2016年3月19日土曜日

竹山昭子(放送史研究者)    ・残された「空襲警報」は語る(3)生放送に課せられた役割

竹山昭子(放送史研究者)    ・残された「空襲警報」は語る(3)生放送に課せられた役割
戦時下のラジオがどのような役割を科されていたのか放送の歴史に詳しい昭和女子大学元教授の竹山さんと共にお伝えします。
大正14年 3月に始まった日本のラジオ放送は開局してまだ10年あまりで、戦時の体制に組み込まれていきました。
アメリカ軍の空襲が烈しくなる昭和20年には連日空襲警報を発令すことに追われていたのです。

一市民の中学生がよく警報を録音していたと、ほんとうに吃驚しました。
溝口さんの録音を聞くとパーっとよみがえってきました。
3月10日東京大空襲でB29に機影が東から西に去っていくときに、日本軍が高射砲を撃つがB29に届かず、一定の高さを保持してゆうゆうと去ってゆく、そういう状況を見て当時悔しかったです。
空襲警報になると防空壕に入りました。
5月の東京大空襲の時が一番危なかった。
防空壕の中にラジオ受信機を持ちこんで、土をかけてラジオの受信機が焼けない様にして、警報を伝えてくれる、命と直結しているものだった。
自宅用の防空壕もあるが、町会が作った番号付きの防空壕があり、通行人も何時でも入って良い様になってもいました。
2・26事件 学校が休校になっていて、会社も休みで、自宅にいて、ニュースが聞こえてきて、父母が涙を流していて、後になってその時のことが判りました。

情のこもった放送だった。「兵に告ぐ・・・・・」
問題解決に大きな役割を持っている事に気付いた。
ラジオの方が速報性は優れているが、新聞は後れを取るという危機感が起きて、対抗意識ができて、先に流されたら困るので、新しい情報をラジオの方に流さなかった。
12月8日真珠湾攻撃、太平洋戦争が始まった時に臨時ニュースが次から次に出されるようになった。
そこから速報性を手に入れる。
戦争の状況、戦い方などを放送するようになる。
軍と情報局が担当する。(国の情報機関として統括されるようになる)
状況が悪化してくると、陸軍、海軍からニュースを出す様になってゆく。

戦争末期 空襲警報などが出されるようになる。
最初の空襲警報 昭和13年5月30日、鹿児島県の西方から国籍不明の飛行機が飛来、北九州、山口、長崎に空襲警報を西部軍防衛司令部が発令。
(偵察飛行で日本本土に接近した)
昭和17年4月18日 初めての本土空襲 ドーリットル空襲 アメリカのB25 16機が東京等にやってきて爆弾を落とした。
昭和19年末から20年になると、連日放送される様になる。
東部軍管区司令部から直接放送された。
司令部の地下室に放送施設が設けられていて、司令部の作戦室と直結していた。
壁に大きな日本全土の地図があり、情報が豆ランプに表示されるようになっていて、敵機発見の報告があると豆ランプが点灯する、担当将校が原稿を纏めて、それを伝令が放送員に届ける。
民間人が沢山動員されていた。

情報放送も出す様になる。
昭和19年7月8日 敵情報放送。 福岡支部
昭和19年11月1日東京でも情報放送を流す様になる。
生活情報も流されるようになる。
あちこち軍の通信線が切れてしまって、軍の指揮命令系統を一刻も早く伝えるのはラジオを使ってやるのが早いと言うことになって行った。
昭和20年8月9日 福岡西部軍司令部から長崎原爆投下後に、退避の放送をしている。