2016年11月17日木曜日

西山利佳(子ども学科准教授)  ・児童文学は魔法の鏡

西山利佳(青山学院女子短期大学子ども学科准教授)  ・児童文学は魔法の鏡
戦前戦中の反省から児童文学者たちに依って昭和21年に設立された日本児童文学者協会に学生時代から魅かれ、25年前に入会、現在常任理事を勤める西山さんは今年30年間勤めた中高一貫の国語教師から青山学院女子短期大学子ども学科准教授に変わりました。
西山さんは学生たちに児童文学とは子供という異文化理解の窓であり、過去の自分と再会させてくれる魔法の鏡であり、希望の友達だとメッセージを送り授業を進めています。

簡単に言うと子供向けの文学だが、境目が凄く難しい。
日本児童文学大会があったんですが、森絵都さん(直木賞作家)は児童文学も書いている。
読者対象を誰に意識するか、で結果的に変わってくると森さんは言っています。
子供というと中学2年生が読むものを児童文学、と一般的に言われたりもしますが。
メインターゲットは小学生という事を大事にしたいと思います。
子供の本を通してわすれてしまった子供時代の感覚を思い出されたり、自分が何を持っているか、口に出せないので、子供ってこういう事が悔しかったり、嬉しかったりするんだという事を知らせてくれる事を意識した読み方をして欲しいと思います。(客観的に)
色んなものに触れて心が耕される経験というのは大事だと思います。
大人の人にも読んでもらいたい、自分の子供時代に会えるんですね。
読んで自分の心が照らされることもあるし、理解者を得た様な気もするので、若い人は通り過ぎた時代を児童文学を読んで自分が納得できたりするのではないかと思う。
子育て世代は子供理解のカギになりますし、孫と読むことで再会されるかもしれない。
鏡に映すことで、自分の顔を知る様に、本を通して自分の気持ちを知ると言うのがあると思っています。(過去の自分と再会させてくれる魔法の鏡)

私立の中高の一貫校で国語の先生をやっていました。
担任でもなかったので、生徒を前にして云いたかったこと話したかったことがいっぱい出てきて、それを書きたいと思って、通信を書く様になりました。
内容は「媒」である、という意味は刺激しあいたい、何か投げかけることによって化学反応が起きるのではないかと思って、思い出した本を紹介したりして、化学反応が起きればいいと思いました。
授業は授業なので、書く事でフォローしたいと思いました。
書いたものならば見ない、途中でやめると言う自由があるので、書いた方が思いきって伝えられると思いました。
今大学では聞いてもらえると言うのがあるので、通信は止めました。

芥川 「蜘蛛の糸」 赤い鳥の創刊号に載った。(大正7年)
子供の文学という時には古典的な名作、大人の小説として書かれていた物を入れると言う時もあります。
古典的な名作を読むのも、持っていきようだと思います。(私が面白がることができたら)
羅生門等もとことん読み込めます。
細かい描写に気付く事の楽しさに気付いたら、色んな事に気付き始めます。
アニメバーサス児童文学の特集が組まれて私も書いたのですが、原作が児童文学でアニメとか映画化されたものがいっぱいありますが、児童文学は言葉だからこそという事を意識すれば、別のジャンルとして勝ち負けじゃないと思っています。
目にも見え、音が付くという事になれば、当然負けますが、作品を読みながら風、季節の匂い、味を感じたりとかは言葉だからこそと思っています。
絵にされない面白さがあると言う事に気付いた子は本から離れて行かないと思います。
原作と映像を交互にやってみると、つまらないと思うか、面白いと思うのか。

戦争児童文学のジャンルが確立していますが、今の様に始まったのが1959年がスタートになっているというのが定説になっています。
児童文学の最初の時代を作った人達は一回自分の子供時代を戦争によって失われたり、変な価値観で塗りこめられたりしたものを、もう一回立て直さなければ行けなくて、その時に大人の小説よりも、シンプルで真実が書いてある子供の本という事に行ったらしい。
人間の一番大事な事がそこに書かれている、そこから始めないと自分を立て直せなかったという事を言っています。
戦争体験世代の方たちと自分達とが隔絶しているように感じた。
戦争体験世代の方たちは根っこがどっしりあってだから戦争に反対だと自信満々に言っている。
8月15日の体験を原体験原風景としてあって、それを核として自分があると言うが、経験が無いのでそれは困ると私は言ったんです。
体験が無い私達には戦争反対という資格が無いのかといったんですが、橋渡しが必要だと思うんです。
判っている人が判らない人に向かってなにか言おうと言い続けている限り、届かないのではないかと思いました。

個人の体験はみんな違うので、隣の人の体験は自分では知らない訳で、そういう意味では断絶があると思う。
体験をどう受け継いでゆくか、語り継ぎ部、そういう感覚が大事だと思います。
児童文学全体は大人のメッセージが多かれ少なかれあるので、戦争がテーマになると一層熱く伝えたいと言う思いがあるが、子供主人公が自分でやりたいということは、やりたいと言う気持ちは時代が変わっても同じだと思う。
話の中に寄り添える感覚を持った人物がいるかどうかが鍵なような気がする。
橋渡しになる間になる大人は大切だと思うが、私は作り手側に近くて、日本児童文学者協会で新しい戦争児童文学で言っているところです。
日本児童文学者協会には学生時代から関わってきましたが、戦争、いじめ等色々ありそれらの関係は物凄く広がっています。
友達関係、貧困、ヘイトスピーチも出てきました。
今の時代のリアルなことから迫りたいと言う人達も沢山います。
取りこみながら読んでもらう工夫も最終的に逃れられない。

図書館 学校図書館 作家が自ら出ていって話してもらう事で興味を持ってもらうこともあるし、作る側も魅力的に作りたいと言う思いはあります。
笑ったり泣いたり、同じ人間なんだと実感できてこそ、その人たちが酷い目に遭った時に一緒に怒ったりなんて酷いんだと実感できると思う。
或る作家は、物を書くと言うことは、必ず誰かが傷つくと言う事もあるんだと言う事を覚悟の上で、という風に言っています。
八方美人になって、結局は何も語らないと言う事になっても困ります。
本というものは柔らかさが無いと、結局はどんなにいいことでもガチカチで、これを信じなさい、笑わずに受け留めなさいと言ったら、戦前戦中と同じことになってしまうのではないか。