2015年9月1日火曜日

丹野祐子(遺族会会長)      ・「閖上の記憶」を伝えたい

丹野祐子(宮城県名取市立閖上中学校・遺族会会長) ・「閖上(ゆりあげ)の記憶」を伝えたい
2011・3・11の大震災から4年半が過ぎました。
あの日の津波で名取市閖上地区は被災当時4000人ほどが在宅していて、800人近くが犠牲になったと言われます。
夫の両親と、中学1年生だった長男も犠牲になってしまいました。
丹野さんは閖上の大津波の体験の語り部として、仲間と共に防災に役立てたいと活躍しています。

「閖上の記憶」というプレハブは、閖上中学校の遺族会が建てた慰霊碑を守るための社務所として震災の翌年に開所しました。
資料などを展示させて頂いています。
リアルに現場に立つと思いが全然違うと言ってくださいます。
生々しい津波の映像を現場で見て頂く事によって、本当にこの町に津波が来たんだ、街があったんだ、人々の暮らしがあったんだと言う事を知ってほしいと言う想いが映像となり、いろんな資料になっています。
今まだ更地になっていて、かさ上げ工事が進んで新しい街が着実に作られようとしているが、ほかの被災地よりも着工が遅れ気味なのでよけいに何にもないという印象が持たれてしまったのかもしれません。
当時の閖上小学生に依る紙粘土で作った震災前の街並、あの日の光景、未来の三部作を展示。
自分たちはここに生きていたんだと言う事を、あえて子供たちに作ってもらう事が目的であると言う事を先生がおっしゃっていました。

私は子供を亡くしてしまって、どうやって生きていけばいいのだろうと思い悩んで、自分だけ生き残った罪悪感に本当に押しつぶされそうになった時に、NPO法人地球のステージ代表の診療内科医桑山先生に出会って、あの日のことをちゃんと語りつたえることが私の生きる意味であり、息子がこれからも一緒に生きていく意味であると言うアドバイスをして頂きました。
あえて心の中に留めているのではなく、ちゃんと吐き出すことによってあの日と向き合うべきであると言う事で、心のケアの一環として、あえて震災前の街、未来の街、震災の残念な景色、を紙粘土でリアルに表現したのが、ジオラマの三部作です。
震災当日は閖上中学校の卒業式だった。(娘の卒業式)
体育館で息子も一緒に卒業式に参列していたが、一足先に息子は自宅に帰っていた。
私と娘は謝恩会に出席していて、一旦コーヒーでも飲もうかと思って立ち上がった時に震災が発生しました。
体験したことのない様な本当に恐ろしい揺れでした。
80人(子供40人、母親40人)が寄せ合って揺れを皆で声を掛け合いながら乗り切って外に出たが、揺れが収まった後に戻って手分けして部屋内を片付けた。

その後、お母さんたち、子供達と手を振って別れたが、それが最後の別れとなってしまった人たちがいた。
津波が来ることは予想をしていなかったが、いろんなところから津波の情報が入ってきたが、あの様な大津波が来るとは思わなかった。
どこか甘く見てしまったような人間も少なくない様な気もします。
防災無線があり、本来けたたましいサイレンが鳴るが、サイレンが鳴らなかった。(油断した)
想定外の揺れで防災無線が壊れてしまっていたことがあとで判った。
地震後1時間6分後に津波が来た。
或る人に声を掛けられて、津波が来るから逃げた方がいいと言われたが、その時東の空(海の方)を見たら、黒い煙が動いていて、てっきり火事の煙だと思ったが、誰からともなく「津波だ」と大きな声があり、私は公民館の建物の2階に娘とともに逃げ込んだが、息子の姿は判らなかった。
2階も危ないと思って、3階建の中学校に逃げてゆく人が多かったが、途中で津波に会ってしまった
人達もいた。

雪が降ってきて、まわりが白くなって暗闇に覆われてくる、夜になると空は満天の星空が広がって、不覚にも星空が綺麗だなと思う位凄い星空だった。
翌日沢山の人が家族を探し始めるが、街中は全滅だと知らされる。
もしかしたら息子は駄目かもしれない、或いはどこかで生き延びているかもしれないと、僅かな希望を持って探し歩きました。
津波は水だけでなく、瓦礫とすべて生活が流されるので、泳げば助かると言う事は絶対あり得ないです。
名取市は翌日 朝6時には自衛隊の方がたが、閖上小学校に、中学校には昼ごろに救助に来てくれました。
街の避難所にお世話になる事になるが、誰それ誰それが亡くなったと言う様なことが耳に入ってくる。

仮遺体安置所(ボーリング場)に向かったが、レーンに何百の棺が並んでいる。
一つずつ棺をあけて探して続けていたが、母親が1週間後、息子は2週間後、父は1カ月後に仮安置所で見つけることができた。
当時閖上中学校では約150人いたが、14人が亡くなってしまって、石碑を建てた。
私はどうしても亡くなった人にも手を合わせる場所があった方がいいなと思っていた、更地になった街を毎日のようにさ迷い歩いて、息子の遺品を探し歩いたが見つからなくて、悲しくて、震災の年のお盆が空けたころ、無断で校舎に入り机を引っ張り出して献花台を作って花を添えたり、お菓子などを並べて添えたが、翌日に行くと別の花や物が供えてあり、嬉しくなって、ここに我が子が生きていた事、沢山の命があったことを標すことができないかと思った。
他のご遺族の方々に連絡して、閖上遺族会を立ち上げました。
有志とともに慰霊碑を建立しました。 
生徒の名前が全部書いてあって、触れるような高さ(腰の高さぐらい)になっている。

息子のことを考えるとなかなか笑う事ができなかった。
次の世代に伝えるために、語り部の会が行われて、自分の今の思いを言葉にすることによって心の中を吐き出すというこれも心のケアの一環で、私が第一回の語り部を務めさせてもらいました。
自分の命を守る事につながるのではないかと思って、今も案内をさせてもらっています。
震災は自分の身に降りかかる事はないだろうと思っていたが、そうではなかった、この震災を体験して、どこかもう震災は次はないだろうと思っていたが、或る人から「今は決して震災後ではない、次に起きてしまうであろうつぎの震災の前なんだから、次起きる震災前なんだと自覚を持ちなさい、そうして伝えなさい」というアドバイスを下さった、だから気を付けてと言う事を口を酸っぱくして伝え続けています。