2016年4月18日月曜日

垣内俊哉(車いすの起業家)   ・障害は価値あるものに変えられる

垣内俊哉(車いすの起業家)   ・障害は価値あるものに変えられる
27歳 愛知県生まれ岐阜県育ち 骨がもろく折れやすい骨形成不全という病気で小学校5年生から車椅子で生活しています。
高校生の時に歩けるようになりたいと、休学して手術とリハビリに励みます。
しかし術後の経過が悪く、自分の足で歩く夢はかなわないと知った垣内さんは絶望の中で自らの命を絶とうとした時もありました。
その後垣内さんは歩けなくても出来ることを探そうと猛勉強して大学に入り、出会った友人と 6年前に会社を興してバリアーフリーの地図を作る仕事をはじめました。
その後障害者のための商品の企画開発等業務の幅をひろげてきました。
誰もがストレスなく過ごせる社会を、2020年の東京オリンピックパラリンピック開催までに作りたいと取り組んでいます。
障害は価値あるものに変えられると3月に出版した著書にも書いてある垣内さんに伺います。

会社のテーマカラーとしてオレンジ色を統一して使っています。
車椅子に乗って生活していますが、視点の高さ106cmの高さ、この高さだからこそ気づける段差、不自由さ、不便さ、バリアーフリーという言葉で建物の在り方が考えられてきましたが、あくまで障害者の為だけでしたが、これからは障害者だけでなく、高齢者、子育て中の人、みんなの為に使いやすい建物、製品、ユニバーサルデザインという考え方が行きとどいた環境作りを進めていこうと、提言している会社です。
宿泊施設、結婚式場 、レジャー施設、交通機関などの使いやすさを変えてゆく、提案する事、ハードを変えてゆく事を行っています。
ハードを変えられない現状が多々ありますが、ハートを変えてゆく事はできるので、意識のバリアーを解消してゆく、ユニバーサルマナーを提唱しています。
2011年から障害者や高齢者との向き合い方を一つのマナーとして考えていこうという動きです。

障害者の人になんとなく向き合ってきた様に思いますが、例えば車椅子に乗って食事をするのか、椅子に移りたいのかを聞いた方が、正しい接し方です。
1万5000人の方が受講していただいています。
私の会社では障害のある人を採用しています。
視覚、聴覚に障害のある人が、それぞれの経験を多くの方がたにユニバーサルマナーをお伝えしています。
スマートフォンでも情報を発信していこうとしています。
バリアーは3つあると思います。
①環境のバリア
②意識のバリア
③情報のバリア
車椅子で入店できるお店は国内では5~10%と言われている。
この5~10%について情報発信していかないと行けないと思っている。
段差も1段なのか何段なのかとか、細かい情報が必要です。(1段なら車椅子でも可能)
クレジットカードが使えるのかどうか、視覚障害者にとって重要。(現金の使用は大変)

情報を集めてゆく事で行きたいところが行けるのか調べやすくなる。
理想としては世界中の地図に載っている建物に全ての情報がのっているところですが、2020年迄に日本全国100万か所の飲食店、ホテル等、様々な施設の情報が載っている、それをこれから協力してもらいながら集めていこうとしています。

幼少期はサッカーをしたりして遊んでいましたが、骨折は20回以上、手術は10数回と人生の1/5は病室で過ごしてきました。
「歩きたいいつかみんなと走りたい」 幼少期の川柳 (母から見せてもらった)
小学校は普通の学校に行きましたが、多くの反対はありました。
当たり前のように過ごせたのは母が何時まで経っても障害という事を持ちださなかった、本人が特別な存在であると言う事を周囲に見せなかった、ほんとうは辛かったことだと思いました。
母の存在は大きかったと思います。
5年生の時から殆ど車椅子での生活になりました。
牛乳を配ることは出来たのですが或る日遊んでサボっていた時があって、友人は怒られて私だけが怒られなかった。
障害者だから仕方がないと思われて、そうした壁があることを認識しました。

中学での通学路に段差があり、この段差を解消する事を学校の授業としてやってみようと先生がおっしゃって、市などに掛け合って予算を頂いて、生徒みんなで段差にスロープを付けると言う事を行って、これは非常にいいきっかけだったと思います。
修学旅行には母親が一緒に来ることにたいして、耐えがたい事だったので、2日目を一人で行く事を希望したが、先生に特別扱いしないと言う事が特別扱いする事になると言われて、言い返せなかった。
この時歩きたいと言う思いを強く感じました。
高校は4階建でエレベーターが無くて、友人に車椅子を持ってもらわなくてはいけなかった。
周囲を顔色をうかがいながら、生活する事に疲れてきた。
周囲の壁をあえて作るために、髪の毛を金髪に染め、ピアスをいくつも耳にいくつも付け、煙草も吸い、多くの人から離れるように壁を作ったのがこの時でした。
高校1年の時に彼女が車椅子を押してくれることにたいして、情けない、かっこ悪いと思いました。
デートした時に手をつなごうと言ってきてくれて、彼女にまで冷たい視線が送られてしまっては彼女に辛い思いをさせてしまうのではないかと思い、車椅子を片手で漕ぐのは大変だからと嘘をついて手をつなぐことを断った。
恋人なんだから手をつなぐのは当たりまえでしょ、それぐらい練習してほしいと言われて、一生懸命練習して、手をつないでデートに出かけるようになった。
或る日手をつなぐと言う本当の理由に気付く事になった。
坂道を移動している時に、車椅子だと段々遅れてくるので、彼女に引っ張られるようになる。
ここから自分で漕ぐと、繋いでいた手を離そうとしたら、車椅子を押すなとは言われたけど引っ張るなとは言われたことはない、と言われた時にようやく有難うと彼女の優しさ、サポートを受け取ることが出来ました。
車椅子に乗っている事が恥ずかしい、かっこ悪い、情けないと想っていましたが、こうした形で向き合ってくれる人がいることが、私にとっての一つの救いとなりました。

歩けない生活の限界を感じて、障害を克服したい、歩きたいという思いがあり、そのためには学校を休学する必要がありましたが、簡単には回りは同意する事はできませんでした。
高校1年冬、一人大阪に出てきました。
両方の足の曲がった骨を何箇所か切断してそれをまっすぐに繋ぎ直す、8時間のおおきな手術だった。
骨がくっつかなかったりして、このまま治療を進めていても歩くことは難しいと言われてしまい、生きる目標は足で歩く事、障害を克服する事だったので、絶望の淵に立たされるような状況になりました、17歳の6月でした。
病院の屋上から飛び降りようとしたが、柵をよじ登ることすらできずに、死ぬことも出来ない、ただ泣くだけの生きる希望のない無気力な日々を送ることになりました。
毎晩枕を押しつけ周囲に気付かれない様に病室で泣いていたが、向かいに富松さんがいて、声をかけてくれた。
いろんなことを話す様になって、自分の想いを伝えた処、登り切った景色を見たのか、まだ道半ばじゃないのか、まだやり切ってもないのに歩けないと決めてしまってもいいのか、人生はバネだと、今は縮んでいる辛い時間なんだろうと、いずれバネのように伸びる瞬間があるはずだと、だからそれを信じて今を乗り越えなさい、それからリハビリを一生懸命やっても歩くことはかなわなかった。
全力でやったからこれで諦めることが出来たんだと思います。
17歳の冬、足で歩く事は諦めて、歩けなくても出来ることを探そうと、新しい夢に向かって歩み始める事に、この時決めることが出来ました。

周囲から認められる存在になりたいと言う思いから事業を起こして、大儲けして、周囲にちがった存在として認めてもらおうと、自分で自分のことを好きになれたらいいなあと、思いました。
高校は退学して、高卒認定試験の勉強、大学受験の勉強をしようとしました。
偏差値も30台でしたが、1年間1日12時間位勉強して同級生と同じタイミングで登っていきたいと思いました。
車椅子では通えない大学もあるので、立命館大学は通える大学だった。
受験2週間前、車椅子が転倒して寝た切りで勉強して、受験当日は民間の救急車で運んでもらって、寝たきりで試験を受け、合格の結果を得ることが出来ました。
お世話になった方々からおめでとうと言われた瞬間は今でも忘れないです。
学費、生活費をまかなうためにアルバイトをしようと思い、ホームページを制作する会社に行く事になりましたが、パソコンで座ってする仕事かなと思ったら営業の仕事だった。
20軒程度しか回れなかったが、そのうち時間が経つうちに一番成績が良かったのが私でした。
車椅子で行くので行く先々で忘れられることはなかった。
社長から歩けないことに胸を張れ、車椅子に乗っている事でお客さんに覚えてもらえるのは、それは営業マンにとっては大きな強みだ、結果につながっている以上お前の強みだと言われて、その日の夜涙が止まらなかった。

歩けないからこそできること、それを日本中、世界中に広げていく事ができたらと思う様になりました。
大学の友人と20歳の時に起業することに至りました。
(地震情報の為、中途となってしまいました)