2015年3月12日木曜日

山村武彦(所長)          ・命を救う防災を訴えて50年

山村武彦(防災システム研究所・所長)                 ・命を救う防災を訴えて50年
1943年生まれ、新潟地震でのボランティア活動をきっかけに防災アドバイザーとして活動を始めました。それから半世紀、真実と教訓は現場に在り、をモットーに足を運んだ被災地は国内外の数百か所に上ります。
その経験と調査研究を元にいまでは実践的防災危機管理 の専門家として毎日の様に講演活動を行い防災意識の啓発に努めています。
特に近年、身近な人達が助け合う、近所の精神の大切さを訴えています。

世界で起こる大地震 M6以上の地震の20%近くは日本と日本周辺で起こる。
活火山 世界中の10%程度が日本列島の周辺に在る。
厳しい過酷な試練を与える地勢的リスクの或る国、これが日本だと思います。
2004年 12月 スマトラ大地震 20万人が津波で命を落としたが、主に津波災害だけ。
東日本大震災は広域複合大災害 地震、津波、原発事故という途轍もない過酷な試練、4年経ってもまだ先が見えない様な災害、人類始まって以来の大災害だと思う。

21歳の時に1964年6月 新潟地震が発生。
友人が新潟に帰省していた。
連絡が取れずに新潟に行く事にした。
空が真っ黒だった、石油コンビナートのタンクが火災で2週間から半月燃える。
新潟国体が終わった後で、メインスタジアムが液状化現象でトラックが半分埋まってしまっていた。
友人の家は大丈夫だったが、何とかしたいと思って、水運びを行った。(学校、公民館等に運ぶ)
たった十数秒の地震で街も人も生活も社会もこんなに壊れてしまうんだと、これを復旧させるのは大変な事だろうなと思った。
突然のショックだった。

今まで人生の目的を決めていなかったが、このままでいいのかと、東京に戻ってから色々調べた。
日本が地震列島だと、100人以上死ぬ地震が100年間に19回発生していた。
5年に一回大地震に見舞われている国、大騒ぎするが忘れてしまう。
何かしなくてはいけないと思った。
防災という言葉は当時なかった。
災害対策の様な事をして行きたいと思ったが、誰も教えてくれるところが無かった。
人が死なないようにするとか、被害を少なくするようなことができないものかと思った。
「災害現場を沢山見ればいいんじゃないの」と母親から言われた。
その言葉からはっとして、災害が発生した現場に行こうとして、お金が無いので周りに自分の想いを伝えて、周りからの支援を頂いて、行く事が出来るようになった。

大学を中退してこの仕事をやるようになったが生活が大変だった。
災害現場を見て、そこから得る教訓を出来るだけいろんな角度から立体的に構築すればいいなと思った。
でも災害は、風水害、竜巻、大規模火災もあり、それらがすべて危機管理の対象であり、人間の命を落とさない様にするというのが防災だと思い、色々な災害に共通な対策が有るのではないだろうかと、極力いろんな災害現場に行くようになった。
人間って、生まれた時よりもその人が死んだ時に木でも一本余分に植わっているという、その人が生きてきた証が残っているという事を聞いた事が有るが、内村鑑三先生の講演録 「後世の最大遺物」 最大人間ができる遺物 いろいろあるだろうが、誰にでもできる後世の最大遺物が一つだけあると、それは勇ましい高尚なる人生である、という。
一人で出来る事には人間限りがあるけれども、その人はいろいろな困難にぶつかってそれを乗り越えて、或いは何か目的をしっかり持ってその目的にまい進している姿、多くの人は見ていないかもしれないけれども、近くの家族や、友人や限られた知人は見ているかもしれない。
その人の中にその後世の最大遺物が残ると、あの男は大変な苦しい生活の中で、厳しい状況の中でも困難にめげず乗り越えて生きてきた、その気持ちや感覚や勇ましいその人の高尚なる人生が人生の最大遺物であると、そういうことかとその時にはっとした。

一番人間が困ることとは何かと思ったら、家族の命が失われたり災害で家が無くなったり、何の罪のない人が災害によって困窮の淵に立たされてしまう。
この事を少しでも減らすことができれば、地震や津波は無くすことはできないかもしれないけれども、被害を少しでも減らすことはできるのではないかと、新潟地震で眼の前に見たすさまじい地獄の様な状況を私に教えてくれたのだろうと思って、そのショックを自分の人生の中で生かせたらいいなあと思った。
生活も苦しいし、カンパに頼ってばかりもいけないので、防災機器の研究開発の会社を造ろうと思った。
借金をしながらやって行った。
信号機の非常電源等も私のところで造った。
私が病気になり(大腸がん)いろいろなことが有って会社は倒産する事になる。
自分の危機管理も出来ないのでは、私は防災の資格はないのではとも思ったが、もう一度原点に戻って被害を無くすための事をこれからも継続しけるのではないかとも思った。
講演を頼まれてやる様になる。
たまたま命が助かったということは、お前もっとちゃんとしたことをやれという事だと受けとめて、それまではいろんな役職が有ったが(20いくつか)全部やめて、以来、言って下さるところには今まで経験したことを話したりしているうちに、本も10冊以上出す様になり、災害現場にもそういうお金で行かれるようになった。
海外に行くと100万円もかかってしまうが、講演などでいただけるものなどを当てに出来るようにはなった。

高齢者、子供、体の不自由な人、妊産婦などを助ける事が出来るのは近くにいる人たちだけだなと思う様になった。
防災の三助 上杉鷹山 「自助、共助、公助」  
これも大事なものだが、皆と言うのは意外とあいまいで無責任だなあと思う。
実践現場では意外と近くの人が助ける。
阪神淡路大震災では 自力脱出困難者は3万5000人いたといわれるが、消防、警察、自衛隊が助けた人は19%ぐらい、大部分は隣近所の人、通りがかりの人 近くに居る人しか助けられない。
亡くなった人の約9割は地震発生の14分以内に亡くなっている。
早く助けないと助からない。
これが出来るのは近くにいる人だけである、そういう風に思う。
海外でもそうでした。

長野県北部白馬村で地震が有り多くの建物がこわされましたが、全壊33棟、半壊66棟。
2mの雪が積もる所のしっかりした建物だが、1階がつぶれてしまっていたが、皆があっという間に必死に救助した。
けが人はいたが犠牲者は一人もいなかった。
そこで地震の2年前に講演したことが有るが、近所同士で助け合う事は大事ですよといったが、講演の後の懇親会では山村さん近所は前からやってますよといわれたが、行って見て本当にそうだなと思った、兄弟みたいな付き合い、そういう付き合いがあった。
普段から付き合いが有る事が大事だなと思う。
小さなグループで、ほどよい距離感で、普段からの顔の突き合わせが、災害時にも助け合う。
高齢化社会で孤独死などにも防ぐことにもなるのではないだろうか、そのためにも防災隣組が必要だと思います。

避難路になるところは空けておく。(いらないものは整理)
自分が被害者、加害者、傍観者にならない。
隣近所の生き方、暮らし方が薄れてきている。
宗教、イデオロギーが違っていても、命、安全というものは共通の価値観。
最低1週間分は備蓄してほしい。 
1カ月2回 非常食デーを作って、ローリングストック法にすることによって賞味期限の工夫して備蓄する。
建物の下敷きにならない様な行動を普段から行う事が大事。
大揺れの時には歩けない様な状況になってしまうので閉じ込められない様にする。(逃げ道確保)
阪神淡路大震災では87.8%が建物の下敷きで亡くなっている。

閉じ込められない訓練が大事。
津波がすぐそばに迫っているのに、ゆっくり歩いている人がたくさんいた。
自分では走っているつもりだが、足が前に進まないという人が随分いた。
人間って、突発的な事が起こると身体が凍りついて動かなくなってしまう危険性が有るが、これを凍りつき症候群という。
凍りつき症候群はDNAにもあるのではないかという心理学者もいる。
突発的なことが起こったり、恐怖に陥った時に身体を麻痺させる機能があるのではないかという説もある。
無くす方法は普段からの行動です。 小さな揺れで行動を起こす癖。