2016年3月14日月曜日

佐藤清吾(元十三浜漁協組合長)  ・ふるさとの復興 命の限り

佐藤清吾(元宮城県北上町 十三浜漁協組合長)  ・ふるさとの復興 命の限り
74歳 佐藤さんが住んでいた北上町十三浜大室地区は波静かな漁港で、わかめ、こんぶ、ほや、ホタテ等を育てていました。
それが押し寄せてきた大津波で300人の人の命と家屋漁船も流され、風光明美だった港が瓦礫で埋まりました。
港に近い佐藤さんの家も家族も流され、現在も行方不明です。
昭和30年代、集団就職列車で上京した佐藤さんは、様々な経験を積んで故郷に戻り、北上町十三浜漁協組合長として活躍してきました。
その組合長を退いた後、大震災に遭われました。

現在仮設住宅に一人で5年間住んでいます、4畳半二つと、台所。
44戸有りますが、高台に移転された方もいます。
今年中には高台の造成が終わって、私らに引き渡しの予定になっています。
以前の家は海から25m位しかなかったが、明治の津波で奥に構えました。
妻(当時58歳)と小学校の1年生(7歳)の孫の写真が飾って有ります。
地震直後大津波警報が出て、一人者の老人等を避難させたりして、浜に出て行ったがまだ変化はなかった、地震から30分ぐらいで到達するとの言い伝えがあった。
避難していたらとんでもない高さになり、集落全部が流され、夢でも見ている様な感覚だった。
入り江になっているために高さが倍にもなる。
波が引いて行った時の一番奥の家さえも無くなってしまっていた。
家族が山に逃げたのではないかとの希望もあって、呼んでもまったく反応はなかった。
その晩は友人に誘われて車で暖を取り凍えずに済みましたが、寝るどころの騒ぎではなかった。
夜10時の津波が最大だったと言う話もある。

家はぜんぶ流されて何も無くなってしまった。
写真は親戚が持っていたものを貰い受けました。
漁協の代表をやっていて、災害復旧が最大の役目なので、自分の家の事情等は完全に封殺した期間でして、忙殺された期間が有ったから乗り切れたのかもしれません。
2400人いた十三浜の人が300人位亡くなり、行方不明者が70人ぐらいいます。
船は400近くあったが50~60艘しか残らず、養殖漁業の復活に使えるのはその半分しかない。
その年は収入がゼロ、翌年も無収入が予想され、皆さんからの支援だけで命をつなぐのはできなくて、残った船と生きのこった人で明日から何をやったらいいか判らなかった。
瓦礫がすごくて、漁場の整理をしないことには後から養殖場を敷設が出来ない、その復活の為の仕事は収入が無く、政府からの日当手当での仕事(アルバイト)はお金がもらえる状況だった。
そこが苦しいところだったが、協力の為にいろいろ走り回った。

日本から世界から応援される中で、中には家も船も損害を受けなかった人もいて、自分は自分でやると言う様な声もあったが、自分だけスタートする事は認めないとはっきり言って、再開の意志が有れば一緒にスタートすると言いました。
漁業は一匹狼的な考えがあり、共同でやることはトラブルも多く、纏めるのには苦労があった。
一度組合長を辞めた後に大災害が起き、どうしてもとの要請があり動きました。
物理的にも人の面倒を見られるような状況では無かったが、何回ともなく要請があり最後に有る人からこの惨状から逃げないでくれと言われて、その一言に遂に動かされました。
三陸のわかめ、こんぶの生産量がゼロだったので、輸入品と三陸品は全然違うので、その年の5月から漁場の整理を始めて、海を綺麗にして新たな施設を12月31日まで掛かって作り、翌年生産したら、値がついた。
70%のいかだを復活させたが、収穫量は通常のいかだの本数の倍は出来ました。
2年目にはいかだは100%になりました。

「大室南部神楽」伝統芸能を復活させねばならないと言う思いがあり、2年目に復活祭を行い、そのお祭りのせいでボランティアの人達を含め1000人以上の人(以前は100人位)が来て下さり、とんでもないお祭りになりました。
お祭りは絆を高めてくれます、地域の人が抱き合って涙を流しました。
方言 この土地には独特の方言があるが、死語になってしまうと言う思いがあり、その単語を使ってどういう言葉が出来るのだろうとノートに記しました。
巨大なもの=やた(八咫)もの (八咫烏から来ている) 
中国の殷を滅ぼした周の時代の尺度の単位 親指と薬指の間隔が「一あた(咫)」 それが八つ
でやた(八咫)、今でも使ってます。
以前230ページの方言集を作って、新たに復刻版を作りました。「北上町の方言集」