2015年5月29日金曜日

2015年5月26日火曜日

中野北溟(書家)         ・ふるさとで書を続ける 

中野北溟(書家)            ・ふるさとで書を続ける 
中野さんは北海道の焼尻島出身の91歳、今も札幌を中心に現役で活躍している書道家です。
今年の年賀切手の絵と文字切手でひつじという文字を書いている書家の10人のおひとりです。
旭川師範学校を卒業して、小学校の教師になりました。
教師をしながら独学で書道を続けている中野さんを見て、或る友人から書道の大家として知られる金子鷗亭に見てもらったらと、勧められて自分の書を送りました。
金子鷗亭に認められ教えを受けるようになりました。
金子鷗亭に東京に出て一緒にやらないかと誘われましたが、それを断り北海道で仕事をすることに拘って製作活動を続けています。

筆の数も100本ぐらいある。
空海は「筆を選ばず」というが、それは間違いで、空海ぐらい筆を工夫した人はいない。
100枚ぐらい書く事もあるし、気が燃えたつという事、この部屋は気を高ぶらせる部屋だと思っている。
ゆったりした表現、厳しい、烈しい、静かな表現、表現もいろいろあるので、自分で生きている生きざまの中から、生まれてくるようなものを作りたいと思っている。
2000年に交通事故をやって、10m飛ばされて、3カ月入院した。
頭から落ちなくてよかったと思う。(鎖骨、肋骨、大たい骨を折って、肺座礁、足の靱帯を損ねて、他にも負傷した)
若い時にテニス(国体に2度出場)や運動をやっていて運動神経が良かったのが、良かったと思う。

師範学校の書道の先生が良かった。
筆の動きが大切、どう動くかが大切、呼吸が大事。
「北溟」は北の海と言う意味です。
或る人から金子鷗亭に送ってみたらと言われて、送ったら絶賛された。
金子鷗亭先生から「北溟」と号せよとの連絡がきた。
ひつじは気が優しくておおらかなところがあるので、ゆったりとした気分で字を書きたいと、ふくよかな感じに書きたいと思って書かして貰った。

母親が将来医者にしたいと言っていたが、島の先生がたが皆いい先生だったので学校の先生になりたかった。
家の壁に字を書いたり、絵を書いたり、よく落書きをするのが好きだった。
軍隊から帰って来てから、又師範学校に入りなおして、物理の勉強をした。
書道は学校で習う以外は、特別に習う事はなかった。
稚内の中学に赴任してから、展覧会に出してみないかと言われて、落選したらもう書は辞めよう入選したら書を続けようと思った。
旭川に来てから、理科を教えながら書道も教えていて、札幌に移動して国語を教えるようにと言われたが出来ないと答えたが、書道は引き続き教えるようにした。
55歳で教職を退く事になるが、その間、書家として東京に出ないかと言われたが、北海道で自分の思う様にやりたかった。(60歳で定年だが、早期退職をした)
金子先生から、再三一緒に東京に行くようにと言われたが、勘弁してくれと先生にお話しした。

春の海はゆったりとしている、夏の海は澄み切って綺麗、秋の海はどんよりとして濁ってうごめいている、冬の海は怒涛逆巻く様な、四季の変化が人間の気持ちを動かす。
風の音、波の音、光、こういうものが人の気持ちを高揚させる。
流氷の詩 を書いたが、流氷の時期になると、巨大な感じがする、北海道は人の心を揺さぶるものが有る。
細い線も単なる優しさではだめで、その背後にある優しさで違うものが背後にあり、それが一つになって昇華されて、なんか優しさを表現する、そうだと思います。
生徒に教えていて、おっ、これは自分にないものが有るなと、こういう事は大事だと思う、触発されることはある。
絵、書の展覧会は良く見に行くが、自分を目覚めさせる、掘り起こす、そういう風になる。
感じて、その良さを別のものとして、自分のものにして行きたい。



 

2015年5月24日日曜日

河原郁夫(星空案内人)      ・星を語って60年

河原郁夫(星空案内人)        ・星を語って60年
84歳 10歳の時に初めて見たプラネタリウムに感動し、解説者になりました。
東京渋谷にあった天文博物館五島プラネタリウム、神奈川県立青少年センターを経て、現在は川崎市にある「かわさき宙と緑の科学館」で星空解説を行っています。
河原さんは生で伝える事にこだわってきました。
毎回録音して、聞き直して反省点を次に生かすと言う事は、この60年一度も欠かしたことはありません。

年配の方の場合には癒しを求めてくるのでBGMを多く流しながら、星空と綺麗な音楽とでリラックスしてもらいます、子供には宇宙人とか、アンパンマンなどの話をそえて行います。
生で無いと相手の方の雰囲気が判らない、雰囲気を感じてそれに対応するように臨機応変に変えています。
一回の解説、45分間 一人でしゃべって、BGMをかけて機械の操作もします。
小学校4年、1940年の時に有楽町にあった東日天文館が有り、父に連れていってもらって、それが病みつきになった(75年前)
星も綺麗だったが、音楽が良かった。 子供の入館料25銭
多い時は月に2~3回出掛けた。
戦争中では灯火管制が有り星がよく見えて、手製の望遠鏡を作って、物干し台から星の観察を行った。
望遠鏡を作ったのは10台ぐらいある。

昭和20年4月15日に大森蒲田の大空襲が有り、自宅が焼けてしまって祖父母がいた横須賀に行く事になる。
昭和20年5月には東日天文館が焼けてしまう。
昭和21年に望遠鏡を作って、毎朝晴れると太陽の黒点観測を始めた。(ずーっと今でもやっている)
17年周期で黒点が増減する、今は増えている。
恩師である水野良平先生が東京物理学校から東京天文台(現在の国立天文台)に行ったので、先生の跡を追って、東京理科大学に進んで、4年の時に東京天文台に太陽物理部があってそこで1年間研究をさせてもらった。
渋谷の五島プラネタリウムができて、水野先生がそこの長になっていて、ここに来ないかと言われて行く事にした。
解説員の訓練をうけたが、東京生まれなので「ひ」と「し」をうまく言えなかった。
プラネタリウム弁士が当時、大坂5人 東京で5人 日本では10人しかいなかった。

神奈川県立青少年センターでプラネタリウムの解説を32,3年やって、定年になり「かわさき宙と緑の科学館」に呼ばれて、星空案内人として解説を58年やっている。
毎回録音して、家に帰って聞き直して、毎回聞いて、この半世紀反省ばかりです。
しゃべり方を気を付けようとゆっくりしゃべったり、お客さんの反応が判るので、ここがいけなかったとか、次のための材料にしています。
時間を費やしてしまいますが、妻はどうしようもないと思っていると思います。
50年近く日曜日に行くので、娘は動物園などには行けなかった。
投影の機械で一番変わったことは、スイッチの数です、最初30個だったが現在は100個近くあります。(まちがって操作する事もある)
最近は自分の好きな曲を5~8曲選んで、やっています。
星と音楽の郷 皆さんに感じてもらいたいと思ってやっている。

席が200席あるがほぼ満員になることが多い。
プラネタリウムで星が好きになって、自分で本当に星を見てみようと思っていただければありがたいと思っている。
空に光っている星は年年歳歳花のように季節によって違ってくる。
牽牛、ひこぼし 17年掛かる。  おり姫 25年掛かる。
織姫と彦星が電話をかけると声が届くまで15年掛かる。 宇宙は大きい、夢とロマンがある。
今は空が明るいので、山に行かないとたくさん星を見れない。
普通の星で、星の一生は100億年ぐらい、人間の一生はほんの一瞬。
オリオン座が一番好きです、つづみ星とも言われる。
金星、6月ごろまで日没後西の地平線上に、高さ30度に明るい星が見える。
(宵の明星、明けの明星)

20年後に関東地方で素晴らしい皆既日食が見える。
2035年9月2日10時5分ぐらいに、糸魚川と水戸を結ぶ線上の付近で見られる。
星を見ているとパワーを貰える。
解説をやっていて、間が取れるのが良くなったと思う。
日本全国に300か所あるが、生の解説をやっているところは数か所だと思う。














2015年5月22日金曜日

長谷川健一(酪農家)       ・我が”飯舘村”を語り継ぐ

長谷川健一(酪農家)         ・我が”飯舘村”を語り継ぐ
61歳 仮設住宅で避難生活を続けています、
震災まえは牛50頭を飼い、4世代8人の大家族で暮らしていました。
原発事故で家族はばらばらとなり、今は妻のはな子さんと両親の4人で暮らしています。
事故の記憶を風化させたくないと、全国を回って自らの体験を語り継ぐ活動を行っています。

本来5月下旬は牧草を刈り取る作業が有り一番忙しい時期になります。
一番自分でも困るなあと思う事は牛を忘れてゆく事、酪農をやっていたことを忘れない様に思っているが、忘れてゆく事が恐い。
地震の時は畑が波のように揺れて、あわてて家に帰ったが、牛が叫び声をあげていた。
飯館村は地震、津波の被害はなかった。
浜通りの人、浪江町等の津波の被害の人々が避難してきて、炊き出しなどして対応していた。
3月11日から停電になってしまっていて情報が伝わらなかった。
原発事故で大丈夫ではないと判ったのが、3月14日だった。
3月15日説明会をするため皆が集まったが、その日は雨でその後雪になってしまったが、その日が実は一番放射能が高い時だった。

子供は絶対に外へ出すな、肌を露出するな、必ずマスクする、玄関先で服を脱ぐ様に、、風呂に入って体を綺麗に洗う様に、外の野菜などは食わないように、いろいろと指示を出した。
飯館村の酪農家は駄目になるなと、直感した。
新しい子牛の牛舎が出来たのが前年(2010年)の12月だった。
息子も牛のコンテストのチャンピオンになったりして、それも励みになっていた。
牛を処分する順番を決めるのが、切ない思いが有った。
牛には番号が付けてあり、年老いた牛、おなかに子供が入っていない牛、等から処分を決めざるを得なかった。
しかし、良い牛が生きられる保証はなかった。
息子が一人で最後だからと言って、新しいロープを牛のために作っていたが私もぐーっとくるところが有った。

牛は放射能で汚染している可能性があると言う事で牛は移動しては駄目ですよ、人間は早く避難して下さいと言われて、牛は餓死させるよりは処分する方を選ぶ結果になったんです。
殺す方法以外に何か方法はないかと、牛乳のモニタリングをやろうとして、3回やって3回目には放射能は検出限界以下であることが判った。
5月20日に県にも言ったり、国会議員にも言って、牛を生かしてくださいと言って、、25日には飯館村の牛は移動してもいいですよと言う事になった。
飯館村の牛は全部で300頭ぐらいの内、60頭が処分されたが、残りは助かって、一つのエリアに集めることになった。

相馬市の酪農家で私の友人が自殺してしまった。
言葉が出なかった。
原発さえなければ、と言う書き置きを残して彼は逝ってしまった。
原発事故からのいろいろな出来事、友人の自殺などから、このようなことを二度と繰り返してもらいたくないとの思いが有り、語り継いでいかなければだめだろうと言う事で、11年7月5日早稲田大学で第一回を始めました。
写真、映像などで撮り続けることが大事だと思って、避難の実態、除染の実態、会議のやり取りなど撮り続けています。
屋根の瓦、壁をペーパータオルで一枚一枚拭いているが、こんな作業で放射能は取れるのかなと思うし、農地の表面の土を5cm取り除き、其部分に汚染されていない土を5cm盛って線量は下がったと言いますが、それから半年ぐらいすると段々線量が上がってくる、当初の線量までは上がらないが。

福島県伊達市に現在仮設住宅に住んでいます。
ここが一番良かった、大きな病院、大きなスーパーが近くに在り、仮設住宅の周りに既存の住宅が有る事、それによって老人の交流が生まれる。
小さな空き地を使って、皆で畑で野菜などを作っていて、物々交換みたいなことをやっているが、これは非常によかったと思っている。
長男は原発事故で酪農家を辞めざるを得なかった5人の仲間と一緒に法人組織を作って、福島県最大規模の牧場をやろうと言う事で始めました。
次男はアパートで会社員として一人ぐらしをしています。
故郷をうばわれる、故郷に戻れない、自分の家も土地もそのままの状況で段々朽ち果てていく、こんなつらいことはないと思います。

放射能は全てのものを汚してしまう。
セシウム137が無くなるまで300年掛かると言われているが、私の孫、ひ孫でも取れないので、何代にもわたっても元の生活を取り戻せないことが非常に大変なことです。
避難解除になった時にどうするか、子供たちは戻らない、賠償は打ち切られる、我々はどうするのか、なんで食べてゆくのか、飯館村には3500ヘクタールの農地が有るが、其れをどうしてゆくのか、別のストレスがたまってきている。
もう同じ福島を作らないでほしい、我々のような思いはもう沢山だ、その一言に尽きる。
原発災害は全てのもの(人の身体、家族、村等)を壊してしまう。
地震、津波などは壊されても元に戻そうと皆がたちあがって頑張ろうと纏まってくるが、放射能災害はばらばらになってゆく。






2015年5月20日水曜日

黒口縣市(さぬき市在住)     ・94歳、元・整備兵が語る戦時体験

黒口縣市(さぬき市在住)       ・94歳、元・整備兵が語る戦時体験
戦時中は整備兵として、搭乗員、機長を陰で支える 任務で木更津、サイパン、テニアン、ラバウルの間などをとびまわっていました。
今年は戦後70年、長く沈黙していた昭和18年12月27日の空輸作戦での不時着体験を語っていただきます。

最初は40人集まった戦友会も20年前には人が集まらなくなって、中止した。
機械いじりが好きで、戦車、飛行機か考えたが、飛行機関係の整備兵になった。
故障したものを直したり、維持してゆくためにいろいろ掃除、燃料補給、点検などを含めた仕事。
96式輸送機 輸送専門のセクションにいた。
両翼に4000L ドラムカン20本分ぐらいを供給する。
「大空の迷子」著書執筆
17年1月に海軍にはいって、2年後の出来ごと(昭和18年12月27日)
木更津からラバウルまで行く予定の飛行コースで、5機編隊の艦上爆撃機を運んでいく予定だった。
テニアン島経由でラバウルまで行く予定で有ったが、発見されない様に低空飛行で進んでいたが、天候が悪くて、飛行経験のない兵隊ばっかりで、一旦戻って来て、再び向かうが、雲の上では天候は良いが、発見される可能性がある。

運搬する飛行機は燃料容量が少なくて、燃料切れで落ちてしまった。
誘導の一番機と我々の飛行機がはぐれてしまった。
落ちてしまった飛行機を探すために海面近くを飛んだが、一番機が我々を確認出来なかった。
我々二番機はぐるぐる回っていたために方向が判らなくなってしまった。
夜になって、燃料が少なくなってきて、無線機も連絡が取れない状態になってしまっていた。
私は整備兵で何も言えない立場だったので、何も言えなかった。
島が見えたらその近くに降りようとしていたが、降りたところが八丈島の近くだった。
島のどの程度の位置に降りるかと言う事が問題だったが、良い位置に着水する事が出来た。
遠すぎても潮に流されるし、近過ぎてもトラブルが起きる可能性がある。
機長ほか艦上爆撃機運搬用整備員等14名が搭乗していた。
艦上爆撃機は落ちてしまったので、その搭乗員は亡くなってしまった。
八丈島の漁船に助けられる。

この事故については話す気にはならなかったが、戦争中のことを知っている人がいなくなっているから一遍話した方がいいと思って話すことにした。
我々二番機4人と、一番機4人に対して臭いものにはふたをしろ言う事で、木更津の輸送機隊から南方の司令部の輸送機隊に転勤したわけです。
19年5月 赤十字マークが入った船が台湾の高尾から佐世保への病人の最後の引き上げで、敵の潜水艦にやられない様に、対潜哨戒の仕事もあった。
やっぱり戦争は無い方がいいと言うのはつくづく感じます。

















2015年5月19日火曜日

山岡耕作(高知大学名誉教授)    ・シーカヤックで探る黒潮の恵み

山岡耕作(高知大学名誉教授)    ・シーカヤックで探る黒潮の恵み
昭和24年 京都市生まれ 鹿児島大学水産学部、京都大学大学院で学び高知大学で教鞭を取りました。
魚類の生体学が専門ですが、カツオなど豊かな漁業資源をもたらし、日本人の生活や文化にも影響を与えている黒潮の研究拠点として高知大学大学院に黒潮研海洋科学研究所を創設しました。
2年前に高知大学を退職しましたが、NPO法人海遍路を組織して引き続き黒潮の研究をしています。
黒潮研究にシーカヤックが加わったことで研究が進み、これまでに黒潮の源流域の調査をはじめ、四国一周遍路、東北の漁村を訪ね歩き黒潮沿岸に住む人達の生活と意識調査を行っています。

黒潮 世界2大暖流の一つ もうひとつはメキシコ湾流。
北赤道海流がフィリピンに当たって、北、南の二つに分かれるが、北に上がってくるのが黒潮。
沖縄 西を通って、太平洋に出てきて、高知、静岡、千葉沖を通って、金華山沖で親潮と出会って、東に流れてカリフォルニアに至る大きな海流です。
黒潮は海の砂漠と言われる、暖たかいだけで栄養は無い。
栄養は例えば土佐湾では黒潮が土佐湾の深いところも動いているので、底には一杯栄養源が沈殿して溜まっていて、黒潮がかき混ぜて上に持ち上げてきて、栄養源が太陽と出会って、植物プランクトンが湧いてだんだん上に行く。
日本の自然文化は黒潮に依って成りたっている。

高知大学大学院に黒潮研海洋科学研究所を立ち上げる。
文理、医学を含めた分野を対象とした。
シーカヤック 手漕ぎの5mぐらいの長さのカヌーの一種。
7年前石垣島にいった時に、オーストラリアから単身でシーカヤックできた人がいると言う記事を見て眼からうろこで、高知に帰ってから、専門家(八幡 暁さん 海洋冒険家)にカヤックでフィリピン訪問したいが可能か聞いたら、だれでもできますと言う返事だった。
2010年 フィリピンルソン島あたりから始めるが、最初はうまく漕げなかった。
3回行ってルソン島の東北端サンターナ迄行く事が出来た。
シーカヤックで来たと言うと大変歓迎してくれて、漁師に話を聞くが3回とも90%のひとたちが今の状態で幸せだと即答する。
何が人生で大切ですかと聞くと、やはり90%の人が「家族」と答える。
収入は月収1000ペソ~2000ペソ(2000~3000円)
雨が良く降るので米がよく取れるので魚と米が有れば生きていける。

黒潮の沿岸を訪ね歩く事をするためにNPO法人海遍路を組織する。
日本の漁業も同じ視点で見てみたいと思った。
四国一周を3回に分けて行う。( 2011年高知、2012年徳島、香川 2013年愛媛)
日本の漁業は厳しいと思った、特に若い人がいない、小中学校が廃校なっているところが多い。
瀬戸内海、手島を訪問した時に、70歳ぐらいの漁師が「車、モーターボートなどで来たら口もきかないし相手にもしなかった、、苦労してカヤックできたから易しくしてやれた」とおっしゃってくれた。
カヤックは人と人との繋がりを作るにはいいと思う。
資金はいくつかの企業から応援してもらっている。 

2014年 東北遍路する。
5月15日 名取市をでて30日に気仙沼の西舞根集落まで行った。
東北の海は豊かだなあと言うのが実感でした、皆さんは太平洋銀行と呼んでいた。
自然は牙をむくがその時は逃げればいいと或る人は言っていました。
子供達はあまりにも自然から離れ過ぎている、鹿児島県の或るところではPTAが危ないからという事で子供達を海に入れない。
子供のうちから危険を理解させ、それを防ぐための手段等を教えてゆく必要があると思う。
巨大防潮堤 賛否両論ある。
おかみのやる事なのでしょうがないと言う人もいれば、本当のリスクが判らなくなってしまうと言う事で反対と言う人たちがいる。
来年、相模湾でやりたいと思っている。
首都圏なので、そこの漁師さんがどういう考えをもっているのか、聞いてみたい。

今年は有明海を運航したい。
諫早湾 農業者と漁業者が対峙する、漁業者でも海面漁業と海苔業者の中で訴訟問題がある。
将来的に海の国として持続的にやってゆくためにはどういうふうに考えるべきか、いろいろ話を伺いたいと思っている。
筑後川の河口から20kmぐらいのところに大堰があるが、福岡に水を供給していて、栄養分がストップされてしまって、陸の土も供給が少なくなってきて、現場を見てみたいと思っている。
Stay hungry, stay foolish」 スティーブ・ジョブズ が残した言葉ですが、世の中を大きく変える為には馬鹿であり続ける事が必要と思う。
海遍路は stay foolishだと思っている。
自然を、特に都会の人は意識していないと思う。

自然は幸せの種だと思う様になってきて、利用すれば大きく育ってくれるが、種を踏みつけて種をお金に変えてしまうとそれ以上は何にもない、と言う様に思います。
海遍路はほんの少しの力かもしれないが、海辺でつつましくではあるが、幸せな家族生活ができる様な社会を目指したいと思っています。
「不幸な国の幸福論」 加賀乙彦著
・・・経済は破綻し格差は拡大する一方、将来への希望をもつ事が難しい日本にあって、「幸せ」は遠のくばかりと感じている人は多い。
しかし、実は日本人は自ら不幸の種まきをし、幸福に背を向ける国民性を有しているのではないか。
挫折と逆境こそが「幸福」の要件である。・・・
都会に住む人々は無意識のうちに自然は牙をむかない、コントロールできるという深層心理に陥っていると思うが、寺田虎彦が言っている様に、「天災は忘れるころにやってくる。」
幸せとは何かと言う事は、判らないと言う事なんでしょうけれども、基本的には自然と言う物がかなり大きな部分を占めていると言う事は確かなことかなあと思っています。











2015年5月18日月曜日

本橋成一(写真家・映画監督)     ・格差社会から協力社会へ(2)

本橋成一(写真家・映画監督)     ・格差社会から協力社会へ(2)
炭鉱を取材した理由は? 
重森弘淹ん(著名な写真評論家)がやっている写真学校が有り、行きたくなって、2年の時に卒業制作を作らなくてはいけなくなって、悲惨な物を撮らなくてはと思い、炭鉱の事は何も知らなくて、「追われゆく鉱夫たち」(上野映信)という当時ベストセラーだった本を読んで、上野先生に話を聞こうと思った。
面識はなかったが、上野先生に所に行く。
私をあちこちに連れて行ってくれて、教えると言うわけではなくて、暗黙のうちに教えられた。
その後も通い出して、5年近くかけて撮ったのが、平凡社の太陽と言う雑誌に写真集を出して、それに賞を頂いたが、それが私の写真の原点になったと思う。
写真を撮る以前の、撮る側がどこに軸足をもって向き合うか、と言うのが一番大切なことだと言う事を上野先生から教わったと思います。

だれでも知らない人に写真を撮られるのは、嫌なものですが、決して貴方の事は裏切らないぞと言う事が写真を撮るときに思う事です。
相手が嫌がる時にはシャッターを押さない、どうしても撮りたかったら話しけかて、それでもわかってもらえない時は止めると言う事ですね。
3・11の時に若い人が写真を私のところに持ち込むが、悲惨な風景とか、壊れたものとかばっかりで、もうひとつそれだけではないものを撮ってほしいと思って、「又来年持ってきて」と言います。
なんかメッセージが込められるような、写真になるのではないかと思ったが、2年目だれも持ってきてくれなかった。
上野駅の取材、サーカスと一緒したりしたが、いろんなものが豊かになって行って、大事なものが無くしたんじゃないかと言う事がたくさんあって、そういうものを撮っておきたかった。
東京ではなかなか弁当を広げるところはないが、上野駅ではどこで弁当を広げても人の眼が気にならなくて、居心地がよくて、舞台になる様な、幕あいがたくさん生まれる場所だった。
写真集に出てくいる登場人物も、プラットホームに新聞紙を敷いてカップルがご飯食べていたり、東京駅ではなじまない。
列車での男女の別れなど、見ているだけでこの男女がどういう状況なのかと言う事が見える。
上野駅も建物がどんどん変わって来て、いろんな店が並んでたたずむ場所では無くなった。
新幹線の大宮駅ができる3年前しか撮る時が無いと思った。

合理的に模様替えをしてしまうと、そこでは生産性みたいなものになり、無駄っていいと思うんですが、駅って佇む所にしないといけないと思うが、段々と綺麗になってしまって、東京で唯一の広場だと思っていたが上野駅も変わってしまって残念だと思います。
サーカスの写真集も上野駅を撮った流れの中にある。
小沢昭一さんが「芸能東西」と言う期間限定雑誌を出された時に、写真ページを作ってくれて、その時にいろんな大衆芸能を含めて連載させてもらったが、その中にサーカスが有り、サーカス特集の時に長くサーカスに通って、写真を撮って一冊にまとめた。
サーカスのメンバーの人達とも親しくなった。
旅すると言う事がうずうずする。
移動して巡回してゆくという巡業の様なことも出来なくなってきた。
私が出会いたいと思ったのは70歳になっていても、芸をやっている人の生きざまが良いんですよ。
芸を見てると、決して派手で巧いというわけではないが、彼女の人生の物語みたいなものが芸の中に出てくる、そういうものに出会うことができた。

一枚の写真から、一本の映画から、見ている人がイマジネーションがわいてくるような、写真、映画が撮れたらいいなあと思います。
チェルノブイリの写真、映画  こんなに悲惨なものをこんなに綺麗に撮っていいのだろうか、という事を言われたことが有りますが、楽しそうな家族、綺麗な風景の中からいろんなことを想像して貰えればいいなあと思います。
「原爆の図」で有名な丸木位里・俊さんご夫妻の写真を撮っていた時代が有りますが、小学生を案内するが、或る子が「私は原爆を体験していないからよくわからないんですけど」と言ったら、俊先生は「原爆に会っていたら貴方はそこにいませんよ、でも貴方の持っている物の中に想像力という凄いものをもってるのだから、私たちの絵を見ていろいろと思って」とおしゃったことがあるが、子供はいろんなイマジネーションを浮かび上がらせるので、恐いと言うだけでなく核兵器は良くないって想像してもらうと良いなあと思います。

「ナージャの村」の映画から綺麗だけれど、新しいイマジネーションが涌く映画ができたらいいなあと思っている。(事故発生の5年後 1991年に製作)
ベラルーシ 高汚染地区で住んではいけないと言う強制移住地区、勧告地区の二つの地域を撮った。
りんごを収穫するところから映画は始まるが、とっても綺麗な映像。
放射能に依って故郷が無くなると言う事がとても悲しいことだった。(3・11でも同様)
「アレクセイの泉」映画 何故か泉の水は放射能を含んでいた。
地下水で100年 200年も溜まっていて奥に在るのが出てくるので汚染されていないが、だけど100年後も綺麗な水がわいてくるかと言ったらそれはだれも判らない。
どうして引っ越さないのと聞くと、お婆さんたちは私が命をお返しするときに、水をその村にお返ししたいでしょう、というが意味が判らなかった。
お婆さんたちは故郷のこの土地からは離れられないと言う。

アレクセイは村に残るが、その理由をこう言っている。
「村で生まれた者は、たとえ町へ出て行っても、いつも村に心を寄せている。
運命からも、自分からも、どこにも逃げられない。 だから、僕もここに残った。
「もしかしたら泉が僕を留まらせたのかもしれない。
泉の水が僕の中に流れ、僕を引きとめている。 
泉が人々に故郷に戻るよう引きよせているだろう。」とも言っている。
人間は70%水で出来ているので、おばあちゃんたちは水を借りていると言っている。
地球上で生物が使える水は0.003~0.006%と言われるが、ごくわずかで順繰り順繰りに飲んでは返し飲んでは返しして、命を皆保っている。
命を亡くす時に大地に70%返すわけで、「借りている」という言葉が謙虚、凄いなあと思った。
大地から受けた知恵、与えられた知恵、その辺が映画の中で言えたような気がする。

ニコライ老人 
「天国はいらない、故郷がほしい」という。 
役人がそろそろここを出ていきなさいと言うと、詩を朗々としゃべりだす、故郷はそのぐらい天国よりも農民にとっては、とても大切な聖地だと言う事を映画を撮っていて思いました。
事故後29年になるが、鉄骨とセメントで囲ったが(石棺)、ひび割れてそこから放射能が出てくる。
今、ドームを作っていて、すっぽりかぶせて100年持たせて、100年のうちにいまだに燃え続けている放射性物質を取り除こうという、計画で始まったばっかり。
地図から村の名前は抹消された。(住めない)  でもそこは故郷ではある。

本来人間の持っている、触るとか、臭いをかぐとか動物的行動がどんどん削られてきている。
如何にも人間が一番すぐれている生き物だと思うが、それはちょっと思いあがりで、もっともっといろんな能力を蓄えた動物たちが沢山いる。
たまたま頭で考えたりすることに長けていたのが人間だったけれども、生きることに関してはそれぞれいろんな生き物たちが学んできたのだから、人間だけが優れていると言う事ではないと思う。












2015年5月17日日曜日

本橋成一(写真家・映画監督)     ・格差社会から協力社会へ(1)

本橋成一(写真家・映画監督)     ・格差社会から協力社会へ(1)
昭和15年東京生まれ 九州、北海道の炭坑の人びとを撮った写真集「炭鉱〈ヤマ〉」を1968年に刊行、以来「サーカス」「上野駅」「築地魚河岸」「大衆芸能」等を市井の人の生き生きした姿を撮り続けてきました。
映画監督を務めた作品には、チェルノブイリ原発事故の被災地で暮らす人々を撮影した「ナージャの村」「アレクセイの泉」などが有ります。

「アラヤシキの住人たち」最新映画  舞台は長野県小谷村(おたりむら) 真木集落
400年前から村はあった様で、40年前に廃村になり全員村を降りた。
宮嶋真一郎先生が中心にそこに共働学舎を建て、世の中からはみでた出た人たち、いろんな人たち十数名が住んでいる。
ボランティア、OBたちが田植えなど、人出がかかるときには手伝いに来るところです。
年4回、5回女子大生が3週間ぐらいの研修の場になっていたり、国際ボランティアの外国人も年に10人ぐらい来ます。
茅葺き屋根の家が新しい屋敷で、アラヤシキ
ドキュメンタリーとして描いている。
時間がゆったり過ぎてゆく、自然の時計が有って、都会とは違う時間の流れが有り、農業が中心で、種をまいたり、刈り取ったりする時間がそこに組み込まれて、ヤギとか生き物たちの時間もあって、毎日が過ぎてゆく。

宮嶋真一郎先生は私の中学、高校の恩師です。  
先生は羽仁とも子創設の「自由学園」の一期生だった。
卒業後も共働学舎に通ったり、お付き合いさせてもらった。
先生がよく言っていたのは「競争社会よりも協力社会だ」と言う事です。
いろんな人間がいるので、協力と言う事が一番大切だと教えられました。
得意なもの、不得意なものをお互いが理解し合って、住民たちの住みかを作っていこうと言うものです。
「自由学園」では、机を作ったり、那須に農園をもっていたのでそこにいったり、植林をしたりしていました。
勉強をする人もいましたが、私はそちらの方が好きでした。
宮嶋先生は眼が悪くなっていく病気をもっていたので、50歳の時に自分のやりたかったのを立ち上げたのが「共働学舎」で、今は北海道に2つ、東京に1つ、小谷、真木にあります。
真木は山の中で農業をしたり、それぞれバラバラなことをして、宮嶋先生の理想郷にあこがれてそこで働いています。

真木には5年前から行き出した。
私は高度成長の真っただ中に成長したので、それなりに嬉しかったが、写真を始めようと思ったころから、なんか変じゃないかと思った。
それが真木だった、真木への歩いてゆく1時間半の山道がタイムトンネルのように感じた。
映画を撮ってみたいと思う様になった。
5~6人のスタッフとともに住みこんで、一緒に暮らしたので、撮影のない時は手伝ったり、一緒に酒をのんだりした。
「共働学舎」の住民はラジオ体操も全員がばらばらで、だれが障害が有る人でどの人が障害がない人かは分からないで、だれがちゃんとしたラジオ体操をしているのか判らないのが、又いいんですね。

宮嶋先生の言葉
「貴方と言う人は地球が始まって以来、絶対いなかったはずです。
貴方と言う人は地球が滅びるまで、出てこないはずなんです、私はそう思っています」
この言葉が新屋敷にぴったりだと思って、自分自身にとってもこの言葉が楽しくなって、自分と言う人間は自分一人しかいないと言う、そして生きると言う事を大切にしようと、宮嶋先生の言葉が頭を回り出して、映画を撮ることが始まったと言う事です。
私が小学校時代は、新屋敷に出会ったおじさんたちみたいな人が沢山いたような気がして、よく怒られたり、よく笑われたりしたが。
「世界は一つ、人類はみな兄弟」とTV、ラジオなどで聞いて巧いこと言うなと思ったが、外国に出て仕事ができるようになってどうも違うのではないかと思う様になった。
大切な事は相手が大切にしている事を判ってあげると言う事ではないでしょうか。
新屋敷はそういう点では、ここには理想郷があったなあと思う事すら思った。

生産性を重んじる社会になってくると、ここでは通用する事が外では通用しないことがたくさん出てくるが、タイムトンネルをくぐると皆許されるというか、皆勝手にやっているのがいいですね。
番木を叩いて、ご飯、おやつ、仕事の終りだとか、時を知らせるようになっているが、1か月もいるとだれが叩いているのか、叩き方でだれが叩いているか、機嫌がいいか悪いかも判ると言ってました。
次女(楽ちゃん)がダウン症で生まれた時は吃驚したが、自分の住んでいる町で育てようと思った。
保育園、小学校、中学校と地域の中で楽を育てることができたが、それはとっても良かったと思う。
大人になると、皆一定の枠が出来てそこからはみ出るのが、障害というレッテルを貼られるが、障害と言う言葉は止めて、違う言葉で言い合ったらいいのではないかと思う。

小さい時から一緒に暮らせば、何でもなくなるが、合理的にある一定の速さで能率よく運ぼうとすると邪魔になってくると言うか、街の中からどっかに押しやられてしまうと言うか、本当はもう少しゆったりと暮らせばもっと面白い社会が出来るのではないかと思います。
「アラヤシキの住人たち」 それぞれが違うよと言うことが大事と言うか、一人ひとりが地球が始まって以来、他にはいないという存在、そしてゆったりとした自分の時間が有る。
クニさん、イトウチさん 二人揃って日曜日に街に降りてゆくが、なにしに行くかと言うと、コーラを飲みたくて一杯のコーラを飲んで、又1時間半掛けて帰ってきて、「おいしかった」という、その価値観が凄くいいなあと思ったですね。
紙の上の教科書だけではなくて、触ったり、臭い嗅いだり、土いじり、動物との交わりによって、ここでは改めていろんなことを感じる、そういうことがとっても大切だと思う。

共働学舎の取り組みが40年続いていて、宮嶋先生の次男(信さん)がここの共働学舎の責任者で、北海道で国際的に有名になっているチーズ作りを長男の望さんがやっていて、福沢さんが中心で、毛利さんが責任者で豚を飼っている。
彼らは私の「自由学園」の後輩にあたります。
宮嶋先生は92歳で亡くなりましたが、大きな方でした。
私たちが撮影している時に若者が一人入ってきて、何時の間にかいなくなって大騒ぎしたが、1年経って戻ってきて、ミーティングをやって、どういうことだと言ったが、「帰ってくることの許されるのがここの決まりなんだから」という信さんの言葉と、クニさんの「いいんじゃない、今忙しいし、人出もないからいいんじゃない」という言葉で、無断で出ていったことが許されて、そんな柔らかい社会です。
今の時代は、ドンドン便利性があって明るくなってきたが、ドンドンそれが経済、生産性に結び付けられていうわけで、もうそろそろマイナス計算でゆっくり行くようにすればいいんじゃないかと思いますが、そう思うと共働学舎はぴったりと思います。











2015年5月16日土曜日

松田卓也(神戸大学名誉教授)    ・コンピューターと人間の未来

松田卓也(神戸大学名誉教授)    ・コンピューターと人間の未来
西暦2045年にコンピューターの能力が人類を越えると言う予測が有ります。
それによっておこるさまざまな問題を2045年問題と言います。
そんな未来の姿を描いたNHKスペシャル「ネクストワールド私たちの未来」ではコンピューターの進歩によって人間の平均寿命が100歳に達し、暮らしのあらゆる場面にコンピューターが関わり、人生の進路に至るまで、コンピューターが選択肢を示す社会が描かれ反響を呼びました。
神戸大学名誉教授松田さんは国立天文台客員教授や日本天文学会理事長などを歴任した宇宙物理学者で、1960年代から大型コンピューターを駆使した研究を行うなどコンピューターの最新事情に詳しく日本の2045年問題研究の第一人者です。
本当にそんな時代がやってくるのか、何が問題になるのか、伺いました。

①自分が大学に入ってコンピューターに触れた。
 自分の研究は一貫してコンピューター使って宇宙のシュミレーション、ブラックホールが出来たり、銀河が渦まいたり、そういうことをコンピューターで計算すると言う事を生涯の仕事にして来た。
②SFに非常に興味をもっていて、ハードSFに特に興味をもっていた。
この二つが有る。
「2001年宇宙の旅」と言う映画が1968年に公開されたが、今見ても全く古くない。
アーサー・C・クラークと言う作家の作品を元にしている。

超知能と呼ぶが、超知能が出来ると人間を越える。
超知能は人間の能力をはるかに超える機能です。
一人の人間の能力は1Hと名付けるが、1Hができる頃は2029年だと言っている。(15年後)
10億人、100億人の人間と同じぐらいの知能をもつ様になるのが2045年と言われて、技術的特異点と呼ばれている。(レイ・カーツワイルの言)
レイ・カーツワイルと言う人はアメリカの発明家、未来学者で音声認識とかスキャナーとか発明してきた。
彼は特異点大学をナサの構内に作った。
人間の知能と同じ様なことを機械にさせるのが、人工知能です。
機械は端的には人間の筋肉の役割をするが、考えることを機械にさせようと言うのが人工知能。
グーグルの検索などは人工知能が働いている。
将棋 今回は人工知能は負けたが数年すれば、人間は負ける。
アメリカ「ワトソン」 クイズで人間のチャンピオンを打ち負かした。

IBMは「ワトソン」を医者の補助として利用する事を考えた。
医者は本、論文を読まないといけないが、忙しいので本を読む間が無い、ワトソンは100万冊を一遍に読むことは可能なので、或る患者を見た時に、どういう病気が何%かを判断する。
癌の時にどういう治療法がいいかを判断する。
未来の姿を描いたNHKスペシャル「ネクストワールド私たちの未来」ではコンピューターの進歩によって人間の平均寿命が100歳に達し、暮らしのあらゆる場面にコンピューターが関わり、人生の進路に至るまで、コンピューターが選択肢を示す社会が描かれ反響を呼びました。
すでに行われている事として、コンピューターの予測に従って、パトロールを行って検挙率が大幅にアップしたというアメリカの警察の取り組みが紹介された。
膨大なデータから傾向を読み取る、機械学習と言うが、現在の人工知能の流行です。

ムーアの法則 1年~2年で能力が2倍になる、と言う法則
集積回路のトランジスターの数が1年~2年で集積度が2倍になると言う事を1960年代に言った。
1980年代の終わりに使っていたスーパーコンピューターの能力は1ギガフロップス(10×9乗)、現在の最高のコンピューター「京」は10ペタフロップス (10×16乗)  10×7乗の差(1000万倍)
20数年で能力が1000万倍上がったと言う事です。
膨大なデータの中から人間には見えない様な傾向を探知するのが現在の人工知能です。
人間と人工知能の差は、特定目的では人間よりもはるかに勝るが、人間はそこそこあらゆる事に能力をもっている。
人間と同じような常識を持った機械を造る、これを汎用人工知能と呼ぶが、これが最大の目標。
2029年には出来ると言う。
良い点、人間がやりたくない仕事を代わりにやってくれる。
医学が進歩、自動運転にすると交通事故率が圧倒的に減る。
悪い点、運転手はいらなくなり、運転手は失業する可能性がある。

家事は極めて難しい、看護、介護でも同じでロボットにやってもらいたいか、そうは思わないと思う。(ロボットにやってほしくない仕事)
工場での仕事はロボット化が進むと思う。
アメリカのコールセンターでの研究では、顧客からかかってきた声を、話し方を人工知能に聞かせて、人格を判定する。
ナサではグループを構成するときに、人格を合わせないといけないと言う事でその研究をしたが、ソ連はそれを行わなかったために、宇宙船内で大げんかが起こってしまった。
知能型、感情型 二通りに分けるとすると、感情型に理詰めで対応してはいけない、先ずは謝る、そういう中で顧客のクレームが半分に減り、顧客満足度が倍になり、コールセンターの時間が半分になったので人が半分になった。

2015~2045年の間では、科学者、運動選手、芸術、感情的な仕事(看護士、家事、セールス等、)
石黒浩先生 デパートでロボットに実演販売させたら凄く売れたと言う。
人の場合はうっとうしいと言う感情が生まれることが有るので。
最後に人間に残るものは遊びです。
2045年以降は総カルチャーセンターになるのではと思う。
人工知能のニュース スティーヴン・ホーキング、 イーロン・マスク、 ビル・ゲイツがオープンレターを出したが、超知能の危険性を訴えた。
イーロン・マスクは今後5年以内にロボットは殺人を犯すだろうと言っている。(核兵器と同じように危険)
今ある危険は人工知能を悪用する事、機械ではなく人間が悪用する。
どう使うかが問題、だから問題は人間です。

今、超人類、超知能ができると言う事は人類が次の段階にステップアップしようとしている。
①機械超知能ができると言う考え方があって、それが人類を滅ぼしたり、支配したりする世界。
②人間が人工知能と一体となって、人間の知能を強化する、人間自身が超人類に成って行く世界。
2029年に人間と人工知能が一体となるという発想は、「攻殻機動隊」にすでに描かれている。
「ターミネーター」 意識を備えたコンピューターが未来人類を支配していて、現在に戻って来て、反乱軍の
リーダーの母親を、リーダーが生まれてこない様に殺してしまう。 
「マトリックス」 人間の脳がコンピューターにつながれていて、人間が仮想現実の中、夢を見させられている。(シュミレーション仮説
哲学者ニック・ボストロム 現実と仮想現実かは否定できないと言っている。
現実とは何か、それは電気信号に過ぎないと言っている。

2100年の世界では、巨大なスーパーコンピューターがあって、小惑星に死んだ人間の魂を皆そこへ持って行って、(バーチャル天国と呼ぶが) 魂、精神が残る、と言う様なこともあるのでは。
現在、アメリカの脳の研究に関しては、アメリカが100としたら日本は1ですね。
アメリカ政府は脳の研究に投じているのは100億円、ヨーロッパは2023年までに人間と同じ脳を再現しようとしているが、10年間で1600億円。
アメリカのある大手会社は年間数千億円を投じている。
日本は頑張って追いつかないといけない。
人型人工知能を開発すべきだと思っているが、出来た時に如何に善用するか、ここが難しい。
全員が平等に享受できる様なことが理想だと思います。














2015年5月15日金曜日

安原修次(植物写真家)        ・私の人生二毛作、野の花写して30年

安原修次(植物写真家・日本野の花の会主宰)       ・私の人生二毛作、野の花写して30年
昭和11年群馬県中之条町生まれ、中之条高校を卒業後、砂糖製造工場に就職、或るときに映画「二十四の瞳」を見て感動し、先生になることを決心します。
働きながら受験勉強して、千葉大学教育学部に入学します。
大学卒業後千葉県内の小中学校で教鞭を取り、48歳の時に一大決心をして野の花を撮影する植物写真家になります。
「野の花は地域皆の宝」と言うのが、安原さんの永年の思いですが、野山に花が咲くころには軽自動車に乗って全国各地を回って花の写真を取り続けています。

少年時代、親が冬炭焼をしていてときどき手伝いをしていたが、熊が出る様なところで家から1時間ぐらいかかるが、恐くはなかったし、楽しかった、いろんな動物に出会えるから。
それが今の仕事に非常に生きてくる。
未知のところに登るのがわくわくしていた。
映画「二十四の瞳」を見たら、涙がボロボロ出てきて、俺は先生になるんだと思って、教員になりました。
あの映画を見なかったら自分の人生どうなっていたのかわからない。
親は「お前なんか先生になれるか」と言われて、猛勉強した。
地元の群馬大学は滑ってしまったが、千葉大学には受かった。
授業料免除を申請して、授業料は免除になり奨学金を貰えた。
最初、小学校3年生を受け持ち、日曜日には子供達と自然の中で一緒に遊んだりした。
子供からもいろいろ教わった。

趣味で写真を撮るようになって、からすうりの花を何時咲くのか調べたら、夜咲くのが判って、写真を子供に見せたら、子供が吃驚して夜一緒に見ることにした。
自然の不思議、花の不思議を子供達と一緒に学んだ。
夜7時半ごろから咲き始めて、白い色でレースのような花が咲く、開いた時は10~15cm、朝になるとしぼんでしまう。
子供達には日記を書かせるようにして、花の絵を描かせた。(文章が考える力、絵が見る力を養うことができる)
48歳で教員を辞めるが、収入が無くなるし、生活が大変になるとは思ったが、野草ブームで、綺麗な花、珍しい花は取られてしまうので、残念でしょうがなくて、記録に残さないといけないと思って、
清水の舞台から飛び降りる気持ちで決心をした。
船橋の先生をやっているころに1冊自費出版したが、結構評判が良かった。
「風車」 クレマチスの原種で絶滅危惧種で校舎の裏の雑木林で咲いていたので吃驚した。
10年ほど前に市の花に指定された。

①政令都市を12都市、都市周辺と ②普通の山野との二つに大きく分けて、この30年間写して纏めてきた。
30年間続いたと言う事は、花が楽しいんです、それが本にすると、他の人に喜んでもらえる。
「野の花は地域皆の宝」ですよと、訴えてきた。
阪神淡路大震災の2年後に、神戸の花の本が出来て、被災者の人に大変喜ばれたが、その体験が残っていて東日本大震災の時に、最初は花を見ると言う様な事は出来ないが、2年経つと心の余裕ができてきて、花を見るゆとりができてきて、3年前が三陸、2年前が浜通り、の2冊を作った。
三陸は津波に耐えた「はまなす」、福島では「浜昼顔」
花は人の心をいやしてくれる。
「大津波 原発事故にも 負けず咲く はまひるがおに 生きる力を」

三陸の場合にはすぐ近くまで護岸工事が始まって、はまなす等は厳しい。
浜昼顔の海岸は工事で掘り起こさないでほしいと、野田村ではお願いして大丈夫でした。
2万枚近くの絵ハガキを作って、仮設住宅に配ったりしてきた。
本は学校に寄付したい。
野山を歩く事は健康にもいいし、精神的なもの、綺麗だなあと思うと疲れも忘れる、だから花は有難いと思う。
健康は大事なので腕立て伏せを歳の数だけ行う、79回。
たわしで皮膚を擦ることもやっている。(医者に聞いてクリームを塗ってやっている)
食べ物は大事なのは玄米は原則、薬草茶も飲んでいる、自然の恵みを享受している。

花を通して皆さんに喜んでもらったり、本を作って後世の人に見てもらって、少しでも役立てばいいと思います。
北陸、白山の草花を撮って本にしたいと思っている。
「今日もまた どんな花と 出会えるか 心浮き浮き 3時に眼覚め」
花は恋人と思っている。
















2015年5月14日木曜日

段 躍中(出版社経営)        ・日中相互理解は日本語作文から

段 躍中(出版社経営)        ・日中相互理解は日本語作文から
ことしは戦争が終わって70年の節目の年ですが、日本と中国の政府間ではぎくしゃくとした関係が続いています。
このような現状を憂いて市民レベルで草の根交流を計り、両国民の良好な関係を築いていこうと努力しているのが段さんです。
段さんは中国で新聞記者をしたあと来日し、新潟大学の大学院で博士号を取得しました。
20年前に日本で出版社を立ち上げ、中国の文化を日本語で紹介する本を多数出版しています。
2005年からは中国人の日本語作文コンクールを始め、去年は10回目の作文コンクールを開いたところ、前年より1000通も多い過去最多の4000通の応募がありました。

去年、全国196の大学、高校から4133名が応募してくれた。
地方の有名ではない大学でも応募できる、8~9割が大学生だが高校生も参加している。
日本に留学の経験のない人に対して応募してもらう。
昨年のテーマは「アニメと私」だった。
「ACGと日中関係」が最優秀賞 A=アニメ C=コミック G=ゲーム
ACGは大変な人気になっている。
姚儷瑾(ヤオ リー チン)さんと言う人で女子学生。
面白いだけではなくて中味が非常に素晴らしいものがあるとの評価をしている。

私は新聞記者でしたが、妻が最初に日本に来て興味をもち、私も1991年に日本に来ました。
日本に来てからアルバイトしながら、日本語を勉強しました。
駒沢大学修士課程、1995年から新潟大学の博士課程に入り、博士号を取る。
中国のことを日本語で発信したいと思い、日本僑報社を設立した。
日中相互理解にプラスになる本を目指して沢山刊行しました。
池袋で日曜日に青空教室の様な交流サロンを始めて8年になります。(2時から5時迄)
30人から多い時は100人にもなります。
地方でもいろいろ開催し、9か所にもなります。
日本人は中国語を、中国人は日本語を勉強して、相互理解には凄くいい場所になっています。
政府間同士の交流が今ひとつですが、一般の市民同士は結構うまく行っていると思う。
旅行者も随分多くなってきている。

大森和夫さんから受け継いだ作文コンクールについて、中国語の作文コンクールをスタートした。
(明日への言葉「民間日中交流の24年(1)民間日中交流の24年(2)」の表題で大森和夫さんが出演、2012年10月30日、31日放送)
2005年 日本人の中国語作文も同じ年に始まるが6回迄続いた。 200数十名いた。
作文の文章、内容などから国民性が見えてくる。
日本人の中国語作文は文字の丁寧さ、等に感動する。
中国人の日本語作文はチャレンジ精神が旺盛で、ちょっと間違っても大丈夫といった感じです。
2011年 日本人の中国語作文は中止になる。(東日本大震災でスポンサーがなくなり)
最優秀賞は日本大使賞の名にもなり、挨拶もして賞状も大使自ら渡す事になる。
副賞として日本旅行1週間が与えられる。
福田康夫元首相も応援している。

昨年の受賞者の姚儷瑾(ヤオ リー チン)さんは、中国でイメージしていた日本と実際日本に来て感じたことは同じで、日本は綺麗で日本の人は親切だと思ったということを、言っています。
学生たちは応募を通して日本文化に対する愛着心も深まるので、現場で指導している先生方も貢献していると思います。
「中国人のマナー」 の表題でも募集する。 マナーの悪さが問題。
反省しなければいけないところが多いと、若者は認識している。
今年11回目で5月31日が締め切りになっており、テーマは
①日中青年交流について
②日本(文化など)のここが理解できないという事
③自分の先生について(作文コンクールを続けてこられたのは日本の先生の貢献は大きい)
 日本語の先生は17000人 500の大学に日本学部、学科がある。
 日本人の先生は2500人ぐらいいる。

青空教室の様に直接顔を合わせて対面式の交流が多くなればいいなあと思います。
中国からの旅行者が増えているので日本人は声を懸けてみたらいいのかなあと思います。
日本人ももっと中国に旅行してほしいと思います。
青空教室で島の問題とか歴史の問題はたまに真剣に話し合うが、冷静に話し合ってゆく事は有意義だと思います。
日中は良くない時期は大きな歴史の中では数十年だから、日中友好の歴史をもっと知ってほしい。





2015年5月13日水曜日

多胡寿伯子(振付家)         ・バレエで伝える魂のメッセージ

多胡寿伯子(振付家)         ・バレエで伝える魂のメッセージ
多胡さんは9歳からモダンダンスを習い、多くの創作公演に出演します。
芝浦工業大学建築学科に在学中にクラシックバレエを始め、東京バレエ劇場の芸術監督を務めていたニューヨークシティーバレエのロイ・トヴァイアスさんの教えを受けました。
1973年谷桃子バレエ団に入団、翌年29歳の若さで創作公演し、舞台作家として第一歩をスタート、その後3回ヨーロッパにいき、バレエの研さんを積みました。
1975年から振付家としても本格的に活動を開始し、以後40年に渡って創作活動と舞台製作を続けています。
主な創作振付作品は文化庁芸術祭賞を受賞した「The Scarlet Letter A~緋文字」、「ハムレットの狂気」
「人魚姫」等、オリジナル演出振り付けでは「くるみ割り人形」など多数あります。
長年構想を温めてきたスーパーバレエ「ミナマタ」の上演に向けた準備に力を入れています。

創作舞踊を小学校4年から始める。
病弱で痩せぽっちだったし、クラスで一番のろまだった。
母が心配して体を鍛えようと、創作舞踊がこの子は大好きになるだろうと言う事でモダンダンスを始める。
この子はクラシックバレエをやれば世に出ますよと先生が言ったそうですが、母は想像力を遊ばせて音楽を創造する事がきっと大好きなので、ここに置いてくださいと言ったそうです。
大学3年の時にクラシックバレエに挑戦する事になる。
20歳を過ぎて専門のバレリーナになることはあり得ない事。
工学関係とデザインの勉強をする、美術史を学ぶ時に、芸術史を学ぶ。
モダンダンス(創作舞踊)に対してクラシックバレエの事を全然知らなかったし、クラシックは大嫌いだった。
クラシックバレエとは何なんだろうという疑問がわいてきたので、ちょっと学んでみようと思った。
東京バレエ劇場に指導者としてロイ先生が来ていて、初心者のレッスンを受けていたときに、先生が覗いていてあの子を自分のクラス(上級過程)に来なさいと言って、レッスンを始めた。
超スピードなので2カ月ぐらいは手も足も出なかった。

NHKの 「世界の音楽」のプロデューサーが眼に止めてくれて、レギュラーバレリーナに推薦するからと言われて、出演する様になりました。
谷桃子バレー団にも入ることになる。
(4月27日に谷桃子さんの訃報が入る。)
谷桃子さんの引退公演 「ジゼル」
ヨーロッパでも研さんを積んで、本格的に振付の仕事も始める。
パリでバレエの源流を知りたかった、どの様に発展してきて何を求めて250年の歴史をたどっているのかを知りたかった。
ドイツのジョン・クランコという振付家がいて、一度だけ日本に来て、その作品を見てその方の振付作品が、もし私が振付家としてやったら同じことをやっただろうと思った。

「くるみ割り人形」の振付
1892年初演で私は丁度100年目に上演と言う事になり、再リメークした。
物語でクララちゃんという女の子が、鼠と兵隊が戦っている時にスリッパを投げて鼠を撃退するが、鼠をやっつけるのが猫なので、真っ白い猫を出しました。
雪片が舞う場面で主役以外は列を作って動かないで立ちポーズのまま(コールドバレエ)なので、これでは我慢ならないと思い、ダイナミックな雪片の世界を描きました。
ロイ・トヴァイアスさんの先生でニューヨークシティーバレエの創設者のジョージ・バランシン先生は「音楽を聞かせるのが音楽、それを舞台上に身体で描いて見せる」と言ったんです、それをシンフォニックバレエと言います。
私はジョージ・バランシン先生の孫弟子なのでそれをやってみようと思ったわけです。
シンフォニックバレエ 「悲愴」にしようと思った。
「悲愴」はバレエになるわけがないだろうと言われたが、自分でやるしかないと思った。
10年間、頭の中で追いながら出来なかった理由は、あまりにも悲愴交響曲はドラマティックだった。
構想からいろんな困難を乗り越えて、作品化して芸術祭にかけた所、初演で芸術祭賞を頂きました。

スーパーバレエ「ミナマタ」 
「ミナマタ」を作ろうと思った時から18年が経過しています。
1997年2月 ガーデンプレースで友人スミスさんの写真展が有って、一枚の写真の前から動く事が出来なかった。
胎児性水俣病の子を抱いたお母さんの写真だった。
その写真の前から3時間ぐらい棒立ちになって動く事ができなかった。
今何かできることが有るとすればと考えた時に、舞台作品にすることはできる、だけれども非常に難しい問題なので、直ぐにできるわけではない。
舞台作品にすると決意するが、1997年3月17日私は半身不随で車椅子と言われて歩く事が出来なくなる。(脊髄が折れる)
もし私が再び二本の足で立って現場に戻ることができたら必ず水俣は作ると決意する。
その年の12月医者は貴方は元通りだと思ってください、と言われて、中枢神経が切れていたと思われていたが、つぶれていただけで徐々に歩く事が出来るようになってきた。

ありとあらゆる資料を読むのに膨大な時間が掛かりました。
ドラマ化する台本を作るのに10年掛かりました。
身体の表現は言葉をもたないのでどうやって表現するかだが、水俣については言葉を排除する事は出来なかった。
合唱組曲と言って、言葉をもっている世界が有った。
水俣病に苦しみながら亡くなっていた方がいる、その方たちの声の代わりはできる、その声の代わりを私は作ればいいとやっと気付きました。
今年の秋にと思っているが、未だ作曲と作業が動いていません。








2015年5月11日月曜日

大橋一章(早稲田大学名誉教授)   ・飛鳥仏に魅せられて

大橋一章(早稲田大学名誉教授)   ・飛鳥仏に魅せられて
72歳 早稲田大学文学部美術史を専攻した大橋さんは、ほどなくこの教室を作った会津八一さんを知りました。
書家、歌人、大学教授、奈良美術の研究者であった、会津八一は飛鳥になんども足を運び、仏教美術を研究してきた先人です。
その影響を受けた大橋さんは、飛鳥、白鳳、天平時代の美術作品の調査研究を重ねてきました。

法輪寺、三重の塔は昭和50年に再建されたが、飛鳥時代からたっていた塔は昭和19年に落雷で焼けた。
何となく高校時代に和辻哲郎さんの「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」を読んで、仏像、古い建物にあこがれる。
当時、スポーツもしたが本を読むことが一番好きだった。
法隆寺は作られて50年~60年で焼けてしまったが、再建される。
仏教美術は建物が無いと残らないが、その後1300年間はずーっと来ているので、その中で保存された文化財は現在まで来ているが、これを伝世古というが、法隆寺には伝世古がたくさん残っている。
それ以外の寺は、たいてい火災で焼けてしまって元通りにはならない。
一般の寺は一度火災に会うとほとんど文化財等なくなっている。
法輪寺の三重塔だけは現代までにつたわってきた。
仏像は650年前後の仏像が二体残っている。
様々な文献資料に出てたり、一つ一つ読み解いてゆく、これは本当に感動です。
判らないことを明らかにしてゆく事は人間なら誰でも持っている好奇心なので。

斑鳩を歩く様になって50年ぐらいになる。
昭和53年に早稲田大学専任講師になってから35年間では、毎月奈良に来ました。
「大和号」という夜行列車が有り、東京駅で夜に乗り、朝奈良の駅について、ひよし館と言う古い旅館に泊って朝から晩まで廻る。
高松塚古墳が見つかって、飛鳥ブームが起こりそれから自転車が使えるようになったが、それ以前は無くて全て足で歩いた。
「橘寺駅」だったが高松塚古墳が発見されてから「飛鳥駅」に名前が変わった。
明日香村は建物、田畑等、規制して風景を守ってきた。

仏教は古代日本人にとっては文明だった。
百済から日本につたわり、飛鳥寺が中心地に建てられ、大伽藍だった。
飛鳥大仏、我が国最初の仏師が作った本尊で、鎌倉時代に落雷のために飛鳥寺が全焼してしまうが、その時に全身に火を浴びてしまう。
そういう事から完全な姿では残っていない。
飛鳥大仏を造ったあと、法隆寺の金堂にある、釈迦三尊像を造るが、これは造形的には完璧だと言っていいぐらい、素晴らしい彫刻です。
今まで見てきた日本の古代の仏像、百済、中国の三地域の仏像の中で一番素晴らしいと思います。

会津八一先生は 明治41年に奈良を訪れて仏像、古い建築の美しさを見たときに、おそらく絶対的な美を探していたようだ。
欧米人は一番の根源にある美は、ギリシャ美術だと言っているがそういうものに代わるものは日本にはないのかと考えて、奈良を訪れて、そういうものを考えたのではないかと思う。
英語の先生をやりながら、書家、歌人でもあったが、才能もあったかもしれないが、努力の人だと思う。
書については小学校に入った時は、習字の時間は恐怖の時間だったと言われ、書けなくて泣いたと言う訳です。
左利きなので、右手に筆をもって書くわけですが、最初水平線、垂直線をそれこそ物凄く時間をかけて努力したそうです。

奈良に歌碑が20基ある。
歌碑を作るときにもうるさかった、この大きさの石はこの大きさの紙にどのあたりから文字を書くかとか、文字のデザイナーでもあった。
歌も万葉調のものと評価されるがそういう風に評価したのは斎藤茂吉だった。
くわんおん の しろき ひたひ に やうらく のかげ うごかして かぜ わたる みゆ」
(観音の 白き額に 瓔珞の 影動かして 風渡る見ゆ)
(本尊の十一面観音  瓔珞は仏像の胸の表面に垂らしている装飾など 冠から瓔珞が出ていて(ここでは宝冠から垂れている紐の様なもの)が、額に掛かっていて風が吹いて来て、冠の飾りの紐が揺れている様。)
昨年法隆寺に歌碑ができた。
ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのたふ
千年余り三度めぐれる百年を一日のごとく立てるこの塔)
聖徳太子1300年忌(大正10年)を祈念して詠ったもの
法起寺中宮寺にも三重の塔がある。(法輪寺を含めて斑鳩には3つの三重の塔が有る)

会津八一先生は芸術の眼をもっており、文芸の世界では才能があり、小学生の頃から俳句をやって新潟で子供の頃は良寛の歌に接していて、奈良にきて俳句から歌に変わってくる。
研究はあとから来た方が有利なので、会津八一先生には迫ろうという気持ちはいつも持っています。
研究も努力以外の何ものでもない、年に1つは論文を発表する様にしている。
研究はちょっとでも休むと駄目、毎年書かなければと自分に言い聞かせながらやっている。
退職したが、ぼけない限りは死ぬまでできる仕事だと思っていて、良い仕事を選んでいたと思う。
会津八一先生は学問と芸術の両分野に、そういう風にやってきたろうと思います。
会津八一先生は学問、書、歌も先生がいない、すべて自分の努力でやってきた人で、今の時代と違って凄い人だと思います。
屋根の四隅についている風鐸 (風輪の大きな様なもの)が鳴っているのが聞こえる。












2015年5月9日土曜日

賀川 浩(ジャーナリスト)       ・フィールドを見つめ伝えて(後編)

賀川 浩(90歳のサッカージャーナリスト)         ・フィールドを見つめ伝えて(後編)
会社に入ったのは27歳、1年生先輩、北川貞二郎さんがいて相撲の記事で一世を風靡してた。
若くて優秀な大鵬という力士がいて幕下に入っていたが、大鵬の名前の由来から書きたいというので、依頼され調べることから始め北川さんに送った。
文化部には当時、デスクには福田定一(本名)、司馬遼太郎がいた。
木村象雷という卓越した大記者にしごいてもらったのが非常に有難かった。
昭和39年東京オリンピックの開会式は北川貞二郎さんが書いて閉会式は私が書いた。
あれは全く予想外の事件だった、閉会式では皆がワーッと混じって入ってきた。
ブランデージなんかは秩序が無いと怒ったぐらいだった。
書く方は大変だろうと言われたが、これが世界なんだと、世界はこれだけ広くていろんな人がいるので楽しいものになるんだと書きあげた。

オリンピックのある東京にくらべて大坂が静かなので、川本泰三 (1936年ベルリンオリンピックの名選手)に話して、サッカーを開催するように協会に持ちかけた。
東京オリンピックの準々決勝で負けた4チームを大坂、関西へ持ってくると言う事をFIFAが考えてくれて、OKしてくれた。
日本が準々決勝で負けて大坂に来て超満員だった。
1965年に日本サッカーリーグ始まる。
ヤンマーの山岡浩二郎さん(サッカー部長)から 東西対抗があって西宮球場で行われたが、賀川さんの記事は親切だなあと言われた。(どんな人が見ても判りやすい記事)

釜本を見たのは彼が高校1年生の時で、良い選手だと思った。
東京に間に合うかなあと言う事になって、其れからず――と見るようになった。
2年の時は高校選手権で決勝で負けたが、そのころは断然目立っていた。
早稲田に入っても1年生で得点王だった。
釜本はメキシコオリンピックで大活躍をして銅メダルを取る。
大会前に釜本と杉山はこの大会で彼らの力を世界に問う事になるだろうという記事を私は書いた。
70年ワールドカップに行こうと思っていて、いなくてもいい様に準備を整えていたが、編集長に運動部長の君がいなくて新聞が出来るわけないじゃないか駄目だと言われてそれでおしまいだった。

74年には自費で行くが、会社の方で断れない様に画策して、出掛けることができた。
西ドイツに行き、レベルが高く、「書く相手がいる」と思った。
戦前の選手 右近徳太郎 レベルが高かったが、この選手に私などは教わった。
ブラジルはヨーロッパにないサッカーでブラジルに勝つには、烈しく全員防御、全員攻撃でやらないと、勝てないのではないかと言う事で、其れがミケルスのオランダのサッカーではないかと、私は思った。
それを見たのはプラスだった。
日本は選手の育て方の問題もあり、プロフェッショナルじゃあないところにあったのかもしれない。
川渕チェアマン等が頑張ってプロに移行したというのは、非常に賢明だったと思います。
あの時期しかなかったと思います。
数の多いことは非常に大事で、いいことだと思います。

2002年ワールドカップ日韓開催 (96年共催が決まる。)
共催の大会としては良かったと思う。
練習場がいるという事で長い間欲しいと思っていた芝生のグラウンドが、国体サッカー会場の芝生のグラウンド、陸上競技場のなかの芝生のグラウンドと、県庁所在地には最低それだけのもができて日本にとって、そのあとのサッカーの普及にとって物凄くプラスだったと思う。
子供達の素質の見分けが明らかになり、上達も早くなった。
2014年ブラジル大会
試合前の日本チームを見て、本田は茶髪だし判ったが、香川はどこにいるんだろうという様な感じだった。

外国人の監督が次から次に入って来て、その人の経験したことを出来ないという事で有れば、それを承知で雇っているのでしょうがない。
本来なら日本のサッカーをやるなら、日本の監督がやったらいいと思うが、自分らの仲間内ではよう選ばないのか知りませんが。
良い選手の見つけ方、選び方をどうするかと言う事だと思います。
コーチも経験が無いといけないし、或る程度時間がかかるのはしょうがないと思っている。

何がばかばかしいかと言うと、戦争ほどばかばかしいことはないと思っている。
ビルマ作戦に参加した一人は3年上で当然日本代表になるべき素質のある優秀な選手で、まさにいい先輩だったが、弾が入ったまま帰ってきたが、二度とグラウンドには出てこれなかった。
FIFAから賞を貰ったが、先輩後輩になり変わっていただいているだけの事。





2015年5月8日金曜日

秦 早穂子(映画評論家)     ・わが青春のカンヌ映画祭

秦 早穂子(映画評論家)        ・わが青春のカンヌ映画祭
秦さんは昭和6年東京生まれ 第二次世界大戦後フランス映画の輸入配給会社に入り27歳の若さでパリで映画を買い付ける仕事につきます。
最初に購入を決断したのはジャン=リュック・ゴダール監督の作品「勝手にしやがれ」でこれはのちにヌーヴェルヴァーグの代表作と言われるようになります。
「太陽がいっぱい」「危険な関係」等フランス映画の名作を輸入するが、その後映画評論家として活躍する様になります。
83歳の現在も精力的に新聞や雑誌に寄稿する秦さんに映画を見続けた半生、映画の魅力などを伺います。

カンヌ映画祭 今年で68回目  私は45回通った。
最初個人で行ったが、すごい大人の人たちの社校場でしっぽを巻いて帰ってきた。(27歳)
その後は買い付けで出かける様になる。
着物を着てゆくしかなかった、イブニングドレスと違って宝石を必要としなかったから。
今はスニーカーとジーパンの時代ですから全然違います。
世界3大映画祭の一つ ヴェネツィア(一番古い ムッソリーニの時代にできた) ベルリン 
フランスが対抗して自由主義国家として作ろうしたが、第二次世界大戦がはじまって、1946年から始まる。
1954年「地獄門」がグランプリになる。
その時にジャン・コクトーが審査委員長で、異質な美によるような(絵巻物)物は向こうにはなくて驚いたんだと思います。
「うなぎ」「楢山節考」「影武者」「砂の女」・・・「の森」

フランス映画を見たときにこんな国が有るんだなと思って、フランス映画を輸入する会社に入った。
「新外映」と言う会社のパリ支局 表向きは日本だが資本はフランス。
試写室で映画を見てリポートを書いて、日本に送る作業をする。
うちの会社では年間4本と決まっていて、1本3万ドルで一番中途半端で駄目なものだった。
絶対何か残るものを買おうと思っていた。
「勝手にしやがれ」 を選んだ理由は?
シナリオも何にもないんだけど、20分だけ取ってあるがみてくれないか、と言われた。
そういったものは普通見ないが、もしかしたら、という勘が働いてスタジオに行って見た。
感動したし、一言でいえば美しい映画だった。
真っ先に購入する事に決定したが、秋にでき上るということだったが、でき上る頃にはうちわでは物凄い評判になっていた。(1959年)
ジャン=リュック・ゴダール監督も主演のジャン=ポール・ベルモンドも日本では知られていなかった。

「勝手にしやがれ」のタイトルを変えてほしいとの要望が有ったが、兎に角それで行った。
これはのちにヌーベルバーグの代表作と言われるようになる。
次が「太陽がいっぱい」を購入する。
これらの演じた青年像はあの時代の中でアウトローであってなかなか社会に組み込められない怒りみたいなものが有って、這いあがりたいという気持ちはあったと思う。(飢えの感覚が残っている時代)
フランスの社会は女の人を認めない社会であり、それは凄く悔しかったけれど、ちゃらちゃらされるよりも良かった。
フランスは凄く保守的だった。
アラン・ドロンにインタビューしたことはあるが、人間は登ってゆくときは謙虚で、はっきりした意図があって、すがすがしかった。(俗なタイプの美男子)
ジャン=ポール・ベルモンドは型破りの自然のアウトローのような、インテリの様な不思議なタイプの男。
アラン・ドロンはイタリアの方に、さらにアメリカの方に行くが、自分は違うんだということを判っていた。

買いつけの仕事から離れるが、カンヌには45年間通う。
カンヌ祭に行けば映画だけではなくて、どれがいいかどうかというのが見れる場が有ると思った。
一番大切なのは、何時でもアマチュアの気持ち、新鮮な気持ちで謙虚に見るという事は絶対に出来ない。
カンヌでも最初は真剣に見るが、2週間、3週間も1日6本みているうちに肉体的にも嫌になってくることが有るがそれだけは避けようと思った。

思い出に残ることは?
「甘い生活」 フェデリコ・フェリーニ監督 「情事」ミケランジェロ・アントニオーニ監督 認められなくて、ブーイングされて、彼らでもこんなに苦しむんだなと思った。
「日曜はダメよ」 本作品の主演はメリナ・メルクーリジュールズ・ダッシン
71年、チャールズ・チャップリンが2度目に来るが、文化大臣のジャックデュアメルと一緒に来てステージで勲章をもらうが、ふっとそのあとにジャックデュアメルの杖を持って、くるっと後ろを向いて杖を振り回して、足で歩く恰好をするが、その時に私は彼の歩いている向こう側にチャップリンの歩いてきた道がずーっと続いているように見えて、本当に涙がでて、泣きましたね。(モダンタイムスのシーン 自由への道)

1963年「切腹」小林正樹監督 審査員特別賞受賞 ルキノ・ヴィスコンティ監督「山猫」がグランプリ
仲代達矢が主演
映画を見てきて思う事は?
精神が若々しくあるということ、寛容な精神になってくる。
世界はいろんな国が有るんだなと言う事が多少は判る。
映画は見続けると何か目が開けてくると思う。

















2015年5月7日木曜日

坂上和子(NPO法人・理事長)   ・病気の子ども達が輝く遊びを届けて

坂上和子(NPO法人遊びのボランティア理事長)     ・病気の子ども達が輝く遊びを届けて
もともと保育士でしたが、夫の病気でやむなく仕事を止めました。
子育て中心の生活をしていた時、元の同僚から声が掛かり、病院や家庭に出向く訪問保育士の仕事を始めます。
病気でも遊びを通して成長する子供たちの姿に心を動かされたと言います。
その後坂上さんは病院で子供達を楽しませる遊びのボランティアを始めました。
現在はボランティアからNPO法人の組織にして、新宿区を中心に東京と千葉の合計6つの病院でコーディネーターをしています。
6月で活動25年目を迎える坂上さんの道のりは決して平坦ではありませんでした。
こんごは入院している子供達に遊びだけでなく、入院生活そのものをよりよくしたいと活動している坂上さんに伺いました。

子供のベット数が27ぐらいあるが、その中で遊べる状態の子供が何人いるか教えてもらう。
現在ボランティアが70人いるが、4グループに分かれて、赤ちゃんがいれば保育士や育てた経験のある主婦などが、伺う。
病院のベッドで本を読んだり、歌ったり、おもちゃで遊んだりしています。
小学生ぐらいだとトランプなどしたり、遊んだりしています。
様々な年齢に合わせたおもちゃ、ゲームなどをしています。
30万円の助成を頂いておもちゃなどを買っています。
遊びを通して成長してゆく姿を見るという事はとてもこのボランティアのいいところであり嬉しい気持ちです。
母親からも凄く喜ばれています。

コーディネーター 学生、先生、音楽、絵、編み物等が得意な人、いろいろスキルをきちっと掴んでおき、子供とボランティア双方がマッチングする様にする。
病気の状態等を考えて優先順位を決めて、看護師、ボランティア、子供の様子を見て3者をコーディネートするのが私の仕事です、この仕事は現在私だけです。
30年前主人が入院 子供が小さく、子育て、介護、仕事をこなすのが大変で、子供が夜泣きをしたり、不安を体で表す様になり、体力も気力も限界に来ていて退職するしかないと思った。
天職だと思っていたが、保育に関する本などもすべて処分した。
国立国際医療研究センター (ボランティアを始めた)が 家の近くに有った。
小児がんで入院している子がいて、(悪性リンパ腫)1回行こうよと言われて、「ゆっくん」のところに行く事になる。
母親と親しくなるなかで、交流が始まるが(弁当を持って行ったり)、「ゆっくん」は亡くなってしまった。
2年半の付き合いだった。
この経験が凄く大きかった。

「歩みの家」(障害児の通園施設) 在宅訪問の非常勤の募集が有り、ある看護師から勧められる。
手話の学校にも行っていたので、一旦断るが、保健所、病院行ったりして子供や母親を助ける仕事で、地域とつないでゆく仕事であり、受けることにした。
週に3日 訪問保育士として仕事を始める。
発達の遅れの有るお子さんに対して、遊びの様子を見ながら、母親と障害の受容ができるように、保育園につなぐという仕事、病院などにも入って行った。
対象は長期であるというのが条件で、生まれた時からずーっと保育器にいる人がいた。
おもちゃで遊んだりするようになり、話をするようになり、友達と眼を合わせてにっこり笑う様になり、社会生活ができて、母やも感謝してくれました。
遊びを通して人と交わることが重要だと思います。

保育士、セラピスト等仲間がいてボランティアを立ち上げました。
婦長さんは、歩みの家の先生と遊んでいる子供達は普段の様子と違う、嫌いな薬を我慢して飲んだり、ストレスを発散している笑顔を見て、母親自身も明るくなったと言う事で、是非お願いしますという事で、遊びのボランティア誕生しました。
95年に「病院で子供が輝いた日」を出版して、読者から来てほしいと頼まれた。
1日2つの病院を回って、帰宅が夜10時を回ることがあったり、自分の子供に対して、家庭にしわよせがあったり、2000年に離婚したが、そのようなことが原因だったかもしれません。
46歳で大学に入学する。
人生仕切り直しをした。 
離婚を期に財産を4分割したら300万円有って、何かに投資できないかと思った時に、大学に行きたいと思って、昼夜開校制の明治学院大学、社会福祉学科に行く事になった。
働きながら大学に通う事にしました。

中高年で勉強するのは楽しいものだなあと思いました。
社会福祉士の資格が取れたこと、NPO論でボランティア活動をNPOにしてゆく授業があり、それがNPO設立につながって行って、大学に入ってよかったと思う。
2006年にNPO法人を設立。
提出する書類、会計もきちんとしなければならず、仕事量が大変多くて、難しくて、家計も大変で貯金通帳も10万円も切ってしまって、大変だった。
交通費200円も払うのが大変で、自転車を利用して賄ったりした。
雨の中自転車で家に帰って来て、タオルで顔を拭いたりしたが、雨なのか、涙なのか判らないほど
泣いたが、泣くだけないたらすっきりして、雨がやんで夕日が射してきてとっても美しい夕焼けだった。(涙ながらに話をする)

学生の時に「夜と霧」を読んで、ユダヤ人の人たちが収容所で憔悴しきっている生活をしていても夕焼けをみて、なんて綺麗なんだろうという風に語り合うシーンがあるが、それを思い出して、絶対に私には明日があると、その時は何のこれしきと自分に言い聞かせて、自分の人生の第3幕は始まったと思います。
大学の先生が、今後2年間の生活を寄付させてくださいと言ってきてくれた。
もっと病院の仕事に邁進してほしいと言われた。
その他に企業から寄付があったり、ホームページを作ってくれる人もいて、広報はとても大事で、活動が理解されるようになってきた。
製薬会社の人が400万円を4年間継続して、私たちに頑張ってほしいと応援してくださった。
子供のころから崖っぷちに立たされた経験があるが、その都度不思議と人に助けられたと言う事が有ります。

小学校2年に母が亡くなり、葬式もしないし、焼き場で灰になった母親を抱いて、その歳で無常と言うものを感じて、これは受け入れるしかないという経験をする。
父はアル中で暴君みたいな人で父も蒸発して、いなくなり親戚の家を転々として、子供ながらに遠慮する生活をして、兄が中学生になって、妹と3人で1960年上京した。
学校の帰りにデパートをふらついていて、エスカレーターに頭を巻き込まれるという大きな事故が有り、それがきっかけで児童養護施設に入ることになる。(5年生の時)
カトリックのシスターが経営する施設で、サンティイナ・グロッシというイタリア人の施設長で、手を大きく広げて「お待ちしていましたよ、貴方がたは神様の大事な子供で安心してください」と言って私を抱きしめてくれて、「大事な子供」と言われたことが、私の頑張りの根本ではないかと思います。
(涙ながらに話をする)
よその子供の為に体を張って守ってくれる大人は、私にとっては出会ったことが無かった。
眼の前にいるこの方たちは、そういう方だったという事は体験として凄く人生を変えるような出会いだったと思います。

施設では大人も入れて、乳児から高校生まで300人ぐらいの大所帯だった。
毎朝ミサがあり、演劇、精神的な強さを養うために登山、キャンプ、スポーツ等積極的に取り入れていた。
子供達が自立する、精神的に強くなる、人に対して優しくなる、運命が受け入れられるようにと言う教育を徹底してやってくれました。
シスターたちは子供達のために日夜貢献してくれて、非常に大きな愛と言うものを感じることができた。
日本の孤児救済のために懸命に働いてくださるという姿は本当に大きいものでした。
私の今の核になっています。
家族は小さくなっていて、病気になっても十分に子供に付き添えないという様な状況が入ってきたり、看護師さんも決して大人数で当たっているわけではないので、もっと病院が市民と一緒に入院している子供達の入院環境を作っていく様な、システムが整っていけばいいなあと思っている。
アメリカ、カナダに視察に行っているがボランティアが病院にたくさん入っている。

300床程度でカナダでは1200人のボランティアを抱えているが、日本では100人程度ではないかと思う。
日本ではなかなか病院にはボランティアを入れる事はない。
むこうではボランティアは病院の宝だと言っています。(駐車場、食事等がただになる特典がある)
海外のレベルに近づけたい。
1000万円の寄付をしてくださった方がいて、「お婆ちゃんの家」のような部屋の家賃にして、病院の近くで、そこでサラダとか弁当を作ってお母さん達にはこぶとか、子供が集まったり、付き添いのお母さんが一休みできる様な場所が有ればいいなあと思います。
病気は人を選ばないし、少しでも子供の笑顔がみたいと思うので、いろんな分野の人たちと一緒によりよくしていきたい、そういう病院にして行きたい。














 

2015年5月6日水曜日

中川李枝子(作家)        ・名作絵本は子育てから生まれた

中川李枝子(作家)           ・名作絵本は子育てから生まれた
中川さんは数多くの名作童話を書いている方ですが、「ぐりとぐら」の生みの親。
「ぐりとぐら」のシリーズ いまから50年ほど前に生まれた絵本で、これまでに10カ国語に翻訳されまして、世界中の子供達に読み継がれてきました。
1935年北海道札幌市の生まれ 今年80歳を迎えます。、
東京都立高等保護学院を卒業後、20歳で東京都内の保育園で保母と成り 17年間勤めました。
保母として働きながら結婚、出産、作家としてもデビューし創作活動を続けてきました。
デビュー作は「いやいやえん」と言う保育園を舞台にした童話です。
当時、子供そのものが本に出てきたという驚きを多くの読者に与えまして、厚生大臣賞などいくつもの賞を受賞しました。
この半世紀、子供達を見つめながら数多くの絵本を生みだしてきた中川さんに名作絵本の誕生秘話、戦争の時代を本と共に過ごした少女時代、保母として作家として子供たちへの思いを伺いました。

「ぐりとぐら」 50年ほど前に生まれた絵本
保育園のかわいい子たちのために描いたにすぎないのですが、皆さんに愛されて幸せです。
保育士になった時に園長さんが子供たちが毎日喜んでくる保育をしてほしいとの事だった。 
子供達を見ていると遊んで遊んで遊んで、伸びてゆくんですよね。
如何に上手に遊ばせるかに尽きると思います。
本を読んだり、わらべ歌で遊んだり、くつろぎの時間が有るが「本の時間」と子供は呼んで、楽しみにしていた。
「本の時間」は一日のハイライトだった。

20歳で保育士になる。
無認可の名もない様な保育園だったが、新人でそこで主任保育士になった。
その場所は41万3600平米の駒沢オリンピック公園になる前の野原だった。
私は北海道生まれなので、すっかり気に入った。
面接にいった時は私一人だった。
「みどり保育園」(「青空保育園」がその前身) いったん解散になるが天谷保子さんがやりたいとの事で、原っぱの隅っこにバラックの様な建物を皆さんの協力で建ててもらって、新たに保育園を始めたのですが、一人ではできないので一人雇おうという事になって、主任保育士と言う事で私がそこに行く事になった。
最初は20人ぐらいだった。
子供達とは張りあって遊んだりしていた。(椅子取りゲーム、紙飛行機飛ばし等)

園長先生はてっきり大金持ちだと思っていたらそうではなかった。
本の購入も責任重大だった。
子どもの人気のある本のシリーズを買って頂て、あの本を読むことによって、本を子供たちも毎日休まないで来たと思う、その中でも「ちびくろサンボ」が凄い人気だった。
園長先生が「ちびくろサンボ」を真似てホットケーキを皆の前で焼いてくれて、食べさせてくれた。
皆嬉しくてよろこんで、私はもっと喜ぶものを食べさせようとして、話ならできると、カステラにして、大きな卵と言うところから発想して、話を動かすのに、主人公が小さくなくてはいけないので、野ねずみかなと言う事になる。
野ネズミたちがここはなんて素敵なところだろうと歌を歌う。
「ぐりぐるぐら ぐりぐるぐら ぐりぐるぐら」 と言って子供たちが囃し言葉で大合唱になって歌う。
そこから「ぐりとぐら」の名前を貰う。

子供に興味をもったきっかけはいっぱい本を読んだこと、戦争中子供時代を過ごしたが、いつも本に飢えている時だったので、手当たりしだいに読んだ。
太平洋戦争が始まった4カ月後に小学校に行く。
小学校2,3年ぐらいから世の中が厳しくなって、親とのお茶の間が暗くなっていく感じで、父と母がいつもひそひそ話し合っていた。
知り合いも赤紙がくるような状況にあった。
学校に行ってもサイレンが鳴ったらすぐ家に帰れという事でしょっちゅう退避訓練だった。
校長先生は朝礼で、今は日本はドンドン勝ち進んでいるとか、兵隊さんのおかげで学校に来られると勇ましい話をするが、戦地で勝っているのに何故空襲が有るのか、それはスパイのせいだと言ったりする。
家では父親の本棚があり、そこにグリム童話集が有り、これは読めると思っていたが、判らなかったりした。
小学校の入学祝に父からアンデルセン童話集を買ってもらったので、それを元手に友達から貸したり借りたりしていた。
友達に貸したアンデルセン童話集を先生が外国の本は読んではいけないと取り上げてしまって、私のところに戻ってこなかった。
取られてしまったことは親には決して言わなかった。

3年生の夏に疎開で札幌(母方の実家)に姉妹でゆく。
疎開する前に母からは、これから一人でやって行かなくてはいけないという事で、いろんなことを厳しくしつけられた。
空襲はなく札幌はのんびりしていた。
父は友人の家で読まなくなった本などを集めてきて、持たせてくれたが直ぐ読んでしまった。
祖父母の明治大正の文学全集の方が面白かった。(振り仮名がふってあったので読めた)
小学校4年生で終戦を迎える。
教科書には墨を塗られてしまったが、この事は忘れてはいけないと思った。
中学は福島に行くが、小学校に間借りしている様な状況だったが、GHQの方針だったらしくて図書室が有った。(机ひとつが有りそこにどこかから集めた本が置かれていた)
或る日、岩波少年文庫の「二人のロッテ」が有り読んだら、面白くて授業中も読んでいた。
それから次々に古今東西の名著と言われる児童文学を読んだ。

平和とは何かと言う様な事を本から学びましたが、でも面白いからいろいろ読んだ。
結果的に何が一番面白いかと言うと、子供とは面白い、いろんな子供がいて、一人ひとり個性的で一生懸命生きている。
子供相手の仕事をしたいと、そこに行ったと思う。
「子どもはみんな問題児」」エッセー集を出すが、「子どもはみんな問題児」は私の子供観。
皆それぞれ個性があって、一人ひとり違っていいと言う事を、あまり気がつかないのかと思って。
子供を他の子と比べないこと。
東京都の青少年非行化審議委員を務めさせていただいた事が有るが、非行化する少年少女は、人間関係のつまづきからだと皆さんがおっしゃる、そういう子供達は幼児期に存分に自分を表現しないで来たという風に専門家の人はいいますが、幼児期迄にしっかり育っていれば、あとは心配ないんだなと思って、私などは反って希望をもって学ばせて頂いた。
子供の喜びに敏感なお母さんは良いお母さんだと思う、喜びに敏感なお母さんは悲しみにも敏感ですから、子供の心の状態をちゃんと掴んでいると思うので。
17年間やって、何が判ったかと言うと、子供はお母さんが大好きだという事です。







2015年5月5日火曜日

2015年5月4日月曜日

2015年5月3日日曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう (第16回) 特攻隊員とその遺書

保阪正康(作家・評論家)       ・昭和史を味わう  (第16回)太平洋戦争の日々(2)
特攻隊員とその遺書
特攻隊員の遺稿、手記を色々読んできたが、彼らがどういう想いでこの戦略に参加したのか、ずーっと疑問に思ってきたが、軍事の問題ではなく、日本人の文化、死生観と関わり合う問題という様な気がする。
3つの視点
①特攻作戦とは具体的にどういう作戦なのか。
②この戦略はどうして採用されたのか。(他の国に例のない作戦)
③参加した特攻隊員たちは何を考えていたのか。

①特攻作戦とは具体的にどういう作戦なのか
日本は軍備では連合国とは全く話にならないほどの開きがある。
軍備の差を人間で埋めてゆく、人間が爆弾になる。
人間が操作してぶつかってゆくので立派な物を造る必要が無く、戦費が無い日本が経済的に考えてもこういった武器しか作れないと言う事で行われた人間爆弾だと思う。
昭和19年10月25日、特攻隊第一陣 海軍兵学校の70期生関行男隊が最初に行く。
関さんは、「こういう作戦を取るようであれば日本ももう終わりだな」と言った、と言われる
フィリピン・レイテ海戦の時に出掛ける。
それ以後、沖縄戦まで続くが、延べ4000人が特攻作戦に従事したといわれる。
100%の死と言うのは、軍事作戦の上では全く常識外れ、有り得ない作戦だと言われる。
軍事指導者たちの責任になる、いろいろ問題を含んでいるところ。

②この戦略はどうして採用されたのか。(他の国に例のない作戦)
一般的には海軍の第一航空隊司令長官中将大西瀧治郎が考えたといわれるが、必ずしもそうではなく、連合艦隊がドンドンアメリカと対抗できなくなる。
体当たり攻撃しかないのではないかと、自然に海軍の中で声が上がってきた。
決断はそのポジションにいた人が決断するわけで、それが大西瀧治郎だった。
戦争を終わった後で大西氏は自決している。 
大西氏が亡くなったことに依って大西氏だけが、特攻作戦を主導したと言う様な形になっているが
ちょっとそれは違っているのではないかと思う。
陸軍も特攻作戦に呼応して行くが、陸軍は志願にしようとするが、現実には命令で本人が断れない状況に追い込まれる。

③参加した特攻隊員たちは何を考えていたのか。
学徒兵、昭和18年学徒出陣 大学教育を受けていたが、途中でやめて軍に入った人達。
少年兵。(志願兵)
重要なのは陸軍士官学校、海軍兵学校とか軍人の中からは特攻作戦には従事させなかった。
ここに国の指揮官たちの意識があったと思う。

「きけわだつみの声」 
特攻隊の手記、遺族の話も聞いているが、涙なしに語れないことが多い。
慶応義塾大学経済学部学生だった上原良司さん 特攻隊として亡くなる。
遺書などを書き残しているが「きけわだつみの声」にも一部掲載されている。
自分を自由主義者であると、軍事国体制に納得していないという形の遺書になっている。
しかし、この時代に生まれた以上、命令を受けたからにはそれに従うという遺書が残っている。
歴史への遺言だと思う。
「生を受けてより20数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。・・・御両親様に心配をおかけしたのは兄弟の中で一番でした。 それが何の御恩返しもせぬうちに、先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くすことが孝行する事であるという日本においては、私の行動をお許しくださることと思います。
私は明確にいえば自由主義に憧れていました、日本が真に永遠に続くためには自由主義が必要であろうと思ったからです。
これは馬鹿な事に聞こえるかもしれませんが、それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし真に大きな目を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的な主義だと思います。」

京都大学学生 林市蔵さんの遺稿 林さんも母親もクリスチャンだった。
父を早く失い母親一人の手で育てられた。
遺稿はクリスチャンとしての信仰で書かれている。
「お母さん とうとう悲しい便りを出さねばならない時が来ました。・・・お母さんのことを思うと泣けてきます。 安心させることも出来ずに死んでゆくのがつらいです。・・・私もいつも傍らにいますから、楽しく日々を送ってください。お母さんが楽しまれることは私が楽しむことです。
全てが神様の御手にあります。 
神様のもとにある私たちにはこの世の生死は問題になりませんね。私はこの頃毎日聖書を読んでいます。・・・私は聖書と讃美歌を飛行機に積んで突っ込みます。
私はお母さんに祈って突っ込みます。 お母さんの祈りはいつも神様が見そなわしてくださいますから、私は讃美歌を歌いながら敵鑑に突っ込みます。」
本来検閲で残らないが密かに母親に送っていた。
クリスチャンとして天国で母と会おうと言っているところは、この遺書の重いところでうね。
聖書と讃美歌を積んでいって、讃美歌を口にしながら航空母艦にぶつかって行くという事ですからその覚悟と言うものは信仰の中で矛盾を抱えながら亡くなって行ったんだと思いますね。

国民向けの特攻隊に向かう一般兵隊の人の時のラジオ放送が二つ有るが、上記2人とはだいぶ違うニュアンスです。(陸海軍が公認した国民向けの放送であろう)

特攻隊員の突っ込む間際の記録があるとは海軍の参謀達から聞いている。
無線機がON状態になっており、記録はあるが燃やしてしまったと言うが、個人記録メモは残っていて、「今日もまた、海軍の馬鹿野郎といって散華するものあり、いかなることが有っても部外秘」
最後に恨みの言葉で亡くなって行った。
こういう書けない事はいくつもあったのかと聞いたらあったと、こういう書けない事はいっぱいあったと、言っている。
時代の中で作戦に自分が加わることの悲しさを言っていったものもいる。
特攻隊員のかなりの人は心の中では納得できないと、思いながら、仕方ないのかと呟きながら亡くなって行ったと思う。
冷静にこういった作戦は正しかったのか、こういった作戦に依って人はどれだけ傷つくのか、こういった作戦は日本の伝統的文化、死生観に反するのではないか、と言う問題意識を持たなくてはいけないと思う。

軍の上層部の命令した責任は重い。
特攻隊の人たちは、自分たちを最後にしてほしいと、自分がこうやって亡くなる事によって、日本が平和になり、日本はこれを生かして世界に誇れるような国になってくれと書いていますので、その気持ちをくみ取らなければいけないので、単なる英雄としてのみ見るのは、彼等に失礼だと思う。
或る老人が私を訪ねてきた人が来て、人払いして話をしてくれました。
特攻の知覧での整備兵で、勇躍果敢に出撃する人はほとんどなく、失神したり、失禁したり、呆然自失、涙を浮かべたりしているのを見ましたと。
それを私は飛行機に乗せたんです、そのことによって罪の意識は捨てきれないで戦後生きてきましたと言っていました。
特攻作戦にかかわった人達は皆苦しんで生きている、その苦しみを我々は忘れてはいけない。
特攻と言う作戦は軍事的には問題だったということを前提にしながら、より精密に見てゆく事だと思う。




2015年5月2日土曜日

田中利典(住職)         ・花に祈る 山に祈る

田中利典金峯山寺一山宝勝院住職)            ・花に祈る 山に祈る
59歳 古くから桜の名所として知られる吉野山、鎮座する金峯山寺は平安の昔から修験道の聖地として信仰を集めてきました。
田中さんは昭和56年、金峯山寺に入り広報を手初めに、宗門の要職を務めてきました。
田中さんが歩んできた修験道は、役 小角の行者が開いたと伝えられ、日本古来の神道と伝来してきた仏教とが出会う事で生まれました。
山伏の姿で山をめぐり自然の中に身を置く事で心を整え、人々の苦悩に寄り添えることが修行の目的とされます。
30年余りに渡る吉野の山での修行で見えてきた心の世界とはどのようなものか、伺います。

吉野の桜は今から1300年前に役 小角の行者が吉野から南へ24kmにある大峰山山上ヶ岳があるが1000日の修行をされて、修験道という独特の御本尊を祈りだされた。
これを蔵王権現というが、この権現様を山桜に刻んで、お祭りをした。
其伝説から、吉野では御神木が山桜であると伝わりまして、山桜を大切にしてきました。
権現信仰が広がってゆくと、権現様を訪ねて、信仰のあかしに山桜を献木して山桜の名所になって行った。
権現様は青黒いお姿をしていて、顔は恐ろしいが青黒い肌は意味があり、青黒は仏様の心が有る。(柔和な仏様の姿と荒々しい姿 自然が持っている恩恵と脅威)
桜は厳しい掟が有り大事にされてきた。
献木によって山全体が桜の木になってきた。

自然の中に神仏がおり、桜の木に権現様がいて、自然とつながっており、大地ともつながってゆく。
我々の修行がいろんなものと一体となって大きな力を得てゆく、そういう世界が有るが、その一つの信仰の形が権現様の御神木。
大峰おくがけ修行 吉野から熊野まで170kmに及ぶ山道を8日間掛けて歩き通す。
25歳の時に初めてゆくが、歩くのに一生懸命で疲れ果てて、何回か行くが、山が嫌いだったので、7~8回目でようやく山の修行の良さを知るようになる。
それからは楽しく行けるようになった。
人間「我」があり、歩いて同じことをしていると、任せるままに歩かざるを得ないので、心の我執が消えていく様な感じ。
「懺悔、懺悔 六根清浄」と登りながら声を出して歩くなかに自分の中の我が消えてゆくし、六根(眼耳、鼻、舌、身、意 )も清浄になってゆく。
繰り返しの中で自然の中で生かされている自分を見つめ直す。

日本人の生きている感覚で「晴れ」と「褻(け)を行き来するが、同じ生活をしてゆく(「褻(け)」と考える)と心がくたびれてきて 、しまいに心が病んでいって、病気になるが、それを時々もとに戻さなくてはいけない、それを晴という。
「晴れ」とは日常ではない、非日常の聖なるものに触れる。(元旦、3月3日、5月5日とか)
今の日常は「晴れ」と「褻(け)」を失ってきている所が有るが、山の修行は日常を離れて、8日間朝から晩まで歩いて、歩いている世界が神仏の聖なる世界、聖なる世界で非日常を体験する。
それが山修行の素晴らしさです。
自然の中で生かされて自分がいる、自然の一部として自分が生きている、そういうことを体験できる。

父親(田中得詮)は国鉄に勤めながら、山伏修行に打ち込んでいましたが、勤めを辞めて専門の僧侶になりました。
5歳の時に父に連れられて大峯修行に行くが、母に聞くと1歳半の時に肺炎になり、死にかけたそうで、蔵王権現様に願を掛けて5歳になったら連れて登るのでどうか命を助けてほしいと言って、助かることになり、5歳の時に父が一緒に私を連れてきた。
「拝み屋」ということを言われて苦しかった時期がある。
15歳で得度、僧侶の道に入る。
修行で気付かされたのは「人間は自然の一部でしかない」ということ。
阪神大震災、東日本大震災、御嶽山噴火とか、災害が続いているが、報道される中で異和感を感じた、想定外の大きな被害、想定外の津波、想定外という言葉の裏には自然が悪い様な、自然に善悪がある様な、風に聞こえた。

自然には善悪は無い。
人間は自然の中で生かされている事を忘れているのではないか。
自然への畏怖、恩恵、感謝を忘れつつある社会だからこそ、単なる登山ではなく、そこに神仏がおられることを前提に祈りをささげてゆく。
共生は共死でもある、そいう目線で自然に対して畏敬の念をもつ事は大事で、人間の都合で自然を考えてしまうので、想定外という言葉を生んでしまったのではないか。
土にまみれながら歩いてゆくが、登山靴ではなく地下足袋を通して土の暖かさ柔らかみ、土の力を感じるのが修行。
修験道ルネッサンス 
仏教はグローバルな宗教 神道はローカル 修験道はグローバルとローカルが融合してできた宗教で超ローカル。

人が生きてゆくのにどう寄り添ってゆくかと、父が生涯を通してやってきたとするなら、私も山で世話になったものを里で生かしてゆければと思っている。
林南院 父が建てたお寺。
今年の4月からこの寺を拠点に新たな修行の道を歩きはじめる。
今年60歳になり、今年から一人前になるのかなあとの想いもあり、直に寄り添って里で生かしたいと思っている。


























2015年5月1日金曜日

伊藤 真(弁護士)        ・憲法を胸に生きる

伊藤 真(弁護士)           ・憲法を胸に生きる
昭和33年 東京生まれの56歳  大学生の時に、一人一人を大切にするという憲法の理念に感銘を受けて、司法試験を目指し東京大学在学中に司法試験に合格しました。
伊藤さんは弁護士として活躍する一方で、憲法の理念を実現できる法律家を育てたいと司法試験の予備校で教鞭を取ります。
20年前 36歳の時に、司法試験などの受験指導を行う塾を設立し、独自の勉強法を提唱してカリスマ塾長と呼ばれるようにもなりました。
市民や学生向けに憲法を解説する講演を年間150回以上行っています。 
一人ひとりが憲法の理念を胸に刻むことで、自分らしく生きること、そしてより暮らしやすい社会を作る事ができいると呼び掛けています。

子供の頃は技術者になりたいと思っていた。
外交官になりたいと思う様になり、法学部に入って法律に触れた。
先輩の現役の方に伺って見たら、自分のイメージとは違った外交官のイメージだった。
陸奥宗光幣原喜重郎吉田茂というようなイメージをしていたが違う様な感覚を受けて一気に冷めてしまった。
外国に出て何かしたいとの思いがあり、人脈を作ろうと思った。(遊び友達を増やす)
大学2年の時に憲法との出会いが有ったが、その後アメリカの友人(ジャーナリスト)から、アメリカに帰って弁護士になりたいと言う事だった。
日本の法律で一番大切なのは、憲法で、憲法の中で一番大切なのは何かと問われて
①基本的人権の尊重
②国民主権
③平和主義
と答えたが、一つだけと言われて答えられなかった。
よく日本人をやっているなと言われてしまって、くやしくて調べた。

3つの根底には、「個人の尊重」という考え方が有る。(憲法13条) 初めて知って衝撃を受ける。
個人は誰も皆違うので、それでいいんだ、人と違う事は素晴らしいことだと感じとれた。
父の関係で中学の時にドイツに2年暮らしていた。
ドイツに行くときに飛行機で出掛けたが、国境線が見えない、国境、国って何だと不思議に思った。
ドイツで生活する中で、いろんな国籍、いろんな民族、いろんな人に出会って、良い人もいればとんでもない人に出会ったりもする。
人種も国籍も関係ないな、人それぞれで、それぞれの人生が有る、ということをおぼろげに感じながら帰ってきた。
「個人の尊重」という言葉を知り、人はみな同じ、人はみな違うという感覚を持てた。

ドイツから帰って中学の学校に初めて登校するときに、自分だけ鞄の肩への掛け方が違っていて先生から注意を受ける。
ルール、規則が大嫌いだった。
人と違う事は素晴らしいと憲法で言っている、このままでいいんじゃない、それに気付いた。
憲法を学んでみたら、法ではあるが法律ではない事に気付いた。
憲法は国を縛るための法で「誰に守れ」かというと、政治家、官僚、裁判官、公務員に対して憲法を守れと言っている。(国民は守らせる側。)
通常の法律は国民に守りなさいという法律。
人権  長い歴史の中で人類が苦難を乗り越えてきて戦い取ってきたもの。

日本に戻って来てから、日本の歴史、文化に関する本を読む。
高校では弓道をやり、武士道に対して思い入れをもった。
日本は軍隊をもっていなくて、アメリカに守られている、自分の国を外国に守られるというのはおかしいと思っていた。
戦争で罪もない人たちを殺す事は出来るかと、自分に問いかけた時にそれは恐ろしさできないと、
プロの軍人に頼もうと思った。
自分がやりたくない恐ろしいことを人に押し付けることになり、それはもっと卑怯なことだと思って、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
外交官になって何とかしようと思って、その後憲法に出会って、憲法9条の意味を初めて理解した。
「戦わない」 この選択肢があるのではないかと思った。
刀を抜かない、相手が来た時に、その人の人格、人間的魅力、その人のたたずまい、に恐れをなして相手が攻撃して来ない、それほどの人物になれば襲いかかってこない、武士道の究極の姿だった。
なんだ日本の憲法はそれをいっているよと。

自分たちは崇高な理想と理念を高める事に依って、外交力、政治力、経済力、文化の力など軍事力以外の力を高める事に依って、誰も手が出せない様な国を作り上げてゆく、そのことがこの国にとっての一番現実的な安全保障につながる事を、何十年も前に憲法を築いたんだと吃驚した。
憲法を仕事にしたいと思った。
人身の自由 逮捕された時の刑事手続きに関する条文が多いが、戦前の治安維持法などで人々の自由が、大変な圧政のもとで人権侵害が有って、にがい経験の中ででき上ってきた。
日常的な刑事、民事の事件の依頼を受けたりしているが、必ず憲法の話をしている。
貴方らしい生き方をこれからして行けばいいので、過去のことをとやかく言う人はいないので、自信をもってやり直していけばいい、其れを憲法は後押しをしていると言ってあげる。

憲法の事を一人で1000人(20年間で)に伝えるよりも、1000人に伝えられるような法律家を1000人送り出した方がいいのではと思う様になり、教える方に軸足が移ってきた。
法律は道具なので、その先が重要なこと。
塾を立ち上げた当初からやっている事が二つある。
①法律家の先輩等に来ていただいて講演をしてもらう。
 第1回 1996年に薬害エイズ訴訟 その後ほか原発とか こういう使い方ができるという事を知ってもらう。
②マスタリーツアー 外国に行って、人権裁判所、慰安婦、戦争責任の爪痕など、事実を聞いてみたり自分で見る、そして自分で考えてもらう。(経験的知性が大切)
当事者の話をしっかり聞くという事は全ての基本だと思います。

憲法を学んだことによって、自分の生き方の指針、価値基準の様なものになった。
多くの人に知っていただきたい、伝えたいと思いが強くある。
人間は進化するものだとは確信している。
憲法は人類最大の発明だと思っている。 
憲法で強い力をもった人たちをコントロールする事によって、間違いを最小限にしてゆき、理想を掲げてそれに向かって現実を少しでも前に勧めてゆく事を人類は繰り返してきたと思う。
非常識と言われた事柄が、人類が進歩する事によって常識になってゆく。
昨日より、今日もうちょっとより良い生き方をしたい、明日は今日よりもうちょっと良い生き方ができたらいいな、と人は生きていったらいいと思う。
憲法を伝えることによって、理想、志に向かって少しでも前に進めてゆくという生き方に意味があるのではないかと思う。