2014年12月4日木曜日

北原香菜子(薩摩琵琶奏者)     ・鎮魂の琵琶の音を現代に生かす

北原香菜子(薩摩琵琶奏者)      鎮魂の琵琶の音を現代に生かす
北原さんは1983年 九州の佐賀県佐賀市に生まれました。
大学に入って琵琶を聞き、その音色に魅せられて、演奏活動を始めました。
卒業後、演奏家として独立、いまでは全国各地を回って、お寺、神社、ホールなどで演奏会を開いています。
古典の曲にとどまらず、新しい曲も創作し、伝統芸能琵琶を過去と現代、未来をつなぐ鎮魂の音の世界として根付かせようとしています。

先月、今月にかけて北海道お寺ツアーを展開していました。
その後関西、ようやく佐賀の地に戻って、小学校などで琵琶の演奏をやっています。
1300年以上前、当時、仏教と共に日本の奈良時代に、ペルシャ、イランを起源としてシルクロードを辿って入ってきた。
いまでは宮内庁で聞ける様な楽琵琶という流れで入ってきた。
仏教を取り入れる以前の神、取り入れたのちの仏様に、眼に見えないものに奏でる、捧げる音楽としてお寺で最初演奏されていたようです。
言葉、セリフ、語りが伴わず、器楽、奏でるのみ、お琴だったり、今でいう和のオーケストラ、雅楽の中の楽琵琶が存在していて、其れから時代を経て語りを伴った人が現れて、其れが琵琶法師。
源平合戦の様子をほうぼうで、語ってその時から語りが伴ったと言われて、平家琵琶、平曲が楽琵琶を改良して生まれたもの。
平家琵琶は京都とか奈良、都を中心に広がったが、その後九州で平家琵琶はさらに改良されて生まれた、其れが三つ目の琵琶、盲僧琵琶が広がった。

九州の盲僧達に渡った時に、僧侶が手にしたことによって、琵琶の役目が変わった。
お経の伴走楽器として、五穀豊穣等の祈願する時に琵琶を奏でてきたという歴史があって、薩摩盲僧から薩摩琵琶になったり、筑前盲僧から筑前琵琶になったと言うのが、大まかな琵琶の歴史です。
薩摩琵琶は薩摩盲僧から薩摩の武士に渡った時に、豪快、大胆、勇壮な弾き方が出た。
戦の時に、士気を高めるために、琵琶を搔き鳴らして、精神を高揚させていた。

出会いは2001年4月に大学に入った時に、古典芸能の演奏会があって、能、狂言、三味線、琴、琵琶があって、他の楽器とは違う、空間が変わった様な感じを抱いた。
何故か、帰り際に琵琶が呼んでいる様な感覚を得て、最初に琵琶を抱いて奏でさせてもらった。
一人で琵琶を演奏された人と一緒に琵琶サークルをたちあげた。
東京では観賞する方が多かったが、舞踏などの中で、空間と人間、空間と音、そうした関係にすごく興味を持った。
そこで琵琶を真剣にお稽古すると言うよりも、この琵琶で何が出来るだろうと思って、実験的なものをやって行こうと思って、早稲田大学も琵琶サークルの演奏会を開いて、近代が生んだもの、照明を無くして、演奏会をやったりした。
田中之雄先生に基礎から教えてもらおうと、門戸を改めて叩いて、古典をきちっと学ぼうと考えた。
琵琶の基本はきちっとした姿勢であり、正面を見て打弦をするのに、1年以上かかったのではないかと思う。

卒業する直前、2005年にノーベル平和賞を受賞されたワンガリ・マータイさんのまえでの演奏だった。
木が奏でる演奏に大変感動されていました。
琵琶の道を一生やっていこうと圧倒されたのが、大学4年 地元の老人ホームで演奏しようと思って、演奏した時に、涙を流して聞いてくださった人の言葉に、一生この琵琶と付き合って行こうと、その時に決意しました。
就職も断って、2005年3月に佐賀の地に戻ってきました。
熊本全国邦楽コンクールに出場することになり、古典曲の中で西郷隆盛しかないと思い、自分は西郷隆盛に成りきって演奏したら、、自分ではない様な感覚があって、終わったときに、いい賞を頂いて、古典曲にゆかりのある土地で、琵琶の音色をその土地に返して行こうと、その土地にまつわる先人達を物語ることで、供養ができれば、鎮魂ができれば、全国鎮魂供養ツアーと言う言葉がワーと湧いてきた。

西郷隆盛を鹿児島県で演奏することを皮きりに、2007年、白虎隊を会津若松の白虎隊の墓前で演奏し、翌年、義経、平泉で、翌年善光寺で川中島 翌年壬生寺で新撰組、自分自身沢山の種をまいてきました。
かつての琵琶法師の役目として、亡くなった方を鎮魂する、供養する、地鎮祭で土地をおさめる、そうしたときに琵琶を演奏してきたと言う歴史があると言う事が、私のどこかに在ったんでしょうね。
それでその発想が生まれたのだと思います。
琵琶の音色を聞いて下さってる方の背中の後ろにいる、先人たちに向けて演奏します、だから皆さんその思いをくみ取っていただくのと、聞いた後心がすがすがしく、清らかな気持ちになる様願いながら演奏します、と言葉を掛けて演奏しますが、そういう気持ちになったよと、声を掛けてくださいます。

2011年3月11日 かつて災害時に琵琶法師たちは祈りを込めて琵琶を演奏してきた歴史があると言う事がふつふつと湧いてきて、風に向かって、大地に向かって、山に向かって、兎に角一音でもいいから琵琶を奏でなさいと、祖母から言われた。
稽古場から外に出て、3月12日 琵琶の音色を一音ずつつむぎ始めた。
どうかこの国が琵琶の音色で収まります様に弾きなさいと、祖母が言ったので演奏していたら私の口からついて出たものが、私が幼少の頃仏壇の前で祖父母が毎朝、毎晩唱えていた般若心経だったんです。
琵琶とお経を組み合わせて私は琵琶教を作った。(般若心経と共に演奏する)
まさにこれが供養、鎮魂ですねと、声を掛けてくださいました。
この琵琶教は自然に生まれた様な感覚があります。

私はいろんなお寺に行きますが、宗派を越えて行きます。
浄土宗との御縁があった時には、2011年に宗祖、法然 800年大遠忌の際に法然上人の7曲奉納演奏したり、道元さんの曲を書いてくださいとか、お釈迦様の曲を書いてくださいとの話も来ているので、これから創作をしてゆくところです。

声の稽古、東京にいるころは、思い通りに声をだせなかった。(住環境の問題)
佐賀では、自然が、田んぼの中で、風が、土が私の声を作ってくれたのかと思います。
琵琶の基本は語り。 声に出すと言う事で心は安定してくる。
「声はこれ念なり 念は即ちこれ声なり 声はこれ念なり 念はすなわちこれ声なり 声と言うものは今の心を表す」  法然上人の言葉

祖父母が大地の自然の神々に手を合わせて、仏壇の御先祖様に手を合わせる。
習慣として背中で語ってくれていた様に思う。
仏壇の前に座った時、「おはようございます」 「今日は有難うございます」声を出して云いなさいと、幼少のころから祖父母から言われていた。
祖父母が言っていたことと、法然上人が言っていたことが、重なると私の中では眼から鱗のことでした。
「念ずれば花開く」 念と言う字も今の心は声であるという事になるると、声を出して思いを届けた方が、より相手の内側に入り込めるかもしれない。
琵琶の音と書いて私は声と読むんですね、声として届けたいと言う想いはある。

私は国と国をつなぐ外交官を夢見ていたが、今は眼に見える世界と眼に見えない世界、この世とあの世、生きているものと亡くなったものなどをつなぐ役、外交をしていると言う様な気持でいる。
「川中島」を善光寺で演奏したときに、上杉謙信と武田信玄が本当に聞いてくれていると言う様な深い歴史があったと言う感動と、感激があった。
是非古典に触れ得ることによって、先人たちへの回路、通路を開いてくれるのが古典だと言いたい。

琵琶の音の振動を「さわり」と言うが、琵琶と三味線にしかない特徴。
西洋人は「さわり」を耳触りと言うが、そのさわり、自然の雑音迄も楽器に取り込む、全てをうけ入れると言うのが日本人、仏教もそうです。
いろんな宗派があってもいいが、受け入れてゆく。
ペルシャを起源として、東に渡ったのが琵琶、西に渡ったのが、ギター、マンドリン。
ギターとかには「さわり」はない。 綺麗な、しっかりした、はっきりした音を奏でる。
「さわり」を取り除いた。

琵琶少年、少女を作りたい。
琵琶は田中先生、そのうえには鶴田錦史先生がいて その上には多くの師匠達がいるので、琵琶の奏法、語り方などは北原香菜子で止めてはいけないので、次世代に渡してゆくと言うのを夢として持っている。
琵琶とアニメーションを組み合わせて、ビワニメーションと言う事を考えて、発信してゆきたいと考えている。
ジャンルの越境をやって化学反応を楽しみたいと言う事はあります。