2015年3月24日火曜日

熊倉功夫(歴史学者)        ・今に生かしたい千利休の教え

熊倉功夫(歴史学者、静岡文化芸術大学学長)      ・今に生かしたい千利休の教え
昭和18年生まれ 日本文化史、 特に茶の湯の歴史についての研究で知られています。
茶道の完成者とされる千利休を研究されていますが、熊倉さんは残された利休の言葉をひも解くと現代人が忘れてはならない心のもち方について、多くのヒントが得られるとおっしゃっています。
心豊かに生きるために現代が千利休に学ぶべきことは何か、伺います。

茶道への興味はどうして起きたか?
林屋辰三郎先生が書いた「中世文化の基調」という本を大学一年の時に読んで感動した。
中世の文化は民衆の文化だと書いてあった。
文化は弱者の側から見ていかないといけない、支配者の側から見てはいけないと言う事をおっしゃった。
社会的弱者とは ①女性 ②地方 ③被差別人
創造的な民衆文化の一つが茶の湯だと言っている。
茶の湯の勉強をしようと思った。

茶の湯では庭、茶室、美術工芸品、思想的なもの、文学的なもの、日本の文化が詰まっている。
そこに食事が有ってそう言う風な生活文化がいろいろ入っている。
昭和10年ぐらいから、学問の側から千利休研究が始まる。
千利休とは?
時代が戦国時代、中世的なものが近世的なものに移る大変動期、下克上の時代に活躍したのが千利休。
出身が堺、海外からの情報がどんどん入って来て、鉄砲しかり、堺は戦国大名は喉から手が出るほど欲しい武器弾薬の供給地、そこに千利休は生まれる。
新興勢力としての堺の新しい精神が千利休の中に在る、そうすると従来の既成の茶ではなくて新しい茶の湯を作ろうという創造性が生まれてくる。

千利休が亡くなり100年もたつと、遠い存在と成り、茶の湯はどんどん変化して新しい茶の湯ができてきて、新しい時代の茶の湯を見ていると、本当の茶の湯だろうかという疑問が出てくる。
千利休はこういう人ではなかったのではないかと考えた人がいた。
立花 実山、黒田藩の家老だった。
南方録」という本を書いた、利休研究の第一号 7卷に渡る本。 
我々が感動する真実はフィクションで、必ずしも事実ではない。
南方録」は文学として利休の真実を書いた本だと思っている。

茶の湯の精神
「心の至るところは草の小座敷にしく事無し、家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事なり、これ仏の教え、茶の湯の本意なり。」
是は名言だと思う。
茶の湯は 豪華な道具、着物を着て、素晴らしい茶室で茶の湯をやる様なイメージがあるが、これは昔からそうです。 そういった茶の湯がいっぽうにある。
しかし、本当に「心に至るところ」 心の満足が本当に得られる茶の湯が心の至るところなんです。
広間で立派な道具が有り、沢山の御客を招いてやるのではなく、小座敷(四畳半以下の小さな茶室)でやるのが、心の至るところのお茶、これがわび、侘び茶、茶室は仮小屋 手作りの小屋。
雨さえしのげればいい、食事は飢えないほどでいい、それが茶の湯の本質だと思う。
それは仏の教えである、お茶は仏道修行と一体だと考える、仏道の中でも禅。
禅というものの考えと茶の湯の考え方は同じ道筋を歩いている、茶の湯をやるという事は仏の道を歩むことと同じなんだという独特な考え。

いくら贅沢な美味しい食べものを求めても、きりがない、最後は炊き立てのご飯、作りたての味噌汁が有れば、十分という事です。
家も寝て一畳、起きて半畳ですよ。
阪神大震災に会って、もつという事に拘ると言う事はピンとぬけちゃたというんです。

「水を運び、薪を取り、湯を沸かし、茶を立てて、仏にそなえ、人にも施し、我も飲む、花をたて、香をたく、皆皆仏師の行いのあとを学ぶなり」
「人にも施し、我も飲む」 これが日本のもてなしの本質だと思う。
一時「おもてなし」が流行語になったが、例示されたものは過剰サービスですよ。
「サービス」は一方的 しかし日本の「もてなし」は双方向性がある。
もてなされた方が逆に今度もてなした側をもてなす、両方でもてなしあう。
人に施す「利他」 「自利」自らにも御利益を頂戴するという事が無いと本当のもてなしにならない。
人に差し上げることによって自分が豊かになり、幸せになる、そういうことを逆にもてなされた側がちゃんと返してくれる、これが有って日本のもてなしだと思う。

「小座敷の道具はよろず事足らぬがよし、すこしの損じも嫌う人あり、一向不心得の事なり」
完全無欠なものを求めるのは人間の一つの本性。
満月 完全無欠を求めるだけが素晴らしいのかと疑問をもつ。
雲の間に見え隠れする月が美しいのではないかという見方。
不足のところに美しいものが有るという新しい見方。
人間も欠点が有って、心にも体にも病をもっている事が人間として当たり前でまともであり、そういう風なものの見方をしたときに、よろずたらぬ、満足していないところがあることこそ美しい、「よろず事足らぬがよし」という考え方が出てくる。
人間でも物でも完全無欠は厳しい、しんどい。
欠点があっても、それを許そうというのがこの考え方。

ものと人間の関係が濃密になるとすてられなくなる。
愛着が出てくる、それが大事。
今、食べものが捨てられている、年間800万トンの食品が捨てられている。
日本の取れる米の量が860万トン。
食べものと人間の関係が薄くなってしまっている。
賞味期限が切れると捨ててしまう。
手塩にかけて作ったものは捨てないで分けてあげたりする。(家庭菜園など)
大量生産の中で物との関係が薄れてしまった。
近代の危機だと思う、もったいないという精神が無くなってくる。
損じたらそれを直して繕うて、又使うという事が大事。

問題は我々がその言葉をどう受け止めて自分なりにどういう風に消化していくのかという事だと思う。
客と亭主の関係
「客と亭主、互いの心持ちいかように得心してしかるべきやと問う。」
「如何にも互いの心にかなうがよし、しかれどもかないたるはあしし。」
お互いの気持ちがピタッと合ってああー良い時が過ごせたと思えるような関係になったら素晴らしいが、相手に気に入られようと思って、色々工作して相手におべっかを使う様なそういうことをしてはいけない。
日本の文化は「間の文化」ということです。
「俺 お前」、「僕 君」、 「私 貴方」 どうしていろいろな言い方が変わるかは、相手との関係、相手との関係に依り自分を位置付けて作り上げている。
西洋のアイデンティティーとは違うと思う。
相手と自分の位置関係 昔で言うと「位」 目上か目下か、社会的地位の高いか低いか、男か女か 違いで間柄を作り上げてゆく。

間 は距離感でもある。
どういう距離を取るかという事を始終考える。
親しい人間もどれだけ近付いたらお互いに気分がいいか、どれだけ遠ざかったらい気分がいいか自然に計算している。
時間の間。 
「時 所 位」 をどういう風に判断できるかという事が作法、マナー。
茶の湯はまさに間の文化。
客と亭主がどういう風に間を取るか。 客と客との取り合わせ。
掛け物 こういうお客さんだからこの掛け物をかけてあげたい。 客と物の関係が一つの間。
人と人、人と物をどういう風に取り合わせたら面白いお茶ができるだろうと茶人はいつも考えている。

間が無くなってきたという事は世間が無くなってきた。
世間 見知りごしの世界 誰かが自分を見ているという意識。
だから自分はしっかりしなくてはいけないという思いがドンドン薄れてきて、自分一人で何かできる様な、自分一人でなにやってもいいような雰囲気になってきている。
プライベートなことが(化粧、食べるとか)公的空間の中で出来てしまう。
世間が無くなってくると、もっと恐いのがITの世界。
世間という公的な基準が無いから、或る意味ダイレクトに事が進んでしまう。
一見近づく様に思うがそうではないと思う。
間をもつ事によって相手をお互いに判りあうということが大事だと思う。

節度 
「家はもたぬほど、食は飢えぬほどにて足る事なり」
節度が無くなって来て、欲望満開と言うか、欲望のままに走ることを良しとして、欲望を満足させるためには犠牲をいとわない様なところに行くとどうなりますかね。
足ることを知らないと、とめどもなく欲望に走ってしまう。
木村尚三郎 初代大学長 「振り返れば未来」 という言葉を残した。
どこから来たのか、歴史をふりかえって、どこにむかうのか、未来が見えてくる。
古典は航海に出るときに、ここが起点だというそういうものを時々教えてくれるものではないかという気がします。