2016年2月12日金曜日

内山章子(主婦・大学聴講生)    ・いつまでも「学びの心」を

内山章子(主婦・大学聴講生)    ・いつまでも「学びの心」を
米寿を迎えた今でも大学に通い日本の文化や芸術を学び続けている内山さんの話です。
衆議院議員や厚生大臣を務めた鶴見祐輔さんの次女として昭和3年に誕生しました。
姉は社会学者の鶴見和子さん、お兄さんは哲学者の鶴見俊輔さんと弟の4人兄弟です。
女子学習院から東京女子大学に進みましたが戦争と母の看病で、学ぶ機会がほとんどなかったことが心の飢えとして残ってしまいましたと言います。
2002年長年連れ添ったご主人を見送り、翌日、心の飢えを満たそうと、京都造形芸術大学の通信教育を学ぶことにしました。
76歳になってようやくめぐり合えた機会でした。
在学中姉の和子さんが病に倒れ看病しながら、江戸時代の画家、呉春の白梅図屏風の卒業論文を書き上げ8年かけて卒業されました。
リュックサックに本をいっぱい詰め込んで京都の大学に通う姿は当時、ニュースにもなりました。
内山さんの知的好奇心は今も衰えを見せていません。

学校がある信濃町に行き、2日講義を受けるのを楽しみにしています。
母は私が5つの時弟を生む時から病気で、そばにいてくれという事が多くて、小学校は義務教育で行かなくてもよかったが、女学校になるとこれ以上休むと減級にしますという手紙が届くと、学校に出してくれるという様な事で、勉強をいつもやりたいことが出来なかったと言うのが心に残って、戦争にもなり、女学校1年は勉強できたが、女学校の2年からは勤労報国隊女子挺身隊が出来て仕事をしなければいけなくて、勉強はできなかった。
76歳になって主人が亡くなり葬式が終わった晩に大学に行こうと思ってしまいました。
京都造形芸術大学に入る事になりました。
心の飢えが満たされてゆく、又通信教育は職業、年齢、出身地など、とにかく色々でいままで付き合いをしたことのない人達で凄く面白かったです。
「女性の70歳代はまだ無謀な企てを思いつき実行して行くだけの余力が残っている」と本にも書いています。
60,70代は凄く大事な時期だと思います。
今、88歳で、論文と資料を全部広げて頭に入れる、そういうことは88歳になると出来ないです。

母はアメリカの大学で学びましたが、あの戦争は無謀で勝てないことを知っていた人でした。
姉と兄は戦争が始まる時には、アメリカにいて、日米交換船で返されてきて、私と弟は昭和の歴史が変わって国民学校になって学童疎開という悲惨な状態になる。
明治、大正、昭和が一つの家に住むという、価値観がちがう、家族が引き裂かれる、ということは後で戦争の事を書く時になって初めて知りました。
空襲で、防空頭巾をかぶって、朝までぐっすり眠ることはできませんでした。
女学校4年では一週間に一回授業があるだけで、空襲警報があると防空壕に駆け込み碌な勉強もしないで4年生を終わりました。
3月卒業という時に2月に母が倒れて、父に言われて、学校を辞めて母の看病をすることになりました。
3月になると東京の大空襲になり、親戚が焼きだされて皆次々にやってきましたので、その人たちを食べさせなければいけないので、春になって木を切って薪にして、耕して、下肥だけでは足りないので、疎開の人に牛フンを分けると村八分になるので夜来てくれと言われて、30分かけてリヤカーで貰いに行きました。
野菜を作って、親戚の人に食べてもらったりしていました。

終戦間際で東京女子大学に入りました。
3月に大空襲があり4月の入学式は無かった。
8月12日、急に父が来て、14日に入学手続きをして15日にいさんで行ったら、学生は全て講堂に集まれといわれて玉音放送を聞くわけです、大混乱でした。
即時学校閉鎖があり10月に開校するが、アメリカ軍に鶴見の家は接収されてしまいました。
親戚を転々としたり、熱海に家があったが、通うのに大変で勉強どころではなかった。
歴史を学ぼうと思ったが、昭和23年に学制が変わって、私たちが第一期の社会科の高等学校教員の試験を受ける事になりました。
教員免許の国家試験は受かったが、先生になる自信がなくて、保育士になりたいと思ったが父に反対されて、保育園に内緒で務めてしまいました。
出来るだけの家事はやっていたつもりですが、或る日姉が保育園にいて、断りに来られて、6か月で就職も駄目になりました。

心の飢えを満たそうと京都造形芸術大学に入りました。
地域学の面白さ、視野が広がったというか、いろんなところに連れて行ってもらったが、ガンダーラの美術史を学ぶのにガンダーラに連れて行ってもらいました。
アイヌの文化も習う事が出来て、沖縄の文化も習いました。
呉春 江戸時代の画家の研究。
白梅図屏風に2時間見とれて立っていました。
「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」  蕪村辞世の句
明けゆくかどうかの空に浮かんでいる梅の花が耐えられない美しさに見えて、、私の思いと重なってそこから動けなかった、それを卒論に書きました。
8人を看取ってきましたが、人の死を自分自身で慰める事の難しさ、深さ、それが絵に出ているのではないかと思いました。
姉が病に倒れて、休学して看病に当たるが、そこで「鶴見和子病床日誌」を書きました。
背骨が折れていて頭があげられなくて、食べさせることが難しく、書けなくなってしまっていて、毎日の記録を書いていたら、兄がそれを本にしなさいと言う事で、親族の死を何処まで書いていいか思いましたが、全部記録しなさいと兄から言われました。

45日間付き添って最後の最後まで看て、「怖いお姉さんでごめんね サンキュウベリーマッチ」と言ってくれました。
人の死は凄い戦いと苦しみがあって、その終わりの時が来て看取らせてもらう事の方が、慰められているという事がありました。
私自身が幸せだったと思います。
80歳の時に生前葬を行う。 出版記念会として執り行う。
夫の葬式の時は参列者が多くて大変だったので、生前葬をしました。
雪中花 水仙の別名だと知った。
庭の咲いていた水仙に雪が30cm積もって駄目かと思ったら雪が溶けたらしゅんと立っていた。
句画集、句集を作りたいのと、もう一度白梅図屏風について書いてみたいと思っています。
これから何日残されている判らないが 「残されし 日々涼しく たのしまん」 先生から送られた句。