2016年2月24日水曜日

大石芳野(写真家)       ・生きていることへの答えを求めて(2)

大石芳野(写真家)          ・生きていることへの答えを求めて(2)
戦争は終わっても終わらない。
40年前東南アジアを旅をした時に、地元の人が日本軍の残虐行為について語った。
大変ショックを受けて、この人たちにとってあの時の戦争は終わっていないと強く感じた。
戦争が終わっても心の奥にどっかりと居座っていると言う事が、判った。
「戦争は終わっても終わらない」 という題名の写真集
広島で被爆して、被爆したお年寄りの女性。
しわだらけの両手が大写しになっていて、指が歪んでいて、細かい柄の有る布を持っていて、竹の物差しが乗っている写真。
清水鶴子さんという女性。
話をする中で私の悩みを包んでくれた人、この人と話すことによって広島の写真を撮れるようになった。
爆心地から1.5kmのところで被爆、全身をやけど、指も10本のうち5本しか残っていない。
そんな身体で戦後幼い息子と弟を育てるために一生懸命和栽をして生き伸びてきた女性。
ご主人を戦争でニューギニアの近くで失っている。
筒に収めてある大切な写真を私に見せてくれた。
まるで彼女の息子の様に若いご主人の軍服姿が現れて、夫婦の半世紀の歳月はどんな風なものだったんだろうと思いました。
二度と自分の様な体験を繰り返さないために、伝えてくださいと何度も言われました。

「広島半世紀の肖像」にも彼女の写真が何枚か写っている。
良い顔は生まれ持った美形と良い顔、表情は違うと思う。
鶴子さんは奥の深い瞳を持っていて、いい表情です、人生の厚みが映っているのかもしれない。
「戦争は終わっても終わらない」写真集には200枚ぐらい掲載されているが、沖縄の写真の中に一枚、無数の石ころをぼた山の様に積み上げられた石の山が画面いっぱいに映っていて、背後に大勢の男女の若者たちが写っていて、ぼた山に向かって手を合わせている写真。
1996年、開邦高校教諭金城満さんと、佐喜眞美術館の館長さんが話あって若い人たちに沖縄戦をどうやったら伝えられるかを話し合って、生みだされたのがこの山で、高校生が一人一人が石に番号を付けてゆき、めんどくさいとか、なんでこんなことをするのかとか皆不満たらたらだったが、数字がかさなってゆくに従ってシーンとなり、その内にすすり泣きが聞こえるようになって、出来た石の山で、沖縄戦で亡くなった人たちの数字で23万6095個の石になった。
23万6095人の命という事です、「石の声」と名付けられた。

沖縄の場合には1972年に行ったのがはじめてで、エキゾチックでいいなと思ったりしたが、話をする中で段々彼らの根っこかなと思う様な話がでてくるのが沖縄戦でした。
沖縄戦の事を取材するためではなかったが、そのことがガーンと来て1年に何回も足を運んで沖縄戦の様々な話を聞く事になりました。
今と違って生々しくいろんな人がたくさんの人が心の中に持っている時期でした。
琉球という独立国が薩摩によって平定されて日本の国になり、歴史を辿った結果沖縄戦になり、沖縄戦の結果が米軍基地と言う歴史の流れがあります、沖縄戦が中核にあります。
顔中に一杯しわのあるお婆さんが薄暗い場所で体をかがめて、光が射してくる斜め上の方を見上げていて、そこに誰かいる様な眼差しで見上げて見ている写真。
沖縄には自然の洞窟が沢山あり、戦争中は防空壕として使われた。

これは「轟の壕」というが、終戦となり、沖縄戦の終わった日を平和の日としているが、全県下でいろんなお祈りが行われるがその時にこの女性は「轟の壕」にやってきて、話を聞いたら自分はここにいて、南部の壕を転々と逃げまわって、ある壕で子供を生み、ここに逃げてきたが、生まれて間もなく6月21日に亡くなってしまって、食糧不足で乳もでなくて、3歳の娘もいたが6月22日に亡くなってしまった。
23日に戦争が組織的に終わって、彼女たちが救出されたのが24日だった。
ほんの数日の違いで二人の子供達を一遍に亡くしてしまった。
彼女は6月が来ると子供たちに申し訳なくて、眠れなくなると言います。
勇気を出して来て、ようやく今日お参りが出来て、これで私はようやく眠れるかも知れませんと言っていました。
今でもこういう女性がいるんだということが、戦争が終わっても終わらないんだと何度も痛感しました。

東日本大震災 2011年3月11日
東京は節電があり、5月2日福島に行きましたが、福島は明るい、それでいいのと思ったが、何秒かして福島は東北電力だった、使ったのは首都圏で、福島は使ってはいない東京電力の放射能をあびてこんな大変なことになっているんだと気づいてその瞬間から、私は物凄い生針を飲んだような気分になってしまって、それがずーっと今でも続いています。
体調も万全ではなくて、月に一回訪ねることを続けました。
飯舘村、60歳ぐらいの男性の写真、額に深いしわが刻まれ目には涙がたまっている、大写しの写真。
2012年3月に会った人、田畑を放射能で汚染されてしまって、声を立てて泣いていて、自分の60年間の人生がこの事で壊されてしまったと言って、悲しみだけでなく、くやしがっている、怒っている、憤りをどこにぶつけていいか判らない。
東電のある所から飯館村は距離が離れていて、まさか汚染されるとは思っていなかったが、飯館村に放射能が降り注いで全村避難となってしまったが、彼は飯館村から避難しない。
何故かというと大好きな場所でもあり、家族で過ごしていた話声、笑い声の残っている空間、田畑を見続けたい、避難する友人から預かった犬、そういったために避難しないと言っている。

荒涼とした風景の中に小さくぽつんと犬が遠くからカメラの方に目を向けている写真。
飼い主に置き去りにされた犬が荒れた田畑をさまよいながら、懐かしそうに寂しげな目が向けられた、という言葉がその写真に添えられている。
そこは放射能がいっぱいで、そこには立ち入る事ができない、それはまるで戦争でそこの地域を敵に占領されたという様なもので、そういうものが福島にもあると思いながら歩きました。
どの様に深刻で暗いテーマの写真集でも、かならず心の救いとなる笑顔の写真に出会う事が出来る。
生きていることへの答えを求めて、写真に取り組んでいる。
旅をしていて一番嬉しいのは、人々の屈託のない笑顔に出会う事で、笑顔を見るとここへ来てよかったなと思う。
コソボに行った時に、少年が涙をこらえて笑みを見せた、その少年の顔はいつも目に浮かぶ。
その子は自分の目の前で父親をセルビア勢力によって殺されて、どんなに大きな傷を負ったのかと思うが、彼がその話をしてくれた時に思わずポロっと頬に涙が伝わったが、それをこらえて一生懸命笑みを浮かべたいと思う健気さ、思わず抱きしめたいと思いました。

福島で赤ちゃんをおんぶしているお婆さんと3歳ぐらいの男の子があぜ道に立っている写真。
子供はニコニコ顔、持っている箱の中には沢ガニが入っている。
蟹だよと言って満面の笑みで私のところに走ってきた。
福島にはまだ汚染水の問題とかかなり色々不安になる情報があるが、笑顔があると言う事は希望がある、人間への信頼感、人間の力強さみたいなもの、魂の力強さはあると思う、それが無くなると言うのが戦争とかだと思うし、魂が生き生きしている事に期待するし願っている。
戦争ではなくても、辛い話を聞くと、思い出させてしまって申し訳ないと思うが、私は伝えてほしいから話したんですと言われて、逆に勇気付けられてしまいます。
一番伝えたいことは、人間の尊厳、命の大切さ、それは人間としてみんな一人ひとり平等にある、という事です。
ただし戦争とかで奪われる、悲しんでいる人がいる、その人の体験を無駄にしない。
辛い話を聞いた事の責任から逃れられないと思っていて、潰れるまでやるしかないと思って自分の中で対話しています。