2015年12月1日火曜日

昆野美和子(俳優)        ・演劇で「生きる喜び」を伝える

昆野美和子(俳優)           ・演劇で「生きる喜び」を伝える
岩手県出身 大学では社会福祉を学びましたが、22歳の時に俳優を志して上京、学校演劇を活動の柱とする青年劇場に入ります。
以来40年に渡って全国各地を回って舞台に立ち続けています。

北上の農村地帯で生まれたが小さいころから塊みたいなものがあり、表現してみたいという気持ちが強かったが、いっぽうでは人さまの役に立つ仕事をしなくてはいけないのではないかとう気持ちも強くて大学は福祉の方に行くが、芝居は自己実現のためだけの独りよがりなものと考えていた。
それが社会性があるという事に気づいて、演劇を選択しました。
親は反対すると思って東京の友達のところに行って、代々木八幡のアパートに手付金を渡して、親に告げたが猛反対を受けてたが、結局母があなたの好きなようにすればいいと言ってくれた。
高校等の時も演劇には全然触れていなかった。
演劇雑誌を買って、昼間は生活費を稼ぐために、夜の養成所を探して青年劇場とつながりました。
4人兄弟の末っ子ですが、一つ上に6カ月で亡くなった兄がいて、兄が亡くならなければ貴方は生まれてこなかったといわれて凄く傷ついて、5歳ぐらいの時に一緒に遊んでいた1か2歳下の子が池にはまって亡くなっちゃうんです。
人は何で生まれてきて、何のために生きるんだろかという気持ちが、小さいころから自分の心の中にあった様な気がして其れを突き詰めてきた様な気があります。

正式名、秋田雨雀・土方与志記念青年劇場
土方与志は元貴族のかたで、私財を投じて築地小劇場を建てて運営された方で日本の新劇の歴史の中ではなくてはならない人です。
秋田雨雀は劇作家、社会運動家で様々な作品を残した人です。
戦後の最後の人達が作った劇団です。(創立1964年)
わたしは1975年に養成所に行きました。
1977年にNHKブーフーウーという人形劇を作った飯沢匡さんが「多すぎた札束」という作品を作って、どこかやる劇団が無いか、週刊誌に呼びかけた。
うちの劇団が手を挙げてやることになって、それが縁になってやらせて貰うことになる。
年に一本書いてくださるようになって、創作劇を中心に作品を作ってきました。
ジェームス三木さんとも青年劇場が付き合いができるようになる。

若い人向けという作品作りはしていなくて、学校公演は創立の時から大事にしていて、これだけは絶対に手放さないという思いでいます。
1000校以上廻っている。
観賞行事が少なくなった又少子化で学校が統合されて学校の数が半減しまして、上演校も最盛期と比べて半減しました。
先生も戦争体験をされていた人もいまして、戦争の記憶を若い生徒に残したいという先生もいて、私達の作るテーマと繋がって沢山上演していただいた事も有ったんですが、今は明るくて楽しくて等身大の作品の系列が多くなりました。
井上ひさしさんの「偽原始人」という作品を釜石(井上ひさしさんの母親が住んでいる)の或る学校に行って、PRをしたが中間テストの中なので、駄目という事だったが、何とかならないかと一生懸命に頼み込んだら、先生はずーっと考えて一週間延ばしましょうという事になって、其学校で実現することになりました。
それが皮切りになって、4校か5校の合同観賞を実現できた。

井上ひさしさんのお母さんにお会いして、破天荒なお母さんでとてもかわいがってもらって、高級な缶詰などを袋に入れて持たせてもらったりして、嬉しい青春の思い出です。
稽古は40日有るがその間はお金をもらえないので、夜とか早朝とかアルバイトと平行に生計を立てながらお芝居の稽古をやっていました。
芝居に出れば出るほど、財政破たんをしてしまうみたいな、不条理な環境にありました。
何が支えてくれるかというと、出会った感動とか、芝居は一人で作れるものではないのであらゆるものを共同作業で作るので、観客も自分たちが集めてくるので、繋がったそういう思いへの責任みたいなものが自分の中にあって、辞められないぞと思っています。
1990年「遺産らぷそでぃ」 転機になった作品
農家の遺産相続をテーマにした作品
急死した父の遺産相続をめぐって農業を継ぐ長男と都会に出ている兄弟、親戚等の遺産相続をめぐって葛藤するというドラマ。
私は主人公の妹役で貰えるものだったら1円でも欲しいという役柄。

描かれている世界があまりにも身近過ぎてドラマにならないと思われるが、私達の様な劇団の人間がやるとぴったりとはまるんで、代表作になりました。
農家をテーマにした作品を3作品作っています。
2000年「菜の花らぷそでぃ」  父と息子の農業の在り方を巡る対立を軸にした作品
2009年 「結の風らぷそでぃ」 主人公結のお母さん役 結が米の有機農業を宣言
何10年ぶりにふるさとでの公演を行ったが、突然舞台にでたので吃驚したと思いますが、反対はされていましたが、折々にお米や野菜を送ってくれたり、生活費としたカンパを送ってくれたりしたので身近な応援団でいてくれたので、少しは恩返しができたのではないかと思います。
養成所に入る時に東北訛りが直らないとだめだと言われて、ラジオをつけっぱなしにしてアクセントを直しました。
宮澤賢治の作品を上演するときに、方言指導が必要になって、一度封印した方言を引きだして今それが活かされたりしています。

劇団に入って40年になります。
「真珠の首飾り」 ジュームス三木さんの作品 日本国憲法の作成にかかわった女性の主役をやりました。
どこで人生を終えるのだろうか、どうやって生計を立てていくのだろうか、人生の第二ステージを切実に考えるようになりまして、もうそろそろ潮時と決めていたが、そのに大役が舞いこんできてしまって受けるしかないと思って、稽古が始まってなかなかうまくい行かなくて、今日は稽古に行きたくなくて消えてしまいたいという思いがあったが、舞台があけるまでは地獄の淵にいる様な気がしていたが、舞台があけると凄い反響だった、こういうテーマ性のある、こういう事を社会に伝えるために始めたんだと、初心に引き戻された感覚があり、40年とういう集大成の作品に巡り合ってしまったという風に思いました。
歳を取ってしまったので、夜のアルバイト(焼き鳥屋、喫茶店等)とかはできなくて、私達の年代の人達は生計を立てるために、多くはビルの清掃だとかいろんなことをしています。
今は社会福祉の支援員、障害者の人の居住者の寮母さんみたいな、生活全般のサポートの事をやっています。
社会福祉の従事者は待つ事、様々なことに不自由なので、着ること、食べること等、最大限自分の持っている力を引きだす能力を使ってもらう為に、待つ気持ちを持っているということでしょうか。
地味で貧しいけれども、正直にやってきた人生ですので、これからも生かされたことに感謝できる様な生活が送れれば良いかなあと、そういう世の中であってほしいと言う風なことでもあるのですが、そういう事が出来る様な生き方をして行きたいなあと思っています。