2016年1月21日木曜日

砂川啓介(俳優)         ・妻が認知症になったら

砂川啓介(俳優)            ・妻が認知症になったら
昭和12年生まれ 78歳、妻はドラえもんの声で親しまれた大山のぶ代さん。 
舞台の共演で出合い、昭和39年に結婚、二人で料理本を出すなどおしどり夫婦として人気を集めました。
大山さんは2008年に脳梗塞をわずらい、緊急入院一命は取り留めましたが、会話や記憶に障害が残りました。
一時は回復の兆しがありましたが、2012年にアルツハイマー型認知症を発症しました。
佐川さんは外出を控えて介護中心の生活になりました。
妻のイメージを壊したくないと病名を公に出来ずにいました。
佐川さんは胃がんになり帯状疱疹、肺気腫をわずらい心身共に追い詰められたと言います。
2015年このままではいけないと、親友の毒蝮三太夫さんの勧めで民放のラジオ番組に出演し、大山さんの認知症を公表しました。
妻の認知症に向き合い、どう支えているか、妻への想いなどを伺いました。

妻が脳梗塞で倒れてから、僕は一切新しい仕事をしていなかった。
去年の5月ぐらいから、ラジオ、TV、講演などが多くなって、かみさんをどうするかが大変です。
昨年10月「娘になった妻 のぶ代へ」という本を出しました。
反響が凄かったです、手紙など色々貰いました。
最近は落ちついてはいますが、烈しく怒ったり、そとへ出て行ったりといった事は一切ないです、よく眠っています。
2008年に脳梗塞で倒れてから、後遺症が良くなるまでに2,3年掛かって、よくなってきたなあと思うころから認知症になってきたようです。
後遺症が戻ってきたのかなと思ったが、認知症だったようです。
病院に行って検査をしてもらったら、アルツハイマー型認知症でした。
聞いた時には悔しさ、苛立たしさなどもあり、ショックだった。

まず記憶などが一切なくなり、よくなってきたなあと思っていると、1,2分前に言ったことが全然覚えていないという事が始まった。
自分の言っている事が僕に伝わらないので、自分が苛立たしくなり力を入れたり、怒ってみたりした。
180度変わってしまったという感じだった。
公表する気はなかったが、しんどかった。
経済的なことから全て妻がやっていたが、倒れてから以降全て自分でやらなくてはいけなくなって
帯状疱疹、肺気腫をわずらい、胃がんにもなって、入院して手術して、病院に妻が来て大丈夫?とか元気か?とかのセリフは全然なかった。
50年以上の付き合いの毒蝮三太夫さんが介護に関することなどの知識があった。

彼と会って話をしたら、一人で抱えていたらお前が先に行っちゃうぞと言われ、ラジオで公表した方がいいよと言われたが、まだ迷いがあったが、彼が番組を決めてしまって、出演する事になるが、マイクの前に座るまでどこまでしゃべったらいいか迷っていました。
大沢悠里の引き出し方がうまくて、知らないうちに全部しゃべっていました。
電話、メール、ファックス等が入ってきてよくしゃべってくれたとか、頑張ってほしいという内容が入ってきた。(2015年5月13日の民放の生放送。)
のぶ代のイメージを壊したくないという思いはありました。
しゃべってしまってからはストレスからは解放された様な感覚はありました。
怒ったり怒鳴ったりしていましたが、それからは優しくなった様に思います。
照れくさかったが、褒めてやったり、触れることを段々出来るようになりそうしてやると穏やかになってきた。

深川生まれで、79歳にもうすぐなります。
小さい頃は運動神経抜群で、野球少年で将来野球選手になりたかった。
中学に入ってから野球部に入って、私立で中高一緒だったので高校3年生と一緒にやっていました。
中学3年の時にツベルクリン反応で陽性になり、過激な運動はしない様にという事で野球部を辞めました。
中学1年から高校3年までが演劇コンクールがあり、演劇部以外でドラマをやることになり、主人公をやれと先生がいうので、夢中でやったら最優秀演技賞を貰う事になった。
直ぐに演劇部からスカウトが来て、演劇部に入って、そとから映画の話とかが舞い込んできた。
スカウトされ独立プロの映画で、縮図、村八分、太陽のない町、足摺岬とかに出ましたが、暗い映画をつくった会社だった。
最近まで上がり症だった。
オーディションは受けた事はない、出たら上がって自分の実力の半分も出ないと思う。
大学に行くつもりでいたが、この世界に入るようになってしまった。

最初から主役をやって自分の器用さに問題があると思う様になる。
ダブルキャストで同じ芝居を別の人とやると、最初から演出家、お客さんが喜ぶ芝居を僕はするが、片方はセリフもなかなか入らず怒られ怒られやるが、ひと月たつと後半になるとむこうのほうがよくなり、僕は変わらない。
彼の芝居の方が頭に残っているという事を聞いた。
そこを辞めることにした。(18,9歳の頃)
しっかりしたものを掴まないといけないと思って、江口舞踊研究所に一人で乗り込んで弟子にしてもらおうと思って乗り込んだ。
早く身についてしまって、2年経たないうちに先生の代稽古をやるようになってしまった。
NHKのヨネヤマママコさんが「不思議なパック」というTV番組があり、そこに行くようになり、江口さんが振付をしているという事ですが僕がやっていました。
プロデューサーの方が体操をやりませんか、という事でNHKの「歌の絵本」の初代お兄さんとして出演する事になる。(1961年 今の「お母さんと一緒」)

子供にさせる体操だった、振りもモダンダンスの人と早川先生(児童心理)と一緒に考えました。
子供も一緒に出ることも出来るのですか、との問い合わせがありそれがきっかけで子供が一緒に出るようになった。
1963年に孫悟空のミュージカルをやることになり、僕が主人公で厚生年金ホールでひと月やることになり、猪八戒に岸井明さん、三蔵法師に九里千春さん、孫悟空(砂川啓介)が山の中で暴れているお猿さんの時に恋人猿が出てくるが、それが大山のぶ代だった。
以前から知ってはいたが、嫌いではなかったが、何か起きるのが嫌だなと、感じるものがあった。
恋人猿をやったのがきっかけでした。(半年ちょっとで結婚する。)
27歳で結婚、その子がお腹で7カ月の時に死産、7年後に女の子が出来て、7か月たった時に普通に分娩して未熟児で3カ月生きて、呼び出しがあり残念でしたと言われた。
心臓と肺の両方が未熟だったようですが、今だったら医学が進歩しており大丈夫だったと思う。
亡くなってはいたが、一応抱っこする事は出来ました。
今度妊娠したら母体が危険という事で、子供はあきらめました。

妻が1979年にドラえもんの声をするようになる。
しばらくしてから仕事をしてもいい?といわれて、どんどんやったらいいんじゃないのと言って、色々やりました。
その後ドラえもんをやるようになりました。
1980年 私は「お昼のワイドショー」 大変でしたが、器用なんでしょうか、やっちゃって上がらなくもなりました(43歳の頃)
のぶ代が2001年直腸癌になり、ドラえもんを辞めたいという話になった。
ドラえもんが有名になってしまって、二人で建てたうちなのに、ドラえもん御殿だと周りから言われたり、僕はドラえもんは好きではなかった、挨拶のあの声でやっていて、その内にドラえもんグッツで一杯になり、段々好きにはなりました。
周りから止められて辞めないでいたが、2004年に交代する事になる。
ライフワークという感覚でやっていました。
いまこういう状態でいるから先は考えても実現できるかどうか分からない年齢ですが、本を出した事でいろいろオファーがあり、認知症に効く体操をやってみませんかとか、ライブもやって来たので、認知症の介護をする人たちの役に立つようなことが出来たら、恩返しになるのではないかと思っています。
旅行も温泉に行ったりしていましたが、連れて行ってやりたいと思いますが、今年は厳しいと思います。
明るく常に笑顔で、というのが僕の今のテーマです。