2016年10月31日月曜日

寺井一通(合唱団「ひまわり」主宰) ・平和を歌う 語り部合唱団“ひまわり”

寺井一通(合唱団「ひまわり」主宰)・    平和を歌う 語り部合唱団“ひまわり”

長崎に世界でただ一つの被爆者合唱団ひまわりが有ります。
12年前に結成して指導している音楽家の寺井さんのお話です。
67歳の寺井さんは合唱団が歌う曲全てを作詩作曲してコーラス指導も続けています。
現在ひまわりは平均年齢77歳、43名の団員がいます。
平和への想い、原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさを伝える歌う語り部ひまわり、彼らが歩んできた12年間を伺います。

長崎の記念式典で歌う様になって、今年で8年になります。
毎回おなじ歌を歌っています。
1979年あたりから、NHK長崎の依頼で原爆をテーマにした詩の募集が有り、それをピックアップした詩に曲を付けてほしいとの依頼が有りました。
インタビュアーとしても動いてほしいとの要望が有り、初めて恵の丘長崎原爆ホームにお邪魔して生の被爆の人達から声を聞かせていただいた時から、音楽家と言ってもいいのかなあとの意識が生まれました。
それがきっかけとなり被爆者との付き合いが始まりました。
被爆者の代弁者としての歌い手という事で、30数年歌い込んできた歌をひまわりに今託して歌っていただいています。
あるきっかけで、「明日こそきっと」という曲、他6曲のアルバの製作をしました。
ある被爆者の方から次のレコードは?と問われて、被爆者自体が歌うことによってもっともっと違ったものが伝えられるのではないかという事と、あんな楽しいレッスンだったらもっとやりたいとの事もあり、2004年の11月に合唱団が出来ました。

19歳から歌う様になりました。
大学でフランス語を専攻してたので必死になって訳して、気持ちはシャンソン歌手になっていました。
大学3年の秋に、中退をして親に伝えたら勘当されてしまって、仕送りもストップされ、それでも歌っている喜びの方が大きかったです。(歌は独学でした)
譜面を書こうと思ったら書けました。
赤坂にある玄人向けのちっちゃなバーで、仕事をしながら、歌う歌を聞いて、レッスンは受けなかったが、そういったことが続いて、又歌声喫茶で司会をする仕事をして、オールラウンドの曲をそこで歌いました。
2004年の11月に合唱団が出来ましたが、12~3人でした。
「ひまわり」という名前にしました。
皆さんの話を丁寧に聞いて創作に入って行きました。
松谷英子さん 原爆認定訴訟を一人で戦った彼女もいました。
皆さん、音楽的素養は一口で言うと皆無でした。
歌声喫茶で司会をする仕事とは責任の重さが違っていました。
発声を一から、ということはしませんでした。

どういう風に表現してもらえるのかという事と、自ら体験したことを自分の身体を通して歌うので辛いので、涙を流し声を出せない人もいたので、このふたつの壁にぶつかりましたが、1~2年経つと精神的な強さも出てきました。
私の作詞作曲なので、こんな曲が有ったのかという声を聞きました。
よく頑張って歌ってきてくれたと思います。
よく私達の気持ちをよくぞ判りますね、という様なことに激励されながら頑張ってきました。
被爆65年の時に平和祈念式典で2曲歌わせてもらいました。
昨年は50名を越える様な会員数になりました。
昨年、5月にニューヨーク 10月にドイツのミュンヘンに行く事が出来ました。
その前年、通訳をしていた女性がひまわりの存在も知らなかったが、「もう二度と」という曲を聞いて、痛く感動したと言って、来年秋にドイツに言って歌ってくれないとの事だった。
ニューヨークからも誘いが有り、とにかく行こうと言う事になり、渡航費を含めて自己負担だったが、何とかそれぞれ工面して、ニューヨークには17名、ドイツには34名が行く事が出来ました。
カンパ、街頭募金などでも渡航費の一部に充てました。
ニューヨーク では高校でやったり、核兵器削減コンサートでトリを取って歌わせてもらいました。

音楽を中心にしてやるのが主なコンサートですが、そこでは被爆者の方に5~10分体験談を語って頂く、集いの中に音楽がちりばめられているような感じでした。
高校では5曲、核兵器削減コンサートではラストで3曲を歌わせてもらいました。
「もう二度と」、「浦上」、ウイー ネバー フォゲット」 鳥肌が立って、拍手がなりやまなかった。
ドイツでは声を出さず、ずーっと拍手が続いていて、これこそ音楽だと思いました。
自分の音楽生活の中で、まずめったにあるものでは無かったです。
あらかじめパンフレットには曲の内容は記載していましたが、みんなは凄く感じながら歌ったと思います。
私達でなければ伝えられないなにかが有ると言うことは、ひまわりのみんなは判っで来たのではないかと思っています。
12年の間には、色んな誤解があったりしましたが、自分が体験したことを声にするということは精神的に強くなければいけないし、皆さん苦労したんだと思いますし、いまだに苦労していると思います。
高齢化して歌詞をなかなか覚えられないと言う様な人も出てきたりしていますが、8月9日は見ないで歌う様に厳しく言っています。
今一番大きなテーマはあと何年歌えるのだろうかと思います。
最高齢者は90歳、若い人は70歳(胎内被爆)
自分の有る限り、声を出せる限り歌いたいと言う思いは皆さん持っています。