2017年4月26日水曜日

ペギー葉山(歌手)         ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)

ペギー葉山(歌手)   ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)
ペギー葉山さんはラジオ深夜便では夜明けのメロディーや想い出の岬など深夜便の歌でもおなじみの方でした。
ペギー葉山さんは東京四谷の出身、高校在学中から米軍キャンプで歌い始め、1952年レコードデビュー、「南国土佐を後にして」、「学生時代」、「ドレミの歌」、「ラ・ノビア」など沢山のヒット曲をおもちです。
生涯に録音した曲は2000曲以上、平成16年には旭日小綬章を受章されました。
平成19年から3年間、日本歌手協会会長を務めました。
歌手生活65年を目前にしたペギー葉山さんに伺いました。

高校2年からウイークエンドなどに米軍キャンプにいって歌っていました。
当時ラジオが唯一の娯楽でした。
異国の兵隊がもっと歌ってくれと言ってくれるのが、ものすごくうれしかったです。
クラシックの勉強をしていましたが、ジャズのうたいてに憧れて、音源が欲しくて、デパートでヒットしている曲を売っている場所があり、そこから手に入れて勉強しました。
ペギーは米国の人から英語の名前を付けてもらうことになり、その人から「ペギー」と云う名前を付けてもらって、「葉山」(天皇陛下の御用邸もあるのでいいイメージと言うこともあり)も付け加えて「ペギー葉山」になりました。
「南国土佐を後にして」 昭和33年に歌う。(デビューは昭和27年)
ジャズを歌っていたが、本場のジャズを勉強したいと思って昭和30年にアメリカに行きました。
渡辺弘さんが本場の物を聞いてみて来なさいと言われて行きました。
一人で行きましたが、アメリカは興奮のしっぱなしでした。

ニューヨーク、ハリウッドに行ってスターに逢うことになりました。
ラスベガスでは憧れの歌手が歌っていて聞かせてもらって、知り合いになったラスベガスの大きなとばく場の社長から無料で見たいものを全部見せてあげると言ってくれました。
歌とおしゃべりと踊りとその空間のタイミングの良さにびっくりしました。
日本に帰ってきて日劇で帰朝第1回のショーをやって、ミュージカルをやろうと思って、記者会見したらミュージカルって何と言われました。
NHKの高知放送が開局でそちらの方に行ってしまいました。
ディレクターからとにかく歌ってほしいと頼まれて、「南国土佐を後にして」を歌うことになりました。
鈴木美恵子さん(民謡の歌手)が何かのSP盤の裏に歌っていたのをディレクターが見つけて、高知放送局の開局に歌ってほしいと言われました。

「南国土佐を後にして」を聴衆の前で歌い始めたら、客席が静かになり、やっぱり歌うのではなかったと思っていたら、その後全員が手拍子で一緒に歌ってくれました。
何時も歌う時の拍手とは全然違っていて、立ちすくんでしまいました。
知事さんが飛んできていい歌を歌ってくれたと言ってくれました。
1回だけ歌ってもう歌わないと思っていたが、トルコから帰って来てから、何時レコーディングをするのかと言われて、レコーディングをしました。
これで卒業だと思ったら、歌がトップになり、歌うはめになり約束が違うと思っていたら、小林旭さんの「南国土佐を後にして」という映画もあり、映画出演にもなってしまいました。
ジャズもやっていましたが、「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと言われました。
「学生時代」平岡精二作詞・作曲)もヒットする。
最初大学時代と言う名称だったが、「学生時代」にしてほしいと私が言って、最終的に「学生時代」になりました。

2度目のアメリカ訪問の時に「ドレミ」の歌と出会うが、その前に「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと2世、3世の方から要望があって歌って、その後ニューヨークに行ったらサウンドオブミュージックに出会いまいた。
これだと思ったのが「ドレミ」の歌でした。
LPレコードを買って持ち帰りました。
「ドレミ」の歌を聞いた晩に日本語にしようと思って、ファがなかなか思い浮かばなくて、ファはファイトと言う言葉を思い浮かんで「ファイト」になりました。
「ラ・ノビア」ブラジルの曲で原曲はポルトガル語で、イタリア語で「ラ・ノビア」。
ポルトガル語で勉強して覚えましたが、タイトルだけ「ラ・ノビア」となりました。
若い人に、歌にはジャンルがないので、歌謡曲を歌っていても英語の歌だったらこういう歌も歌ったらと勧めることがあります。

65年はあっという間でした。
胸に穴があいてしまって、病気をしたこともありました。
療養している最中にケネディー大統領の暗殺事件もありました。
「芽生えてそして」と言う歌を歌って倒れて、菅原洋一さんがそのあと歌ってくれてよかったと思います。
根上淳さんが見舞いに来てくれて、結婚することになりました。
彼が倒れた時はショックでした、経験した人でないと判らないと思います。
1998年に根上が糖尿病合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
施設に行って歌うことがあるが、みんな歌う時は目が輝いていて一緒に歌ってくれます。
みんな自分が育った環境の中に聞いた歌があります。
軍歌、母が歌ってくれた子守唄などみんな心に在ります。
限りなく新しい歌を覚えて歌っていきたいと思っています。
フランス語、ドイツ語を勉強して、ちょっとでも歌ってみたい。
























































2017年4月25日火曜日

荻原浩(作家)           ・五度目の正直 直木賞

荻原浩(作家)        ・五度目の正直 直木賞
60歳、「海の見える理髪店」で去年直木賞を受賞しました。
2006年に「あの日にドライブ」で直木賞候補に挙がり、その後 「4度目の氷河期」、「愛しの座敷わらし」、「砂の王国」と 4度の候補になり 5度目で受賞しました。
荻原さんは大学卒業後、二つの広告製作会社を経てフリーのコピーライターになり、40歳の時初めて書いた小説「オロロ畑でつかまえて」で小説すばる新人賞を受賞し、作家デビューしました。
ユーモア小説、サラリーマン小説、ミステリー小説と幅広い分野の小説を書く作家として多くのファンがいます。

2016年の115回目の直木賞での受賞となる。
候補は或る日突然連絡があり、待っていて過去4回は残念でしたと言われて、3回目ぐらいから疎ましくなり、マイナスの事しか考えられなかった。
「海の見える理髪店」は6編の短編になっている。
だいぶ前から長編を書いて次に向かうサイクルでやっていて、さぼり過ぎかなと思っています。
ときどき短編を書きます。
その時書いている長編とは傾向の違う短編を書きます。
一つ書き終えると違うことをやりたいと思ってしまう。
あなたはこういう路線ねと言われたときに、いやそうではないかもしれないと思ってしまい、違ったものを書いてしまう。
器用貧乏かもしれません。

どの小
説もお勧めです、小説家にとって自分の本は子どもみたいなもので、同じように時間をかけて書いたものなので優劣はつけられない。
小説家としてデビューして今年で20年になります。
2作目は「おろろ畑でつかまえて」(ユーモア小説)の続編で、どこかで違うものをしてみたいと思いました。
方向転換できたと思ったのが5作目で「噂」(ミステリー)というものです。

埼玉県さいたま市(旧大宮市)出身、1956年(昭和31年)生まれ。
3人兄弟のまん中です。
漫画が好きでノートに書いて友達に見せたりしていました。
昨年ある特集で漫画をやりますと言って書きまして、世の中に出したのは二つ目です。
読書は普通だったと思います。
中学生ごろからミステリー(アガサクリスティー)、シャーロックホームズシリーズ(コナンドイル)、SFなどを読んでいました。
一番読んだのは大学生になった頃です。(成城大学)
ポスターなどを書くサークルだと思って広告サークルに入って、文章を褒められて文章を書く仕事に行ってしまったと言う感じです。
41歳から小説家になりましたが、原稿料を聞いて安いのにびっくりしました。
広告時代と2ケタ違いました。

35歳で広告会社を辞めてフリーになりました。
組織に向いてない人間と言うわけではなくて、組織に向いてない人間になろうと思ってたからだと思います。(組織の下にいたくなかった)
フリーになるためにまず2番目の会社に転職しました。(居心地は良かった)
フリーとなって短い手間でたくさんもらえたので、フリーの生活を謳歌して居ました。
しかし何年もやっていると不安になる。
フリーのコピーライターは年齢だけで古いと思われたりして、自分でやらずにスタッフを抱えてやる様に周りもやっていて、自分ではそうではなく何か違ったものをやってみようと思うようにりました。(39歳)
1997年「オロロ畑でつかまえて」で第10回小説すばる新人賞を受賞しました。(41歳)
出版社のあちこちからうちの社でもと言うような話ありましたが、本はそう売れるものでもないので、食べてはいけないと思ってとりあえずコピーライターでお金を稼いで、使う時間は小説の方にほとんどつぎ込む様な生活をしていました。

妻が最初の会社のデザイナーだったので、一緒に行動してくれるような人だったので、割と反対されずに済みました。
「明日の記憶」若年性アルツハイマーをテーマにしたもの。
記憶ってなんだろうと思い始めて、いろいろ調べたり、取材したりして書きました。
私の場合は取材しすぎてしまってもダメで、感情移入してしまうことがあるので、冷静にならないといけないと思っています。
言葉は正解というものがないので何年やってもこれでいいのかと、毎回思いながらやっています。
校正の度にここはと言うものが何時も出てくる。
言葉はちょっと前後を変えるだけとか助詞を変えるだけで違ってくるので、選択肢がいろいろあって、言葉の表現に関しては頑張って行かないといけないと思っている。
文章だけは自分の思う思考の組み合わせ、思考の流れのものを作りたいと思っています。
村上春樹さんは好きです。
文章力に関して、あの人の書くものを見ると、こんなことをこんなふうにするのかと、内容的にはどうかと思うものもあるが、技術的には凄いものがあります。


















































2017年4月23日日曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・太宰治【絶望名言】

頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】
「ダメな男と言うものは幸福を受け取るに当たってさえ、へたくそを極めるものである。
弱虫は幸福をさえ恐れるものです。
綿でけがをするんです。
幸福に傷つけられることもあるんです。」  (太宰治

20歳の時、難病潰瘍性大腸炎を患い13年間に及ぶ療養生活を送りました。(頭木)
悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を絶望名言として紹介しています。
「人間失格」
太宰治は38歳で亡くなっているが、松本清張さんと同じ歳。
太宰治を嫌いな人で代表的なものは三島由紀夫。
太宰の持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦、器械体操、規則的な生活で直されるはずだと言っている。
太宰は三島より16歳年上だが、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言っている。
それに答えて太宰は「そんな事言ったってこうしてきてるから好きなんだ」と言っている。

「生きて居ること、生きて居ること、あーっそれは何というやり切れない、息も絶え絶えの大事業であろうか。
僕は僕と言う草はこの世の空気と陽の中に生きにくいんです。
生きて行くのにどこか一つ欠けて居るんです。
足りないんです。
今まで生きてきたのもこれでも精一杯だったのです。
人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも耐えて素知らぬふりをして生きて居るのではないのか。」(「斜陽」、「火の鳥」の中の一節)
辛いと言ってくれることは救われる。

太宰を嫌いな人はナルシスト、甘ったれだとか、駄目な自分に酔っているとか、そんなふうな言い方をして貶す。
普通は自分を隠すが、そういう部分はあると思う。
大人になるとあからさまに描かれることに耐えられなくなってくる、隠すべきものをそんな見せつけないでほしい、と三島も言っている。
私自身、若いころ太宰を読んで、そのうち太宰なんかと思い読まなくなって、又今では読むようになってきている。
太宰に戻ったのは、病気をしたことが大きかった、改めて又魅かれるようになった。
辛い環境の中で過ごしていかなければいけないと言うことの中から、太宰に救いを見出すと言うことはありました。
自分に問題があるのではないか、廻りの環境に問題があるのではないかと思った時に読むと、救われると言う気になります。
病気になっている自分を写真とかに残したくはなくて、当時の期間の写真は一切ありません。

「私は人に接するときでも心がどんなにつらくても、身体がどんなに苦しくても、ほとんど必死で楽しい雰囲気を作ることに努力する。
そして客と別れた後、私は疲労によろめき、お金のこと、道徳の事、自殺の事を考える。」
自殺、死にたい、という表現は作品の各所に出てくる。
現実に人と会う時には楽しくしていて、書く時には赤裸々に書いていて、その差も面白いです。
明るくしていれば周りも楽なので判らない。
人間は一筋縄ではいかない、二重三重に判らない外から見るだけでは判らない。

「男のくせに泣いてくれた」曲 
一緒に泣いてくれる、太宰的な感じがする。

「命運がふっと胸に浮かんでも、トカトントン。 
火事場に駆け付けようとしてトカトントン。 
お酒を飲んでも少し飲んでみようと思ってトカトントン。
自殺を考えトカトントン。」
トカトントン、に意味はない。
トカトントンと云う音が聞こえてきてむなしくなる、やる気がうせる。
「いま僕がしようと思っていることを少し後には、僕はもうしようとは思わなくなっている。」 (カフカ
人間って、人生に大きなものを求めているがなかなかそういい事はない。
小さな事の積み重ねで、そう思うとついむなしくなってしまう事があると思う。
人間どこかでなにか大きなことを待ち続けて居る気持が、人生のどこかにあるのではないか。
病気が治るとなんでもどんなこともできるように思うが、手術をして治ると思っていたようなことはできなくて、その時の悲しさはありました。(13年間闘病生活)

「私は自分に零落を感じ敗者を意識するとき、必ずヴェルレーヌの泣きべその顔を思いだし、救われるのが常である。
生きてこうと思うのである。
あの人の弱さが却って私に生きて行こうと言う希望を与える。
気弱い内性の究極からでなければ、真に崇厳な功名は発し得ないと私は頑固に信じて居る。(「服装について」 エッセーの中の一節)
絶望の言葉が却って生きていこうと言う気を起させる。
共感する、共感を読者に呼び起こして、共感できると少し救われる。
太宰と落語に共通性を感じる。
太宰はあんまり本を所蔵していなかったが、三遊亭圓朝の全集を持っていた。

太宰は本当に弱い人だと思います。
心が弱いからこそ、そこから光が発する、と言うこと。
弱いからこそいろいろな事に気付く。
本当に弱いからこそ、他の人に気付かないことに気付ける。
「もっとも深い地獄にあるものたちほど、純粋に歌えるものはありません。
僕たちが天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なんです。」(カフカ)
深い地獄にある者ほどうまく純粋に歌うことが出来る。
弱いからこそ、そういういろんなことに気付いてうまく歌うことが出来る、作品を書くことができると言っている。



























































平松政次(元プロ野球投手)     ・カミソリシュートで打倒巨人

平松政次(元プロ野球投手)・カミソリシュートで打倒巨人
岡山県出身69歳、岡山東商業高校時代選抜で優勝し、社会人の日本石油では都市対抗で優勝しました。
ドラフトで2度にわたってあこがれの巨人から上位指名の約束を受けたものの実際には指名されず、2位指名された大洋に都市対抗で優勝した直後に入団し、打倒巨人を目指すようになります。
以来大洋一筋18年間、独特のシュートボールを武器に数々のタイトルを獲得し、200勝投手にもなりました。
現在もプロ野球評論家として活躍する平松さんに伺います。

今年、星野仙一さん、伊東勤さん、平松さんが選ばれました。(野球殿堂入り)
現実になり感動しました。
最多勝2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、沢村賞1回、オールスター出場8回、201勝を挙げる。
甲子園で優勝、都市対抗でも優勝し、プロ野球でも活躍したので総合的に評価されたのだと思っています。
星野さんは監督としても活躍したのでもっと早く殿堂入りしてもよかったのではないかと思います。
岡山東商業高校では先輩の秋山さんに次いでの殿堂入りとなりました。

当時長島茂雄さんの大ファンでした。
長島さんは昭和33年に巨人に入団したので小学校5年だったと思います。
日本石油で優勝して、昭和42年8月に入団して、8月16日広島戦で第一戦、9月6日対巨人戦に初先発して、長島さんと対決する。
ネクストバッターサークルの長島さんを見て居ると地に足がつかないような状態でした。
私がマウンドに立って、サード長島さん、ファースト王さんという自分の思いとは全く違った状態の勝負となりました。
ドラフトで入れなかった悔しさと、巨人戦に勝たないと全国区になれないと言うこと、長島さんにあのピッチャーは凄かったなあと思われたいと、そういう思いがありました。
1年目は3勝、2年目は5勝でした。
社会人では直球を三振するがプロではものの見事にホームランするわけで、プロの凄さを感じました。

2年目の春先、カーブを長島さんに大ホームランを打たれる。
それがよかったように思う。
ファンのような気持で投げて居たと思って、そこから切り変わりました。
3年目、3試合連続の完封勝ち、4年目(昭和45年 23歳) 初完封、次に堀内投手との投手戦 同点で9回に満塁策を川上監督が取る。
堀内投手の代わりに国松選手を代打で送って来るが、ピンチを脱する。
練習だけしか投げたことにないスライダーを投げて、キャッチャーフライに仕留めた。
延長戦を制して2試合連続の完封となった。
オールスター戦で優秀投手賞を貰う。
巨人戦3試合連続の完封、32イニングス連続無失点の記録を作る。
杉下選手の35イニングスの記録があるが、記録は破れそうだと思っていた。
長島選手を迎えて、キャッチャーがスーと中腰になったので、なんだろうと思いながらスナップスローを頭の上に投げた(絶対打たれない様なボール)を大根切りの様にホームランを打たれてしまって、記録は達成できなかった。(まともには勝負したかったが)

その年 25勝19敗、防御率1.95(生涯最高記録) 最多賞、沢村賞、ベストナイン賞
翌年 17勝で 2年連続最多賞、 この年の巨人戦は4勝2敗 4勝全て完投勝ち。
「巨人キラー」と言われるようになる。
都市対抗の時代、或る人がシュートを教えてくれて、しかし都市対抗時代はシュートを投げた事は無かった。
プロに入って二年間は余り勝てずにいて、近藤さんからヘボピッチャーと言うようなことを言われて、めらめらと来て、シュートを思い出して投げたらそれがすごくて物凄く曲がった。
なんでこんなボールを今まで投げないんだと言われた。
それから2ケタ勝利へと向かって行った。
体も鍛えられて、ストレートも良くなった。

200勝記念パーティーで長島さんが平松のシュートボールは打てない、短く持ちたいが、巨人軍の 4番打者が短くは持てないと挨拶しました。
長島さんの攻略法として打つ瞬間に短くスーッと持つようにした様だった。
巨人の牧野さんの指示はシュートは打つなと言うことだったが、真っ直ぐに見えてしまってついシュートを打ってしまう。(シュートとストレートの見分けがつきにくい投法)
私はストレートが90%で、ストレートで三振を取るようにしていました。
毎日がストレートの練習をしていました。
時代は違いますが、チェンジアップを覚えたらもう少し勝てたかなあと思います。
ピッチャーでホームランは25本で歴代4位になっています。
与えた18年間のデッドボールは120個でいまだにセリーグ記録になっているが、王さん、長島さんには当てては居ない、日本球界の宝なので怪我をさせたくないと言う思いはありました。
金田さんの左腕に当てて凄く怒られました、左腕は宝ですからね。

そのうち肩を痛めましたが、今の様に中5日、6日おいて試合に出てていたら、肩をいためることはなかったかも知れませんが、記憶の中にとどめてもらったことは幸せだったと思い悔いはありません。
子供のころからの夢を持って、ずーっと目標を持ってやってこられたことは、人間としては大事だと思います。
若い人は夢を持って突き進んでゆくことが大事で、壁に突き当たっても壁を突き破って行ってほしいと思います。































2017年4月22日土曜日

西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って

西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って
65歳、東南アジアのボルネオ島の熱帯林を守ろうとNGO非政府組織、「ウータン・森と生活を考える会」を昭和63年に結成し、代表を務めて居ます。
ボルネオ島では大量に伐採された木材が日本などの先進国に輸出され、熱帯林の減少が続いて問題となっていましたが、近年油ヤシのプランテーション、大規模農園の開発が進み新たな問題となっています。
西岡さんは何度もボルネオ島に渡って現地のNGOと連携し、熱帯林を守る活動を続けて居ます。
熱帯林で何が起きて居るのか、私たちの暮らしとどうかかわっているのか、伺いました。

65歳で退職し現在無職です。
休耕田を利用して「虹の畑片野」という名前でやろうとしています。
ウータンと言うのは森と言う意味です。
「ウ―タン・森と生活を考える会」
1987年にマレーシアのサラワク州と言うところで森林伐採が大変な事になっていると言うことで日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、それから始まったわけです。
事務局のメンバーが20名、当時公務員、教師のメンバーが多かったが、今は退職された方が多く無職が多いです。
小さい頃、母親の家が高島の浜にあり、海水浴が出来た綺麗なところでしたが、コンビナートを増設と言うことで海辺がいっぺんに変わってしまいました。
父親に誘われて山に虫取りなどもしていました。
高校時代になって環境がずいぶん変わってきました。

ボルネオ島の大半は森林におおわれて居て町だけが開けて居て、1965年以降に独立して、日本企業が入って森林破壊が進んできた。
日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、募金活動をしましたが、集まったお金を持って帰らなくて途中で姿を消してしまった。
現地のNGOの組織と組織としてやっていかないといけないと言うことになり、「ウ―タン・森と生活を考える会」を立ち上げました。
マレーシアのサラワク州では原生林が85%ぐらいがすでに伐採権が与えられていることが分かってきた。
欧米のNGOとも交流をもつようになり、ドイツの代表が日本に来て、一緒になって熱帯材の使用削減をしようと言うことになりました。
1990年から企業、自治体に対して2~3回で使い捨てになっているベニアの合板を長く使ってもらったり、使用量を少なくしてもらうとか、いろいろ話し合いを持ちかけに行きました。

建築方式も見直してほしいと言うようなことも申し入れをしました。
現地の森林の調査も行いました。
最初大阪府が対象でしたが、1995年ぐらいには関西レベルの取り組みとなり、全国でも300ぐらいの自治体が熱帯材の使用削減に取り組みをしていただきました。
環境省が環境基本計画を策定しようと言うことになり、熱帯材の保全、熱帯材の使用料を減らすことを提言しました。
違法な伐採が世界各地で行われていることが判ってきて、1998年G8サミットの時にG8のなかで検討してほしいとブレア首相にグリーンピースが申し入れをして、検討してほしいと言うことになりました。
ボルネオ、アマゾンでも違法な伐採がされていた。
1992年違法な形でシンガポール経由で日本に輸入されていたことが分かった。
違法伐採、運ばれ方など、現場への調査などを行いました。

2007年私はマレーシアで単独で調査をしていました。
EIA、テラパックの団体がホテルにいたが、悪徳警官が来て2人留置されてしまい、カメラ、お金など取りあげられたりしていました。
私もカメラをとられたが、急遽別のカメラを出して難を逃れた。
2003年からラミン(ゴニスチラ(ジンチョウゲ)科 Gonystylus 属の広葉樹。散孔材)を使わないキャンペーンを行い、モップの柄の部分を使わない運動を展開しました。
半年で50社、1年目に100社、3年後に200社と言う目標を立てたら、或るデパートが調査をしてくれました。
目標より早く進み、2007年では500社が辞めていただくことになりました。
最終的に日本では750社が辞めていただき世界では2000社以上が取り組み、2010年以降違法ラミンの取引は世界で出来なくなりました。

森林伐採をした後に油ヤシを作っていて、紙パルプの為の植林もしていました。
パームオイルはマーガリン、ファーストフード、洗剤、工業用燃料などに使われています。
植物油と書いてるのは油ヤシが大半です。
日本では昔は米油、ゴマ油、菜種油があったが、パームオイル、油ヤシは安価です。
油ヤシに転換していくと言う形があり、拡大して行った。
泥炭湿地だったところが、乾燥して行き、泥炭湿地を保全しようと言う取り組みを進めて居る。
雨が降らない時があり、火災が発生している、2015年インドネシアは世界3番目の二酸化炭素排出量になっている。
或る国立公園の1/4が燃えてしまいました。
再植林を展開しています。
5日間のツアーを組んで植林したりボルネオの人たちとの交流なども行っています。
オラウータンが棲む森が無くなってきて、油ヤシばかりになり、火災が起きてきてインドネシア政府も対応しているが、われわれ自身も生活の見直しをやっていかなければならないと思う。
持続可能な社会を作っていこうと米国でも取り組んでいます。
違法伐採を無くして森林再生をして持続可能な開発を目指していきたいと思います。
皆さんの生活も振り返って見直して頂けませんでしょうか。









































2017年4月21日金曜日

かこ さとし(絵本作家)      ・“生きる力”は子どもたちから(2)

かこ さとし(絵本作家)  ・“生きる力”は子どもたちから(2)
1959年絵本作家としてデビュー。「だむのおじさんたち」
子供たちと毎週日曜日に一緒に遊ぶために、せめてもと思いお話とか、紙芝居などを土曜日に書いていた。
それを見た人が出版社にアルバイトで勤めていたが、出版社に話して、出版社に呼ばれることになりました。
編集長さんにお会いしたら、大きなテーマを考えてほしいと言われました。
感動して、今の時代にふさわしいものと言うことで、復興期だったので造船の事、機械工業とか、化学工業とかがあったが、夕方になると電気量が少なく停電になる。
発電をテーマにしたらいいと思って、編集長さんから電気のことで行きましょうということになりました。
構想を練って、ダムを作ってめでたしめでたしでは面白くないので、山の中で工事に携わる人、廻りの自然などを含めた詩情があふれるような物を作ろうと思いました。
発電と動植物の関係をうまくマッチさせたいと思いました。

童話作家の川崎 大治さんというかたから、日本児童文学会で話題になっているとお話がありました。(30歳ちょっとの頃)
会社の仕事は重要だと思っていたので、会社の仕事を80%ぐらいにして20%を絵本にというような気持は品格に関わりあさましいと思って、仕事を120%やって開き直れるような気持で、土曜の夜は徹夜もして絵本仕事をして、日曜日は子供会をやる、それをやっていました。
それが皮切りになって他の社から注文がありました。
どんなことを書けばいいのか教えてもらったりして、絵本のイロハから教えてもらったりしました。

1974年「美しい絵」出版
前年に会社を辞める。
それまで出版社から言われるままテーマに従って考えて出していました。
一人前の会社員としてやると言う主義があって、休みにゴルフを誘われると一緒に行ってそのしわ寄せが夜の時間帯に来て時間の調整が難しくなり、又管理職にもなってきて研究の仕事から遠のいてきて仕事の面白味も薄れて、絵本の仕事に力を入れようかなあと思った。
収入が減ってしまうが、妻がキャラメル売りの仕事をするとか、子供も大きくなってきたので、家族の支援もあり退職願を出してフリーになることにしました。
新聞で田中首相がモナリザの絵をルーブルから日本に持ち込むと言う話があり、子供向けの絵の本を出したいと各社回ったが、断られてしまいました。
或る一社だけが承諾してくれましたが、最後になってピカソのゲルニカという絵がまとめになるが、ピカソが亡くなって家族が係争中で裁判が決着するまで国外で掲載ことはならんとうことになりました。

子供の教育のために掲載を是非お願いしたいと、許可を願いにフランスまで行こうと決心したら、出版者に電報が入って許可を貰うことができた。
私自身の思っていることを何とか伝わるように、それが子供たちに心に響いてくれればいいと、そういうことで絵を見てほしいと思って、描いた人の心がそこに表れて居るか込められていることが問題なんだと、その思いを紙芝居なんかを描いていたので一冊のものにしました。
若い時に芥川龍之介に熱中して、天才でも歩きながら考えていたと言うことで凡人はしょっちゅう考えてもいいが堂々巡りで、気が付いたときにメモするようにしているが、いいと思っても後で見ると大したことないことが多い。
しかし、これが種本みたいで、段々練って行って文に仕立てて行く。
これがないと全然進んでいかない。
お蔵になっているものが多くて、生きたのは1/100ぐらいです。

子供さんから手紙、感想などをいただくのが宝で50数年間取ってあるが、返事は直ぐ出すようにしていて、続きを描いてほしいと言う要望があり30年過ぎに書き始めて40年後に出版することができました。(「どろぼうがっこう 」続編)
良くないからやめななさいと言ってやめるよりも、自分でやめるようにすることが子供の成長だと思います。
普通の子供はプチ悪の面とプチ良いの面があって葛藤しながら自分で磨いてゆく、磨いてゆくことがいいところなんです。
好きなものを選んで、読書の大事さを知ってもらえれば一番いい。
自然界からいろんなものを教わったような気がする。
家の中で本だけで過ごすよりも、本も読むけれども外で遊ぶようにしてもらった方がいいのではないか。
本を読む間接経験よりも直接経験の積み重ねがとても役に立つ。

子供は読んだもの、経験したものなどで琴線に触れるものがあったならばそれを追求してて行動として表す、行動に出ると言うことが素晴らしいこと。
子供の理解出来る文章、絵、図なりで、理解出来ると言うところに入れてあげるとOKです。
20年間、役に立つと見越して書かないといけない。
せっかく生まれてきたので何かお返ししていかなければ申し訳ない、それだけです。
生き甲斐を20年間失っていたのを、後の70年間を楽しく、色んなことを教えてもらって、
こんなことをやってきたということを残していきたい。
テロだとか、内戦だとか、人と人の争いがあり非生産的な状態が途切れない、人間の社会として克服出来るようにしてほしい、しなければいけない。
ノートに書き記したものを1つでも2つでも、元気なうちに皆さんにお渡しできればと思っている。








































2017年4月20日木曜日

かこ さとし(絵本作家)      ・“生きる力”は子どもたちから(1)

かこ さとし(絵本作家)・“生きる力”は子どもたちから(1)
今年91歳、今でも続々と新作絵本を生み出している現役絵本作家です。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」などの人気シリーズから、歯や骨など人の身体、宇宙や気象現象、動植物について専門的に描いた科学絵本まで今までに生み出した絵本は600冊を超えます。
福井県越前市で生まれたかこさんは敗戦を迎えた時は19歳でした。
多くの友人たちを戦争で亡くし自分は死にはぐれたと感じて生きる道を失ったと言います。
そんなかこさんの生きがいになったのはセツルメント活動で出会った子供たちの存在でした。
東京大学工学部を卒業して化学メーカーの研究者として勤めていたかこさんが、どうして絵本作家になったのか伺いました。

4つ身体に故障があり 腰、首が痛いし、他に薬で何とかしていますが、眼も片目が悪く30年前から緑内障になってます。
長生きしたのは胃腸が丈夫で、兄弟は病弱で先に亡くなりました。
夜は片目だとだめなので日没とともに仕事は無理で、仕事は午前中に出来るだけしています。(若い頃の1/3ぐらいになってしまいました)
10時ごろには寝て、夜明けをまって仕事をやっています。
子供さんにいつの間にか興味を持って、子供さんの事を知りたかったが、工学部だったので児童心理とかを全然知らなかったので、本を読んだがさっぱり身に付かなかった。
子供さんをじかに観察して体得するしかないと思って、機会が出来ないかなと思ったが、会社員を務める中で、社会の裏表を知ったし、業務を通じて貢献、お返しするなかでもっと、直接的な事をしたいと思って、セツルメントを戦後大学生が復活させて、偶然に子供会を手伝ってほしいと言うことで行きました。

川崎に行って、会社勤めとセツルメントを2つやっていて、偶然に女子学生が手伝いに来ていたが、その後その女子学生がアルバイトで出版社にいき私の事を吹聴して、出版社のほうから絵本を書かないかと言うことになりました。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」はたくさんの方が読んでくださって、3代にわたって読んでくれたと言う話もあります。
子供さんにも共感できるものがないと、あとからずーっと続いていかない。
こちら自身が子供と同じような心にはなれないけれども、人間としての考えを自分が持っていると言うこと、自分をさらけ出す覚悟の様にして書いて、最低は10数回は書きなおします。
絵の方は時間はないが、5~6回は書きなおします。

「矢村のヤ助」 1955年頃子供会で話したらこどもたちの反応が凄かった。
当時木下順二さんの「夕鶴」が評判で、学生時代演劇をやっていましたが、木下順二さんの所に押し掛けたりして、尊敬している作家です。
「夕鶴」の内容に腑に落ちないところもあって、鶴は高貴の鳥であってヤマドリの方がずっといいと思ってヤマドリの話を基にして、ヤ助の物語を書きましたが、好評でした。
「矢村のヤ助」の概要
ヤ助と歳をとったお母さんが居て、ある冬の日に罠にかかったヤマドリを助ける。
或る日アカネと言う旅の娘が道に迷ってヤ助の家に来る。
冬を一緒に過ごし、結婚をしてお母さんと3人で一緒に暮らしているが、村を恐ろしい鬼が襲って、米10表、あわ10表、女房を添えて持って来いと言うことになる。
鬼をやっつけるには強い弓を使って一本を注ぐ、矢羽は13フシのヤマドリの尾羽でなくてはいけないとアカネが提案する。
アカネはヤマドリであることを白状する。
ヤ助は勇敢に鬼に立ち向かって鬼をやっつけるが、アカネはヤマドリに戻ってしまって、一緒に暮らすことはできなくなってしまう。

これは2014年米寿の記念として全国の公共図書館に寄贈している。
子供さんは共感すると大事に抱いて寝床まで持って行ってくれるので、全国の図書館に贈りました。
戦争中、戦後、反省としてあるので、自分自身を省みると恥ずかしいので自分自身が出来ること、やれなかったことを、どう反省するんだと言うことを出発点にさせてもらって、頼りになるのは子供さん達だけだと、子供さんたちの未来のために自分の様に後悔をしないように、自分で考える、自分で世の中を判断できる賢さを身につけてほしいと、それをお手伝いできないかと、思ったわけです。
20歳までは後悔、失敗の人生だった。
自分でも考えたはずだが、軍人だったらただで学べてこんないいことはないと思った、飛行少年だったので、近視が進み航空の道には進めなかった。
考えが浅かったわけです、判断が誤りだった。

優秀な友人たちが軍部の学校に入って特攻でみんな死んでしまって、私などは死にはぐれです。
戦争の問題を解決できる方法はないものかと、子供さんたちに明らかな方法で示したいが、いまだに勉強が足りずに、戦争を防ぐ、戦争をしないための具体策が自分でも探しあぐねてるところです。
戦争の悲惨さはよく書かれるが、悲惨を生むための、産んでしまった自分の責任に対して十分でない様に思って、それが残念です。
経済の問題をどう考えるか、どう処理するかの大問題があり、新しい考えの学者さんがいるが、自分では残念ながら実現できていないと言うこともあり非常に残念です。
3歳になると個性が出てきて、自分の好きなことは自分の発案でやって、厭な事は黙って、理屈は大人に向かって言わない。
生きる目標を失っていたが、子供と接して喪失感が無くなってきて子供には全部教わりました。
素晴らしい判断力、感性でした。
今までの教育学の理想児、児童学の本とは違う。
近所の子供さん達を集めて教わった方が早い。
























































2017年4月19日水曜日

観世清和(能楽・観世流二十六世家元)・銀座で出逢う新しい能

観世清和(能楽・観世流二十六世家元) ・銀座で出逢う新しい能
観世流の新しい能楽堂が4月20日に銀座にオープンします。
渋谷にあった旧観世能楽堂が移転するもので、これを機会に一般の人達にも能楽を楽しんでもらおうと様々な企画を準備していると言うことです。
銀座の地は江戸時代に観世家が幕府から屋敷を拝領していたところで明治元年まで能舞台や家屋敷などがありました。
新しい能楽堂は銀座の中心部に建設された複合ビルの中に入っていますが、周辺に歌舞伎座や帝国劇場があることから、銀座を伝統文化の一大拠点にしたいとしています。
銀座で出会う新しい能、観世清和さんに伺います。

銀座6丁目の複合ビルの地下3階に構えることになりました。
和の文化を取り入れつつ地下を感じさせない雰囲気作りに心がけています。
能楽堂は渋谷の能楽堂の総ヒノキ作りの能舞台を釘を使わない組み立て式なので綺麗に解体して、運んで来て組み立てて復元しました。
屋根のひわだは新しくしました。
旧能楽堂は552席だったのを480席に減らし、前後左右の幅を広げました。
椅子も疲れないように人間工学的に工夫をしました。
目付柱は取り外しができるようにしました。(他の使用が出来るように考える)
(*目付柱→面(おもて)を着けた演者は、面の小さな目の穴から見える大変狭い視界でしかないので常にどこかに目標物を必要とする。舞台で舞い始めた演者が、目を付けて演技をする柱という意味で、目付柱とされている。)
正面から出来るだけ見られるように、正面席の数は増やすように工夫をしました。
イヤホーンガイドを導入する様にインフラ設備のしつらえをしています。
物語の場面場面の状況の説明は絶対必要だと思っていて、日本語ガイド、多言語ガイドも取り入れて行きたいと思っています。
バリアフリーも考慮しています。

銀座1丁目に三代将軍家光公から500坪の土地を10代目観世重成が1633年ごろ拝領しました。
243年間、明治維新まで居住をさせていただきました。
祝賀能、44年前の舞台開きの番組と全く同じで、宗教的色彩が強い天下泰平国土安穏という祈りの心の翁をして、鶴亀の前囃子、高砂を行います。
4月24日の晩に若手の特別公演を行います。(7時30分開演)
謡曲講座、入門講座などの催しも考えています。
きっかけが大事だと思いますので、生の能の魅力をふれていただきたいので、能舞台を見るとか、すり足とかそういったところからの講座をやってみたいと思っています。
2020年東京オリンピックパラリンピック、文化プログラムについては協力して、外国の方々に日本の文化をアピールしていきたいと思っていて考えています。
お茶、お花、お能 日本の伝統的な文化のエキスに触れて頂くようなことを企画していきたいと思っています。
近くには歌舞伎座、新橋演舞場、帝国劇場などがあるのでネットワーク作りをさせていただきたいと思っています。

伝統を守ることは魂を削って守っていかなければいけないし、伝統をいい形で後世につなげて行く、発展させてゆくことが非常に大事だと思っています。
息子は能の稽古ばかりだけではなく学校生活、学業と家業のいいバランスをとってもらう事が大事だと思います。(バスケットボール、生徒会長をやっている)
それと今しかできないことをやれと言っています。
過度の稽古はいけないと言っているが、役者の心は大いに真っ直ぐに育ててやらないといけない。
怒るだけでなくて、褒める時は本当に褒めてやれと言っています。
風姿花伝」は人生論であり、哲学書であり、経済的な事(一座建立)も言っています。
根本的な体幹、身体能力は必要なので、五感に沁み付けさせる、理屈の世界ではないので、体で覚えて行く。

平家物語の中に能楽の演目に取り入れられていないような素晴らしい物語が残っているが、そういうこともやってみたいと思っている。
阿古屋の松を復曲  震災に絡んだもの  復興の祈り
現代人の感性も大事なので、360度眼を開いていろんなものを吸収して、いろんなものを感じて感性を磨いて、現代人としての700年前の演目の捉え方も必要なんだと言っています。
現代人としての感性を磨くことも大事な事だと思っています。
能の体験、稽古をやって能を見るとまた違った世界が見えてきます。





































2017年4月18日火曜日

一龍斎春水(講談師)        ・女性の生き方を語る

一龍斎春水(講談師)  ・女性の生き方を語る
かつては声優として麻上 洋子さんとして活躍されました。
宇宙戦艦ヤマトの森雪の役と云えば印象に残っている方もいるのではないでしょうか。
声優の仕事を今も続けていますが、40歳になった時に語りの芸を極めようと、人間国宝の一龍斎 貞水に弟子入りし、12年かかって真打ちとなり、講談師としていま全国を回っています。

黒沢 良さんと言う大先輩が声優のための学校を開いてくれて、そこに入学させてもらって卒業するときに宇宙戦艦ヤマトの番組とめぐり合うことになり、オーディションで森雪と言う役をゲット出来て、恵まれました。
声優の学校は30人ぐらいの生徒で私が最年少でした。
声優はいろんな役に変身が出来て楽しいです。
声優は今もやっていて45年になります。
声優は芝居ができないといけないので、声優の学校を出る時に劇団に入りました。
早野寿郎さんという大竹しのぶさんらを育てた演出家が居て、先生の劇団に入って10年やっていましたが、基本は声でどう演じられるかと言う方が私にとって大事で、そっちの方を勉強する方法はないかと思っていたら、山内 雅人さんがドラマティックに読む事をやりたいと言っていて、是非私も勉強させてもらいたいと言うことで読むことの勉強が10年続きました。

お客様が自由に聞けるものにできないのかなあと思っていたら、一龍斎 貞水さんにめぐり合うことが出来ました。
一龍斎 貞水さんは講談師として初めて人間国宝に認定されたかたです。
一龍斎 貞水さんの話芸を聞いたときに物凄く自由に鵜飼が舞台の上から縄を投げ掛け纏めてキューっと引張って来るような空間を感じました。
お客さんとの空間が私がこうなりたいと思っていたことが妙に合致して、この人のところで学びたいと思って入門させて下さいと申し出ました。(40歳)
声優としてのスキルを上げたいと思って行こうと思ったが、飛び込んでから知ることになるが何百年の和芸の世界であった。
異次元の世界に飛び込んだ事を後になってから気付いて後戻りはできないと思いました。
講談も落語の世界も発声練習なんてありません。
海に向かって叫んだりするのはのどをからしてしまうので、そんなことはやりません。
師匠から盗んだものの一番は一生懸命やること、お客様に誠心誠意向う事です。

今、師匠はがんを抱えて居てのども治療によって荒らしてますが、普通の人なら声が出なくなるが、師匠は全然関係なく声が出ます。
医者がびっくりするぐらい声が出ます。
私は真打ちになるまで12年かかりました。
どういう芸をやっていったらいいのか、悩みました。
男主人公の話ばかりで、話の中身が判らないことが多いし、調子が身体の中入っていかないといけないが、そこでまずつまずいてしまう。
宇宙戦艦ヤマトの話を考えたら出来る思って、それが出来るならいいと言われて、力を得て新しいものを作りながら進めました。
師匠に春水は変な事をやっているので辞める様にと言った先輩がいるようでした。
やっているうちにお客さんは新しい事をやりたいと思っているんだと言うことで、この女性の話をあなたがやってこの人を検証してくれたらと本を送ってくれた人(黒瀬曻次郎(
くろせしょうじろう)先生と言う作家)がいて、「中村久子の生涯」という本でした。

中村久子さんは3歳のときに両手両足を病気で無くされて72歳まで生きて、人の12人分ぐらいの生涯を送られた方です。
手足のない身体で自立をし、子供を産み育て、大黒柱となり、社会的にも沢山の貢献をして最後には多くの病気を抱えた自分の身体を医学に役立ててくださいと言って、身体全部を提供して亡くなった方です。
物凄い人の生涯の本を読ませていただいて大感動して、涙を流しながら読んで、自分の話にしたいと師匠に打ち明けたら、作れるならいいよと言っていただきました。
すこしずつ高座にかけてみましたら、お客さんの反応はノーだったんです。
あなたの将来のために良くないので早くやめなさいと言われてしまいました。
古典は合わないと思っていたので、やってきたのを大事にしていいんだよと言う人は少数派でした。

私の背中を押してくれたのは乙武 洋匡さんでした。(「五体不満足」と言う本を出版)
100万人の人達がこの本をOKと言ってくれた人々がいる。
私にノーと言ってきたのはたった一人じゃないかと、世の中にはイエス、ノーが五分五分いるわけだからやっていこうと思いました。
二つ目になり、二つ目になると独演会を開けるようになって、久子さんの話を作り始めようと思ったときに、お客さんが「いいね」と言ってくれるようになりました。
金子 みすゞさんの話も作ってみたらとお客さんから言われて、金子 みすゞさんに出会うことができました。
中村久子さんの話は10話で完結しました。(1話で45分ぐらいかかります。)
中村久子さんは口で着物を縫えるようになれるが、つばがついてしまうのでまわりの大人には拒否されてしまう。

これに悩むが、おばあさんから「人は自分に自分の姿を見せてくれる、有難いと思え。
これに勝つためには久子がこれを自分の力で乗り越えることだ」と教えてくれる。
それから13年後にはつばが一滴もつかなくなった。
合わせの着物をたったの2日で縫えるようになる。
自らの身を見世物小屋に売って、その最初のお金で母親が久子さんの治療に抱えてきた借金を全部清算して、見世物小屋に出て自立をして、口で出来る芸を持って芸を見せ売れっ子の芸人さんになる。
裏切られたりしながら、売られた4年半は大変な暮らしをする。
中村久子さんは明治30生まれで亡くなるのは昭和43年です。(障害者に何の制度もない時代)
お寺の方から法話の代わりに呼んで下さったり、福祉関係で呼んで下さったりして、1時間半貰えるので、語ったりしています。

献体のための身体を娘さんが抱えて、「お母さんの生き方は最後まで立派だった」と娘さんが言う、それが第10話の最後になる。
講談を語るたびに、自分が励まされ背筋を正され、お金ではない、自分が生きてきたことの自分自身を生かすため、自分の資質をすべて活かして何かを伝えることができればと思います。
金子 みすゞさんも一生懸命生きた方です、こびへつらうのではなく、自然が素晴らしいとか、そこに向かって真っすぐに進む、そういったところが大好きです。
朗読も始めました。
私に課せられたものを全うしていきたいと思います。




































2017年4月17日月曜日

大藏基誠(能楽師狂言方)       ・【にっぽんの音】

大藏基誠(能楽師狂言方)   ・【にっぽんの音】
狂言 能と狂言をひっくるめて能楽。 私は能楽師狂言方です。
能は昔の話を幽玄美を使って物語を作り上げているが、狂言は主人、太郎冠者(たろうかじゃ)、女、男、鬼、婿など何処にでもいるような、キャラクターを使って物語を展開している。
能は悲劇が多くて、狂言は家にあるのが全部で180曲演目があるが80%は喜劇です。
人間の弱さ面白さを描いているのが多い。
子供にやってはいけない、見てはいけないと言うような事に、やってしまう見てしまう心理を描いていたりするのが狂言の面白さです。
海外でやっても笑う壺は一緒です、根源的には変わらないです。
狂言は短いものだと6分、長いものだと1時間ぐらいになります。
舞台は能楽堂になり、都内で10数か所あります。
なにもない空間で舞台を作って行く。
「ここは宇宙でござる」というとそこは宇宙になってしまう、お客さんの想像にゆだねる。

能はお面を使うが、狂言は素に近い。
断髪令が出て、「ちょんまげ」を許されたのが相撲と能楽の世界だったが、相撲は残しますと言うことになり、能楽の世界は我々も落としましょうとなり、自由になりました。
能は敦盛だとか実在していた人物を演じるので面に憑依(ひょうい)させる、面を付けることによってその役に入る。
狂言は実在する人物ではなくて何処にでもある話なので面を付けることなく素顔で行います。
昔は面は高価なものだったので、買うことができなかったのでその時に顔を化粧をするようになったのが歌舞伎の世界と言うふうに聞いたことはあります。
おおきく分けて大蔵流、和泉流があり、鷺流があったが途絶えてしまった。
大蔵流には大藏彌右衞門家(本家)があり、東京に山本東次郎家、京都に茂山千五郞家、茂山忠三郞家があり、大阪神戸を本拠とする善竹忠一郞一門があります。
毎年5家狂言会をやっていて、若手がそろって、いろんな家の技が見れて面白いです。

小学校上がるまでみんな狂言をやっていると思いましたが、小学校に上がってから家だけなんだと気付きました。
反抗期には家出をしたりしたこともありました。
舞台に行かなかったことで父親が代役をやったりして親父に申し訳ない事をしたと言うことで、親の顔に泥を塗ってしまったことを後悔して、やろうかなと思いました。
みんな舞台に命をかけて居る、舞台に穴をあけてはいけないと言うか、みんなの熱い思いは大事にしたいと思っています。
舞台は一番と言うことを息子には見せようと思っています。
息子は同じクラスに狂言をやっている子がいて、いい環境だと思います。
稽古や、舞台に立つ瞬間は凄く厭です、めちゃめちゃ緊張します。
毎回演目が違うので、次のセリフを覚えなくてはいけなくて、並行して覚えなくてはいけないし、セリフも100点出さないといけないので追い込まれた時は厭になります。
だけど舞台に出てお客さんの笑いだとか拍手を貰うと、全部吹っ飛びます。

「一期一会」なんで今日の舞台はもう二度と見れないだろうと思ってやっています。
お客さんと演者とで一緒に作る空間だと思っています。
間を大事にするので、間をとった瞬間に携帯の音がしたりすると何やってんだろうと思います。
最近は見るお客さんが違ってきて、TV映画を見る感覚で来るお客さんが多いです。
TV、映画は一方通行だが、舞台はそうはいかないが薄れてきているように思う。
狂言はみんなに想像してもらって楽しむお芝居だと思っています。
『kyogen lounge』 44回目になり、パーティーと狂言を一緒にした舞台で、楽しんだ後狂言を見て、又お酒を楽しむと言うような空間を作っています。(1回/2カ月)
そこでの出会いがあったりして、狂言を通して繋がってもらうのはうれしいと思っています。
敷居が高いとか伝統芸能に対するイメージを変えてみたいと思ってやっていますが、好評です。

自分自身がパーティー好きと言うような思いもあり、思いつきました。
30代、40代の人が多いです。
狂言を見に来るときに、昔は何を着てきてもいいですよと言っていたが、最近はおしゃれして来てと言っています。
自身が脚本し舞台「TheFactory」を演出。
やるきっかけになったのは、日本の芸能をもっと知ってもらいたいと言うことが根本にあって、津軽三味線、尺八、和太鼓、狂言、殺陣、そこにアニメーションダンスを入れました。
間に芝居を入れる事によって、それぞれの津軽三味線、尺八、和太鼓、殺陣などの文化を知ってもらいたいと思いました。
音楽だけではなくて茶道、華道とか日本の文化を取り入れてもいいと思っています。
日本の文化を知ることによっていろんなものが見えてくるのではないかと言う思いがあります。
狂言の180曲の演目の中で誰一人として死なない。
人間の弱さ、面白さ、失敗談を描いていて、怒られるがその先は許すという、仏様、神様の教えが詰まっている演劇なんです。

おおらかな気持ちで物事を見なさいよとメッセージ性が強いと思っていて、日本の芸能全般が誰も人を殺していいとは言わない、文化芸術を楽しむことによって平和な地球が作り上げる事できるのではないかと言うことで、もっと発信してゆきたい。
狂言だけでなく、歌舞伎、文楽、落語などもっと楽しんだらいいんじゃないかと言う思いが「TheFactory」になった訳です。
世界中を回りたいと言う思いはあります。
日本の良さを発信したい 「おおらかさ」
日本の音 季節を感じたりしてしまうが、1年を通して日本の音で出て来たのは「鼓」です。
小鼓は湿気を大事にしていて、大鼓は乾燥を大事にしている。
小鼓に調子紙を貼っているが、この紙(切手より小さい)一枚で音が違ってくる。
「紙一重」という言葉はこのことからきている。
どんな音楽でも鼓の音が入ると凄く和っぽくなる。
左手で持って右肩に乗せて、右手で叩く。(意外と知られていない)
いろいろ知ってもらって人生を豊かにしてもらえればいいと思います。






















































2017年4月14日金曜日

木之内均(イチゴ農園経営)     ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ

木之内均(イチゴ農園経営) ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ
熊本地震から1年、南阿蘇村立野では大規模な土砂崩れが起き、家屋の損壊、橋の崩落など大きな被害を受けました。
木之内農園は関東出身の木之内さんがおよそ30年前に一人で起こした農園です。
当時阿蘇では珍しかったいちご狩りの観光農園やジャムなどの加工品のアイデアで先進的な農業経営で全国的にも注目されていた農園でした。
昨年の大地震とその後の豪雨の影響で現在も農園は8割が使用できない状況です。
地震から1年、農園を取り巻く現状や 木之内さんの今の思いを伺います。

橋が崩落して先には行けません。
道路は新しく作り直しています。
少し残ったところで畑を耕して、これからジャガイモを植えます。
10ヘクタール近く作っていましたが、8ヘクタールが修復作業に提供していて、農業はごく一部しかできません。
飲料水の水も出なくて農業用水は何時になるか判りません。
水がないのでハウスは全く何も作れない状態です。
橋、道が出来たあと土砂を取り除いて元の畑にする作業があるので、5~6年かかるのではないかと思います。
社員は9人います。(12人いたが辞めた人もいます)
加工場も水が止まっているので12km先から水を毎日汲んできています。
事務所も石垣が崩れて解体しないといけません。

観光のトロッコ列車も止まっています。
今年の梅雨の時期に崩れる可能性もあります。
ハウスが10以上あるが橋の工事のために全部たちのかないといけない。
年間5万人のイチゴ狩りに来て居ましたが今年は全くないです。
農業ボランティアでジャガイモの植え付けをしてもらっていますが、本当にありがたいです。
助けがなければ事業自体が成り立たなくなってしまいます。
地震後、1年は早かったなあと思います。
現場では復旧の入口です。
14日の地震は阿蘇は何にも影響がなかった。
熊本は地震がないといわれていて、前震があった時はこれで地震は終わりだと思っていた。
夜中に本震が来て、陸路が崩れて通れなくて缶詰になりました。
橋が落ちてなければ会社まで5分ですが、会社に来たのは3日目の夕方でして想像を絶する揺れでした。

ベッドにはいつくばっていた感じで揺れが長かったです。
家が滑り落ちているのではないかと思いました。
皆さんには是非懐中電気を枕元に置いておいてもらいたい。
娘の部屋に行くのに物が崩れて居て、何も見えないし、ようやくたどり着いて娘がスマホを握っていたのでその光で2階からようやく降りてこられました。
水槽にウナギを飼っていたが、ありとあらゆるものがめちゃめちゃでした。
懐中電灯を探したが置いてあるところに無かった。
ようやく懐中電灯を探して、集落に行ったが殆ど家がつぶれて居ました。
姪が堀炬燵に隠れたが挟まれていてしまいなんとか助けたが、半年ぐらいは家の中に寝られなかったです。(ワゴン車に寝て居ました)

立野地区の人は大津町の仮設住宅に行ったり親戚にいったりしています。
私も大津町にアパートを借りて居ます。
山にはまだ亀裂が入っていて、地震よりそのあとの集中豪雨で崩れた山の方が多いです。
今年の梅雨で又崩れるのではないかと心配です。
戻ってきたところで水田での仕事がないということもある。
滝野病院があるが100人を超える雇用をもっていたが、ここも閉鎖になっている。
私のところもパートさんの雇用はできなくなった。
若い人は離村の可能性が高いです。
うちは観光農園で規模も大きかったが、今の規模を維持するには他のところには無くて、
他に移る事はできない。
なんとか時間はかかっても立野でやろうと思っているのが会社の方針です。

大学が農学部で子供のころから農場主になりたいと思って現在に至っています。
立野は棚田で外輪山の切れ間に在り、まつぼり風が吹くところで条件のいい場所ではない。
昭和60年ごろは地価の高い時期で場所のいいところには入れなかったので、ここが借りられた。
そして少しずつ大きくなってきた。
私はもともと動植物が大好きでした。
子供時代は川崎にいたので川崎ぜんそくになり、苦しい思いをして、親が引っ越しを決断して町田に行き、周り中山と畑しかなくて、本当にうれしかった。(小学生の頃)
動物を飼うのが好きでしたが、餌の確保に苦労して最終的には自分でお寺の畑を借りて作業して餌を作るようになりました。(小学校5年生の頃から高校まで)
肥料には家のトイレから取り出して利用したりしていましたが、近所から文句を言われたりしました。

34歳のときにあごにがんが出来てリンパに転移していたら長く生きれないといわれて、半分死刑宣告を受けたようなもので、その時若い者たちが家にいてくれて居なかったら100%つぶれて居たし、農業は諦めざるを得なかった。
彼等に何か恩返しをしたいと思って、出資をして取締役になりチームをまとめていけば自分が死んだ後でも続けられるかもしれないと思って、彼等を呼んで会社にしないかと言って、それが有限会社にする大元なんです。
農業はたんぼまで水を引っ張ってくるには何km言う水路が必要で、農道管理もそうだが地域の人たちが共同で守っている。
野焼きもみんなでやっており、野焼きをやめたらブッシュになり阿蘇の景色も見渡せなくなる。
一人ではできないので地域をどういうふうに大切にするかは避けては通れない。
若い後継者が減っているので人材を育成してゆくことも大事です。

無一文から始めて大病したりしてやってきましたが、「危機はチャンス」という言葉がありますが、今度の震災も大きな危機ではあるが、発展的な復興を願っています。
ここは阿蘇の玄関口なので、外輪山を越えないと阿蘇に入れない、立野が唯一の切れ間になっていて通れるところなので、この地区は必ず建て直ると思います。
地域に産業が根付いてないと人も住めないし活気も出てこないので、初めからもう一度作り直せるので、観光農園を作りなおしたいと思っています。






































2017年4月13日木曜日

吉村孝司(天草エアライン社長)    ・たった1機の航空会社

吉村孝司(天草エアライン社長) ・たった1機の航空会社
天草エアラインは所有する旅客機が1機と言う航空会社です。
熊本県天草空港と、熊本、福岡、大阪の間を一日10便が運航しています。
社長の吉村さんは62歳、日本航空で主に営業を担当し、20014年天草エアラインの社長に就任しました。
社長自らが搭乗前の手荷物検査、機体の清掃などを担当するなど社員全員が出来ることを何でも担当するという社風で逆境を乗り切って来ました。
1年前、熊本地震が起きた時には臨時便を運行するなどして、地域の足としての役割を果たしました。
小さな航空会社の経営をどうかじ取りし、大手航空会社にはないサービスを展開しているのか伺いました。

最新型の飛行機、「ATR42」フランスとイタリアの合弁会社の飛行機で日本で初めて導入、音も静かです。
1200m~2800mぐらいの低い高度で飛ぶので眺めがいいです、
天草空港がベースで10便飛行して居ます。
天草空港は午後8時30分までなので、それを超えると入れないので最悪欠航となることもあります。
就航率は過去5年間95%は就航しています。(大手とは引けを取らない)
熊本地震から1年になるが、その時熊本市にいて吃驚しました。
2回目の地震の時に熊本空港が閉鎖になり、新幹線も止まってしまい、天草空港は使えたので、天草と福岡を飛び続け臨時便も出したりしました。
交通網が遮断した時に我々の飛行機はずいぶん役に立ったと思います。

熊本県と天草西町で80%ぐらいの出資比率で残りが天草の民間企業と言うことになります。
天草は島なので不便さを解消しようと言うことで設立されました。
天草は医療施設が沢山ありますが、医者の数が不足していて、天草以外の所から来るときに飛行機を使って通勤代わりに使っている人が30名ぐらいいます。
そういった関係で毎日運航できるようにしています。
コスト削減のために最低限の社員しかいないので、手伝いすると云うことで私を含めて営業の人達などもヘルプする体制になっています。
手作り機内誌もコストをかけないでお客さんに喜んでもらうというコンセプトで作られました。
一人何役もこなすが、コスト削減と大手航空会社にはない温かみのあるサービスをコンセプトにやっています。

日本航空に40年近くいました。
一番長いのは営業です。(旅行代理店との団体営業)
日本航空は2010年に経営破たんしたが、その時は鹿児島支店長でしたがびっくりしました。
飛行機は飛ばさなければいけないので従来通り一生懸命やらないといけないという記憶があります。
去って行く従業員がいて心が痛みました。
前社長もJALのOBで、退任すると云うことで後任にどうかという話があり、そういういきさつで受けることになりました。
どんな会社かということはあまり判りませんでした。
天草エアラインに乗ってみて経験したことのないほっこり感を感じました。
2008年ごろ会社そのものが経営危機に見舞われた。(まだ私が会社に入る前)
リーマンショック、東日本大震災がありお客さんが低迷した時期でした。

整備費用がかかるので補助をいただく事と、お客様も増えてきて利益が出るようになりました。
社長室をぶっ壊してみんなと同じように坐って、コミュニケーションを図ったり、機体の掃除も社長も参画してみんなでやるようになった。(危機感の共通化)
16年前にたちあがった会社で当時からのスタッフが殆どです。
2009年以降決算が黒字になっています。
市をあげてイベントをやっているので、クリスマスにサンタの恰好をしてもらっていただけると3000円と破格の割り引き運賃を導入したりしました。(一カ月間)
かなりのお客様に利用していただいて大成功でした。
マスコミにも取り上げられ集客につながりました。
ANSB(天草をなんとかせねばいかんばい)という組織を作って、いろんな人がアイデアを出したものを吟味して、その活動で色んな事をやっています。
梅雨の時期に黒い傘を使うが、レインボウカラーにした方がいいと言う事で導入したり、そういった積み重ねで、お客さんが喜んでもらえるようにしています。

あっという間の40年でした。
高校時代に或る放送会社で派遣の話がありヨーロッパに行く機会があり、見るもの触るものすべて初めてで、心に残って世界と一緒に関わっていきたいとJALに入りました。
天草に来てここはパイロットも客室乗務員も整備、営業、総務もオペレーションも全て同じところにいるので、航空会社にいるんだなと、ここに来てよかったなあと思います。
事業を拡大することは難しく、いかに一機を大事に飛ばしてゆくかと言うことと、費用は決まっているのでいかに収入を増やしてゆくかを考えていかないといけないと思う。
高齢化で年々人口が減っていくのでお客様を増やしてゆくのは厳しいが、天草以外の方々を呼び込むしかないと思う。
外国の方はあまり見かけないので、天草にも外国の方を呼び込むための企画商品、外国人が来やすい様にやっていきたいと思います。























































2017年4月12日水曜日

早川由美子(ドキュメンタリー映画監督)  ・輝くインドの女性たち

早川由美子(ドキュメンタリー映画監督)  ・輝くインドの女性たち
フリーの映画監督早川さんは一昨年、インド、デリーのアジア女性映画祭から招待を受け、その時のインド紀行を2週間の旅日記として製作しました。
現在日本国内各地で上映展開しているこの映画はアジア各国の懸命に生きる女性の姿が生き生きと映し出され映像を生かして自国の難しい状況を必死に伝えようとする女性映画監督の迫力が画面に浮かびあがっています。
早川監督が感じたアジアの女性たちのパワフルな底力はもの言う機会のなかった女性たちが新たな手段として映像を記録、国や地域に訴え社会を変えて行く姿が具体的に判ります。
ストレートに国情を訴える女性の姿と早川さんの受け留め方をお聞きします。

ビデオカメラが段々小型化して、パソコンで編集ができるようになったので女性も段々進出してきました。
映像の凄さに感動して、ビデオカメラで表現したいと思うようになりました。
ティッシュペーパーを配るアルバイトをしていてホームレスの人たちと仲良くなっていて、女性が一生安定して働くには公務員しかないといわれて、郵便局員として働いていました。
駅、公園のベンチのまん中にひじかけがついていて、野宿者を寝かせないためにつけて居るのではないかと思って、凄く厭だと思って、街中から坐ったり、たむろすることに違和感を感じてそのことを取材始めました。(まだ勤めて居る頃)
それを記事にしましたが、何処も載せてくれる媒体はありませんでした。

あるインターネットのサイトが始まって、そこに記事を投稿したら思わぬ反響がありました。
ホームレスは自己責任だ、椅子を占領する方が悪いとか、そういったコメントであふれて居て世の中にはこんなふうに思う人がいるのだと吃驚しました。
この記事に関してTV局から4日間取材されて10時間撮影されて、最終的に放送されたのは3分ぐらいでした。
それを見たときに、表現される世界の情報量の多さと豊かさに圧倒されて私も映像をやってみたいと思うようになりました。
ジャーナリストになりたいと思うようになり、5万円のホームビデオを買ってイギリスに留学しました。
ロンドンの国会の前にテントの群れが並んでいるのが見えた。
イギリスは 国会の前にホームレスがいると思ったら、政府の戦争に反対して抗議活動をしているんだと言われた。

それを記録し始めました。(第一歩でした)
2009年に映画を完成させて日本ジャーナリスト新人賞に応募したら選ばれました。
当時、インターネットに動画を投稿することがはやり始めた時期でもありました。
小さい作品を80品ぐらい作って学んでいきました。
7~8品 原発で家族が崩壊してゆく家庭、公団住宅の問題などの作品を作る。
私は社会運動とか、デモとか何もしていなかったが、映画の上映を通じて社会問題に取り組んでいる人が呼んでくれて、あらゆる社会問題に触れるきっかけになりました。
日本の社会運動を見たときに高齢の方が多い、平和運動でも安保運動での人たちが頑張っている。
若い人の関心はなく日本の高齢化を思いました、、貧困、労働問題でもそうでした。
若い人たちには生活に余裕がなくて、無理だと云うことが判り、住まいの事が何とかなればもっと社会問題の関心も持つのではないかと思うようになりました。
わたしのなかでは住宅が大事なテーマになっています。

一昨年、インドの映画祭。
知り合いに日本駐在のインド大使を紹介してもらって、インド大使は女性だった。
「インドで活躍する女性達」という本を頂いて、面白そうな女性達の事を知りました。
そしてインドに行って、行き当たりばったりの取材をしました。
デリーからアーメダバードという都市に行きました。(ガンジーが育ったところ)
女性の日雇い、露天商とかの労働者が、自分たちの生活、地位を向上させるために組合を作り、銀行、学校作って組織を回している事を知って、会員が200万人がいて40年活動しているとのことでいきました。
文字が書けない読めない人がたくさんいる、担保を持っていないのでお金を借りれない。
高利貸から借りるしかなくて、一生を縛られてしまうので、自分たちで銀行を作ることにする。
文字が読めないのに、40歳から映像制作する人などもいてとてもパワフルです。
自分に自信を持てるようになったと言っています。
映画作りを始めて10年以上になるが原点をみるような思いをしました。

インドの映画作りをやっている人は一般的にエリートが多い。
彼女たちのドキュメンタリー映画は社会を変えて行く武器として使っているという側面が多いと思います。
住居、健康、雇用、暴力、など色んな事を取り込んでみんなに知ってほしいと出してゆく。
「アジア女性映画祭」と云う名前なのでアジアに起源をもつ女性監督の映画が上映されている。
ヨーロッパに亡命している人の作品も上映されていました。
イランの監督とかはスカーフをかぶっていないといけないが、スカーフをかぶらないで出演したので、国に帰った時に政府から引きとめられるかもしれない、政府から助成金が貰えないかもしれないと言っていました。
インドの監督、農地が強制的に取り上げられたり、工場汚水が垂れ流しになり農地が荒れてしまったとか問題が起きているが、そういったことが報道されるのはまれです。
しかし彼女は10年かけて取材して映画にしました。
彼女は暴行を受けて腕を折られて、逮捕されて裁判も開かれないで有罪になって服役して刑務所から出てきて映画を完成させたと言っていました。

カースト制度は法律では禁止となっているが、社会には根付いていて無くすのは難しい状況です。
彼女たちには激しい戦いですが、それが彼女たちが戦う気を起こさせているのかもしれません。
日本でもいろいろ社会の問題はあるが、TV、新聞で取り上げるのはほんの一部で、限度があり、状況を変えたいと思うなら、自分たちで撮って行くのがいいのではないかと思います。
彼女らに見習うべきだと思います。
技術ではないんだよと言っています。
今は撮ったものを瞬時に誰のチェックも受けず、世界に発信されてしまうので、トラブルをどう考えるか、いろいろ問題があると思いますが、そういったことをディスカッションしています。
言いたいことがあって何かを表現している人と接していると、私はこういうふうに生きて居るの、あなたはどうやって生きて居るのと、自分の生き方を問われ続けていると思うので、それが自分の人生をより考えさせてくれるきっかけを与えてくれたし、豊かにしてくれていると思うので、その体験はいろんな人にして欲しいと思っています。















































2017年4月11日火曜日

中野慶(児童読み物作家)      ・ヒロシマの意味を問い続けて

中野慶(児童読み物作家) ・ヒロシマの意味を問い続けて
東京都生まれ59歳 1976年に原水爆禁止運動で被爆者と出会った事から反核運動に参加、出版社で編集者として働きながら、被爆体験の聞き取りを続けて来ました。
アトピー性皮膚炎で苦しんだ自身の体験から被爆者のかゆみに着目し、かゆみを通して被爆者の苦しみに向き合う中学生を描いた児童文学「やんばる君」を執筆するなど、独自の視点から独自の被爆体験を残そうとしています。
中野さんがプロ野球広島カープの新井選手の歩みを絵本にまとめました。
広島にかかわる深いメッセージが込められています。
年々継承が困難になっていると言われる被爆体験を次の世代にどう繋いでいくかお聞きしました。

新井選手は25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
今年40歳の大ベテランでカープの中心選手。
小学校3年生の時の新井選手に光を当てて、1985年の物語としてこの本は始まっています。
人間的な魅力、素晴らしいひたむきな人柄を子供からお年寄りまでお伝えしたいと思いました。
野球を中心に新井選手の成長物語を書いていますが、脇役が二人登場して、ブツエン先生と「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんです。
中沢さん自身被爆者で原爆でお父さんと、兄弟二人を亡くされています。
この本では中沢さんのもう二度と原爆を繰り返して欲しくないという強い思いを若い世代にブツエン先生と、新井選手が受け止めて行くことが書かれています。

被曝の苦しみと貧しさにも負けずに生きてきた広島の皆さんにとっては広島カープは市民球団で心のよりどころになっています。
25年ぶりの優勝を喜ぶファンの皆さんの心の奥には苦しかった時代の思い出がいつも離れない。
新井選手の成長物語と25年ぶりの優勝を祝っていただける喜んで頂ける内容となっています。
新井さんは放課後遅くまで「はだしのゲン」の本を全巻読んだそうです。
被爆者の戦後の苦しみが並大抵ではなかった、肉親を奪われ食べるもの住む家がない中で人生を歩まざるを得なかった。
踏まれれば踏まれるほど強く生きて行く、ひたむきで強い姿は新井さんが子供時代に「はだしのゲン」に出会った事に深く影響されていると思います。
中沢さんは広島カープ誕生から熱狂的なファンです。
中沢さんは新井選手をずーっと応援してきました。

私は子供時代は東京で育って身近に被爆者はいませんでした。
初めて被爆者の証言に耳を傾けたのは1976年大学1年生の時でした。
悲惨さ地獄絵のようなことに信じられない思いでした。
8月6日、9日は重要な事ではありますが、被爆者であるがゆえに仕事に出会えない、結婚に反対されるとか、さまざま差別を受けたと云う事を含めて、多くの苦しみ悲しみがあったということに目を向けていきたいと思うようになりました。
少しでも理解したいと思いました。
被爆者の証言する機会があると思うと積極的に動いて聞き取り調査をしていきました。
1対1の証言では50人を超えたと思います。
複数を対象にしたことを含めれば100人は超えています。

1985年行宗一さんらと話をしたときに、「皆さんたちは私たち被爆者をカンパを届ける対象としていつまでも見ないでください、このようにお酒を飲んだり、話したり人間同士の付き合いをして行きましょう」と言われた時はハッとしました。
カンパをしなくてはいけないと感じましたが、お金の面だけではなくてもっと一人ひとりの被爆者に人間として向き合ってゆく、親しくなってゆく事が大事だと云う事を強く感じる様になりました。
その2年前に、1983年に肥田舜太郎先生、医者で被爆者でもある方で、先日100歳で亡くなられました。
医師として広島で被爆者と向き合っていたときに、被爆者の数人の方がケロイドの個所を猛烈にかゆがってつらそうにしている、そういうエピソードを話されて、私にとって吃驚仰天するような話だったんです。

私は子供の時からアトピー性皮膚炎で苦しんで来ました。
被爆者は自分とはまったく違う世界に住んでいると思っていたが、かゆみの苦痛をしている被爆者がいたんだと云うことで被爆者との距離が近づいた様に思います。
「やんばる君」 2000年に書いている、被爆者のかゆみについて書いています。
1995年 中学校1年生が主人公でアトピー性皮膚炎でかゆみに苦しんでいる少年。
ヤンバルクイナにちなんだ少年のニックネーム
彼は夏休みの自由研究で沖縄に行きたかったが、広島の事にテーマを切り替え、被爆者のかゆみの問題に直面して、その少年が被爆者から聞き取って行く、自分の皮膚感覚と通じ合う被爆者の苦しみから学び取ってゆくということはまさに私が感じ取ったことです。
被爆者はケロイドの痒さを大げさにはしないが、何故だろうと思い、かゆみも苦痛だったろうけれども、8月6日の広島でおびただしい人が亡くなって行く、助けることもできない。
その後の差別などの苦しみにも直面して行く、結果としてかゆみの苦痛はより相対的にちいさな事になってしまった。

自分自身が感じ取ったことを変形しながら書いたものです。
本当のところを感じ取ってくれたのは大人の方が多かったです。
編集者の仕事が忙しくて夜中までやっていましたが、その上に自分の本を出すということは困難な事でしたが、無名な人がひたむきに生きてきたことがとても大事だという人生観を持って来たので、歴史を動かすのは無名な民衆であるということを信じてきたものです。
若い世代に被爆体験を問い続ける本を何冊も書いてきました。
爆心地から2km離れた広島の或る地域に25回ぐらい通って、そこは被爆に苦しむ人が多くて、60人ぐらいの人から3年数か月かけて聞き取りをして、その町の戦後史を聞き取る中で本名で本を出す事が出来ました。

人間を見る目がすこしづつ豊かになったかなと思っています。
一人ひとりが人間として何に向き合ってきたのか、人に語らずに墓場にもっていきたいと言う思いの人もいれば、胸に秘めてきたことを私に語ってくれる人もいます。
かけがえのない出会いを出来たと思います。
被爆体験はつらく重たいことなので被爆者から2世、3世に伝わって行く事は難しい。
被爆者は高齢になってしまったが、なんとか証言を続けている方が多いが、専門家としてデジタルアーカイブの様な形で世界に発信していることもあり、広島に関心を持ってくれる条件はあると思います。
長い時間の流れの中で被爆者がどう生きて来たのかとか、どのような喜び悲しみ苦しみ辛さがあったのかと言うことをしっかり聞きとろうとしてきました。
原爆の被害によって人生が変えられてしまった人たちをトータルにとらえなおすことが必要ではないかと思います。

大多数の被爆者は有名ではないし、広島長崎に暮らしていた庶民として被爆と言うすさまじい体験をして、それを乗り越えて生きたという事は、庶民の歴史でありながら世界史そのものに足跡を刻んできた。
語り口は淡々としているが何度聞き直しても重たいものを持っているし、自分自身を奮起させてくれるようなものを持っていると思います。
自分はまだ被爆者の苦しみを本当に理解出来て居ない、被爆者の苦しみの本当のところをつかみとっていきたいと人一倍強かったが、被爆者の苦しみに寄り添う形で生きてきて、それが宝物だったように思います。






























































2017年4月10日月曜日

宇津木妙子(ソフトボール・ドリーム理事長) ・【“2020”に託すもの】

宇津木妙子(NPO法人ソフトボール・ドリーム理事長)・【“2020”に託すもの】
ソフトボールは日本が金メダルを取った2008年の北京オリンピックの後種目からはずれてロンドン、リオでは実施されませんでした。
しかし2020年の東京オリンピックでは野球とともに3大会ぶりに実施されることが決まっています。

2008年ソフトボールで金メダルを取った時には放送席が大変で、放送中ですがおめでとうを周りからの声がありました。
その時は大泣きしてしまいました。
1964年東京オリンピックの時、小学校5年生で、たまたま飯島選手から聖火を頂き、運動会の時に聖火をもってグラウンドを2周走って拍手を貰い、オリンピックと自分がラップしていて、何で私だったんだろうといまだに不思議に思いました。
その頃スポーツは好きでいろいろやっていました。
中学校に入ってスポーツで母に褒めてもらいたいと思って、いろんな部に入ったんですが最後にソフトボールをやるるようになりました。
入ったんですが、先生の指導が厳しかったが、その時のとの出会いは今の指導の中でも生きて居ます。
ソフトボールはそれぞれの個性の良さを出せると先生から言われたことは、誰にでもできる手ごろなスポーツだと思います。

ソフトボールは人生そのものだなあと思います。
ピンチがあり、チャンスがあり、苦しい時に逃げたいと思った時に誰か助けてくれたり、でも最後は自分なんだと、自分でミスしたことを取り消すには自分が頑張らなければいけないと学びました。
ソフトボールは一人ではない、だけれども最後は自分なんだと云う事を学びました。
挨拶、時間厳守など当り前な人間教育をさせてもらったと思います。
高校、企業スポーツでもソフトボールを続けました。(13年間)
オイルショックで会社が厳しい中で続けることも有難さ感謝を学びました。
雑用、トイレ掃除などもやらされてコンプレックスも感じたし、3年頑張って人事異動があり寮生と向き合って人をどうやって生かしたら良いかを学びました。

28歳のときにジュニアのコーチをさせていただいて、埼玉に戻った後コーチをしていたら、昭和60年に監督が決まるまででいいから来てくれと言われて行って、12名の選手のいるチームに行きました。
コーチを引きうけ、31歳でバリバリだったので、先頭切って一緒にやりました。
年末に工場長に呼ばれて監督をやってほしいと言われました。
父からはお前が背中を見せてやっていかなければいけないといわれました。
企業スポーツの経験してきた厳しさについても、父にもいろいろ話したら父も泣きました。
女性は公平に扱わないといけないとか、一人ひとりその中から活かして行く事などいろいろ話す中で、やってゆくことを約束しました。
指導者になったら素の自分をさらけだそうと思って、父の涙から学びました。
チームは3部から上がっていって、日本の3冠をとってしまうまでになりました。

アトランタでソフトボ-ルはオリンピックの正式種目になってその時はコーチとして参加、2000年シドニーでは銀メダルを取ったがその時は監督として、2004年のアテネでは銅メダル、2008年は解説者としてオリンピックに行きました。
アトランタは最強のチームだと思いましたが、船頭が5人いて、組織も悪かったのか選手をうまく使いこなせなかったのが一つの敗因にもなったし、経験不足もあったと思います。
これからは守って守って守り抜いたら勝てるのではないかと思いました。
22名の選手を選んで、各々の性格なども考えたりして、向き合って話し合って指導して行きました。
厳しい練習にみんなよく付いてきました。
2000年シドニーでは銀メダルでした。
決勝では同点となり、投手交代を考えたが出来ず、雨の中で戦う中、アメリカのチームは8回の裏、審判が今までストライクを取っていたのが段々ストライクを取ってくれなくなったとキャッチャーが言ってきて、高山のうえのボールでいいから攻めろと言って、高めのボールをレフトに打たれて、レフトが滑って終わりました。

2008年にも雨が降ってきて、その時の場面は一生忘れられないと思いました。
2000年シドニーでピッチャー交代していれば金メダルは取れたと思っていたので、選手に申し訳ないと今でもいっぱいです。
アメリカは強かったです。
2008年には金メダルを取る。
上野投手の413球の熱闘、上野だったら絶対やってくれると思って、夢を彼女に託しました。
次からオリンピックから外れることになる。
普及しか無いと思って、最初ヨーロッパ ロンドンに行って、グラウンド、道具も何とかしないと思ったが、西アフリカに行った時はもっと厳しく草ぼうぼうのグラウンドで、時間はルーズ、何やっていいかわからないような人達で、グラウンド作りから始めて、指導者に指導して、翌年は道具を持って行って子供たちにも指導をしましたが、普及はなかなか難しいと感じました。
身体能力はよかったのでちょっと教えると早かったので、やって観て面白かった。

2011年 リオでのソフトボールの参加の可能性があったが駄目でショックでした。
同年 NPOを立ち上げる。
大震災の時だったのでどうしようか迷ったが、①復興支援、②オリンピック復活、③社会貢献、この三つを柱に書類を出して認可していただきました。
52年間ソフトボールで走ってきたので、ソフトのおかげで今の自分がいるし、いい選手と出会えたし、いい指導者先輩に出会ったし、恩返しをしていこうとしました。
福島、岩手に行ったりして自分の出来ることをやって行きたいと思っています。
2020年、野球、ソフトも勝たなければいけないという使命があり、結果をださなければいけないし、普及もしていかなければいけないと思います。
ソフトボールは人生みたいな感じがするので、世界中の子どもたちに伝えたいと思います。
そのあと続いて行くにはいい試合をしてほしいと思います。
ソフトボールは全部つなぎです、応援も含め和を広げて行くスポーツだと思います。






























2017年4月8日土曜日

向谷地生良(浦河べてるの家理事)   ・弱さを絆に

向谷地生良(浦河べてるの家理事)   ・弱さを絆に
北海道日高地方に浦河町に精神医療の常識を覆すと、世界から注目さわれているコミュニティー社会福祉法人、浦河べてるの家があります。
「べてる」とは旧約聖書の中にある言葉で「神の家」という意味です。
ここでは精神障害のある人達150人が全国から集まり、地域で働きながら共に暮らしています。
べてるの家のメンバーで特に多いのが幻覚や幻聴、妄想を伴う統合失調症です。
理事でソーシャルワーカーの向谷地さんはメンバーがたがいに助け合いながら病気と向き合い地域で生きる為のユニークな取り組みを40年近く実践してきました。
心の病に苦しむ人たちがどのように暮らしているのか、伺いました。

精神障害がある人たちがよりよく生きるためにさまざまな仕組み考え、従来タブーとしてきた幻覚や幻聴妄想との共存を目指しています。
本人たちに聞くと辛いし怖いし、その思いを聞いてもらったら楽になる。
私たちが辛い時に聞いてもらうと楽になるのとおなじなんですね。
単純に聞くのではなくて機嫌よく聞く、楽しい出来事、大事な出来事として聞くわけです。
自分で自分がイメージする病名を付けたらと言うとその名前が全部違うんです。
自己病名をつけ、ユーモラスに語り返すことで病気と言う経験を自分の生活の一部だと云うことで分かち合える。
みんなが培ってきた生きる文化だと思います。

理念があり、「弱さを絆に」、「昇る人生から降りる人生」、生きづらさを抱えた当事者が社会で生きて行くために生み出されてきたものです。
心の病はその人の生きづらさ悩みがに詰まった状態、その中で精神のバランスを崩して病気になっている。
助け合いは必要だと云う事が改めてわかる。
暮らしの中で煮詰まった生きづらさ、苦悩が最大化すればそれをどう生きるか自分らしく、自分のペースで模索して行く、それが生きることで生活すること。
大変ですが、自分のものとして取り戻すことは大切なきっかけになる。

日本の精神医療は入院を中心に考えられてきました。
多くは長期入院となり、病院を増やした結果、入院患者は世界でも突出して多くなっています。
べてるの家は昭和54年にはじまり、精神障害のある人が地域でどう暮らすか模索してきましたが、症状は一進一退でした。
必要以上の入院や薬には頼らない。
生きづらさを仲間に打ち分け、たがいに苦しみ、辛さを共有し、生き易さを目指す。
私は最初は混乱状態でどう対処していいか分からず、積み重ねの中で生まれて来ました。
おまえはだめなやつだとか、死ねとか、辛い状況に追い込まれて、そういった幻聴を共有します。

同情しつつ笑ったりする訳です、情けないけど笑える話があるわけです。
他の人の役に立ったとか、幻聴さんと喧嘩してはだめなんだとか、幻聴さんには優しくしてあげると突然帰ってくれるとか、幻聴さんが判ってくれたとか、やってみたらその通り幻聴さんが帰ってくれたとか、ということで受け継がれていって自分の経験が人の役に立ったんだと云うみんなにとって大きな経験です。
共同生活をしていて、グループホームでは仲間同士が悩みを語り合います。
最近まで治療の常識として、見える(幻覚)、聞こえる(幻聴)、誰かに狙われているとか、そういうことを語らせるとだめだという常識があったんです。(最大のタブーだった)
持って行き場がなかった、緩和させるのは薬と言うことで薬中心になっていた。
私たちの活動は、吃驚すると思います。

昭和30年青森県十和田市に生まれました。
中学1年の時に心の弱さに関心を持つようになりました。
先生と名の付く人とはうまくいかないというジンクスがあります。
担任の先生とはそりがうまくいかなかった。
議事の運営が杜撰だと云うことでみんなの前で、先生にコテンパンに殴られました。
事あるごとに体罰を受け、両親が学校に抗議、自宅療養になりました。
そんな時母親が教会に通うようになりました。
大学紛争の時代でもあり、入ってくる情報と自分の中の現実がミックスされて、大人になっていいんだろうかと、謎を聖書の世界とかに尋ねてみようと思ったりしました。
聖書には弟子に裏切られたりとか、情けないことがいっぱいあり、みじめさに興味、関心がありました。
キーワードは弱さでした、弱さをめぐるエピソードは惹かれるものはありました。

これさえなかったらというあなたの持っているトゲ、こそ私からの最大の贈り物だというメッセージがある。
トゲ、これこそ神様から与えられた恵みなんだと気付く場面があります。
自分の思っている抱えきれない弱い部分、自分の経験そのものに反転?(聞き取れず)した可能性があるかもいしれないと学んだ気がする。
当時公害、薬害の時代でもあった。
仕送りを断り、特別養護老人ホームを住み込みで働きながら大学に通う。(夜間介護人)
自分に根本的苦労が足りないと思ったので、決めたことはとことん苦労しようと言うことでした。
特別養護老人ホームでは不遇な人生を過ごした人が多かった、寝たきりとなり、ここに向かってゆくのかと思った。

大学卒業後病院でソーシャルワーカーとして働く様になる。
当事者と距離を置いて働くようにしていることを知ったときに、違和感を感じました。
寝食を共にしてきた経験からすると、ずれを感じました。
精神障害者に対する有る偏見のようなたぐいのものを感じました。
1年後使われて居ない教会を借りて共同生活を始めます。
精神科を退院したものの地域に居場所を失っていた人たち、後のべてるの家に繋がる活動です。
一緒に暮したらもっとそこでのことが判るのではないか、自分のことが分かるのではないかと思いました。(1979年ごろ)
退院した人たちは何かが欠けて居て病院に戻ってくる。

病院の上司から、訪問しすぎだとか、外へ出る回数が多いとか、電話が多すぎるとか、今日からは私の前から消えてくれと言われました。
目の前が真っ白になりました。
ちょうど結婚したばっかりだったし、この業界は狭いのですぐ事情が伝わるので、人ってこういうふうにして燃え尽きたり、鬱状態になったり出勤できなくなるのかもしれないと思いました。
べてるの家の仲間と共にきよしさん(幻覚、幻聴のある)に寄り添い続けました。
きよしさんは入退院を繰り返し、何かが不足していると考えてもさっぱり分からなかった。
もがき苦しむ中で、イエスキリストが旅の中で、あえて淡々と進むこの旅の風景が自分の中にあるのだろうと、現実的な行き詰まりの中にも、イエスの旅の物語をある種の肯定感が自分の中にベースとしてあるかもしれないと思いました。

病院を退職、べてるの家の仲間たちと歩み40年近くなります。
きよしさんは症状が落ち着き、入院することはなくなりました。
気心の知れた関係が生まれて、話が出来て、通じ合うものが生まれ人の心持が変わると、その人の抱えている生きづらさの心象風景が変わる、幻覚妄想が変わるんです。
その人の生きて居る物語が変わってきます。
2500人ぐらいの人が毎年訪れて居て、心に病に苦しんでいる人たち、関係者がべてるの家の哲学に多くの共感が寄せられて居ます。
絶望的な状況の中でうろうろさえしていればちゃんと突破口はある、そんな絶望の仕方を是非発信していきたいと思います。










































































生きて行くために生み出された

2017年4月7日金曜日

米村でんじろう(サイエンスプロデューサー)   ・挫折こそが人生を開く 

米村でんじろう(サイエンスプロデューサー)   ・挫折こそが人生を開く
米村さんは昭和30年千葉県に生まれました。
3年間浪人の後、東京学芸大学教育学部に入学し卒業ご 、同大学院理科教育学専攻科を終了、学校の先生になります。
ところが学校や保護者とうまくいかず 40歳で退職してしまいます。
その後サイエンスプロデューサーとしての活動をはじめ、舞台で楽しい科学実験をしたり本を出版したりと幅広く活躍するようになりました。
サイエンスプロデュ―サーとして新たな世界にたどり着くまで米村さんはどんな日々を送ってこられたのでしょうか。

62歳になります。
年間週1回ペースで日本全国廻っています。
名刺を作るときに肩書きを書くのに、科学関係の仕事なので「サイエンスプロデュ―サー」という言葉を勝手に作ってしまいました。
ステージで1時間から1時間半程度のサイエンスショーをたのしんでいただくステージを中心に動いています。
科学を多くの人に楽しんでもらう、そのためのアイディア、企画、製作、自分が出て実演するそういうような仕事です。
昭和30年、千葉県の田舎に生まれました。
人見知りのする、内気な子供でした。
自然豊かなところだったので、そういったところで遊んでいました。
動植物、星とか、自然の中の遊びと学校の理科との中から、興味を持ちました。

集団の中に入るのは不得手でした。
夏休みの後の学校へ行くことは気が重かったです。
中学、高校もクラブ活動はせずにさっさと家に帰っていました。
将来に対する考えがなくて漠然と科学関係の仕事がいいなあぐらいに思っていました。
大学に行って科学関係の道に歩みたいと思ったので、大学の試験を受けたたのですが不合格になってしまいました。
実力のないのを見せつけられて落ち込む半面、本当はがんばれば何とかなると云うことの葛藤がありました。
浪人生活に入って予備校には2時間もかかるので、自分で参考書を買って勉強するが、勉強のやり方が良く分からず、模擬テストをやっても合格が難しいという結果が出てきて、又落ち込んでしまいました。
気がついてみると3浪ということになり、世間が遠く見え焦りを強く感じました。

父は高校卒業するときに労災で亡くなり、母親がおおらかだったのでプレッシャーを感じなかったのはありがたかったです。
東京学芸大学教育学部に入学して、引き続き大学院に進みました。
大学卒業後まだ仕事は無理だという思いと勉強が判り始めて、大学院に進むことにしました。
大学に籍を置いて研究生と言う立場になりました。(26歳)
3年間研究生として過ごして、就職活動をしなくてはいけないと思って、理科の教員になろうとして合格して教員採用と言うことになりました。(29歳)
赴任した学校はいわゆる教育困難校で、授業が思う良うに成立しない状況でした。
多くの生徒は弁当を食べたり勝手な事をやって教室は雑然としていました。
そもそも自分はなんで理科の教師をやっているのかと言う思いがあり、理科の楽しさをつたえるためには原点に帰って、実験とか観察とか、実習的な事を体験させることで、興味が湧くのではないかと言うことに思い至って積極的に実験をやらせる、実験を見せて興味を引く事をしました。

生徒も興味を持ち始めたが、学習内容そのものに対するモチベーションではないので学習指導は順調に言った訳ではなかった。
実験そのものは周りから注目され始めましたが、授業はなかなか成功してはいなかった。
教師になって13年経って、当初目指していた授業には成っていなくて、自分の限界のようなものを感じ始めて、教師には向いていないのではないかと思うようになり、精神的にも行き詰ってしまって、真剣に転職を考えるようになりました。
気持がいろいろ揺れましたが、比較的簡単に学校をやめられることになり、独立をしました。
いろんな仕事をやっていたら、講演依頼とか、実験を見せてほしいとか話が来るようになって、アシスタントも必要になり、経理関係などの問題があり法人化しないといけない
ということが判り、会社を設立をしようということになりました。

順調になってきて結果的には今はそうやって自分の仕事を納得させている。
世の中が引っ張り上げてくれているので、これが天職でそうなってるのかなとは思っています。
落ちこぼれた生徒の気持ちは良く判るし、一般の人、子供たちに実験を見せた時に原理とか勉強的な話はついてこれないよということは良く分かるし、科学は難しいよねと言うのが判るので、どういうふうに話したら判ってもらえるか、自分自身が落ちこぼれのようなものなので、一般の人達、子供達の接点になるにはいい経験を積んだことが結果的には良かったと思います。

自分は思うようにいかなかったが、頑張っていればなんとか成っていくものだなあと思うので、うまくいかないことも有るかと思うが、苦労が必ず実になり糧になり繋がって行くので、あきらめずに今関わっていることに頑張って集中していれば将来人生を切り開いてゆくきっかけになると思う。
躓いたことが後の実りになっているので、うまくいっていないことが受けとめることになると思います。
人生は長いので、思うように発揮できなくてもこつこつやっている中でどこかで観てくれている人もいますし、努力は実を結んでゆくので、若い人たちは短絡的に見ないで希望を持っていかれたらいいのではないかと思います。






























2017年4月6日木曜日

中島京子(作家)          ・ロング・グッドバイ、ダディ!

中島京子(作家)  ・ロング・グッドバイ、ダディ!
厚生労働省の推計では2025年には65歳以上の5人に1人はなると予想される認知症、アメリカでは認知症のことをロング・グットバイ 時間とともにゆっくりお別れしてゆくと表現するそうです。
直木賞作家の中島さんは認知症の父親を10年間介護して看取りました。
記憶や言葉が失われてゆくのは悲しくて辛くて、介護は大変な事もありましたけど、お父さんは楽しい思い出もたくさん残してくれたと言います。
その体験を小説にした「長いお別れ」は同じように認知症の介護に当たってる人や医療関係者から感動と共感を呼んでいます。
お父さんとの長いお別れ、いとおしくて大切な時間に込められた家族の思いを伺います。

2013年の暮れに父が亡くなったので、3年になります。
86歳でした。
父は大学の先生をしていましてフランス語とフランス文学を教えていました。 
定年後は外に余り出たがら無かったですが、趣味は囲碁が大好きで碁会所に通っていましたが、碁会所が無くなってからちょっと居場所がなくなったようなさみしさをもっていたように思いました。
そのころから記憶に自信が無くなることが起って来たんじゃないかと思います。
一緒には暮らしてはいなかったのですが、鬱のような感じで食べ物をあまり食べなくなってネガティブな発想ばっかりしてどうしたのかなと思った頃がありました。
病院から抗うつ剤などを貰ったが父は嫌がって全部捨ててしまったりしました。
今から思うと認知症の前段階だったのではないかと思います。
2004年の春、父の同窓会があり、何時もやっている場所なのに、判らなくて家に帰ってきてしまったことがありました。
もう一回送り出したが又帰ってきてしまって、おかしいと思って物忘れ外来にいきました。

他に記憶が不確かになってきたように思いましたが、そんなに進んではいませんでした。
進行を遅らす薬を処方されていまして、3年間はゆっくり進行させることは出来ると言われていましたのでそんなには進みませんでした。
あるとき母がどこかに父と一緒につれていって、帰ってくることはできました。
フランスに姉が結婚して住んでいたので、父母と私でフランスに行ったことが大きな思い出となっています。
セーヌ川を荒川(荒川の近くに住んでいました)と間違えたのが面白い思い出でした。
車を運転していて父から突然「ところであんたはだれの娘だっけ」と言われてどういうことになっているか判らなかった。
自宅で母が父の面倒をみて居て、私が家に通っていました、私が2009年に3カ月アメリカに行くことになり、通うことができなくなるので、2008年ぐらいからデイサービスに行くようになりました。

スタッフの方から先生と呼ばれたりして、楽しそうにデイサービスに通っていました。
歩けなくなったり、しものことが自分でできなくなってくるが、そうであっても尊厳を保ちたいと思っているようで、そういうふうに思いながら介護した方がスムーズだと思います。
2012年に転んでしまって、ベットから良く落ちてしまったり幻覚を見るようなことが多くなりました。
父は若い頃柔道をやっていたので転ぶ時には受け身のような転び方をしていましたが、最後には大腿骨を骨折して、入院することになりました。
手術は無理と言うことで寝たきりになるといわれました。
坐れるようになれば車椅子で生活ができればお花見ぐらいは出来るのではないかと思いました。(介護4でした)

オムツが厭だったので、夜中に何度も母がお手洗いを手伝ったりしたので母は大変でした。
入れ歯を直したら食べられるようになって食欲が出てきて、食べると元気になって歩けるようになりました。
1回目入院し、家に戻ってきた、意識が無くなって救急車で2度目の入院しました。
それが最後で亡くなってしまいました。
12月25日に入院して、フランスの姉に連絡して27日に帰ってきて、29日の朝に亡くなりました。
父は短歌を作ったりエッセーを書いたりもしていたので、病院のベットで父の書いた面白いエッセーを枕元で読んだりしました。
人が笑ったりするのが好きだったので良かったと思います。
看取った後は余り何を考えたか覚えてないです。

介護の体験を小説にしました。「長いお別れ」
アメリカでは認知症のことをロング・グットバイと呼んでいるので、タイトルを「長いお別れ」としました。
介護自体は楽しいかと言うと難しいが10年の間に父が残してくれた、一緒につくった思い出が10年なので沢山あります。
直木賞を受賞した時に可笑しかったのは、候補になっていることを言ってはいけないと言われていて、つい母に言ってしまったが、誰にも言ってはいけないと言って父ならば言ってもすぐ忘れるので、どうしても言いたい時は父には言ってもいいと云ったんですが、そのまま父はすぐ忘れるからいっても大丈夫というようなことを言ってしまったんです。
父は嬉しそうに「さすがはお父さんだな」、と父自身が言ったんです。
ある時期から言葉の意味が判らなくなってしまっていて、単語の意味をなさないことをいうようになりました。
私のしょげている様子を見て、意味なさないが、慰めてくれるような口調で言ってくれる事がありました。
「鼠」とか難しい漢字を書いて吃驚することがあります、昔覚えたことは忘れないんですかね。

『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞・第5回日本医療小説大賞をそれぞれ受賞。
介護をしてとっても大変だったと思っていたけど、この小説を読んだらそういえばおかしいことがたくさんあった事を思いだしたと言って下さって、そういう風に読んでいただけたら嬉しいと思いました。
認知症はそれほど怖がらなくてもいいのではないかと思います。









































2017年4月5日水曜日

D・アトキンソン(文化財修理会社経営)・世界を魅了する“日本の宝”

デービット・アトキンソン(文化財修理会社経営)・世界を魅了する“日本の宝”
デービットさんはイギリスの生まれで大学で日本語学科を専攻しました。
およそ30年前に来日し、金融業界で活躍していましたが、42歳で仕事を辞めて趣味の茶道を楽しむ生活をしていました。
2年程してひょんなご縁で文化財の修理を専門とする会社を任されました。
昨年日本の経済を活性化する方法を提言した本を出版して話題となっています。

「新・所得倍増論」を発表。
日本の国宝を守る本だったが、そこから日本経済の全般に対する見方からスタートして、パーツパーツを取り上げて、専門書を書いてきました。
今回は経済専門書と言うことで、生産性の分野を取り上げて書いた本です。
国連の分析、世界銀行の分析とかで日本人労働者の質がきわめて高いという評価をされているにも拘わらず、世界第3位の経済かもしれないが、一人当たりで計算すると27位だった。(本を書いた時点)
2016年の数字では世界第30位です。
子供の6人に一人が貧困、福祉、年金が大変な状況で、高齢者の介護、医療は国として払えるかどうかと言うところがあって、国の借金が1000兆円を超えて居る。
悪循環にある。
これまでの実績のある国の経済成長してきた中で、子供の6人に一人が貧困で、国が破綻して良いのか、いいわけがない、しかし危機感もない。
現実を客観的にみて欲しい。

イギリスの田舎の生まれ、4人兄弟で3番目です。
オックスフォード大学で日本学科を専攻、文学、日本史、読むこと、書くこと、そして戦後経済の発展は論文を書いた部分でした。
漢文、古文、漢詩なども勉強しました。
当時イギリスは失業率が13%とかで日本は高度経済率が高く日本を勉強する人がいなくて、就職が有利なのかなあと思って決めました。
日本企業がニューヨークに進出している関係から、3年間アメリカに住んでいました。
バブルが崩壊して1990年に来日。(日本にある仕事しかなかった)
その後金融機関に入社、42歳で会社を辞める。
茶道、書、能、旅行したりしていたが、京都の町並みを見て、何処にもあるような町並みに変って行くのをみて、ストレスがたまるだけで、一軒を買って改修して日本文化が楽しめるようにしました。

文化財修理会社の面倒を見てほしいといわれて、引き受けることにしました。
日光東照宮が出来たときに出来た会社で、漆塗り、彩色調飾り金具の修理をしてきた会社で、日本最高の技術を持っている。
京都の技術は日光の技術には足元にも及ばないものです。
この業界の職人の4割ぐらいを雇用していて、最大手の会社です。
これが無くなることは日本の文化財の修理としては大打撃です。
職人集団を守らないとしょうがないからと言うことで引き受けました。
京都は分業制が多いが、日光の場合は、日光東照宮を中心に380年前から常に修理をしている場所です。
日光東照宮は建物が多く、仕様が極めて重く、常に仕事がありますから、物凄い技術が集中されています。
18歳で雇って亡くなるまで会社で仕事をしてもらう文化があるが、いろいろ問題があり一時期4割を非正規社員にされた時期があり、私が社長になった時にこれはおかしいので内部の無駄を省いたりして全員正社員に戻しました。

技術の継承は若い人を雇っているか、雇っていないかだけの問題です。
文化財を守ると云うこと自体は意味があるとは思えない。
近代的なものだけではなく、古くはこういうものがありましたということで、人生が豊かになる。
赤坂迎賓館、京都迎賓館のアドバイスをやっているが、国賓が来るときに使われるが、たまに使われるだけなので、もったいない。
一般公開しましょうということになり、毎日何千人来て、意味合い、使われ方、歴史的背景、何処の大統領がきたとか、両陛下がこういうところで実際に御挨拶されるとか、いろいろ紹介している。
文化財は守るためにあるのではなくて、皆さんが学んだり体験したり空間を楽しんだりするためのものなので、文化財を皆さんに楽しんでもらうためのものだと思っていて、楽しんでもらうために修理をしなければいけないということで、修理をする職人が結果として必要になってくるが、これがメインになってはだめなんです。

文化財を説明するときに、建造物としての説明が多くて残念に思います。
陽明門を50年ぶりに修理をして今年3月10日一般公開しましたが、私が検査してきましたが500以上の彫刻があり、漆、金箔がありすばらしいものです。
いろいろな彫刻物などはそれぞれ深い意味合いがあり、日本の宗教の考え方、哲学的な事、道徳、なんの意味があり何を伝えようとしているのか、残念ながら伝えて居ない。
これからは解説しようと、事業を立ち上げて居る最中です。
日光の場合は見えるところが彩色されている処だけではなくて見えないないところも彩色されている。
職人の世界と神様の世界で、修理するときにしか見れない。
角の龍の彫刻などは頭の部分は誰にも見れないので普通のやり方ではそこには彩色しない。
彩色は通常は顔料をじかに塗るが、日光ではまず漆を塗って(黒と赤の両方塗っている)、その上に全面的に金箔を貼って、その上に彩色を塗るが、普通は一色塗るが、二、三回塗り重ねていってぼかしたり色んな事をしています。
こういったものは日光にしかない。

段々劣化して外側が消えていくが、重ねて塗っているので顔が変わっていきます。
更に劣化すると、金箔が見えてきて、金箔が無くなると、漆が見えてきて何時まで経っても木が見えない、違う楽しみがみえてきて何時まで経っても美しいままで、これは独特の文化です。
こういったことは説明しないと判らない。
外国人観光客にいうのではなくて、向こうから言ってもらうのがベスト、感じてもらって理解してもらって日本文化の深さを言ってもらう。
時間とお金をかけて日光に来て、感動するものなのに感動させないままで帰ってもらうことは作った人(命をかけて修理しているのに)に対して失礼だと思います。
外国人にもきちんと説明すると又来たいと感じるかもしれません。

明日の日本を支える観光ビジョン構想会議が開かれたが、2020年4000万人、2030年6000万人外国人観光客を誘致すると云う目標が設定された。
文化庁の日本遺産認定が数年前から始まっているが、ストーリーがあるので、物語を語ってもらおうと整備している。
どういう神様、仏様かとか、歴史的な事とかいろいろな情報を知らせる。
多面的に判るように解説をやろうと文化庁などでやっています。
観光産業がどう伸びて行くのか楽しみです。
京都は世界観光都市として満足度世界一になりました(イギリスの雑誌で紹介)
外国人宿泊世界観光都市ランキングがあるが、2年前 100位以内に入っていない、昨年89位、潜在能力は1位、実績は89位と言うことです。
日本経済全面的なものです。
89位をトップ10あるいは20にするのか、潜在能力をものにするのが今一番求めてられている。






























2017年4月4日火曜日

伊藤ゆき(ネパール研究者)     ・ネパールに魅せられて40年

伊藤ゆき(ネパール研究者)     ・ネパールに魅せられて40年
ネパールについての講演やコンサルティングなど幅広く活躍されている伊藤さん、伊藤さんは埼玉大学付属図書館の秘書で仕事をする傍ら社会人の山岳会に所属して国内の山に数多く登っていたそうです。
34歳のときに4人の子育てが一段落したのをきっかけに、ネパールへの3週間のトレッキングにでかけて、これがきっかけでネパールの民族、文化に関心を持つ様になりました。
帰国してからはネパールの言葉や民族について学び、日本ネパール協会などで川喜田二郎や、西堀栄三郎たちの指導を受けました。
1991年には在ネパール日本大使館専門調査員としてネパールにおもむいて、そのときは選挙戦を取材したり、航空機の墜落事故の捜索などにあたったりしました。

9年間で44回行っているので、年に4~5回行っていて、平均で2週間ぐらい滞在していて、3年間向こうの大学に勤務していました。
友人の家に居候させてもらっています。(2人います)
私の指導をして下さった文化人類学者ドール・バハドゥール・ビスタ先生、彼の指導がなかったら今の私は無かったと思います。
35年前ごろ上智大学の大学院で勉強されていた人で、彼女は今年日本外務大臣賞を貰った人です。
いつも彼女は憧れですし、指導する素晴らしい方です。

ネパールは5月下旬から10月初めまでが雨期で、後は乾期になります。
4月は暑くて水はなく、電気は停電になったりします。
ヒマラヤは4月になると湿気を帯びてきてカトマンズからは見えない。
12月から1月半ばまで3つの調査をしました。
①日本で技能自習制があるが、ネパールに帰って技術が生かされているかどうかのフォロー調査。(国交省に応募しての調査)
②教育の調査、留学生が急増しているがどうして日本に来るようになったのか、ネパールでは困っているのではないか、社会の変化等有るかどうかなど。(私立大学からの依頼)
③自分のライフワークのような調査、アンナプルナ、ダウラギリという8000m級の山が有りますが、その裏側に小さな村があり、総人口1万4000人ぐらいのタカリ族という民族があり、12年に一度お祭りをしていて、3回目の調査です。

村の形が変わって来ている。
この村は日本と大きなかかわりを持っている。
村の男性の8割以上が日本に出稼ぎにきたことがあり日本語が飛び交っている。
日本で稼いだお金で起業したり、ホテル経営、教育などにつぎ込み経済に大きな役割をしている。
お祭りもその資金でやっている。
タカリ族は清潔で一番良い台所を持っている。
ネパールでは2015年に大地震がありました
王制だったが、2008年からネパール連邦民主共和国になりました。
ヒンズー教が国教でしたが、今は85%はヒンズー教、仏教が10%、イスラム教、キリスト教もいます。
山の方の人は仏教が多いです。

海抜80m~8849mまでヒマラヤの南斜面にへばりついているような国の地形です。
面積は北海道の1.8倍、2850万人、山間の人たちはモンゴロイド系、南はアーリア系の凹凸ある顔をしている、穏やかな人達です。
GDPは2500ドルぐらい、日本は40000ドル程度。(比較は無謀のような気がする)
食べることには困っていません。
大きな国に囲まれているが、一度も占領されたことはない、賢い生き方をしている。
したたかさ、人を読む力がある。
30年前は500人ぐらいしか日本にいなかったが、現在は出稼ぎ、留学生、技能実習生など85000人ぐらいになっています。
来るのにお金がかかるので、不法就労が起きてしまう状況がある。

高校時代シルクロードに興味があり、山をやっていたこともあり、山岳会もヒマラヤにやってきて、子育て後には何時か行ってやろうと思っていました。
1980年ネパールに3週間来る事が出来ました。
いろいろ民族、顔、家の形、言葉、子供の扱い方も違って、それが面白く、その衝撃がとっても大きかったんです。
民族の方に興味を持ってしまって、最終的にタカリ族にたどり着きました。
帰ってきてネパール語を勉強しました。(週に一回 片道1時間半以上かかりました)
押し掛けて行ってビスタ教授(文化人類学者)について勉強しました。
シェルパは民族名です。
川喜田二郎先生や、西堀栄三郎先生たちの指導を受けました。

ネパールの日本大使館の専門調査員をしていたときに、誰もが私を受け入れてくれて、まったく警戒心を持ちませんでした。
出稼ぎの夫の愚痴を女性たちから聞いてあげたりしましたが、夫が帰ってくるとガラッと変わってたりして女性は同じだなあと思いました。
妊婦さんに「何時生まれるの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「生まれるときに生まれる」といわれ、人間って生まれるときに生まれて、死ぬ時には死ぬんだと気づかされました。
まず少しでも良いからお金を得て子供に教育をしたい、次に台所を綺麗にしたいということで、女性は経済的に自立すると云うことがとても大事なんだと云う事でした。

ネパール民法の家族法の中の女性の権利について日本語にして、歴史を解きほぐす仕事を論文にしました。
ジャパンスタディーセンターでは日本の文化、経済、社会の在り方などを大学院レベルまで教えるつもりで行ったが、とにかく日本に行って出稼ぎに行きたいと云う圧力が強くて、学問どころのさわぎではなかった。
日本語を土台にしてもっと伸びていってほしいと思いました。
経済学ではソニーの盛田さんが書かれた英語版があるのでそれを参考にさせ授業させて貰ったりました。
日本文化、生け花、日本料理なども教えたりしました。
日本との架け橋になるような人材育成をしたいと思っていまして、会社として仕事を始めて居ます。




































2017年4月3日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】西郷隆盛
神田 蘭(講談師)
来年は日本の近代化が始まった明治元年から150年になります。
近代日本の基礎を作った明治の人にスポットを当て、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんと語り合っていきます。

祖父母が明治の生まれで祖父母の影響が多かったと思う。
西郷隆盛
海音寺潮五郎がこよなく愛していたのが西郷さん。
内村鑑三の「代表的日本人」の著作の中でも、西郷の事を絶賛している。
江戸幕府を倒した西郷隆盛は官の中心になりました。
10年後明治新政府に納得がいかず乱をおこし賊軍となる。
それから12年後、大日本帝国憲法を発布するときに、賊名を解かれて、正三位を授与され官に返り咲く。
その後上野公園に銅像が建てられる。(薩摩藩出身者が声をかけて、宮内省から下賜された500円と全国の寄付金(2万5000人)で建てられた。)
除幕式に参加した妻の「糸子」さんは似て居ないと云ったそうだ。
奄美大島にいた時に「愛加那(あいかな)」という女性に惚れられて結ばれる。(その後彼女は西郷を想って一生独身で過ごす)
「糸子」は「愛加那」が生んだ菊次郎を引き取り一緒に育てる。
後に菊次郎は台湾総督府の役人から京都市長にまで登りつめる。

1回目「伊集院須賀」と25歳の時に結婚、2回目が「愛加那」、3回目が岩山八郎太の23歳の娘、「糸子」と結婚(本妻)
薩摩藩邸は田町に有ったが、他の藩士は品川宿の女郎屋に行ったようだが、西郷さんは全くかどうか判らないが、行っていなかったようです。
「英雄色を好む」という言葉があるがそうではなかったようです。
薩長同盟
坂本龍馬が出てくるが、決断をしたのが西郷さんだったと考えられている。
江戸城の無血開城
当時100万人がいたので、犠牲になっていた可能性があるので国作りが遅れたのではないかと思う。
江戸は破壊され首都は大阪になっていたかもしれない。
明治新政府への参加
一旦鹿児島に帰るが大久保利通から参加を要請される。
明治4年11月から明治6年10月まで岩倉使節団が欧米視察に行くが、西郷留守内閣が出来る。
西郷さんが実質的にGOサインを出していた。(最終決定は明治天皇だが)
廃藩置県、藩が無くなってしまう、武士の世の中が変わると云うこと。
西郷さんの力があったればこそ出来たと言われている。
武士だった人たちは役人になった人もいるが、教育者になった人もいて、商売を始めた人もいるが財産を無くしてしまった人もいる。

学制の制定
教育こそが国の基礎であるということを地で行った。
小学校、中学校、大学校を作り、男女ともに小学校に行くという義務教育を導入した。
識字率はほぼ100%が達成された。
お茶の水女子大学(東京女学校)、教育大学(東京師範学校)も作っている。
薩摩は子弟教育が盛んだったので、その辺りからきているかもしれない。
郷中教育

鉄道開業 
明治5年9月 当時の技術としては吃驚。
新橋ー横浜の間に機関車が走る。(近代化の代表)
太陽暦の採用
日本を新しくしようと明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまった。
キリスト教の自由化
宗教は自由であるということになる。
西郷さんは古い感じのする人だが凄く開明的な事をやっている。
西郷さんは寛容、それが魅力。

林真理子さんの西郷像の見方 「西郷(せご)どん」の原作者(来年の大河ドラマ)
すべての人を引きつけずにはいられない、会うと西郷さんのことを好きになってしまう。
決断の時すばやくて、相手のことを思いやる。
無血開城 掛け引きなどが書かれていないが、小説家としてそれを描く言葉を考えているが難しい。
物事(富、名誉、地位)に執着しない、自由な心が生まれる人だと思っている。
義を尊ぶ、庄内藩は官軍と戦って降伏したが、西郷さんが救いの手を差し伸べた。
藩主から下々の人まで西郷ファンになってしまって、西郷さんのところに遊学させたりした。

西郷隆盛の義理の妹に当たる人の肉声が残っていた。岩山トクさん(95歳)
(隆盛の奥さんの弟の嫁さん 昭和27年6月の録音)
鹿児島市長との対談 「優しい人だった。」「なんでもおいしいと食べました。」・・・。 「兄弟仲良くしてました。」・・・。 等々。
1857年生まれ 隆盛が亡くなった時は20歳だった。
もし今いたら女性の総理大臣を出せとか、言ったんではないかと思います。(本郷)
今の日本はこうなってしまったのかなあと嘆いているかもしれない(神田)
政府関係者は西郷さんに叩かれているかもしれない。(本郷)





















2017年4月2日日曜日

堀 絢子(声優)         ・【時代を創った声】

堀 絢子(声優)   ・【時代を創った声】(第14回)
堀さんは50年以上にわたって声優活動を続けてきて、「忍者ハットリくん」のハットリくんや、「新オバケのQ太郎」のQ太郎役などで知られています。
先月にはその年度で最も印象に残る声優や作品をたたえる第11回声優アワードで功労賞を受賞しました。
広島を舞台にした反戦反核を訴える独り芝居、「朝ちゃん」は30年近く続けられて講演数は250回を超えています。

「新オバケのQ太郎」が1970年代、「忍者ハットリくん」が1980年代に放送。
曽我町子さんが演じて居て2作目のお化けのQ太郎を担当。
子供の世界が良く描かれていた、子供が遊べるような、子供たち自分が飛び込んでいけるような子供の世界という、気持が遊べるようなそれが素敵だったと思います。
声優の人たちもまだアニメの世界がいっぱい作られていたころではなくて、始めたばかりだったのでみんな遊びたがっていました。(収録自体を楽しんでいた)
ハットリくんは服部半蔵の子孫と云う設定となっている。
語尾に「ニンニン」とつけたのは私でした。

いきなり屋根を掃除することになり、そのシーンが長くて困ったと思って、間が持てないと思って「ニンニン」と言って暴れたんですが、スタッフも気がつかなくて、それでも受けていました。
そのほかに「ニンともかんとも」とかいろいろ付け加えていきました。

アドリブもそこが楽しければ楽しいほど生き生きとしてくる。
ちょっとした表情とか動きとかの中に楽しさがあると良いんじゃないかと思います。
ちゃんとした絵が無くて勝手な想像でやってるだけのこともありました。
高橋和枝さんがいてゲストが来て電話をする形式があり、キャラクターがコロンコロン変わって見事だなあと思ってあんなことがやれるのならやってみたいと思いました。(高校生の頃)
高橋和枝さんは天才だと思いました。
それから入って行きました。(その前は児童劇団に入っていました)
母親から大反対されて、往復ビンタを貰いました。
ろくなもんじゃない世界だと思っていたようです。
いろんなアルバイトをしながらレッスン料を稼いで、母親には内緒でレッスンをしていました。

作ると云うことに凄い魅力を感じて居ました。
やっている中の面白さは他にたとえようもなく楽しかったです。
父は医者で母親は進路はそっちの方面を願っていたようでしたが、父は早く軍医として招集されて広島に行って、8月6日の朝礼の時に原爆が落ちて、三次までトラックで自分ではいあがれる者だけ連れて行ってたが、父は亡くなってしまいました。
母は医僚系の仕事に(医者がだめなら薬剤師とか)つかせたかった。
反対を押し切ってやってきました。
独り芝居「朝ちゃん」、原爆の被害にあった朝ちゃんを助けようとする家族と友人の物語を通して反戦反核をうったえる独り芝居。
反戦(半千の)500回の公演を目指してきて、現在254回ようやく半分になりました。
どんなに父が悔しかっただろうと思いまして、あの人が生きている方が私が生きて居るより世の中のためになると凄く思ってしまって、私が何十倍も頑張らないと生きているって許されないと思ってしまって、自分に出来ることは無いかと思ったときに、子供の番組をやらせていただいてきたので、恩返しもしたいと思って、そういう内容に取り組むことにしました。
命を大事にしてほしいということと、粗末に自殺したりするなんか許さないと思って、命を大事にしなくてはいけないと云う事をずーっと訴えて来ました。

最初の頃、20歳代の女性が来て、自分はずーっと死にたいと思っていて、手伝えと言われたからここに来たけど死にたいと思うのはやめましたと言って、凄くうれしかったです。
どんなにつらくても生きていきましょうと言ってその人と手を取り合ってニッコリ出来ました。
一回しかない命だから粗末にしては厭だ、と一生懸命訴えて居ます。
山本 真理子さんの「広島の母たち」という本に出会いました。
これを形にして伝えていかなければいけないと思いました。
ハットリくんを始めたころでしたが。
白いセーラー服にモンペ姿でやっています。
難しいのは誰も助けてくれないということと、芝居全体の把握がきちんとできるように自分で心がけて居るつもりです。
でもまだ足りないのではないかといつも思っています。

若い人たち皆さんとっても出来るのが早くて器用ですが、もうちょっと下手でもいいかなあと思ってしまいます。
器用すぎて、上手過ぎて面白くないんです、生きて居るってそんなに器用でパキパキしてないと私は思います。
欠けて居るのが人間だと思っていて、皆さん上手だからどういう風にやればと口では言えないが、段々やっているうちに自分で感じ取って下さるしかないと思います。
人間としての心がちゃんとみなぎっていれば、温かみがちょっと加わって来ると思う、そうすればしめたものだと思います。
これから先もそれなりにやってゆくしかないですね
















2017年4月1日土曜日

山本一力(作家)          ・歴史にみる土佐人の気質

山本一力(作家)      ・歴史にみる土佐人の気質
山本さんは昭和23年高知市で生まれ、少年時代を高知市で過ごした後、14歳で東京に移りました。
その後旅行会社勤務やコピーライターなどのさまざまな職業を経て、46歳で作家になり平成14年に「あかね空」で直木賞を受賞されました。
時代小説を中心に数多くの作品を発表しています。
自身の人生、ジョン万次郎初め小説に書いてきた高知県出身の人物を通して土佐人の気質を考察します。

窪川の町に来て思ったことは町がまだ達者でいるなと云う事、喫茶店の小さな女の子が行った先が天ぷら屋さんでした。
私達夫婦も行ってコロッケといも天が大好きなので買ったら、たこ焼きもあると云うことで、喫茶店から来ていた女の子の母親らしき人が喫茶店をやっていて、喫茶店でもたこ焼き食べていいと云うことでした。
「お嬢さんですか」と聞いたら孫と云うことでした。
かみさんは脇にいて「おとうさん」と私に向かって呼びかけたので、そのママさんはうちのかみさんを見てお嬢さんですかと云うことでした。
コーヒーを存分にいただいたが、そこのママさんはこの窪川で一歩も外に出てないとのことでしたが、良い町ですよとおっしゃいました。
郷土を自慢してくださる物の言い方がものすごくうれしかった。
わが町を自慢すると云うことは本当に大事な事、そのことに触れられて物凄くうれしかった。

喫茶店を出て、国道の信号があり渡ってきたら、女子中学生が歩いてきた。
どこのだれかもわからない私たちでしたが、すれ違う直前で4人の女の子たちが「こんにちは」と笑顔を見せてから挨拶された。
「こんにちは」と云い返して「だれにでもそういうの」と聞いたら「はい」と云って嬉しそうな笑顔で去って行った。
自転車に乗った女の子たち二人、すれ違いざまに「こんにちは」と云いました。
最近の自転車のマナーは凄く悪い、無灯火で走ったりする。
自転車がそちらに向かっていますよと云う為の明かりです。(人を気にしていないと云う事)
すれ違いざまにあいさつをすると云うことは、人が来ているということを自分が認めて居て、「こんにちわ」と云う。
本当に心が温まります。
学校で教わってるのかと聞いたら、自分たちでそういう風にしているとのことだった。

「自由は土佐の山間から」と云う言葉が今も残っています。
土佐人の大事なもののひとつは自分たちが基を作っていくんだという強い志です。
俺たちが始めるんだという気概と、やりたければどうぞ一緒にやってくださいという心の大きさ、こういうものが土佐にはずーっと伝わってきているんだと、高知を舞台にした小説を書くなかで強く思います。
名前を求めない、やったことであれは俺だと後に名前を残そうとしない。
ジョン万次郎、日本人で初めてアメリカの本土を踏みました。
英語を覚えて帰って来た。
万次郎が漂流民でアメリカに暮らしていたということは、黒船でやってきた日本にやってきた、1853年に日本にやってきたペリーが、アメリカのニューポートにいたときにすでにそういう情報を得て居ました。
情報を得ようと万次郎の所に行こうとしたが、すでに日本に帰ろうとして西海岸のサクラメントの近郊に行っていませんでした。

ペリーが後年日本に軍艦4隻で日本に入ってきて、浦賀に来た時には通訳の控えとして幕府から任命を受けて居る。
そのあとも咸臨丸に乗って太平洋を横断したが、万次郎は主要な乗組員として、活躍した。
明治維新の政府になった後、名を求めて要職に付くことは一切せずに、弓町(有楽町駅の近く)と云う所で一市井の人間として生涯を閉じて居る。
ハワイにいたデーモン神父(万次郎を直に育ててくれた)が日本にやって来たときに万次郎はどういう職について、日本の政治の中枢に座ってるか楽しみに来たら、何の官職にもついていなかったので、憤っていたと云っている。
自分が裏側に回った事をよしとした。

土佐藩の藩主2代目忠義公の頃、野中兼山と云う奉行がいた。
信任が厚かった。
最後には失脚をして血筋が絶えるまで、幽閉をされてその地で果てて居る。
幕末のころに土佐は色んな働きをするが、出来上がった明治維新の政権に加わることは無かった。
理由は良くは判らないが、俺が俺がと言って前に出て行った人たちが、当初のころは首相の首を取り換えて行ったが、その中に土佐は含まれていませんでした。
何か残してゆくと云う事が自分を残すのか、そのことを大事にして自分の名前は無くてもやろうとしたことが後に続いてくれればいいか、根本から違ってきます。
早稲田大学の建学の母といわれる小野梓と云う方も宿毛に出ている。
小松製作所の礎となった人も宿毛にいました、ほかにも随分います。

東京に行った人は私財を肥やすことなく後から来る人の面倒を見て行った。
今に至った時に振り変えれば驚くほどの人数が郷土から排出したことが歴史として残る事になる。
宇佐浜から万次郎は船出をして行って、遭難して最終的にはアメリカの捕鯨船に助けられましたが、遭難をしたときに5人いました。
その末裔が宇佐に暮らしています。
森田さんと云う漁師の方、船頭だった筆之丞の末裔です。
戻ってきたときに、自分たちが見聞した事を一切口外してはならんと厳命されて、自分の郷里に暮らして行った。
筆之丞は一切云わなかった、直系の森田家には筆之丞からの言い伝えがほとんど残っていない。

万次郎は江戸で一市井の人間として生涯を閉じます、筆之丞も同じです、家族にも伝えず生涯を閉じて居ます。
土佐人の一つの気風だと思っています。(日本人と云っていいと思います。)
今これを云っていいか悪いのかを、自分で考えて云うのはよそうと、あえて口をつぐむ事、わきまえて居る。
子供を社会が育てて行く、大事なことです。
女子中学生が誰に言われるでもなしに、(家庭で言われているとしか思えない)挨拶が出来て居る。
こういうことがここには育くまれています、このことは物凄く大事なことです。
女子中学生がこの地から出ていったときに挨拶が出来、可愛がられると思います。
今日本人はいろんなところで無言です、相手を意識していないのと同じことになります。

アメリカに行くと、一番強く感ずることはお互いに見ず知らずの人が言葉を交わすと云うことです。
礼儀正しいとか、愛想がいいとは断じて違っていると思います。
今アメリカは人を受け入れていいかどうかが報じられているが、多国籍の人が暮らしていて、お互いが相手に対して私はあなたに敵意を持っていません、貴方に害を与える人間ではありませんよと、そのことを相手に伝えるために「ハイ」「モーニング」を云うのです。
云われればお互いが心を開いてお互いに言葉が交わせる。
この町の中学生はそれをやっている、物凄く大事な事です。
日本はグローバル化を云っているが、英語学習だとかを思っているが言葉の前に相手に笑顔をむけて「こんにちわ」がいえるかどうか、大人が出来るかどうか、それがグローバル化の第一歩です。

大事なのは、「自由は土佐の山間から」と今はっきり言える事を後に残して行ってやることです。
その人がやろうとした志を受け止めて次代を担ってくれる子供たちにそれを申し送ってやることが一番大事だと思います。
当時私の廻りに怖い大人がいっぱいいました、そして大人がいろいろな技を持っていました。
大人になったら自分もそんな大人になりたいと思っていました。
宿毛にいた僧侶白明(はくみょう)さん、忠臣蔵の討ち入りの時に江戸の泉岳寺にいたということを去年知りました。
四十七士の4人をお世話して、懐紙に筆で遺墨を書き残してもらったもの4人分を持ち帰っています。
江戸と宿毛が繋がっていたんです。
大高源吾の筆で書き残されていますが、一気に時間を超えて討ち入りのあった12月14日に自分が運ばれてゆくような気がします。
郷土にはこういった歴史、文化、風俗、言葉、食べ物などいいものがあると、バトンを若い人につなげて行ってほしいと思います。










































2017年3月31日金曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・私の昭和史を語る(2)

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・私の昭和史を語る(2)
*NHKの平成29年度予算と事業計画について、参議院の審議の模様を伝える番組のため
中止にします。

2017年3月30日木曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・私の昭和史を語る(1)

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・私の昭和史を語る(1)
400通近い便りが寄せられた。
8割以上が戦争に関する便り。
戦闘体験もあるが、飢餓体験、引き揚げ体験、被災被爆体験を語る内容が映っているように思います。

千葉県佐倉市伊藤昇?さん (90歳)
長野県の小作農家の長男として生まれた。
父は越後、母は東京へ出稼ぎにいって居た。
祖母と過ごしていた。
16歳のときに紙くず問屋をしていた伯父のところへ奉公に行くことになる。
仕事は紙くずを自転車についたリヤカーにのせ、集荷する作業で朝4時ごろから一人でする重労働だった。
昭和18年18歳で徴用令書が来て、行先は三菱重工業名古屋航空機大江工場、零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機(雷電)を製作。
B29を撃墜するというラジオ放送とは裏腹に本土が焦土化して行く現状を理解できなかった。
名古屋城も被爆し炎上、三菱重工業名古屋航空機大江工場も猛爆に消えた。
昭和20年3月、私にも令状が届いた。
静岡の浜名海兵団に入隊、行ってみると日本の飛行機、兵器もなく毎日塹壕堀だった。
8月15日の敗戦を迎える。
長野の田舎に帰るが母の嫁入りたんすが残っているが、金属供出で取っ手の穴だけが残っていた。
平和とはなにか、人間らしく生きることはどういうことかと問い続けていきたい。

埼玉県東松山市 東川ひとこ?さん (89歳)
3年生のころまでは授業がありましたが学徒動員で、海軍省管制本部に配属になりました。
毎日のように出征して行くのを見送りました。
霞が関の本省は攻撃目標となり危険とのことで各地に分散しました。
私の部は当時のNHKの隣のビルに移転し軍の極秘書類などを運びました。
特に印象に残ったのは昭和18年10月21日神宮球場で学徒出陣壮行会が行われたことです。
スタンドには多くの女子学生が見送りましたが私もその中の一人でした。
緊迫感は心に焼き付いています。
昭和20年4月13日の空襲でわが家も焼失しました。
防空頭巾をかぶって母と一緒に逃げました。
今も耳に残る焼夷弾の落下音、二度と聞きたくない音です。
戦後ワシントンで実物のB29(エノラゲイ)と焼夷弾の実物を見ました。
何ともやり切れぬ気持でした。
今なお生き続けるものとして、憲法9条を守り通さねば犠牲者たちに申し訳ないと強く思っています。

昭和の漢字一文字は「食」 東京都青梅市合田速志さん(84歳)
私の昭和史を漢字一文字で表せば「食」です。
小学校3年生から戦争が行われた10年間は空腹の日々でした。
戦時下では肉、米、卵牛乳、砂糖はまったく入手できませんでした。
すべて軍部に流れたのです。
唯一の楽しみは天皇誕生日の4月29日に登校して紅白のまんじゅうを貰うことでした。
なんとか食べ物が出回ってきたのは昭和30年ごろからです。
もう20年遅く生まれてくれば食べ物に苦労しなかったと思う反面、戦時下と余り変わらない食生活を続けているので成人病にかからずここの歳まで長生きしているのだと思っています。

私(保坂)も食はつらい思い出として残っています。

シベリア抑留のつらい思い出 広島県福山市 古木三郎さん(90歳)
元関東軍の一兵士としてシベリアのイエジベストコーガヤで4年間の抑留生活を余儀なくされました。
3年余りは電気、水道設備のあった収容所で過ごし、ほかの地区とは格段の好条件で死亡者も数人でした。
帰国後抑留記録を読むと、モスクワの南から、カスピ海のほとり、ウクライナ、中央アジアのタシュケントなどに送られ、多くの戦友が極寒、重労働、栄養失調に苦しめられていたと聞いています。
元関東軍兵士60万の1割以上が遠く異郷の凍土の下で無念の永遠の眠りに余儀なくされています。
この実態をあらためて日本の全国民に確認していただき不戦の思いを新たにしていただきたいのが私の願いです。

抑留60万人ではなく、実態はもっと多かったのではないかと思います。

引き揚げ 愛知県豊田市 鈴木玲子?さん(81歳)
父が軍人だったので旧満州で生まれ楽しい毎日を送っていました。
昭和20年8月9日、ソ連は突然ソ満国境から攻め込んできました。
女子供は避難することになりました。
8月12日、妊娠8カ月の母は3歳の弟をおぶって、私は食料などをリュックサックに入れて背負い弟を連れて、貨物列車に乗り込みました。
15日、北朝鮮の平城に到着、予定していたところはソ連軍に占領されていて行き場のなくなった避難民は平城在住の日本人宅でお世話になることになりました。
野宿をしながら歩いて38度線を突破して帰国船の出る南朝鮮に向かうことになりました。
ソ連兵に見つかり銃を突きつけられ、何が何でも日本に帰るのだと祈り続けました。
やっとのことで長崎県の佐世保港に入港、コレラが出たらしく2週間上陸できませんでした。
母は衰弱した弟を病院に連れて行ったが、息を引き取ってしまいました。
戦争のために弟、妹を亡くして、辛く悲しい思いをしました。
いつのまにか戦争体験を語れる最後の年代になってしまったようです。
私はお声がかかればどこへも出かけて行き、悲惨な戦争体験を話しています。
もう二度と戦争のない平和な日々が続くことを心から願っています。

戦前のラジオの思い出 宮城県仙台市 本郷勝夫さん (94歳)
第一の思い出、昭和11年ベルリンオリンピックの女子水泳の「前畑がんばれ」の放送です。
小学4年から6年の大相撲の放送も記憶に残っています。
武蔵山、男女ノ川 (みなのがわ) 清水川、羽黒山、双葉山などが挙げられます。
昭和16年の日米開戦の歴史的な放送、その後は嘘ばかりの放送報道に明け暮れました。
昭和18年の召集令で大陸に渡り、大作戦に参加させられました。
部隊長の一言で敗戦を知らされました。
いま94歳で元戦場体験兵の一人として生きています。

東京都板橋区 山下敏子?さん (84歳)
戦争が激しくなるとともに食料も不足、5年生ぐらいになると街角で千人針もしました。
国中が洗脳された時代で恐ろしい。
家の防空壕では危険と云うことで山の下の横穴の防空壕に避難しました。
近所の士官学校の生徒さん20歳前後の3兄弟は戦争に行きましたが一人も帰りませんでした。
昭和20年学童疎開で父の故郷に転校しましたが、片田舎にもB29がきました。
平凡な毎日がいつまで続くのでしょうか、最近戦前の匂がするのは私だけでしょうか。
子供孫の時代まで平和が続くことを祈ります。

大本営発表は846回あるが、前の話の中で嘘というふうになっているが戦況がいい時は事実を伝えるが、悪くなると言葉を誤魔化して行く、撤退を転進と云ったりして誤魔化す。
そのうち隠すようになる、どうしても発表しなくてはいけないときには嘘を云う。

戦中戦後の母親に感謝 広島県二十日市 利根栄子?さん(75歳)
12月12日生まれ 12月8日に大平洋戦争が勃発、母のの不安を察する昨今です。
心配でたまらなかったろうと想像もつきません。
父は戦地にいたそうです。
母は戦後を乗り越え物資のない時代を凌ぎ私たち4人をを育ててくれました。
母は親から貰った立派な着物を農家に持っていって食料と交換したそうです。
母は昨年96歳で長き人生を生き抜きました、凄いことです。
改めてお母さんありがとう、よくぞ育ててくれましたと感謝の思いにあふれて居ます。
もう二度と悲しい辛い思いを子や孫にさせてはならない、大切な命を守らなければならないと願わずにはおられません。

甲子園球場の空襲にまつわる便り 千葉市緑区 西村功?さん(78歳)
7歳の少年時代に経験した空襲と、引き続いた戦後混乱期の生活体験は今日に至るまで忘れることはないでしょうし、死ぬまで忘れません。
アメリカ軍B29爆撃機130機による阪神大空襲は鮮明な記憶で脳裏に焼き付いています。
昭和20年8月5日夜10時ごろから未明にかけてのことでした。
甲子園球場のすぐ近くに住んでいましたが、まさか空襲でわが家が焼失するなど夢にも思いませんでした。
突然父に起こされ、ラジオから何度も空襲警報発令の声が聞こえてきました。
父母のあとについて家を出て防空壕に避難しました。
夜が明けて空襲警報が解除され外を見ると、初めてあたりの状況が一変していることに気付きました。
すべてが焼け野原になって、みんな茫然としていました。
甲子園地域一帯が川西航空機鳴尾製作所、それに関連する軍需工場になっていたからです。
昭和20年1月の正月野球大会を最後に軍に接収され軍需工場に、内野は芋畑に、外野は軍のトラック駐車場になりました。
金属類は供出されてしまいました。
あれから70年経ちすっかり変わりましたが、しかし戦争による空襲被害は厳然たる事実なのです。
甲子園にも戦争の事実が刻まれていることを、後世に伝えつつ平和への誓いを新たにしないといけないと思っています。


































2017年3月29日水曜日

大杉正明(清泉女子大学教授)    ・英語が拓いた世界への扉

大杉正明(清泉女子大学教授)    ・英語が拓いた世界への扉
長年ラジオ英会話の講師として、更にラジオ深夜便でも「名画、名曲、名セリフ」や現在は大人の教養講座でユーモラスなだじゃれを交えた軽妙な語り口で人気です。
今日は今年70歳を迎えた大杉さんの英語の原点、英語で人生を切り拓いて子供の頃の夢を叶えてきた話を伺います。

1947年生まれ 今年で70歳、静岡県伊東市の出身、明治学院大学大学院を卒業、現在は清泉女子大学英文科の教授。
NHKの語学講座にかかわったのは1982年、35歳。
1987年からNHKラジオ英会話を11年担当。
TV、ラジオで28年間NHKの語学講座を担当して、8年前「名画、名曲、名セリフ」
から始まってラジオ深夜便出演。

団塊の世代といわれて居る世代です。
当時みんな貧しいので気にならなかった。
ゆったりしている生活感でした。
英語との接点はほとんどない子供時代でした。
英語の唯一の接点は西部劇でジョン・ウエインがステーキを食べているのを見て、家に帰るとアジの干物が待っていて、アメリカは凄く豊かなんだなあとアメリカに対するあこがれはアメリカ映画を通して芽生えてきました。
これが英語の勉強に対する最初かなあと思います。
西部劇の遊びでまねるのにデタラメ英語を使って遊んでいました。
段々本物の英語を使いたいと思うようになりました。

小学校に上がるかどうかのころに家にはフォードの車がありました。
家を売ってフォードを父が買いましたが、借家暮らしとなりました。
車で遊び歩いた父親に対し母親はついに離婚して、父親の借金を背負って4人の子を育てました。
母親は難行苦行の連続でした。
姉たちも私も自分の机の持ったことがありませんで、家で勉強したことはありませんでした。
ラジオから流れてくるアメリカの音楽に心を動かされて、段々プレスリー、ニール・セダカとかのまねしようとして、流れてきたものを判らないながら一生懸命聞いて真似していました。
後で英語が判るようになりましたが、当時結構正確に覚えたと我ながらいい方法だったと思いました。

中学の時には英語を一生の仕事にしようとは思わなかったが、映画、音楽の英語は楽しいし好きだし、ただ英語を勉強することとは違っていました。
英語の時間にカッコよく発音すると廻りから、いじめられたりしました。
日本語的英語の発音をすることで和が保てました。
高校時代も自宅では勉強したことがなくて、卓球ばっかりしていました。
英語の授業の担任の露木先生と出会いまして、先生から厳しく教わって、先生のおかげである程度力もついて来ました。
全国模擬試験で英語の点数だけは200何十番で、廊下に貼り出されて吃驚しました。
3年生の頃に、先生が私の出た大学(明治学院大学)に入らないかといわれ、明治学院大学に進みました。
英語の教員になる以外に考えはほかになかった。

兄弟の中で私だけが大学に行きましたので、自主的に勉強するのが大学の4年間でした。
人間はどんな場所にいても与えられ場所で、自分の持てる力を最大限に発揮して最善を尽くすことが大事だと、教え子などにも言っています。
高校の教員になるつもりでいました。
教員免許を取るには道徳教育の研究は必修でしたが、退路を断つと云うか、後期のレポートを出すのを辞めてしまいました。(大学院に行く事に仕向けるようになってしまった)
大学院に入って、その後職を得たのが女子聖学院短期大学(ミッションスクール)の英文科に入り6年頑張ってその後清泉女子大学に移りました。
ESSの顧問をして指導していて、全国規模の英語のスピーチのコンテストがあり、審査員の先生を頼まれて行って、審査員の一人がアラン・ターニー先生、清泉の教授で漱石の研究家で世界的に有名な翻訳家の先生で、もう一人がジョン・ネイスンと云う先生でコーネル大学で日本文学を教えていた先生で、安部公房、大江健三郎の作品の翻訳で有名な先生で、3人目が無名の私でした。

1日お付き合いをしたことで、1週間後にうちの大学に来ませんかといわれて清泉女子大学
に行くことになりました。
中学~大学院の教員と学生を対象に、ある試験があり優秀な成績で合格すると全額支給でミシガン大学に行ってディスカッションをしたりすることに参加できて、その次の数名は半額支給でそれに合格して、アメリカに行くことになり、見るもの聞くもの食べるものみんな初めてなので吃驚することの連続でした。
こっそり夜中に出て行って食堂に行って、ハンバーグを頼んだり飲み物を頼んだりしてそれがアメリカでの最初の英会話でした。
ホームステーも経験し、思い出深い経験でした。
別れる時に奥さんがハグしてくれましたが、ドギマギしました。(当時はハグなど全然知らなかった)

ルート66の旅は面白い経験をした旅でした。(ところどころ寸断していて廃道になっていてしまってたが)
イギリスの大学の客員教授に1年間行きましたが50代になって、再びカルチャーショックを受けました。
いかにイギリスの国、イギリスの英語を知らなかったかと云うことに驚きました。
35歳のときに初めてNHKの語学講座をやらせていただきましたが、28年になります。
オーディションを受けさせられまして、はじめて英語表現入門というTV番組に出ました。
ラジオ英会話は伝統のある番組ですが、毎日放送する番組で大変で、講演の依頼などもあり、授業もあり、どっちが本物かと思ったときに教員だと思って、マイクの前の仕事も意義深い仕事だと思うが、生身の人間を相手にするのでいろんな指導も必要で、一介の教員として本来の教員として、引き際を考えました。
戻って行くのは教壇だと思いました。
ラジオ深夜便の「名画、名曲、名セリフ」は楽しかったです。(8年間担当)
続けて居ることに意味があるのでこれからも英語の勉強をしながら、頭の運動、身体の運動をして、「過去に学び、今日に生き、明日に希望を」そういう気持ちでこれからも生きていきたいと思っています。







































2017年3月27日月曜日

井村一洲(吟詠家)          ・日本語の美しさを吟じる

井村一洲(吟詠家)    ・日本語の美しさを吟じる
漢詩を日本語に変えて節をつけて発声する詩吟、この詩吟には多くの流派があってそれぞれ、吟じ方が違うとされていますが、美しい日本語の発声で間や抑揚、テンポに気を付けて、その詩が持つ情緒、詩情を聞く人に届ける、という事は共通して居ます。
井村さんが詩吟に興味もったのは二十歳の頃、大学を卒業して就職しますが、32歳のときに脱サラして、医療機器の会社を創業します。
仕事が忙しく詩吟から遠ざかっていた時期もありましたが、45歳の時に本格的に詩吟に取り組みました。
60歳で退職した後、レコード会社の全国大会で優勝するなどして、今は自分の会派で60人以上のお弟子さんをお持ちです。
今、井村さんはお弟子さんたちと小学生に詩吟を通して日本語の美しさを伝えようと活動しています。

吟と云う言葉はいろいろあり、呻吟(しんぎん)、苦吟、吟味とかある。
絞り出してゆく、自分の声として絞り出してゆくのが吟。
心の思いを絞り出すように出して行くのが吟だと思っています。
強吟、弱吟とかある。
自分の好きな漢詩を決められた読み下し文を使って、正しいアクセントと美しい母音で、言葉の明瞭さを保って詩情を聞く人に届けて共に感動しようとこんな目的で詩をうたうと云う風に思っていだだくといいと思います。
奈良から平安時代にかけて詩集が作られてそのほとんどは漢詩でした。
古今和歌集は900年に出来るがそれまでにできた詩集は全部漢字の詩集が出されていました。
和漢朗詠集は漢詩の一部と和歌、漢詩の持っている詩情を持っていた。
音読みのリズムの良さを感じて読み下し文にしていると思う。
音読みと訓読みの両方を加えた。
江戸時代になると、朱子学が主体の学問になるが漢学者が増えて、漢詩を勉強するようになり、一般庶民に広がって行った。

母音の美しい響きを損なわないように発声する。
「あ、い、う、え、お 」
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です、・・・」
ざわざわしたところでは、歯切れのいい言葉でないと伝わらないので、歯切れのいい言葉を使った。
歯切れのいいところは母音が残っている。
1日に15人ずつ毎日稽古をしています。
2時間で5~6人で、若い人が25歳、40代、50~60代若干名、70代が多いです。

作詞者の思いを自分の思いとして、言葉の一つ一つにしていこうと云う思いで作りました。
吟題を言って、作者を言って、作った人に敬意を持って吟ずる。
父親がある大学の詩吟の創設にかかわって、父が詩吟を始めて、その先生に会って聞いたら感動してしまいました。
中学、高校では弁論部にいて数分話すが、詩吟と似ていると思って始めました。
その後はあまりやらなかった。
32歳のときに医療機器会社を創業して、詩吟に目を向けるようになった。
アメリカに医療の見学ツアーに行ったときに、あるパーティーで詩吟を吟じたら、日本語の意味もわからないアメリカ人が凄く感動してくれました。
日本の伝統芸能を持っているとコミュニケーションもスムースに出来るようになりました。

弁論と詩吟はいろいろ共通点がありまして、マイクを使わないで声を出すので母音の響かせ方が必要、腹式呼吸、語る、弁論は生きました。
姿勢が良くなりました。
呼吸筋と姿勢を保つ筋肉類は同じだといわれています。
45歳のころに、70歳になった時に病気になって人が身のまわりに誰も見舞いに来ないのは淋しいと思って、なにかものごとを教えて居れば来るだろうと思って探してみたら、詩吟に思い当たり詩吟を始めました。
60歳で退職して今のような状況になりました。
吟にかかわると人にいかに話すか、話をすることを実感しました
自分をどの様に表現するか、表現力を磨く、心の内面を磨く、そういう面では言葉一つ一つが持っている重さを吟味して伝えていくことが一番大事だと思います。

弟子に教える訳ですが、上手は下手の手本、逆に下手は上手の手本と云うこともあり、教えることは教わることだと思っています。
2003年に指導者になりました。(師範になる)
2011年に自分の会派を立ち上げました。
世田谷区の小中学校に詩吟を通して日本語の美しさを伝えています。
10年ほど前に国語の教科書の中に有名な中国の漢詩が22題掲載されていて、日本語の響きやリズムを楽しみましょうとか、短歌、漢詩を音読しましょうとか、暗唱して朗読しましょうと呼びかけて居ました。
漢詩などを教える手伝いをするようになりました。
教えるとガラッと変わってしまって、感動しました。
赤ちゃんは親から言葉を覚えるときに、言葉と一緒に口の動きをみているそうです。
学校で百人一首を口の動きだけでやってみたら半数ぐらいが判るんです。
同じ事を自分の弟子の教室でやってみたら、なかなか伝わらなかった。

アメリカの学校でショー、アンド、トークがあり何か物を持って3分間喋る授業がありこれはいいなあと思いました。
自分を主張する練習をさせられているんだと感じました。
今後、日本の文化と云うものを文化資産として子供たちに伝えて行きたい。
詩吟を子供たちに伝えていきたい。(学びの連続 教えることによって教わる)
10年前から詩を吟じながら舞うと云う事をやっていて、世阿弥の言葉の中に「舞は声音で根をなす」があり、吟を一生懸命やって腹から出す声は舞につながるなと思いました。

良寛が作った漢詩 「余生」
雨晴れ雲晴れて気も復(また)晴(は)る 
(雨晴雲晴気復晴)
心清ければ遍界(へんかい)物皆清し
(心清遍界物皆清)
身を捐(す)て世を棄(す)てて閑人(かんじん)と為(な)り
(捐身棄世爲閑人)
初めて月と花とに余生を送る
(初月與花送餘生)






























2017年3月26日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)       ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)   ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
チャイコフスキーの遺伝子、2017年バージョン。
今年のウイーンフィルのニューイヤーイヤーコンサートを指揮したグスターボ・ドゥダメル。(36歳 ウイーフィルとは10年の付き合い)
*白鳥の湖のワルツ ワルツも素晴らしいが彩りを添える木管楽器の煌めきが素晴らしい。  指揮グスターボ・ドゥダメル。 ウイーフィル管弦楽団。

1972年モスクワ生まれ、ウラディーミル・ユロフスキ(45歳)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めている。
今年来日予定。
*チャイコフシキー交響曲第5番 第三楽章。 指揮ウラディーミル・ユロフスキ
 ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。

ラフマニノフ
学生のころからチャイコフスキーが大好きだった。
チャイコフスキーが亡くなった時には、ピアノ三重奏曲をチャイコフスキーにささげて居る。
ヴォカリーズ
 歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
 ラフマニノフ編曲 指揮 ヴァシリー・ペトレンコ ロイヤル・リヴァプール・フィル
ハーモニー管弦楽団。

ヨーロッパのジャズ界にもチャイコフスキーのメロディーが影響。
ジャンゴ・ラインハルト ステファン・グラッペの1949年の録音
*チャイコフスキー作曲 ラインハルト編曲 悲愴
いだかれたいテンポ

タンゴ風のチャイコフスキーの音楽。
ペーター・キーゼヴェッター ドイツの作曲家 1945年生まれ。
*タンゴ・パセティック  キーゼヴェッター作曲 ヴァイオリン(ギドン・クレーメル) ピアノ(マルタ・アルゲリッチ) チャロ(ミッシャ・マイスキー) 演奏










2017年3月25日土曜日

清水国明(タレント)        ・めざそう、多毛作人生

清水国明(タレント)    ・めざそう、多毛作人生
1950年福井県大野市(旧和泉村)に生まれる。
1973年伝説のフォークデュオを「あのねのね」で芸能界デビューします。
2004年自然ぐらしを実践する山梨県富士河口湖町で、NPO法人河口湖自然学校を設立。2013年には山口県周防大島近傍の無人島を購入、そのほか阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本などの被災地に積極的にかかわっています。
現在はTV、ラジオでも司会やコメンテータ、ー雑誌への執筆など幅広く活躍しています。
そんな清水さんが今年1月福井県若狭町の文化と福祉の複合施設パレア若狭で講演されました。

「あのねのね」のグループをやっていました。
「赤とんぼの唄」などを歌っていましたが、終わってTVの仕事などをやるようになりました。
福井県大野市(旧和泉村)に生まれ、谷あいの村でした。
たった一回の人生だから、いくつも楽しみたいと私は思っています。
憧れはエネルギーとなって人間の成長にふさわしいと言われています。
今は何にも揃っているので、憧れる必要がない、これが欲しいと云うのも憧れだといえばそうであって、それに進んでゆく、そういく考え方もあります。
京都の方の大学に行って、いい仲間(笑福亭鶴瓶、原田伸郎ら)と出会って、京都で8年間過ごしました。
旅館でアルバイトをしていて、あるとき、ビアガーデンで歌を歌う話があり30分で2000円貰えると云って(本当は3000円貰えるが)二人には1000円渡して、私は2000円もらったというようなことをしていたりしました。(冗談半分に)

そのうちTVにださせてもらってあっという間に人気者になって、あっという間に落ちてしまいました。
東京に移動して、ローンを組んで家を建てて生活していました。
今は山梨県川口湖に引っ越して、自然の中での遊び方を熟知していたので、自然を楽しむ学校「森と湖の楽園」を始めて今日に至りました。
いろんなところに行っていろんな人との出会いがあり、いろんな仕事も変わって行って、沢山の人生が出来たなあと思っています。
瀬戸内海の無人島に行って、愛媛県と山口県の県境のところ、みんなで購入して、自給自足で稲を作ったり、海水から塩をつくったり、自主自立の生活を始めて居ます。
無人島で不便さをあえて楽しんでもらって、日ごろの便利さに感謝出来ると云うものです。
ありが島(ありがとう)という島を作りました。
そこでキャンプすると、何にもないんで早く帰りたいと思う。
家に帰ってくると、電気が点く、電気がつくんだと云うことになる。(当たり前のことに感動)
実はありがたい生活をさせて貰っているんだなあと気付いて感謝して生活をするように
成ります。
当たり前と云う事が実は有り難いものである。
「婚活」の島を今年は作ろうと思っていて、おめで島(おめでとう)と云う名前にしようと思っています。

オートバイの競争の世界にも入って、14箇所骨折をしました。
レースで人と競うのが好きなのかも知れません。
全国規模の魚の釣りのトーナメントにも参加して、場を変える、世界を変えることで一匹の魚に震えるような喜びを感じる事が出来るんだなあとも思いました。
いまは自然界で自然をベースにした事をやっています。
ビジネス界は苦手です。
お金に対して手紙を書いて私のところに来て下さいということで新聞にも載ったりしたが、大分来るようになりましたが、じっとしてくれません。
自然の中で鍛え直すという、企業研修をやっています。
3本マッチを渡して火をおこすことをやってもらうが、今の若い人は火をおこせない。
企業研修にはそこそこハマりました。

一番良いのは好きな事をやっていてそのことで皆さんに感謝されて、皆さんからお金を頂ける、そういう暮らしをしているのが一番だと思います。
二番目は好きな事をしているが貧乏、三番目にはいやな事をやらされながら金持ちになる、四番目は嫌な事をやらされながら貧乏、これが一番多いと思う。
最後は一番目を目指して頑張ろうと思っています。
世の中は発展しているが、人間力と云うか、生命力はどんどん落ちていっているような気がします。
自分で修理する時代ではなくなってきてしまっている。
自分持っている色んな事を伝承する役割があるのではないかと思います。

お金持ちの別荘地でお金を守りに入った人は意外といらいらしたりしてクレームがいろいろ来ていると、ある管理人から聞きましたが、子供たちに竹細工、英語などを教えて居るおじいさんおばあさんがいるがその人たちからはクレームがないそうです。
渡そうと思った人と守ろうと思った人の違いではないか。
何人もの人との出会いをしたいと思っている。
清水クーコと結婚したが、離別してその後再婚して3人女の子が生まれました。
これからは自然にと思ったが、家族は一緒には来ないと云うことで、離婚と云うことになり、河口湖に行ったら3回目の結婚をして男の子が生まれました。
子供は9歳になりました。
楽ではない事だが楽しいことはしてきたと思います。
楽な事がいいと錯覚してしまうと、楽な方に流れてしまう。
楽の究極は寝たきり状態だが、感動の為にはあえてわざわざ寒いところ、不便な所に行って一日一日をベストで生きていきたいと思う、そうすると何処で死んでもOKです。
一番いい死に方は100%で生きてきて寿命が来たらパクンと死ぬ、だらだらと死なないそれを直角死と云います。





































2017年3月24日金曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・絶望名言 フランツ・カフカ

頭木弘樹(文学紹介者)       ・絶望名言 フランツ・カフカ
「僕は人生に必要な能力を何一つ備えて居らす、ただ人間的な弱みしかもっていない。
無能、あらゆる点でしかも完璧に。」
作家フランツ・カフカの言葉
病気、事故、災害、あるいは失恋、挫折、孤独、人生受け入れがたい現実に直面した時に
人は絶望します。

頭木さんは難病を発症し、13年間療養生活を送りました。
その経験から救いとなった言葉を「絶望名言」と名付けて、名言集を出版しました。
素晴らしい言葉は眩しすぎることもある。
失恋した時には失恋ソングの方がぴったりする。
辛い時には、絶望的な言葉の方が心にしみて救いになる時があるのではないかと思い、そういう言葉を絶望名言と云っています。

20歳のときに突然難病になり、医師から進学、就職も出来ず親に面倒見てもらうしかないといわれました。
完璧に無能な状態になってしまいました。
その時に読んだフランツ・カフカの言葉が凄く感動しました。
プラハの生まれで、「変身」が出版されたのが1915年、ちょうど100年前ぐらい。
今読んでも衝撃を与える、と云うのが凄い。
突然虫に変身してしまう、と云うもの。

「生きることは絶えずわき道にそれて行く事だ。
本当は何処へ向かうはずだったのか振り返って見る事さえ許されない。」
カフカの創作ノートに断片的に残っている。(37歳の頃のもの 40歳で亡くなる)
作家になりたかったが、サラリーマンだった。
3回婚約して3回婚約解消の頃のもの。

私(頭木)は本来生きるはずだった自分の人生の道からそれてしまってわき道を走るようになってしまった。
潰瘍性大腸炎でした。
人によって症状の幅があり、私の場合は重い方でした。
それまではほとんど病気をしたことがありませんでした。
カフカの言葉に出会って、わき道にそれるのが人生をいうことで救いになりました。

さだまさしさんの「第三病棟」
なんで自分だけが苦しむのか、夜中に眠れないでいると、子供の泣き声が聞こえてきて、平等でないことに悲しみ怒りを覚えて、平等だと思ってること自体が間違いで、人間それぞれ違っていて、元々平等ではない、違って当たり前だと、反省して「第三病棟」を聞くとその時のことを思い出します。
1970年代の後半の曲

レールから外れた途端はまだレールの続きを見て居る。

「僕には誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。
不安と僕は互いにしがみついて、夜通し転げまわっているのです。」
恋人へのカフカの手紙の中の言葉。
手紙も作品と云ってもいいぐらいのもの。
絶望した人が一番よく言葉にするのは、自分のほかは誰にもわからないと云うことだと思います。
同病あい憐れむと云うが、同じ病気でも症状、状況などが違うので共感しない。
災害にあっても状況がそれぞれ違っていて、同じように気持ちは一つにはなれない。
孤独が漏れなく付いてくる、それがすごくつらい。
絶望している人への接し方は難しい。
なかなか立ち直れない人に対しては、悲しい展開がある。
最初は励ましていた人がだんだんイライラしてきて、責め始めたりして、最後は見捨てるような展開に陥りやすい。

長い目で見てあげて立ちあがりをあせらない、当人も周りも。
深く沈んだらゆっくり上がる必要がある。
せかさずときどき連絡をとって、立ち直れそうになったらいつでも力を貸すようにそばにいてあげるのが一番いいと思います。
あわてず、あせらず、あきらめず。
焦るとさらに落ち込んでしまったりする。

医学の進歩のおかげで13年目で手術をして、外を出歩ける様にも成り普通に近い生活が送れるようになりました。
絶望名言を読むことで救いになりました。
カフカ、ドストエフスキーとか。

「将来に向かって歩くことは僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできる事は倒れたままでいることです。
将来に向かって歩く事は僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできる事は倒れたままでいることです。」
婚約者へのカフカの手紙。
カフカはこの頃不幸な出来事などなかった。
私自身倒れたままだったので共感しました。
日常生活自体が倒れるものである。

経験を踏まえてさらに成長される方もいますが、必ずしもそうはいかない。
得るものも大きいが、失うものも大きい、苦労は成長させるものもあるが人を駄目にしたり歪んでしまったりもする。
倒れたままで生きていく、半分倒れたままで生きていくこともありだと思います。
カフカは平穏な人生を送っていて、はた目からみれば、サラリーマンとして順調に出世して、恋人もいたし友達もいたが、日記などを見てみると、大変な絶望なわけです。
普通の人であっても倒れる人は倒れる、敏感な人は倒れてしまう。
絶望した時にカフカの言葉は、なにかあった人ではないからこそカフカの言葉は誰にでも共感できる。

































2017年3月23日木曜日

林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家)  ・人形に込める古都の美

林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家) ・人形に込める古都の美
林さんが作る桐塑人形は芯となる木彫り人形に桐のおがくずと糊を練った桐塑と云うものを肉付けして作るもので、華麗でふくよかな柔らかな表情を見せて居ます。
林さんは江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子、子供のころから古典文学、狂言、文楽、能、歌舞伎など様々物を見て、幅広く伝統芸能に興味を持ってきました。
京都の高校を卒業後、京人形師、十三世面庄・岡本庄三に人形の製作方法を、能面師の北沢如意にも学びました。
昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞、そして平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定されました。

基本的には仕事は起きてから始めて、寝るまでやっています。
やりだしたら何時間でも出来ます、飽きません。
壊してもう一度納得するところから又始めたりして、時間はいくらあっても足りません。
平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定され、それから14年になります。
若い時の方が対応できるけれども、老い期には老い期の花の美しさがある。
何時も最高のコンディションで歳を重ねることはできないけれども、若いころに見えない事があると信じて日々過ごしています。

桐塑人形
粘土状の物を木にあらかた彫ったものにつけていって形を整える。
桐の木のおがくずを精製して糊で練って、それをモデリングしてゆく。
基本的にはつけるが、つけたものを削る方がシャープな力が出てきます。
江戸時代から続いている処方。
そこに紙を張ったり、布を張ったりしますが、その間に胡粉(ごふん)(蛤の殻、牡蠣の殻などを精製したもの)を塗る作業があります。
にかわをといで合わす。
人形一体作るのには3カ月はかかります。
何を作るかが大変で、2年、3年、10年もかかる時があります。
能の老女が月の光のなかで佇んでいる物を作りたいと思ったのが、40年前で作り上げたのは3、4年前です。
頭の中で浮遊していて段々形になり、自分に近づいたときに作品の基にする、そういうイメージです。

デッサンはしない、頭の中で立体的に動きます。
次にどう進むかは作品が言ってくれます。
原形ができる頃に次に行っていいよと云ってくれます。
時間がないから次に行こうとこっちが思って進めると、必ず後で失敗します。
美しい形はお能、能の構えの形が基本になってます。
10代の終わりごろから能楽堂で一日中スケッチしていました。
立ち姿で一番美しいのは、静止して形のなかで僅かな所作で深い意味が出ると云う能の動きにあこがれていたので、段々そういう方向に偏っていったのではないかと思います。

稲荷大社の奉納で中学生の頃初めて能を見て、不思議なおもしろいものだと思い虜になりました。
観世流の凄い役者さんだった。
日本舞踊、歌舞伎もそうですが、美しい形で決まる時は演じている人間は無理な姿勢になっていて、でも美しい形を出す。
それを形にしたいと思いました。
構えて強い形で見えない月の光とか、花が散っているとか、雪が積もっているとか、そういうことを、見えない世界を抽象的な形で作り上げられたらいいなと思っていたことは確かです。

江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子でした。
御所と京都府庁との間に家などがあり、戦争の時に国の命令で、取り壊して強制疎開となり、蔵があろうが何処かへ行ってくださいということで商売が続けられなくなりました。
料理、部屋、床の間などの季節感を表すが、人形も季節感を表わす、そういった環境の中にいました。
季節感の変化が子供心に面白かった。
本は当時高価なものだったが、蔵の中の古い本などを一杯読んでいました。
その本の中の物を頭に描いたりしていました。
京都の町中なので、ごっちゃな歴史の中で暮らしていました。
最初は市村羽左衛門_(15代目)、2月堂で見ました。
その時の精一杯の美しさの世界を見ることが出来て、そして私の場合は年中お祭りでした。
高校で能楽部を作ろうと云うことになり、ハマりました。

高校卒業後、就職をしないでいまして、母方が京都で友禅の家だったので手伝ってほしいと云う事で、(挿し友禅)そこで仕事をするようになりました。
自分でイメージして色を塗る作業をしていましたが、後から考えると結果的にいい仕事をしていたと思いました。
仕事をしていて楽しかったです、文様、色、着物に対する知識が蓄えられました。
頭の中にある形を家に帰って夜中に人形を作っていました。
着物のブームが下火になってきて、人形の方に吸い込まれるような感じで、自然の流れで人形製作のほうに入って行きました。
能面を描くことが好きで描いていましたが、北沢如意先生が教えてくれるところがあるので行かないかと人形の同門の人から言われて、行ったらのめり込んでいきました。

能面師になったらとも言われた。
さまざまな演技に耐えられる顔、それが物凄く勉強になりました。
いろいろやって回り道をしているような感じだったが、一つの道に行く事の一つ一つだったと思う。
必要なもの全部がコツコツ頭の中に積み立てていったような気がします。
昭和39年代11回日本伝統工芸展に初出品、初入選だった。
改めて出品しだして、3回目に昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞。
平成14年、66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定。
認めていただいたことが嬉しかった。
京友禅の森口華弘先生が、「あんたなあ指定をうけたということは喜ぶ事と違う、あんたの持っている考えて居ることを次の時代へつなぎなさい、それは本当に難しい大変な事を預けられのだし、嬉しいとか有り難いとかいうてる場合ではない」といわれました。
すべてが今よりも、もっともっといいものであってほしいし、もっともっと形ではなく精神的に高いもの、写実ではなくて抽象的なもので何かが正確に相手に伝わるものがいいと思います。