2015年7月8日水曜日

しますえ・よしお(シャンソン歌手)  ・手話を使うシャンソン歌手

しますえ・よしお(シャンソン歌手)  ・手話を使うシャンソン歌手
73歳 小さい頃小児麻痺にかかり何度も後遺症に襲われながら、今も歌い続ける、日本では数少ない男性のシャンソン歌手の一人です。
しますえさんのレパートリーの一曲、「声のない恋」は1981年の国際障害者年用にフランスの、シャルル・アズナヴールが発表した曲で、自分の愛を伝えるために手話で想いを語りかける歌です。
この歌に感動したしますえさんは,手話を学び、歌と手話で歌い続け、1990年にはパリ公演も成功させています。
「声のない恋」に出会って、自分の進む方向を見出したしますえさんにシャンソンを通しての人生を振り返ってもらいます。

シャンソンと出会ったのは大学の2年生の頃です。
お茶ノ水駅前にシャンソンのレコードをかけていた店があり、土曜日になるとライブが入っていた。
「ミラボー橋」というシャンソンの曲を聴いて感動しカルチャーショックを感じた。
アポリネールと言う詩人が書いた曲でフランスで大ヒットした歌。
土曜日に歌っていた先生に感動して、弟子にしてくださいと、お願いした。
宇井あきら先生と言うシャンソン歌手だった。(作曲も手がけていた 「今日でお別れ」の作曲者)
卒業のころに、歌が下手だったので他の仕事を探す様にと先生から言われた。
趣味でやらして貰う様に懇願した。
ピアノをもっていなかったので、先生がピアノを出世払いでいいからと言って、ピアノを買ってくれた。(嬉しかったですね 甘えてはいけないと思って何とか工面して買いました。)

ピアノを習わなくてはいけないと思っていた時に、学生ピアニストと地方で一緒に仕事をすることになった。
銀巴里」というシャンソンの店が銀座に在り、そこから前橋に仕事に行ってくれと言われて、行く事になり、学生ピアニストが一緒に行く事になったが、ピアノの先生をしてもらう様に頼んでみたら、OKの返事を貰った。
坂本龍一さんだった。 優しい人だった。
伴奏していただくのは楽しかった、演奏者の力を多いに借りて、自分の力を延ばしていかなければ一人ではできない。

小さいころに小児麻痺にかかって、2回福岡の病院で手術をして歩けるようになった。
足を引きずってステージに出ると皆さんが笑われたが、その分歌い終わった後に拍手は多かったです。
40歳を過ぎてから、後遺症が地方公演で突然襲う様になり、足のくるぶしがソフトボールの様に腫れ上がって、色がなすび色になってしまって、物凄く痛くて、痛み止めを打ってコンサートは終えることができたが、その後色々病院を回った。
日赤の久野木順一先生にたまたまお会いする事ができて、足を触ってくれて、母親が痛い足を触りながら、替ってあげられなくてごめんよ ごめんよと涙を流しながら、さすってくれていたが、その感触ととっても似ていて、この先生にお願いしようと思った。
物凄く難しい手術だったが、歩けるようにしてくださった。
其れまでは車椅子だったので、何度辞めようかと思っていたが、或る人が「車椅子で歌っても、松葉つえで歌ってもいいじゃないですか、貴方には声があるんです、私たちは歌を聴きに来ているので、貴方が歌えなくなるまで、私たちは応援し続けます、歌を辞めるなんてバカなことを考えるんじゃありません」と言われた。
この言葉を言われて、こんないい方たちに支えられて今まで来たんだと思ったら、涙が止まりませんでした、僕の宝はやっぱりお客さんだったと思って、感謝感激だった。

腹式呼吸が一番大事だという事を初めて知った。
しっかりお腹から声を出す、歌だけではない。
1990年 パリ公演に行く事になった。
大庭照子さんの紹介でパリ公演をすることになる。
リーヌ・ルノー(Line Renaudさん(国民的女優)はシラク市長(後の大統領)の芸術の右腕だった方です。
カトリーヌ・ドヌーブ、ソラヤ王妃とかシャルル・ボアイエ、等々お会いした。
4~5曲歌って、「サクランボの実る頃」を歌ったらフランス人の方がハンカチを出して泣いてくださった。
日本語で歌ってほしいと言われた。
1981年の国際障害者年用の前年 「声のない恋」がレコーディングされる。
耳の聞こえない、言葉の不自由な恋人への切ないほどの愛が歌われている、途中から手話が入ってくるが、其歌を初めて聞いた時に、体中が震えました。
自分で詩を付けて手話を習って、レパートリーに加えた。
其れまでは障害をもっている事は隠していたが、小児麻痺の障害をもっている事を話してこの歌を歌った。
客席と舞台にあった壁の様なものが一遍に取り払われた様な気がした、ステージとが一体となった。

或る日耳の不自由な高校生が3人楽屋に来て、今まで歌と言うものを理解できなかったが、しますえさんの手話の入った歌を聞いて少しづつ判ってきた様な気がするので、私たちのためにそんな歌があったら一曲でも増やしてもらえないかと言われて、手話の歌を作っていただいて、歌う様になった。
手話での対応が難しく、ジレンマに陥り、手話用の担当が音楽的手話を振りつけて専門にできる様な体制にする。
「声のない恋」だけは自分で行う。
「母への手紙」 ロシアの歌 エセーニンと言う人の詩に曲がついた。
自らの命を絶つ事に対し、母に許しを乞う思いを詩にしたもの、この手話を教えてもらって、この2曲だけは自分で手話を交えて歌っています。

お客さんに中学、高校の音楽の先生が来てくれて、音楽授業の一環として、しますえコンサートを取り上げたいのでやってほしいと、声が方々からかかってきた。
山形県では14校の県立高校生に聞いてもらった。
アレンジも若向きに変えて、演奏者も若者向きに変えて、凄い拍手でした。
自分本位で歌うのは止めました、感謝の気持ちをプレゼントとして残してあげないと人間ではないので、そういう歌をどの歌でも残す様にしました。
別れの歌でもありがとうになってしまう。

7年前に胃に癌ができている事が判ったが、コンサートを3カ月続けた。
胃と脾臓と胆嚢を全摘しました。
リハリビは腹式呼吸がいいというので、ドンドン歌ってくださいと言われたので、点滴しながら歌いました。
内臓を活性化するのには腹式呼吸がいいといわれる。
若いころから絵が好きで、歌を歌っている時に絵筆を声に変えて、まさしく絵を描いている事に気がつきました。