2016年3月1日火曜日

桑原史成(報道写真家)       ・写真に何ができるか?

桑原史成(報道写真家)       ・写真に何ができるか?
島根県出身79歳、中学生のころから写真を撮り始め、東京農業大学に通うかたわら写真家を目指して東京総合写真専門学校に学びました。
大学卒業後はフリーランスの報道写真家として水俣病や韓国の民主化運動、ベトナム戦争等の歴史的な出来事を撮りつづけてきました。
桑原さんが写真家としてデビューするきっかけになったのは、水俣病の患者の撮影です。
昭和35年まだ水俣病の原因が認められていなかったころから水俣を取材してきました。
患者や家族の姿だけではなく、漁や魚の行商の様子など、漁村の営みを撮ったその写真は水俣病の丹念な記録と評価され、平成26年に第33回土門拳賞を受賞しました。
今年は水俣病の公式認定から60年にあたります。
半世紀以上水俣を取材してきた桑原さんに伺います。

テーマがなかなか見当たらなかったが、夜行列車で友人から貰った週刊朝日に水俣の事が書いてあり、それで行こうと思いました。
その記事との出会いがなければ、写真家としてデビューすることはなかったのではないかと思います、奇蹟的な運命の出会いだったと思います。
山陰の津和野に笹ヶ谷鉱山があり、ヒ素の汚水で私は生まれ育ってきているので、鉱毒は小さいころから知っていました。
自分の田舎の原風景がそのテーマに投影するように反映しました。
すぐ週刊朝日のデスクにお会いしてサジェスションを貰って、2カ月後に水俣に入りました。
小松恒夫さんから2枚の名刺を頂いて、熊本大学の徳臣 晴比古助教授、そして院長大橋登さん。
院長から「写真で一体何が出来るか?」と質問を受けてたじろぎました。
実は写真家を希望していて、水俣病を撮ることで写真界の登竜門を展覧会をして、でたいと言う事を言い終えたとき、つい本音を言ってしまって、しまったと思ったが、院長が即座に「よかですたい」といった。
その面会が水俣病取材の最大の山場でした。

数年後院長にお会いして、あのとき何を言ったか覚えているかと言われて、覚えていませんと言ったが、「桑原さん貴方は正直だった」と言われて、先生あのとき理屈を言ったらどうされましたかと言ったら、断ったと言いました。
あの時例外的に認められました。
現場の患者さんにカメラをむけたら、ストレートに取るのは生々しい、それでは後日写真を観る人に抵抗感があると感じて、表現力が豊かでないが、徐々に努力して写真を見る読者のみなさんに共感を持っていただけるような構図で撮りたいと思いました。
患者の方が成人式で晴れ着を着せてもらっている写真、小さい女の子の輝く様な瞳だけアップにしたりした、写真。
病人であるけれども明るい表情の雰囲気を撮りたいと努力した。
笑みの中にこそ苦悩が隠れているのではないかと、写真家としては考えました。
一方で、桑原が撮った写真は水俣事件の情報量を薄めているという批判がある。
資料としての強さにおいて弱いという評価もあることは事実です。
人に共感を与える、関心を持ってもらうそういった事への手助けになる表現の方がいいのではないかと思います。

病室で横たわっている妹さんのベッドに姉さんが一緒に宿題をしている姿、等家族と一緒に撮る。
水俣だけは家族がそろって同じ症状の病気にかかるという、食生活から来る病気なので、家族ごとに撮ることが水俣を撮ることが大きなポイントだと思って、家族10家族撮りまして、継続して撮りたいと思いました。
それぞれ10家族の印象が残っています。
上村智子さんの成人式の日の家族の集合写真、智子さんがその12月に亡くなる。
彼女は「宝子」と言われて、母親の中に溜まっていた水銀が最初に生まれた子に全部吐き出し、以後の子供は健在だと聞いています。
お母さん自身も本来重症であるはずが、いくらか軽症の形になり、出産はそういう悲劇があるんだなと思いました。

水俣をどう撮るかは難しい。
人は誰でも老いてゆくが、最近段々引いて撮る様になりました。
引いて撮ることで患者さんの周辺の状況を旨く入れながら、全体で表現したいと、今努力しています。
3年ぐらいで終息したいと思っていましたが、ちょくちょく水俣にはいきました。
外国に行き帰って来るとついぶらっと水俣に行きました、不思議な関係です。
水俣の歴史は1世紀を持って生き証人は消えてゆくと思いますが、あと40年生きられないが、5年間は水俣を追いたいなあと思っています。
陰に陽に目に見えない複雑な出来事があると思います。

1964年の韓国 国交正常化の1年前に行きました。
学生デモの写真、日韓国交正常化反対の写真。
連続シャッターはやりません。
「またぎ」 撃ち損じたら駄目で、写真も同様だと思って参考にしてやっている。
幼少の時の体験が作らせている様な気がする。
ニュース映画などを毎週観に行っていましたが、国際情勢の動きを見ました。
それが一つのきっかけで、社会主義運動が村を二分する運動が3年間ありそれを見て、ソビエト、東西が分かれている状況を見て、以後の企画力の上で時代を見る目で役に立っていると思います。
ジャーナリストの職業にとっては傍観する目は重要で、真実みたいなものが読めるときもある。
最近は福島、等の震災のテーマはさらに追いかけて撮りたいと思っています。
福島は水俣と関わっている、保障の問題。
風景の記録は弱い、人間の表情の記録は風景に勝るつ強さがある様に思います。
風景はまた撮るチャンスはあるが、人間の表情はそれはできない。
人間の魅力は被写体としては一級だと思います。
晩年になって写真とは何かとはという事が読めるようになって、写真とは時代の歴史の事実関係の記録、証言だなあという事を実感するようになった。
ドキュメント写真は後世に残る歴史的資料であり記録なんだと強く手ごたえをえて、後世に残ってゆく記録ではないかと思います。
ベトナム戦争にいったが、これは大変な記録なんだと認識しました。
事実の記録をやって来たので、職業上醍醐味を得ました。