2016年3月21日月曜日

大谷茂義(そろばん塾経営)   ・そろばんで生き抜いた戦中・戦後(2)

大谷茂義(元 満蒙開拓青少年義勇軍・そろばん塾経営)・そろばんで生き抜いた戦中・戦後(2)
現在小さい子70人近くが塾に来ます。
簡単な球だけで計算するし、これが頭の中に入るわけです、それが面白い。
やり始めると集中力ができてくる。
そろばんの検定試験では大阪が一番多い。
北京の大学に勤務するときに久子さん?(鹿児島県出身)と出会う。
国民党と共産党が内戦をそて、国民党が負けてた台湾に逃げて行って、大陸を共産党が確保して、中華人民共和国ができて、日本人の看護士は必要なくなって解放されて、彼女は大学に来ました。
彼女は保育所で庶務の様なことをしていました。
そこで面識が出来ました。
昭和32年に結婚することになりました。

人民銀行に転職、エリートの行くところだった。
広東省、上海などからも来ていました。
国交回復の時に周恩来が田中角栄に言った一言が、物語っていると思う。
「日本人が残って中国の経済建設のために尽くしてもらったので賠償の請求権を放棄する」、と言ったらしい。
日本人がいっぱい残って、新しい中国を作って行く上での大きな役割を果たしたのでそういう言葉が出たのではないかと思う。
周恩来は日本人の医者にかかって、いろいろ親切に病気を治してもらったし、大分日本人の女性が看護婦として協力しました。
我々は炭坑に、そのほかいろいろ 例えば撫順炭坑、撫順製鉄所にも技術者が直ぐに帰らず残って全部仕事を教えました。
解放軍の空軍も航空部隊が残って協力して航空部隊を作った。
新しい中国を作って行く上での大きな役割を果たしていたので、だから日本人に対して、技術者が多いと言う事で、採用して優遇してやってきたわけで、私もそういうわけで採用されました。
いろんなところで日本人の知識、技能が生かされていたんです。
だからそういう言葉が出たのではないかと思います。

人民銀行では水を得た魚の様に計算の仕事が主なので苦労はなかった。
間違いを発見する計算方法を編み出しました。
桁違いで計算する場合が多いので、そこで発見できる。
違いの差を0.9で割る。
280円 と 28円は252円の差 252円を0.9で割ると280となる、280円の伝票を探せばいい。
集計し直すとすぐわかる。(誤算発見法)
中国では学術書が多いが、実務書がない。(日本では逆)
銀行では大変喜ばれた。
そこでの経験が中国の人たちはどうしてそろばんを習って行ったのかに興味を抱いた。
それで交流をしたいということで交流がはじまりました。

昭和33年にようやく日本に帰ることが出来た。(16年ぶり 30歳)
高度経済成長の直前だったので、タイミングがよかったと思う。
国家公務員なので、退職金まで炭坑、銀行から貰ったので、最高の給与での計算でという交渉をしました。
当時レートが1元が120円で、銀行での給与は当時の日本の大卒の月給よりも多く貰っていたという計算になります。
そういう意味でいいタイミングだったと思います。
日本に戻ってきて、塾もやりたいとも思いもあり、1級を持っていないと駄目なので、5月末に帰ってきて10月に検定試験があり、3年掛かると言われたが、1級、2級の試験を受けて、両方とも受かってしまった。
今は妻と娘と3人で塾をやっています。

「一人の百歩よりも百人の一歩」と言うことをスローガンに掲げました。
一人の落ちこぼれを作らない。
そろばんの教育は普遍性がある、そろばんは楽しいものである。
常に学び続けなければならない。
塾の良し悪しを見分けるポイントは常に研修、研究、勉強と言っている先生がいる塾ほどいい塾であると思っている。
延べ2000人の生徒が出てゆきました。
延べ日在籍数が多いところが良い塾だと思います。
1986年から大阪珠算協会の事務局で毎週土曜日、外国人の為のそろばん講座を開いていて、延べ95カ国、1154人が学んでいます。
素晴らしいものが日本の文化として残っているという評価だった。

そろばんを通じての日中交流にも力を入れています。
27年ぐらいになります。
目的は中国のそろばん教育がどうなっているのか興味があり、中国に来てほしいとの要請があり、会って始まりました。
文献を取りよせて、翻訳して、紹介すると言う会報誌、年4回 151号になります。
又、中国との交流の為に中国に行っています。
大事なのは文化交流だと思っています。
日本と中国が仲良くできないかとやってきています。
そろばんは私にとっては生活であり、智慧の泉です。
創造力を養ってくれて、心の支えになってくれて、若さを支えてくれている、生きてゆく杖になっています。