2016年10月6日木曜日

坂本スミ子(歌手・女優・幼稚園園長)・ラテンのリズムは私の宝

坂本スミ子(歌手・女優・幼稚園園長) ・ラテンのリズムは私の宝
1936年大阪市の生まれ 79歳 NHK大阪放送局放送合唱団を経て、昭和33年、22歳の時にラテン歌手としてデビューしました。
その後トリオロスパンチョスの日本公演で共演して、ラテン歌手として名が知られるようになりました。
昭和36年NHKの人気番組、「夢で逢いましょう」のレギュラー出演、紅白歌合戦で連続出場するなど、女優としても活躍しました。
昭和58年今村昌平監督の楢山節考では主演女優を演じ、カンヌ映画祭グランプリを受賞に輝きました。
坂本さんは20年前から熊本市で聖母幼稚園・幼愛園の園長として、幼児教育にも携わっています。

結婚した主人の後を継いで、幼稚園の園長を引き受け、経営にも入っていきました。
60年間好きな歌を歌い続けてきて、歌うことに対して、子供達と一緒にいられると言う事が、こんな素晴らしいプレゼントはないと思っている。
子供と言うのは大人よりすごい、感覚、物事を覚える、学ぼうと言う事に敏感な子たちです。
子供達は600人います。
子供は素晴らしい、大人はあほや。
大人は嘘を付いたりどんどん良いことを忘れていって、良い自分だった、子供の頃を忘れて失敗をする。
今、熊本は大変です、立ち直ろうと、一生懸命力を振り絞って、取り戻すために頑張っています。
保育園も傾いて、立てなおすために大変です。

昭和11年生まれ、ミッションスクール プール学院高等学校を卒業、昭和30年NHK大阪放送局放送合唱団に入団、昭和33年、22歳の時にラテン歌手としてプロデビューしました。
歌手になろうとは思っていなかったが、コーラス、演劇が好きだった。
気がついたら自然にラテン歌手になりました。
トリオロスパンチョスが日本に来て、前座をして歌ったら惚れこんでしまって、ラテンしかないと思いました。
大阪弁はラテン系、リズムが有ります。
昭和36年NHKの人気番組、「夢で逢いましょう」のレギュラー出演する。
北島三郎さんは「夢で逢いましょう」で歌ってます。 多くの人が有名になる。
紅白歌合戦で連続出場する。
昔はシャンソン、演歌、民謡、童謡の部という様にはっきり分かれていた。
熊本城が壊れてしまって、無残な姿になってしまいましたが、早く元に戻れるようにと願いながら、夢で逢いましょうという歌を紅白で歌いたいと思っています。
自分がお世話になった熊本のことを思って、夢で逢いましょうを歌って、皆の心を実現できるように頑張ろうと、その一つの力になればいいと思っています。

映画で今村昌平監督の楢山節考では主演女優を演じ、カンヌ映画祭グランプリを受賞。
賞を貰おうと思ってやったわけではないが、沢山の賞を頂いた事は誇りに思うし、感謝しています。
せっかくでき上った素晴らしい映画だったので、カンヌでりんご箱の上に乗って歌ってキャンペーンをして、皆さんに振り向いてもらいたかった。
この時代はもう目の前にいるよ、病気の親を見ることができず、施設に入れて、箱の中に閉じ込めて、死んだらお骨も取りに来ない、そういう世が目の前に迫っている、世界中がそうで有るんだと僕は思っていると、監督はしっかり言いました。
親を捨てに行くと言う、ざっくばらんな物のいい方ですが、そういった苦労をして木下監督も撮られたけど、今村監督は、違う、僕は世界中がこうして動いて行って、親を親と思わず捨てに行くと言う事が平然と行われてゆくのが、これからの人間の生き方みたいな気がする、と言われた監督の考えも凄いなと思いました。
それから5~6年経って、そういう世の中に日本国中、ドイツも、どこそこもそう、結果的にはそういうことが行われてしまってきている、そういう現実が私達の目の前にぶら下がっています。

あの映画に出て物凄い女性に出会いました、おりんさんはつましく正直に生きて、子供達を守って愛を授けましたが、おりんさんも70歳になり、人生を十分に終えたので、親を神様のところにつれていきなさい、それで初めて子供への教育が終わると言う、自分の命に替えてやられたおりんという凄い女性を演じることによって、私は完全におりんさんと出会いました。
この映画に出会い、おりんさんに出会ったことは素晴らしい喜びで、感謝です。
頑張っていきたい、仲良くなっていきたい、喧嘩はあかん、戦争もあかん、楽しいこともあるので頑張っていきたいと思う。
子供にどんな愛をどう沢山かけるか。
優しい愛情のあげ方をちょっと考えたらいいと思う。
楢山節考は山の神さまに、もう十分に生きたから会わしてもらって御礼に行こうなあお前、と言って息子に話をしながら神様に会いに行くというおっかあの優しさ、これが大事ですよ、と私はこの映画を通して、もっともっと大事なことは優しくて一杯あると思います。