2015年12月6日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第23回 昭和天皇の全国巡幸

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第23回 昭和天皇の全国巡幸
天皇がご自身で復興のために働いている国民を励ましたいと思っていて、昭和20年の終り頃から側近に伝えていて、それを側近たちが計画しようという事で始まった様です。
その時天皇は46歳。
それまで国民とは話したことは全く無く全国巡幸は天皇にとってみれば冒険という様な気持があったのでは。
最初は一般には知られていない形で、横浜、川崎、横須賀等を不意に尋ねる形の行幸でした。
昭和21年2月19日、20日 神奈川県内からスタートした。
「あっ そう」という頷く言葉が有名だが、段々会話をしてゆく。
昭和電工川崎工場を出てゆく時に従業員に初めて質問する。
稲荷台共同宿舎で復員兵に「ご苦労だったね」などのねぎらいの言葉を発する。
元兵隊が軍歌を歌っていたのを見て、「ああいうことはいけない」という様な言葉を言ったという。
小学校の校長室で休んでいるときに、外で日の丸の旗を囲んで元軍人が取り囲んで歌っていた。

食糧事情が良くなかったので、天皇の食生活も質素だったようだ。
(昼食 ご飯に海苔が載っていて、お漬物、 小さなサンドイッチとか だったようだ)
全国巡幸はその後東京、関東地方、名古屋等を順次廻ってゆく事になる。
天皇が国民と話すと国民が泣きだすので、アメリカの記者たちは不思議がったようだ。
天皇は戦争の傷跡をたしかめながら、自分を優しく迎えている国民の目を感じた。
日の丸の旗を振ってはいけない、天皇陛下万歳も言ってはいけないというGHQからの制約があった。
「わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ」 巡幸の後に歌を作る。
昭和22年 関西、東北、北陸、山陰山陽等を廻る。
広島では 禁止されていたが万歳で迎えられた。
「ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり」 

巡幸に対して、又日本の国民を戦争に駆り立てるのではないかという事で、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド等は可なり警戒して強い反対の意思表示をしている。
象徴天皇を理解する、巡幸にはそういう役割もあったと思う。
丸山眞男、「超国家主義の論理と心理」 論文を出す。
日本の国家主義がどういう特徴を持っているか、そこではどういったパナティックな社会が作られていったかという事を分析している。(天皇の巡幸の時期に出ている)
日本国民として天皇について考える時期だったのではないか。
昭和23年 1年間巡幸は無かった。
GHQの将校たちは驚いた、このまま続けたら、又天皇と密着して反GHQ、反マッカーサー運動が高まると大変だという事で、中止命令が出される。
東京裁判の判決が出る年でもあったので、この事と連携しての大騒動を警戒して、この年は巡幸は無かった。

昭和24年 東京裁判で古い体制にけりを付け、新しい体制で、天皇歓迎の渦が広がってゆく。
九州に巡幸、昭和25年四国、昭和26年が関西に巡幸する。
「老人(おいびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし」 
*(これは中国御巡幸の折、わが子を二人戦場で失った老農が少しも屈することなく食糧増産に働き
 それを青年男女が助けてゐることをきこしめし御感あっての御作である)
昭和29年 国体が北海道で開催、天皇皇后が訪問する。
沖縄巡幸は残ってしまったが、天皇は沖縄に特別な思いはあった。(昭和50年の記者会見)
昭和62年の沖縄国体に行く予定であったが、病気になって医師の判断で断念する。
「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」 
遺志は今上天皇に引き継がれてゆき、10回以上にわたって沖縄に行く。
巡幸は8年間 165日 3万3000kmになる。  天皇の強い意志があったと思う。

当時の出来事(音声で紹介)
昭和23年8月6日 古橋選手が水泳自由形1500m、400mで世界記録を樹立。
ロンドンオリンピックで同じ日に同じ種目が行われたが、当時日本は参加できなくて意識的に同日に日本では行った。
初めての満州からの引き上げ 1127人乗せて高砂丸が舞鶴に着く。
炭坑に向けての放送。(昭和21年8月)
今週の明星 歌番組(昭和25年1月から始まり昭和39年まで)
「星の流れに」「湯の街エレジー」「青い山脈」