2015年2月17日火曜日

森田泰弘(JAXA・マネージャー)   ・ロケット開発は人と人とのつながり

森田泰弘(JAXAイプシロンロケットプロジェクト・マネージャー) ・ ロケット開発は人と人とのつながり
1958年東京生まれ 一昨年、9月打ち上げに成功した国産新形ロケットの総責任者です。
このイプシロンロケットは最新の人工知能やIT技術を駆使し、ノートパソコン2台だけで打ち上げを行いました。
大幅なコストダウンを実現し、ロケットの世界の常識を大きくくつがえしました。
しかし打ち上げ成功の裏には7年間にわたる生みの苦しみが有りました。

最初8月27日に直前で中止になった。 発射19秒前にイプシロン自慢の自動シーケンスが止まった。
実際に止めたのは機械だった。
イプシロンでいろいろ新しい事に挑戦していたが、特にパソコン2台でロケットを打ち上げるモバイル管制みたいな事は世界でも初めての挑戦なんです。
それを実現させるためには、生みの苦しみもあるし試練もあると思っていたが、緊急停止もそういうことだと思っていたが、批判にさらされて辛い部分もあったが、いろんな人たちの応援の声を頂いたのが大きかった。

昭和33年産まれでSFが全盛だった。
ミュー3S2型ロケットの開発が始まって、ハレー彗星の探査を行うという事が大学のころに提案されて、衝撃的だった。
それが純国産 固体燃料ロケットだという事に感動した。
燃料 ①液体燃料ロケット H2Aロケットの様な大きなロケットに使われる。
②固形燃料は小型ロケットに多く使われる。 糸川先生がペンシルロケット 昭和30年に国分寺で始めて実験された。
とても優れた日本の技術の一つなんです。
ミュー3S2型ロケットの誘導制御が修士論文のテーマだった。
宇宙ステーションみたいなものも面白そうだと、ロボットアームの研究を始めて博士号を取ったのが、出発点だった。

カナダでロボットアームの研究をしていたが、宇宙研に帰って来て、ミュー5ロケット制御の研究をするのに役立った。
秋葉先生が助手を公募するからという電話がかかってきた。
ミュー5の頃はペンシルから積み上げてきた技術が成熟の領域に達してきたころだった。
固体燃料ロケットのカテゴリーでは世界最高レベルに達していた。
性能は世界一だがコストが高いという理由であっさり引退になってしまったというのがミュー5ロケットだった。
国の方針は、次のステップとして、ミュー5ロケットよりもっといいロケットを考えてみなさいと、それが生み出された暁には、そのロケットの開発について相談に乗ろうではないかというのが、国の方針だった。

我々からすると非常事態、やるべきことの方向が見えなくなってしまっていた。
自分たちの固体燃料の未来が無くなってしまうかもしれないという状況だった。
チームの一人ひとりが一体どうしたらいいかと暗中模索で、追い詰められて考えに考え抜いて、一人ひとりの頭の中に或る瞬間ひらめくものがきっとあったのではないかと思う。
私の場合は、秋葉先生(大学院時代の恩師)と研究会を開いていた。
未来のロケットとはどんなロケットなのか、考えてみようという、自由な発想の研究会だった。
先生が「ミュー5の事はもうブツブツ言うな。 自分たちで自分たちの良いロケットを作って、自分たちの未来を開け」とおっしゃってくださって、私の心に物凄く沁みて、私の頭の中が180度切り替わった瞬間だった。
秋葉先生はまさにペンシルからずーっと固体燃料ロケットの開発をリードされてきて、ミュー5も秋葉先生は先頭に最初立っていた。
私の青春はミュー5と共にあったが、ロケット打ち上げる仕組み全体というおおきな視野の中で、パソコン2台で打ちあげるロケットみたいな画期的なアイディアにつながる事になったと思う。
研究に研究を重ねて、追い詰められて考えに考え抜いて、或るレベルに達すると視界がひらける瞬間が有る。
私の場合は秋葉先生を通して聞こえてきたと思います。

私の未来のロケットとは、今の飛行機ぐらい身近なロケット、そんなロケットができたらいいなと思った。
モバイル管制、手で持って運べるぐらい小さなロケットの管制。
ロケットの打ち上げは沢山の人と、沢山の装置と長い時間をかけて行うやり方で、アポロの時代と変わらなかった。
この方式を変えていかない限り、ロケットを手軽に打ち上げる事はできない。
今までのロケットの打ち上げ方の量も質も変えてしまう革命なんですね。
今までのロケットの管制室はロケットの発射台のすぐ近くの半分地下みたいなところに在った。
モバイル管制はどこにあってもいい、インターネットにつなぎさえすればどこでも管制出来るという事です。
イプシロンの管制室は発射台から2km以上離れた所でした。

全部点検する、点検項目は2000点ぐらいある。
今までは人が、点検する為の装置を、ロケットにつなげに行っていたが、つないだ瞬間に火花でも散ろうものならロケットにその瞬間火が付いてしまうので精密な作業で、ロケットも爆発する危険もあるし、つなぎにも、計測にも時間がかかるし、点検が物凄く大変だったが、ロケットが自分でしてくれるようになったので安全になり、時間が大幅に短縮して、劇的に簡単になってしまった。
ロケットの向きを検知するセンサーが有り、ロケット自身が点検できるようになった。
今までは信頼性が最優先だった。
ロケット本体はドンドン進歩してきたが、地上のロケットを打ち上げる仕組み、装置類、人の動きの部分はアポロの時代と変わってこなかった。
絶対失敗してはいけないと考えると、人手と時間を装置を掛けてやれるのであれば、そうすればいいんじゃないの、という事だった。

絶対失敗したくないという気持ちと、新しい事に挑戦して自分たちで自分たちの未来を開こうというチャレンジ精神と我々ははざまに在る。
イプシロンの場合にはどんな困難が有っても、乗り越えて自分たちで自分たちの未来を切り開くんだという信念が有りました。
まわりからはパソコン2台で出来るのかという心配の声、一方でそんなにロケットの打ち上げを簡単にしたら、自分たちの仕事はどうしてくれるという人もいて、外からは心配され、中からは批判されて我々は非常につらい立場にあった。
批判にさらされればさらされるほど結束力は強くなった。
ミュー5ロケットの打ち上げがまだ残っているのに、ミュー-5ロケットはもう引退だと公表してしまった。
是は大変つらかった。 モチベーションはゼロにされてしまった。
全ての人の仕事が完璧でないとロケットの成功はありえないので、皆の心が一つになっている事、
ミュー5ロケットの引退の後、私のしたことは皆の気持ちを兎に角未来に向ける事だけだった。

我々が手塩にかけて作ったモバイル管制がロケットの打ち上げを停止してしまった。
心配が的中した部分もあったが、皆には是は新しいことを生みだすための生みの苦しみだ、こういうことを乗り越えない限り新しい事は出来ないぞと、ひたすら毎日言っていた。
皆の気持ちがばらばらになるのが一番怖かった。
幸せだったのは、内之浦の街が我々を家族同然に接してくれて、街の人の応援は有難いと思った。
「中止は失敗ではないから、本番では頑張れ」と色紙に書いてあり、私が毎日皆に言っていたことがそのままが書いてあって本当にうれしかった。(施設の人より)
いろいろの人の支えに助けられた。
1万5000人ぐらいの人がイプシロンの打ち上げに来てくださって、私にとっては衝撃でした。
ミュー5引退後7年後の事で、皆の苦労に値する様なフライトだったと思う。
イプシロン 名前の由来 日本の固体燃料ロケットはラムダロケットが出発点に近いが、日本の最初の人工衛星「おおすみ」という衛星を上げたロケット、以来ギリシャ文字を付けて上げるというのが習慣にっなっていた。
新しいロケットにイプシロンとした。 E (英語)   education excellence exclamtion
そういったメッセージが込められている。
野球もロケット開発も全く同じで、チームプレイ、全ての人のプレイがチームの勝利に繋がる。
発射中止になった8月27日の記者会見が終わって、イプシロンのところに行って「すまん」と謝った。
たんなる機械ではなく生きた機械、そういった感じです。
イプシロンの挑戦はまだ始まったばかりなので、行く行くはロケットが飛行中の出来事を全て自分で監視して、いろいろなことを自分でやれるようにしてやろうと思っている。
ロケットが飛んだ後もパソコン2台で出来るかもしれない。
TVの中継車ぐらいの簡単な設備でロケットの打ち上げが出来るかもしれない。