2015年5月13日水曜日

多胡寿伯子(振付家)         ・バレエで伝える魂のメッセージ

多胡寿伯子(振付家)         ・バレエで伝える魂のメッセージ
多胡さんは9歳からモダンダンスを習い、多くの創作公演に出演します。
芝浦工業大学建築学科に在学中にクラシックバレエを始め、東京バレエ劇場の芸術監督を務めていたニューヨークシティーバレエのロイ・トヴァイアスさんの教えを受けました。
1973年谷桃子バレエ団に入団、翌年29歳の若さで創作公演し、舞台作家として第一歩をスタート、その後3回ヨーロッパにいき、バレエの研さんを積みました。
1975年から振付家としても本格的に活動を開始し、以後40年に渡って創作活動と舞台製作を続けています。
主な創作振付作品は文化庁芸術祭賞を受賞した「The Scarlet Letter A~緋文字」、「ハムレットの狂気」
「人魚姫」等、オリジナル演出振り付けでは「くるみ割り人形」など多数あります。
長年構想を温めてきたスーパーバレエ「ミナマタ」の上演に向けた準備に力を入れています。

創作舞踊を小学校4年から始める。
病弱で痩せぽっちだったし、クラスで一番のろまだった。
母が心配して体を鍛えようと、創作舞踊がこの子は大好きになるだろうと言う事でモダンダンスを始める。
この子はクラシックバレエをやれば世に出ますよと先生が言ったそうですが、母は想像力を遊ばせて音楽を創造する事がきっと大好きなので、ここに置いてくださいと言ったそうです。
大学3年の時にクラシックバレエに挑戦する事になる。
20歳を過ぎて専門のバレリーナになることはあり得ない事。
工学関係とデザインの勉強をする、美術史を学ぶ時に、芸術史を学ぶ。
モダンダンス(創作舞踊)に対してクラシックバレエの事を全然知らなかったし、クラシックは大嫌いだった。
クラシックバレエとは何なんだろうという疑問がわいてきたので、ちょっと学んでみようと思った。
東京バレエ劇場に指導者としてロイ先生が来ていて、初心者のレッスンを受けていたときに、先生が覗いていてあの子を自分のクラス(上級過程)に来なさいと言って、レッスンを始めた。
超スピードなので2カ月ぐらいは手も足も出なかった。

NHKの 「世界の音楽」のプロデューサーが眼に止めてくれて、レギュラーバレリーナに推薦するからと言われて、出演する様になりました。
谷桃子バレー団にも入ることになる。
(4月27日に谷桃子さんの訃報が入る。)
谷桃子さんの引退公演 「ジゼル」
ヨーロッパでも研さんを積んで、本格的に振付の仕事も始める。
パリでバレエの源流を知りたかった、どの様に発展してきて何を求めて250年の歴史をたどっているのかを知りたかった。
ドイツのジョン・クランコという振付家がいて、一度だけ日本に来て、その作品を見てその方の振付作品が、もし私が振付家としてやったら同じことをやっただろうと思った。

「くるみ割り人形」の振付
1892年初演で私は丁度100年目に上演と言う事になり、再リメークした。
物語でクララちゃんという女の子が、鼠と兵隊が戦っている時にスリッパを投げて鼠を撃退するが、鼠をやっつけるのが猫なので、真っ白い猫を出しました。
雪片が舞う場面で主役以外は列を作って動かないで立ちポーズのまま(コールドバレエ)なので、これでは我慢ならないと思い、ダイナミックな雪片の世界を描きました。
ロイ・トヴァイアスさんの先生でニューヨークシティーバレエの創設者のジョージ・バランシン先生は「音楽を聞かせるのが音楽、それを舞台上に身体で描いて見せる」と言ったんです、それをシンフォニックバレエと言います。
私はジョージ・バランシン先生の孫弟子なのでそれをやってみようと思ったわけです。
シンフォニックバレエ 「悲愴」にしようと思った。
「悲愴」はバレエになるわけがないだろうと言われたが、自分でやるしかないと思った。
10年間、頭の中で追いながら出来なかった理由は、あまりにも悲愴交響曲はドラマティックだった。
構想からいろんな困難を乗り越えて、作品化して芸術祭にかけた所、初演で芸術祭賞を頂きました。

スーパーバレエ「ミナマタ」 
「ミナマタ」を作ろうと思った時から18年が経過しています。
1997年2月 ガーデンプレースで友人スミスさんの写真展が有って、一枚の写真の前から動く事が出来なかった。
胎児性水俣病の子を抱いたお母さんの写真だった。
その写真の前から3時間ぐらい棒立ちになって動く事ができなかった。
今何かできることが有るとすればと考えた時に、舞台作品にすることはできる、だけれども非常に難しい問題なので、直ぐにできるわけではない。
舞台作品にすると決意するが、1997年3月17日私は半身不随で車椅子と言われて歩く事が出来なくなる。(脊髄が折れる)
もし私が再び二本の足で立って現場に戻ることができたら必ず水俣は作ると決意する。
その年の12月医者は貴方は元通りだと思ってください、と言われて、中枢神経が切れていたと思われていたが、つぶれていただけで徐々に歩く事が出来るようになってきた。

ありとあらゆる資料を読むのに膨大な時間が掛かりました。
ドラマ化する台本を作るのに10年掛かりました。
身体の表現は言葉をもたないのでどうやって表現するかだが、水俣については言葉を排除する事は出来なかった。
合唱組曲と言って、言葉をもっている世界が有った。
水俣病に苦しみながら亡くなっていた方がいる、その方たちの声の代わりはできる、その声の代わりを私は作ればいいとやっと気付きました。
今年の秋にと思っているが、未だ作曲と作業が動いていません。