2017年11月20日月曜日

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)   ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)   ・【にっぽんの音】
聞き手:大藏基誠 (能楽師狂言方)
式部職楽部、式部は儀式を担当する部署、楽部は楽を司る部署。
音楽には雅学、洋楽ふたつを仕切っています。
楽士として20~60代まで24名がおります。
私は「篳篥(ひちりき)」、クラリネットを担当します。
篳篥(ひちりき)」も管楽器です。
(篳篥(ひちりき)の解説 篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。 発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる。 乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。)

募集の時期に試験に合格した人が楽部での修行ということになります。
15歳からが受験の資格となります。
実地試験が主になっています。
楽師間では下の名前で呼び合います。
東儀家と大藏家(大藏基誠 能楽師狂言方)は遡ると先祖が一緒と言われているが。
聖徳太子に使えた秦河勝氏が私たちの東儀の祖と言われているが、大蔵家と親しみを覚えているところではないたと思いますが。
大藏家も遡っていれば秦家になるので1000年を越えた遠い親せきになると思います。
雅学は1300年以上の歴史をたどることになります。

*「五常楽急」 演奏
仁義礼智信の「五常」の5つの言葉を基本に作られたというのが「五常楽」で、同じ「急」を何度も繰り返して、何回もやっているうちに、一行目と三目の出だしの音にガイドとして「と」と「ち」と言うのがあてはめていて、「とちる」の語源と言われているが、この「五常楽」です。
ガイドとして笛が鳴ったらその頭に戻ると言うことで、何回も繰り返していてるうちに、あいまいになって来ると「と」と「ち」が逆になってしまうと、とちってしまうのが語源になったと言われます。
(「五常楽」解説:雅楽の舞楽および管弦の曲名。舞楽としては左方の舞で,平舞の代表曲の一つ。4人舞で,蛮絵 (ばんえ) 装束または襲 (かさね) 装束で舞われる。平調 (ひょうぢょう) 調子および品玄 (ぼんげん) の演奏のうちに舞人が登台してから当曲 (中心曲) となるが,この当曲は「序」「破」「急」の3章が完備している珍しい例となっている。「序」のあとに「詠 (えい) 」と呼ばれる特殊な章も挿入され,「急」のあとは「入綾」と呼ばれる「急」の章の反復のうちに舞人が降台して退場する。仁,義,礼,智,信の「五常」を,音楽の「五声」に配して作られたものという。)

雅学は日本最古の音楽。
日本に有った様な歌や舞と、中国、高麗等から伝わってきた舞、楽器を元に作られて音楽を纏めて雅学と言います。
現在の形に完成したのは平安時代です。
管楽器、龍笛(唐楽用)、高麗笛(高麗用)、神楽笛(日本古来の演奏用)の3種類の横笛、
縦笛として「篳篥(ひちりき)」、神楽、高麗、唐楽にも使います。
管楽器「笙(しょう)」と言うのは、高麗笛、神楽笛にも使っていないです。
唐楽には笙(しょう)、龍笛、篳篥(ひちりき)が使われます。
管楽器は家々に伝わる伝承の一つで、「篳篥(ひちりき)」を吹きながら笙(しょう)を吹くことはあり得ないです。
他の楽器の事をやる様だったら、ひたすら(只管)やれと、只おのれの家の管を伝承しろと言うのも、語源のひとつで、「ひたすら(只管)」と言うことです。

篳篥(ひちりき)は短いたて笛、長さが18cm位の竹笛、そこに1寸9分ほどの「ろぜつ」(葦:よし)が入っていて、葦を生えているものから取って、茅葺の屋根の様な所に囲炉裏の方にかざして煤をかける、数十年した家を壊すときに貰い受けて、それを削って夏の一番暑い時(湿気のむんむんしている時)に火鉢の前で、削ってそれを素材にして葦舌(した)を作る。
削り方もめんどくさいし、音をよく鳴るように作ることも年季の要る作業で、篳篥(ひちりき)吹きはこれを一生やらなければいけないと言う修行をうけて現在に至るわけです。
「ろぜつ」はお茶に浸さないといけないので時間がかかります。(お湯だと腐ってしまう。)
お茶に浸けると葦の繊維が締まって来る、消毒になる、口を開かせるためにもなる。
湿らせて葦舌(した)の元には「図紙ずがみ)」という和紙がまいてあり、和紙と篳篥(ひちりき)の「ずもち」と言うところに差し込んで空気の漏れがない様にして演奏するのが、篳篥(ひちりき)の楽器の特徴です。
ダブルリードではないと思っていて、筒リードで湿らせて軽く口が開きます。
*篳篥(ひちりき)の音を披露

小さい楽器からおおきな音が出る。
篳篥(ひちりき)の音域は人間の声と同じように1オクターブちょっとぐらいしかなくて、人間の言葉の様に感じると思われる、心に響くように聞こえる。
楽部生活50年になります。
篳篥(ひちりき)を代々やっていたので、子供のころから吹いていました。
12歳で予科生として入りました。
昼間は稽古、学校は夜間に行きました。
遊びたいと思った事もありましたが、使命もあるし、面白さもありました。

*「千秋楽」 演奏
歌舞伎、相撲でも千秋楽と言われるが、雅学の千秋楽は平安時代日本で作られた曲、仏教の行事の最後に必ず演奏されたと言われている事から「千秋楽」と言われたので、舞台などでも千秋楽と言われるようになったと言われています。
















2017年11月18日土曜日

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー
國森さんは人が亡くなる最後の瞬間まで、家族や親しい人達が見守り看病する看取りの様子をカメラに納め、写真の絵本として出版してきました。
これまでに取材した看取りの現場は国内の100以上に上ります。
國森さんが看取りを取材するようになったのは、海外で多くの人の命が無残に奪われる冷たい死を目の当たりにしたからです。
近しい人々に看取られる温かい死を集めた写真絵本に國森さんはどんな思いを託したのでしょうか。

きっかけは戦争取材がきっかけでした。
冷たい死を戦争や紛争地で知って、自分はそんな冷たい死は無くしたいと思いました。
これからは天寿全うできる温かい死を知って伝えて共有して行けたらなあと思いました。
2000年に地元の新聞社記者になり、2003年にイラク戦争を取材、新聞社を辞めてフリーランスになる。
子供のころからいい加減な性格でしたが、戦争だけはやってはいけないと思ってきました。
イラク戦争で、必ず子供たちが巻き添えになって殺されてしまう、そんな人災を抑制するためには現場での報道が不可欠だと思って、新聞社を辞めてフリーランスになりました。
10年で15カ国近くを取材。
イラク、ソマリア、スーダン等の紛争地、ケニア、ウガンダ、カンボジア等のスラム街、孤児の村とか、生活困窮地を回っていました。
特に子供たちが亡くなって行く姿に衝撃受けました。(銃撃、爆撃、病院が破壊され治療が受けられずに亡くなって行く人たち、子供達)
イラクでは車に仕掛けられた爆弾があって、最初は小さな爆発音が鳴って小さな子の鳴き声が聞こえて、皆が助けようと思って車に駆け寄ると、大きい爆発がドーンとして、何人も亡くなり、女の子もいて亡くなってしまった。
写真を撮るかどうか躊躇しているときに、お前がシャッターを押さなくて誰がこれを伝えてくれるのか、写真を撮って世界中の人に伝えてこの戦争を止めてほしいと言われました。
その言葉がなかったら写真は取れてなかったと思うし、報道して世界に伝えることが出来なかったと思う。
その言葉は自分の胸に深く突き刺さっています。

展示会をしたときに、かわいそうだけどどこか遠くで起きた出来事であって、自分とはかかわりがないとか、命がけであなたがいっても日本の社会が変わるとは思えないとか、行くのは自己責任で国や世間に迷惑をかけるなよ、と言う様な事を言われることもありました。
共感してくれる人もいれば距離作って避けて行く人もいました。
身近な人の命を大事に思うことが出来て、それが出来て初めて遠い立場の人の命も思いやることが初めてできるようになるのではないかと考えるようになりました。
温かい死、悲しくも幸せな死を先ず自分が知って、取材したいと思うようになりました。
新聞記事で温かい死を書いてある記事があり、島根県の病院の無い小さな島に看取りの家がある、そこには幸せな死を寄り添って手伝っているヘルパーさんの話が載っていたので、取材に行きました。
2008年から取材を開始しました、生まれ育ってきたお爺さんさんお婆さんがいて、年老いたらそのまま島の中で亡くなって行くのが自然の流れだったが、最近最後は病院でと言うようなことになるが、死ぬ時だけ島を去らねばならないのが辛いと泣いている人たちがいて、何とかしたいと思ったヘルパーさんがその島で最後までいられるように看取りの家を建てたと言うことです。

今年『いのちつぐ「みとりびと」』と言うタイトルの写真絵本12巻を完成させ出版。
看取られてゆく本人、見送って行く家族、医者等の想い、あとがきには自分の思いなどを含めてつづらさせてもらいました。
2008年から本格的に看取りの取材を始めました。
写真と簡単な説明。
100以上の看取りを取材、れんちゃん(当時小学校5年生の女の子)と一緒に暮らしていたひいお婆さん、たけこさんの事は話は第1巻にあり心に深く残っています。
れんちゃんが大きくなってゆくに従っておばあちゃんは足腰が弱くなり、認知症が重くなり、れんちゃんの名前も忘れて行く。
おばあちゃんが亡くなって冷たくなってゆく身体を一杯触って「大事にしてくれてありがとう」と言って手をしっかり握って、おばあちゃんの土色の手とれんちゃんの血が通っているピンク色の手を見て命のバトンが手渡されていると感じました。

三重県との県境にちかい山奥の君ヶ畑という集落、なみおばあちゃんは認知症も深まっているが、長年一人暮らしをしておる。
生まれ育ちも、結婚、育児、家事、旦那さんの介護、看取った人生、なみおばあちゃんの所には息子さん娘さんがいて、或る時急に息子さんが立ちあがっていった時には息が止まっていたが、娘さんの呼びかけにもう一度息をし始め、手を握って「もういいよ」(もうゆっくり眠っていいよ)という娘さんの言葉に安心するかのように、おばあちゃんは完全に息を引きとりました。
おばあちゃんの顔を見ると目から涙がこぼれていましたが、それを見て「これでよかったんやね、ばあちゃん」と娘さんはぼろぼろ涙を流していました、涙の中にもほほえみのようなものが伺えました。
亡くなっていっても心の中に生き続ける、悲しみの中にも或る安心感が生まれて行くように感じました。

最初は看取り、死の現場は、悲壮感の漂う苦しい悲しい辛い現場と身構えていたが実際にその場にいると、エネルギーを感じてしまいます。
冷たいだけの死とは違って、温かさと希望も感じる様なものがありました。
内側にたまっているエネルギーを見て行く必要があるのではないかと段々思うようになりました。
私たちは生まれてくるから死ぬ、それを肌で知ってほしいと思っていました。
『いのちつぐ「みとりびと」』の絵本を学校とか、自治体などにも取り上げられたりしていて、両親お爺さんお婆さんと一緒に読んでほしいと思っています。
死、生、命のバトンというものを五感で感じてほしいと思いました。
小さいころから知ってほしいと思ったので写真絵本にしました。
生老病死は避けては通れないし、逃げてはいけない、逃げられない。
生きていくうえで死を意識して、家族も、自分もいつかそういう日が来る、だからこそ今日と言う日をどうやって生きるのかを強く考えなければいけないと思っています。

自宅で最期を迎える人は1割しかいない。
れんちゃんが住んでいる滋賀県東近江、永源寺地域では自宅で亡くなる方が5割前後です。
都市部では人のつながりが希薄、高齢者人口が増えて行くが、どのように温かい看取りを実現させているのか、取材しないといけないと思って共暮らしに注目しました。
ガン、認知症が深まったりして、身寄りが亡くなったり、家族では介護出来亡くなった人たちが一つ屋根の下で最後まで暮らすホームホスピス(「ゆずりは」)が小平市に有って、2014年春から通わせてもらいました。
最初はぎくしゃくしていたそうですが、一緒に暮らすうちに、同時代を生き抜いてきた苦労を分かち合って、身体、心の苦痛を分けあっていたわるようになります。
皆で看取る温かい旅立ちがあります。
地域によって事情は違うとは思うが、地域地域の人のつながりを築いていけば、その中で温かく満たされてゆく、そういった営みが出来ると思うようになりました。

豊かな看取りが出来る社会とは、大前提は戦争があってはならないし遠ざけなければいけない、社会的弱者に優しい社会が大事だと思います。
命のバトンリレー、あなたが生まれてくるのには両親、祖父母・・・、100万人存在する。
自分の命は何百万人の命もかかわっていることを意識することがないと、他の人、遠い国の人のことを思いやれないのではないか。
戦争、貧困に関心を持ってもらうことが必要だと考えています。
写真を撮る人、映っている人の共同作業で、それを観る人、それぞれどう共鳴するかは千差万別で、自分の人生経験と照らし合わせながら一枚の看取りの写真を観ると言うことで、看取りの写真は自分ごととして、心を膨らませていって捉えていって欲しい。
戦争で亡くなって行く子供たちの事を思い浮かべながら日本のお爺さんお婆さんにカメラを向けて来ました、世界中の子どもたちがお爺さんお婆さんの様に、命を全うして命のバトンを繋いでいけるような世の中になればいいなあと思って撮っています。










2017年11月16日木曜日

飯島春光(篠ノ井西中学校 社会科教諭)  ・教室に残る満蒙開拓の“現在”

飯島春光(長野市立篠ノ井西中学校 社会科教諭)・教室に残る満蒙開拓の“現在”
飯島さん64歳、1930年代から終戦までの間におよそ27万人の日本人が国の政策満蒙開拓のために旧満州、中国東北部へ渡りました。
終戦直後の混乱の中8万人もの命が失われ、家族と離れ離れになった多くの子供たちが中国に取り残されました。
開拓団に全国で最も多い3万3000人を送り出した長野県には、戦後70年以上たった今も中国から帰って来る人がいます。
長野県でそうした中国帰国者の孫、曾孫を教えてきた飯島さんは家族の歴史をしっかり学び堂々と生きていって欲しいという思いを胸に日々教壇に立っています。

中国帰国者の方々が大勢住む団地があり曾孫、10数人が通学しています。
私が勤務した2000年以来、10数年変化なく毎年のように、多くは黒竜江省からの転入生がいます。
旧満州では、遼寧省、吉林省、黒竜江省が有ります。
今でも中国から長野県に帰ってきています。
県の数字では300人近い中国帰国者がいて、2世、3世までで4000人弱です。
今現場の学校に来ている人たちは4世で、赤ん坊の5世を含めると少なくとも1万人いるのではないかと思います。
彼らは日本で生まれて、普通に日本語を話せますが、家に帰ると日本語の不自由な親、祖父母と一緒に暮らしています。
おばあさんが病気のため通訳のために休んだと言うようなこともあります。
言葉の問題、文化、経済が日本とは違うので、さまざまな困難をしいている側面があります。
彼らは日本語は話せないが日本人です。

今から17年前、初めて中国から帰国した子供たちに接して、言葉が判らなくて、クラスメートから聞くに堪えないようなことを言われていたことが多かった。
中には殴り合いのケンカになることもありました。
中国では日本人と言われ、日本に帰ってきたら中国人と言われて、一体自分はどこの国の人間なんだと、振り絞るような叫びで訴えた子供もいました。
中国から帰って来た人々に対して受け入れずに、差別する心があったと思います。
心細い思いでいる転校生にたいして、冷たい態度を取っていた。
転校生が中国から来た子たちと言うことです。
歴史への無知があったと思います。
彼らがどういう空気を吸って、どういうところで生きて来たんだろうと、それを知らないと授業にならないと思って、2002年に中国黒竜江省に行ってきました。
いろいろ交流してきました。
写真を見せて話をしていたら、彼らとの距離がぐっと縮まったと思いました。
社会科新聞に自分の祖父母の事を書いてもらいました。

或る14歳の女性は混乱の中はぐれて、4人の女性たちと逃げたが村人たちに囲まれて、手に鎌などをもった人たちがやってしまえと言って取り囲んだが、村の老人が説得して4人を助け、その後3人は中国人の嫁に貰われていった。
彼女は14歳なので、おじいさんと共に過ごして、結局15歳でその家の嫁さんになりました。
翌年子供が生まれてその子が3歳になった時に、日本のお母さんと連絡が取れて、帰って来いと言われるが、置いて帰る訳にはいかず、11人の子供を産んで現地で生きてきたと言う方です。
或る人は推定2歳で衰弱しきっているところを中国人夫婦に育てられて、小学校高学年で違う村の子と一緒に学ぶようになり、子供達から中国人の生活が苦しいのはお前の親のせいだと言われたそうで、養父母の事を思ってじっと耐えていたそうです。
中国の学校の先生はこの子のせいではないと守ってくれたそうです。
又収容所に入って兄、弟1人が死んでしまって母と弟と3人になってしまって、がりがりにやせ細ってしまって死を待つばかりだった、当時15歳でここで死ぬと言ったが、中国人が入って来て助けるので家に来なさいと何度も言われて中国の家に行き、段々体が回復してゆき、翌年昭和21年に母と弟は日本に帰ることになり、その方に3カ月経ったら迎えに来るから残りなさいと言われた。
助けてくれた御礼としてお嫁になりなさいと言うことだったようで、中国でずーっと生きて来たと言う人もいました。

中国から帰った生徒たちは、彼ら自身も祖父母が中国で助けられたことはわかっていても、詳しい状況はよくわかっていないので、極限状態の中どのように失われたのか、助けられたのか、それが自分にどのように繋がっているのか、歴史をきちんと知ってほしいと思いました。
彼らは必ずルーツと直面する訳ですが、祖父母への感謝を胸に収めながら堂々と生きていってほしい。
自分の一族の歴史を知ってお互いを尊重し合える大人になってほしいと思います。
本格的に或る方の事を授業で扱ったのはその方の孫がいるクラスだった。
おじいさんは開拓団でソ連が攻めてくるなかで集団自決をすることになり、当時14歳だった彼は俺は生きて帰りたいと言うことで、回りは理解して日本に帰れたらこういった状況を説明して欲しいと言うことで、周りの人はお金も差し出してくれました。
そのことを授業で話しました。(涙ながら話始める)
クラス全員が泣きました。
「先生あれはいい授業でしたね」と言ってくれました。
他のクラスでも誤解偏見がとれて差別が無くなっていきました。
ある女性の生徒が塾で隣の学校の生徒と話をしたときに、そんなのテストにでないよと言ったそうで、彼女はテストにいい点を取るために授業をやっているのではなく、人間として絶対に忘れてはいけない事柄、知識を詰め込むことに意識を集中する事だと云っています、でも点数とは何かと云うことです。
生身の歴史を大事にしていきたいと思っています。
時節を通して学び考える、そこから得て生きる力となるものが本当の学力だと思っています。

私の村から、(東索林)埴科郷(はにしなごう)、という「大地の子」のモデルになった開拓団に6家族が行っている。
我が家の近くにも合計すると60戸程の中で15人の方が旧満州で亡くなっています。
教科書に載っている満蒙開拓は知っていたが、身近にいる人たちがそういった事実が有ったことは全く知りませんでした。
親も語りませんでした。(親から子へ歴史が語り継がれてこなかった)
学校の授業でも具体的な事例は扱ってもらえなかった。
17年前赴任した時に中国から沢山子供たちが来て、これはしっかり勉強しないといけないと思いました。
事故で5年間休むことになり、職場復帰して3年たって篠ノ井西中学校に赴任しました。
母親も脳梗塞でそちらにも行かなくてはいけなくて、遅れを取り戻すことが精一杯で詳しい歴史を教えることが出来なかった。
教師としての悔しさを強く感じていました。

彼ら自身がどういう歴史を負っているのか、周りの子にも教えてあげないとだめだと思いました。
満蒙開拓の詳しい歴史を教師も知らなかった。
自分のルーツを知らない、ルーツを語るすべがない、自分はこういうわけでここにいるんだと言うことが皆に言えない、そういった子どもたちにその子のよって立つ歴史をきちんと教えることが一番大事だと思いました。
中国人に命を助けられた事をさらさらといえばいいと言っています、そして堂々と生きなさいと言っています。
今年度末に退職することが決まっています。
6月に例年行われる学習の一環として、「自分が当時の子供なら君は満州にいくであろうか」と言うテーマの授業をしているが、今までは私一人でやって来ましたが、7クラスそれぞれ担任の先生が授業しました。

長野県の平和教育は満蒙開拓の問題を抜きに語れないと思っています。
長野県の全ての市町村から開拓団ということで満州に渡っていった。
現在でいう中学2年生全てに教師が満蒙開拓青少年義勇軍への志願を呼び掛けていったという歴史がある訳です。
これからも学習への協力はしたいと思っています。
満蒙開拓の学習をするということは戦争の時代の学習をするということで、戦争の様々な側面にも目が行きます。
沖縄戦、特攻隊、原爆、長野空襲、松代大本営、アウシュビッツ、インパール作戦など多岐にわたって調べました。
人を愛する人間として、どう生きることが本当に人間らしい生き方なのかと言うことを、自分の頭で考えて行動できる人になってほしいと思って授業をしています。
開拓団の入った土地の多くは中国人が耕していた土地で、自分たちの土地を奪った侵略者だと言うことで、それにたいする反感が襲撃の背景にあったと思います。

一方、命を助けられた人もいて、国と国の関係ではなく人と人の関係の中で一人の人間としてお互いを大切にしながら生きていきたいと思います。
満蒙開拓の授業の発展として、自分の家でも家族の戦争体験を聞こうね、と呼びかけています。
事実を自分の目でしっかり見つめて学んでほしい、自分の頭で考えて行動できる大人になってほしいと思います。
どういう未来を作っていったらいいのか、そういうことを考えられる子供に成っていってほしいと思います。








2017年11月15日水曜日

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を
1948年昭和23年栃木県生まれ、1974年東京教育大学大学院芸術科を卒業、28歳のときに都立高校の美術の教師となり31年間現場で教えました。
2007年定年の1年前に退職し、ある程度自分の人生を生きたら、どこかアジアの国の子供たちの支援をしようと言う以前から抱いていた思いを実行することにしました。
笠原さんが美術スクールを建てる国探しをする中で、選んだのがカンボジアでした。
カンボジアは1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に、社会制度が徹底的に破壊され、その後学校教育は復活したものの教育できる人材が育っていない状態でした。
笠原さんはさまざまな困難に直面しながらも、2008年12月、アンコールワットのある町、シェムリアップに小さな美術スクールを立ち上げました。
現在350人が学んでいます。
美術スクールの開校10周年を記念して、10月中旬の1週間東京銀座の画廊で絵画展が開かれました。
絵画展のために6人のカンボジアの青年画家をつれて一時帰国した笠原さんに伺いました。

絵画展は大変多くの日本人の方が来て盛況でした。
約200点持ってきました、年齢は4歳から30歳までです。
カンボジアに2007年に来ましたが、活動を始めてから日本の人に見せたらどうかと言う話がありギャラリーの方が無料で貸してくれて、絵を売りまして彼らの生活に活かせるようにと思って作品展をしています。
6人の方には絵の具工場で絵具の作られ方とか、版画の勉強などもして貰っています。
彼らは飛行機、電車に乗るのも初めてです。

7歳で母を亡くして、7歳で人の人生に終わりがあることを感じました。
小学校4年生の時に、桜の写生会で桜の老木が根を張って根から若葉を出して花が咲いて、生きているんだなと実感して、絵を描くのは面白いと思って絵が好きになりました。
終わりのある人生をどう生きたら自分が納得できるかと考えて、美術を選びました。
人生の最後はちょっと人の役に立つことをしようと漠然と考えました。
ゴーギャンのタイトルについても考えさせられました。
「我々は何処から来たか、我々は何であるか、我々は何処へ行くのか」
大学院卒業後、フリーの画家として作品を描いていましたが、その後28歳で教師になり都立高校4校経験して、都立新宿高校では11年間勤めました。
赴任した時には3人の女性教師しかいませんでした。(女性の生徒は1/3でした)
新入生にたいする案内書、ゲーテの「生き生きと生きよ」新入生にたいする新宿高校の伝統から考えられた贈る言葉だと思います。
31年間教えて定年1年前に退職しました。
段々教師も締め付けられるようになって来て、追い詰められたような感じがして、資金も出来てきたのでカンボジアで自分の新しい生き方を試してみようと思いました。

ネパールを対象にしようと思ったが駄目で、インドはきついと思って、カンボジアの方と東京で知りあって、その方のいった、「ポルポト政権時代は何処からも何の助けもなく真っ黒な時代」と答えてそれが印象的でした。
2003年に初めてカンボジアに行きました。
2005年に土地を買って、2007年に学校建設を始めて2008年に開校しました。
電気、水道、ガスもない、すごく驚きました。
1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に社会制度が徹底的に破壊されました。
子供達は10年前はゴミ拾いをしていましたが、今は減ってきています。
貧富の差が激しい感じはします。
社会保障制度が全くないので、家族がお互いの収入を持ちあって何とか食べていく状況に有ります。

20年間貯金をして退職金を投入して、自己資金で学校を建てて、完全無料の学校を目指して始めました。
土地の登記台帳がちゃんとしていない、購入した土地の道に関する政府案との対立で訴えられて5カ月工事が中断しました。
住民案を拡張するということで調整が付きました。
カンボジアでは外国人は土地を買えないので、名前を借りますが、このままだと危ないので名義変更した方がいいと言われて、お願いしたがなかなかOKして貰えず大変でした。
悪いことをしに来たのではないのに、どうしてこういう目に会うのか、考えさせられた時がありました。
色々なことが同時進行して、解決する見通しが立たなくて、髪の毛が抜けて禿になり、胃を痛めて体力を落としてデング熱にもなり、初めてカンボジアで入院しました。

最初は1人男の子から始めました。
日本語学校だと思ったらしい。
兄さん、友達が来て、絵の学校だと言うことで絵を描きだしてそれがスタートでした。
最初何を描いていいかわからない、経験がない、絵を見たことがない子がほとんどです。
或る学校に教えに行ったときに、90人いるうち絵の具をもった子は2人で、親の出稼ぎ先のタイで絵の具を使ったと言うことだった。
生徒は一時期は400人を越えましたが、今は350人位です。
日本語の教室も行っています、貧しくて月謝(10ドル)を払えないので学ぶ事もできない。
このスクールでは完全無料でやっています。
2013年までは私の完全な個人資金でやって来たのですが、子供たちの作品を見てくれた方々、大学の後輩が活動支援システムを作ってくれて、会員制サポートクラブを作ってくれてすこし資金援助をして下さってもらっています。
ある企業の方がインターネットのウエブサイトに資金援助のサイトを作って下さって、送ってくださっています。(100%だった個人運営資金が43%になりました。)

画材は日本から1トンの画材を送ってそれを使っていましたが、カンボジアでも外国産ですが買えるようになって、購入しています。
子供たちの作品展を日本でやった時に、日本の絵の具メーカーの社長さんが見て素晴らしいと言って下さって、絵の具を寄付してくださっています。
展示販売活動、坂田優子さん(小さな美術スクール・アートコーディネーターとして制作、広報等を担当。) 事業組織にした方がいいと言うことで販売活動しています。
大きくなった子供達が出張授業にいってやっています。
日本にいた時は豊かさに疑問をもたなかったが、色んなものがたりていない国での生活でありながらも、人間としての一番基本の大事なものを忘れないでいると思っています。
子供達は家の手伝いをしないと成り立たない。
喜捨精神、年老いた老人、地雷で手を無くした人たちが物乞いするが、カンボジア人が喜捨していますね。
自分も困っているが貧しい人が貧しい人を支えていると言う感じはします。
子供たちの目の輝きには感動します。(内面からの力)
後継者、展覧会に来た人たちの何人かは継いでくれると思っています。
こういった形になってきたのも、通訳の青年チウ ヒーア(2006年度日本語スピーチコンテスト優勝。現在、小さな美術スクール通訳及び日本語教師の傍ら美術制作にも励んでいる。)がずーっとやってくれたおかげ、坂田優子さん、多くの方の善意で色々なことが出来るようになってきました。







2017年11月14日火曜日

森裕美子(理科ハウス館長)           ・子どもたちに科学の夢を

森裕美子(理科ハウス館長)       ・子どもたちに科学の夢を
神戸大学を卒業して中学校の数学の先生をしていましたが、結婚を機に退職して東京に移り住みました。
戦前の高名な物理学者、石原 純博士を祖父に持つ森さんは,祖父の著作「子供の実験室」を読んで感銘しました。
森さんは子供達に遊びを通して科学の面白さを知ってもらおうと、シャボン玉やあぶり出し等の作り方、その遊び方を書いたミニコミ誌を作り近所に配りました。
このミニコミ誌は評判になってインターネットに掲載され世界にまで広がりました。
この体験から森さんは子供たちの身近にある科学館をコンセプトに、平成20年自宅近くに建坪30坪の2階建ての科学館を作りました。
館内には子供だけでなく、大人でも楽しめる企画が所狭しと展示されています。
これまでの入場者数はおよそ3万人、3年前にはノーベル賞を受賞された小柴 昌俊さんの科学教育賞も受賞されました。

「蟻地獄釣り」がある、棒に糸を付けたものを蟻地獄に垂らす。
蛇の卵が置いてある、鶏の卵の半分よりちょっと大きめ。
さまざまなものが展示されている。
40~50位展示されていますが、全部見るには一日では足りないと思います。
本は2000冊以上あると思います。(それ以外に貸出がある。)
生物、物理、化学、地学、数学など色んな分野があるので自分の好みに合わせて楽しむように作ってあります。
2階への手すりにDNAが展示されている。
屋上は天体観測が出来るようになっている、年に1~2回望遠鏡を取り出して皆さんと一緒に星を眺めています。
トイレのなかも展示に使っています。

20年以上前に子供と一緒に科学遊びを楽しんでいました。
子供たちが大きくなってしまって、近所のお子さんに科学遊びを紹介しているうちに、こういう場所があったらと思って作りました。
「なるほどの森」平成6年発行の第二号。
自分の体験談を友達に配ったりしていましたが理科の先生の目にとまり、広がっていって、やめられなくなりました。
シャボン玉遊び、インターネットにホームページを知り合いが立ち上げてくれて、全国誰もが読めるようになりました。
英語になったり、フランス語にもなりました。
兄がアメリカにいたので訳してくれました。
あまりお金がかからなくて科学実験が出来ると言うものを、海外の学校で紹介した大学の先生がいて、もっと紹介したいと言うことで「なるほどの森」が英語になっていればいいねと言うことになり、兄がやってくれました。


祖父が書いた「子供の実験室」という本があり実験を取り混ぜながら子供達が実験してゆく様子、どうしてそうなるかと言うのを物語で書いていて、それを読んで余りに面白かったので是非子供達にも読ませたいと思いました。
自分なりの科学遊びを紹介する方法としてミニコミ誌を書こうと思いました。
「子供の実験室」は昭和3年発行のものでした。
祖父はスキャンダルの物理学者として有名になった一面もありますが、石原 純像は本当とは違っていると言う思いがあり、正しい石原 純像を伝えたいと思いまして、ちゃんとした資料を公開して石原 純像を伝えていこうとの思いもありました。
祖父は理論物理学者で、アインシュタイン博士が日本に来たときに通訳などもしました。
私は大阪で4年数学の教師をしていて結婚後東京に来ました。

「なるほどの森」が知られるようになりました。
出版社の方も興味をもつようになり、教科書にも載りました。
国の全国にある科学館を結んでいくような事業にも参加するようになりました。
地域科学館連携支援事業、学校とのつながりを持つようにということで、文部科学省が支援する為の助成金を出すので、その事業の選考委員に成るようにとの声がかかりました。(6人のうちの1人)
6年間やっているうちに、何に困っているかを見てきて、自分だったらどういった科学館をやりたいとの思いがつもっていって、身近な科学館にしようと思い到りました。
展示してあるものの意味が判らないものがあり、これを解消したいと思って、そばに聞ける人がいればいいと思いました。
この二つを解消するためには、小さければ出来るのではないかと思いました。
この科学館では二人で説明などをしています。

サイエンスカフェ、実験ショー等もやっています。
世界中を回っている写真家に月について講演をして貰ったりもしています。
色々講演をして貰っています。
サイエンスカフェでは来館者の人たちが聞きたい事に合せて、講演依頼しています。
実験ショーでは実験の前に結果を予想してもらって楽しめるようにしています。
入館料は大人100円、子供は無料です、ショップで色々な物を売って、オリジナルTシャツをインターネットで販売しています。
その収益で運営にも使っていますが、まだ足りない状況です。
義父が残してくれたものがあり、それを使わしてもらっています。
森一郎 「試験に出る英単語」を出版していました。(元日比谷高校の英語の教師)
ロングセラーでこの印税を運営費に当てています。
21世紀の子供たちに、自分が出来ることをやっていけたらいいなあと思います。
3年前にはノーベル賞を受賞された小柴 昌俊さんの科学教育賞も受賞しました。
子供たちの主体的な学びが出来ていると言うことで、優秀賞を頂きました。
子供たちが展示などに関わっていることが評価されたと思います。
















2017年11月13日月曜日

前原正浩(国際卓球連盟副会長)       ・なぜ日本卓球は強くなったのか

前原正浩(国際卓球連盟副会長)    ・なぜ日本卓球は強くなったのか

リオデジャネイロオリンピックでは男子シングルスで、水谷隼選手が日本人で初めて個人種目のメダル、銅メダルを手にしたのを始め併せて3つのメダルを獲得、今年の世界選手権でも10代の選手を含む日本選手の活躍が目立っています。
何故日本の卓球が強くなってきたのか、国際卓球連盟副会長に伺いました。

小学生選手から良い教育、技術をしてゆくことが非常に大事だと思って2002年からそのようなことを始めたのが良かったのではないかと思います。
私は大学は明治大学で卓球を続けて、社会人では協和発酵でプレイをして、現役を退いてからは日本の代表監督、育成の立場に変わって行って、現在は日本卓球協会の副会長、国際卓球連盟副会長をしています。
現役時代は昭和56年に全日本選手権でシングルスとダブルスのチャンピオンになっています。
卓球は小学校4年の終わりごろから始めました。
1950~60年代は日本の卓球が強かった時代です。
本当に卓球をやりたいと思ったのは、小学校6年生の時にTVで全日本卓球選手権の決勝戦をやっていて、木村興治さん、長谷川 信彦さんの両者が卓球台を隔てて、二人が丁寧なお辞儀をしていて、こういうところで自分も全日本卓球選手権が出来る様な選手になりたいと思ったのがきっかけでした。

28歳のときに全日本卓球選手権のチャンピオンになりましたが、早い方では無かったです。
1981年の9月に国際大会があり、荻村さんが来られて、ミーティングがありました。
前原君は今回が最後のチャンスだと思ってくれと言われて、自分のプレイスタイルを変えないといけないと思って、両面にラバーを貼って、片面は回転のかかる、裏は回転のかからない同色のラバーを使って(当時は色の指定は無かった)、変化させる手法を使って全日本選手権で勝つことが出来ました。
1977年が初の世界選手権の出場で、1985年の時はプレイイングコーチでした。
その帰りの飛行機で荻村さんが、前原、監督をやらないかと言われました。
帰国後、人事部長、卓球部長と相談して最終決断して、監督をひきうけることにしました。
1988年ソウルオリンピックから卓球がオリンピックになって行くところだが、かつての栄光から離されて苦しい時期であった。
1981年に卓球が正式オリンピックになることが決定されたが、スウェーデン、ポーランド、フランス、ドイツ、ベルギーといった国々が、強くなっていった。

当時は都道府県の理事長さんにお願いして予算が無いので施設料、宿泊代を持っていただくような交渉をしながら合宿をやっていただけるところを探してやるような実情でした。
当時の日本のプレイスタイルはフットワークが良くて、サーブレシーブもよくチャンスボールを叩くような感じでした。
中国はライジングボールを叩く、ヨーロッパはフォアーハンド、バックハンドもおなじような威力を出すようなプレイスタイルだった。
バックハンドを狙われてお手上げな状況になると言うのが日本の負けパターンだった。
日本に対する戦術が決まっていた。
2000年に15年ぶりに男子団体で銅メダルを取ることが出来たが、2001年に世界選手権があったが13位と言う成績だった。
小学生が卓球をやり始めて或る程度の選手に対して、世界で戦えるようなプレイスタイルを植え付けていかないと、世界で渡り合えるようなプレイスタイルにはならないと思いました。

発育発達に合わせたトレーニング、メンタルな面、何を食べれば身体の成長、スタミナの維持にいいかとか、栄養の勉強もしないといけないと思いました。
2001年の10月からホープスナショナルチーム(小学生)を創設しました。
小学生の全国大会でベスト16と将来性のある子を含めて20名の選手と指導者とで合宿を計画してやり始めたのが2002年2月からでした。
①世界基準のプレイスタイルを教える。
②発育発達に合せたトレーニング方法。
③メンタル
④栄養
この4本柱でスタートしました。
水谷選手もここに入っています。
石川選手、丹羽選手、松平選手,吉村選手などが小学生のころから合宿に参加しました。
中学、高校の指導者の方々も熱心にやってくれた結果、今があると思います。
指導者のスキルも上がったと思います。

小学生に対しての指導には特に抵抗などは無かったです。(映像等で説明したりした)
今でも映像を使って国際大会の傾向などの伝達講習会を続けています。
当時は映像を作る事自体も大変でした、当時撮ったものが家には今もビデオが800本有ります。
1980年代はVHS時代で、デッキ、カメラ、海外に変圧器も持っていかなければいけなかった。
映像での解説、教育はスポーツ界でも最初の方だったと思います。
2008年にナショナルトレーニングセンターが出来、365日に近い使用率でやっていました。
1976年にヨーロッパに行ったときに、ナショナルトレーニングセンターが有りました。
JOCにはナショナルコーチアカデミー事業、キャリアアカデミー事業、エリートアカデミー事業の3事業がある。
エリートアカデミー事業は卓球とレスリングがスタートした。
スタッフと試行錯誤しながら改善を重ねて成果が出てきたと思います。

卓球だけではないと言うことを知ってもらうために、漢字、算数も入れてもらってプログラムを組みました。
心の大切さもメンタルの先生からもレクチャーして貰ったりしました。

トラブルに対して(ミスジャッジ等)、選手、コーチなどの心も動揺するので、その時にどういう言葉掛けをするか、どうコーチは動くかと言うことが大事で、もたもたしていると平常心ではなくなり、プレイに集中できなかったりするので、そういったこともビデオに撮っておいて、選手、指導者に対して伝達ミーティングの場で今でも活用しています。
(リスクマネージメント)
教材を見付けるのも指導者の役割だと思っています。
「何もしなければ何も生まれない」(新しいものは決して何も生まれない)
卓球協会への登録は28年度は33万3567人、14年前は25万8000人、7万5000人がこの間に増えている。
リオで男女がメダルを取り、特に個人戦では初めてメダルを取ってくれた表彰の時に、ギフトプレゼンターに選ばれて、その時は感無量でした。
6月の世界選手権大会では頑張ってメダルを取ってくれて、うれしい気持ちになりました。
卓球の場合は更なる国際競争力の向上、卓球ファンの拡大、卓球に携わる方々の健康と安心した人生の環境を作らないといけないと思います。
世界の事を考えると、平和な社会、平和な交流を続けていく役割としてスポーツがあるべきだと感じています。










































 

2017年11月11日土曜日

白阪琢磨(国立病院機構大阪医療センター) ・エイズ治療最前線の30年

白阪琢磨(国立病院機構大阪医療センター) ・エイズ治療最前線の30年
  (HIV/AIDS先端医療開発センター長)
12月1日はWHO世界保健機関が定めた世界エイズデイ、この日を挟んだ11月28日から12月5日はエイズ予防週間です。
厚生労働省のエイズ動向委員会の報告に寄りますと、わが国のエイズ患者は1980年代統計を取り始めてから増え始めていて、2016年には437人が新たにエイズ患者と報告され、感染経路の87%は性的接触でした。
エイズ治療の最前線に立ち続けてきた国立病院機構大阪医療センターのHIV/AIDS先端医療開発センター長白阪さん(61歳)を訪ねてエイズはどのように発症するのか、感染を防ぐにはどうすればよいのか、日本でのエイズ医療の歴史をたどりながら伺いました。

エイズはかつては死の病と言われた、感染すると10年ぐらいでエイズになって1年ぐらいで亡くなっていたが、1996年ぐらいに新しい治療法が出来て、死ぬことも無くなり、早くから薬を飲めばエイズになることは無くなった。
慢性疾患と同じ病気になりました。
薬をやめてしまうと又ウイルスが増えていってやがてエイズになる可能性が高くなる。
1996年ごろはアメリカ全土でかなりの患者さんがいて、多くがゲイの方だった。
ロビー活動から大統領に声が届いて、クリントン大統領がエイズ対策を国のトップの一つに挙げられ、薬を作ることに力を入れて、薬を飲む時間を分刻みで決めたり、色々な条件で沢山投与された。
仕事を辞めて薬を飲むことに専念した人もいた。
薬の開発が進んで行って今では1日一回一錠でいいです。(一つ飲めば3種類が飲める)
注射薬も開発されて、月に一回で良いと言うようになってきています。

副作用も当初は吐き気、下痢、頭が痛い等有ったが、最近ではほとんどなくなりました。
HIVのウイルスは変異しやすい、自分が増えるときに姿を変えると言う特徴があるので、増えなければ姿を変えようがないので、薬を飲めば増えない。
HIVが私達の身体に入ってきたときに、自分の持っている酵素、タンパク質の中に逆転写酵素、インテグラーゼ酵素、プロテアーゼ酵素、が無いと増えない。
今使われている薬は今3つの酵素をそれぞれ抑える薬なので、これを飲んでいるればウイルスは増えようがないんでおとなしくしている。
年間200~300万円の薬剤費ですが、健康保険が使えます。
この疾患に対しては身体障害手帳の対象疾患になっているので、月1万~2万円で済む事もあります。
HIVとエイズは混同して理解している人が多いと思いますが、エイズは病気の名前、原因を調べるとウイルスだった、そのウイルスの名前がHIV。
HIVに感染すると、CD4陽性細胞という免疫細胞に感染して、段々数がゆっくり減っていって、あるラインより下ると免疫が弱くなって、身体に住んでいる色々な菌が暴れ出して、エイズの様な肺炎だとか、そういう症状が出る。
下がって行く期間が10年ぐらい掛かる、感染してエイズになるのが10年ほどと言うことになる。

4~7割の人がインフルエンザのような症状、高い熱、体がしんどいとか、病院に行くと急性のウイルスの感染症と言うような検査結果が出るぐらいで多くの人は治ってしまう。
10年ぐらいは症状の無い時期が続きます。
半数は肺炎と言うことだが、良く調べるとエイズですとか、疲れると口に水虫のように出たり、もっと奥の食道に広がるとか、ひどい下痢が続くとかになる、これがエイズと言う症状です。
免疫を下げないと言うことが大事で、薬を飲んでいただければ免疫は下がらない。
HIVは男性であれば精液と血液、女性であれば膣分泌液と血液、お母さんの場合は母乳、ここにしかいない。
涙、汗には居ない。
感染経路は性行為、輸血(日本ではまず無い)、医療事故などもありうる。
母乳での感染は非常に少ないと言われているが、うつらないと言うことはない。
感染の確率が非常に高い性行為が肛門を用いる性行為で、次が男女間の膣を用いた性行為
、女性が陽性の場合は男性よりもうつりにくい。
コンドームを使うことが一番防ぐ手立てです。

1981年世界で初めての症例が報告される。(アメリカ)
日本でエイズが注目されたのは1980年代の後半です。
原因が判らなかったが、研究して1983年に患者のリンパ節からウイルスが取れて、現在はエイズの原因のHIVであることがわかっています。
日本でもエイズの第1号が報告されて、国内の問題として認識された。
有る地域での女性がエイズであるとわかった時には全国の男性が保健所に殺到したと言うエイズパニックが起きた。
そのころは新聞、TV、週刊誌に出ていたが、終わって薬害が出てきてセンセーショナルに報道されたが、終わりが来たときに、忘れてしまうと言うことになったが、データを見るとHIVウイルスに感染する人は減ってはいないというデータがある。
一番多いのが東京で毎年100人前後、次が大阪、愛知県、最近は福岡県が急増している。

医者になって留学する機会があったが、専門は呼吸器だったが、呼吸器かエイズにいくかだったが、うちの大学の先生がエイズで世界で最初の薬を開発された満田先生だった。
そんな関係で1989年にエイズの方に行きました。
高濃度のHIVウイルスの操作をしました。
3か月に一度血液検査をして感染していないことを確かめました。
アメリカではエイズの研究をしていると尊敬されましたが、日本ではそんなことは辞めとけと言うように言われました。
5年半アメリカで過ごして、1994年の暮れに日本に戻って来ました。
薬の進歩で生き残れるかどうかの境目でした。
薬害エイズの患者は薬として取り込んでいったが、そこで感染してやり場のない思いがあり、免疫が弱い状態は変わらす、失明したり、食べれなかったり、食べても吐いてしまったりしていて、熱が出て、意識が無くなってくる、そんな中で死を迎えたりしている。
1996年に原告と国、製薬会社が和解する。

1997年国立大阪病院に移って来ました。
当時は新しい治療が出たばっかりで、不安も強くて、5年、10年で亡くなってしまうのではないかと思っていました。
こんなにエイズが増えるとは思わなかった。
病院の治療の累積は3000人を超えています。
治療行為に関する事、人間関係の悩みなどがあります。
結婚して男性が感染しているときには、精液を取って来てウイルスを洗ってしまうことが出来ます。
体外受精して子宮に戻すことで妊娠する方法があるが、大変なのと保健が効かないので高額です。
1994年ぐらいから母子感染のないお子さんを得ることが出来ます。

梅毒は日本には無くなったと思われますが、最近は若い女性に急増しています。
梅毒をもった状況が増えると言うことはHIV感染がしやすくなる。
中学校などで話をすることがあるが、性感染症が広がっている事を知らない人が多い。
中高年の男性も要注意、HIV感染者は30歳代が多い、潜伏期間の関係もあるが、エイズ患者は40歳前後が多い。
中高年では、潜伏期が長いためいきなりエイズと言う事が多い。(夫婦とも感染)
海外でのHIV患者と触れる、セックス等古い話。
日常での生活ではうつらない。(プール等々)
今HIVでは死にません、慢性疾患、副作用も少ない。
検査キットは妊娠反応を見るようなもの、血液を落とすと血液がしみて上がっていって、なにも映っていなければ感染していない。(15分位で結果が出る)
当初はこんなにつらい疾患を見ることはしんどいと思いましたが、最近では薬を飲めば何とかなると言うような状況になりました。
2016年エイズ患者の年間発生数、東京都97人、大阪48人、福岡46人、愛知32人、神奈川26人だが人口比で見ると、福岡県、佐賀県、東京都、高知県と順になる。
「HIV、検査、相談」、で検索すると検査の場所などが判る。































2017年11月8日水曜日

小野寺武男(撫順の奇蹟を受け継ぐ会 )   ・今こそ“人を赦す”から学ぶ

小野寺武男(撫順の奇蹟を受け継ぐ会 岩手支部 代表)・今こそ“人を赦す”から学ぶ
中国の北東部にある撫順には第二次世界大戦後、1000人近い日本兵が収容された戦犯管理所がありました。
多くがシベリアで過酷な労働を課せられた人たちでしたが、撫順では食事や医療などで人道的に扱われ暴力をふるわれることもありませんでした。
一方で本を読み罪と向き合う時間を与えられ、戦時中それぞれ日本兵が犯してしまった罪の重さ、償いとはなにかを考えさせられました。
管理所の中国人職員も恨みを押し殺して日々応対し、初めは声を荒げていた日本兵も自問自答を繰り返して罪を告白したり、書きだしたりして涙ながらに後悔と謝罪の気持を示したと言います。
6年後の軍事裁判では死刑になった人はおらず、帰国後戦犯たちは償いのために戦時中の行為を語り継いできました。
武力ではなく、許すことで平和の道を模索したこの出来事は後に撫順の奇跡と言われています。
この出来事を広めようと活動している人が岩手県滝沢市にいます。
小野寺武男さん(73歳)、小、中学校の教員として平和教育をしてきましたが、教員仲間との勉強会で撫順の出来事を知り、学習に取り入れて来ました。
岩手の中学生たちと撫順を訪れ現地の人と交流したり、戦犯と呼ばれた人を岩手に招いて話を聞く会を開いて赦すとはどういうことか、世界各地でいまだに争いが続く中で、赦す事にどんな意味があるかを考えて来ました。
小野寺さんに平和への思いをうかがいました。

退職後、2008年から撫順の奇跡の活動をしています。
印象に残ったことはいくつかあるが、試突(試しに突き殺す)の場面の話を戦犯の人から聞いたこと、初年兵の時に平気で人を殺すように成らなければ軍人ではないと言うことで、縛り付けた中国の人を銃剣で刺し殺す。
その時にさせられた人の思いを語るわけです。
簡単には人を殺すことはできないので、想像以上に苦しい事で、刺した瞬間の手に受けた感触の話などを語ってくれました。
戦犯の人はそういう自分が戦争の中で知らず知らずのうちに当たり前のように殺してゆく、本当に人でなしだった、鬼になっていたと言うことでした。
罪を認めて行く事に取り組んでいった時に、命令されてやった、そういう反省をするが、俺たちは戦犯ではない、最初は単なる一兵卒だと、悪いのは上官で俺たちではないと思っていた。
中国の人たちが真心を込めて人間的に扱ってくれる中で、あなたが手をかけた人たちはあなたの家族や知り合いと同じ人間なんですよ、そういう立場で考え直してみたらどうですかと、言われたそうです。

そこからが地獄でしたよと言う話でした。
自分が手をかけた人達の事を自分の家族や子供や親しい人たちと重ね合わせて反省して行くときに、この辛さが地獄でしたと話していました。
命令に従ってやっただけだと言う思いからもう一歩踏み込んだ最も人間がおかしてはならない、人を殺すと言うことをやってきたことにぶち当たって、生まれ変わらないといけないと思ったと言うんです、このままでは生きていけない、人間から鬼に変わって行った自分が、もう一度人間に戻れたと言うことを話されて、実感としてこの人は嘘を言っているのではないと思いました。
真剣に向き合った時に地獄に行くような苦しみがあったと言うことで、管理所内の6人が自殺を試みるんです。
半狂乱になる人が続出して、その苦しみを乗り越えて立ち直っていった人たちが、最後のわびの言葉が「ごめんなさい」ではなくて、「私をいかようにでも罰してくれ」と言うことです。
起訴免除で日本に帰された。

凄い人たちだと感動しました。
よほど自分が語らないといけないと言う強い思いがなければ語れることではない。
やったことが余りにも残忍な事だとすると、人に話せることではない。
証言することは私の贖罪だと、二度と戦争を繰り返さないために、何が有ったのかという事実を語ることが私の贖罪だと、それが二度と戦争を繰り返さないない為に必要な事だから、私は死ぬまで喋り続けると言っていました。
撫順から学べたことがいくつかあるが、人間は変わる事が出来るんだ、心の中に鬼を住まわせていても人間は変わる事が出来ると言うことを目の当たりにしました。
力で解決しなくても、相手をよく理解し相手と話し合ったり色んな事を繰り返せば、どうすればいいかと言う道は必ずあるはずだと、そういう指導は極めて大事なことだと思います。

所員の中に、自分の両親が目の前で殺された職員もいた、自分の子供が地面にたたきつけられて殺された方もいた、よほどの恨みを持った人たちがいっぱい職員の中にいたことは事実らしい。
職員の一人がこの戦犯にやられたと見付けて、飛びかかったが周りの職員が止めて、どうしたらいいか話し合って、殺した相手に暴力をふるって敵討ちをとって平和が来るかというような言葉が交わされた様です。
日本人の戦犯が段々変っていった時に、相手が一生懸命苦労しながら人間性を取り戻そうとしているのに、その変化を見て自分のやってきたことが正しいということが確証を得たので、私は人間としてその戦犯さんと付き合えるようになったと話をされた方がいました。
6年間で人間性を取り戻していったと思います。
罪を自ら認めるように対応すると言っているが、それは赦すと言う意味かなあと私は理解しました。

人間だから誰も間違いはしますが、脅したり、脅迫したりしながら反省させることではないと思います。
問題を解決出来る力をもっと大事に扱っていかなればいけない、ここに教育の大事なポイントがあるなあと撫順からもう一回確認させてもらいました。
撫順は過去のものではなく、わたしたちはここから学ばなければいけない。
退職する5,6年前まで撫順のことは一切知らなかったが、勉強をしてみれば見るほど、戦争を二度と起こさないためには何が大事かと言うことを、撫順戦犯管理所は私たちに突きつてけていると思います。
教員になって広島、長崎の原爆、東京大空襲など日本が大変な世界に見舞われ、こう言う時代を生み出してしまう戦争とは恐ろしいものだと言うことを主に扱ってきました。
被害だけでは戦争の本当の姿を考えさせることにはならない。
ごく普通の優しいお父さんが戦争になると鬼になる怖さ、そういうものなんだと言うことを子供たちに判らせてゆく必要があると思います。

被害の怖さと鬼になって人を殺ってしまう、これも怖い事、人間はそういう弱さを持っているので、そういうことと戦っていける強い人間にならなければいけないと、そういう教育をしたいと思っていました。
繰り返さないためには何を学んでどう生きたらいいかと言うことを、考えさせる、問題があった時にはどうやって解決してゆくことが人間に求められているかと言うことを深く考えて生きていこうと、そういう教育が必要だと言うことを教えてもらったのが撫順です。
暴力を仕方なかったと認めてしまったら、戦争は決してなくならないと思います。
撫順の地には撫順戦犯管理所の近くに撫順炭鉱があるが、3000人集められて機関銃で銃殺されてまだ生き残っている人を銃剣で刺し殺していったと言う事件があり、そこを掘り起こして記念塔が建って遺骨が並んでいる。
私が会った人たちは過去は過去未来を見つめて、これからは新しい友好関係を築いていけばいいんです、そういう言い方をするのがほとんどでした。
しかしむやみやたらに戦争の事を聞くことは気をつけないといけないと言われた、深い恨みを持っている人たちがまだ一杯いるということだと思います。

敵対関係で新しい友好関係は築けない。
撫順に子供達を連れていったこともあります。
本当に中国人が許したのか、何故許せたのか事実を知りたいと言うことでいきました。
撫順の中学校と交流して、日本の子供たちがストレートに質問しますが、判で押したように「過去は過去、新しい関係をこれから作って行くことが大事だ」と返って来た。
うちの子供らが逆に猛反撃した、過去をしっかり見ない中には未来がないと言いました。
事実をしっかり認めて謝らなければいけないと子供達は言いました。
私は誇りに思いました。
中国と日本の子供たちが撫順戦犯管理所のこととかを、共に見て考えたたことは、凄いことだと思います。
別れるときには子供達は抱きあっていました、そういう交流こそが大事な事だと思います。
相手の事をよく知る、そのことを考えて問題解決に当たって行く、決して戦争に行かない解決策の入り口だと思います。

佐賀の戦犯の方が撫順戦犯管理所から貰って来た朝顔の種を庭に蒔いて大事にして育ててきた。
今度来るときには、武器の銃ではなくて花でも持って訪ねて来て下さいと言われて渡された種だったそうです。(それを分けていただきました)
その種を配っています。(「赦しの朝顔」と呼んでいます。)
広がって行くことを期待しています。
テロを起こす人たちはテロでしか解決できない、それはなんでそういうことに走るのか、その思いをしっかり受け止めることをしないと解決の道はないと思います。
相手を知る、信じた相手と納得するまで話し合いをする、それが大事だと思います。
火種は常にあるが、それをどう克服してゆくかと言うことを考える。
武力ではなくても解決出来る道はあると言うことを、何処までも追い求めないといけない。






































2017年11月7日火曜日

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり 

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり
日本ほろよい学会とはどんな学会なのか伺いました。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」 若山牧水
白玉は歯に掛かるまくら言葉的に使われている。
白い歯に沁み透って行く秋に酒はワイワイみんなで騒いで飲むのではなく、一人で静かに味わいながら飲むべきだ、その方がしみじみと酒のうまさが判る、と言うような意味です。
11月頃に新しい酒が出来る。
若山牧水は360首位酒に関する歌を歌っている。
若山牧水のお墓がある沼津の千本山乗運寺の住職の林さんが牧水の酒の歌と言う本を出しました。
歌集に出したのは6900首です。(43歳で亡くなる)
長生きした人は2万位だしてます。
「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」 若山牧水
「それほどに うまきかと人の とひたらば なんと答へむ この酒の味」 若山牧水
おばあさん、両親が酒が好きだったようです。
早稲田の学生のころに人妻と恋愛するが、2年付き合うがうまくいかず、失恋前後から酒をよく飲むようになる。

一番多い時は朝2合、昼2合、夜6合飲んでいたようです。
朝酒はおいしいが身体には良くないようです。
2cm位のコウモリと柳の絵が描いてある盃を愛用して、亡くなった後に一緒に焼いたが、綺麗にに残っていたので、取っておくことになり、沼津の牧水記念館に陳列されています。
気ままに山里を歩く旅が好きで、夕方に集落があると泊めてもらうと言うような旅をしていたようです。
鳥、木、草、花の名前を沢山覚えた様です。
旅の歌は2300首です。
1674日 1/9旅をしていた、大学卒業後にすると1年のうちに1/5旅をしていた。
富士山が大好きで沼津に住む様になる。
「牧水」の牧はお母さんの名前が「牧」 牧水は「富士人」「旅人」と言う名前を息子に付けている。
亡くなる直前まで飲んでいた。
医者も最初は止めていたが、最後はもういいやと言うことになる。

9月に亡くなるが、暑い時期は傷んでしまうが、3日ぐらいは全然傷まなかった。
医者が生きたままアルコール浸けになるかな といって綺麗になっていたと言う話が残っています。
牧水を話題にしてNHKが番組を作ったが、酒豪、早稲田出身、歌人と言うことでその時に私が出演することになり、色々なところにロケに行ったりしました。
牧水よりも沢山酒の歌を作ろうと思って、牧水より超えましたが、向こうは43歳で亡くなっているので倍を作らないといけないと思っています。(79歳)
若山牧水賞 第二回目に貰う。
受賞者は若山牧水の研究をして地元の新聞に連載しないといけない。
授賞式後のパーティーにはお酒が一杯出ます。
女性では河野裕子さん、小島ゆかりさん、俵万智さんなどが受賞されています。

日本ほろよい学会、1999年秋田で日本デザイン会議が開かれて、当時の市長の石川錬治郎さんが早稲田の同級生だったのでこういうことをやろうと言うことで誘いかけられて誕生しました。
石川さんが酒、牧水が好きで、牧水の歌碑を建てて除幕式にも私も参加しました。
牧水会が有り、ほろよい学会と合流しました。
名誉会長、会長、「燗司」(お燗を司る)長を作って会則も決めました。
「酒および嗜好と言う人類固有の天寿の恵みを、四季折々の花鳥風月を愛でつつあくまでもほろよいのころあいでたしなむとともに、飄逸として清談を楽しむ、ほろ酔いの極意をあまねく伝えることにある。」これが目的です。
斎藤茂吉の長男で斎藤 茂太さんはそういうお酒です。
斎藤 茂太さんは他人に酒を勧めない、他人から勧められても受けない、酒は一人で自分で飲むんだと言う会の会長をやっていました。
会員には亡くなった佐々木久子さん、黒田桃子さん、西木正明さん、池田理代子さん、小島ゆかりさん、三枝成彰さん、林真理さん子、初代名誉会長は暉峻康隆(てるおかやすたか)先生(早稲田の名誉教授)
暉峻先生は「上等の酒を上品に常温で飲め」と言っています。
秋田、宮崎県(牧水生誕地)、沼津、東京、宇都宮等でもやっています。
兵庫県伊丹市(日本酒発祥の地と言われている)で伊藤一彦(牧水研究家)、宇多喜代子(俳人)さんとか集まって語ったりしています。

1938年東京の文京区で生まれる、私は出産のときに俳人で産婦人科医の水原秋桜子さんに取り上げてもらいました。
水原秋桜子さんはくぼたうつおの弟子で、僕が大学院の時に亡くなって、水原秋桜子さんはお通夜、葬式にも来て、俳句の人はあまりいませんでしたが、ずーっと何時間もいました。
佐佐木信綱、祖父で文化勲章をいただいた。
「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」
両親、兄も歌人です。
「心の花」来年創刊120年になります。
1898年(明治31年)に創刊(短歌の雑誌)してずーっと続いています。
「心の花」とは「歌はやがて人の心の花なり」から来た題名です。
小学校ぐらいからぼつぼつ短歌を作っていましたが、真面目に作ったのは父が亡くなってからです。
父親が50歳で亡くなりました。(私が20歳の時)
父親の命日と私の誕生日が同じです。(10月8日事故でなくなってしまいました)
短歌の追悼の歌を作りました。
31歳の時に「群黎(ぐんれい)」で現代歌人協会賞、若山牧水賞、第10回斎藤茂吉短歌文学賞、第50回芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章・・・。

私の時代は男の時代の最後の時代だと思います。
三船敏郎、石原裕次郎の時代から段々ユニセックスの時代になる。
マリリンモンロー、ヘミングウエーが亡くなって女っぽい女と、男っぽい男の時代の最後の時代に短歌を作り始める。
ボクシング、ラグビーなどをやっていました。
「男を歌う」と言われました。
父と息子と言うことを一つのテーマにしてきました。
そういう角度から世界を見て行き、歌を作って来ました。
「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ」 佐佐木幸綱
「徳利の向こうは夜霧、大いなる闇よしとして秋の酒酌む」    佐佐木幸綱
「雨荒く降り来し夜更酔い果てて寝んとす友よ明日あらば明日」  佐佐木幸綱
「人肌の燗とはだれの人肌か こころに立たす一人あるべし」    佐佐木幸綱

















2017年11月6日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)     ・【近代日本150年 明治の群像】与謝野晶子

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】与謝野晶子
講談師 神田蘭
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の詩で有名  情熱的な人。
講談での紹介
本名鳳志よう(ほうしよう) 明治11年現在の大阪府堺市に和菓子屋の3女として生まれる。
幼いころから朱子学、儒学を学び、女学校に入学すると樋口一葉、尾崎紅葉、源氏物語等を読みまくるようになる。
短歌を新聞、雑誌に投稿する様になる。
歌人与謝野鉄幹が大阪で歌会を催すとの情報が入り、晶子は歌会に参加する。
憧れの歌人で、ひと眼見て惚れ込んでしまう。
鉄幹には奥さんがいたが、愛を深めて行く。
禁断の恋が晶子を女にさせ、悶々とした思いが短歌を作らせてゆく。
晶子は家を飛び出し、東京にいる鉄幹のもとに行く、鉄幹も離婚して晶子と結婚する。

歌集にする「乱れ髪」
「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」
人生は永遠ではないのだから、自分の張りのある胸にあなたの手を導く。
「みだれ髪を今日の島田に反し朝伏して今背の君ゆりおこす」
みだれ髪を綺麗に結い直して朝寝するあなたをゆり起こします。
「乱れ髪」が明治34年に発表されると一大センセーショナルを巻き起こす。(23歳)
晶子は文壇のスターに押し上げることになる。
鉄幹は影が薄くなり、浮気をするようになる。
鉄幹があこがれていたヨーロッパに送り出すが、晶子も子供を日本に残したままヨーロッパに旅立つ。
このヨーロッパの旅が二人におおきな影響を与える。
官能女流歌人、反戦歌人、女性運動家と言う色々な顔を持つようになる。

22歳のときに鉄幹との運命の出会いがあった。
当時はひどい拘束を受けていた中で、こういう人が先頭に立たないとだめだったのかもしれない。
赤裸々な歌を作るのは勇気のあることだと思う。
3女なのであまり大切にされなかったので、あんまり守るものがないので自由にできたのかなあとも思ったりします。
「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」
若い女性の情熱的な恋心に触れもしないで、人としての道ばかりを説いているあなた、さびしくないのですか?)
樋口一葉、尾崎紅葉、源氏物語等の影響が大きかったのでは。
「乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き 」
胸に手を当て、隠された神秘な場所を開けてみると私のはなびらのような女陰が興奮の為に紅潮しています。)
鉄幹28歳、晶子23歳のときに結婚する。
11人の子供をもうけ、育てる。

「君死にたもうことなかれ」 
日露戦争で旅順を落とさない限り勝利はなくて、物資を運ぶためには制海権が必要だったが、旅順港を何としても落とさなければならなかった。
203高地での沢山の犠牲が出てもやらなければならなかった。
それができなかったら日本の国土の少なからざるところをロシアに取られてしまったかも知れないと言われている。
1904年に日露戦争が勃発して、8月には旅順の第一回総攻撃で死傷者が1万5000人が出た。
そこに弟の鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)がいた。

「君死にたもうことなかれ」 
(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)
安しと聞ける大御代(おおみよ)
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

「君死にたもうことなかれ」に吉岡しげ美が曲を付けて自ら歌っている。
「すめらみことは 戦いにおおみずからは出でまさね」と言うところがあるが、今の世の中だったら炎上必死ですね、大変なことになったでしょうね。
魂の叫びみたいなものが全てに優先する。
情熱が全面的に展開する。
自分の感情がほとばしる感情が何よりも凄い。
平塚らいてうの「青鞜」にも創刊号に詩を寄せている。

詩「山の動く日きたる」
「山の動く日来(きた)る。 
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。われは女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。われは。われは。」

晶子の創作の泉は鉄幹だったのかもしれない。
晩年 戦争賛美のような詩も作っている。
感性で生きている、自分に正直に生きている人











2017年11月5日日曜日

水木一郎(アニメソング歌手)       ・【時代を創った声】

水木一郎(アニメソング歌手)       ・【時代を創った声】
来年でデビューされてから50年、古希を迎える水木さんですが、益々精力的に活動されています。
1972年から2年間にわたって放送された漫画家永井豪さんの原作ロボットアニメマジンガーゼット、多くの子供を魅了したマジンガーゼットですが、この曲を歌ったのがアニメソング歌手水木さんです。

歌ってから45年、あっという間です。
1万回ぐらい歌っていると思います、身体の一部の様になっています。
作詞が東文彦さん、作曲が渡辺宙明さん(今年92歳の現役)。
劇場版マジンガーゼットが45年の時を経て復活、来年公開予定。
試写会を観ましたが、大興奮しています。
45年振りに又主題歌を歌えることは僕にとって奇跡だと思っています。
渡辺 俊幸さん(渡辺宙明さんの息子さん)がアレンジ。
1968年歌手としてデビュー。
最初歌謡歌手としてデビュー。「君に捧げる僕の歌」
5歳から洋楽を聞いていました。
歌謡曲なので真似が出来なくて暗中模索だったので、ヒットしなかった。
そんなときに出会ったのがアニメソングだった。
堀江美津子12歳、「12歳の神話」という歌を渡辺先生が作って、堀江美津子の前で歌って、その時にアニメソングはどうだろうと言う話がありました。

是非歌わせてほしいと言うことで、主人公の事を色々想像しながらヒーローに成りきって歌ったら歌えました。
手本がなくてもヒーローになりきれば歌えるんだと思いました。
「原始少年リュウ」を歌う。 石森章太郎の漫画作品
歌謡曲は水木一郎で歌わなくてはいけないが、アニメソングは水木一郎で歌わなくて良くて、色んな声を出せたことがこの道にぴったり合ったのではないかと思います。
マジンガーゼットは比較的楽に歌うことが出来ました。
1976年から3年間NHKの「おかあさんといっしょ」の2代目として出演。
「おかあさんといっしょ」のディレクターが雑誌を見てくれて、オーディションに出ることになりました。
300人ぐらい来ましたが、お兄さんに成りきってやったんでそれが良かったようで受かりました。
そこから子供達から教わりました。
つまらないとすぐ反応するので、どうやって子供達をひき止めようかとか、勉強になりました。

1997年にスーパーロボットのライブを日本で初めて始めて、ライブハウスには30から40代の人が2000人ぐらい集まって、水木一郎はおじさんだろうと思っていたら、スマートな僕が登場してきて歌ったら、歌い終わってから「兄貴」と言うことになってそこから「兄貴」と言われるようになりました。
1999年におこなった24時間千曲ライブで24時間歌いました。(51歳)
歌手生命をかけて、医者もついてくれて、1曲目がマジンガーゼット、ロボットソングが100曲、バラード、とか色んなジャンルを100曲ずつ600曲、ギターの弾き語りで100曲、そのうちに指がつってしまって、ピアノで演奏してもらって、明け方になってきて1000曲いけないかなあと思ったときに、仮面ライダーの歌を歌っていたらステージにばった(仮面ライダーの化身)が来て、(石森先生が亡くなられた後だったので)先生が来たと思って、残りの300曲を乗り切りました。

その後韓国、中国、フランスなどでライブを主体に世界に活躍の場を広げました。
最初は香港だったが、堀江美津子が「キャンディーキャンディー」を歌ったら拍手が鳴りやまなくて、日本に帰って来てどう説明しようと思ったが、誰も信じないだろうと思って、言わなかったが、海外で段々話が来るようになりました。
このジャンルを認めさせようじゃないかと思ってやって来ました。
アニメソングを聞いて人生を変えた方が何人もいます。
宝物、勇気付けられるもの、夢などが一杯詰まっているのがアニメソングだと思います。
アニメソングを目指す若い人に対しては、アニメソングではないジャンルを聞いてもらいたい。
そこから色んな引き出しを掴んで貰って、アニメソングを歌う時にそれに当てはまった自分の気持ちをぶつけて行く、温故知新、昔のものも引き継いでもらいたい。
アニメソングが大好きで、愛があればそれでいいと思います。
自分が歌った歌はどれほど責任があるか、と言うことを考えて歌ってほしい。(影響を与える)












2017年11月4日土曜日

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと
「定年後50歳からの生き方、終わり方」が22万部を超えるベストセラーとなっています。
楠さんは63歳、著書には大手生命保険会社を定年退職まで務めた楠木さん自身の体験と多くの当事者への取材による実例が盛り込まれています。
最近、雑誌にも定年後をテーマに特集記事が掲載されるなど、定年後をどう生きるかに関心が集まっています。
平均寿命が伸びて長くなった定年後をどう生きるか、そのためにどう備えるか、生き生きと生きるためのヒントは何か、楠木さんに伺いました。

思っていた以上に定年後に関心があるのを実感しています。
50~60歳ぐらいを対象にしているのですが、40歳代の人、女性も結構多いと数字で判ります。
36年間勤めていました。
主に営業関係、企画、人事関係の仕事をしていました。
50歳から働く意味をテーマに執筆活動を始め、60歳で定年になるまで2足のわらじを履いていました。
40歳で阪神淡路大地震があり、自宅で遊びに来ていた娘の同級生が家につぶされて亡くなったり、実家もひどかったりして、そのまま会社の中で務めていいのかなあと揺れ始めた感じはしました。
45歳の時に支社長をした後、関連会社に出向になりましたが、配下の職員の不祥事で転勤になり、忸怩たる思いがあり、たまたま異動の内示の日が父の亡くなった日が重なり、出向のことと重なり複雑な思いで過ごした事を覚えています。
2年後に戻りましたが、脚光を浴びるようなポジションだったが、このまま続けて行っていいかどうか迷って、片や自分を止めるような部分もあり、アクセルとブレーキを同時に踏んでしまったような状態で、2カ月後に会社に出られないようになってしまった。

休職して、一旦出て人事部長と言う役職で復帰したが、調子が悪くなり2回ほど出社したり休んだりして2年半過ごしました。
鬱状態と言う診断だったが家でゴロゴロするのがきつかった。
会社中心だと大変なことになると気付きました。
50歳を越えたあたりから体調が良くなったが、平社員で仕事もあまりなくてどうしたらいいのか判らない状態が続きました。
定年退職した先輩に聞いてみたが、あまり元気な人は数多くいなかった。
転身した人の情報が入ってきて、そういう人は何か自分の求めるものがあるなあと思いだして、そういった人達に話を聞き始めました。
150人ぐらいの人から話を聞きました。
経済的な事、家族の事とか、駆られるように話を聞き始めました。
65歳まで勤める余地があったが60歳で辞めました。
一番初めは凄く開放感を感じました。

一般的にハローワーク等に仕事を探しに行くが、60歳を越えて今までの延長縁で仕事をしようとするとなかなかそういう場がない。
転身した人の話を聞いているという人がいると言うことで新聞にも載り、それが縁で新聞社のコラムにその人たちを紹介することになり、執筆活動が始まりました。
人に聴きやすいようにするために、大学で社会人学生の募集があり入学して、キャリアの研究と言うことで、話を聞くようにしました。
毎日が日曜日にはいい面と悪い面がある。
私の場合は書くと言うことがあったので、メリハリがありました。
今までいなかった人が24時間いると言うことになると、今までのペースがうまくいかなと言うことはよく聞き、家庭内でぶつかることが色々ある様です。
家でも管理職のように細かいことをブツブツ言う人もいると言うような話も聞きます。
日本の会社は居場所的、夜の一杯を含めて、一つの居場所になっている。
次の居場所を見付けるのがなかなか難しい。

ギャップをいきなり埋めることは難しい、そう考えると定年後については考えることは50歳ぐらいから始まっているのかなあと思います。
そのぐらいから準備をして行けば、ギャップを自分のものにして行く、10年やれば大丈夫かなあと思います。
それを育てながら定年を迎える、もうひとつの自分のある人は比較的スムースに移行していると思います。
趣味、ボランティアなどいろんな事、そういったものを育てて行く。
私自身は執筆以外に、「心の定年研究会」ということで会議室で2カ月に一度定年後について何人かで集まって話し研究する事を13年間やっています。
去年まではマンションの理事長もやっていました。
大学の聴講生として、人事の仕事の事を勉強に行っています。
学ぶと言うことは重要なことだと思います。
40年間働くと8万時間弱だが、60歳から退職して75歳まで1日11時間として、その後平均余命が85歳とすると後の10年の自由時間が5、5時間とすると、自由時間を全部計算するとちょうど8万時間、定年後の自由時間が今まで働いてきた全ての時間よりも長い自由時間があると言うことです。
自分に意味がある時間に使うか、使わないかの違いが、取材してみて本当におおきな違いがあると感じます。

60歳から退職して75歳までは黄金の15年と言えるかもしれません。
ここを輝かせるかどうかが人生の後半戦の最大のポイントかなあと思っています。
最大のポイントは主体性、会社では主体性を薄くしながら、諦めながら働いている。
定年後は主体性がポイントになる。
ある取材した人、機械メーカーの45歳で支店長、リフレッシュ研修で3カ月外れるが、自分がいなくてもいい成績が出来ていることに気が付いて、このままでいいかと悩んで、50歳の時に見た新聞記事、施設に入っている方が頭を綺麗にして貰ったら施設の中を歩くようになったという事で、その人は美容師になろうと思い付いて、2回落ちたが3回目で58歳の時には美容師と介護ヘルパーの資格を持って、実務の修行をして、60歳の時には自分の美容室をもったと言う方がいました。
その後も元気に75歳になってもやられていて、当時と変わらずやっていて感銘を受けました。
保険会社の先輩で、定年の少し前に大学教授に成られて、ソフトボールを学生とやっていて楽しいんだと言っていたことが印象に残っています。

役職を取って上に上がっても次のステップが見えない方もいる。
週に3日とアルバイトをしながら博士論文を書いてる人がいまして、生き生きしている。
50歳からその人も関心を持っていたと言っています。
小さな会社にアルバイトに行って、小さな会社のいいところがいろいろ見えるので面白いと言うような感想の人もいます。
事務職だった人がスーパーの搬入作業、最初は抵抗があったが、やってみると身体を使うことのそう快感があり、体重も減ってきて思ったよりも面白いと言うことでした。
違うところが見える新鮮さ、楽しさもあると言うこともあると思います。
50歳ぐらいから取り組み始めることが大事だと思いますが、遅すぎると言うことはないと思うので、いま取り組んでいることによろこび楽しさを見出している人がいる、それも大事だなあと思いました。
長い間会社員でやってきた方は完全な悠々自適は難しいかなあと思います。
定年後も色々小さくてもいいから役割、責任、義務みたいなものをある程度持ちながら、小さくてもいいからそういうものを自分の中に持っていることが重要ではないかと思います。

小学校、中学校、高校など同窓会でサラリーマン以外の人と会えると言う刺激もあるし、しがらみの無い時代に戻れるので、そこから新しい事をやり始める人もいます。
人の繋がりという意味では同窓会は非常に大事だと思います。
小さいころ好きだったこと、小さいころコンプレックスを感じたことを変えるとか、積み残していたことなどを取り入れることによって、次のステップを踏みやすいと思います。
その方が素直な自分が出てくるので、見い出しやすい。
顔つきのいい人に成りたいと思っています。(淀川長治さん、植木等さん、藤田まことさん、さかなくんなどのように)
顔つきはごまかせない、要は良い顔になることをやればいいい、それを自分で見つけるしかないと思います。





















2017年11月3日金曜日

若宮正子(メロウ倶楽部副会長)      ・スーパーITおばあちゃん

若宮正子(メロウ倶楽部副会長)      ・スーパーITおばあちゃん
昭和10年生まれの82歳、高校を卒業して都市銀行に入り、関連会社を経て62歳で退職しました。
退職後は認知症のお母さんの介護で家に閉じこもりがちになりました。
もっと外の世界と繋がりたいと思った時、パソコンを知り衝動買いをしました。
でも悪戦苦闘の連続でした。
それでもパソコンの可能性を感じ独学での習得を決意し、のめり込んでいきました。
そして今ではIT機器を使いこなすようになりました。。
去年若宮さんはスマホのアプリケーションのプログラムを自力で製作し公開したところ、大きな話題になりました。
これらのアプリを管理するアメリカにある世界的なIT企業の新製品発表会に招待され最高齢のアプリ開発者として世界中に紹介されました。

パソコンは4台あると思います。
アップルに呼ばれてアメリカに行きました。
年に一回開発者会議があり、アプリを作っている人を呼んで新製品、バージョンアップなどを説明する会議です。
男女とか年齢とか差別しないでと言うことで呼ばれました。
オーストラリアから来た最年少の10歳の坊ちゃんと最高齢の私を紹介されました。
会場には5000人ぐらいはいたと思います。
アップルのティム・クックCEOにもあいました。
開発したのは「hinadan」と言うアプリですが、シニア向けのアプリとして作りました。
雛壇にお雛様をどういう配置をしてゆくかというものです。
どうしても判らないところは仙台の先生に教わったんですが、遠隔操作の形で教えてもらいました。
シニアが楽しめるアプリが無いので、若い人に作ってほしいと言ったが、そんなものはできませんと言われて、自分で作ればいいのではと言われて、やる気になりました。
かなりハードルが高かったです、ウインドウズは使っていましたが、アップル社なのでマックのパソコンでないと作れないので不慣れで、英語なのでかなり厳しかったです。

家庭にパソコンが普及し始めた頃に買ってしまいました。
ウインドウズ95が出た前でした。
自宅で暮らすようになると皆さんとおしゃべりができなくなり、母が要介護に入りつつあるころで、世話をするために家にいなければならず、パソコンがあればネットでおしゃべりが出来ると言うことを読んで買ったんです。(60歳頃)
テキストもなく、パソコン教室もなく、モデムも自分が買ってきてセットアップも自分でしました。
まず自分が必要なことだけを勉強しました。
本を読んだり、メーカーの人にも聞きました。
まず設定で大変な思いをしました。
判らない言葉も沢山あって、後に自分でパソコンの本を書いたときに用語辞典も作ってみましたが、日本語に表現するのも余ほど才能がないと無理だと判りました。
プロパティー、ウィザードなど日本語でとなるとますます判らなくなる。
15年前からパソコンの本を書きました。

ウオークマンは音楽を持って歩ける、コンピューターが身近になり面白く感じました。
今はスマートフォンでも画面が綺麗になり、グレードアップしないといけないと思って一生懸命勉強しています。
昭和10年東京で生まれて、学童疎開した最小年でした。
銀行に入社しましたが算盤の時代でした。
定年のころにはコンピューターが導入されまして、商品企画とかに銀行も力を入れ始めて私の出番もすこし増えて来ました。
両親のもとで兄弟3人で育ちました。
母を見送りましたが、母は100歳で亡くなりました。
外と繋がりたいとの思いもあり、パソコンを習得する大きな動機にもなりました。
メロウクラブに入ってパソコンの使い方、言葉使い、人生についても色々教わりました。
メロウクラブは今はインターネット上で展開している老人クラブです。(以前はパソコン通信) 会員は300人ぐらいです。
俳句、川柳の例会とか、話し合うとかのコーナーもあります。

インターネットに繋がっているかどうかでその人の人生観まで変わって来ると思います。
ネットで世界中と繋がっていて、世界中の動きが把握できるし自分も情報発信もできる。
フェースブックでも沢山写真をアップロードしています。
返信で色んな方の反応も感じることが出来ます
海外にも毎年行っています、ヨーロッパなど50カ国に行っています。
海外から例えばイタリア語で投稿があって、翻訳ソフトがあるので、受けたものの返事もしています。
同年齢の方と一緒に楽しんでるような形でパソコン教室をやっています。
3~4人で、週に一回ぐらいでやっています。
エクセルでセルに色を付けたり罫線の形を変えたり色を変えたりして、絵になるんです。
図案を作ってブックカバーにしたり、色々作ったりしました。(10年以上前から)
立体化ソフトもあり、自分の作った図案を立体化して楽しんだりしています。
「エクセルアート 展示館」で出てくると思います。
プログラミングの基礎からやってみたいと思っています。
将来何か伝統文化に根付いた新しいアプリが作れれば良いなあと思っています。
源泉は好奇心だと思います。

政府の「人生100年時代構想会議」の有識者委員の13人の一人に選ばれる。
人生100年時代に向けて、教育、福利厚生など、設計図を書き変えないといけなくなって、どんな風なかたちで作り上げていったらいいかを多方面から考える。
教育はかなり大きな問題として取り上げらているが。高齢者にたいする何らかの再教育が必要だと思っています。
科学技術が進歩しているので、それにふさわしい再教育が必要だと思っています。
これからは長く働かなくてはいけないのでICT(Information and Communication Technology)の知識がないと厳しいと思います。
これからの時代は人工知脳の時代になってしまうので、これからどういう人が生きのこれるのか、人間の脳と人工知脳とのガチンコ勝負になると思うので、これからの子供さんは人間力を養うのが大事だと思います。
人間でしかわからない様な事を大事にしていかなければいけない様な気がします。
創造する楽しみは当分主役は人間だと思います。


















2017年11月2日木曜日

望月絹(江戸屋旅館27代目女将)      ・南アルプス 麓の一軒宿

望月絹(江戸屋旅館27代目女将)      ・南アルプス 麓の一軒宿
山梨県早川町赤沢に江戸時代の面影を今に伝える一軒の宿屋があります。
宿を切り盛りするのは江戸屋旅館27代目女将、望月さん(93歳の現役女将)。
鎌倉時代日蓮が開いた日蓮宗の総本山身延山九遠寺と、その信仰の山七面山を結ぶ参詣道の宿では昭和の中頃まで6軒の宿が軒を並べ険しい山中の参詣道を行く旅人の宿としてにぎわっていました。
赤沢の集落は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、現在営業している宿屋は望月さんの旅館一軒になりました。
宿場町の伝統を守り、信仰の旅人を温かく迎え道中の糧となるおにぎりを提供し続けてきた宿の女将望月さんに伺いました。

50町行くと七面山 今から紅葉になるので綺麗です。
家の前にイチイの木があり赤い実がなります、200年近い木だと思います。
お客さんは信仰のお客さんです。
白装束で「南無妙法連華経」とたいこを叩いているお客さんもいます。
今は観光客がバスで往復していてここは関係ないですが、昔はここを通らないといけなかったですが。
100人泊ったこともありますが、今は古いからそんなにお泊めできません。
おにぎりは500人、登りに500人、下りに500人です。
150gぐらいで団体によってこぶ、梅干しなどを入れたりします。
おにぎりも熱いうちに握らないといけないので手を真っ赤にしてやっています。
7時には弁当を持って上がります。
11時ごろには戻って来ます。
外人さんもいます。

小学校にあがるころは白装束のお客さんで一杯でした。
遅くなると懐中電灯はなくて提灯を持っていました。
「しょいこ」が荷物、食糧をしょったり、石油までしょって行きました。
おんぶしたり、かごを担いだりして、生計を立てている人たちがいました。
電気は子供のころは入っていましたが、ランプのところもありました。
薪ではいっぺんに燃え付かないので、へっついに杉っ葉、もやをくべて、薪をくべてはじめて燃えて、ご飯も薪、お風呂も薪でした。
山から呼んである水を我家まで来て、他の5軒のでは自分の家まで水を担いで、自分の家のかめに一杯にして柄杓で使うんです。
昭和22年に結婚しました。
子供が大勢いる時代で当時の子供達は奉公にいったりしていました。
小麦がとれてほうとうと言って野菜を一杯入れてうどんを食べました。
豚肉、牛肉などは食べられませんでした。

戦時中はいろいろ怖い目に逢いました。
この辺には爆弾が7つ落とされました。(20年3月)
戦時中はお客さんも自分を守るのが大変でお客さんはきませんでした。
さつまいもを作っても供出で、供出、供出で大変でした。
江戸屋は長男が継いで、次男は家を建てて貰って新屋で、私の家は江戸屋の新屋なんです。
そうして江戸屋の地類が5軒あります、皆望月です。
ですから私は新屋から本家に嫁ぎました。(17歳で許嫁になりました)
夫になる人は戦地に行っていて昭和21年に戦地から帰って来て、22年に結婚しました。
戦後ぼつぼつお客さんが来るようになりました。
男3人、女1人 4人生んでいるので大変でした、食料も無かった時代でしたので。
トイレの肥え桶を担いで、人を頼んで男も女も畑にまいていました、
お客さんと村の言葉は使い分けていました。

お客さんも来る時は白装束ですが帰る時はスーツに着替えて、来る時と帰る時では段違いです。
身体も元気なのでこの歳までおにぎりを握ることができます。
身体が続く限りは元気に頑張りたいと思います。




























2017年11月1日水曜日

小島秀康(国立極地研究所名誉教授)    ・隕石からのメッセージ

小島秀康(国立極地研究所名誉教授) ・隕石からのメッセージ
南極大陸や北極圏の観測研究を行う国立極地研究所で長年隕石の調査研究を続けて来ました。
隕石は世界中で見つかりますが、これまで最もたくさん発見されている場所は南極大陸です。
現在までに確認されている隕石のおよそ70%を占めると言うことです。
小島さんは日本に隕石の研究者が少なかった1970年代から研究を始め、南極観測隊にも5回参加して一度は隊長も務めました。
南極ではその都度多くの隕石を発見して、世界でもっとも多く隕石を見てきた研究者の一人と言われています。
現在も隕石とかかわりを持ち続けている小島さんに伺いました。

2013年2月にロシアのチェリャビンスク州付近に落ちた隕石、間違いなく隕石だと思いました。
隕石自体は古い、地球が出来た時と同じ頃に出来て、特徴としては地球の空気を通り抜けてくるので溶けた跡が残っているので、それがあれば隕石と判ります。
大きさは小さいものから大きいものまであります。
小惑星帯(火星と木星の間に有る)所からくると言われているが、そのほかに月、火星、彗星からもきます。
宇宙が出来たのが138億年前と言われているが、太陽系は46億年、1サイクル、2サイクルぐらいたちます。
地球にある石は40億年位です。
プレートテクトニクスで地球の内部に引き戻されて、溶けてしまうので溶けてリセットされてしまう。
地球の年齢も46億歳 宇宙から来た隕石によって判りました。
隕石がどういう鉱物で出来ているかなど興味の対象によって色々変わって来ると思います。

小惑星帯は隕石のもとになる天体が沢山分布しています。
ぶつかって弾き飛ばされて、飛び出したのが隕石です。
最終的には太陽に落ちて行ってしまいます。
太陽は引力が強いのでものを全部引き集めます。
太陽に落ちる一部分がやって来たのが地球と言うことになります。
月、火星、彗星からもきます。
日本の南極観測隊は1万8000個隕石を集めていますが、月は10個程度火星も同様です。
落ちてきたのは2000年から数万年前に落ちたと言われています。
46億年の姿をとどめているのは隕石しかなくて、地球の古いことを知ろうと思うと隕石を調べるしか手がないです。
隕石は遠い過去からの手紙だと思っています。

長野で生まれて子供のころは川の石を集めていました。
石の美しさに魅かれました、犀川のヒスイとか。
球顆流紋岩 (青みがかった黒い球形状)の特殊なものがたくさん見つかりました。(小学校高学年)
中学の時はバレーボール、高校は地学をやっていました。
北大を目指したが、大学は秋田大学でした。
鉱山学部が有名でした。
先生が純粋な岩石学者でした。
どういう鉱物で出来ているか、1~3ミクロンでも組成が全部判る様な分析装置があり、それを使って花崗岩、変成岩を作り出している鉱物を分析をしていました。
出来た時の温度条件などが判ります。
隕石と出会ったのは南極に行ったときで、1978年に初めて南極に行きました。
大学院を出てすぐの時でした。

地学のリーダーだった人が極地研の人だったので、先輩だったのが縁でした。
第20次越冬隊に参加、越冬隊が3回、第39次(1997年から)第44次(2002年から)、夏隊が2回 第27次(1985年から)、第51次(2009年から)5回参加。
第44次越冬隊隊長も務める。
最初行ったの時の印象がすごく強かった。
音のない世界、風の音しかなくて、風の音がないと音のない世界でした。
南極観測隊はそれぞれのプロが行っているので、半分は研究者、それを支える立場の人で、凄いと思いました。
昭和基地から300kmのところに行く機会があり、隕石が見つかるだろうという期待があり、トータルで3000個を超える隕石が見つかり、月の隕石も見つかりました。
気候のメカニズム、まわりが氷、雪なので岩石質のものが判りやすい、それが南極で多く見つかる要因だと思います。
隕石がある氷の層が動いて行って、ぶつかる山、山脈のある地形でないと見つかりにくい。(当時の情報量はすくなかった)

氷は蒸発して隕石だけが残る。
一サイクルで80万年とかかかります。
南極は宇宙空間に開かれた窓といった感じです。
越冬しないと隕石を探す様な状況は生まれなかった。(探すのは夏場)
私の隊では1万8000個のうち半分ぐらいは見つけ出しています。
大和山脈まで2週間かかります、調査期間を入れて3~4カ月かかります。
他にはアメリカなどが主体になってやっています。
分類、整理、保管をしますが地味で根気が要ります。
一個一個重さを測り、見栄えの良し悪しなどを調べます。
ざっと60種類に分けられます。
炭素質隕石(溶けて居ない隕石 有機物を含まない様な隕石数百個に一個ぐらい)に特に興味があります。
一個一個は宇宙全体を表している駒と言うふうに考えることが出来るので駒が有ればある程画像が鮮明になるので、隕石はたくさん集めたほうがいいと思います。
今は情報を集めるために極地研にいっていると言った方がいいかもしれないが、本当はもう一回南極に行きたいが。
一般の人に隕石をもっと知ってもらいたいと思います。












2017年10月31日火曜日

桑原衛(NPOふうど代表)        ・自然のエネルギーで暮らしを作る

桑原衛(NPOふうど代表)    ・自然のエネルギーで暮らしを作る
埼玉県小川町で自然エネルギーを利用して循環型農業を実施しているグループ。
家庭から出る生ごみをバイオガス技術で液体肥料とガスを作り、液体肥料で有機農業をおこないガスで発電しています。
生ごみを提供する町民には地域通貨を渡し、季節の野菜を購入すると言う地域内の経済サイクルも行われています。
桑原さんは60歳、東大工学部で水資源の開発や利用法を学び、ODA政府開発援助や、JICA (国際協力機構)等で発展途上国の水資源開発に関わってきました。
この活動を続けるうちに、桑原さんはネパールでバイオガス技術による自然エネルギーを利用した生活に触れ、同時にその土地の風土を生かした暮らし作りを進める、地理学者三沢勝衛の理論にも出会い、バイオガス技術を利用し、地域に合った暮らしを小川町で始めました。
「ぶくぶく農園」と名付けた桑原さんの経営は米、野菜、果樹、養鶏、養蜂など沢山の作物を作ります。
この循環型農業に賛同して小川町に移り住む若い人が増え、NPAふうどの会員は40人を越えました。

家はできるだけ農業資材を使わないで作ると言う農業を目指しているので、なんでこれで虫が付かないのだろうと不思議がるが、色々秘密があります。、
無農薬、化学肥料を使わない。
「ぶくぶく農園」 私は元々土木技術者でバイオガス技術に引かれて色々な活動が始まっています。
ベースになっているのが微生物です。
微生物がぶくぶく元気に育っている様にと言うことで「ぶくぶく農園」になっています。
バイオバス技術は原料はそこにある有機物を有効に利用しようと言う技術です。
学校給食、家庭の残飯を集めてガスを発酵させてガスを作ります。
農家がメインで集まって、農業の肥料を作る、地域で使えなくなったものを街作りに生かしていこうと言う活動をしていて、中心になっているのがバイオガス技術です。
1990年ごろにバイオガスプラントを作って作ってそれを生かして町と連携して生ごみを肥料にしてエネルルギーにしようとしています。
小川町の役場が事務局になって有志が40人集まり議論して、その分科会が生ごみを生かして行こうと言うことで15年、ようやく今の形が出来て来ました。

米がメイン、野菜全般、養鶏、養蜂(娘が全部やっています)などをやっています。
3ヘクタール位を借りてやっています。(私、妻、娘)
畑で鶏の餌を作って残渣を畑にすき込んで、養鶏で鶏糞を畑に入れて、肥料は買わないです。
自然循環型農業、循環を成り立たせるためには色んな人の協力、困難さが色んなところに隠れているとつくづく思います。(理想だとは思っていない)
小川町自然エネルギー研究会を有志と一緒に立ち上げました。
1998年に自然エネルギー学校を立ち上げました。(日本で最初)
農家がメインでほぼ有機農家、町民の生ごみ、学校給食から出てくる残飯。
運ばれてきた残飯をバイオガス技術を使って資源化する。
農家にとっては肥料が得られる、役場では焼却処分しないで済む、処理コストが安いので税の節約、もったいなさが救われる。
バイオガス技術は日本各地にあるが、施設が立派で施設コストもかかるし、運転経費もかかる。
設計は自分たちでやって、建設は地元の大工さん、運転は農家がやる、維持管理はNPOがやって日本でもっとも経済性のいいプラントにした。

生ゴミ提供家庭には年間3000円相当のものを渡すと言うことにしました。
「ふうど」と言う地域通貨を作って、それを使うと小川の野菜が買えると言うことにしました。
見学する方が多いですが、たんぼのなかにぽつんと建っているだけです。
小川町を選んだ理由
①一番上の娘が気管支が悪くて早く東京から離れて空気のいいところに行きたかった。
②1987年ジャイカでネパールに行っていたときに、バイオガス技術に出会って非常に感動しました。
牛の糞でガスを作って肥料を作っていた。
それがきっかけで1990年四川省にバイオガス研究センターで勉強して、帰ってきてバイオガスをやらないかとアナウンスして、その時に声がかかったのが小川町でした。
自分が図面を書いて、皆で穴を掘ったりしながら手作りで全部作りましたが、それがとても面白かった。
バイオガスキャラバンを始めました。
ボランティアでバイオガスの建設に協力してもらう、学ぶために、自分のために、人のために 3回協力してもらう。(建設コストはかからない)
資材の基地が小川町でした。

大学で水門学を勉強しました、雨が降って一部が川、地下、蒸発してぐるぐる回っている。
安心して使える水の量、大雨が降った時に堤防の高さをどのぐらいにしたらいいかとか、
水をめぐる色々なことを勉強するのが水門学です。
三沢勝衛の風土に合った暮らしがあると言う説に出会った。
「風土産業論」を書いた人で、外にものを探すのではなくて地域にあるものを如何に活用するか、それが地域を豊かにして行く。
地域にあるものをいかに読み切るかと言うことを、もっと勉強する必要があると言うことが全体を通してのメッセージです。
これがもとになり自分の方向が見えて来ました。(30代なかば)
小川町に来て色々な人に出会って良かったと思います。
いつも問題にぶつかりながら対応して来ていて、今も続いています。
どうやって後継者を育てていくかと言うことがすごく大事で、自分に反発してくる後継者が育ってくれる必要があると思います。
教えてしまうと失敗が出来ない、失敗をする機会を失ってしまう。
自由に色々やってもらうことで、町のいい後継者を作ることだと思いますが難しいことで、忍耐力が必要だと思います。
大震災が2011年にあって、人が変わったように思います。
家族とは、どういうふうにして自分の暮らしを守って行くのかとか、立ち止まって考え直したのではないかと、日本中で起こっているのではないかと感じています。
4年前ベトナムに行く機会があったが、或る村の村長が35歳で、村を動かしている人たちはみな30代で、60代の人たちは悠々自適でやっていて、30代、40代の人たちがどんどん表に出て行く形、問題があった時には我々が助言が必要であれば助言する、そういう町であってほしい、そう言う有機農業のグループであって欲しい。




















2017年10月30日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・【絶望名言】中島敦

頭木弘樹(文学紹介者)        ・【絶望名言】中島敦
「俺は詩によって名をなそうと思いながら進んで詩についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に務めたりすることをしなかった。
己のたまに有らざることを恐れるがゆえにあえて刻苦して磨こうともせず、益々己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。」(「山月記」からの抜粋 中島敦

中島敦は1909年生まれ 太宰治、大岡昇平、松本清張も同年に生まれている。
「どんなに面白い作品でもテキストとして使うと途端に面白くなくなってしまう。」
と言っている。
何故虎になるか、人の性格、性質は猛獣みたいなもので、それを猛獣使いのようにうまくコントロールしなくてはいけないが、自分はそれに失敗したので虎になってしまったと言っている。
心の中の猛獣、「山月記」の場合は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。
それが先ほどの冒頭の引用の部分。
詩人になりたかったのに全力では努力しなかった、自分に才能がないかもしれない、才能がない場合全力で努力して詩人になれなかったら、自尊心が傷ついてしまう、それが恐ろしくて努力できなかった。
一方で才能があるのではないかと言う思いもあったから、諦めきることもできなくてどっちもできなかった。
そういう心理を臆病な自尊心、尊大な羞恥心と呼んでいる。

自分で自分にハンディーを与えて失敗した時に、自尊心に傷つかないようにあらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行ってしまう。
「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために堂々とした詩家に成った者が幾らでも居るのだ。
それを思うと俺は今も胸を焼かれるような悔いを感じる。」

「落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの余見からてんで努力をしようとせず辱めを受けたり気まずい思いをしたくないため、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人に依頼することが全然できなくなってしまった。(カメレオン日記から)
成功しないだろうからそもそも努力しない、厭な目に逢いたくないから人と付き合わない、相手から嫌がられないように人に何も頼まないようにする、ネガティブシンキング。
厭なことが起きない代わりに良いことも起きない。
人はずーっと同じ状態が続くと段々不幸な気持ちになるらしい。
幸福な気持を或る程度保つためにはずーっとちょっとずつ良い事がないと無理で、ずーっと同じ状態だと段々不幸な気持になって来る。
快適な生活を続けていると僅かなことでも不快に感じるようになる。
幸福に生きていたいと思ったら、不快も必要なんです。
ポジティブシンキングでもなくネガティブシンキングでもなく、程ほどが良いわけです。
ほどほど、8分目食べなさいと言われても今6分目なのか7分目なのか8分目なのか、なかなかわからない、失敗しながら身につけて行くしかない。

パラオから妻にあてた手紙
「そりゃあね、丈夫な人ならそうして後20年ぐらい大丈夫、生きられる自信のある人なら2年や3年おまえたちと離れて情けない暮らしをしても、後でそれを取り返すことが出来るんだから良いさ、しかし僕には将来どれだけ生きられるやらまるで自信がない。
それを思うと見栄も意地もない、ただただお前たちとの平和な生活を静かに楽しみたいと言うだけの気持ちになる。
それが一番正直なところなのに、おれはいまごろこんな病気の身体をして南の果てをうろついているんだ、全く大馬鹿野郎だな俺は。」 昭和16年9月20日 パラオ
喘息が持病だったが、暖かい方がいいということで、たまたま南方の仕事で行く機会があった。
給料の1/3が薬代に費やされたと言う。
行ったとたんに南国ならではの病気もあり、病気になってしまう。
嘆きの手紙を奥さんに送っている。
中島は自分が子供のころには家庭に恵まれなかった、両親が離婚、母親とは行き別れ、父親が再婚するが二番目の母親からは虐められ、三番目の母親は浪費家で借金に苦しめられる。
中島自身は結婚してからは家庭を大事にしている。
成績優秀で東京帝大を卒業して、大学院を途中で辞めて横浜の女子高の先生になってしまう。
学者になりたかったのではなくて小説家になりたかった。(小説家になる為に時間がとれる方を選んだ)
喘息の病気になってしまい、お金に困り小説もうまくいかない。
そのままの状態で南国へ行ってしまうが、南国での病気になってしまう。

「夜床に就いてからじっと目を閉じて人類が無くなった後の無意味な真っ黒な無限の時の流れを想像して恐ろしさに耐えられず、アッとおおきな声を出して飛び上がることが多かった。
その度に幾度も父に叱られたものである。
夜電車通りを歩いていて、ひょいとこの恐怖が起こって来る。
すると今まで聞こえていた電車の響きも聞こえなくなり、擦れ違う人の身も目に入らなくなって、ジーンと静まりかえった世界の真ん中にたった一人でいるような気がしてくる。
その時彼の踏んでいる大地は何時もの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった冷え切った丸い遊星の表面なのだ。」 (「狼疾記」の一節)
宇宙的孤独、無の世界を心配している。

「その一指を養い、しかもその肩と背を失いても知らざれば、すなわち狼疾の人となさん」 孟子の言葉
一本の指をかばって、逆に肩や背まで失ってしまうような人は心の乱れている人だ。
短編の最初に引用している。
優先順位を間違えてしまう、それをやってしまうのが人間。(肝心なことを失敗する)

「自らの定め知りつつなお高く登らんとする人よせつなし」
「ちかすがになお我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも」
「有るがまま醜きがままに人生を愛せんと思う他に道なし」
「石となれ石は恐れも苦しみも怒りもなけんはや石と成れ」
「いつかこん滅び知れれば人の命いや美しく生きんとするか」
「昭和12年の短歌作品 28歳」
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、ぜんそくと気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。

人にはその人にふさわしい出来事しかできないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きてふさわしくない人生を送っていると感じている人達、そういう人たちは多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみることがあるのではないかと思います。















2017年10月29日日曜日

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る

釜本美佐子(NPO法人日本ブラインドサッカー協会代表理事)
釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)
・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る

ア:釜本邦茂選手はメキシコオリンピックで6試合で7得点を取り、大会の得点王となる。
釜本美佐子:視覚ブラインドサッカーはかなり知られるようになってきたが、認識ではまだマイナーではないかと思っています。
視覚障害者ですら視覚ブラインドサッカーを知らない人がいます。
ア:2004年のアテネから正式種目になり、日本は4回のパラリンピックではまだ出場がない。
釜本美佐子:2020年の地元開催と言うことで、今回初めて出場することになりました。

釜本美佐子:5人兄弟で兄が2人、私がいて、下に邦茂(4歳違い)、その下に妹がいます。
弟が中学に入って、何にしようかと思ったときに、その時に私がサッカーを勧めました。
釜本邦茂:もしかしてオリンピックに出られると言われて、サッカーにしました。
釜本美佐子:私は英語を勉強する方向に行きました。(海外が一つのモチベーションになったと思います)
ア:大阪外国語大学で英語を学んだ後、通訳の試験に合格、大手旅行会社の第一期のツアーコンダクターとして採用されて、140カ国余りに日本の旅行客を案内しました。
講演、旅行の本も数多く出版、10数年後子供たちのための英語塾を開きました。
50歳過ぎに突然目の病気で、いずれ失明すると宣告されました。
日本ブラインドサッカー協会を作ることになって、2002年発足と同時に理事長となってそれから15年協会のトップを務め続けています。
5年前視力が全くなくなりましたが、一人でマンションで暮らし、ブラインドサッカーと視覚障害者のための活動に忙しい毎日を過ごしています。(現在76歳。)

釜本美佐子:ツアーコンダクターと言うことで海外に行くと言うことになったのは一つの分岐点だったと思います。
突如目が見えないと言う状況になり、すべて放棄しなくてはいけなくなり、それが一番の精神的ショックでした。
網膜色素変性症協会に入り、会長もやって、目が見えないと言うことを受け入れることが又大きな転機になりました。
徐々に見え無くなって行って、色もピンク、黄色が見えなくなり色合いの世界も無くなっていきます。
今は全く見えないが、家の中では日常生活、料理も自分でやっていて外出はヘルパーさんが来てくれるので毎日の生活としてやっています。
網膜色素変性症は日本に3万人いると言われる。
「3秒悩んで決める、判断基準は後悔しないこと」
決断は早いです。
間違っていたら決断をし直せばいいし、くよくよ悩まないをモットーにしています。

釜本邦茂:気が強いし、凄いなあと思います。
楽しい自分の人生をしているなあと思います。
釜本美佐子:早稲田大学の最後の試合は家族全員で見に行って、就職先が決まっていないと言うことでしたが、翌朝の新聞でヤンマーに決まったと新聞に書いてあり、新聞で知りました、自由な家族だったと思います。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのことは全然知らなくて、やり方も知りませんでした。
釜本美佐子:2002年に日韓ワールドカップが行なわれたが、2001年に韓国に行って視覚障害者のブラインドサッカーを導入して、普及活動を11月に大阪府立盲学校で行いましたが、その時に弟が来てびっくりしました。
釜本邦茂:大阪協会の岩井さんに観に行きませんかと言われて行きました。

釜本美佐子:ブラインドサッカーは私の後半の人生を大きく変えてくれました。
視覚障害者がサッカーが出来る、こんな素晴らしいことはないと思いました。
日本でもやらなければ、と言う思いで韓国から帰って来ました。
5人制のサッカー 4人が全盲、全盲に近い 40m☓20mの面積、ゴールキーパーが一人。
声を出してくれるガイドがいて、ボールはシャカシャカと言う音が出るようになっています。
条件を同じにするために、全員がアイマスクをします。
声を出せるのは選手とガイドと監督だけです。
ボールを取りに行く時は声をかけないと反則になります。
シーンとして観客には見てもらいます。
釜本邦茂:横田基地から飛行機が飛んで来た時には試合が中止になった時がありました。

釜本邦茂:ブラインドサッカーのポスターに出ました。
ア:京都山城高校で高校日本一になり、早稲田大学では天皇杯の2回の日本一に成り、大学2年の時の東京オリンピックでベスト8のメンバー、メキシコオリンピックではブラジル、スペインと引き分けて決勝ラウンドに進み、順々決勝の時フランスに釜本さんが2点を入れて勝ち、準決勝ハンガリーには破れたが、3位決定戦で2点を釜本さんが入れて2-0で勝ち銅メダル、この大会では7点をあげて大会の得点王となりました。
ヤンマージーゼルではリーグ7回の得点王、チーム優勝4回黄金期を築き、日本代表を14年間務め日本サッカー協会の最多得点保持者になっている。
ガンバ大阪の初代監督、日本サッカー協会副会長、参議院議員を務める。

釜本美佐子:一番の追っかけは母親で私は二番目でした。
釜本邦茂:海外のプロチームからのオファーが5カ国からありました。
行くのだったらドイツと思ったが、肝炎になり行きませんでした。
ア:ブラインドサッカーでは3年前世界選手権で12カ国が出場、日本は6位、現在ランキングは8位。
釜本美佐子:選手の若返りが必要で、ここで若返りをしないと2020年が苦しくなるという危惧があります。
競技人口は日本選手権の出場チームは全国で19、20チームになってきています。
釜本邦茂:日本のサッカーチームも若返りが必要だと思います。
今は役割が決まっていなくて、点を取れないことにもなってるのかもしれない。
11人同じ練習をしていてもしょうがないと思う、個人の練習をしないといけない。
スペシャリストを作ってほしいと思っている。
強くなってゆくためには①普及、②強化、③財政が豊か、3つの要素が必要。

















2017年10月28日土曜日

三田村邦彦(俳優)            ・新潟で育まれた俳優人生

三田村邦彦(俳優)        ・新潟で育まれた俳優人生
昭和28年生まれ、新潟県新発田市出身、俳優にあこがれ高校を卒業後に上京して俳優になります。
主演映画「限りなく透明に近いブルー」でデビューし,その後民放のTVドラマ、NHK壬生の恋歌など数々のドラマ、映画舞台に出演してきました。
俳優を志した三田村さんが地元、家族、仕事とどの様に付き合ってきたか伺いました。

30数年前、番組のドラマの主題歌など歌っていてコンサートをやりましたが、地元でやらないといけないと言われてやったが、二度とやりたくなかった。
伯父さんと目があったり同級生が手をふっていたり恥ずかしいなあと思って、それからはコンサートをやっていません。
昭和47年に高校を卒業して上京して、46年になります。
小学校の3年生ぐらいに俳優になりたいと思っていました。
アメリカ映画「雨に唄えば」を観て、その楽しさ、生き生きして、素敵な仕事だなあと思ったのが小学校の高学年の時でした。
父親からは医者に成れと言われていたが、役者になる夢はずーっと黙っていました。
中学2年で、ある人生計画を立てました。
高校は地元で大学に行くような顔をして勉強しようと決めました。
新発田高校2年で理系(医者になるには理系)を選び、その夏休みに大学の下見と言うことで、2週間東京に出ました。

あらかじめ調べておいて全て劇団、お芝居を見て、戻って来ました。
高校3年の時に大学の受験に行き全て白紙で出しました。
地元と東京の予備校の資料を集めて、東京の予備校にいくほうが進学率が高い事を父親に説得して東京に行くことにしました。
新宿から15分の小さい部屋のアパートを借りて、予備校には行かずにタレントセンターを受けて特待生として受かって、翌年文学座を受けようとしました。
父親にはもう嘘をつけないと思って父親に手紙を出しました。
1週間後にアパートの暗がりに女性(母親らしい)が立っていました。
恐る恐る行ったら「邦彦」と言ってウワーッと泣かれて、部屋に上がり話を一晩中話しました。
お前を連れて帰らないと私は家に入れてもらえないと言われてしまって、朝方に帰ろうと言うことになり、上野駅で特急に乗ることになり、ベルが鳴る前に飛び降りようと思いました。
ベルが鳴りこの機会しかないと駆け出したが、母親も必死についてきてしまいました。
力づくで母親を車内に押しやり、しまる瞬間まで押し込んで、僕はホームに素早く離れました。
母親が涙をぼろぼろ流して悲しそうな顔で僕をじーっと見ていて遠くなっていくが、その時にはさすがに心が痛かったですね。
4,5日してから父親から手紙が来て、嘘を言って親を騙して今まで生きてきて許せない、勝手にしろ勘当だと言う手紙を貰って、小躍りしました。
万歳しました、俺の人生の始まりだと思いました。

翌年文学座を5000人が受けて、一次試験で落ちてしまって、もう一回ちゃんと勉強しようと思って次の年に文学座、劇団青俳(滑り止め)を受けました。
文学座はやはり5000人ぐらいが受け、一次は受かって(100人ぐらい受かった)面接で親の援助があるか聞かれて勘当されたので援助は有りませんと答えました。
アルバイトはとび職など色んな仕事をしました。
親に頭を下げて援助を受けるように言われたが頼めませんとかなりの口論になりました。
文学座は多分駄目だと思いました。(やはりだめだった)
劇団青俳では一次が受かって、面接で木村功さんの舞台を見て感動してどうしてもこの劇団に入りたいと思うといって、親の援助はあるのかと聞かれ有りますと答えました。
(学習能力に依る嘘)受かりました。

アルバイトしながらですと、お金が底をついて出来なくなる。
金曜日の夜から土、日、月曜日朝までアルバイトをして3万円貰えた。(大卒初任給8万円ぐらい)
本公演、稽古、準備などがあり、下っ端は色んな事をやらなくてはいけなくて、2カ月アルバイトはできなくなり、1週間50円で生活したことがあります。
どうしようもなくなってアパートを変えると、小包みが届いていて、手紙、着るもの、お金が入っていたり、母親からのものでした。(何回かある)
ある主役の話があり断ったが、蜷川さんからお前は馬鹿かと言われました。
その後「限りなく透明に近いブルー」の話があって本を買って読んだら、判らなくて8ページ読んでゴミ箱に捨ててしまいました。
村上龍さんから会ってくれないかとしつこく言われて会って、台本を渡されました。
やっぱり良く分からなくて、本を捨てた話もしました。
どこが判らないのか検証しようと言うことで、直すよとそこまで言ってくれました。
でも断わってしまいました。
蜷川さんから又連絡がありお前みたいな馬鹿は見たこと無い、こんなチャンスは人生に一回無い方が多いのに、2回も断るなんてどうしようもない馬鹿だと言われました。
村上龍さんから連絡があり台本を変えたので、もう一回読んでほしいと言われて、ここまで変えてくれたという事で、映画でデビューさせてもらいました。
封切りが1977年だったと思います。

「例えば愛」と言うドラマでも出させてもらいました。
週4日、5日の収録で2日、3日のアルバイトをしていました。
「必殺仕事人」で京都にいったらアルバイト先が無くて、困って交渉して週3万円を支給してもらうことになりましたがギリギリの生活でした。
松竹の撮影だが東映の寮に1400円で泊っていました。
藤田まことさんからは食事によく誘ってもらいました。
どうしてこんなに引き出しの多い人だろうと思って、公私ともに観察しました。
或る時藤田さんから自分の事を少しづつ話して貰うようになって、藤田まことさんの人生は本当に大変な人生を送られたことが判りました。














































2017年10月27日金曜日

松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家)   ・わくわく読書(2)

松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(2)
東京に戻ってから、自分の家で文庫を開きました。
子供にサービスをすることをしたかった。
家を改造して週に一回近所の子供達に来てもらいました。
350冊ぐらいでした。
6月に開いて12月には倍になりました。
11月頃には登録者が100人ぐらいになりました。
家庭文庫ではアメリカで習得してやりたいと思ったことが100%出来ました。
読み聞かせの反応は凄かったです。
東京にある4つの文庫で働いている人たちが1月に一回集まって話をしていたのですが小さすぎると言うことで、少し大きい図書館がほしいと言うことになり、法人化したらどうかと言う話が持ち上がりました。
最初は建物もなく、アパートを借りて、すこしずつ広げていきました。
建物が出来たのは設立してから20年後になります。
法人化は石井先生の提案で、弁護士さんと話し合って、手続きを始めたが、財産もなく本当は認可されないような状況でした。

石井桃子さん、土屋滋子さん、佐々梨代子さん等が今後10年間これだけの寄付しますということで認可が下りました。
財政的には厳しくて、設立準備委員会の時代から出版を始めてその現金収入があり、支援の賛助会員の支え、寄付などで何とかやってこられました。
現在も厳しさは続いています。
心配性でなかったからやってこられたのかと思います。
一般の人の関心も高まって来ました。
中学に入って英語の勉強を始めましたが、英語が好きでした。
話す事に関しては大学で教わりました。
大阪の図書館で働いていたときに、訳してみませんかと言われて始めました。
その後次々に翻訳をするようになりました。
翻訳の仕事で生活を支えて来ました。

ブルーナさんはデザインの世界でも絵本の世界でも沢山の仕事を残されました。
オランダに行ったときに松井さんはこれはすごい本だと直感されて「うさこちゃん」の翻訳出版をしました。
石井桃子さんから翻訳を次は頼むと言われて、私はオランダ語が出来ないのでオランダ語を勉強すると同時に、野坂悦子さんに原文を単語を一つづ意味を書いてもらって、意味を大事にして4行に収める事を考えました。
オランダ人の勤勉さ、清潔さ、日常の生活をしっかり生きている、そういう子供の生活を本当によく描いています。
いい絵本を読んでやっていると子供達は本の中に入り込んでいると言うことがよくわかります。
子供と一緒に本を読んでいると自分一人では起きない事が起きます。
子供が小さな事に対しても目を通して、子供がいうことでえっと思う時があります。

アメリカにいるときは英語の読み聞かせもやっていました。
反応は全く同じです、同じ所で同じ顔をします。
違うところは日本の子供はキスと言う言葉などには過剰に反応します。
日本語の文章はは高低のアクセントで、英語はアクセントが強弱なので、いい英語の本は声を出して読むとひとりでに強弱のリズムが付いてきて心地良くなります。
200冊ぐらいを訳してきました。
世界中のいい児童文学を日本の子供は読めると言うことが幸せだと思います。
空想の世界の楽しさ、ユーモアとかが外国文学にあるので幸せだと思います。
子供が本を好きになる秘訣としては、子供の生活の中に本があるという事と、大人が子供に本を読んでやる、この二つだと思います。
子供の時に本を読んでやっておいたら、大人になった時にこんないいことがあると言うこともあるかもしれないけれど、子供が子供の時点で楽しい思いをするのだったら、後に影響を残さなくてもいいと思っています。
結果のために今本を読むと言うことではないと思っています。
楽しさを子供の時に味わってもらいたいと思います。

















































2017年10月26日木曜日

松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家)   ・わくわく読書(1)

松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(1)
東京中野区にある東京子供図書館は公益財団法人の図書館で子供の本と読書を専門としています。
図書館を設立したメンバーの一人松岡さんは82歳です。
アメリカの大学院で児童図書館学科を専攻した後公共図書館で児童図書館員として勤務しました。
日本に帰国後大阪の図書館に勤務しましたが、子供の仕事を専門に続けることが出来ないことが判って東京の自宅で家庭文庫を開きました。
300冊ほどの本でのスタートでしたが、アメリカの図書館で行っていた読み聞かせなどのサービスを実施しました。
その後松岡さんの文庫など都内の家庭文庫が母体となり東京子供図書館が設立されました。
子供に読書のわくわく感を伝えようと活動を繰り広げる東京子供図書館、1日目は図書館を設立するまでを中心に伺います。

うちでは読んでもらいたい子供には心行くまで読むと言うことをしているので、ずっと帰るまで読んでもらっている子もいます。
そばに本が有るだけでもいいし、本が有る場所に身を置くと言うことでもいいし、本の持っている力が本の中に有ると思うので、空気のようににじみ出て、その空気の中に身を置くと言うのはいいことだと思います。
児童室には8000冊ぐらいで、少ないがほとんど基本的な要求は満たすことが出来ると思います。
私は本が好きですし、子供が好きです。
子供のころはそんなに本を読んでいたとは思いません、本はあまりなくて図書館などはありませんでした。
繰り返し読んでいたことは事実です。
8歳上の姉に親が本を買ってくれてそれを読んでいました。
一人でいることが好きでぼんやり空想をすることをよくしていたように思います。

小学校には体育館がなくて体育の日が雨の時にはよく話をする機会があり、よく先生に呼ばれて本の話をしたりして、人に話をすることが好きだったんだと思います。
自分で本が手に入るようになってからは随分読んだと思います。
高等学校の時に転校しましたが、図書館に本が沢山あり毎日通って本を読んでいました。
一日一冊と自分で決めて手当たりしだい読みました。
この世の中には自分とはまったく違う興味を持って、まったく違う境遇で、まったく違う生き方をしている人たちが大勢いることが、私の中に育ってきたように思います。
子供の本に関する仕事をしたいという願いは漠然とありましたが、職種としてどんなことが有るか分からなかった。
小説を書こうかと思ったが、やって見て駄目だと思いました。
英語をやれば役に立つと思って大学では英語の勉強をしました。
卒業後、家庭教師をしながら過ごしていました。

新聞の片隅に慶応大学の図書館学科で学生を募集していると言う小さな広告を見て、図書館学科と言うのは聞いたことがなくて、卒業論文を書くときにライブラリーと言う言葉によく出会って、児童文学とライブラリーがなんとなく関係があると言うことがわかっていたので、図書館学科では子供の本や子供の文学の事を勉強できるのではないかと思って、出かけて行って編入試験を受けて3年生に編入しました。
踏ん切りのつかないたちですが、その時の行動は自分でも不思議に思っています。
勉強は分類法、目録法、参考資料などが主なことでしたが、目録には興味が持てませんでした。
渡辺 茂男先生がアメリカで勉強して、児童図書館員として働く経験も持って、子供に対する読書サービスの事を教えていただいて、とっても嬉しかったです。
子供の時に図書館の存在を知らなかったので、慶応大学の図書館学科に行って一番よかったのは、そこで公立図書館の存在とその役割の大きさについて知ることが出来たことです。
アメリカの公立の図書館には必ず児童室があって、専門の児童図書館員が子供達をいい読書人に育てるための色んなサービスをおこなっているということを知って、子供と一緒に本を楽しんで、話を語ったりする事が仕事として出来ることが夢のようなことでした。

終戦後、占領軍の教育視察団が日本の教育は余りにも学校教育に偏重しすぎて、社会教育に全然関心が向けられていない、だから日本を民主国家にするためには、学校だけではなくて公立の公共図書館が社会教育の中心にならなくてはいけない、そのためには公共図書館で働く図書館員を育てなくてはならないということで、アメリカの図書館協会から先生が派遣されてたち上げた学校だったので、公共図書館の存在と子供にサービスをするということを叩きこまれたことは本当にありがたかったです。
日本には児童図書館員と言う職業はなくて、図書館学科の図書館員として働いていたら、留学の機会に恵まれました。
アメリカのミシガン州のウエスタンミシガン大学の図書館学科(大学院)に留学しました。
難しい分類法、目録法等は日本で勉強しているので取らなくていいと言ってもらったので有難かったです。

子供の読書に関する色々な科目だけを取れたので、充実したいい時期でした。
地元の児童図書館を見学などもさせてもらって、実際の体験をしてみたいと言う気持ちが強くあって、先生から声をかけてもらって市立図書館に面接もなく採用されました。
ボルティモアは98万人ぐらいの都市で、中央館のほかに25分館があり、一番小さい図書館に配属されました
館長(大人担当)と児童図書館員1人で、そこに私が加わりました。
子供達から色々要望されて、行ったり来たりして足が膨らんで靴がはけられなくなるぐらい動きました。
夏休み前は8つの学校の各クラスに行って、夏休みになったら来て下さいと行って廻ったりして、色々楽しくやりました。
市には児童図書館員が35人ぐらいいて、毎月一回ミーティングしたり、本の選択委員会があり、新刊書の検討をして購入するかどうかを討議して決めたり、新人の研修会で話し方の研修があったりして、いい図書館員になるためのプログラムが有りました。
この分館では8割がたが黒人の地域で、図書館がなければ本を読めない様な所でしたが、いい本がたくさんあるのでよろこんで読んで帰っていました。

学生ビザで行っていたので、延長するとなると移民局に行って手続きをしなければいけなくて、日本に早く帰ってこのような図書館をやりたくて1年で帰って来ました。
大阪の市立中央図書館の小中学生室で働くことになりました。
アメリカと日本は驚くべき差でした。
受験生の勉強部屋でした、800席も有るおおきな学習室があり、図書館の本は一冊も使わずに自分の参考書で勉強する、と言うようなところでした。
本を読んであげようかというと変な顔をされたりしました。
余り厭だと言わない小さな子に読んであげていたら、友達を連れて来て、聞いてくれたりしました。
本を読んで聞かせることを一生懸命しました。
複本は入れない規則があるとか、図書館員は児童室に入れる本を選ぶ権利がなくて、アメリカとは考えられない差でした。
一番大変だったのは人は3年働いたらそこにはいられないという規則も有りました。
2年半働いて辞めることになってしまいました。


















































2017年10月25日水曜日

大野田勝行(元航空工学エンジニア)    ・命を守る飛行機を

大野田勝行(元航空工学エンジニア) ・命を守る飛行機を
戦時中日本軍が行っていた特別攻撃、特攻、そのために開発された兵器の一つが航空機型の特攻兵器、「桜花」です。
神奈川県横須賀市に有った海軍航空技術廠でひそかに作られました。
名古屋市に住む大野田さん(95)は「桜花」の設計や製造に携わったエンジニアです。
当時どのような心境で「桜花」を作っていたのか、戦後も旅客機の開発に携わった大野田さんは今飛行機にどのような思いを寄せているのか伺いました。

「桜花」はロケット機で自分からは飛べない、飛行機にぶら下げて行って、ロケットに点火して飛び出す。
ロケットエンジンで目的に突入するわけです。
「桜花」の操縦席の前は爆薬、操縦席の後はロケットエンジン、真ん中に兵隊さんが乗る訳です。
着陸する車輪もない、(そりの様なものは有るが)
長野県の松本で生まれて、松本飛行場があってよく遊びに行きました。
子供のころから飛行機にあこがれました。
旧制中学を卒業後、浜松高等工業学校(静岡大学の前身)で航空工学を学ぶ。
大学卒業前に技術士官コースを受ける。
三菱重工の試験を受けて、受かって入社して直ぐに海軍に行きました。

軍艦に乗せられて中国の青島に連れて行かれて、山東大学に行ってしごかれました。
ボートが一番厳しかった。
11月だったので北海道よりも北なので、凄く寒いし、ボートのしごきで尻も痛んだ。
内地に戻ってから海軍航空技術廠(戦闘機の開発拠点)に入りました。
ほとんどものは作らず、作ったのは「桜花」位です。
三菱もここからの指示で行い、海軍で受け入れるかどうかを審査するところです。
堀越さんがゼロ戦を設計したが、海軍で使えるかどうかを審査するところです。
「秋水」ロケット機は、ドイツのロケットエンジンを潜水艦で持ってきた。
「桜花」の全長は5~6m、ジュラルミンで表面は塗っていない。
人がはいるところは狭い。(無駄なものは一切ない、軽いことが大事)
普通、落下傘を座席のクッションに使ったりするが、それも無い。
生き延びることは考えない、お国のために命を捨てると言う事だった。

日本は国産が厳しい、ジュラルミンを作り出す資源がほとんど無かった。
鉄板を薄くして軽く細工してジュラルミンに代わる方法はないか、などを考えました。
工場見学に行ったことが有るが、品川で部品を作っているのが、駆り出された芸者衆、飲み屋等の女の人でした。
回天
」特攻潜水艦は人間魚雷だが、「桜花」は人間爆弾ですよ。
軍艦に向かうが、仕留められればいいけれども、ほとんど駄目ですよ。
そのようになるんではないかと憶測は有りましたが、作らなければいけない状況であった。
横須賀の空軍廠にいるときに学生時代の同級生が、特攻隊を志望していてお別れに来ました。
横須賀の飲み屋に行って話したりしたが、逝ってしまいました。
特攻に行くことは彼は言わなかったが、それとなくこちらもわかってしまいました。
戦争は国のためになんとか耐えて勝たないといけない、という気持ちにみんななってしまう、それはしょうがない。

「桜花」を一機作れば一人誰かが亡くなるがそれでもつくらなければいけなかった。
「桜花」50機を航空母艦「信濃」に積んで南方の戦場に輸送しようと思って房総半島を出たら、潜水艦にやられてしまって全部沈んでしまった。
誰も乗ることはなかった、聞いた瞬間は物資の無い中せっかく並大抵な苦労ではなく作った物が沈んでしまって、くそっと思った、涙が出ました。
50人が助かったのでよかったという気持ちには直ぐには成らなかった、それは複雑です。
目的を達したとしても特攻の人達の事を思えば万歳と言う訳にはいかない。
戦争は矛盾だらけ、でもそれが戦争。
戦後、三菱の名古屋の工場が焼け野原になり、長野県の松本に移りました。
そこで農機具の設計などをやり、私は脱穀機を設計しました。
その後名古屋に戻ってきて、国産機の開発を目指しました。

昭和34年 国産プロペラ機MU2をリーダーとして開発に携わる。
ゼロ戦などはレシプロエンジンと言いますが、ターボプロップエンジンはジェットエンジンでその推進力をプロペラに変えるものです。
ドイツのハノーバの航空ショーに出すために、ゼロ戦のパイロットと一緒にドイツの航空局に行ったが、ドイツにもメッサーシュミットと言う戦闘機が有りそのパイロットがいて、2人で審査することになった。
結果的に700機以上を売り出した。
飛行機を作ると言う仕事が出来ると言うことに対して幸せだと思いました。
「桜花」は夢がない、MU2は夢がある、それが一番大きな違いです。
「桜花」を使ったら命を断たれる、MU2は夢を運べる。
好きなところへ行けるし、ビジネスでいい仕事が出来るとか、色々エンジョイできる。
もっと平和に安全に向かってほしいと思います。。
トラブルフリーの乗り物の代表みたいになってほしい。



















































2017年10月24日火曜日

仲川文江(手話通訳者)          ・ろう者の被爆 伝え続けて

仲川文江(手話通訳者)       ・ろう者の被爆 伝え続けて
77歳、広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちの体験を本にまとめたり、被爆者に代わって手話で伝えてきたりしました。
原爆が投下されてから72年、耳の聞こえない被爆者がいた証しを残そうという仲川さんにお聞きしました。

広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちは、戦後遅くなってから調査した関係で、はっきりしていないのですが、およそ200人ぐらいかなと言われています。
実際には200人よりはずっと多いと思います。
今も健在な方は4人です。
私が取材できる人は2人で、2人は県外です。
高齢なのでいつも面会できる訳ではなくて、元気で活動できる人は一人もいないので、今は最後のチャンスだと思っています。
耳に音とか言葉が残っている年齢から失聴された方は、音、言葉の記憶があるので自分で声を出すことが出来る。
音、言葉の記憶のない、先天性とか、耳に音とか言葉が残っていない年齢から失聴された方は手話でないと意志は伝わりません。
手話は顔の表情(喜怒哀楽)、スピード、強弱等あり、要素と言うものはものすごくたくさん有ります。
そういうものが全部出来て初めて通じると言うことになります。

手話から日本語の文章に変えることは結構大変です。
私の両親は耳が聞こえないが、兄弟は耳が聞こえたので幼い頃手話を習得しました。
私は手話を先に覚えたと思います。
祖父母、伯母等もいたので喋る言葉も自然と覚えました。
戦時中、灯火管制があるときには光が漏れないようにするが、そうすると両親とは意志が通じなくなるので、点けたままにしていましたが、最後には軍の方が来て電球を持って帰ってしまいました。
5歳の私を一緒に連れて行って、返してほしいと言ったが、拒否されてしまいました。
私がちゃんと電気消しますと言って、何とか電球を返して貰いました。
戦後広島市に移って、父が耳の聞こえない人達を含めた木工所を建てて、社宅には6家族の耳の聞こえない家族がいました。
そこはみんな手話でしたので、手話での通訳をしました。
耳の聞こえない人が病気になった時などは学校まで迎えに来て、授業を抜けて病院の方と手話で通訳をしたりしました。

沢山の耳の聞こえなくなった人たちの中で育ったので、私の持っている手話の力はその頃から培ってきたものだと思います。
40年ほど前に、広島県手話通訳問題研究会を立ち上げて、間もなく被爆した耳の聞こえない人達の体験の聞き取りを始めました。
私たちの親団体からの依頼で、聞こえない人達の戦争はどうだったかと言うことを全国的に集めたいと言うことでしたが、とんでもないことだと思いました。
音声言語と手話言語は根本的に違う。
断ったがしつこくお願いされて、とりあえずやってみようと思ったことと、今までの聞こえない人たちの生活はどう言うふうに残っているのかなと思って、調べてみたが聞こえない人の話はどこにも残っていなかった。
書くことの訓練はしていないので、発した言葉がどういう文字になるかということはおざなりになっていた。
自分の気持ちを文章に表せないので、聞こえない人の文化、歴史、生活も何にも残っていないので、聞こえない人がいなかったと一緒。
そういう状況を知ったので、ではやってみようと思いました。

最初は物凄く警戒されました。
雑談しているうちに、段々話してくれるようになりました。
被爆した体験のしんどさは一緒ですが、違うところは情報量の違いです。
原爆は特殊爆弾と言うことは理解しているが、放射能、被爆による体調の変化、体調の変化を理解するのに早い人で10年、判らない人は20年、30年もかかっています。
今の病気が放射能障害ではないか、そのためには手帳が無いといけないと判ったころには30年もたっている。
被爆したと言うことに対する証人も探すのも大変です。
被爆のせいだと判るのは20年も30年もたってしまっている。(被爆したという概念がない)
聞こえる親はほとんど手話はできないので、伝えることが出来ない。
「被爆障害」と言う言葉などは言えない、伝えられない。

情報が積み重なって、理解されるのに時間がかかる、終戦を知らなかった人も沢山います。
「そうだったのか」と諦めるしかないです。
聞こえないお嫁さん、お姑さん、聞こえる赤ちゃん3人が広島駅前で被爆して大やけどを負って、姉さんのところまでやっと歩いて行ったが、おぶっていた赤ちゃんは頭から大やけどを負っていて、自分は前が大やけどで重症で、一緒に寝ていたが3日目に赤ちゃんが亡くなるが、赤ちゃんを抱き締めたかったが出来なかったと、手話でおっしゃるわけです。
それがたった一つの手話で、抱けなかったことへの無念さ、悔しさ、情けなさ、不憫さなどがたった一つの手話で表現する訳です。(全身で表現する)
その時の顔、身体の動きが言葉にできない、それを文章にできない。
書いては消したり繰り返したが、どうしても「3日目に亡くなりました。」しか書けなかった。

一冊目の時は大変な反響でした。
文章にならない所っていっぱいあるんですよね。
見ることと、聞く言葉の違いの難しさを本当に苦しみました。
文章の限界を知り、疑問を感じ始めました。
広島市が被爆体験の伝承の事業を始めたと言うことを聞きました。
私たちも手話で残せばいいと思って、去年伝承班と言う形でスタートして育成と言うところから始めました。
被爆者の方からは、この活動に対してとっても喜んでくれています。
この夏に手話で体験を披露する機会が有ったが、会場はコトリとも音がしないで、じーっと食い入るように見ていて、終わっても会場は動きませんでした。
東京にもう一方いますが、取材をしたいがもうギリギリで、何故もうちょっと早くやらなかったのかと思っています。

























































2017年10月21日土曜日

藤本聰(柔道男子 銅メダリスト)     ・あきらめずに目指し続けた努力のメダル

藤本聰(柔道男子 銅メダリスト)  ・あきらめずに目指し続けた努力のメダル
(リオデジャネイロパラリンピック柔道男子66キロ級 銅メダリスト)
徳島県出身、過去5大会のパラリンピックに出場しています。
背負い投げを武器にアトランタ、シドニー、アテネでは3大会連続の金メダル、北京五輪では銀メダルを獲得しました、ロンドンでは代表選考会でライバルの広瀬さんに敗れて5大会連続出場は成りませんでした。
更に藤本さんを襲った両手首のけが、一時は選手生命すら危ぶまれました。
さまざまな困難を乗り越え自身と向き合ったリオまでの4年間、41歳で銅メダルを獲得した藤本さんの姿は多くの人に勇気と感動を与えました。

メダルの一番大きいのが96年のアトランタ、緑のリボンが2000年のシドニー、一番小さいのがアテネ3連覇達成、北京はヒスイの石が入っていて重たい、ロンドン大会はありません、この間のリオで銅メダルを取れました。
目の障害者のために音が鳴るようになっていて、金メダルが一番高い音になっています。
20年間この世界に関わって来ました。
今年で42歳になりました。
生まれた時から目が悪くて、左はほとんど見えず、右は0.3とか0.4有ったと思うんですが、学校では席は一番前にと言うことを親が先生に伝えてました。
徳島商業の柔道部の監督の小泉先生が盲学校に勤務された経験も有ったと言うことで、理学療法師に成ってみないかと言う事で盲学校に入りました。
そこでパラリンピックと言うことも知りました。
夜遅くまで勉強した為に視力が落ちて0.1位だと思います。
網膜色素変性症(中心しか見えない)、黄斑変性症(周りは見える)、弱視(ぼやっと見える)3種類有る。
顔が判らず挨拶しないで誤解されたり、小さいものが見えないので掃除が苦手です。

この8年間は大変でした。
手首が曲がらずに3回手術をしましたが、やるたびに悪くなりました。
背負い投げが得意技ですが、それが出来なくなりました。
ロンドンの代表決定戦で広瀬さんに負けて出られませんでした。
今なにが出来るのか考えました。
やっていなかった技なども取り組みました。
怪我をしたところをどう補うか、トレナーの稲垣さんとやらせてもらいました。
トレーニング内容の説明。
筋肉がそこで鍛えられました。
きめ細やかさが日本人の強さだと言われました。
徳島商業の柔道部のコーチを現在やっています。
そこで色々学びました、指導者は実践者たれ。

柔道に勝るよろこびはない、柔道は生きがいです、「継続は信なり」(信念、自信、確信、信頼)
今の心を信じているかどうか、信念を持つ。
続けることによって、自信が出来て来る。
試合で結果が出ると確信に成る。
そうすると人に信頼されるようになります。
後悔だけは絶対したくなかったので、懸命に練習をしました。
言い訳をしないと言うことが大事だと思います。
諦めなければ何とかなります、本気でやれば大体できます、逆境はマンネリ化を打破して自分を大きく成長できるチャンスです。
もうこれ以上できないと言うところまで追いこんで練習をすると腹が決まります。

試合中にいかに冷静に立ちまわれるかが大事です。
ミスジャッジがあったりするが、それに対して気持ちが切り替えられるかどうか、引きずってしまうと駄目、そこで負けです。
練習が2割、試合でいかに実行できるか(メンタルを含めて)が5割、運がどれだけかは未知数です。
終わったら反省する、これのくり返しです。
苦手な事をする、これも意識してやっています。
いかに日常的なことにそれを落としこめるかどうかです。
結果を求めるのではなくて、情熱を持つ、向上心、探究心、悔しさ、行動力を起こして楽しむことが大事だと思います。
障害者に対しては一方的な思い込みがあるかもしれないが、自分で体験することが大事だと思います。
そうすると考え方が変わったと言う人がいっぱいいます。

助けてもらう側は自分のことは自分でする、これは大前提になります。
助けてもらう時の信頼関係、必要以上に助けない。
残された時間が3年間ありますが、武道館で君が代を聞けるように、それを見て引退したいと思います。

































2017年10月20日金曜日

竹内昌彦(NPO法人 ヒカリカナタ基金)   ・アジアの子らにヒカリを

竹内昌彦(NPO法人 ヒカリカナタ基金)・アジアの子らにヒカリを
72歳、元岡山県立岡山盲学校の教頭で全盲です。
幼い頃目が見えないことで虐められら体験から命の大切さや障害者への理解をうったえる講演を全国各地で行いその回数は2300回を超えました。
講演の収益金を元にこれまででモンゴルやキルギスに、視覚障害者のための学校や施設を建てました。
又昨年11月にはアジアの子供たちに目の手術の費用を援助するNPO法人「ヒカリカナタ基金」を設立し、これまで70人を超える子供たちが光を取り戻しています。
竹内さんの活動を支えるのはどんな思いなのか伺いました。

視力のない子供たちに視力をプレゼントしたい、それを日本からはるか彼方へ送ると言う意味で「ヒカリカナタ基金」と言う名前にしました。
モンゴル、キルギス合わせて70人以上の子供の視力が改善したと聞いています。
きっかけはモンゴルで視覚障害の子供を盲学校にいかせたいとの運動が有り、遊牧民なので学校に行くには遠いので、行かせることはできないと言うことでお金を出して、グランバートルの盲学校に連れて行ったら、医者がちょっとした手術で視力が回復するから普通の学校に行けばいいと言われました。
15万円あれば2人見えるようになるがお金がないので、と言う電話がかかって来ました。
手術をして貰い、治ってその子たちは学校に行けるようになりました。
そのことで、できるだけ頑張って見えるようにしてやりたいと思いました。
開発途上国では視力の有る無しは道はないし点字ブロックはないし非常に厳しいので、学校を作るよりももっと大事だと思って目標をこれに切り替えました。

アジアにはちょっとした手術で目が見えるようになる人が大勢いる。
今年の12月にはネパールに行って、組織にお願いして目の見えない子供の手術をしたいと思っています。
昔から日本にはアジアなどに大規模に支援活動をしているグループが沢山あります。
そのグループに持ち込んで応援してくれないかと言えば、快く受け取ってくれる面が有り、ネパール、来年はミャンマー、事情さえ許せばタイ、フィリピン、カンボジア等多くの国の子供に注目したいと思っています。
2011年モンゴルに盲学校を建て、キリギスには2015年に視覚障害者のための施設を建てました。

きっかけとなったのは3つ有り
①現役のころから人権問題として、障害者理解を深めたいとの教育界の動きが始まりました。
障害者への差別問題も学校で教育の材料として取り上げたいと言うことで、障害者の話を1991年から私は講演の要請を受けるようになりました。
講演をすると御礼が出るが、臨時収入でよろこんでいていいのかという不安が有り、とりあえず貯金をしましたが、それが100万円を超えました。(何か出来そうな額になった)

②沖縄にアジアの国の視覚障害者のリーダーを集めて、視覚障害者でも日本にはマッサージという職業が有ると言うことをリーダーに教えて、目が見えなくても働けると言う種を蒔こうと言う計画が始まりました。
その教師団に私にも来いと言う話が持ちかけられました。
各国ではどうやってマッサージを皆のものにしていいかわからないと言うことで、私の貯金で学校を作れないかなあと思いました。

③モンゴルのガンズリグという若者が日本に来て、按摩、鍼、灸の国家試験を日本語で受けて資格を取って国に帰って、後輩たちに教えていると言うことが判ったが、学校がなくて苦労しながら教えていると言うことで、学校さえ作ってあげれば勉強しやすいと言うことでモンゴルに決めて話を進めました。
学校を作って寄宿舎、食堂を作って、コンピューターを習う部屋、英語を習う部屋も作って総合力の付いた卒業生を出そうと2011年に建て、300人卒業しました。
卒業生には、あなた方が今一番大事だと、あなた方がいい仕事をしたらモンゴルの国は認めてくれる、あなた方がいい加減な仕事をしたら目の見えない人にはマッサージは無理だという結論になるので頑張れとハッパをかけて、今病院とかマッサージ治療院などで一生懸命働いています。
NHKの取材が有り、TVに向かって自分は物乞いをしていたがマッサージを習って家も建てて、お嫁さんが来て、子供が出来、あのころを思うと本当に幸せになれたと言ってくれて実に気分のいい話でした。
キルギスにも広げました。

1945年生まれ、(中国の天津で生まれる)父が外務省がらみの仕事していたが、半年後に日本が負けて引き上げの時に、私は船の中で風邪をこじらせ肺炎になり40℃の熱が出て、右の眼を壊してしまい、左の眼は多少は見えて普通の小学校に行き来ました。
黒板もよく見えなくて、いじめられたりしました。
2年生の2月に網膜剥離を起こして完全に見えなくなってしまいました。
遊びなどについていけないことが悔しかったし、さびしかったりしました。
点字を覚えて、親はなんでもやらしてくれたのでそんなに辛いとは思いませんでした。
中学3年生の時には進路を決めなくてはいけないが、本来目が見えたら絵が好きで設計図を書くことがしたかった。
家は考えて妻に説明して方眼紙に書いて貰って、建築業者に見せたらこれはすぐ建ちますねと言われました。
子供時代はいじめにあい辛かったし、悲しかった。
性分としては気が強くて、彼らに仕返しをしたりもしました。
小学校2年生の時には凄くいい先生で物凄く私を大事にして褒めてくれました。

講演では自分の体験を正直に話します。
自分の生き方から何かヒントを見つけてくださいと言っていますが、いじめに依り自殺する人がいるのでやはり死ぬな、親がどれだけ悲しむか、辛かったら学校を休んでもいい、そのうちきっといい事が回って来るから辛い時にはねばれ、凌げ、とにかく死なずに待っているようにと、声を大にしていっています。
自分は親からこんなに大切にされていると言うことを知ったので、だから簡単に死ぬわけにはいかなかった、親を喜ばせたい安心させたいと言うのが生きる上で大きな原動力でした。
私の長男が重い脳性小児麻痺で寝たきりで、言葉も出なかった。
喜怒哀楽ははっきりしているが、言葉が出なくて、7つで亡くなりました。
あのときぐらい悲しいことはなかった、だから死ぬなと言いたい。
その時以来、お金に対する執着力が減ったと思います。

あの子のためにお金を残そうと思った、身体障害者手帳もある医者が早く作ってくれ、この子に一番味方になるのはお金です、この子のために貯金しなさいと言われて、お金に執着しましたが、長男が亡くなり何にも意味が無くなった。
結婚し24歳で小さな家も建て幸せの基礎が作れたと思った瞬間にあの子が生まれ、その後自分の求める幸せはあっという間に崩れる。
もっと確実な幸せは人が喜ぶことをしたい、人に幸せをあげられたらこれほど気分のいい事はないと思うようになりました。
あの子が命を捨てて我儘な私を叱り教えてくれました、それからの学校の仕事もそういう見方で頑張りましたが、生徒のためにと思っていろいろ提案しましたが回りからは嫌われました。
点字ブロックは岡山県で世界で初めて敷設されて今年50年で、点字ブロックの石碑をつくって、点字ブロックを守る会の代表をしています。
三宅精一という目の見える人が目の見えない人が、少しでも歩きやすいにと言うことで点字ブロックを作り、自分のお金で工事して反対される中をつないできた。
点字ブロックの石碑を作ったら、饅頭、せんべい、歌、キャラクターなどが出来て点字ブロックへの理解が広がりました。

自分の幸せを求めても小さい、大勢の人がよろこんでくれたら10人なら10倍です。
目の見えない子供の目を少しでも治してやりたい、ここに来た訳です。
ここまで来るのには色々苦労は有りましたが、モンゴルでは最初の学校は国が認めて国立になりました。
私は目さえ見えたらと日に何度も思いました、親からは本当に色々して貰ったが、私はあの子にしてやれなかったのは目が見えないからで、目さえ見えたらもっとしてやりたかった。
目が見えない不便さはどんどん良くなったが、目が見えない悲しみはいつになっても消えないと思う。
逆手にとって目が見える人にも出来ない人生をやってやろうではないかと思って、今の私の人生は目が見えないから出来上がった人生です。
妻には親に反対されて結婚して、長男を亡くした時には両親に悪いことをしたかなあと思いましたが、あとからよかったなあと思わせてやると言う気負いが私に有りました。
妻からはこんなに面白い亭主を持ったのはいない、あなたのおかげで色んな経験をして、面白かったかなあと言ってくれて、ちょっと気が楽になりました。
結婚48年を過ぎました
これからも健康を維持して今目標にしていることを投げ出さずに、「ヒカリカナタ基金」の活動を頑張って、講演も続けようと思っています。
組織を世界的に広げて私が死ぬまでに1000人にしたいと思います。
















































2017年10月18日水曜日

田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家)   ・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”

田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家)・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”
72年前激しい地上戦の有った沖縄戦、石垣島の有る八重山地方には第二の沖縄戦と呼ばれているものがあります。
それが戦争マラリアです。
マラリアはマラリア原虫を持った蚊に刺されることによってかかる病気です。
発熱、寒気などの症状があらわれ重症になると死に至ります。
戦時中八重山では日本軍によって、住民たちが山間部や西表島などに避難を強いられました。
そしてマラリアにかかり3647人が亡くなりました。
マラリアで家族を失った田本さんは10年前、その経験を「あの夏の日に」と言う歌にしました。
この歌は今沖縄県内の小学校や式典で歌われています。
この歌に込めた思いを伺いました。

「あの夏の日に」の前半部分の歌詞
「あの夏に日に逝った家族のお話をしましょう。
あの戦争で兄は弾に撃たれ激戦の嘉手納で戦死した。
母の祈りもむなしく散ってしまった兄。
ああ、この世でもう会えない兄。
母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。
歌の大好きな静子だった。」
あの戦争でマラリアにかかって亡くなるし母も亡くなると言うことで、よく田本さんは生きて来ましたねとそういった感想が寄せられます。
音楽で伝えられたらどうだろうと思って、大変な思いで悲しみを耐えて曲を作りました。
戦争の悲惨さをどうにかして、多くの方たちに伝えようと言う思いが強かったからだろうと思います。
7歳で戦争を体験して、悲惨な状況を体で感じているので、子供の頃の気持ちで、子供のころの体験を具体的に真実を伝えることがいかに大事かと思った次第です。

1937年12月に石垣島の平得(ひらえ)と言う地区に生まれました、12兄弟の5男です。
緑が多く、台風が来るので高い家は建たなくて、山の頂上、海も見えるのどかなところでした。
デイゴの花が家々に咲いて見事でした。
小さい頃は無口な子供でしたが、歌を歌うことは大好きでした。
父が沖縄の古典音楽の 野村流を指導していたので、踊りもしていましたので家は賑やかでした。
艦砲射撃が有り、深夜の出来事で、父の大きな声で防空壕に入るようにとの声が聞こえて、家族皆が防空壕に逃げ込みました。
地響きとともにすさまじい音が聞こえてきました。
防空壕がつぶれるのではないかと、ここで死ぬのかと思いました。
入口から見ると隣の家が火に包まれていました。(茅葺の屋根だった)
1週間後に軍からの避難命令が出ました。

沖縄では「やきー」と言ってマラリアの事を呼んでいました。
作戦上、住民がいるとアメリカの軍艦が石垣島を囲って上陸するのではないかとの噂も有りました。
戦うのに足手まといになると言うこともあったようで、避難しなさいと軍からの命令が有ったと聞いています。
命令に抵抗する者もいたと思いますが、空襲が頻繁に続けば生き残れないとそう皆も思って、現実にはそうもいきませんでした。
波照間島の人は西表島に避難したが、波照間島には元々マラリアは無かったが、将校が強制的に避難させた。
食糧を調達する手段、波照間島の家畜を兵隊の食糧にすると言う思いが有ったと聞いています。
私たちは於茂登山(おもとやま)の麓に山小屋(6畳ぐらい)に2カ月避難しました。
食糧には苦労しました、たにしなどを取って食べました。

兄は戦争が始まって3月に戦死したと言う訃報が届いて、母がそれを聞いて体調を崩してしまいました。
妹も亡くなってしまう。
歌詞にも書かれている。
「母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。」
静子が生きていたら歌が大好きで、「お母さん」と言う歌があって歌っていたと姉たちが話してくれました。
母に抱かれている姿を庭で立って見ていました。
母が泣き崩れて「静子、静子」と呼んでいたのが耳から離れません。
戦時中はマラリアの特効薬キニーネと言う薬は有りますが、軍が一杯所有していたと言われるが、一般市民にはあてていませんでした。
母にもマラリアの症状が出てくる。
震えが止まらない、全身が大きく上下に震える、40℃以上の高熱が出る。
体力のない人は亡くなって行く。
冷たい水を汲みにバケツを持って何度も往復して、母の額にかけてやります。
背中に剃刀の刃で傷を付けて血を拭き取り、悪い血を抜き取る、と言うことをしました。
何日も寝ていると床ずれが出来て、ウジ虫が出ていました、残酷です。

「あの夏の日に」の歌詞にも書かれている。
「悲しみに負けじと、笑顔を見せた母もまたマラリアに侵されていた。
於茂登山裾野 田のほとり、避難小屋で来る日も来る日も高熱と震えに苦しみ続けた母、
母の最期はあまりにも悲惨だった。」
生まれて4カ月になる弟がいましたが、母が亡くなったため、弟も段々体が弱って栄養失調になり、亡くなってゆきました。(すすり泣く声)
そういったことを体験して現在が有るわけです。
アメリカ兵がジープで来て、はじめて見て吃驚しましたが、怖い思いは持たなかったです。
その後マラリアを撲滅したのはアメリカのDDTのお陰ですから。(1950年代)
マラリアの有る山へ島々の人を送りやった日本軍のやり方、作戦上と言っても悔しいですよ。
マラリアが有ると、マラリアで多くの方が亡くなったことを知っていたはずで、軍に対しては怒りを覚えますが、空襲時には逃げる場所もないし、どうしようもなかったです。

上京して東京音楽大学に進み、音楽の先生として働くことになりました。
美空ひばりと同じ歳で、一緒に成長したと思いが有り勇気付けられました。
定年退職して石垣に戻ってきて、戦争マラリアの遺族会が子供たちに歌を歌ったり、戦争の悲惨さ、平和の尊さを、大切さを伝えようとやっていて、或る方から一緒にやっていきませんかと声がかかり、やらなくてはいけない仕事だと思いました。
2007年「あの夏の日に」を作詞作曲をしました。
*「あの夏の日に」 作詞作曲 田本徹
最後の「この悲しみをこの悲しみを繰り返してはいけない」
これは戦争を二度と起こしたらいけませんと言うメッセージです。
















2017年10月17日火曜日

河原忠之(ピアニスト・コレペティトウール)      ・オペラ歌手をコーチする

河原忠之(ピアニスト・コレペティトゥール)・オペラ歌手をコーチする
54歳、ピアニストとして日本を代表する歌手や器楽奏者が共演者にこぞって指名する人気の人で多くの音楽家から信頼されています。
男性オペラ歌手4人とのユニット、IL DEVU(イル・デーヴ)、このピアニストでもあります。
IL DEVU(イル・デーヴ)、オペラ歌手4人と河原さんを合わせて総重量500kgと言う噂の太めのユニットだそうです。
河原さんのもう一つの顔がコレペティトゥール、オペラ歌手をコーチする人のことで、日本でも最近すこしずつ知られるようになりました。
イタリアにも留学し、現在は母校の国立音楽大学と大学院で准教授、新国立劇場オペラ研修所の音楽主任講師を務めています。
来月の3日と5日に紀尾井ホールで行われなわれるオペラ、「オリンピーアデ」でコレペティトゥールであり指揮とチェンバロを演奏する河原さんに伺いました。

食べ物が好きなもので体重100kgは超えています。
それぞれ忙しくてイル・デーヴはなかなかスケジュールが合わないのが大変です。
テノールの望月哲也さん・大槻孝志さん、バリトンの青山 貴さん、バスバリトン山下浩司さん、ピアノ河原忠之さん。
合唱経験者が多いので、グループとして素晴らしと思います。
ここで「温もり」というCDを出しましたが、癒されると言うファンの方が凄く多いです。
*「いのちの歌」
自分たちも癒されていると思います。
また明日からがんばろうと言う気持ちになります。

指揮をする、チェンバロ演奏、コレペティトゥール、全部しなくてはいけなくて大変です。
コーチングすることですが、造語でコル(共に)とレペティトゥール(繰り返し行う人)
で、何回も何回も練習に付き合って、どういうふうに役作りをしていくかまでかかわってアドバイスするトータル的なコーチングです。
オペラは2~3カ月前から準備しますが、最初がコレペティトゥールの稽古で、アンサンブルになり、指揮者が入り、演出家が入り、音楽稽古、最終的には本番を迎えるわけです。
コレペティトゥールは全部把握していないといけない縁の下の力です。
自分はどういうふうに歌い手と接しているかと考えると、人間なので、肉体的、精神的にもデリケートで有り、歌い手に対しての尊敬の念がないといけない、(気遣いとか、自分自身歌が好きだった)歌う人を尊敬していたので、信頼が厚いと言うふうに言っていただけるようになったと、自己分析しています。

歌手が主役、こっちはわき役と言うことをわきまえていないとバランス良くお客様に聞こえないですね。
歌手に対しての尊敬をもってやると言うことが大切だと思います。
「伴奏」は伴って奏でる。
ブレスのタイミングを把握して一緒にブレスをしないとだめだし、一番は言葉です。
私は言葉が好きでした、言葉に関心がないとこの職業は難しいと思います。

手は中学時代から大きかったです。
子供のころは人がどういうふうに思っているかなあと気にしていました。
静かに人の意見を聞いたり、人がどういうふうに言ったりしているか静かに聞いている人でした。
実家が中華料理をやっていたので、中学のころから身長は今のように伸びていました。
小学校3年からやりましたが、ピアニストの年齢から言うとかなり遅いです。
親がステレオを持っていたので片っぱしから聞きました。
ジャンルを問わず、水前寺清子さんとか「ラブユー東京」とかよく聞きました。
仲のいい子がオルガンをやっていて、聞きに行って自分もやりたいと思いました。
そこからピアノを始めました。
「バイエル」教則本で先生から教えてもらって数週間後にはここまでにしましょうと言うレッスンでした、自分ではもっとやりたかったが、気が付いたら「バイエル」教則本を数カ月で終われました。

この職業は耳が良くないと成り立たない処があります。
自分が出した音が自分で聞けるので、どういう音か判断できないと仕事しづらい。
2~3回先生が変わって、その最後の先生が国立音楽大学の付属の高校の先生だったので、そのまま付属高校に入りました。
学年が130人ぐらいいて、クラスが4クラスあって、男は6人でした。(ピアノ科が4人)
声楽科に一人いてその友人と親しくなっていきました。
彼がいたから今の自分があると思います。
言葉が好き、芝居も好きだったので彼と一緒にオペラ研究部を作り、仲間を集めてオペラを演奏しました。
今のオペラ界を見ると、入場料が高いとか、一見難しそうだと言うことも有り、どうしても年齢の高い方とか、オペラは見るのに3~4時間かかるのでどうしても足が遠ざかってしまうのではないかと思います。
オペラはこんなに素晴らしいと言うことを伝えてあげたいので、若い人にオペラに来てほしいと思います。

大学に入ってより世界が広がって、大学2年生の時には仕事をしていました。
卒業後、大学院に行って、卒業後2年してイタリア音楽が好きだったので、イタリアに留学しました。
2年弱イタリアにいて、日本の仕事の話があって日本に戻って来ました。
ドイツ、ウイーンにも行きたかったので、短期でもいいから勉強したいと思っています。
自分が演奏することを辞めてしまうと教えることはできるが、自分から何かが無くなっていくばっかりになるので、自分も勉強して自分も舞台に立っていかないといけない。
イタリアでコレペティトゥールを習ってきました。
日本でも最近認知されてきました。
日本ではコンクールで優勝して華やかな経歴を持っている人がオペラを振ると言うパターンが多いが、たたき上げてコレペティトゥールから指揮者になって、全部色んな事を教えながら棒を振ると言うことがヨーロッパの歴史の中に有るので、日本に根付かせたいと言う野望を持っていたが、なかなか難しい。
指揮をやるとテクニックだけでなくて大勢の人を引っ張って行く要素がないと駄目だと言うことがやってみると思います。
料理は音楽と通じる物があります。(5感で感じるとか、)
本当に心からおいしいと思うような音を出したい。



















2017年10月16日月曜日

ヒダノ修一(太鼓ドラマー)        ・【にっぽんの音】

ヒダノ修一(太鼓ドラマー)     ・【にっぽんの音】
1969年生まれ 横浜育ち、鼓道で太鼓を習得後、いろいろなひとたちとセッションしている。
2歳からピアノ、小学校でドラム、中学高校でギター、ベースなどバンドをやり、18歳のときに太鼓と出会う。
父はジャズ好きで母はクラシック好きでした。
クラシックとジャズを高校時代をやって、オペラの歌がやりたくて音楽大学を受験しようと思って受けて落ちて、浪人しようと思ったら太鼓に出会って、物凄い衝撃を受けました。
これなら世界にいけるかもしれないと思いました。
鼓道を見せてもらって、その当日に入れてくれと叫んで、オーディションに来いと言われて佐渡島に行って、翌年19歳で初めて太鼓に触れて鼓道の生活がスタートしました。
自分の名前でやってみたいと思ったのが20歳で、辞めてジャズクラブを案内されて、飛び入りで演奏したら面白くてジャズ界に太鼓でもぐりこみました。

23歳で1300万円の太鼓を買いました、重さは500kg、扉2枚分の大きさ。
トラックも買い、太鼓をセットする機械を100何十万円、全部で1800~1900万円の借金を23歳で背負いました。
世界40カ国以上にいきました。
スティービー・ワンダーからユーチューブで私を見たと言うことで、2010年アジアツアーの2週間前突然電話がかかり、2週間後から始まるがスティービーのためにスケジュールが空けられるかとのことで、(夏場でかきいれ時だったが)5秒考えて「当然だ」と答えました。
友達を無くす勢いで謝罪、謝罪でした。
スティービーとハグしましたが、「ととろ」とハグしているようで優しい気持ちになってこれから2週間全力で働こうと思いました。
ブラジルのセルジオ・メンデスに和太鼓と言っても通じないので、太鼓を叩くドラマーと言うことで、「太鼓ドラマー」と言うふうに呼ぶことにしました。 (太鼓は世界語になっている)

和太鼓と言う様になったのは戦後で、それまでは単に太鼓と言っていました。
私が持っている太鼓の種類は7~8種類です。
盆踊りに使う太鼓は盆太鼓とか、斜め太鼓(斜めにセット)と言ったりします。
日本の太鼓は空気孔があいてないが、アフリカ、アジアの太鼓はどこかに空気孔があいていて、カランと乾いた音がするが、日本の太鼓は湿った音がしてそれが特徴です。
昔は神事に近い、雨乞い、病気平癒とかとしてやってきて村長が叩いたりしていた。
リズムとして発達していなかったので、一拍子で好きに叩く、その人の気分によって違う。
嵐、ももいろクローバーZとも一緒にやったり、T.M.Revolution(西川貴教のソロプロジェクト)、フレンチの三国シェフ、料理の鉄人坂井さん、中華の鉄人脇屋さん、等にも太鼓を教えています。
おおきな太鼓だと1kmぐらい届きます。
モンゴルの大平原でどこまで聞こえるか実験したことがあるそうですが、日本人の耳で2.5km、モンゴル人の耳で4km先まで聞こえたそうです。
耳の聞こえない人にも太鼓の音は感じられる。(身体、肌で感じられる)
*一人で3人分多重録音した「いつまでも」 演奏 ヒダノ修一

海外に行ったときに、日本人を見せてくれと必ず言われます。
太鼓は自分を興奮させるリズムがあり、サンバみたいです。
若い時はロック、歳をとって来るとクラシック、そういう感覚は有ります。
一つ一つの音をより大事にするようになりました。
若い時は間が開いてしまうのが気になっていましたが、間をたのしむようになりました。
グループとして16000団体ぐらい有ると言われています。
アメリカで1000団体、ヨーロッパ、アジアでも有り、太鼓を作る人までいます。
広めた人たちがいて、70年代、80年代世に世界ツアーを行って、世界中に火を付けて各国の火付け役がいて、弟子を育てて太鼓と云えばどこでも通じるようになりました。
プロとしての判断領域がはっきりしていません。
*EnTRANSのアルバムから一人で12人分多重録音した「コロンブス」 作曲、演奏 ヒダノ修一
(EnTRANS=スパイダースの井上堯之(G)、ゴダイゴのミッキー吉野、カシオペアの鳴瀬喜博、カーティス・クリーク・バンドの八木のぶおが集結)

日本の音 からすの鳴く声 テンポが同じで鳴いているのにしびれます。
海外ではカラスの鳴き声を聞かないです。
井上ひさしさんからの言葉で座右の銘にしている。
「難しい事を易しく、易しい事を深く、深い事を愉快に、愉快なことを真面目に」という言葉がありこれが好きで、難しい事をやりたいが易しく見せないと人は付いてこない、易しいだけでは軽いので深みが必要、深さを愉快にしないと面白くない、愉快なことを真面目にやりたい。
これはどんなものにも通じると思う。
太鼓はリズムがなく、だからこそ人生が出るので、ポップな太鼓を見せていきたい。
「アースリズム」 5カ国のアーティストを集めてジャパンツアーをやります。