2016年10月24日月曜日

岩崎 淑(ピアニスト)          ・音楽さえあれば生きていける

岩崎 淑(ピアニスト)          ・音楽さえあれば生きていける
岡山県出身ピアニスト 79歳の今もピアニストとして世界で活躍する岩崎さん、幼いころから音楽教師の父仙蔵さんと共に、戦争中空襲のさなかでもピアノの練習が第一という生活を崩しませんでした。
20代で当時珍しかったアメリカやイタリアへの海外留学を経験したのち、チャイコフスキー国際音楽コンクールなど様々なコンクールで業績を上げ、現在は音楽でお世話になった人達の恩返しをしたいとコンサート活動を続けています。

父は兎に角音楽の好きな人でした。
台湾の女学校、中学校の音楽の先生をずーっとしていました。(5年間)
父は疫痢になって、何とか命を取り留めて日本に帰ってきて、その後ピアノを父から勉強しました。
台湾からの引き上げ船は、船と空から守られていたが、前と後ろの船は魚雷にやられて沈没してしまいました。
昭和20年6月29日の空襲の時には岡山に住んでいました。
逃げる訓練は学校でしていたので凄く早く対応でき一番最初に家からでたが、それを見た父が慌ててしまって父が大切にしていたバイオリンは焼けてしまった。
母は1歳の弟と重要書類を抱えて、4人は旭川の河原に逃げた。
岡山城が焼け落ちるのを見ました。
歩いて行く間に木のそばに沢山死体が転がっているのを見ました。
家が有った方に戻ったら、あたり一面焼け野原だった。
父が好きだったレコードも丸い形があっただけ、掘り起こしたらピアノは弦だけが残っていた。
これが戦争だなあと言ったが、音楽が有るから大丈夫と父は叫んでいました。
父の友人、教え子とかが楽譜を送ってくれたりしました。
戦後、父のお弟子さんの離れを提供してもらって、ピアノは友人から借りて私に教えていました。
敵国のものをやっていると言われるからと言うんで、カーテンをして音が漏れないようにして暗いなかでピアノの練習をしていました。

毎日どの音楽家の曲をどのくらい練習したのかと棒グラフをつけたりしていました。
6時半に起きてピアノを練習して、父が出かけてから食事をして学校にいったりしていました。
小学校3年生だったが、中国、四国音楽コンクールが有って一般の人がでていたが、それに出ました。
新聞にも出て話題にもなりました。
中学、高校は東京に行きました。
アルバイトでピアノを弾きましたが、左幸子さんとか有馬稲子さんとかにリクエストしてくれました。
その時にクラークさんという人に留学する気はありませんかと聞かれたが、お金が無いからいけませんといったら、名刺をくれました。
23歳の時に一般の毎日新聞のコンクールに出ました。
本選が弟と一緒で弟は一等特賞だった。
予選第一、第二は第一位だったが、左手にミスが有って5位だった。
日本ではこのままでは勉強できないと思った時に、クラークさんの名刺を思い出し探したら出てきて、手紙を書いて送ったら、テープを送ってほしいと言う事で送ったら、大学で奨学金を出してくれることになりました。

飛行機ではいけないので貨客船に乗って12日ぐらいかかってシアトルに行って、そこから飛行機でニューヨークまで一人でいって、ハートフォードまで行きました。
クラークさんのところは2台のピアノが有りました。
朝5時に起きて家からバス、汽車に乗って1時間半位かかってハートフォード大学に行きました。
このままでは身体を壊すことが心配で、広告を出したら、或る人が部屋を提供してくれて、食事は2年間一切払わなくて済んだ、ラッキーとしか言いようが無かった。
日本は戦争をして大変な思いをしたが、アメリカ人って本当に寛容で親切で温かい国民だとつくづく感じました。(敵の国の人という様なことはまったく感じなかった)
大学では日本人は私一人だったが、みんなに親切にしてもらいました。
大学では一日7時間練習をしました、2年間のラタイナ先生のレッスンが無かったら、今の私はなかったと思う。
桐朋学院ではトップで卒業して貴方は何もかもできていると言う事でアメリカにいったが覆されて、座り方、基礎からやり直しました。
野球もフォームがあるが音楽にもフォームが有る。

肺の一部を手術して、ソリストは断念した。
薬を飲んでいたが、喀血を起こしてしまったが、30歳で最後のチャンスなのでミュンヘンの国際コンクールで弟と共に参加して、ここでもう死んでもいいと思った。
8週間練習をしても血は出なかった、29組で3位を取って喜んでニューヨークに帰ってきたら、がーっと血を吐いてしまって、救急車でたらい回しをされて、死ぬかと思った。
3軒目でたまたま日本人の先生がいて、米国の一番いい先生を紹介してくれて、石灰化した肺の部分を取れば大丈夫という事で、1週間後に5時間掛かって手術したが、失敗したら死んでしまうのかなと思った。
手術後1週間で車椅子に座ってピアノを弾いてみたら、弾く事が出来、本当にうれしかった。

外国人が一人入ると練習の時から違う、音楽を本当に楽しくする、日本人は真面目だから物凄く
硬い感じになる。
兎に角音楽さえあれば私は幸せだったので、父の言葉通りに一生懸命やってきたが、それには色んな人の援助、教えてもらったことが多くて、音楽に対する愛、そういったものがいつもあります。
若い人には、父が言っていましたが、前進あるのみ、情熱と音楽に対する愛情が有れば皆さん続けられるし、続けてほしい。