2015年2月1日日曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう  第12回 戦前の日本と中国との関係

保阪正康(作家・評論家)           ・昭和史を味わう 第12回  戦前の日本と中国との関係
昭和天皇は満州事変に可なり苛立っていた。 怒っていた。
決して軍事を拡大してはいけないと、気持ちを持ってたのにもかかわらず、軍部の方が段々拡大して行った。
現天皇は年頭の挨拶で、昭和天皇の志を無視したのではないかと、それが戦争になって行ったんではないかと、父と子の立場からおしゃったんじゃないかと私は思います。
中国の辛亥革命
1911年 明治44年10月 に起こるが、1895年ごろから延べ11回孫文は革命を起こすが、11回目でやっと成功する。
名もなき日本人が多く協力している。  500人ぐらいはいたとされる。

恵州での蜂起 山田良政が最初に犠牲者となり亡くなった。 青森出身で通訳だった。
孫文の考えに惚れて、日本人として支援する。
孫文のメッセージを恵州の軍に持って行き、清朝政府に捕まるが、日本人なら許すといわれてたが、私は日本人ではないと言って処刑される。
孫文は墓碑を建てているが、恩人の一人に数えている。
宮崎 滔天寅蔵) 宮崎民蔵  の兄弟も支援する。
(宮崎 滔天の長男の龍介は、滔天最晩年の大正10年(1921年)に、白蓮事件で世を騒がせた。)
梅屋庄吉 は財政面で大変支援をした。
孫文は日本人支援で辛亥革命が成就した事は、随分恩義を感じているが、同時に日本がどうして自分たちと一緒にアジアの開放を目指さなかったのかと、晩年の怒りになってゆく。

孫文の三民主義について語る演説 (1924年5月)
「我が国は何千年もの歴史を持ち素晴らしい文明を作ってきましたが、近代になると列強が展開して争う様になり、我が中国は貧しく弱小な国になってしまいました。
このような状況を変えるためには、先ず一人一人の人民が国のことを知り、強くならなければなりません。
ここでわたしは三民主義を提案します。 民権、民族、民政の事です。
この三民の旗を掲げ、志を持って国を強くしようではありませんか」
孫文がロンドンで亡命状態の時に図書館で考えた理論。
そこで日本人の南方 熊楠と知り合い友達になる。

内山完造 上海で本屋さんをしていた。
中国の文献を日本に紹介、日本の本を中国に紹介して、文化の交流を行った。
中江兆民の息子で中江 丑吉 北京に住んで、満鉄に通いながら、論文をずーっと書いている。
中国の生活をよく見ていて、学問は中国を知らなければだめだと、北京でずーっと中国の古典を勉強していた。
近代になって、西洋化という事ですが、西洋文化、どう科学技術を受け入れるか、という時に日本は直ぐに小回りが利いて受け入れるが、中国は直ぐいろんなものを吸収して動く事は出来ない。
中国は遅れた処が、西洋からターゲットにされたり、植民地にされたり、日本も結局西洋の後をついていったふしが有り、この事を孫文は怒ったわけですけど。

日本は狭いところに8000万の人口を抱えて、どう言う風に生きていくかと、言う時に生存する権利、日本にも広げる権利が有るというのが、日本のなかに考え方としてあった。
日露戦争で満州を点として確保するが、面として確保するのが、昭和の満州事変以後の歴史ですが、生存権の確保は言って見れば当時の帝国主義的な考えがあったと言うことにもなる。
中国は広大な土地を持ってるので、その土地を日本の権益を築きたいと思ったのが、昭和の歴史だと思います。
昭和6年9月18日 満州事変が起きる。
満蒙は日本の生命線 生存権の確保というのが、海外侵略の骨格にもつながった。
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本の中に中国に対する軍事力、中国の政治が一本化していない。
中国に入りこんで、中国の分裂を促進する形で日本の権益を広げてゆくという形になった。

中国とは戦争するのには反対する考えの軍人もいた。
日本の仮想敵国はソ連だから、中国と戦争する事によって軍備が割かれてしまう。
中国と戦争すると持久戦争になるので、日本は体力が無いという考え。
中国は国力が弱いから一撃で倒せると、支配下におけるという 、2つの考え方が軍の中に在った。  
後者の方の考え方が強くなってゆく。

広田首相の演説は日本の考え方でやりたいという宣言、日本の軍が中心になって東亜を制圧する、支配下に置くという事で、それで東亜の安定が有るという考え。
昭和12年12月17日 南京事変 入城
昭和13年1月16日 「国民政府(蒋介石政府と交渉せず)を相手とせず」 という近衛内閣の声明がでる。
後に近衛首相は、この声明が私の政治的な一番のおおきな失敗だったと言っている。
日中戦争を始めてみると、一撃論で始まったが、一撃どころではなかった、国民党と共産党が一緒になって国共合作して日本と戦う事になる。
国民党は滅共抗日というスローガンだったが、共産党は今は抗日だという事で西安事件が起きて蒋介石が妥協して、抗日と言う事に一本化する。
アメリカ、イギリス等が軍事、人員、医薬品などを支援するので、一撃でというわけにはいかず、泥沼化してゆく。

山田純三郎は孫文の秘書をやっていたが、満州事変以降の日本はやり過ぎてはいけないんじゃないかといっていた。
斎藤隆夫の様な国会で堂々と意見を言う人はいたんですね。
昭和15年2月2日 帝国議会の反軍演説 
「軍が聖戦と言っているが、 聖戦の偽名の元に国民生活を圧迫しているじゃないか、国際正義だ、道義外交だと言葉は綺麗な言葉を並べるけれども、実際はそうではないではないか、この戦争は本当に軍の言う意味の戦争なのか」と、日中戦争の根本のところに疑問を呈した。
議会で除名が行われる。 反対8名、棄権が100何票、後は賛成。 除名される。
斎藤隆夫の日記には8名の名前が書かれている。(いろんな政党の人がいた)
斎藤隆夫の勇気は昭和15年2月、 最後だった、その後に議会ではこういった鋭い質問はないですね。
斎藤隆夫は命を覚悟したと言ったといわれる。

日本の軍隊は状況がいい時、 自分たちが勝戦の時は勢いがいい、ひとたび負けたり自分たちに状況が悪くなると、しゅんとしてしまって、国民に何も言わせない、批判もさせないという体質を持っている。
中国と仲良くして行こうという人達の声は14,15,16年と段々消えてゆく。
日本は大国を目指さなくてくていいんだと言った、石橋湛山とか、外交評論家の清沢 洌 「暗黒日記」をつけているが、支那事変などに傾斜してゆく日本の危うさを指摘している。
「暗黒日記」は当時の知識人が言えないことを書いている。
15,16年になると、中国と友好が必要だと、思っていても言えなくなってしまう。
昭和6年満州事変 9・18事変 中国の国恥記念日
昭和12年 盧溝橋事件 7・7事変
昭和12年12月 南京事件 国家追悼日(昨年から)
中国の人はこういった日はかなり神経質に見ている。 

私は10年前に中国に行って、中国の研究者、外交官とディスカッションしたが、95%、ひとによっては98%が日本と中国は友好関係だったと、それが近代の何十年間だけ戦争の時代だったと、長い歴史でみれば僅かであって、僅かな期間の戦争の時代を背負いこんで、何時までもそれに振り回されているのは、日本も中国も得策ではないと思われる。
新しい友好の時代を創っていかなければいけないと言っていました。