2015年5月9日土曜日

賀川 浩(ジャーナリスト)       ・フィールドを見つめ伝えて(後編)

賀川 浩(90歳のサッカージャーナリスト)         ・フィールドを見つめ伝えて(後編)
会社に入ったのは27歳、1年生先輩、北川貞二郎さんがいて相撲の記事で一世を風靡してた。
若くて優秀な大鵬という力士がいて幕下に入っていたが、大鵬の名前の由来から書きたいというので、依頼され調べることから始め北川さんに送った。
文化部には当時、デスクには福田定一(本名)、司馬遼太郎がいた。
木村象雷という卓越した大記者にしごいてもらったのが非常に有難かった。
昭和39年東京オリンピックの開会式は北川貞二郎さんが書いて閉会式は私が書いた。
あれは全く予想外の事件だった、閉会式では皆がワーッと混じって入ってきた。
ブランデージなんかは秩序が無いと怒ったぐらいだった。
書く方は大変だろうと言われたが、これが世界なんだと、世界はこれだけ広くていろんな人がいるので楽しいものになるんだと書きあげた。

オリンピックのある東京にくらべて大坂が静かなので、川本泰三 (1936年ベルリンオリンピックの名選手)に話して、サッカーを開催するように協会に持ちかけた。
東京オリンピックの準々決勝で負けた4チームを大坂、関西へ持ってくると言う事をFIFAが考えてくれて、OKしてくれた。
日本が準々決勝で負けて大坂に来て超満員だった。
1965年に日本サッカーリーグ始まる。
ヤンマーの山岡浩二郎さん(サッカー部長)から 東西対抗があって西宮球場で行われたが、賀川さんの記事は親切だなあと言われた。(どんな人が見ても判りやすい記事)

釜本を見たのは彼が高校1年生の時で、良い選手だと思った。
東京に間に合うかなあと言う事になって、其れからず――と見るようになった。
2年の時は高校選手権で決勝で負けたが、そのころは断然目立っていた。
早稲田に入っても1年生で得点王だった。
釜本はメキシコオリンピックで大活躍をして銅メダルを取る。
大会前に釜本と杉山はこの大会で彼らの力を世界に問う事になるだろうという記事を私は書いた。
70年ワールドカップに行こうと思っていて、いなくてもいい様に準備を整えていたが、編集長に運動部長の君がいなくて新聞が出来るわけないじゃないか駄目だと言われてそれでおしまいだった。

74年には自費で行くが、会社の方で断れない様に画策して、出掛けることができた。
西ドイツに行き、レベルが高く、「書く相手がいる」と思った。
戦前の選手 右近徳太郎 レベルが高かったが、この選手に私などは教わった。
ブラジルはヨーロッパにないサッカーでブラジルに勝つには、烈しく全員防御、全員攻撃でやらないと、勝てないのではないかと言う事で、其れがミケルスのオランダのサッカーではないかと、私は思った。
それを見たのはプラスだった。
日本は選手の育て方の問題もあり、プロフェッショナルじゃあないところにあったのかもしれない。
川渕チェアマン等が頑張ってプロに移行したというのは、非常に賢明だったと思います。
あの時期しかなかったと思います。
数の多いことは非常に大事で、いいことだと思います。

2002年ワールドカップ日韓開催 (96年共催が決まる。)
共催の大会としては良かったと思う。
練習場がいるという事で長い間欲しいと思っていた芝生のグラウンドが、国体サッカー会場の芝生のグラウンド、陸上競技場のなかの芝生のグラウンドと、県庁所在地には最低それだけのもができて日本にとって、そのあとのサッカーの普及にとって物凄くプラスだったと思う。
子供達の素質の見分けが明らかになり、上達も早くなった。
2014年ブラジル大会
試合前の日本チームを見て、本田は茶髪だし判ったが、香川はどこにいるんだろうという様な感じだった。

外国人の監督が次から次に入って来て、その人の経験したことを出来ないという事で有れば、それを承知で雇っているのでしょうがない。
本来なら日本のサッカーをやるなら、日本の監督がやったらいいと思うが、自分らの仲間内ではよう選ばないのか知りませんが。
良い選手の見つけ方、選び方をどうするかと言う事だと思います。
コーチも経験が無いといけないし、或る程度時間がかかるのはしょうがないと思っている。

何がばかばかしいかと言うと、戦争ほどばかばかしいことはないと思っている。
ビルマ作戦に参加した一人は3年上で当然日本代表になるべき素質のある優秀な選手で、まさにいい先輩だったが、弾が入ったまま帰ってきたが、二度とグラウンドには出てこれなかった。
FIFAから賞を貰ったが、先輩後輩になり変わっていただいているだけの事。