2015年2月11日水曜日

柴田知彦・いづみ(建築家)     ・「まち」を創る建築をめざして(1)

柴田知彦・いづみ(建築家)    ・「まち」を創る建築をめざして(1)
知彦さんは1946年東京生まれ 1971年早稲田大学修士課程を終了後、丹下健三都市建築設計研究所に勤務しました。
2001年からはいずみさんと共同で建築事務所を経営しています。
15年前から自分たちの住む、豊島区目白で、目白街作りクラブを立ち上げ、街作りの堤案活動や、イベントなどを主催しています。
いずみさんは東京都出身、 早稲田大学大学院修士課程を終了後、フランスに留学し、国立建築学校を卒業しました。
1996年~2013年まで滋賀県立大学の教授を務め学生たちと彦根市の市街地の活性化に取り組みました。
東日本大震災後の2012年、岩手県の陸前高田市で花畑を作り始めた地元女性の住宅跡地に学生たちと小さな家を建て寄贈しました。

建築家として40年近くになる。
知彦: 子供の頃は周りは焼け野原で、何故か家を作るのが好きだった。
穴を掘ったりして地下を作ったり、樹木の上に小屋を作るとかやっていた。
いづみ: やはり空き地に家を建てたりしていました。
知彦: 高校の時に大学を選ぶが、物理科学だけはあまり勉強しなくてもよくできて、美術も好きだったので、二つを繋げるとなにかなあと思うと建築になるので、建築を選んだ。
いづみ:私は外交官になろうと思っていたが、見えないものを形にすることが好きで、建築を目指そうと思って、文科系から変更して、1年目は不合格になり、浪人して、早稲田大学の建築を受けました。
当時は200人で女性は2人でした。 他の学部を含めて2000人居る中で女性は7人でした。
高校の時は剣道部でしたので、大学でも剣道部に入りました。

知彦:1000人の同窓会(建築科)を企画、キャンパスでやりたかった。
協力体制、分担、などは建築に通ずるものが有る。
纏めなくてはいけないので、交響楽の指揮者といった感じ。
恩師 吉阪 隆正先生、世界の近代建築の草わけでもあるし、ル・コルビュジエの弟子であると同時に冒険も好きで、視野の非常に広い先生で、「何かものを考える時には、大宇宙のことと日常の塩加減とを同時に考えたらいい」とおっしゃったことを、今も大切にしています。

いづみ: 恩師 保積信夫先生 アメリカに行って近代建築を学んで、新進気鋭で助教授の時に保積先生のもとで学びました。
人を育てるというか、そういう先生でした。

知彦:東大の丹下先生 早稲田の吉阪先生 私から見ていてある種のライバル
私にとって両極を抑えられると思った。
丹下事務所に入れてもらって、物凄く役に立ち、素晴らしい経験でした。
当時オイルショックでアラブの仕事があり、宮殿を作りましたが、模型、図面にして送るわけですが、前の晩に先生から、指摘されて、設計を作り直すことが有って、大変でした、いい思い出です。

いづみ: フランスで勉学したいという思いが有り、フランスの給付留学生としてパリに渡りました。
自分に足りなかったものを学んできてはどうかと言われて、西洋建築史(歴史)を学びました。

街作り  建築だけに眼をむいていると、ドンドン内側の世界に事が進んでゆく。
それに疑問をもっていた。
生活空間、生活環境とか、日常の生活は建物だけではなくて、全てが生活空間なわけで、それらが快適でなければ決して幸せではない。
街と関われないだろうかと今日までいたっている。
都市計画は上から広いエリアをバッサリときってゆくが、街は個々の人達の色々な要素が集まってできているので、複数の対応の世界。
建物の周囲を快適に作ってゆく、こういった視点を大切にして関わってゆく。

歩道のある住宅地、並木が有る住宅地がいい。 
都市計画的に行くと道路に歩道を付けるが、建築を作るに関しては、自分で敷地に沿って歩道空間を作る事は可能なわけです。
沿道を何がしか地域に対してプラスになると同時に、その建築に対してその価値がもどってくる。

フランスでテーマにしていた論文が、アンドレーア・パッラーディオ イタリアの後期ルネッサンスの建築家のフランスにおける影響であって、この論文を書いた人に会いたいという事でフランス大使館から言われて、コンペに参加する事になり、1等になり、フランス大使館の職員用集合住宅なんです。
歩道状空地を集合住宅の周りに作りたいと提案した。
フランス大使館の中にある木を一本もきらずに残して並木道になるようにする。
内側に塀を作って、或る一部分をフランス大使館から地域に提供するという考え。
それを実現している。
そういった考え方が日本でも受け入れられるようになってきた。
集合住宅を作る上で如何に空地を増やすか。

目白の森公園誕生の経過
徳川幕府の将軍の鷹狩り場だったので、明治以降でも樹木がそんなにあるわけではなかったが、屋敷林がところどころに在って、相続でマンションに変わるという事が起きて、樹木を全部切ってしまうという乱暴な提案がなされて、樹木を残すという運動が始まった。
マンションを建てることには反対をしないが、樹木を残してほしいと交渉した。
行政もそれに乗ったが、事業者の方がオプションとして、もし自分たちが手に入れた費用と、その後の経費を買い取っていただけるならば、提供してもいいという事になる。
屋敷林が現在地域の公園と言う事になりました。

いづみ: 滋賀県に行くきっかけ ゼロベースから4年制大学を作るという事で来てほしいと依頼があった。
建物だけでなく地域の事も考えられる、歴史、街づくりのソフト、自然再生とかも考えられる、そういう様な事を評価してくださった。
滋賀県 長い時代を経た文化があり、井伊 直政が彦根城に来て、西方面に対する防御の城だった。
井伊家はずーっと彦根に居た城主だった。
学生たちを街に引きだしたというのは、学生たちに付加価値を付けて卒業させたかった。
地方が非常に疲弊しているという時代だが、街が元気付いてくれればそれに越したことは無いので、学生たちに街に何ができるか、考えてくださいと、学生と一緒の街つくりがスタートした。
近江八幡 八幡濠を道路になってパーキングになる予定だったが、濠を再生させて、非常にいいたたずまいを持った街に残った。