2015年9月13日日曜日

祖父江逸郎(古屋大学名誉教授)  ・一期一会の人生を語る(1)

祖父江逸郎(古屋大学名誉教授)  ・一期一会の人生を語る(1)
1921年大正10年名古屋市生まれ
昭和18年名古屋帝国大学医学部を卒業後、海軍軍医学校を経て戦艦大和の軍医となります。
昭和20年8月6日、江田島の海軍兵学校教官の時、原爆のきのこ雲を目撃しました。
それから3日目の8月8日には、現地調査隊の一員として、広島に入り被害状況を調べます。
終戦直後には輸送艦に乗り組み、戦場から帰国する日本兵の治療や世話にもあたりました。
戦後は脳神経内科の専門医として多くの医師の育成に当たるとともに、高齢社会に向けて、長寿科学センターを立案し高齢者や、長寿の研究に総合的に取り組みます。
そのデータの蓄積は世界的にも珍しく高く評価されています。
祖父江さんの信条は人生一期一会、それは戦艦大和との出会いであり、旧制高校の時に読み感動した「人間この未知なるもの」との出会いでした。

一期一会というのは、茶道から来ている言葉であり、一回の出会いと言う事で心をこめておもてなしをしないといけないというところから始まった言葉です。
千利休の弟子に山上宗二という人がいますが、この人も一期一会を強調した人です。
一世一度の機会に何事も粗末なきように心を配って誠意、実意を持って接する。
卒業が昭和18年、陸軍か海軍等で戦争に参加する事になるので海軍を志願した。
戦艦大和、日本が力を誇示するために世界一の船を造ろうと言う事で機運が高まり、できた船です。
当時船が積んでいる大砲は直径40cm砲が最高だったが、それが9門ある。
船の数は制限されていたので優秀な船を作って、其れに対抗しようではないかという事で、最高の技術を集中させた。
6cm増やすためにあらゆる技術を総合しないと出来ない。
大砲の数が増えると重くなるので、調整するために部分的には軽い金属を使用しなければいけない。  この技術が戦後生きている。

全長263m。幅38.9m 全甲板に3000人が集まれる、映画会も出来る。
立派な手術室もあった。
大病院で使われている手術室と同じ精度を持った手術室が設計され準備されていた。
40cmの厚さの鉄の塊で囲まれていた手術室だった。(全鑑冷暖房付きの船)
世の中に尽くすためには医学はウエートが高い職業だった。
アレクシス・カレル(ノーベル賞受賞)が「人間この未知なるもの」という本を書いて、当時ベストセラーだった。
綿密極まりない機能を備えた生体、人間は最高のものである、人間は最高の存在だと言う事であった。
血糖はいつも一定な値になるように自動調整されているという事等が書いてあり其れを読んで吃驚した。

全国の医学関係の大学卒業者、歯科関係、薬剤関係の卒業者を全部集めて、軍人に仕上げるために一緒に訓練、海軍魂を叩きこまれた。
動作迅速に、正確というのが海軍のモットーで、軍医学校に行って軍人医学、戦陣医学を叩きこまれて初めて各任地に赴任したが、私は大和の乗組員を命じられた。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加する事になる。
3000人の3カ月分を積み込むのに1ケ月かかるが、そんな準備をして、シンガポールの南の海域で戦闘の練習するために行き、連合軍が集結してくる。
航空母艦を中心にした編隊を組んでいったがこれが大失敗で、航空母艦はほとんど撃沈された。
フィリピンにアメリカを中心にした連合軍がフィリピン島に上陸をして大編隊を組むという情報が入ってきて、第一線における戦闘の尤も大事な作戦だった。
そこに行きつく前に、敵側に制空権があるので、30分おきの空襲を受けた。
武蔵が狙われて、スクリュー、舵を標的に狙われて動けなくなり、空襲を受けて沈没する。
武蔵には友人が乗り込んでいたが、気がついたら、海に浮かんでいたとの事だった。(生還した)
昭和20年8月6日、江田島にいた時に、原子爆弾のきのこ雲をみた。
キノコ雲がだんだん大きくなって、夕方まではっきり見えた。

被害の状況を見に行く必要があり、爆弾の内容も調査する必要があるという事で海軍兵学校から調査隊を出すべきだと言う事になり、10人ぐらいのチームを組んで編成された。
3日目に小さな船で行き、自転車を持って行ったら、吃驚したのは広島周辺の山は全部焼けて真っ赤になっていて、広島市内に入って行ったら、全部焼け野原で、色々な人がうろうろ歩いている。
遺体がいっぱい街の中にあり、やけどと日照りの暑さとで身体が膨れ上がってしまっていた。
雨が降ったとか、黒い雨が降ったとか言っていた。
図書館みたいなところに一杯収容していた。
吃驚したのは赤十字のレントゲンフィルムは鉛の枠の中に格納してフィルムをしまっていたが、フィルムは全部感光していて、放射線の光が鉛を通して感光してしまっていた。
帰ってすぐに報告したが、全然取り上げられてこなかった。
2,3か月過ぎてから、新聞に載った。

終戦半月前ぐらいから腸チフスがはやっていたので、隔離しなくては行けなくて、伝染病なので勝手に郷里に返すわけにも行かないし、帰していいかどうか十分調べないといけなかった。
戦後の終戦処理は大変な問題が山積みしていて、東南アジアに傷病した軍人が300万人いたが、
この人たちを早く内地に戻さないといけないが、船が無いのでどうするか、政府として取り組んだ。
海軍が解体されて、第二復員省 陸軍が第一復員省となり、復員業務をやる省に変わった。
家に帰ったのが1カ月半ぐらいしてから帰ったが、召集令状が来て、19号輸送艦に乗り組みを命ずるとの事で、300万人を内地に帰すのには10年掛かると言われていた。
激戦地だった、パラオに行った。
2000トンの船で約2週間かかってパラオに行った。
栄養失調になっていてアメリカの軍医からこの注射を打ってあげなさいと、乾燥血漿というものをくれた。
医療器具、医療用品でも格段の差があった。
アメリカの輸送船を日本に貸したので、またたく間に1年半か2年で終わってしまった。
一遍に伝染病にかかった人が入ってくるので、その検疫業務をやらなければいけなくなって、その作業もやらされた。

アメリカの医療研究の実態と、アメリカその物もみたい思いがあり、アメリカに行く事になる。
医療そのものが機械化されていたが、ワルテンベルグさんは反射機能を観るのにハンマー一つでやっていて、丹念に患者さんを看て反射学を自分で作り上げ本にまとめた。
患者を看て、データをとって、考える、その繰り返しをして考えると言う事を強調した人です。
診察というのはドクターが触って、患者さんが協力しないと所見が取れない。
最近は医者が患者さんを看ないし、患者さんも見せる事が下手になってきている。
最近の医療は、医者が患者さんを看ないし、コンピューターだけを見て、やらないので全く駄目です。
如何に検査機器が発達しても患者さんから得られるデータの方が、より一層正確です。
検査機器では血液の分析等色々はあるが、両方合いまって正しい診断ができる。
スモン病、進行性筋ジストロフィー等があるが、軍隊にいたこと、アメリカ医学を見に行ったことが大いに研究に役立った。

スモン病は昭和30年ごろから患者さんが発生してきて、巨大な研究費を投入、全国の関係している研究者を全部集めて、その結果どうも薬害ではないかという事になった。
無害だと言われていたが、量、投与期間については一切触れてない。(整腸剤)
実情調査が大きなヒントを与えてくれた。
老人医療総合センターを提案、シルバーサイエンスの研究を始めたが、きっかけは名古屋大学で神経学の教授をやっていて停年になって、セカンドライフとして赴任したのが現在の長寿医療研究センターだったが、前身は1000名の結核患者のいる8万坪の施設だったが高齢者が増えてきて、高齢医学の中心的な医療機関を作った方がいいと思って、行政関係、医師会と調整して長寿医療研究センターを作った。