2014年10月23日木曜日

今日から暫くブログを休みます。

今日から暫くブログを休みます。
理由は、最近左肩、腕などが凝っていた様で、手が苦痛を訴えていましたが、私は目をつぶって続けてきましたが、
しかし、先日 椅子に座って本を読んでいるうちに、居眠りをしてしまい、頭をカクンと前に下げたまま
の状態でしばらくいて、又後ろにカクンと1回頭を仰け反らし、これらが首の頸椎をちょっと痛めてしまった様で、弱り目に祟り目で、長い時間左手でキーボードを叩くのが、厳しい状況になってしまいました。
申し訳ありませんが、回復するまでしばらく休ませて頂きます。
(以前のものを読んでない方は、この機会に昔の投稿を読んでいただければと、思います。)
御了解下さい。  

又、Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、有難うございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
再開の折は又よろしくお願いします。

それでは再会の折までみなさん 「御機嫌よう  さようなら」

秋田

2014年10月22日水曜日

楠 美津香(女優)         ・一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇

楠 美津香(女優)     一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇
1962年東京生まれ、横浜放送映画専門学院(日本映画大学)を卒業後、お笑いの道に進みます。
コンビを組んで舞台に立ち、放送作家としても活躍しました。
シェークスピアに出会ったのは15年前、知り合いの舞台でマクベスを見て、言葉のおもしろさに魅かれました。
楠さんは37あるシェークスピアの作品全てを自分の言葉に表現し直してたった一人で何人もの登場人物を演じ、芝居を行っています。

マクベスを実際に見て興味を覚えた。
マクベスは情けなくて面白い人物だと思いました。
悲劇なんだけど、喜劇ですね、こんなに面白いんだったら、これをやっちゃおうと思った。
これが面白いのならシェークスピア37作品全部やろうと思って、その場で全部やりますと言って、全部やってしまった。
2000年から始めて、一つの季節に1つずつ作れば10年で37終わると言う計算のもとに行った。
参考にさせてもらってるのは、小田島 雄志先生と坪内逍遥先生です。
言葉はちょっと変えて、語尾を変えているだけ。しゃべりやすいように変える。

シェークスピアはあらゆるギャグを作った人だと思っている。
もともと皆が知っている物語だったりする。(ギリシャ神話だとか)
シェークスピアはギャグをそこに入れた。
喜劇から悲劇になってゆく、これは日本でいうと山田 洋次監督、最初笑わせてから泣かす、喜劇の王道、これをシェークスピアはやっている。
大衆演劇として作っている。
シェークスピアは手袋職人の子供として生れてからロンドンに行って、大ヒットの劇作家詩人になった人なので、二つの世界を知っている、庶民の世界と、王様が面倒みる劇団まで出世したので、庶民世界、国王貴族の世界も知っている。
庶民の笑える部分も作っているし、卑猥なところもいっぱいあるし、歌も出てくるしどこから見ても面白い。
言葉は美しいが下世話な世界をうんと描いている。

高校の時美術部だったが、2年の時に部長で周りにいなくて、一人だけだった。
お芝居をやらないと友だちに誘われて、やったら面白くて、横浜放送映画専門学院に行く事になる。
うつみけいこ師匠の漫才の授業があり、そこに来て、授業で組んだグループが受けて、TVまででて、1年やって駄目ならやめようと、始めたら仕事が来るようになって、やっているうちに解散したりして、そのうち舞台出るのは止めて、放送作家をしたりしているうちに、夫の一人コントを手伝ったり、台本作ったりしているうちに面白くなって、其れから一人コントを始めた。
物語をやりたいなあと思う様になって、講談の友だちの舞台を見ていていいなあと思った矢先に、マクベスを見た、これをやろうと思った。

最初1カ月で本を読んで、次に台本を作る、最後の1カ月でセリフをしゃべれるように練習をするという時間割でやっていました。
難しいのは神様の名前、悪魔の名前でこれが探し当てるのが大変だった。
一番好きなのが「ばら戦争」 連続した戦国絵巻 リチャード2世から始まって、ヘンリー4世ヘンリー5世ヘンリー6世 最後がリチャード3世で完結する。
(1455年から1485年の30年間にわたって「赤ばらランカスター家」と「白ばらヨーク家」とが王位をめぐって争ったのが「ばら戦争」)
リチャード2世の時はヨークとランカスターが国王を守っている。
リチャード2世はタイプが詩人で政治には向いていない。 
ヘンリー4世という武党派の実力者に王位を奪われる。
ヘンリー4世の時代は活躍しないが、ここで活躍するのはハル王子(ヘンリー5世になる後継者)で、この人がめちゃくちゃ不良で、不良息子に悩むのがヘンリー4世の物語。
ハル王子はロンドンの繁華街で遊びまくっている。

父親が死んで後を継いだ時に、ガラッと豹変する、凄くいい国王に成ってしまう。
ヘンリー5世が英雄で、トップの条件です、これを見ればどんな企業もトップになれるという様な、ノウハウが書いてあるようなのが、ヘンリー5世の戯曲です。 
ヘンリー5世は35歳で亡くなるが、後を付いたのがヘンリー6世、生後9カ月。
周り中が国王代行をやりたがる。
ヘンリー6世パート2でお互いにつぶそうという会議がずーっと行われる。
ヘンリー6世パート1の最後に出てくるマーガレット(フランスシャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪)をサフォークが捕虜にする。
サフォークは悪いことをもくろむ人でマーガレットを自分のものにしたくて、国王と政略結婚させてしまう。
ヘンリー6世は戦争を止めましょうと行っているが、マーガレットだけが戦争遂行する。
リチャード3世の時に魔女の様になって出てくる。
パート3で道化役をやって行くうちに、ラストに行くうちに、俺が狙っているのは国王の座だと言って、手に入れるためだったら何でもやってやるという事で、言い始めて、リチャード 3世に成る。
8作品に渡って裏切り合戦、寝返り合戦。
リチャード3世は最終章なので、なんで争っているのかわからないというところが、最初から話をしていると全部判る。

「アテネのタイモン」 皆にプレゼントを上げて、タイモンのところにたかりに来て、執事がもう家にはざいさんがありませんということになるが、大丈夫僕には友達がいっぱいいるから、今までの貸しを返してもらうからと言う事で行くが、口実を作って返してはもらえない。
タイモンが宴会をするという事で皆が出掛けるが、お湯を並べて、皆にお湯をぶっかけて、馬鹿野郎と言って山に行ってしまって、人間嫌いになって暮らすという、面白いもの。

父親がお笑い番組が好きで子供のころから一緒にみていたが、その時に記憶したギャグが37作品の中に全部出ている。
自分でよくわかるのがギャグで、シェークスピアは庶民だったので、庶民が笑えるギャグが作れる。
散歩しながらセリフを練習をしたり、子供を砂場で遊ばせながら練習をしていた。
繰り返し繰り返ししてセリフをおぼえていった。
芝居と主婦業の両立は出来ていないと思う。
本番が有ると洗濯物が山の様にある。
近松門左衛門 人形浄瑠璃 出てくる男が情けないことは、シェークスピアと似ている。
女は観音様にみたいなものが出てきて、シェークスピアとは違う。
シェークスピアは歴史劇だが、歴史を借りてきているだけで、シェークスピアが面白く人物を作ってしまっているので、私がどのようなリチャード3世をやってもどれもそうかもしれないという事ですよね。
シェークスピアのテーマは再生、人が沢山死ぬが、又蘇る、円を描いているのがシェークスピアの世界、転落する人生と又上に上り詰める国王に成る、ホームレスに成る、また再生するというこの円です。
人生の中で起こることがちりばめられているのがシェークスピアです。














2014年10月21日火曜日

橋本正樹(大衆演劇評論家)     ・大衆演劇の追っかけ男

橋本正樹(大衆演劇評論家)  大衆演劇の追っかけ男
43年前体調を崩して、自宅で療養中、自宅近くで見たたびしばいに人情ものに感動、しかも客が少ないのに汗水流して、熱演しているのに二度感動、大衆演劇に関わるきっかけになりました。
下町の玉三郎こと、梅沢 富美男さんが登場する17年も前のことでした。
最近は若い女性のファンが増え、客層も広まったと感じる、橋本さんに大衆演劇の面白さ、魅力、見どころなどを伺います。

昭和20年後半ぐらいから大衆演劇が下り坂になる。
昭和30年ごろからTV、映画などの影響を受けた。
昭和57年梅沢さんが出るまでの30年は沈みばっかりだった。
夢芝居が衝撃的だった。  紅白にも出場。
今は比較的安定期だが、東日本大震災で、ちょっと厳しくなる。
現在劇団は130~140あると言われる。昭和57年と比較すると倍増している。
梅沢さんの功績がある。
近畿圏に23ぐらいあり、そのうち大阪は13ある。
大坂のお客さは駄目なら、はっきりと駄目と言う。

一時期は700ぐらいあったと言われる。 JRの駅に一つはあったと言われる。
剣劇など 昭和10年ぐらいが盛況 戦後娯楽が無くて繁栄。
昭和46年に私は大衆劇に接する事になる。 (大学卒業後2~3年ごろ。)
そのころは劇場がつぶれて、駐車場、ボーリング場、スーパー等になって行った。
新聞を見て冷やかし半分で寿座に出掛けたが、お客は3人、その後多少増えたが、劇団人が15名ぐらい。
客が少ないのに、一生懸命やっていたのに、感動した。
大日方八重子?さんが女座長をやっていた。(座長の孫が大川 良太郎
澤村章太郎が寿座に来て、四谷怪談をやっていて、5日間に分けての公演で、それを見て面白くて、寿座で見るのではなくて、追っかけるようになった。

藤山 寛美さんが大阪の朝日座に樋口次郎、大川竜之助 三河家桃太郎を呼んだと言う事があり、三河家桃太郎の演劇を見に行ったら、感動、ほれぼれする。
それを見て、大衆演劇を記録にして残さなければいけないと思った。
どうしたら信頼してもらえるか考えて、移動時の荷物運搬が大変なことなので、これだけお芝居、役者さんが好きで一緒に運びますという事で、やっているうちに、座長さんがこれは本気なんだと理解してくれた。
劇団に密着して取材をする。 密着したのは20劇団ぐらい。 取材50劇団 合わせて70劇団。
東京はあっさりした劇、九州は大熱演する、(福岡、熊本が主流 大きな劇場がある)
関西は器用で、サービス精神がある。(ショーも関西から始まった 役者が歌ったり)

こんな汚処を調べに来て、なんで撮るんだと言われて、怒られたが、座長が芝居のこと、生活のこと調べてくれるのは嬉しい、いいこと悪いところ見て、見たうえで貴方が良いと思ったら書いたらいいと言ってくれた、この言葉が無かったら、終わっていたかもわからない。
書かせて頂くと言う気持ちで書かせてもらっている。
毎日芝居の内容が変わるが、台本はない。 休憩時間や、終わってから座長が役振り、音響やれとか指示しながら、小道具はこうだとか、色々指示する。
通しの芝居の練習などはしない。
赤ん坊、子供のころからずーっと舞台に上がっているので、知らず知らずにセリフの呼吸とか言うのを座長になる人は心得ている。
子供は転校転校で、教科書が違ったり大変で、付いていけなくなったり、学校を休みがちになったりする。

「浜で3年、ドサ1年」 道頓堀の事を「浜」と言った。
道頓堀で3年修行して、ドサ周りで1年廻ってこい、そうしたら芸が達者になる。
大衆演劇の魅力?
素直な気持ちになれる。 構えるのではなく等身大の自分で見られる。
判っているすじなのに、泣けるんですね。
安い入場料で楽しめる。  努力してお客さんに楽しんでもらおうというサービス精神がある。
役者さんが身近かに、お客さんに対応してくれる。
最近は若い女性のファンが増えてきている。








2014年10月20日月曜日

山崎まゆみ(ノンフィクションライター) ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで

山崎まゆみ(ノンフィクションライター)   ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで
新潟県長岡市出身 世界や日本各地の温泉を訪ねて、多くの著書に纏めてNHKラジオでもその魅力を伝えています。
最近では地元長岡で伝説の花火師と呼ばれる、嘉瀬誠次さんを取材して「白菊」と言う本を出版しました。
白菊は花火の名前です。 新潟市とハバロフスクの姉妹都市と成って25周年を迎えるのを記念して、1990年にアムール川花火大会が開かれました。
そこで嘉瀬さんがシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の意味を込めて打ち上げたのがきっかけで生まれました。
その後白菊は12年前から長岡花火大会のスタートを飾る平和への祈りを込めた花火として復活しています。
長岡の花火で育った山崎さんは、嘉瀬さんとこの花火周辺での取材を続けて、7月に1冊本にまとめました。
山崎さんにとっては「ラバウル温泉遊撃隊」に続いての戦争関連の本と成りました。
花火に寄せる思いや、嘉瀬さんたちの取材から感じたことなどを伺います。

温泉エッセイスト  今年で18年温泉に入り続けている。 年に半分温泉地にいる。
雑誌社から要請があったのですが、両親が子供に恵まれなくて、子宝の湯に通って私が授かったと言う事を幼少のころから聞いていたので、御縁かもしれないと思ってスタートしたのがきっかけです。
温泉地数では3000か所以上あるので全ての温泉地には行っていませんが、有名なところは一通り行っています。
混浴をテーマに廻っていたが、こんなに楽しい体験で有れば世界中の人と混浴しようと思って、先ずはアジアの各国から始めました。
アジア各国の温泉をめぐっていたときに地元の年配の方と一緒に入る機会が何度となくあって、暑い国の私たちが温泉に入る様になったのは、第二次世界大戦中に日本軍がこの温泉に入ったのを見て日本軍が撤退した後に入る様になった、日本人から教えてもらったと各地で聞いた。
日本兵を癒した温泉として、パプアニューギニアのラバウルに温泉があることを知ってラバウルに行ったのがきっかけでした。

ラバウルは激戦地で壕もあるし、戦争の体験を語る人もいる。
タブブル湾、タブブル山(日本名 花噴山) がありタブブル湾全体が花噴温泉と名ずけられた。
昭和17年日本軍が作った地図があり、飛行場のあった目の前に在る。
日本人と温泉を考えるきっかけにもなり、戦争の体験された方々を聞くライフワークと成るきっかけにもなりました。
「白菊」 主人公 嘉瀬さん 小さい時から嘉瀬さんを知っていました。 伝説の花火師。 92歳
8月2,3日開催 100万人の見物客。
嘉瀬誠次さんは戦争の体験者、シベリア抑留の経験者  
嘉瀬さんは近所の人で、父の友人 趣味の仲間 加瀬さんも私のことを知っています。

長岡の花火を見ると、感情が迫ってくる、切なくなって涙がこぼれおちてしまう。
これは一体何なんだろうとの疑問があって、嘉瀬さんに聞いてみようと思ったのがきっかけでした。
他にも沢山の声も同様に聞きました。
嘉瀬さんは千島列島で闘っていて、松輪島で終戦を迎えて、シベリアに3年抑留された。
「白菊」はシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の花火。
1989年名古屋で世界デザイン会議があり、嘉瀬さんも花火師(世界的にも有名で世界各地で花火を打ち上げている)としてパネリストとして呼ばれて、司会者に嘉瀬さんが、次に世界で花火を上げたい土地はありますかと言われて、シベリアで亡くなった戦友のために、鎮魂の花火を上げたいと言うのがきっかけだったそうです。

嘉瀬さんの思いを何とか遂げてあげたいと周りの人が思って、いろんな方を経由して、NHK新潟放送にも伝わってきた。
新潟市とハバロフスク市が姉妹都市の記念すべき年であり、嘉瀬さんの思いを何とか遂げようと、鎮魂の花火を上げることができた。
NHK新潟を通じて全国に放送された。
旧ソ連の現地のTV局も行政も動いた。
嘉瀬さんの言葉がとても胸に沁み渡って、何かお力になりたいと思った。
1990年 アムール川の花火大会を実行されたプロデューサーの大井純さんが「これは大井企画の私の仕事ではなく、男大井の仕事である、何故か、嘉瀬さんの抑留と言う体験の荷を少しでも軽くさせてあげたいと言う気持ちで必死でした。」と言う言葉を聞いて私も記録に残さなくてはと思ったのが、本にする理由でした。

当時、日本もソ連も交流したいと言う時期だったようです。
嘉瀬さんは何故シベリアに行きたいと思ったのか?
自分は生きて帰れたけれども、生きて帰れなかった戦友たちにたむけの花火をあげたい、抑留中にお世話になったお婆ちゃんにお礼をしたい、との思いだったように感じます。
抑留中に凄くお腹が減っていて、収容所の近くの民家を訪ねた時におばあちゃんからパンを貰ったと言った様な、大切な思い出があるそうで、お礼がしたいと言っていました。
抑留中での寒さ、飢え マイナス30℃  
昨年2月 追体験しようと思ってハバロフスクに行った。 
黒パンとスープ 黒パンも1つの黒パンを何分割にして周りの人とに分けていた。
仕事は港を作る仕事、森林伐採の仕事。
朝起きてこない人がいるともう固まっている。(明日は我が身と思った)

花火玉をソ連に持ち込むのが大変だった。
爆弾を持ち込むと認識してしまうので、花火であることを説明する事が大変だった。
筒も大砲の様な感じなので、同様に大変だった。
昨年2月に行った時に、当時のことを市民に聞いてみたが、あんなに綺麗な花火は見た事が無いと、言っていました。
嘉瀬さんのことも覚えていて、尊敬していました。

2002年から「白菊」が復活した。
長岡市に1945年8月1日に空襲があり、多くの方が亡くなっているので、その遺霊のため、援護復興の意味で長岡花火大会があり、原点に立ち直ろうと嘉瀬さんの考案で「白菊」が打ち上げられることになる。
午後10時30分に空襲が始まったことで、同時刻に「白菊」が打ち上げられる。
心に訴えかけてくる花火だと思います。
純白さに苦労されたと言います。 シンプルで凄く綺麗な花火です。 思いをはせる時間がある。

日本人が遺骨収集でやって来た時に受け入れをされている女性に取材しました。
日本人墓地にお参りに行くが、大半はまだまだ土の中に在りそのままの状態です。
田中さんは、ハバロフスクから内陸に入ったところに住み暮らしながら、土饅頭に眠っている友のために歌を歌う。(田中さんは65歳までは日本に住んでいたが、奥さんが亡くなり移り住む。86歳)
戦争を体験された方のしょっているものの大きさを、語られることが多くて、亡くなった戦友の事をしんみりと話しますが、しょっていると言う言葉がぴったりすると思います。

世界の温泉を旅する中で、現地のお爺さんお婆さんの話を聞いて興味を持ったのがスタートだったんですが、戦争の事は本当によく覚えていて、多くの方があなたに語っておこう、と言う様な事を口にされた。
時を経て語ることができない方でも、あなたに託してゆくよと言う様な言葉を下さる。
わたし自身も記録としてバトンを受けた、託されたと思う様になり、きちんと私の仕事として、記録として残すのが、話してくれた戦争体験者へのお礼と言う気持ちで執筆しました。
本を読んで、是非私のお爺さんお婆さんの話を聞いていただきたいと言う様な反響を頂きます。
悲しい経験なので、いままで語れなかった、でも語らずに逝く事は出来ない、語るから皆に伝えてくれと訴えかけるようにおっしゃいます。
2004年出版 新潟県近隣の紹介の本は書いた事はあるが、キチンと読み物として故郷のことを書いたのは初めてです。
戦争体験の聞き書きもライフワークとしてやっていこうと思ってますが、温泉のことも書きたいと思っている。
身体の弱っている人にこそ温泉に入ってもらいたいと思います。












2014年10月19日日曜日

鎌倉幸子(国際ボランティア会)   ・移動図書館、被災地を走る

鎌倉幸子(シャンティ国際ボランティア会) 移動図書館、被災地を走る
1973年昭和48年青森県弘前市生まれ 地元の高校を卒業した後、アメリカの大学に留学し、福祉と国際協力を学びました。
1999年3月にシャンティ国際ボランティア会の職員と成りました。
この会は1981年カンボジア難民キャンプに図書館をつくることを目的に創立したNGOで、鎌倉さんは1999年から8年間カンボジア事務所で本の出版や図書館活動に従事しました。
現在は広報課長兼東日本大震災図書館事業アドバイザーとして、活動しています。
東日本大震災の発生直後から鎌倉さんたちは現地に入り、炊き出しや物資配布など救援活動を繰り広げました。
その中から本を読みたいという被災者たちの声にこたえようと移動図書館のプロジェクトを立ち上げました。
スタートしてから3年余り、現在は岩手、宮城、福島3県の市や町の45か所を廻っています。
鎌倉さんはこの体験を「走れ移動図書館」と言う本にまとめました。
移動図書館誕生のいきさつ、本が持つ力などについて伺います。

2011年7月17日、岩手県の陸前高田からスタートしました。
避難所から仮設住宅に移るタイミングだった。
知っている方が移れるわけではなくて、知らない方同士が住んでいて、コミュニティー作りの一つとして本のある空間を作って使っていただければと思いました。
現在5台の移動図書館があります。
最初1台軽トラックを借りて、スタートした。(脳から汗をかけと言われて何とかしようとした)
1~2カ月後は、移動図書館に集まった時に知り合いと、ばったり再会したと言う様な事もあった。
仮設住宅は台所が狭いので、その中で料理をどう作るのかとか、料理の本など要望がある。

シャンティ国際ボランティア会の広報課長でもある。
福祉の勉強をしたいと思って、雑誌をみて、アメリカに行こうと思って渡米した。(1991年)
ウエストバージニア大学で福祉を勉強、バーモント州の大学院で国際協力を勉強する。
国際情勢が激動する中、国際協力の知識を積んで仕事ができたらと思って、大学院に入りました。
国際協力の内容は幅が広くて、自分がどこの国で何をすればいいかわからなくなってしまった。
カンボジアから来た留学生との出会いが、カンボジアに足を向けさせた。
その友だちは戦争で両親を亡くした戦争孤児だと言う事を聞いた。
ポルポト政権下での悲惨な経験を色々と話してくれた。
それを聞いた時に友人のことを、何も知らなかったことに対して、悲しくなってしまった。

友だち付き合いを表面上の付き合いでしかなかった事に気付いた。
カンボジアでお手伝いできることがあれば、復興の支えられる仕事があれば紹介してくださいと尋ねたら、その人の居た孤児院の近くに図書館があり、そこで勉強したり、相談に乗ってくれて、その友だちが言っていたのは「図書館は人を選ばない、孤児、戦争経験しようが、お金持ち、どんな辛い思いのひとでも、扉を開いてくれる、本は逃げない。」と言う事だった。
その図書館を運営していた団体が、シャンティ国際ボランティア会と言う日本の団体なのでもしカンボジアに行くのであれば、シャンティ国際ボランティア会に行ってはどうかとの話でした。
その友達が、自分が留学して勉強できるのも、難民キャンプの図書館があったからだと言う話を聞いた時に、一人ひとりの長い人生を考えた時に、自分の人生があるのは図書館だという言葉を聞いて、図書館の可能性を追って見たいと、カンボジアに渡りました。

大震災発生後、救援活動を始める。
能登、三宅島の経験があるので、3月12日には団体の中で決定した。
3月15日にスタッフが現地入りしてスタートした。
炊き出し、物資の支援  最初緊急支援をしていた。
4月3日に私は現地入りしましたが、まだ図書館、本では無いと思っていた。
「食べ物は食べたら無くなりますが、本は読んだ記憶が残ります、だから図書館員として子供達に記憶に残る本を届けていきたい」と或る知り合いになった気仙沼市の図書館員の方(山口さん)がぽつりと言ったんです。
私はカンボジアの女の子を思い出して、「お菓子は食べたら無くなちゃうけど、絵本は何度でも読めるから好き」、と言った言葉が蘇ったんです。
東日本大震災の悲惨な現場、内戦を経験したカンボジア、でも辛い時だからこそ人は本を求める瞬間があるという事をその時確信しました。

気仙沼市の図書館員の山口さんが「こんな時だからこそ、今、出会う本が一生の支えになると言う事を信じています。」と言ったんです。
「どん底を経験した人が、一冊の本を手にとって、その一冊の中の1ページ、1行、たった一言の言葉が背中を押してくれたり、ちょっと1歩踏み出そうとする機会になったら、その本がその方のこれからの一生のお守りになるに違いない、だから沢山の本を持って、手に取る機会を作ってゆくのが、これからの図書館だ」と山口さんは言っていました。
現地で出来る事業を何か考えなさいと言われた。
岩手県滝沢村が移動図書館を独自で走らせていた。
読みたい本が読みたいところに無い、廻してゆく事で読みたい本が読みたいところにある、と言う事で移動するしかないと思った。

段々日が経つうちに、子供達が支援物資を貰いなれるのが怖いと言う事が聞かれ始めた。
移動図書館は借りたものを返す、皆のものは大切に使うと言う、基本的な日常生活の約束事を、守ってゆくと言う様な練習、訓練になるのではないかと言う事で、移動図書館と言う事になりました。
5月に入り、避難所から仮設住宅に入ってゆくのではと言う事になり、今後は炊き出し、物資支援とかと同じ活動ではないだろうと言う事で、調査をしました。
岩手県の図書館、本屋が壊滅的な被害を受けていたという光景だった。
図書館が復興するまで移動図書館と言う形で沿岸部を廻ってゆこうと言う事を5月の調査でまとめて、審議してもらって、大変困難ではあったが6月6日に岩手事務所を立ち上げる。
スタッフ、運転手を探して、7月17日に初運行になった。

最初子供たちが来てくれて、その後大人たちも来てくれた。
女性は編み物、料理、エコクラフトの本 男性は園芸の本 手を動かさないと暇を持て余してしまうし、悪いことを思い出してしまう。  手を動かしていると生きている実感を感じる。
絵本(孫への読み聞かせ)、歴史小説(困難を乗り越えてきた事に活路を見出す) 等々。
「言葉を失う」と言う言葉  本当に存在するんだなと思うシーンがある。
言葉を取り戻すお手伝いを本ができるのかなあと感じます。

「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 
平泉が世界遺産に登録された時に「いわて」を使用
「走る」、は共に伴走してゆきたい。
「立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 は移動図書館を作る時に徹底的に話し合った。
一人の時間を作りたいが、部屋でポツンといるのでは社会から遠のきそうだったり悪いことを考えてしまうので、本だったら、立ち読みができるし、お茶を飲んで楽しむのもいいと言う事から、使いました。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 というキャッチフレーズを作りました。

本は衣食住満たされた後に、必要なものと言われるが、本の持つ力は生きる力を助けるためにつながっていると感じています。
人が生きていく上で、情報が必要だと思いますが、じっくりと自分のペースで読み進められるのは本だと思っています。
前に進みたいが、前の方向がどっちかわからない、何かしたいと言う思いになった時にそれを助ける本の存在は、足元を照らすランプになるのではないかと思う。
仮設住宅も3年になると辛い。
今後自分がどこに住むかわからない中で、すこしでも朝聞こえてくる鳥の声を知りたくて、その鳥の本をかりるの、ここの生活は辛いかもしれないけど、楽しんでいきたいという様な声を頂いた時に、辛い生活を何か支えられるものを、提供できるのではないかと感じています。






2014年10月18日土曜日

山下正樹(歩き遍路の会会長)   ・私のお遍路みち

山下正樹(公認先達 歩き遍路の会会長) 私のお遍路みち
弘法大師空海ゆかりの霊場をめぐる人達はお遍路さんと呼ばれています。
山下さんは70歳 これまでに四国88の霊場を全て巡る結願を10回果たし、お遍路の指導者としての役割を担う先達にもなっています。
山下さんがお遍路を始めたのが57歳の時、以来すべての行程を歩いて巡る、歩き遍路を続けています。
ひたすら歩く事で何が見えてきたのか、伺います。

88の札所を一巡りすると1200kmぐらい。
歩く醍醐味もあります。
最初の第一歩がなかなか踏ん切りがつかない、大変だろうとか、しんどいやろうとか、でも最初の一歩が踏み出さない限りは何も始めらない。
私はゆっくり歩くので50日かかります。
「もうちょっと頑張ったらお寺に着く」 「あわてないでいい」とか お大師様の声が聞こえる。
頑張っているから声が聞こえるのではないかと思っている。
ひたすら歩く事で常に自分自身と向き合う事になります。
(人生そのものに通じると山下さんは考えています。)
お遍路文化に触れられると言う事が一番嬉しいです。 地域の人が支えている文化。

①札所寺院 ②お寺とお寺の間を結ぶ遍路道 ③遍路道を支えている地域の方  
④遍路道を歩くお遍路さん 
この四つの要素で成り立っているが、一番大きなものが地域の方がお遍路さんを支えるお接待と言う文化を引き継いでいると言う事。
お接待 無償の行為、お茶を一杯差し上げる、励ましの声をかける。
なじみになって、泊っていきなさいとか言われる。(一般の家なのに)
お爺さんお婆さん、先代を見習って、お遍路さんを接待する、生活の一部になっている、すごい文化だと思う。
心が一緒にお接待として付いている。

12年の前に夏に初めてお遍路しました。(本格的に始めた12年前の時?)
10日間は梅雨の大雨の中で、梅雨が明けてカンカン照りで、高知県焼坂峠から下りて、添蚯蚓(そえみみず)を上がってゆくが(高低差400m)、その前に焼坂峠で全て水を飲みつくしてしまう。 困っていたときに農家のお婆ちゃんが呼んでいる。
死にとうぐらい喉が渇いており水を分けてもらおうかと思っていたら、お婆ちゃんが水を用意して待っていてくれた、本当においしかったですねえ。
一気に飲んだら、怒られる、急に飲んだら身体に悪いと。
家に帰って次の水を持ってきてくれた。
人対人がお遍路道の中につながりができる。(お接待)
人の優しさが身に沁みる。 結願したときには涙がボロボロでました。
「お陰さまで」と言う言葉が本当の意味で感じました。

(昭和19年広島生まれ 高校卒業後、大手都市銀行に就職、支店長を目指して日々励んでいたが、大きな転機が訪れたのは45歳の時でした。 
関連会社への出向、出世の道から外されたこと、慣れない職場でのストレスから50歳の時に尿管結石で1か月入院、この時歩きお遍路の事を知る。)
歩き遍路の体験記の本があった。 
だらだら生きるよりは新しい自分を探さないといけないと思った。
支店長に成れなかったのも、結果的に自分に実力が無かったのだと思った、それまでは人ばっかり恨んでいた。
平成14年6月、57歳で会社を早期退職、お遍路の旅に出る。
会社や仕事中心の生き方とは違う、新しい人生の価値が見つかった。

帰ってきた時に、もっと自分を生かせるところがあるはずだと、納得した仕事ができること、地位とか名誉ではなく、一番大事なのは会社人間は視野が狭いこと。
社会人間になろうとしたら、お互い平等の考え方がいるわけです。
お接待を受けた温かい心が私にそういう風に感じさせたと思います。
旅は甘くはなかった。 道に迷うし、トラブルがあり、足が痛くなったりしたが、その時に出会った地域の方々の温かい励ましの言葉、お接待で自分は生きているのではなく、生かされていると言う事が実感するわけです、それが自分にとって大きな収穫でした。
88番札所で結願して、一番思ったのはもうこれで遍路道を歩かなくていいと言う思いでした。
宿に帰って、朝起きると歩けないと言う寂しさが出てくる、これは不思議な気持ちでした。
お四国病 お遍路の魅力に取り付かれた病気 薬が無くてお遍路に行く事、心が落ち着く。

いろんな方が廻っていて、40~50日で廻っていて頭がクリアになる、一歩離れて自分を見つめることができる。
根底は自分の足で歩くしか解決しない、生かされてると感じた時は、自分も何かでお返ししなければいけない、物ではなく心で、だから私は出来ることで世の中にお返しをしようと思っています。
最初のお遍路を36日間で結願、高知県の島で環境保全、地域振興のNPO法人事務局長を務めることになる。
大月町 柏島 遍路道の資料を見つける。 復元しなさいということかと、直感した。
1200kmの内、土の道は100kmぐらいしかない。  土の道は足が喜ぶ。
地元の人と共に遍路道の復元をして、毎年地元の人が草刈りをしてくれている。
保存会の会長に翌年出会い、お年寄りが元気になったと言う事でした。
お遍路さんのお接待でいろんな話ができて、話題が増えて、元気になった。

今5つ目の古道の復元作業に入っている。
阿南市の山の中に在る道を地元の方と一緒にやっている。
21番札所太龍寺から山の中を抜けて22番札所平等寺に抜ける道6km。
江戸時代の道しるべが残っている。
太龍寺に上がる道、日本最古の遍路道 600年前の南北朝時代の年号の入ったしるべ石がある。
平成22年に遍路道で初めて国の史跡になる。

平成24年から子供達にお遍路の文化を伝えようと、お遍路授業を行っている。
一番嬉しいのは大きくなったら、私もお遍路に行きたいと言ったことです。
おさめ札 自分はどこから来たのかと書いた札を渡す。
旧庄屋(お遍路さんを泊めていた) 屋根裏の俵に1万5000枚のおさめ札が入っていた。
1番から順に廻る順うち 88番から逆に廻る逆うち 2つの廻り方がある。
平成16年 逆うちのお遍路に初めて出会う。
いつまでたってもお大師様にあえないので、反対に回ったらお大師様に会えると言う事で廻る。
反対に回ると全部のお遍路さんに会えることができる。
620人のお遍路さんに会えた。  

今治に59番札所伊予国分寺 58番札所仙遊寺がある。
仙遊寺にむかう逆うちをしていた時、5歳の女の子からわざわざ家から出て来て道が違うよと声をかけてくれた。
説明して納得してもらった、お礼にお接待で貰った飴を「お接待ですよ」と渡した。 
子供も喜んでくれたが私もわざわざ声を掛けてくれた事に感動した。
歩き遍路の魅力を広く伝えることをがライフワークとなる。
平成17年から毎年春に歩き遍路の入門講座を開き、参加者は250人余りになる。
お遍路によって今の自分がある。
文化遺産も沢山あるが、お寺とお寺を結ぶ遍路道、地域の方々 これが歩きお遍路さんを支えていると思います。
その一番大きなものが繋がり、ふれあい、心のやり取り もっと沢山の人に知ってもらいたい。
「お遍路では名刺と時計を置いてきなさい」と言われる。
目標としては88歳までは歩き遍路をしようと思っている。












2014年10月17日金曜日

中澤嗣子(元大相撲女将)     ・力士を目指す若者と暮らして

中澤嗣子(元大相撲中村部屋女将) 力士を目指す若者と暮らして
1951年愛知県生まれ 金城学院大学を卒業後、1年余りで富士櫻関と出会いました。
医者の家庭に育ち、相撲界とは縁も無く周囲からは反対されましたが、富士櫻の明るい性格と楽しい話し方に魅かれ結婚しました。
当時 富士櫻関は前頭や小結として土俵を沸かせていましたが、結婚生活はマンション暮らしで2人の子育てをする普通の暮らしだったと言います。
10年後富士櫻関が引退し、中村部屋を創設し、以来相撲部屋の女将さんとして力士を目指す若者の世話をすることになります。
中澤さんは強い力士を育てようと、別の部屋の師匠や力士にアンケート調査をしたり、自ら大学院で力士の養成法を研究したりとそれまで相撲界には見られなかったことに挑戦しました。
昨年中村親方が定年退職した為、26年間に渡る相撲部屋の女将さん生活を閉じました。

武蔵川部屋が使っている稽古場が元中村部屋の稽古場だった。
関取のおかみさんになって、部屋の女将さんになって36年間。
退職まで元気で過ごせたことは良かったと思うし、若い目標を持った力士と同じ屋根の下で暮らして、私にとっても、支えになったし力になったのでいい人生だったと思います。
何をしていいかわからないところから始まって、力士の役に立つ事はないかなあと思った時に、心理学とか力士の養成、と言う事で大学院に行く事が始まった。

仲良くしていた家族が相撲好きだった。
たまたま力士が遊びに来ているから来ないかと言われて、母と行ったのが、出会いの始まりだった。
今までにないタイプで、性格も明るいのでこういう人と結婚してもいいかなあと、あまり考えないで結婚した。 
全然別の世界だった。
マンション生活をしたが、1年の半分以上はいなかった。
結構、きっちり生活サイクルは決まっていた。
子供は二人いました。普通の生活が丸10年続きました。

中村部屋を創設
土地探し、銀行とのやり取りなど大変だった。
土俵のある建物を持つ事と、弟子が3人以上という規定があった。
26年間中村部屋をやってきて、120人ぐらいくるが、1カ月で帰ってしまう人もいて、その中から十両以上は4名だったが、十両以上はいなかった。
うちの場合は中学出を沢山取ったので、大学出、海外らは無いので、関取になる確率は少なかったように思う。
若い人を預かるので、さまざまな社会勉強もやらなければならない。
相撲社会は番付けが全てだが、年上に対しても或る程度尊敬しなくてはいけないし、地位が上で有ればちゃんとした振る舞いをしなくてはいけない。

歳を取ってゆくが強く成れない人は大変。 実力社会
団体生活 体罰、いじめなどは目に見えないところで起きているので、難しいが、伝統的教育の中にいじめに近い様な指導の方法が昔からあった。
やらせてから駄目だったら注意する事が基本なので、普段やっていることを見ていないと判らないが、今の子は説明を受けてからやるので、なかなかそういう指導の方法に慣れるには時間がかかるので、教える方もいらいらしたり、教えられる方もそんなことを言ったて、と言う気持ちがあるので噛みあうのが難しい問題がある。
厳しさは大事なので、規則とか、自分で気付く様にした。

五訓
①掃除は綺麗にすること
②自分の事は自分ですること
③時間を守ること
④挨拶は大きい声ですること
⑤返事は大きい声ですること
親方が作って毎日弟子たちに稽古が終るとやっていました。
出来ないと、兄弟子たちから言われる。
寝場所が変わったりした時には何かがあったことが判るので、様子を見たりする。

主人富士櫻は途中首を悪くしたので、稽古場で稽古が出来ない時期もあり、首の筋力をつけるとか、トレーニングをして、弟子たちにもウェイトトレーニングをするように奨励した。
トレーニングセンターに行く事も最近は一般的になるが、成果は本人の気持ちなので、なかなか難しいところがありました。(成果の上がる人と上がらない人がいる)
通信制の高校に通わせた。
親方がスカウトに行った時に断られる理由として、高校ぐらいは出したいと言うのがあった。
大学院で知り合った方が通信教育の高校の秘書をしていて、話が進んで、始まった。
大学院で人はいくつになっても、学ぶと変わるんだなと実感したので、年齢に関係なく学びたい思いがあったら、きっと豊かになるのではないかと感じていた。

幕下まで行った人が身体を壊して、就職しようとするが、学歴が中学ではなかなか就職口が見つからないと言う事があったので、幕下迄行くと言う事は色々持っているので、ちゃんと評価して貰いたいと言う気持ちがあった。
辞めた人が大学を目指すと言う子がいてとっても嬉しかった。
部屋をやっていて嬉しい事は力士が入門してくる時と、十両に上がった時。
入ってきた時は特別な気持ちです。(当人の決断、片腕をもがれるようだという親の気持ちなど)
弟子が急にいなくなったり、重い病気になったりしたことがあったりするが、そういったことを含めて後になっていい思い出の方が多い様な気がします。
親方は、出ていったものは追わないが、頭を下げて戻ってきたものは受け入れるが親方は何にも云わない。

社会人の大学院には色々な方がいて、それぞれの立場からいろんな話題を提供するので、相撲界だけの中にいて考えるのではなく、違った目で客観的に見る事が出来るようになったことが凄く良かったと思う。
専攻は力士教育 修士まで行く。
修士論文 伝統的にやってきたことにも、きちんと人を育てる要素があるので、それも大事にしなくてはいけないのではないか、という結論ですが、そのまま今の若い人に持ってきても無理なところがあるので、親方の立場からその違いに歩みよるとか、今まで以上に時間をかけるとかだと思います。

今の子供の生活環境が全く変わってしまった。
核家族化とか、生活が便利になってしまっているので、工夫が少ない。
力士になる環境がガラッと変わってきてしまっている。
海外の力士にくらべてひ弱、だが大事に育っているので愛情をかけられた分だけ素直さがある。
環境が激変しているが、今まで大事にしてきたことを大事にしながらも、指導法などで何か変えていかないと、と言う風には感じる。
親方の世代が若くなってきているので、それなりに考えていると思う。
伝統の重みの中で、きちっとやってゆく事が相撲が生き残ってゆく道ではないかと思う。
(相撲の素晴らしさとは)
土俵の美しさ、勝負をする息気ごみは素晴らしいと思っています。




2014年10月16日木曜日

大下大圓(飛騨千光寺住職)   ・円空の思いを今こそ伝えたい(2)

大下大圓飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(2)
句碑が建っているが、東北大震災でこちらで出来ることはないかと言う事で、一般募集して、句碑を建てる事になった。
「円空見よ 不沈日本 いざと燃ゆ」
「被災地に 祈り届けと 鶯鳴く」
「円空の 祈り深まる  蝉の声」  等など。
円空の思いと、被災者の思いと、つながっている。
当時も津波の話は円空も聞いているし、貧しい状態で亡くなってゆく人達に円空は仏さんを彫ってあげた、そういう歩いた事に重ねて、300年以上のギャップはありますが、現代でも同じ気持ちなんだよ、と言う事かなあと思います。

一番最初に東北に行った時は、避難所に行ってうちの家族が発見されてないと悲痛な声を聞いて、そのあと遺体安置所を廻りました。
沢山の棺が並んでいて、お経を丁寧に上げさせていただいて、吃驚したのは警察官、自衛隊の人も一緒に手を合わせて、おがむ姿があってこの人達も大変なんだなあと思いました。 
1カ月、2カ月して段々発見され、避難所を中心に廻らせていただいて、聞くだけですが、悲しみに寄り添ってゆく事だけしかできないのですが。
キリスト教、神道、仏教もいろんな宗派の人が来て、被災していないところを拠点にして活動しました。
キリスト教の教会が被災されキリスト教徒の人が、お寺に寄宿され一緒に活動して、その時宗教は関係ないなあと思いました。
合わせて40数回行ってきました。 沢山の方に出会いました。

看護師の人が御主人を亡くされて、自分も1カ月後に片腕を事故で無くしてしまい、本当に大変な思いをして、仕事を辞めようかと思ったが周りの人の支援を受けてもう一回やり直そうと立ちあがって、右手を失ったけれど、ケアーマネージャーとして、今度は人のために一生懸命活動されている。
そういう姿を見ると、自分自身が大変な思いをしているのに、他者のために何かが出来る、利他的行動と言いますが、そういう人達が沢山います。 吃驚、感激するところです。
「実践的スピリチュアルケアー」 大下大圓著書 ナースの潜在力を高めるための本。
(それを読んで看護をする側が実は大変なんだなあと思いました。)
医療者の人たちは救ってあげるのは当たり前のようになってしまっている。
しかし一週間お風呂も入らず着替えもしないで患者さんのために一生懸命する。
或るドクターは自分のお母さんが流されていたのにもかかわらず、自分は病院の責任ある立場だったので医療現場を離れなかったが、自分のお母さんを亡くしてしまったことで後で非常に辛い思いをする。
ケアーをする人たちのケアーが必要だった。

高橋さんと出会って、内陸の人達とネットワークを組んで一番必要な活動をしようとする。
サイコロジカル ファースト エイド(Psychological First Aid 災害現場で心のケアをどうしたらいいか、と言うテキストみたいな本があるのですがそれを読んでいたので役に立ったのですが。
被災者に近づいて安全、安心を確保する、自分が出来ないことはしない、専門家に繋げてあげる。
ケアしてもケアしても返ってこないというエネルギー的に返ってこない所に自分たちのエネルギーが疲弊してゆく。
孤立してしまう、誰にも相談できなくなったり、追い込まれてしまう事がおおい、家庭介護の場合等
日本ではお嫁さんが一番大変で、介護するサービスもかなり出てきているので、そういったものを使いながら、自分だけで抱え込まないで、いろんな人たちの力を借りてゆく考え方が大事で、時には家族が休むために、施設に入ってもらって、息抜きをしてリフレッシュしてまた介護をやると言った、家族が休むような環境作りが大事だと思います。

常に一人だけであるとか、追い込まないこと。
自利利他(最澄伝教大師の言葉の心 自分を高めることが自利、自分のエネルギーを蓄えてゆく、利他はそのエネルギーを他者に使う、自分の影響力が他者に及んでゆくので、そこを考えながら、他者を生かしてゆくという考え方。
共利群生 共にお互いに利する、あらゆる地上界の生き物はお互いに依存し合っている。
依他起性(えたきしょう) お互いに依存し合って生きているので、それをよしとする。
基本的な曼荼羅の思想。
ナースの為に書いた本ですが、援助者全ての人へのメッセージで、人のことばっかりするのではなくて、自分を高める事もやりましょう、と言う事です。

その人が生きていると言う事はエネルギーを出していると言う事なので、他者に影響力を与えていると言う事ですから、常にその人が普通の人であっても援助者ではなくても、自利利他は通じること。
人生の中で自分の目的意識を誰でも持とうとしているが、それが自利につながってゆくので、そのための努力が自分を高めることです。
高めた能力が家族を高める事になり、会社の中で自分の能力を生かして会社の大きな力になることも利他、どこの世界にでもあてはめられる。
自覚するともっとパワーが出てくる。
その人その人が生きる場所があり、必ず足元を見れば何かが見つかる。
何でもあり、そこに目を付けるかどうか。(庭の草取り・・・)
お爺さんが余った灰を道路に撒いたが、それは灰を撒く事によって、道路の雪が早く溶けて他の人たちが歩きやすくなる。(自利利他)

日本人は自利利他の文化を持っていた。
今は自分のことだけしか、考えられなくなってしまって(利己主義)、ギスギスしてしまってきている。
感情部分がやり取りできるかどうか、そこに感覚が生まれてくると思う。
スピリチュアルケアは感情の行き来、スピリチュアリティーはもっと感情の奥に在るもの、魂性、根源的な命につながってゆくもの、人間の生きる意味を問う様な深いもの。
ケアをするというのは、 スピリチュアルな課題を抱えている方にケアと言う仕組みで関わってゆく、向こうも必要とすると言う事が前提になっている。
根源的な痛みに寄り添ってゆく、その人が立ち上がる力を応援する。

今年6月に気仙沼に行きましたが、看護師さんのケアと言う事で、お話、瞑想をやったり、又、川内村へ行って保健婦さんたちと連携して、住民の心のケアと言う事でお話をしたりしています。
最終的には日常をいかに作るか、日常のなかにケアがあると思っているので、もう一回日常を取り戻すというか、そこに安心感に繋がるものがあると思うので。
主に最近自利、自分を成長させる力を再発見してもらう、自分の力を再発見してもらうために、瞑想という方法論を使って、臨床瞑想法を4つに分けてトレーニングしている。
①緩める瞑想  ②見つめる瞑想  ③高める瞑想  ④ゆだねる瞑想
仏教だけではなく瞑想はイスラム、キリスト、ユダヤ教などにもある。

①力を蓄えるために先ずは緩める、これが出発点。(先ずはゆったりした感覚、自分の心を楽にす る)
②集中力が高まるので、自分の心を見つめる、観察、洞察ができる。
 洞察力で自分のあらゆる内面を見てゆく。
 例えば失敗した どうして失敗したのか原因までさかのぼって、修正する。
 行動が変わってくる。
③心身の機能を高める。 健康生成論 健康をいかに作り出すか、今の自分から未来に向かって  どういう生き方ができるかを、考えてゆく。 ビジョンを描く事 
 ユングはアクティブイマジネーション(能動的想像)が人間には大事だという。
④自分と神と繋げる 自分と仏と繋げる ヨーガ 宗教的な高次な瞑想法

2泊3日ぐらいのコースで臨床瞑想法を学んで貰っている。
瞑想は静かな人間力を養うメソード お金がかからず、どこでも瞑想できる、死ぬ寸前の末期の人でも出来る。
或る看護師さんが疲れてしまって毎日弁当を持って1日中いたが、4日でようやく解放された。
自然の中に身を置く事によって、素の自分に戻る、日常を忘れる。
それから自分がどう生きるかと言う事になって、1週間で立ち直りました。
人間の中には立ちあがってゆく力がある PTG(Posttraumatic Growth))と言いますが。

お遍路さんは歩く瞑想  ゆっくりゆっくり歩くのも瞑想
現代人は頭でっかちになっている(知識で解決しようとする)、身体の反応を感じ取る。
悩んだ時は歩いてみる。 苦しい時、悲しい時、辛い時歩いて、お祈りしながら(札所)歩む。
88番から1番に廻ってきてエンドレス、スパイラル状に向上してゆく。
円空は孤独だとは思わない、人生を楽しんでいたと思う。
自然に包まれているという感覚さえ生まれてくれば、決して孤独ではない。(法縁)
歩いて歩いて、時には人に出会う。
円空仏は自分の気持ちが投影される。












2014年10月15日水曜日

大下大圓(飛騨千光寺住職)   ・円空の思いを今こそ伝えたい(1)

大下大圓飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(1)
千光寺は戦国時代からの古刹で円空寺とも言われています。
江戸時代前期の放浪僧円空が、道に落ちている木を持ち寄って仏様を彫り、飢えや疫病災害に苦しむ民衆に配ったと言われ、千光寺にはお世話になったお礼にと64体の仏を寄進しました。 
現在千光寺で開かれる心の道場には、仕事に疲れた人達がじっと瞑想して自分と向き合い、円空仏で癒されて社会に復帰しています。

昔から町作りをする時に東北の位置に神社、お寺を配置して鬼門の位置、飛騨の安寧を祈る祈願所だった。
1600年前からのすごい古刹。
両面宿儺(りょうめんすくな)という飛騨の長(おさ)がいて、祈った場所と言われる。
12歳の時に千光寺に来て、毎日歩いて学校に通った。
冬は学校に行くのに2時間ぐらい掛けて、雪をかきわけて山道を通った覚えがある。
5本杉と言って1200~1500年の杉があり、1本の木から4mぐらいのところから5本に枝が分かれて、天を目指している、山の全ての歴史を知っている、国の天然記念物になっている。
仁王門が昨年の秋に完成 伽藍が450年前(永禄7年)、甲斐の武田の飛騨攻めがあって、その時に伽藍が全部焼けてしまって、千光寺もまだ復興の途中だった事に気付いて、門を作った。

円空 350年ぐらい前の人、晩年に登ってきて俊乗と言う住職と仲良くなって、飛騨を廻るベースキャンプの様な所になって、飛騨を廻っていろんな仏像を作った。
円空仏 全国には一杯あるが、寺には64体あります。
昨年国立博物館で円空展を開き、64体と飛騨にある仏像を含めて100体展示しました。
19万人(1~4月)来場者があった。
天台宗の坊さんになるが、自然と一緒に生きてきた、大地にへばりついてきた百姓、山の仕事をする人たちと交流する中で、仏像を彫りあげてゆく生き方は素晴らしいと思っています。
仏像を作る時は、経典とか規則みたいなものがあるが、円空は大胆に省略すると言うか、抽象的な表現しかない。
なんか見ていると仏性が伝わってくるような力強さがあります。

円空は幼い時に長良川の水害で母を亡くしたと言われる。
その時の心の傷が後に仏像を彫る、特に円空が歌った、
わが母の命に代る袈裟なれや 法のみかげは万代をへん
(坊さんになったのは母の菩提を祈るために出家したと言う事が歌の中に現れている)
最初自分の母のために彫り始めるが、諸国を行脚している時に、悲しい思いをしているのは自分だけではないと言う事に気付いて、他者の為に祈る仏を作り始める。
心をこめて作ったので、哀愁、優しさ、慈悲、生きる力があったりする。
寺のふもとの民家には円空に彫ってもらった仏像が仏壇に飾ってある。
東北、北海道にも足を運びアイヌの人に出会って又作風が変わる。

日本の宗教性と言うのは自然とのかかわりの中に非常に大きなものがある。(自然観的宗教観)
仏像はインド、中国ではほとんど石、鋳物であったりするがほとんど石ですが、日本に入ると木に彫られることが多くなる、それは日本人が木のなかにも仏が宿っていて、自然の中に神や仏を感じる国民性があり、木がもうひとつの命に代えて仏になる。
最初見たときには是は仏像と思ったが、段々円空の味みたいなものを感じた。
最初見た衝撃が変化してゆく。
何とも言えないほほ笑みが共感できる、素朴な自分の気持ちと繋がる。
仏様は高いところにいて、私たちを見降ろして温かく包んでくれると言う様な感じですが、円空の場合は共感。
どの宗派にも円空仏があるわけではなくて、密教的なお寺、禅宗系なところ、神社ですね。

中学1年の時に前の住職が癌で亡くなるが、大禅と言う名前で、私の「大」と円空の「圓」で「大圓」と言う名前を付けるので、寺の後を頼むという、強烈な体験をしてしまった。
亡くなった住職との約束があるから、後千光寺に残ると言ってしまったが、其れからが大変だった。
高野山で、8年間お寺で修業をする。 師匠が頑固一徹の人だった。
若い時の苦しみは耐えられるので、忍耐力、やる気、生きる力に繋がってゆく。
理屈でなく体で覚えてゆく日本の文化、そこではマニュアルが無い。
体得するまでの途中が大変だが、体得と言う意味が判るとこの感じだなと応用ができる、応用ができることが判ったら人生は非常に面白い。
スリランカに一人で行って、初期仏教をやりたかった。(お釈迦さんの原点をやりたかった)
瞑想を教えてもらって、人間の心の中を見ると言う、それから40年近く瞑想をやってきているが、それが私の今の生き方のベースになっている。

言葉は通じないが身振り手振りで、イギリスの植民地でもあったので英語を学んでいるので、どうしても通じない時は英語でやって、あとは生活をしてゆくのには言葉はいらない。
私物は持たないので、お布施していただくもので生きてゆくのでシンプル。
スリランカは戒律が厳しいので妻帯しない。
私は縁あって結婚する事になり、子供を持つという意味が理解できて、共通の話題が出せるようになり、こういうのも日本的な仏教の一つの在り方だなあと思いました。
結婚してから非常に家庭の事を相談する事が多くなりました。
人生すべてが学びですよね。 
人生全てが意味があると思いますし、苦労することはいいことだと思います。
江戸時代に檀家制度ができて、檀家の固有のお寺になってしまったが、お寺はもっとオープンに利用すべきだと思います。

こちらが回答を出そうと思うと難しい、回答はその人のなかに在るので、自灯明法灯明 と言う教えのなかにある、自分の中に灯明がある。
本人の中に自分が解決してゆくカウンセリングが主流になっている。
①指示型カウンセリング、②非指示型カウンセリング、③折衷型カウンセリング 大きくは3つにわかれる。
私は鏡になっていればいい、こっちは回答を持っている必要はない。
但し人生経験は必要、共感する態度はとても大事。
死の直前であろうが、死ぬのはその人なので、その人が今死のうとしてのなかでの悩み苦しみ
もその人のものなので、私が解決しようとする必要はない、その人の苦しさに寄り添ってゆく、最後の最後にその人自身が成長するのをサポートする、そういうスタンスなのです。

判断が必要な場合は、専門家に繋げてあげる、それぞれの人を紹介する。(ネットワーク、人間関係が大事)
「命のネットワーク」 一人では限界があるので、高野山で再教育するシステムを作ろうじゃないかと言う事で心の相談員、スピリチュアルケアーワーカーとか専門的なことを学んだお坊さんたちを養成してきました。
儀式、法事が中心だったのが、若いお坊さんが目覚めかけてきて、お寺が地域のかたの為になる
在り方を模索する人たちが沢山出てきた。
震災以降、東北大学が臨床宗教師という制度(養成コース)を作って、宗派、宗別を越えて宗教家が繋がろうと言うネトワークがあったり、宗教家が他の機関と繋がってゆくと言う勉強会が出てくるようになりました。

危機感かもしれない、都会では檀家離れが起きてきて、お葬式をしないで火葬してしまうとか、従来の檀家制度が崩壊してしまうと言う危機感があって、従来のお葬式、法事だけのやり方では存続できないと言う事が情報として入ってきている。
自分たちが社会に出て行っていろんな社会の人と出会って、世界が広がってゆくと言う事で、阪神大震災があって以降、宗教界で静かな動きが出来てきている。
お寺は長い歴史、伝統、経済、自然があり、これは時代が変わろうともこれはベースにする必要はあると思う。

20年前ぐらいからケアする人をケアする事を考えていて、その人たちは疲弊しはじめた。
コアになる人間の中心となるもの(スピリチュアルケアー)に栄養を与えないと枯渇してしまう。
それはゆっくりじっくり時間をかけないといけない。
「命のセミナー」 1泊2日、2泊3日でゆっくり考えて自分と向き合い、他の人と向き合い、自然と向き合い、宗教的な雰囲気(非日常的な雰囲気)に置く事によって、体験的に学習する事を始めて、1200人ぐらいがセミナーに参加していただいて、皆さんから喜ばれている。

















2014年10月14日火曜日

大平長子(プロダクション代表)    ・着ぐるみがくれた俳優人生(中止)

大平長子(着ぐるみプロダクション代表) 着ぐるみがくれた俳優人生
台風情報の為、中止です。

2014年10月13日月曜日

材木正巳(ネジメーカー社長)    ・世界一のネジを目指して

材木正巳(ネジメーカー社長)   世界一のネジを目指して
去年、社員1300人余りのネジ会社の社長に就任した材木さん、携帯電話、カメラ、パソコン等に使われている直径0.6mmのネジ作りに携わり、完成させた喜びは今でも忘れないとおっしゃいます。
ネジから学んだ多くのものが会社経営、生き方にも参考になったと言う材木さんに伺います。

ジャンボジェット機に300万本近いネジが使われている。(小さいものから大きなものまで含めて)
うちの会社のネジは内装に小さいネジとして使われている。
0.6mmのネジは圧転造と言ってワイヤーから作るが、材料は0.4mmしかない。
線材から頭を叩いて、頭部を作る、ネジ部を転造から作る。
頭には十字がついている。 時計等に使う。 
ドイツ、スイスとかが主流で切削でネジを作っていた。 
転造でネジを作ったのは当社が世界で初めて。
大量に作るには切削では限界がある。 
切削では頭の大きさと同じ径ものを使うので、削りかすが出るが、我々の成形は削りかすが出ないので、無駄が無い、安定した品質のものが出来る。

私が入った時にネジを担当した。
金型、作る機械も全部社内でやっていたので出来た。
頭部の十字のところは0.6mmならば厚みは0.03mmぐらいしかない。
金型と金型の精度が出来ていなかったら頭部が破壊したりする。
当時は1.2mmしか作っていなかったが、0.6mmを作れるようになった。
身の回りのほとんどにネジが使われている。
基本的にはオーダーメイドで作るのがほとんどです。
ネジの価格は銭の単位ではなく厘の単位まである。 薄利多売と言う事になる。
グループで年間 300億本ぐらい作っています。

ほとんどのものにネジが無いと成りたたない。
無くてはならないのですが、縁の下の力持ち的な製品と言うのがこのネジと言うものであると思っています。
昭和46年に入社しました。
ネジの開発をして、月に100件ぐらいを新規分野のマーケットに出す。(奥の深いもの)
ネジは6つの構成で成っている
①廻す駆動部 ②頭部の形状 ③頭部の裏の座面の形状 ④ネジ部の首下の形状 ⑤ネジ部
⑥ネジ部先端の形状
一つ一つに10種類以上あるので、組み換えで100万通りのネジができる。
全部当社内でやる事によって、お客さんの信頼を得ている。

当社の責任は大きい、責任は大きいからお客さんの信頼も得られる。
当社では現在7万種類ぐらいを作っている。
ネジ締め機、ドライバーも当社でやっている。
市場で家庭工作でのネジとの違いは?
ネジの後ろにある技術で保障された保障力が違う。
この製品はと言われたら、どの工程で、どの材料を使って、どの機械を使って誰がいつ出荷したか、すべてトレーサビリティーが取れる。
市場でのネジはそういったものが取れていない。

材料、熱処理、メッキも世の中の信頼できるだけの要素で造りこんだものなので、お客さんがお使いになる時に事故、トラブルはまず皆無です。
当社の製品はセルフタップネジと言って、ネジの締結は、昔ですとタップを切ってそこに小ネジを入れるやり方でしたが、今はコストを踏まえて、下穴があいているところに、メネジを整形しながらやるので、これが主流になっている。
今の製品の主流は丸ではなく、三角のおにぎり型になっている。
大量生産をするには三角のネジを使わないといけない。
塑性変形してメネジを成形するので、薄くてもしっかりした締めつけができるので効果がある。
丸い穴に丸いネジを使ったら切り粉がでる、三角ですと、三角の頂点がずれることで、押したり引いたりしながら、相手材を変形するので、チップレス、切り粉がでない、そういう事によって相手が強くなる、切り粉が出ない、薄くても閉まるネジになり、三角の頂点のほうがトルクが低いので自動機むけに良いネジになる。

パテントはスイスが開発して、日本に導入した。
TV、冷蔵庫、洗濯機が伸び盛りのころにこういうネジが要求された。
当時スイスでは三角のネジは三角の材料から生産されていた。(非常に難しい製法だった)
当社で間違えて丸い材料を入れてしまって、結果巧く三角のネジが出来た、それが大量生産するきっかけになった。
ネジは締めて緩めることができる。
小さいネジは締めつけが難しいので、締めつけ機も当社で作るので、お客さんが採用できる。
時計、デジカメなどもそうです。

当社では本を出した「人生のネジを巻く77の教え」 或る出版社から言われたが、40年に渡って従業員の教育用の資料を纏めただけのもの。
多くの方からおほめの言葉を頂いた。
縁の下的な役割で会社にいますが、この本で立派にあなたがいなかったらこれは成り立たない、そういう重要な役割をしているのですと、この本に書いてあるので、表に出ている人は一部の人、一般の人は目立たない存在だが頑張っている、あなたの役割りは立派な事ですよと、この本は書いてあるので、多くの読んだ方から非常によかったと言う手紙を頂いた。
一人一人が大事な存在ですよ、と言う風に書いてあるわけです。
人と人とのつながりができるが、相手と自分とのスタンスを考えて対応すると言う事で一つのものが出来上がるので、相手の立場を考えて行動すると言う事は、押したり引いたりする事と、ネジを締めたりゆるめたりすると言うものもそうですし、たまには息抜きで緩めないと持たない時もあるし、それを、人生をネジにたとえて、話を書いているわけです。

その場に適したネジを作るということは、いいところは皆持っているので、いいところを褒め合っていい結果を出す方がいいと思うので、材料によって締める力が違うのでそれなりに調整しないといけない、適材適所を考える。
野球で、同じチームに9人いたとしたら、どう配置したら勝つか勝たないか、建前でやったらいけない。
(若い監督が私を4番にして、戦ってぼろ負けした事を会社の月刊誌で紹介した。)
適材適所で、部下をしっかり知って最適な配置をすることが大事。
京都の綾部市 ここで戦前からネジを作っていた。
蚕(かいこ)で女性が多く働くところだったが、男性の働く場を作るということで、雇用して地域の発展をするというのが当社の創業精神です。(創業は昭和13年)
海外展開もしているが、日本人は理詰めでしっかりものを考えるが、海外ではアバウトですね。
日本は性能、外観とか規格にあっているかとか、真面目だが、欧米では多少規格は外れても性能が良ければよいと言う様な考え方。




2014年10月12日日曜日

杉岡幸徳(作家)         ・読書会が私を変えた

杉岡幸徳(作家)   読書会が私を変えた
東京外語大学ドイツ語学科の修士課程を修了した後、世界を放浪する旅に出ました。
その後全国各地の独特の習俗を持った祭り、奇祭に焦点をあてた本を出版するなどノンフィクションを中心に、執筆活動を続けてきました。
その杉岡さんが主催しているのが、東京読者会です。
この読書会、月に一回東京都内で行われているもので、参加者は事前に作品を読み込み、それぞれの感性で議論を繰り広げています。
杉岡さんは読書会で取り上げた本や、読書会のメンバーとのやり取りに啓発され、今本格的な小説を初めて執筆しています。
杉岡さんが3年間の読書会で掴んだものは何か、作家としてそれをどのように展開しようとしているのか伺いました。

文章に対する目が肥えました。 自分に対して、他人に対しての文章の在り方に、ついてちょっと厳しくなった。
大学ではドイツ語文学を専攻しました。
オーストリアの20世紀初めの詩人 ゲオルク・トラークル 27歳で亡くなった詩人が好きで、是非ドイツ語で読んでみたいと思ったので、ドイツ語を選んだ。
修士課程、ほとんどゼミで、中には話の脱線する教授がいて面白くて、それが読書会の原点になっているのかなと思っています。
ゲオルク・トラークルに関する修士論文を書く。 オペラみたいな作り方で自信作だった。
博士課程に提出したら、これは論文とは言えないと落とされてしまった。
博士課程に行く予定だったが、呆然としてしまって、アルバイト、海外旅行に行ったりした。
その後にものを書こうかと思った。
売り込みは苦手なので、ホームページを作って宣伝したので、売り込みの手間は省けたと思う。
レストランの紹介などの記事をやっていたが、クリエーティブではないので、面白くなかった。
直ぐに撤退した。
あるところから祭りの連載をやってくれないかとの話があり、私の文章は主観的な文章なので、勝手に書いた。

大学時代ロシアに旅行した。 
新潟(飛行機)→ハバロフスク(シベリア鉄道 1週間)→モスクワ
一日動いても風景は変わらず単調で、一日一時間の時差があるので、5日目に感覚がおかしくなって、このまま永久に列車から逃れられないのではと思い始めた。
一週間目に到達したときには涙が出てきた。
赤の広場(美しい広場と言う意味) 足元からエネルギーがはいあがってくる様な感覚があった。
それまでは堅苦しい、真面目な生徒だったが、ロシアに行った後、9月には学校に行く格好が従来スーツにネクタイだったが、汚いジーンズ、汚いTシャツ、サンダルで学校に行き始めた、自分の中で何かが消えたんでしょうね。

ライナー・マリア・リルケ詩人 彼は若いころは凡様な普通の詩を書いていたが、ロシアに行って精神的な変動を覚えて、帰ってからは革新的な詩を書く様になったと言われ、同様な経験をしたのかなと思っている。
格式、形式とかは、気にするのは止めました。(ロシアの大地によって解き放たれた。)
祭り 奇祭と言うがそんなに面白くなかった。
私は面白かった部分だけを自分なりの考えで、主観的に加工して作品として提示する。
宮古島のパーントゥ(現地語で怪物) 全身を泥で塗りたくって不気味な仮面をかぶったパーントゥが三匹出てくる。
それが住民を追いかけまわして泥を塗る。 それは面白かった。
客観的に書いたのではまったく面白くないので、私なりに考えてデフォルメして書いた。
如何に現実を傷つけずに、致命傷を負わせずに、こっちの主観で作品を作り上げるか、その狭間で苦しんで書いている。

2011年6月に読書会を始めた。
もう一度昔読んだ文学作品をもう一度読みたくて、一人ではなく読んだ人達と意見交換をしたかった。
ブログを作って古典的な名作をテーマとして決めて、読んできて、何月何日に喫茶店に集まってくださいと参加者を募って、当日その本について話し合う。
最初4~5名で10名ぐらいで安定していたが、1年前から20人にしています。
年齢は13歳~60歳ぐらいです。 男女比は半々ぐらい、サラリーマン、OL、主婦などです。
月1回で38冊ぐらいになる。  フランツ・カフカの「変身」 
何を意味しているのか判らないし、皆さん悩んでいました。
いろんな感性の持ち主がいる。
阿部公房の「砂の女」 
半分ぐらいはこの男の様に逃げないという意見の人がいた。(女性の方が多かった)
我々の実生活を誇長して表現しているだけだと思う。

私が司会をしますが意見は否定はしない。 
いろんな意見が混在したまま進んでゆく、終わってゆく方が面白いと思う。
2時間で行う。
地位が人格を作る。 リーダーとして話を纏める、盛り上げる方向に変わってきた。
文章に対する目が肥えてきた、より美しい文章に目を開くようになってきた。
小説を書こうと思っている。
突然或る構想が浮かんで、絶対に形にしないといけないと言う衝動に襲われまして、現在書いているが8割近くになる。
文学賞に応募して新しい道を開こうと思っている。
人物に名前もないし、場所もわからない、と言うシュールな作品です。
私はオスカー・ワイルドが好きで「芸術は芸術のための芸術、芸術は何も言わなくていい、美しければいい。」といっている。
テーマは無い方がいい、あったとしても著者は言わないほうがいいと言うのが私の考え方です。
展覧会、音楽会にいって、感想を話し合うと言う事もやっていきたいと思っている。

2014年10月11日土曜日

水谷和郎(記念病院医科長)  ・震災20年を語り継ぐ、あの日を知ることが出発点

水谷和郎(神戸100年記念病院医科長)  震災20年を語り継ぐ  あの日を知ることが出発点
水谷さんは震災当時、震源地に近い淡路島の洲本市に在る兵庫県立淡路病院に勤務する若手の内科医でした。
16万人が暮らす島の災害拠点病院、震災の日の朝その病院の当直勤務でした。
1995年1月17日午前5時46分、淡路島は直下型の激しい揺れに見舞われます。
しかし島の南に在った病院は水道や電気が止まることなく、救急医療の機能は保たれました。
島の北部の激震地から多くのけが人が殺到し、救急外来は大きな混乱に陥ります。
水谷さんはその時の体験を医療関係者に語る活動をしています。
たまたま病院関係者が震災当日の記録ビデオを元に学会やセミナーで講演し、医師や看護師、救急隊員、医学部、看護学部の学生などに、あの日の体験を追体験してもらおうと言う事です。
自分ならどう動くかを考えること、それが次の災害に備える力になる、そう訴える水谷さんに伺います。

あの朝、当直の医師は3人だった。 
私は3年目の内科、外科の1年目の先生、整形の5年目の先生でした。
ゴーッと言う音があり、縦揺れが来て、それから横揺れが来た。
TVしか情報が無くて、大変だと思っていたら、全国の震度がでだしたころに、神戸と淡路の震度が出てこなくておかしいなと思いながら、消防所に電話したときに、生き埋めが何人かいるとか、救急要請が11件有ることが判る。
はじめ大変なことになるという思いはあまりなかった。
6時ごろ、手を怪我したと言うのが最初の患者だった。
ビデオを撮りだしたのは7時頃だった。(外科医長)
ひっきりなしに救急車が来るようになる。

処置をする場所が無い状況になる。(8時頃)
心臓マッサージを30分ぐらいした患者さんがいた。(蘇生が不可能だと言う判断があるが、あの時ジャッジができなかった。) 
心臓マッサージの患者で通路が埋まっていた様な状況  
次の人を助けなくてはいけないので、マッサージは止めなさいという指示が出た。
トリアージ 助けられる人を助ける。  トリアージについて救急医療をやっていた先生しか知らなかった。
何とかしてあげたいという思いはあるが、心臓マッサージをしながら病院に辿り着いた方は6名いたが、今の感覚では6名とも助かる状況にはなかった。

外科外来、整形外来、脳外科外来を救急外来ではなく、軽傷者として扱うとして、救急外来に対して楽になった。
それなりに対応できる体制になった。
2日目の朝、ゆっくり目に行ったら、昨日よりも混乱してしまっていた。
ガス配管が漏れたための事故で、救急外来が押し寄せてきた。
地震が夜中だったり、昼間だったりした場合にはもっと大変な状況になってしまったのではないかと思う。
震災から3年までは、結構話ができたり、TVの震災のことがあったりしても積極的にみることができたが、3年経った後はTVを見ていてボロボロ泣けてしまうし、阪神淡路の話になると、チャンネルを変えてしまって見れなくなってしまった。
ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとの思いがどっかにあっての後悔と、淡路にいて自分の生まれ育った神戸に対して何もできなかった、その後悔のためなのか、10年ぐらいまで話が出来なかった。

10年経って姫路も大変だったろうと思ったが、当時働いていたスタッフから揺れたけれど、大変ではなかったと聞いて、あーそんなもんだったかと言う思いと、私が淡路病院の話をしていたら、看護師がうちの病院は地震になっても誰もこうしないと言ったので、それはあかんと違うのと思い非常に危機感を感じた。
外科医長の撮ったビデオを頂いていたが、見るなんてことはそれまで有り得なかったが、淡路病院のあの映像を見てもらったら、ちょっとは阪神淡路大震災が、現場がいかに大変かが、判ってもらえるかなと思って、院内で見ることになったのが最初でした。

医療関係の学会や、勉強会などで淡路病院での体験を話す様になりました。
ビデオを交えて話しました。
災害時の映像、心臓マッサージをやっている時に先生がもうやめてくれと言った時に、命を諦めることはショッキングでした。等の感想を得た。
伝わってほしいのは災害の時には大混乱になりますよ、慣れている淡路病院でもそうなので、知識を持って訓練をして、どんな状況で有っても対応できるような、頭作りをしてくださいね、と言う事が伝わってほしい。

淡路病院が動けたのは被災地の端っこの病院で、一つでも欠けていたら多分あんな動きにはならなかったろうなと思います。
どんな被災になるかは分からない。 想像力を如何にたくましくさせるか、マニュアルをどう応用できるか、自分が何をすべきか、災害医療に必ず求められることだと思います。
もうちょっと何とかできたのではないかと、20年経っても変わらないですね。

2014年10月10日金曜日

奥田敦也(古典尺八奏者)    ・禅の音を求め、手作りの尺八を吹く

奥田敦也(古典尺八奏者)    禅の音を求め、手作りの尺八を吹く
昭和20年 愛知県生まれ 69歳 国分寺市在住 若いころからジャズのトランペッターとしてプロの活動をしていましたが、思うところがあって、40歳の頃古典的な尺八の世界に身を転じました。
奥田さんの吹く尺八は「地なし延べ管」と呼ばれる、古い形式のもので、自らの手で山から竹を切りだし永い歳月をかけて、作り上げた古典的な尺八です。
法竹と呼ばれ、仏法の真理を追究する道具だったと言います。

今ここに30本以上ある。 短いものは30cmぐらい。(1尺1寸) 
節が一つしかなくて一節切り(ひとよぎり)と言われているが、室町時代に吹かれた尺八。
長いと1m以上ある。(3尺5寸) 腕を一杯の伸ばさないと穴の位置まで届かない。
聞こえてくる音 遠音(とおね)と言われる。 手作り。
微調整は門人にはできないので、私がやっています。
今の尺八は中に砥の粉、石膏、漆などを塗って調制する「地あり中継管」と言って、調律がとれる。
真中から二つに切断されている。 調律しやすくなっている。

「地なし延べ管」は継ぎ目が無くて、一本の竹のままで内部に加工がしていない。
尺八は中国からきている。 聖徳太子の時代から尺八と言う言葉が有る。「地なし延べ管」だった。
虚鐸 江戸時代寛政年間に虚鐸伝記告示会があって虚無僧が作った名称が虚鐸という名称。
鈴の古い言葉を鐸と言う。  
銅で作った鐸が銅鐸 鉄で作った鐸の事を大和言葉で「さなき」と言って霊的な力がある。
鈴をたくさんつけて、お祈りをしたりする。
この世とあの世をつなぐような霊的な響きがあるという事が鐸、後に鈴になったわけです。
尺八は虚鐸、あるいは法竹(ふっちく)と言う言い方もされる。
法は仏教的な意味合いからすると真理 真理を求めるための道具に竹を使うという事から法竹ともいう。  仏具と考えられていた。

尺八の魅力は江戸時代に吹かれた独奏の調べ 尺八の本曲です。 
本曲を吹く事を「吹禅」と言います。
坐禅と同じように禅の理念の呼吸を使う。  呼吸を気ととらえて、息を竹の中に入れた時に、気の流れが音に変換する、それを気の表れとして、それがいわゆる本曲だと思っています。
呼吸を吐ききることが大事、吸う息よりも吐く息が大事。
普通の尺八は買う事が出来るが、「地なし延べ管」は自分で作るしかなかった。
「本手の調べ」の曲(吹禅する)

自然の音と融合する。
日本の楽器の音と西洋の楽器の音の違いは、「さわり」 西洋の楽器には「さわり」がない。
さわりが無いと本当のいい音は出ない。 さわりは雑音 
竹やぶの朽ちた竹に風が吹き込む音、至上の音、理想の音と言われている。
さわりは日本人の音の感性から言うと非常に大事。
純音と雑音を平等に扱う。
若いころはプロのトランペッターだった。  ジャズが好きだった。
モダンダンスをやっている叔母がいて(奥田敏子) 父が亡くなった時に追悼公演で、踊りの素材の音に武満 徹作曲の「エクリプス」と言う曲を使って横山勝也さんが吹いていた。
それを聞いた時に吃驚した。

物凄いカルチャーショックを受けて、虜になった。
縁あって横山勝也さんに師事しました。
横山勝也さんはヴェンバー・ステップスを (尺八、琵琶、オーケストラ)をニューヨークフィルと一緒に演奏された。
30年前にトランペットを捨てて、尺八に自分の全てをかけたいと思ったが、トランペットを捨てると生活ができなくなるので、「禅茶房」という名の喫茶店を開いて、尺八を研究していこうと思った。
お客さんの求められるままに演奏する様になって、そのうちお客さんから自分も習いたいと言う人が現れて、ドンドン増えてきて、喫茶店よりも尺八の稽古場の様になってしまった。
外国人も増えてきて、そういう人たちが国に帰って、プロになっていて、「禅茶房」流と名乗っているらしい。

デンマークの女性が11年間ぐらい私のところで稽古をしたあとに、国に帰って、後にロンドン大学にゆき、現在博士号まで取ってしまった。
生徒は130~140人が来ていました。
自分で山に行って取ることから始まるので、竹取の会を催して、毎年秋には山に取り行っています。
昨年で24年続いています。
尺八を作る会を次の年の春に行っております。
最初の頃は群馬県の方にいっていたが、長野県に移って現在に至っています。
演奏活動はリサイタルをしません。   
私の音を聞きたいと言う方は禅茶房サロンに来ていただくのがベストだと思う。
国分寺市の文化祭が秋にあり、勉強会と言ったらいいのか、そんな形でやっています。

10年ぐらい前、禅のCDを出したところ外国から声がかかり、チューリッヒ大学、ウイーン大学、バンクーバー大学、オークランド大学、ロンドン大学等に行って演出している。
「鶴のすごもり」を演奏する。 冬寒い時期に食べものが無くなるとひなが先に弱ってしまう。 
ひなに親の鶴が自分の肉を引き裂いて、食べさせる。
親が心身を砕きつくして、子を育てる、という巣篭因縁経という伝承にもとずく曲と言われています。
迫力のある音 尺八で一番難技巧と言われているのが「鶴のすごもり」で技巧的に難しいものがある。
2尺2寸の尺八で演奏した。 一般に普通もっと短い竹で吹いている。
(尺八の事を奥田さんは竹と呼んでいる)
竹の音は鈴の音、鐸 霊的な音 恐らくこれに近いものがあると昔の人は感じたのではないか。
私も感じています。
竹と言うものは、今の尺八の様に楽器にしてしまったら、そういう魅力は無くなるのではないかと思います。

楽器にすれば、多くの音が出るし、音量も上げられますが、竹の持っている音と言うのは、自然の竹の音は小さな音、小さな音や音色は物凄く豊かだと思っています。
小さな音、豊かな音色を出したいために山にいって竹と出会い竹を取る、出会いこれも縁だと思う。
竹と対話して、お前はどういう性格だとか、竹の持っている個性をいかに引き出すか、そういう個性を引き出す息の入れ方がしゅうわ?(調和?聞き取れず)だと思います。
そこに面白みを感じています。
10本竹があれば10本の個性がある、全部音色が違う、人間と同じ。 
竹の個性を引き出すために、息を探してゆくわけです、それを吹禅の境地だと思っています。
人間が自然に対して謙虚であると言う事が一番大事なことだと思います。
竹はゆっくり心を静めて、息をゆっくり吐き出す、これは健康に一番いいと思います。








2014年10月9日木曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第8回

保坂正康(作家)  昭和史を味わう 第8回 ”昭和天皇実録”を読む(2)
その時、昭和天皇はどう考え・どう行動したか
40件新しい資料が有る。 侍従長であった百武三郎の日記。
昭和11年から19年まで侍従長、軍人であった。日本の昭和史が戦争の時代。

昭和11年2月26日 2・26事件 形としてはクーデターの様な形を起こした。
26日~29日の4日間 国家の中枢を制圧していたが、一貫して天皇は反対していた。
本庄 繁 侍従武官長の本庄日記でも、判っていたが、それよりもさらに怒りが激しかったのを今回の日記から判明する。
不祥事件が起こることを想定していた節がある。
昭和10年8月に陸軍省軍務局長、永田 鉄山が相沢三郎に殺害される。(相沢事件)
裁判で被告のやったことを青年将校が悪いことではないと弁護するが、それを新聞に掲載されるが、天皇はその記事をよく読んでいた。
本庄に質問する。 
軍法会議は本来秘密でやるべきで、証人を立てて弁護する裁判するではないはずだと、行政が司法とは違うじゃないかと、それなのにこの裁判は何かと聞いている。
天皇は青年将校の不穏な動きをこの裁判を通じて報道の中から、感じていた。

本庄を信用していないんだなあと思う事がある。
昭和11年1月の実録のところに出てくる。
本庄の娘婿山口一太郎陸軍大尉 二・二六事件で無期禁固) 青年将校と気脈が通じている。
本庄は山口一太郎の弁護する。 
山口が新兵が入隊するときに挨拶するが、政治を徹底的に批判するが、其れが新聞にでるが、本庄にきくが、申し訳ありませんと答えるが、天皇は明らかに不穏な動きを察知していて、本庄を信用していなかった様だ。
天皇は26日から3日間、本庄を41回呼んでいる。 (自分のそばから離さなかった)
どうしてこう言う風になったのか、軍はなにをやっているのかと叱責も有ったと思うが、本庄も青年将校に味方をするようなことで動いているのではないかと、監視したのではないかと私は解釈をした。

昭和16年9月6日  
御前会議 昭和天皇が明治天皇の和歌を読んで、平和の意志を明らかにした。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」
これを読んで外交交渉で解決しろと言う事を明らかにした。 
定説だが今回でも明らかになる。
近衛内閣は軍部に押されて、(東条英機陸軍大臣) 決着がつかない。
天皇は外交が弱い、これは戦争のための決定ではないかと近衛にいう。
天皇は戦争に傾斜してゆく国策決定者に懸念を持っていた。
9月6日の御前会議、10月17,18日近衛内閣が辞めて東条内閣が成立して、この頃はどちらかと言うと受け身に書れている。
従来、内大臣木戸幸一と天皇との間で話がついて、東条を重臣会議で決定すると理解されていたが、今度の実録では重臣会議、木戸幸一達が動いて、東条英機を推挙するという事に実録ではなっている。(東条は主戦派だが考えを改めさせれば、軍を抑えるだろうという考え。)

11月3日  海軍の軍令部総長・永野 修身に戦争をするとすれば、どういう風にやるのか、いつ戦争をするのかと天皇が聞いていることを実録に書かれている。
11月5日 御前会議 外交を進めるけれども戦争の準備をする方向になる。
11月26日 ハルノートが突きつけられるが、外交交渉は駄目と言う事になり、戦争が決まる。
ハルノート以後はちょっと前面にでる。 
天皇制(皇統)を守ることが大事だということで、動いてきたのではないかと私は思う。
大権を賦与している者が戦争をしなければこの国は潰れますよ、この国はどうなるか判りませんよと、言って報告してくる、とするならば、皇統を守る為に戦争と言うのもあり得るのかと、仕方が無いかと思ったのではないだろうか。
東条をはじめ軍人たちが物のけにつれたように、戦争だ戦争だと走ってきたので、天皇にそのことばっかり説明したので、大権を賦与したものがそこまで言うのであれば、しかたがないかなとの想いが有ったのではないか。
16年12月8日 日米開戦

昭和20年8月15日  終戦
8月15日に至る道は天皇はかなり積極的に平和にしたい、戦争を修めたいという気持ちは早くから持っている。
システムが戦争の体制になっていたので、意志をどう著わしてゆくか、それが実録の山です。
いつから和平の感じをもったか、私は昭和19年ごろには持っていたと思うが、形として著わしてゆくのは昭和20年2月に重臣を呼んで、いろんな意見を聞く、5月に鈴木貫太郎内閣作る、6月に大きな柱になる。
6月8日に御前会議、本土決戦を決めながら、ソ連を仲介に和平交渉をやるという形になる。
昭和天皇は実録を読むと、日本の政治の判断が軍事に踊らされている状況で、段々天皇の意志が固まって、鈴木内閣、阿南 惟幾陸将を説得して行く形で戦争をおさめる方向にいく。

8月6日広島に原爆が投下。 ソ連が対日宣戦布告  9日 御前会議
正式な情報が天皇に伝わらないが、天皇は海外の短波放送を聞いて戦況を調べている。
海軍の軍事力を長谷川清に6,7,8月 3カ月かけて調べさせている。
海軍力、防備体制等不備など本土決戦等は出来ないことを理解する。

昭和20年9月27日 マッカーサー元帥との第一回目の会見 11回会見している。
「日本の戦争責任は全部私にあります。  私がその責任を負うつもりであなたの前に立ちました」と言うが、感激したことをマッカーサーの回想記には書かれている。
2回目以降は書かれていない。(政治的な発言もしているのではないかと思われるが?)

昭和21年1月1日  人間宣言 天皇を神の末裔と信じる日本国民が、其れが故に世界を征服するという誤った考えなどは持ってはいけない、神であることの否定。
後年、明治天皇の五カ条の御誓文 あれは日本の民主主義の原点です。 
日本にもあの様な民主主義が有ったんですという事を伝えたいと言ってます。

昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復した日 国際社会に復帰。
吉田茂全権団を宮中に呼んで茶話会を開いたりしている。
退位の話が有ったようだが、今回の実録では触れていない。
主権者から象徴へ。

昭和34年4月10日 皇太子結婚 天皇は大変喜んだ。 和歌をいくつも作った。
昭和50年9月30日 アメリカ訪問 その4年前昭和46年8月欧州7カ国訪問。
イギリスの訪問の8月5日 実録では着いた日だけで14ページも書いてある。
皇太子としてきた時のことが思い浮かべたことと思われる。
アメリカでいろんなパーティーで話があるが「不幸なできごとがあった」ことを述べる。
占領期 日本の飢えと貧しさの中で、感謝の気持ちを言っている。

私たちも昭和の時代をこういう風に生きてきたという事を纏めることも大事なことだと思う。


2014年10月8日水曜日

遠山昭雄(介護紙芝居研究者) ・現場から生まれた介護紙芝居

遠山昭雄(介護紙芝居研究者)   現場から生まれた介護紙芝居
埼玉県川越市 東京経済大学卒業後に、介護施設の職員になり、16年前に介護に紙芝居を生かそうと考えました。
当時は子供用の紙芝居が多かったために遠山さんは、高齢者や介護に適した紙芝居を求めて出版社等に粘り強く働きかけました。
その結果これまでに紙芝居18作品が出版され、今では介護の現場で幅広く使われていると言います。
紙芝居には遠山さんが介護の現場で33年間体験してきた思いや工夫が込められています。
現在、遠山さんは仕事は退職しましたが、お母様の介護の傍ら紙芝居のボランティア活動を続けています。

介護には興味はなかったが、友だちから人を求めているところがあると、そこ行く事が介護の世界に入ってゆく入口でした。
施設は身体障害者の養護施設で、ほとんどが脳性麻痺の人達でした。
今の介護とはかけ離れた仕事でした。
大学でゼミナールが心理学、卒論がホスピタリズムでした。
身体障害者の養護施設が閉鎖的で、当時精神医療では解放化が叫ばれていた。
夜勤の度に亡くなるという事にぶつかって、かなりショックでした。
人の生き死にに関係ない仕事をしたいと思った、自分が働きかけたものによってものが具体的に残る様な実感を得たかった。
職業訓練で木工の勉強をしたが、木工で食べてゆく道は厳しい事も判って、老人ケアに辿り着いた。
老人ケアに移ってからは、毎日のようにレクリエーションをしなければならず、メニューを考えた時に、街頭紙芝居を思い浮かべた。
街頭紙芝居は昭和5年に始まったことが判って、それに引きよせられたのは、私の世代より上の世代、今のお年寄りはほとんど紙芝居に吸い寄せられたのではないかと思って、レクリエーションの時間に紙芝居をやれば、盛り上がったりするのではないかと思った。
紙芝居をやってみて、がっかりするような結果だったと思う。
お年寄りを喜ばせる様な作品選び、演じ方がまだ出来ないのかなあと思いました。
作品を探し廻ることになったが、本屋さんに行っても無く、図書館には置いてある。
子供向けがほとんどで、それが壁だった。

紙芝居文化推進協議会があるが、そこの会員になったり、全国紙芝居まつりというイベントが一年おきにあるが、そこに参加したりしていた。
手作り作品の中から、大人が喜んでもらえるような作品を探して、製作者と交渉してコピーして出来れば出版できないかと、出版社に交渉を始めた。
認知症にきく紙芝居は出来ませんかと、作家の人には話したことがあるが、「えーっ」と言われた。
出版社もリスクがあり、出版社もなかなか踏み出してくれる、と言う事はなかった。
「始めよう老人ケアに紙芝居」と言う本を出してもらった。(私の監修で)
セミナーを開催して、現場で働いている介護職と、紙芝居関係者 半々ぐらい来てくれて、高齢者向け介護紙芝居というジャンルを何とかしたいという機運が生まれた。

或る程度売れないといけないので、リスクはあるが出してみようという事になる。
介護紙芝居は全作品18作品。
「金色夜叉」人気がある。  尾崎紅葉の代表作 
(紙芝居で熱海の海岸の一場面を読んでもらう。)
「お茶にしましょう」→言葉遊び お茶 ちゃぶ台 大福 それをきっかけに会話になったりする。
「連れション」→3人の子供の神様が出てくる話。 おしっこの出具合。
介護紙芝居 作品の内容、演じた時に何らかの形で、ケア的な要素が有っていいかなあと思う。
遊び、楽しさがあって娯楽性に富んだ内容や演じ方であるという事が一番望まれる。
双方向の関係、やり取りが生じやすい作品が理想的かなと思います。
それが介護につながっていけたらと思っています。

盛り上がるときも有れば、そうでないときもある。
紙芝居関係者の区分の仕方、参加型と物語完結型があるが、ほんらいの紙芝居は物語をきちっと伝えることが本質的なものかもしれないが、介護現場では遊びの要素、双方向の関係、観ている人たちの横のつながりを作りだすうえでは、遊びの要素を取り入れた参加型の紙芝居を多く活用するという事になります。
認知症の人が多い場合は参加型、童謡とか唱歌が入っていて、皆で一緒に歌いながらストーリーが展開してゆく作品になっているので、そういう作品を多く利用する事でやっています。
「金色夜叉」など大衆演劇路線といっているが、若いころ記憶した内容をもう一度紙芝居で演じて、そのころを思い出してもらうのが有効かなあと思っています。

アイコンタクト取れるように、お年寄りと目を合わせるように工夫している。
紙芝居のボランティア活動をしている人達のサークルが出来てきて、介護施設にボランティアで入りこんで紙芝居を演じることが増えてきています。
堺 正一さん(元県立盲学校校長  6月に放送した「高齢者のケアに紙芝居」)も同じ思いをもっているということを知って吃驚していますが、情報交換をしています。
紙芝居イベントに参加すると、紙芝居友だちができてきて、自分が支えられている様な気がします。
紙芝居が今後ライフワークになるのではないかと、感じがしている。
出版以外でも演じるという事を通して楽しみを持続できる様な気がする。
絵は周りに描ける人がいるので、紙芝居の脚本が書ければいいなあと思います。




2014年10月7日火曜日

沢 竜二(俳優)          ・一座を率いて60年

沢 竜二(俳優)       一座を率いて60年
1935年 福岡市生まれ 両親は各地を回って芝居をする旅役者、沢さんは4歳で初舞台を踏み、16歳で座長と成って一座をひきいて、芝居を意欲的に取り組みました。
今ではいわゆる大衆演劇の舞台ばかりではなく、映画やTVなどにも出演して、幅広い役柄をこなして高い評価を得ています。
沢さんは大衆演劇を歌舞伎や新劇に負けないジャンルにしようと、侍ミュージカルと銘うって、アメリカでの公演をするなど、日本の芝居の魅力を世界に発信しようとしています。
母の旅公演中に芝居小屋で生まれたという、沢さんの話を伺います。

6月に福島、南相馬で5か所、寸劇と踊りと歌とをやってきて、皆を笑わしてきました。(3年ぶり笑ったと言っていました)
4歳で初舞台を踏んでいる。 子役で出された。 忠臣蔵の子との別れの場面に登場した。
演劇をやるのに田んぼの中に舞台だけを作り、むしろで囲って、下にむしろ、ござを敷いて開幕は夜の7時からと成る。
新国劇の澤田 正二郞先生から母は名前を頂いた。
先生の人気が上がると女沢正と名乗る人が8人いた。 母も女沢正と名乗っていたが、8人もいるのはまずいという事で、先生がこっそり見て、母が8人いた中から選ばれた。
8人兄弟で、忙しくて母は九州から離れられなかった。
一番辛かったのは、夜遅くまで起きていて、コックリコックリしていると、母があやしてくれるが、おしろいがついてしまい、学校に行くとそれを周りからからかわれて、いじめの対象になった。
3日~5日で次のところに行くので、学校も転校になってしまう。
小学校2年生の時に、父が劇場を買ったので、それからは落ちついて学校に行けるようになった。

劇場が中学2年の時に燃えて、久留米に移転するが、万能選手だったので元の中学から呼ばれ、朝早くから通った。(走って通う様になる)
高校に通う様になるが、仕送りが少なくなり、3カ月滞納したものは退学という張り出しがあり、それを見て学校は止めた。
役者になることにする。  段々人気が上がり、男座長の方が客が入るという事で、沢幸次郎と言う名前で16歳で座長になる。
沢幸次郎として凄い人気になる。 関西にも行くようになり、関西でも人気になる。
昼間は時間が空いているので、ウエストサイド物語の映画を見て、凄いと感動して、どうしたらいいのか3日間芝居を休んで寝込んだ。

アメリカにゆき、日本のものをやるべきかと考えたが、そのためにはまず東京と考えた。
船村 徹先生に手紙を出して、先生に会う事になる。
40人の座員を置いて一人で東京に来れるのかと、言われたが行く事を決心する。
29歳で東京に出てくる。
考えた5倍、10倍の苦労だった。 家賃が払えず、キャバレー回り、内職などをする。(親子3人暮らし)
父が死んで、全部質屋に入れて、飛行機代がでて、死に目に会えた。
もう先が見えなくて、先生にもう帰りますと、言ったら、先生が5000円をくれた。
不運が随分続くが、逆境に強い人間になった。

稲垣 浩監督が 無法松の一生 主役 阪東 妻三郎 、三船敏郎  2本とも稲垣監督製作
3本目を考えているが、三本目の主役はお前だと言われて、1か月後にクランクインするから頑張れと言われて、監督は死んでしまった。
芸人研究所を作って80人集まる。
再び一座に戻って再生する。
大江美智子と半年間熱海で演劇をやり、「人生劇場」の水槽を使った大立ち回りをやったが、それを見ていたアメリカのプロデューサーが俺たちにやらしてくれと言うよな話もあり、アメリカ公演が増えてゆく事になる。
色々なところで開催をして、ラスベガスで3カ月のロングランをやった。
言葉は日本語でやるが、役者が喜怒哀楽を出せれば、通じることが判った。
宮本武蔵をやるが、一乗谷の決闘 一場面で最後に6歳の子供が白装束で相手としているが、子供を突く場面があるがブーイングで客が立ちあがるが、 立ち廻りをやると座ってきて、最後で二刀流でやる様になると拍手が来るようなる、最後の場面で、振り返ると殺した子供が立っていて、生きていると思って子供を抱くとやっぱり死んでいたかと、慟哭すると客が大拍手でした。

武蔵の格好をしたまま最後に「マイウェイ」を歌う。 日本語
プログラムにだけは英語で紹介してほしいといった。
「子供のころからスターではない、父母も旅役者だった。私も旅役者。 夢が一つ壊れたら夢が一つ消えたら、もうひとつ夢を見ればいい、命は一つでおしまいだけど、夢が消えても死にません。夢は必ずどっかに落ちています。 お互いにそれを拾って生きていきましょう」
ニューヨークタイムスの一面に、沢は武蔵の格好をして歌う「マイウェイ」はフランクシナトラを彷彿とさせる、という記事がでた。
これ以上の絶賛は無いので、ここで止めなかったら、客が入らなくなったりしたらみじめだと思ってアメリカ行きはここらがいい潮時だと思った。

アメリカの客は九州のお客と似ていると思う。 即身体と声で返ってくる。
昔日本では喧嘩をするにも、どこまでやればいいと言う事は解っていたが、今は判らないから命がけでやってしまう。
踊りは自我流でやっていたが、国立劇場でやってもやりだしたら度胸がついてしまった。
蜷川さんの舞台にも呼ばれて出ているが、僕には絶対文句は言わないが、あの人にはかなわない。
健康の秘訣 ストレスを溜めない。 芝居をやっているとストレスは溜まらない。










2014年10月6日月曜日

松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル)  ・80歳、今もステージに立ち続ける

松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル) 80歳、今もステージに立ち続ける
ムード歌謡コーラスグループのセンターボーカルを担当している松平さんは、80歳の今もステージに立ち、甘いソフトな歌声で多くのファンを引き付けています。
多くの歌手が歳と共に第一線を退いてゆく中で、松平さんは独自の健康維持で、現役を保っています。
80歳での健康維持法、ボイストレーニング、若いころからエンターテイナーとしての芸を磨いてきた多くの方々との交流録について伺います。

80歳が来た様な気がしない。  マヒナスターズ結成60年
新幹線もなく演奏旅行がきつかった。 北海道等はバスの移動で疲れた。
歯はすべて自分のもの。 母がにぼしを味噌汁に入れたり、ぼりぼり食べていたりした。
生まれは新宿だったが、戦争のため北上に学童疎開していた。
末広亭で落語を聞いていたので、疎開先のお寺でしゃべって、食べものを貰ったりした。
戦争が終わって、直ぐに疎開先から帰ってきて、全焼で何もなく、お爺さん宅が焼けてなくて、アパートもやっていたのでそこから中学、高校と通った。
淡谷のりこさんが歌っていたのを聞いて、涙が出た。
立教大学に進学、ハワイアンをやった。

灰田 先生が池袋にハワイアン喫茶をやっていて(自分自身ではないと思うが)、そこに出演するように言われて、スカウトされて、進駐軍のところに行ってやっていたが、帰りが遅くて辞めたが、再度誘いがあった。
ギターもやったが手が痛くて、ボーカルだけをやる様になる。
三島 敏夫佐々木敢一、私でビクターから宣伝用のレコードの話があり、それに歌をいれていたが、三島さんが佐々木を連れて戻ってしまって、裏声をやる人がいなくなり、私がやらざるを得なくなり、裏声を練習していたが、喉が弱ってしまって、血が出て直ぐ病院に入院した。(22,3歳の頃)
結核だと思ったら1カ月半で治る。
佐々木敢一が戻ってきて、元の一人で歌えると思った。(「ウナ・セラ・ディ東京」あたりから)

(台風関係のニュースの為、中断)
ステージでジャズを歌ったり、ハワイアンを歌っていたりした。
トリオロスパンチョスがきて、声が素晴らしかったので、ラテン歌謡をやってみたくなった。
ウナ・セラ・ディ東京」 作詩 岩谷時子さん
声の管理 食事 焼き肉だとかは疲れが取れる。
車は夏は冷房、冬は暖房で声を出すのには、一番いい。
休みの日は発声練習、ジムに行って運動をやっている。
身体の弱っているところをカバーしようとして、余分なことをするといけない、返って悪くする。

子供のころから歌謡曲が好きだった。
歌謡曲、ジャズ、ハワイアンを良く見に行った。
カメラを持っていれば、東海林さん、岡さんとかいろんな人と一緒の写真を撮れたので、悔やまれる。
東海林さんは酒が好きだったので、一緒に飲んだりして、帰りに肩を組んで歌を歌ったりした。
座右の銘 「人生成り行き」 その時その時でがむしゃらにしないで、成り行きでやる、そういう気持ちです。


2014年10月5日日曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第7回

保坂正康(作家)   昭和史を味わう 第7回 ”昭和天皇実録”を読む(1)
 昭和天皇の青少年時代 人間形成を見る。
2014年9月9日公表 61冊 1200ページ 宮内庁作成
明治34年4月29日誕生  昭和64年1月7日亡くなる。
62年天皇在位
明治天皇記は 120卷(1冊は薄い) 公開は13卷 黒塗りがある。
今回は全部公開されたのが、画期的。
今まで推測として語られていたものが事実と成った部分がある。
1回目は誕生から即位まで、1901年~1926年まで
2回目は即位から亡くなるまで 1926年~1989年

幼少期の教育
大正天皇に出した手紙が3通公開されている。  
8歳の時の両親への手紙(静岡県沼津御用邸での日常での)
「まだやっぱりお寒うございますが、おもうさま、おたたさま ごきげんよういらっしゃいますか?
迪宮(みちのみや)も、淳宮(あつのみや)も、照宮(てるのみや)も皆丈夫でございますから御安心あそばせ。
私は毎日学校がございますから、7時45分ごろから歩いて通います。4時間のおけいこをしまって、みうちに帰ります。 そしてお昼をしまって大抵、山や、村や、松林に出で面白く遊びます。・・・昨日はお使いでお手紙のお道具や、おまなを頂きましてありがとうございます。 おもうさま おたたさま
ごきげんよう 2月4日 迪宮裕仁」

桑野鋭 自由民権運動をやっていて、新聞記者になって、宮内庁の中で家族向けの雑誌を出すのでそこの編集者として雇われたようだ。
昭和天皇、秩父宮、高松宮殿下の幼年期の教育係をされている。
新しい時代にこういう天皇であってほしいという想いが明治天皇、大正天皇にあったのでは?
足立たか 学習院長の菊池 大麓の推挙で教育係につく。(科学的に見つめる目)
足立たか の父親は札幌農学校で、新渡戸稲造と同期生、クリスチャンの雰囲気を身に付けている。
全人格的に広がりを持つ様に教育している。
学習院の初等科に入学 院長が乃木 希典
明治天皇から孫を育ててほしいという事で院長になる。  
質素、倹約を厳しく指導する。
乃木さんを家族に一番近い人として昭和天皇は尊敬していたようだ。

歴史が好きで、生物に対して興味を持つ。
物をよく見るという事を大事にしている。
二心のある者は嫌いだという事をよくいっていたと書かれている。
生物学、分類学 土台になる学問に興味を持つ様に導いていったという風に感じる。
明治45年 明治天皇が亡くなる。 11歳の時
皇太后が3人を呼んで、亡くなった姿を見せる。
乃木さんが殉死するが、その前の日に昭和天皇に2冊の本を渡す。
今までの資料では2冊と成っているが、実録では1冊の名前しか載っていない。(これからの検証が必要)

大正3年からお学問所ができて、帝王学を大正10年まで学ぶ(13歳~20歳)
学友が7~8人いる。 勉強のほかに体育、天皇に関しては別枠で帝王学、軍事学も学ぶ。
帝王学 基本的には歴代の天皇の事績を勉強する事、これからの時代は天皇は国民とどうあるべきか、と言う様な事を学ぶ。
どういう様な託し方をするのか、どういう人を信用するのか、どういう様なシステムの上でそれが動くのかなどを学んだと思います。
独自の相当分析力を持った、歴史的勘の優れた君主だったのではないのでしょうか。
大正10年にヨーロッパ訪問する。

イギリス訪問など 反対派も出るが、牧野 伸顕などが説得する、これからの天皇は世界をよく知っていなければならない、国際環境をよく知っていなければならないと、出発する事になる。
大正10年3月3日 船で横浜から出発する。 
イギリス中心 ジョージ5世が別室に呼んで通訳と3人で立憲君主制を説く。
立憲君主政と言うのは 天皇と言うのは君臨すれども、統治せず。
貴方が命令したり、指導するのではなく、貴方は存在しているだけ、臣下のものがきちんと大権を使う様に、そういうシステムになっているのだから、貴方は直接口をはさんであれこれいってはいけないんだと、それが君臨すれど、統治せず、立憲君主制 天皇はジョージ5世から教わったと言います。

第一次世界大戦が終わってから2年なので、ジョージ5世から戦場を見てほしいと言われて、フランス、ベルギーなど戦場を見ることになる。
戦場を見て、悲惨な戦争を聞かされて、時に涙を流す。 
戦争が如何に悲惨かを知らされる。
その思いをジョージ5世にベルギーから電報を打っている。
ヨーロッパ訪問は思い出の宝庫の様になっているのではないのでしょうか。(船での半年の旅)
大正天皇の身体がおもわしくなく摂政(天皇の名代)になる。 大正10年11月25日
大正天皇が亡くなる大正15年12月25日までの5年間。
大正デモクラシーが昭和天皇が即位された後、なくなってゆくのはなぜなのか、天皇の気持ちとは別に軍部がかなり横暴になってゆくプロセスがあるのではないでしょうか。


2014年10月4日土曜日

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家) ・百年の夢を次の百年に

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家)  百年の夢を次の百年に
81歳、昭和8年大阪府に生まれ、昭和32年に宝塚歌劇団に入団、「ベルサイユのばら」や、「風と共に去りぬ」など多くのヒット作の脚本演出を手がけました。
平成8年製作畑出身としては初めて、宝塚歌劇団理事長に就任、宙組(そらくみ)の新設などに尽力しました。
最古参の団付き演出家として今も活躍中で宝塚歌劇100周年の今年、新たな演出のベルサイユのばらを上演しました。
常にチャレンジをしてきた半生と改めて宝塚の魅力をお聞きしました。

100年と言う歴史の重みは今年感じさせていただいたし、そこに立ち会えたという事の感動は言葉にならない。
100年前の第1回の「ドンブラコの桃太郎」をやった、高峰 妙子さんは私が入った当時、声学の先生で、教えに来ていて当時のことを昨日の様に話しているのを聞いていて、葦原邦子という凄い大スターがレビューの時の大転換期のスターからあんた宝塚に入りなさいと言われて、宝塚に入った様な事もあり、スターたちのいろんな話を聞いているので、自分の中では100年経ったのかと思う気持ちと、100年て長かったなあと、二つの気持ちがあります。
「ベルサイユのばら」 40周年
宙吊りをやると、子供達の目の輝きが違うので、そんなことも使っている。
毎回台本が違う。 生徒たちに失敗をさせられないというのが大前提ですから、生徒たちも色々あるので、芝居の巧い子、歌の巧い子によってどうしても見せ方が変わってくる。

両親が無かったので、小さい時から親の愛には飢えていた。
悲しさ、苦しさのなかで、何でもない一言が嬉しかったり、人の親切が嬉しかったりしたことが、こういう風に素直に気持ちを書けば、見てくださる人も判って頂けるなと言う自信には繋がりました。
1歳未満で父が亡くなってしまう。
祖母の方に引き取られていった。
おじさん、おばさんに対してお父さん、お母さんと呼びなさいと、小学校一年生の時に祖母から言われた。  優しく育てられた。
普通の方だったら感じられない人間の情みたいなものが書けるなと言うものが、書いた事が作りものではなくて、自分の経験であるという事が、そういったものが多くの方が判っていただけると、自信にもなっている。

戦後宝塚が再開したときに、クラスの中に星組の娘役のスターの弟が中学の同期生で、簡単に切符が入ったので、見に行って、それが最初だった。
焼跡だらけだし、女性は紺がすりのもんぺ、男性も軍服を背広に直した様な服装の世界に、宝塚だけがピンク、ブルーがあり、若い生徒が新しく入ってきたジャズで足を上げて踊るわけで、感動していっぺんに虜になった。
私の感動したとおなじ感動をお客さんに知っていただきたいなと思って、いつも自分の本の中にはある様な気がします。
役者になって芝居をしたら、いろんな世界を演じられると思い、役者になりたいと思った。
役者になるなら、声学、ピアノ、三味線、バレー、日本舞踊もやらないと、役者になれないと言われて、いろんな事を勉強しはじめた。(日本舞踊は名取になる)
中学では演劇部を作った。 高校でも演劇部、早稲田大学では第一文学部で演劇を専攻、在学中にミュージカル研究会(後に劇団早稲田劇場)を作って 21歳で樋口一葉のたけくらべの脚色、演出、振付をする。

声学、三味線、バレー、日本舞踊を勉強する中で、周りは先輩だらけで、その中で耳年増になってきて、グループの中で意見を言うと、どっか一色違った様で、演出の方に回されて、纏め役をするようになった。
ミュージカル研究会というのは、倉橋 健先生がニューヨークに行って、帰ってきて新進気鋭の評論家になって、その授業を受けている時にミュージカルがブームになっているといわれて、おもしろそうだと勉強し始め、舞台でやろうということになって、舞台をやる様になるが、どうしていいのか判らなくて、宝塚に似ているなと思う事があって、たまたま葦原邦子と言う人を知っていると言う人がいて、連絡を取ったら、やってあげるという事になり、稽古を見てくれたりした。
あなたは宝塚に入りなさいと言ってくれる事になる。
大学卒業後、昭和32年1月宝塚に入る。(本来4月)
レビューの王様と言われた、白井鐡造先生の助手として仕事をする。
小林 一三さんが同じ1月に亡くなる。阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ創業者)

「舞い込んだ神様」 を1年経たずして書いた。
日本舞踊が出来ることから、日本物のミュージカルの演出家として、宝塚でやることになる。
「ベルサイユのばら」の演出も手掛けることになる。
二枚目の芸を宝塚の男役に教えて頂きたいと思っていたので、長谷川一夫さんに演出をお願いして、やってもらって、1回目が終わってそれで終わりだと思っていたら、来年もやると言う事で、洋物をやりたいという事で、やってみるのも面白いのかなと思った。
ある少女がやってくださいと、マーガレット少女雑誌を送ってくれていて、これをやってみようかなと思った、それが始まり。
ベルサイユのばら」 18世紀フランスが舞台で、ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットの生涯を縦軸に、
道ならぬ恋の相手のスウェーデンの貴公子フェルゼン、王宮を守る隊長オスカル(ジャルジェ家の娘として生れたが、男として育てられた男装の麗人)、両親を亡くしてジャルジェ家で育てられたアンドレー(オスカルを愛している)、それぞれの人生、思いが絡み合いながらフランス革命の時代を迎えてゆくストーリー。

宝塚はロココの美術の世界を舞台で作ったら、日本の演劇界では宝塚は一番似合うという事を聞いた事があるので、ロココの女王と言われたマリー・アントワネットの一生みたいなものは宝塚でやっても面白いのではないかと思った。
これはどうですかと言ったが、長谷川先生は大反対で、間男する話など駄目と言われたが、上手にオブラートに包んでやりますからと説得した、しかし漫画の読者、宝塚ファン両方から反対の投書が来た。
漫画のファンの方も素直に入ってくるような、プロローグにしないといけないと思って、池田理代子さんの原画、マリー・アントワネット、オスカル、フェルゼンを舞台に飾って、そこから始まる様に、ワンクッション置いた。
衣装、ブーツ、かつら、今は豊かになってるので、いろんなものがあるが、当時は本当に少なくて、稽古の後に、皆が必死になってくれて、対応した。
長谷川一夫さんは日本物だったらこう見せるけれども、振りが洋物だったらこうするという様な、コツ見たいなものは御存知でした。
ラブシーンで身体が痛かったらお客さんは、綺麗なラブシーンだと思うのだから頑張んなさいと言われたのをいまだに伝説として残っています。(オスカルとアンドレーの一夜のラブシーンの場)
普通TV、映画だったら抱き合ったらすぐにキスをするが、舞台では一瞬 身を引く、それがどんなに会いたかったかどんなに愛していたのか、表現する芸になる。
目線の位置に関しても、厳しく指導された。

「ベルサイユのばら」の初演から2年半後、「風と共に去りぬ」で又大ヒットする。
トップのスターがひげを付けることは、絶対にタブーだった。(脇役は許されていたが)
榛名 由梨に一遍やってみてはと言ったら、「やりましょう」と言ってくれた。
周りからは大反対だったが、しかし大ヒットした。(その当時は宝塚は冬の時代だった)

宝塚の魅力は?
これだというのはないのかもしれないが、私自身が戦後の焼跡の中で宝塚を見た感動、これが宝塚だという、楽しさ、嬉しさそういったものが、宝塚のお客さんが求めているものではないかと思う。
美しい夢、様々な人の愛、そういったものを描いてゆく事が、宝塚が持っている良さではないかと思う。
非現実的世界を2時間見ることで、現実を忘れて、楽しんで、新たに現実の世界で歩んでゆく。
宝塚が世界に羽ばたいてゆくためには、日本の文化を紹介する、その一つのお手伝いになれば嬉しいと思うので、日本物をやらせていただきたいと思う。




 

2014年10月3日金曜日

阿部知暁(画家・アフリカ学会会員)・ゴリラを描き続けて30年

阿部知暁(画家・アフリカ学会会員)    ゴリラを描き続けて30年
阿部さんは昭和32年高知市の生まれ。  45年前小学校の修学旅行で、ゴリラと出会いその時何故か初対面のゴリラが笑った様に思えたそうです。
阿部さんは父親が画家だったこともあり、大坂芸術大学に進みますが、作品の方向性とテーマに悩んで、上野動物園に好きなゴリラに逢いに行きました。
人気者のゴリラを見ているうちに、好きなゴリラを描く事を決心し、以来ゴリラを描き続けています。
日本、ヨーロッパ、アメリカの動物園、アフリカの野生のゴリラを含め、1000頭以上のゴリラと出会いました。
ゴリラを描いていると、ゴリラの子供が阿部さんの絵を覗きに来たこともあるそうです。
ゴリラはゆっくり反応し、ゴリラ時間があるのではないかと、感じると言います。

小学校の修学旅行の栗林公園の動物園で初めて見て、笑ったように感じた。
その瞬間から、なんかすごく好きになった。
絵を学び出して芸術大学にも行ったが、方向性に悩んで、悩んだ挙句に、上野動物園の「ブルブル」という有名なゴリラの前で、相談した。
にやっと笑って、描けるかい、と言った様に感じた。
ゴリラの事について、色々調べたが、判らないことが多くて、様々な疑問が出てきて、当時の上野動物園の北島さんが、そんなに見たいんだったら、見てごらんと近くで見せてくれたりした。
東山動物園では当時4頭のゴリラがいて、そんなに好きだったたら、見なさいと言ってくれて、見せてくれた。
段々好奇心が出てきて、山極 寿一先生(ゴリラ研究では著名な先生、 現在京都大学総長)を訪ねて、優しく色々教えてもらった。

野生のゴリラと飼育されているゴリラは違う様な気がして、一大決心をして、アフリカのジャングルに入ることにしました。
人が入れるところがあり、たまたまツアーがあって、運よくツアーに入ることができて、マウンテンゴリラと東ローランドゴリラの森に行く事が出来ました。
マウンテンゴリラは高地にいるので、登るのに大変だった。
私たちは訪問者なので、風邪をひいていたり、病気になっているとゴリラに対して問題が生じるといけないので入れない。

大きな群れがいて、描いていたが、のろのろと動いているので、ゴリラの3歳ぐらいの子が、私のところに来て肩を抱く、頭をつっついたり、描いている絵を覗いたり、最終的には私の頭をぽんとやって、ケタケタと笑って、親の元に帰っていった。(阿部さんの肩を抱いている写真がある)
東ローランドゴリラの群れの中にいる父親ゴリラが一緒に3mぐらいのところにいる写真もある。
食べている時はゆったり、のんびりしている。
案内者とゴリラは顔なじみなんだと言っている。
皆友達なんだから、大丈夫だと、案内者が言ってくれた。(優しい気持ちで接する事が大事)
動物園のゴリラは西ローランドゴリラ、TV等で放送されるのはマウンテンゴリラ(3000m級の高地に住む)。
西ローランドゴリラが住んでいるところは、低地で湿気と暑さで、蒸し暑いところ。
菜食主義で、葉っぱ、タケノコ、果物を食べたりしている生き物。
気が優しくて力持ちと言う事がゴリラに当てはまる。

ちょっとした変化、脅かされたりすると弱い、下痢をおこしたりする。 細やかな神経を持っている。
1000頭以上のゴリラに会っている。
30年前には北海道から九州までいたが、最近は少なくなった。
怒った時、よく来たね、といったときにはそれぞれ違った音声で対応してくれる。
イギリスのゴリラ「、ジュジュ」というお母さんゴリラ、自分が食べたい美味しそうな物があると、鼻歌を歌う。
飼育係さんが、鼻歌を歌っていると思っていたら、そうではなかったので吃驚した。
森でも、ハミングしているゴリラ、がいるといわれる。
NHKが放送していたゴリラの番組があった。
顔が嬉々として、走りまわっている画像を見て吃驚して、聞いて回ったが判らなかった。
BBCの放送で、イギリスのケント州にある、ハウレッツ動物園だという事が判った。(24年前 海外ゴリラスケッチが始まる)
寿命は30年~40年 
イギリスのゴリラの祖父母の時代から孫の時代までの付き合いとなる。
イギリスの動物園ではゴリラの繁殖が巧くいっていて、秘密があった、ゴリラと言うものは、上に登って手足を鍛えねばならない。
日本のゴリラは手足を鍛えるところが無かった。
ゴリラの動きは俊敏に動きつつ、のんびりゆったりしている。
ゴリラの時間と人間の時間は違う。(山極先生の著書より)

ゴリラに対し子供達はどのように接するのか?
①恐い、恐いと叫ぶ子  ②優しそう、大好きという子 二つに分かれる。
恐いよと言う子は、両親に対して凄く自分を見つめてと言う欲求を目で訴えるし、身体でも訴える。
優しそうという子は、その子自身が満ち溢れている。
木登りゴリラ  美味しい果物、葉っぱがあるときには、俊敏に登るが、そうしないと美味しいものに出会えない。
三角おむすびが連なった様なウンチをするが、腸の関係でそうなる。  オナラも大きな音をする。
ウンチの臭いはあまりしなくて、繊維質、果物の実があり、森の再生にも役立っている。

ゴリラの目の先には蝶が舞っている絵があるが、会っていないが、これを研究している山極先生とか、京大の大学院生の壺川さんと言う方などがドンドン資料を見せてくださって、いろんな話をしてくださって描けた絵です。   感じのいいゴリラです。(ガボンのムカラバのゴリラ 「ムル」)
ゴリラから学んだこと
苦しいことがあっても、何があってものんびり、ゆっくり、道は開けなければいけないとか、あくせくいろいろ考えても仕方ないこともあるし、でも打破できるかもしれないという事をゴリラから学びました。
明日、明後日の事を考えるのではなく、今を大切にのんびりゆったり、生きなさいと言われている様な気がします。






2014年10月2日木曜日

高橋まゆみ(人形作家)      ・創作人形、出会い旅(2)

高橋まゆみ(人形作家)    創作人形、出会い旅(2)
山形県の展示会での感想文
「さっきお婆ちゃんと喧嘩しました。 でも人形をみて悪かったなあと思い、優しい心を取り戻しました。 あす おばあちゃんと一緒に見に来ます 」
「認知症の母を気に掛けながら、昨年父は静かに亡くなりました。   私たちに気を使いながらも、母をいさめながらも、母を見つめるまなざしは、55年同じ生活を送った夫婦の優しさでした。
お父さん、介護は辛い時もありますが、心配しないで、天国で見ててね。 人形はお父さんとそっくりでした。」
全国で展開すると、一杯山の様に感想ノートはあるのですが、このような言葉が宝です。

母はほとんど寝ている感じだったんですが、母が人形館を見て回って、一体一体見たんですが、泣きっぱなしだったので、見ていたのか見ていないのか判らないのですが、兎に角嬉しさだけは伝わってきました。
ささやかだけれども、今の私を見てくれたのだなあと思いました。
私が結婚する前の年に母が倒れて、その2年後に父が倒れて、二人とも寝たきりの生活になってしまった。
結婚して親のありがたさを知りました。
現在は8人家族 4世代 孫もいるので、食事が大変です。

兼業農家、グリーンアスパラガス、とかモロヘーヤを出荷したりし、米とか他にも色々作っている。
私はほとんどしないで任せきりです。
人形を作る時間は、好きな時間に作れるのですが、作る物が感情が移入しないとできないので、いつも刺激を求めている。
寝る間を惜しんで作る時もある。
頭で考えながら作ることはないが、一瞬の閃きを大事にして、作ることにしている。
パートをしながら造っていたが、段々と売れるようになってきて、売れるんだけれど時間がなくなってきたり、人形作りを仕事にしたかったので、思い切って家族の前で言ってしまった。
最初は仲間とグループ展をやったりして、そこそこ売れていた。
欲が出てきて、東京でやってみたいと思っていたら、たまたま本を見たときに展示に関する記事があり、ギャラリーに電話してみたら、作品を送ってくださいとのことで、送ったら気に入ってくださって、翌年に開催する段取りとなった。

無我夢中で70体の人形を作って、お披露目したが、ドアーを開けた途端に、地元の常連さんが来てくれて、嬉しかったです。   完売した。(ほとんど地元の人が買ってくれた)
ユザワヤ人形展で部門大賞を受賞する。  大きな自信になった。
心の中のものを表現しようとするきっかけになったのは、陽(みなみ)信孝さん。
山口県の萩市の方、本を購入して読んだら、物凄い感動をして涙がぼろぼろでてしまって、奥さんがアルツハイマーになって、ご主人は校長先生や、教育委員長をされた方で、日々の介護の素晴らしさ、温かさが素晴らしくて、感動してしまった。 「八重子のハミング」
読み終えた感動と共に作りたくなってしまった。

「まなざし」 2人で見つめ合っている人形
「慈しみ」 うさぎのぬいぐるみを抱えて、肩をだきしめながら2人でいる人形
「雪の中」 旦那さんを待ちわびている奥さんを抱きしめている人形
「ハーモニカ」 病になっても音楽の先生だった奥さんが、音楽によってご主人と繋がれている人形
展示会に来て下さるようになった。
自分の感動したものを形にするというのは、私の思っているものなので、思うままに作らしてもらったが、それを見て涙を流す人々がいてくれた。
精神世界に導いて下さったり、いろんな出会いが自分の今の300体の物の作品を残してくれた。
作っている時の気持ちを吐き出す様に作る、その工程が楽しい。

小物を作ってくれる人が、江戸東京博物館で出会う事が出来て、10年の付き合いになる。
私の人形サイズは30~40cmぐらいで、こんなの作ったんだけれど、これにあう人形を作らないかと、逆に言われてしまったりもする。
お風呂に浸かる水を作るのが色々失敗もあったし、大変だった。
 松澤登美雄さん 白馬村の木彫の人形を作っている方、おじいちゃん、お婆ちゃんを作った時に影響された。
昔ながらの日本の風景、暮らしの影響がおおきい。
義理の姉さん 実家は父、母が病気で寝たきりになり、義理の姉さんには障害のある子がいて、大変だったがずーっと介護してきてくれて、一度たりとも介護を替ってほしいとは言わなかった。
その中で姉の言った言葉は「介護する人のお陰で自分は強くなれた」と話してくれて、本当に真似はできないと思った。

母が亡くなった時には、「人に頼られるという事は嬉しい事だ」と言ってくれた、凄いことだと思う。
これからの目標は?
作っていることが幸せなので、ずーっと作り続けたい。
粘土は乾かさないといけない期間があるので、顔だけごろごろ乾かしてゆく。
一番大事なのは顔なので、顔さえできれば後は付いてくるものなので、作りたい顔に出会ったらすぐに顔を作ってしまう。
真田十勇士は2カ月で11体作ってしまった。
駄目な時は何カ月も出来ない事もある。

2014年10月1日水曜日

高橋まゆみ(人形作家)      ・創作人形、出会い旅(1)

高橋まゆみ(人形作家)    創作人形、出会い旅(1)
高橋さんは1956年長野市生まれ、 結婚後に夫の両親と同居するために、長野県の飯山市に移住されました。
子育てをしながら、ふとした事から人形作りの世界に入った高橋さん、常に人形作りにテーマを持って取り組んでいます。
2003年から故郷からの贈り物をテーマに、作品の全国巡回展を 7年間続け、2010年4月に飯山市に高橋まゆみ人形館がオープンしました。

人形館が出来た処は元は公園で何もなかった。
最初はこんなところに人が来てくれないのではないかとの不安の声が聞こえてきたが、私は来てくれるのではないかと思っていた。
7年間全国を旅して95か所で人形を見せてきているので、もう一度会いたいという方が足を運んでくれるのではないかと期待した。
人形がお父さん、お母さんになっている。 
家族の様になってくれて、人形の引き出す力を感じます。
この辺はほとんど農家なので、前かがみになって仕事をするので、背中も丸くなるし、腰が曲がってくるお年寄りが多い。

最初は粘土に出会って、形にする事が楽しかった。
絵本から飛び出てくるような、ちょっと癖のある魔女だったり、子供だったり、そんな物を作っていた。
性格がおおざっぱで、作ることに興味があったわけではなく、たまたま手芸屋さんに入った時に、粘土の教室をやっていて、物凄いときめいた。
教室に入ったんですが、子供ができる間際だったので、教室には何カ月しかいないで、家でこつこつやっていた。
人形を粘土で作ること自体が初めての出会いだったのでカルチャーショックだった。
飯山で生活するようになって、いろんな生活の中でのずれを苦痛に思えたりだとか、人との絡みもうっとうしかったりして、人形を作ることで忘れてゆく事が出来たし、自分の両親も寝たきりになっていて、さびしかったり、愚痴を聞いてくれることがなくて、最初は母が元気だったらこんなふうに笑いかけてくれるのではと、おばあちゃんの人形を作った。
自分のもやもやが引いていった。
段々おじいちゃん、おばあちゃん お年寄りの姿を見るにつけ、ドンドンそんな人形にはまっていった。

創作人形 決まりが無い。 形もどうでもいい。 それが私の性分に合っていたと思う。
通信教育があって、基礎的なことは習いたいと思って勉強した。
試行錯誤でやってきた。 
材料は紙粘土、中に針金とキルト芯をボディーにしている。
針金は柔らかいアルミの針金、それに人形の芯を作る。
そこにキルト芯を細かくスライスしながら巻き付けてゆく。
身体の形に補正しながら、身体の肉を付けてゆく。
脱脂綿などで補正をして、その上に下着、洋服を着せる。
細かい顔の部分はコテで作ってゆく。
働いてきた年季のある、使用している布も見て頂きたい。

田舎のお百姓さんがモデルなので、素朴で働き者で、手に表情がある様なごつい手にしたり、しわも深みがあって、腰とか肩も丸みがあって、素朴で働いてきた人体像を作りたいですね。
働く事が生きること言っている、と言っている様なお年寄りばかりで、いいなあと思います。
親子の別れの人形 しろむくを着た花嫁とお母さんが手を握って、これから頑張るんだよと、お別れをしているところと、背中を向けて、涙をためて別れを言いたくないお父さん、奥には髪結いさんがいたりとか、その中に感情とか、ストーリーを埋め込みたいと思っていつも作る。
嫁がせる時のホッとした所と、寂しさ、父親の寂しい感情とか、一つ一つを見て頂きたいと思う。

最初は笑っている様な人形ばっかりだったが、最近は精神的に深い様な人形を作る様になったが、それはいろんな人との出会い、自分の気持ちも変わってきたと思う。
風呂に入っているシーンの人形
お爺さんと孫たちを入れている。  
今はお風呂に家族で入ることは無くなったが、色々な姿を表現している
お爺さん、お婆さんが孫にかかわる関わり方が、本当に思いやりと愛情がいっぱい。
子供が学校に行った時に、雨が降ってきて、いつの間にか、お爺さんが学校に向かって子供の帰りを待っている姿があったりする。
「冷たい手」 冬になると雪が沢山降るが、かじかんだ真っ赤な手をお婆ちゃんが自分の懐に運んだという光景が思いだされて、これも人形にしたいと思った一場面だった。

大事なものを拾い集めて作らなければいけないなあと、使命感の様なものを感じる。
もの作りは気持ちが作らせる様なところがあるので、時間が経ってしまうと駄目なので、忘れないうちに作る様にしている。
言葉も添えているので、寝ながらぱっと浮かんできたりするので、必ずメモしている。

飯山に移って、他人同士が一つ屋根に暮らすので、生活のリズム、食べものの好み、しがらみとか色々あるので、子供も生まれて、子育ての不安とか、寂しさがあり、ストレスがたまった時期もあり、最初おばちゃんの人形を作って、お年寄りを作るきっかけになった。
人形を見ると、助けてくれるように語ってくれる。 作ることで癒されていった。
母親はくも膜下出血で言葉も自由にならないような状態だった。
「母の手」人形  
先月母は亡くなる。(8月) 
 31年ぐらい寝ていたので、悲しみは無かったが、たんが絡んだりとか、寝ている時の辛さを見ているのでやっと穏やかなところに行けたのかなと、言う気持ちの方が強くて、ずーっと寝たきりの母だったが、私がストレスがたまるころに辛くて家を飛び出したことがあり、病気の親のもとには帰れないので、ビジネスホテルに泊まって、次の日、母の顔を見て帰ろうと思って行ったが、ぼろぼろ泣いてしまって、母の寝ている膝の上で泣き寝入りしてしまった。
半身不随の母が動く方の手でずーっと肩をさすってくれていて、寝たきりでも役目を果たしてくれていると、吃驚しました。

「赤い万華鏡」人形
寝たきりの母に万華鏡を持っていったら、喜んでずーっと万華鏡を見ていたので、作品にした。
親孝行ができたなあと思ったのは、人形館が出来た初年度、休館日に、義理の姉と看護師さんとで寝たきりの母を連れてきてもらって、たった一人の入館をさせてもらった。
人形を一つ一つゆっくり車椅子を引きながら見せてあげて、母は泣いて喜びました。
7年間の全国巡回展が終わってどうしようかと思っていたときに、この話(人形館)があって、嬉しかった。
又改めて地元に展示できることになって、嬉しかった。
全体で300点の人形があり、そのうちの100点ずつを展示している。
以前は売っていたが、今は売っていない。
その時の強い思いで作った人形は、同じ手で作っても絶対に作れない、その時間を売りたくない。
展示して見て頂く様にしている。
プロデューサーがついていたので、お陰さまで全国を95箇所を廻り 180万人が来てくださった。