2015年7月25日土曜日

山縣常浩(理事長)          ・「国産線香花火の伝統を守る」

山縣常浩(東京玩具人形協同組合理事長)  ・「国産線香花火の伝統を守る」
72歳 蔵前で5代続く店を経営、3年前まで花火の製造や販売に携わる人たちが加盟する、日本煙火協会の理事も務めてきました。
線香花火は平成10年までに日本国内での製造が途絶えて、国産のものは全くなくなってしまいました。
江戸から続く夏の風物詩、線香花火の伝統を守らなければと仲間に呼びかけ、立ち上がりました。
3年足らずで日本の線香花火を復活させる事ができました。
復活に至るまで、線香花火への強い思い、を語っていただきます。

現在50万本ぐらいしかよれない。(おばあちゃんたちがよっている。)
正月すぎぐらいからより始め、お盆が過ぎると終了するサイクルになっている。
おもちゃは8割ぐらい、2割が花火(花火が最近有名になったので) 売上と成っている。
昭和50年ごろから中国から線香花火が入ってくるようになった。
日本から技術指導で、線香花火を中国で作らせた。
昭和の末には中国製は2億本ぐらいと成って、日本では100万本もないぐらいとなった。
中国製は1本1円、2円で日本生は10円ぐらいでないと合わなかった。
日本の線香花火は和紙を使う、火薬が紙の繊維の中には入って行って、綺麗な現象になり紙は燃えない、日本製は絹の肌触り、中国は木綿の肌触り、染料も全然違う。
特級品と2級品の差はある。

江戸時代から続いているが、赤い松葉が出る前の燃えている状態が最も華やかで「ぼたん」、若い元気のいい時代が「松葉」、50歳ぐらいになって角が取れてきて大人っぽくなってきたのを「柳」、人生の終焉を迎えるのを「散り菊」、人生そのものだといわれる。(寺田寅彦)
※寺田寅彦随筆集(岩波文庫)第2巻「備忘録」にでてくる。
火薬は00.8g~0.1gしかない。
線香花火は忘れられない、必ずやりたがるので、どうしてもいい線香花火を作りたいと思った。
日本には3大産地があり、岡崎(徳川家康の居城 硝石を作る)、福岡(豊臣秀吉が朝鮮出兵した時に鉄砲方を集めて、火薬を集めた)、信州(真田幸村がこれからは鉄砲だという事で硝石を作る)その末裔が線香花火屋さんになった。
最初、信州が無くなる。(行商スタイルで、農家に持って回って行って、内職で作って貰って春になると集める)
次に岡崎、平成8年まで、昭和の名人の入山芳枝さんが最後まで頑張ったが、亡くなってしまう。
平成10年 福岡 みやま地域 一番多く作っていたが、和紙の質を落としたり、火薬の質を落としたりしたが、結局無くなってしまった。(17年前)

日本煙火協会は日本国中の打ち上げ花火の方が9割を占めていて、おもちゃの花火は中国から輸入協会を通して販売するシステムになっている。
三大生産地の線香花火を10種類ぐらいちょっと持っていたが、秋田の大曲(日本で一番の花火大会がある)の花火のミュージアムができるので寄付してしまった。
国産の線香花火の復活を考えて、岡崎を束ねている若松屋の佐野さんが、三州火工さん(日本でも1,2に大きい花火メーカー)の嫁さん、信州の一番大きい線香花火屋さんの娘を貰った話を聞いて、稲垣さんが電話して、嫁に来た時に和紙の束と作り方をもっていた事が判る。
できそうだという事で、稲垣さんから道楽をしようと言われて稲垣さんと2人で100万円ずつ出し合って、始めることになる。

火薬はできそうだという事で、紙も何とかなりそうという事になり、焼津で調達できた。
和紙をよる人も何人かおり、昭和の名人の入山さんから教えてもらった人等も見つかった。
黒色火薬に松煙(赤松をいぶしてすすにする)を加えると花が咲く。
松煙 九州と紀州で作っているが、紀州松煙は駄目(火薬を作るが置いておくと駄目)
平成12年秋 稲垣さんから電話があり、昔の線香花火と全く同じものができたとの事だった。
昔のままの染色と販売は私が担当する事になり、大江戸線の開通から、大江戸牡丹と命名した。
どうやっても50円で売らなければならなかった。
10本を袋に線香花火だけ入れて、500円にしたら、これが当たった。
中国では色々食べもの、汚染の問題が出てきて、日本のものを大事にしようと言う風な風潮にも合致した。

1660年ごろに、鍵屋八兵衛が今の奈良県から江戸に来て、鍵屋八兵衛商店を興す、子供、女性に向く様な花火を作って大当たりして、その中の一つによし、あしに黒色火薬を詰めて、花火を作ったらしくて、よく売れた。
わらの先に黒色火薬を付けて、火鉢、香炉の上に立てて、上から燃えてくるのを楽しむ。
立てた状態が仏壇の前のお線香、わらの先に黒いのがついて線香花火という。
関西にも広がり スボ手牡丹として原形をとどめている。
玉屋は100年後ぐらいに鍵屋から玉屋として独立して、両国の吉川町に店を開く事になるが、6代目鍵屋の大番頭だった。
鍵屋さんの裏庭に飾ってあったお稲荷さんに、片方は鍵、片方はまが玉をもっていて、そこから玉を取って玉屋として独立しなさいと言う事で玉屋になる。
「線香花火は紙かんぜなり」という口上が残っていて、かんぜ=こより 1760から1800年以降では紙になっていたことが判る。
最近中国製は5から6円になっている。

世界中にいる日本人の方に(ブラジル1世、ドイツ、フランス等の日本人村等々)に線香花火を思い出して見せてあげたい。