2014年10月5日日曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第7回

保坂正康(作家)   昭和史を味わう 第7回 ”昭和天皇実録”を読む(1)
 昭和天皇の青少年時代 人間形成を見る。
2014年9月9日公表 61冊 1200ページ 宮内庁作成
明治34年4月29日誕生  昭和64年1月7日亡くなる。
62年天皇在位
明治天皇記は 120卷(1冊は薄い) 公開は13卷 黒塗りがある。
今回は全部公開されたのが、画期的。
今まで推測として語られていたものが事実と成った部分がある。
1回目は誕生から即位まで、1901年~1926年まで
2回目は即位から亡くなるまで 1926年~1989年

幼少期の教育
大正天皇に出した手紙が3通公開されている。  
8歳の時の両親への手紙(静岡県沼津御用邸での日常での)
「まだやっぱりお寒うございますが、おもうさま、おたたさま ごきげんよういらっしゃいますか?
迪宮(みちのみや)も、淳宮(あつのみや)も、照宮(てるのみや)も皆丈夫でございますから御安心あそばせ。
私は毎日学校がございますから、7時45分ごろから歩いて通います。4時間のおけいこをしまって、みうちに帰ります。 そしてお昼をしまって大抵、山や、村や、松林に出で面白く遊びます。・・・昨日はお使いでお手紙のお道具や、おまなを頂きましてありがとうございます。 おもうさま おたたさま
ごきげんよう 2月4日 迪宮裕仁」

桑野鋭 自由民権運動をやっていて、新聞記者になって、宮内庁の中で家族向けの雑誌を出すのでそこの編集者として雇われたようだ。
昭和天皇、秩父宮、高松宮殿下の幼年期の教育係をされている。
新しい時代にこういう天皇であってほしいという想いが明治天皇、大正天皇にあったのでは?
足立たか 学習院長の菊池 大麓の推挙で教育係につく。(科学的に見つめる目)
足立たか の父親は札幌農学校で、新渡戸稲造と同期生、クリスチャンの雰囲気を身に付けている。
全人格的に広がりを持つ様に教育している。
学習院の初等科に入学 院長が乃木 希典
明治天皇から孫を育ててほしいという事で院長になる。  
質素、倹約を厳しく指導する。
乃木さんを家族に一番近い人として昭和天皇は尊敬していたようだ。

歴史が好きで、生物に対して興味を持つ。
物をよく見るという事を大事にしている。
二心のある者は嫌いだという事をよくいっていたと書かれている。
生物学、分類学 土台になる学問に興味を持つ様に導いていったという風に感じる。
明治45年 明治天皇が亡くなる。 11歳の時
皇太后が3人を呼んで、亡くなった姿を見せる。
乃木さんが殉死するが、その前の日に昭和天皇に2冊の本を渡す。
今までの資料では2冊と成っているが、実録では1冊の名前しか載っていない。(これからの検証が必要)

大正3年からお学問所ができて、帝王学を大正10年まで学ぶ(13歳~20歳)
学友が7~8人いる。 勉強のほかに体育、天皇に関しては別枠で帝王学、軍事学も学ぶ。
帝王学 基本的には歴代の天皇の事績を勉強する事、これからの時代は天皇は国民とどうあるべきか、と言う様な事を学ぶ。
どういう様な託し方をするのか、どういう人を信用するのか、どういう様なシステムの上でそれが動くのかなどを学んだと思います。
独自の相当分析力を持った、歴史的勘の優れた君主だったのではないのでしょうか。
大正10年にヨーロッパ訪問する。

イギリス訪問など 反対派も出るが、牧野 伸顕などが説得する、これからの天皇は世界をよく知っていなければならない、国際環境をよく知っていなければならないと、出発する事になる。
大正10年3月3日 船で横浜から出発する。 
イギリス中心 ジョージ5世が別室に呼んで通訳と3人で立憲君主制を説く。
立憲君主政と言うのは 天皇と言うのは君臨すれども、統治せず。
貴方が命令したり、指導するのではなく、貴方は存在しているだけ、臣下のものがきちんと大権を使う様に、そういうシステムになっているのだから、貴方は直接口をはさんであれこれいってはいけないんだと、それが君臨すれど、統治せず、立憲君主制 天皇はジョージ5世から教わったと言います。

第一次世界大戦が終わってから2年なので、ジョージ5世から戦場を見てほしいと言われて、フランス、ベルギーなど戦場を見ることになる。
戦場を見て、悲惨な戦争を聞かされて、時に涙を流す。 
戦争が如何に悲惨かを知らされる。
その思いをジョージ5世にベルギーから電報を打っている。
ヨーロッパ訪問は思い出の宝庫の様になっているのではないのでしょうか。(船での半年の旅)
大正天皇の身体がおもわしくなく摂政(天皇の名代)になる。 大正10年11月25日
大正天皇が亡くなる大正15年12月25日までの5年間。
大正デモクラシーが昭和天皇が即位された後、なくなってゆくのはなぜなのか、天皇の気持ちとは別に軍部がかなり横暴になってゆくプロセスがあるのではないでしょうか。