言う事を聞いて、世の中が真っ暗になると言うか生きているのが嫌になる様にショックだったらしい。(満28歳8か月で亡くなる)
青木繁は誇り高い人だから人からお金を貰ったりしない。
守一はお金持ちで育った子だったから、割と平気で友だちからお金を貰う。
100畳敷きの部屋にいたそうなので、立派な家に住みたいとは思わなかった。
信時 潔さんが「もう一回人生を繰り返すことができたら、僕はこりごり、君はどう?」と聞いたところ、「僕は何度でも生きるよ」と言ったそうですが、生きることが好きだったんですね。
「石ころ一つあれば、一生(数日かもしれないが)は楽しめる」、と言っていた。
晩年 書をたくさん書いて、書は人がらそのものが出るので、それでみんなに守一の人柄が喜ばれるのかなあと最近思います。
「無一物」 「五風十雨」 など好きで書いている。