2015年6月30日火曜日

丹下セツ子(大衆演劇座長)     ・我がブラジル旅役者人生に悔いなし(H27.4.8放送)

丹下セツ子(大衆演劇座長)     ・我がブラジル旅役者人生に悔いなし(H27.4.8放送)
女優丹下キヨ子さんの長女、丹下セツ子さんは昭和39年 母キヨ子さんに呼ばれてブラジルに渡りました。
キヨ子さんが日本に帰り、亡くなった後もブラジルに住み続け、10年後に丹下セツ子劇団を立ち上げ、日本人のいる場所を全部回ってから日本に帰国しようと思ったとの事。
しかし、ブラジルは広く、どこへ行っても大盛況だったので、これほどまでに自分を必要としてくれるのならばと、定住を決意して、50年が過ぎました。
ときどき日本に帰って大衆演劇の役者を楽しんでいる丹下さんに伺いました。

毎年ブラジルから日本に来る。 永住権でブラジルに住んでいる。
今回は一番長い。(11月12日~5月16日)
沢竜二劇団と一緒にずっと7000km余りの旅をします。
見聞劇場のこけらおとしに沢竜二劇団と一緒に行きました。
そこでは1日2本 1カ月間違う内容の興行をする。
24歳の時にブラジルに行きました。
母がブラジルに行って、銀行の15周年に呼ばれて1カ月公演に行った。
ブラジルを気に入って、永住したいと言ってブラジルに行く。
私は劇団の座長になりたかったが、当時劇団をもつのに100万円かかった。(私の給料は3000円だった)
母が劇団の仕事を手伝ってくれたら100万円くれるというので、1年間だったら行こうと思った。

母はナイトクラブをやっていて、私は藤間流の名取りさん等と一緒にショーをやっていたが、
母は日本に帰ってしまった。
以前、大江美智子 不二洋子 合同公演を見て、女剣劇、こういうところに入りたいと思っていた。
母はこういう方向に行く事には反対だったので、後で考えるとそれで私をブラジルに置いてきたのではないかと思った。
ブラジルでは1200人ぐらい入る劇場があるが、照明とかいろんなものが凄く悪くて、出演者もカツラをかぶっているわけでもなくて、おしろいだけして、有るものを着てやっていた。
このままでは踊れないと言ったら、どこからか照明をもってきて、私が出る時だけ使ったが、周りからはいじめられました。(母はその時はまだブラジルにいた)
雪乃丞変化を或る劇場でやったら、ファンがついて役に立つのかなと思ったら、母が帰ってしまった。

或るとき、板前の御夫婦と知り合って、どうしてレストランを開かないのかと言われて、レストランを始めたが、(48年前 今年辞める)大変当たった。
10年目に丹下セツ子劇団を旗揚げしたが、浪曲語りが沢山いて、10人位が劇団に入ってくれた。
あちこちから来てほしいという事で、行く事になる。(ただ距離が半端ではない)
行って、寸劇、黒田節などを踊ったりすると、こんな恰好を見れるとは思わなかったと、泣くわけです。
こんなに喜ぶなら、移住地がいくつあるか判らないが、日本人のいるところ全部ボランティアで歩いて全部歩いたら日本に帰ろうと思ったが、50年経ってしまった。
自分を必要としてくれるところにいた方が幸せだと思う。
沢先生と回って、自分はなんだろうと思った、洗濯機はまわせない、携帯電話は使えない。
ブラジルに帰ったら周りがみんなしてくれるので、本当に私は幸せだと思う。
中南米では私の劇団は有名になった。
ギャラは頂く事はなくて、お礼としていただくものはあるが、一緒に行った皆にお金を上げる事はする。
ホテルと食事だけは私の要望を聞いてもらった。

和太鼓の稽古は最初私が教えていた(弟子は50人ぐらい)が、日本から太鼓の今泉豊先生に来てもらったりした。
今は立派な太鼓道場になった。
ブラジルに10年ぐらい前にNHKのTVが入って、いなかの方に行かなくてはいいと、私の役目は終わったと思った。
ブラジルにはファンがいるし、友達がいるし、太鼓道場があるし、仲間がいっぱいるので、帰れない。
劇団員は全部、一世の日本人の人で、日本で浪曲、尺八、琴等を習った人たちで、その人たちは全部亡くなってしまって、30周年で沢先生の人達を呼んだが、これが大衆演劇だと私につかえてくれた劇団員に見せてあげたかった、見せてあげられなくて非常に残念です。 
丹下セツ子でなくては嫌だという人が、歳になってきたので、その人たちのために親孝行のつもりでやってきた。
沢竜二劇団を2度呼ぶ事ができたが、幸せだった、客は2日間で6000人入るが、17人呼んで、旅費、滞在時の費用を出して、1500円の入場料では赤字ですが、私が今日有るのは日系社会のおかげだからと思っているので、おじいちゃん、おばあちゃんが幸せになれるならばいいと思った。
レストランみやびというお店が有ったからこれができた。

私にはショーをやる丹下セツ子としてのお客さんと、レストランみやびの女将さんとの二つにはっきりと分かれる。
母が生きているころに、日本に帰って来てくれれば、何でもしてやるからと言われたが、その時に私は、母が私を向こうに連れて行って、かわいそうだったなと思ったのかなと思いました。
そのころはもうブラジルは捨てがたかった、お爺さんお婆さんがこんなに喜んでくれる人がいるんだと、ブラジルで骨を埋めようと思った。
今はブラジルが本拠地です。