2015年1月8日木曜日

畠山 信(牡蠣漁師)       ・震災後の海とともに生きる(1)

畠山 信(牡蠣漁師 NPO法人森は海の恋人副理事長)    ・震災後の海とともに生きる(1)
1978年生まれ 36歳 宮城県気仙沼市唐桑町舞根 三陸リアス式海岸で牡蠣や帆立て貝等の養殖をする畠山重篤さんの三男

気仙沼までしか大船渡線が来ていなくて、それから先はバス運行になっている。
線路を敷いていた土地自体が消えてしまった。
海辺の土地ごと流されてしまって、線路を敷いて走れるような状況ではない。
3年10ケ月たってもあまり大きな変化がない。
気仙沼の大火で、まだそのままの状態が多い。
できるだけ復興に近い復旧になればいいと思っているが現実はなかなかそうもいかない状況です。
牡蠣の今年の状況は、震災後は牡蠣の状況がいい、牡蠣の身入りがいい。
震災直後は海が撹拌されてプランクトンが大量に発生していたので、餌が多くあればあるほど成長がいい。
震災直後は筏の数も少なかったので、牡蠣はプランクトンを食べ放題だったが、段々筏も増えて行くと多少えさの食べあいは発生するが、平常の状態に戻ってゆく感じだった。
津波の後は牡蠣、そのほかのものも成長が早いと言われていて、復旧を急ぐことを祖父からも言われていた。
海の調査も一緒にしてもらって、科学的に見ても津波の後はプランクトンが大発生していると言う事がデータとして得られている。

震災の当日は海辺にいて、海全体が盥の水をゆする様になっていて、津波が来るなとだれしもが思った。
私は船を沖に逃がす行動をとったが、途中で津波の第一波に遭遇してしまった。(15分後) 
うねりの上にいて、舵が破壊されてしまっていた。(あと15分早かったら船も大丈夫だった)
岩の上に在る灯台がみるみる下がって行ったのを見て、津波の上にいるのを理解、愕然とした。
一か八か泳ぐしかなかった。
潮目、水の流れを見て、今だったっら陸地にたどり付けるのではないかと、とっさに思った。
舞根に向かったつもりが大島に、逆の場所に、泳ぎ着いた事が後でわかった。
飛びこむときは死を覚悟した。 デジカメに遺言を残した。 何かを残したかった。
緊張で寒さ、暑さ、物を触っている感覚が無くなっていた。
陸地に手が届いた時はやったと思った。

泳ぐ時にデジカメを首にぶら下げていたが、そのままデジカメは生き残っていた。
大島の避難所にいったが、周りは私がもう亡くなっていたと思っていたらしい。
親父は、よう生きていたなと言ってくれたが、兄は船はどうしたと、冗断まじりで言っていた。
牡蠣の筏の台数は、1漁業者に対して20から30台が許されていたが、湾の中だと40台ぐらい、湾の外もあるので70~100台まであったと思います。
震災では筏はゼロになった。  この集落では亡くなった方は4名。(農作業をしたりしていた方など)
祖母は介護施設にいたが、3Fにいたが、施設そのものが津波にやられてしまって亡くなった。
一回死にかけたと言う経験は大きかった。 
いろんな方と繋がりを作って、共に学びながら地域全体のことを考えつつ、持続可能という部分を考えた地域にしてゆくためにはどうするか、議論しながら、進んでいます。

震災直後はボランティアの人が機動力を持っていた。
重機を取り扱う、救援物資を持ってくる団体等、本当に必要な支援を構築してくれたので、民間の力はすごいと思いました。
わたしが先導してやったと言うよりは、その道のプロもいらっしゃった、神戸の震災の経験の方もいらしゃったので、ネットワーク化と情報共有ができた。
私のほうはローカルな情報提供等をやったりした。
家も流されて、靴もない状況だった。
人のためになんかしようとした時に自分の力量を初めて知ると言う事を痛感しましたね。
フェーズが違ってくることによってやることが増えてきました。
行政との対話の場、それを構築することとか、住民の合意形成部分とか、地元でしかできない部分が多かったので、外部から入ってこられたボランティアのひとにお願いしたりして、調整しながら進めています。

防潮堤の問題は人の住んでいる海岸全体の問題が背景にあり、先ずは三陸からと言う事になっているが、可なりいろんな問題をはらんでいる。
高台に集団移転をしようと言う事にこの集落は決まったが、防潮堤はいままでなくて、すごく違和感がある。
9.9mの防潮堤が前提になって話が下りてきて、住民は話し合いが行われて防潮堤はいらないとの結論に達した。
計画図ができる前にこの集落は防潮堤はいりませんとの要望書を提出して、造らないことになった。
100%の合意があれば要望が通らないわけにはいかない。

この景観が好きだと言う事、が大きな理由、三陸は防潮堤を置く様な平たい土地が少ないので、その土地は無いので、住民が使う土地が無くなってしまう。
海が見えるところが一番安全だと思う。 海を見ていると安心感がある。
海が見えないことがストレスを感じるようになる。
集落には長老がいて、その下に役員がいて話がまとまりやすいピラミッド構造の状況に在る。
震災後丸一日休んだことがなくて、蛇足で毎日必死に生きているという感じなので、割と日々うまく自分の中で調整しているのかと思う。
津波もそうだが地盤沈下(1mぐらい)が大きかった。
1940年代は干潟だったところを埋め立てて田畑としてきたが、数十年間田んぼとして使っていなかった。
もとの形に戻って、豊かな生態系に戻った。
アサリも大量に発生、日本ウナギもおおい。 湿地の様なところは満水時に海水が入って来て、ハゼ、アユなどが大繁殖してきて、鳥も餌を求めてやってくる。
生き物のゆりかごの様な場所になっている。
農地が湿地化して、復旧で埋め立てて農地にするというが、農地にして誰が使うかと言うと使わないことがよくあるので、非常に無駄なような気もする。
行政は仕組みにのっとって税金を使ってやるので、色々と難しい。