2016年3月26日土曜日

葉室 麟(作家)        ・三英傑を語る~史実と小説のはざまで

葉室 麟(作家)   ・三英傑を語る~史実と小説のはざまで
1951年北九州市小倉に生まれ福岡市の西南学院大学を卒業後、地方紙の記者などを経て50歳から創作活動に入ります
2005年 「乾山晩愁」で歴史文学賞を受賞しデビュー2007年銀漢の賦で松本清張賞、この銀漢の賦はNNHK木曜時代劇、銀漢の賦としてドラマ化されました。
2012年 「蜩ノ記で第146回直木賞を受賞します。

尾張三河は戦国時代の中心地、歴史のセンターとの印象があります。
江戸期の7割ぐらいの大名が尾張三河ゆかりの人だった。
三英傑が偶然なのか必然なのか、私は必然だったと考えている。
西国は経済的で文化的で情が濃い、家族を大事にするが、東国は統制的で戦闘能力があって規律が正しい、等違いがある。
日本の中部は西と東を観ていて、その地域から三英傑が出てきたのは必然なのではないかと思います。
九州は大友、島津、龍造寺は三国志的に争い、博多を取りたい、貿易の拠点を取りたい、貿易に関心があった。
毛利も九州を取ろうとしていた。
関東は北条、上杉、武田は関東の制覇を目指した、鎌倉より関東は東国政権の場所、武家政権の本拠地を取ろうとしている。

近畿地方は将軍家を助けるかどうか判らないが、頂点に登ろうとする。
中部は、信長が出たことによって、近畿ブロックに参加する。
近畿ブロックはそこで制覇すると満足してしまう、将軍の次とか、管領とか権力を握ったら満足してしまう。
信長はそこで満足しなかった。
鉄砲で天下を取るという事は、貿易を要求する。(火薬、とか)
だから西国に向かい、それが豊臣政権まで発展する。
豊臣政権は朝鮮出兵などがあり崩壊してゆく。
徳川政権はそれを見ていて、中部なので東国が判り、東国に政権を作る。
三英傑が中部で登場してくると言うことは必然的だったのではないかと考えています。
中世の枠組みを壊してゆくのが可能だったのは、この地域から出たからではないかと思います。

冬姫の作品 信長の次女を主人公にした作品。
父信長を慕って、夫が蒲生氏郷、夫への愛情を胸に乱世を生き抜いてゆき、女性の目線から信長の偉大さカリスマ性を描いた作品で、信長のことを好意的に描いている。
信長は変わった人で自分の子供に台所用具の名前を付ける、ごとく、茶筅丸(織田信雄)とか、冬姫も冬に生まれたからなのかもしれないが、ネーミングは綺麗だった、若干夫性愛が働いたのではないかと思う。
蒲生氏郷は文武に秀でてていた、かっこいい武将だった。
ある種の愛情があった様な気がする。
政略結婚をさせられるのは、或る程度敵にならない様にするために行うので、敵になる様なポジションにはいなかった。

信長は今でも人気があり、日本史の中でグローバリズムと向かい合って、対抗できた唯一の人だと思う。
信長が持っているカリスマ性は日本人が憧れたり期待したりすると思う。
残酷でもあり、自分は信長が好きだと言う人が現代もいるかもしれないが、信長と同じ時代に生きていたらたいがい殺されていると思う。
期待感を持ってしまうのは世界の中で日本は大陸の端の国で、それれなりの大変さを背負って生きているので、世界と向かい合えるキャラクターに対する期待感があると思う。
秀吉は難しい、途中で人格が変わってしまったのではないか。
大衆の中から出てきて、情があったが、暗い歪があったのではないか、それが老年期に表出したのではないのか。
秀吉が作り上げた権力は日本史の中で最高の権力者は秀吉ではないかと思う。
海外派兵出来ている事は凄い権力。
江戸時代はそれぞれの大名が自治をやっている連合体だから統一的に兵を出すことはできない。
江戸時代は権力としては強くない政権だった。

2012年「無双の花」 立花宗茂 筑後柳川13万石の大名に取り立てられる。
関ヶ原の戦いで西軍に加担して浪人するが、10数年後に、元の領地に戻る武将。
徳川は何だろうと考えた。
徳川を描いた先達の作家は昭和の時代の人で、自分が戦争体験していて、自分の時代的経験から書いている。
山岡さんの小説は、戦後書いている。
吉川英治さんの新書太閤記は戦時中書くが、小牧長久手の戦いで終わって中断する、そこで日本は戦争で負けたために終わってしまった。
吉川英治さんは戦後、新平家物語を書いている。(国の滅び)
山岡さんが徳川家康を書いたのは平和国家建設を果たした人物として徳川家康だった。
戦争をしない国、平和国家を作ろうとしたと思う、そうしないと国は滅びると目の当たりに見ているので。
徳川政権は弱いと言ったが、関ヶ原の戦いは家康があんまり勝ち切れていない戦いだと思う、家康の本軍が来ていなくて、豊臣系だけ戦わなくてはいけなくて、600万石を没収するが、豊臣系にやらざるを得なかった。
福島正則、黒田、加藤など西国に豊臣系大大名がいっぱいできてしまった。
本来の構想だったら大阪城に入って政権運営したいと思ったかもしれないが、それができなくなり、本軍を喰い止めた真田一族の働きで歴史は大きく動いたなと思います。
家康は真田を憎かったと思う。

真田信行がなんとかしてほしいと言う事で、勘弁するが、信長だったら一瞬で首を切っていると思う。
家康は毛利、島津も生かして、幕末にはその付けが回ってくるので家康はいい人過ぎたのかなあとの気もします。
真田丸に出てくる家康像、今までと違うが、家康は自分の状態を隠さない人で、信玄に負けた時に、家康のしかみ肖像を書かせたが、或る意味自分を客観視していて、弱みをさらけ出していて、それを見る家臣は頑張らねばと言う事で、徳川家が生き伸びてゆく事ができて、一つのリーダー像だと思う。
弱みを出すのが平気だと言うことは、或る意味胆力が要る。
本当の価値は自分が判っている、人の評価を恐れないと言う強さは、或る意味男の人の中での一番の強さかもしれない。

歴史小説は結末が決まっているから書きずらいと言う人もいるが、逆に言うとそれ以外は自由なので却って自由な形式だと思っている。
真実ではないと思った事は書くことはないが、基本的には歴史の中に自分自身を探し出してそれを書くんだという考え方でやっています。
立花宗茂は英雄ではない、徳川に拾ってもらった時は5000石の提示を受ける、20年ぐらい苦労するが、不満を漏らしたことが事蹟には見当たらない。
家康は低額を提示して人間を試したのではないか。
徳川の安定期に向かってゆく時代は公的なものの大事さ、その自分の位置付け等思う。
小説って基本的に自分のことしか書けないと思う、そういう風に生きたかったとか、憧れとか、そういうことを含めて自分のことしか書けない。
「流」 東山さんと対談するが かっこいい主人公を書く作家でかっこ良かった試しはないですよね、葉室さんと言われるが。(私に対して冗談で言っていると思うが)
かっこいいあり方に対する価値観は私のものです。

50歳ぐらいから人生の締めくくりを考えだすが、自分が自分であった理由を明らかにする仕事をしたいなあと思いまして、自分と言う個性がこの世の中に存在したんだと言う事を刻みたいなあと思って、その中で書いたと思います。
候補から4回落ちてもう嫌だと思いましたが、そういう時にいただけて不思議です。
家康の実像は読みにくい。(江戸時代は神格化、明治以降は別の見方)
神格化されると本来の姿、愛すべき姿は削除されてしまう。
三英傑の良いところを並べれば今でも学ぶべきことは多い。
信長の、過去しがらみにとらわれない、自分の本拠地をどんどん移しててゆく、鎌倉武士は自分の場所に一所懸命守りそれが武士だが、信長は本拠地に拘らないで、そこの革新性が旧大名に勝って行った理由だと思います。
視野の広さ、革新性に学ぶべきだと思います。
秀吉はそれを受け継いで、武家ではないから、経済が判った、流動して来たこだわりの無さがある。
家康はきちんとした根拠地を作らなければだめだと言う事で江戸に作る。
江戸に政権を作ることはそれまでの日本にはなかったことで、家康はクラシカルな物に戻ってゆく革新派だった。
現代、伝統を守ってゆく事は大事だが新しい意味を見出して守ってゆく事が大事だと思います。