2016年11月10日木曜日

中谷藤市(大阪市)       ・極秘裏に散った弟の命を忘れない

89歳、昭和25年に始まった朝鮮戦争 開戦直後の10月、今の北朝鮮の東部の海に、米軍の要請で日本の海上保安庁の掃海隊が極秘裏に向かいました。
そのうち一隻に乗り組んでいたのが、藤市さんの弟、中谷坂太郎さんでした、
坂太郎さんの乗った船は北朝鮮の敷設した機雷に触れ沈没乗組員23人のうち、坂太郎さん一人がなくなりました。
21歳でした、しかし戦争放棄を歌った新憲法の施行直後という時期だったため、数十年にわたって家族や関係者には米軍や政府から緘口令が敷かれ、その事が世間に広く伝わることは有りませんでした。
坂太郎さんの死から66年、弟の死を多くの人に知ってもらい、今改めて平和を考えるきっかけにしてほしいと訴える、藤市さんにうかがいました。

亡くなって、一週間経過した時に米軍の将校、2名、通訳が1名、海上保安庁関係者が3名、突然来て、父に対して坂太郎さんが掃海作業中に北朝鮮の機雷に触れ、一名行方不明になっており、遺体も上がっていません、と言われた。
10月17日に事故があり、一か月後、11月27日呉で弟の保安庁葬が盛大に行われた。
父親から、緘口令がしれて一切公開してはならないとの事で、出席するために3日間の休暇願を出さなくてはいけないが、その説明ができなくて、休暇が取れなくて出席出来ない。
父は大正天皇の近衛兵だったので、素直に受け止めざるを得ないと言う感覚だったようです。
終戦当時の日本人の感覚は敗戦国で劣等国なんだと、そういう事故があってもそういうことはできなかった。
私は満州国の特務機関の諜報機関でした。
相手のスパイの通信士を逮捕する仕事でした。
暗号電報が発信されたら、スパイ無線だと勘で判るので、方向探知機で一定の方向に行き、変装して歩いて、別の検挙隊員がいて、そこの住民を全部男も女も子供も検挙するわけです。
取り調べて用が無くなったら、殺されてしまう、無残なものです。
国に逆らうと言う事が恐ろしいものだと体に沁みついていた。
だから従うしかなかった。
死に対する感覚が、国のためには自分の命を捧げる、そういう心情でした。

最後に会ったのが、弟が5月11日に神戸に寄港すると言う事で、久しぶりに会えると言う事で、彼は調理を担当していて美味い食べ物にもありつけたし喜んで会う事が出来ました。
艇長に頼んで船の中で話をして、宿泊させてもらいハンモックで寝ました。
元気でなあと手を振って別れたのが最後でした。(まだ朝鮮戦争が始まってなかった)
最後とは予想だにしなかった。
弟が亡くなってから、殉職の実態を知りたかったが、判らなかった。
調査を始めたのは27年ぐらいからです。(2年後)
関係者だから実態を知っているので、問いかけをしたら教えてくれるだろうと思いました。
乗組員の名簿を手に入れて、大阪在住が3名いたので、この人達に聞きました。
3人共口を閉ざして教えてはくれなかった。(緘口令がしかれていた)
弟の友達の住所を教えてもらって、手紙をだしたら、写真を送ってくれました。
この写真のおかげで周りの人達の対応も変わってきました。

掃海艇に対して海上保安庁の本部から下関の唐戸桟橋に掃海艇全部集合せよという事で集結したが具体的内容の説明は無くて、10月8日に下関を出港して、38度線に到着した時に初めて全隊員に北朝鮮の掃海作業に、米軍の上陸支援の為の掃海作業を行うという具体的な説明があったようです。
弟の乗る船には乗組員が23名が乗っており、11月17日午後4時ごろに船が一斉に並んで掃海作業をした模様です。
隊員はぜんぶ甲板上で作業していたが、弟は食事の炊き込みの事前準備をしていた様で、一人でハッチにはいった瞬間に船は木っ端微塵になり、隊員は海面に浮いていて、弟は即死の状態で船体と共に原形をとどめない状態に爆破されたのではなかろうかと言う風に聞いています。
16名は重軽傷だった。

昭和53年、海上保安庁長官の大久保武雄さんが「海鳴りの日々」という手記を出版。
これで公になって、我々家族に敷かれた緘口令が解除された。
或る日、海上保安庁長官の大久保武雄さんが訪ねてきた。
長官とは知らなかったが、弟さんの殉職について緘口令を敷かれたことで大変ご迷惑をおかけしました、とお詫びを述べてくれました。
これで永いこと緘口令が敷かれて公にできなかったことが、国が朝鮮戦争で殉職したことを正式に認めていただいた、これで公にできると言う事で、ホッと、安心感がしました。
叙勲をいただきました。(戦没者として認めてもらえた)
記録集 作る時にはすでに叙勲をいただいた後なのですが、更に個人として弟のことを公にしたいと思って発刊しました。(200部)
市民に語りかける活動もしてきました。
そんな事実もあったのかという様な感想でした。
弟の死をもっともっと公にして認識を持っていただきたい。