2015年12月2日水曜日

鈴木富佐江(着物工房代表)     ・体が不自由な人のため帯を考案して

鈴木富佐江(着物工房代表)    ・体が不自由な人のため帯を考案して
79歳 昭和11年満州生まれ 9歳で日本に戻り、小さいころから着ものの魅力や大切さを祖母からしっかりと教わって成長しました。
短大を卒業後、幼稚園の先生として働き、結婚して2人の子供を授かりましたが、ご主人が病気で亡くなってしまいます。
就職し仕事と子育てで忙しい鈴木さんを支えたのは大好きな着物を着ることだったと言います。
鈴木さんはボランティア活動に本格的に打ち込もとしていた65歳の時に脳梗塞を発症しました。
後遺症で手が思う様に動かず自分で帯を締めることができなくなり、呉服屋に相談に行きましたが、帯をきって作り帯にするしかないと言われ大きなショックを受けました。
大事な帯に鋏を入れずに自分で帯を締めたいと考えていた鈴木さん、予めお太鼓の形を帯で作り、ベルトの様に体に巻きつける簡単な方法を、思いつきます。
この帯の作り方で11年前に特許を取得、その後3000人に作り方を指導し、病気や障害などで着物を諦めていた多くの人に喜ばれています。

鋏を入れず折りたたんで要所要所を止めてゆく事で、このような帯を結べることが出来ました。
一番こだわったのは作り帯に見えない手結びのふっくらとした日本人の背中、という様な形が出る工夫をしました。
左におたいこの形ができていて、おたいこの右端から60cmから胴に巻く部分が合体していてベルトの様になっている。
両はしに黒い紐がついている。
もともとは4mの長い帯です。
屏風畳みとして二重太鼓の中に入れるのがポイントです。
二重太鼓の中には帯枕、帯上げ、帯締 3つのものがすでにセットされて通っています。
二重太鼓の山を持って、自分の背中にまわして、わきの下に帯上げと帯枕の紐を仮結びをして、ベルトの様にぐるっと前に回して、2本のひもを正面でしっかり結びます。
両脇から持ってきて、帯締をしっかり締める。
仮結びの帯枕の紐を胸の前で、しっかり締め帯の中に入れる。
帯上げを結んで、余った部分を中に入れて終わりです。(内容が良く判らず)
車椅子の方でも座ったままで出来ます。

満州で生まれて撫順という大きい炭坑の街で育ちました。
昭和18年に七五三を父の実家ですることの話があり、里帰りに来ました。
昭和21年になってから不安でいた時に引き上げが始まり、優先的に引き上げがありましたが持物の制限が厳しく、普段着しか持ってゆく事が出来ず、殆ど身一つという感じでした。
着物の持ち帰りは厳しかったが、母が七五三の着物をほどいて、おんぶ紐に作りなおしたりして、日本に帰った時にはほどき直して私の着物にしてくれました。
中学生の私にはとてもうれしいことでした。
父は綿と石炭の貿易をしていましたが、戦争が近くなってくると軍需産業になって、殆ど家に帰れない様な父でした。
終戦前に召集令状が来て、出征する事になり、母がいつ帰ってきてもいい様に、着物をきちんと手入れしておきましょうと言って父の着物は別格の様に扱われていましたが、モンゴルに抑留されて飢えと寒さの中、昭和22年に亡くなって、戦友の人達の話を聞いてむごいことだと思いました。

私達の戦後の時代は引き上げの方、疎開の方がたくさんいたが、言葉が違うし、勉強も差があったり、着ているものも違うので、母親が先生をしていたので、ちょっと出来るという事で虐めに遭い、理不尽だと思って担任の先生に相談したのですが、手ごたえが無く家出をしました。
どっかに逃げ場があるということは必要だと思います。
私は祖父母の家に逃げ込みました。
私の人生は泣き寝入りではなくて町の学校に転校するという事で解決が出来ました。
演目「父帰る」 私におたかをやらせれば先生は着物の心配は無いと思った様で、父親がいなくても一生懸命育てれば子供も間違いなく立派に育ってくれるんだなあと、いうところと結びついて一生心に残っていますが、私はその時に新しい学校が大好きで自信が付きました。
高校でも演劇部に進む。
演劇部では皆にお着せするように脚本演出をするように、何10人分という着物を着せて演劇では活躍しました。

高校生になったころ、青少年が乱れていた時代でした。
日本赤十字の橋本祐子先生が青少年赤十字団というのを全国に作ろうとの構想でした。
私は茨城県代表として研修に参加しました。
教育はボランティアの事、仲間を作る事、世の中に役に立つプログラムだったりして、私は副団長になりました。
人のためになる事の喜び、感謝されることの自覚みたいなものを培った良い青少年活動だったと思います。
結婚する気が無かったが一枚着物に袴の写真があったので、着物に誘われて、何時の間にか結婚が決まってしまいした。
夫はガンで入院して3カ月で亡くなり、私は32歳で子供は8歳と6歳でした。
ここで私がないたら大変だと思い、泣けなかったです、夢中でした。
金融機関の総合職に採用され、仕事、家事、育児、をこなさなければいけなかった。

健康のため食事には気を使っていました。
バブルの真っ最中で融資先、商談の接待とか御呼ばれがあり、私が着物を着る事に上司たちが喜んでくれて、着物で伺う事でお客様の格が上がるという事で、喜ばれました。
勝負服という存在でもありました。
60歳で退職、65歳で脳梗塞になりました。
歯を磨くのに手が動かなくなったり、血圧が高くなったりしました。
入院したら3日でだめになったりするので、家に帰って新聞を読んだりTVを見たり、家族と話したり、無理をしない日常を取り戻しなさいと言われて、それが後にとってもよかったと思います。
やりたいことがいっぱいあったので、後遺症がどうなるのか真っ暗になりました。
手が後ろに回らないことを発見して着物を着られなくなることを発見して2度目の落胆でした。
帯をきって作り帯にするしかないと言われ大きなショックを受けました。
折り紙でいろんなものを織れるのだから、帯を折り紙だとおもえば思った形が折りだせるのではないかと思った。

帯を取りだしてひらめいた事を形にしてみました。
人生無駄は無いと思いました、折り紙をしたことと合体した。
特許を取得する。
着物着付け教室とか一回もしたことが無いので何にもライセンスが無いので、息子たちに相談したら、特許が取れること、子供に頼らなくてもいいこと、お金の習いが要らないこと、等の後押しがあって特許に拘りました。
民族衣装として、自分が大好きな着物を残したいという気持ちが強いんだと思います。
着物というものは日本の風土にも適していて、こんなに美しい民族衣装はそうどこにもなくて、もっと大事に意識してほしいと思います。
病気の神様がちょっと意地悪にして、不自由にしたけれど、その不自由は発明の母に育ったと思います。
2020年のパラリンピックでおもてなしを着物でしたいという思いがとても強いです。
私が着物を通して今日あるように、小さい小さい喜びや目標を持って生き抜きましょう。