2017年1月31日火曜日

2017年1月30日月曜日

2017年1月29日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
2016年はシェークスピア没後400年。(1564年生まれ、1616年亡くなる)
ゲーテ、プーシキン、トルストイ、ハイネ、の遺伝子など文学から育まれたクラシック音楽を皆さんと御一緒する機会を作りたいと思いました。
19世紀前半ドイツ、オーストリア、ウイーンとベルリンで活躍した作曲家にオットー・ニコライと言う人がいますが、ウイーンフィルを作った人です。
ウィンザーの陽気な女房たち」、シェークスピアの喜劇。
後にヴェルディーは「ファルスタッフ」というオペラを書いたが、シェークスピアの同名喜劇を原作とする「ウィンザーの陽気な女房たち」 オットー・ニコライ オペラにしたが、素晴らしい序曲があるんです。
カルロス・クライバーの十八番、1992年ウインフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートの録音。
*ニコライ作曲  歌劇 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲 ウインフィルハーモニー管弦楽団

シェークスピアはバッハよりも前の時代。(日本では安土桃山時代)
「ロミオとジュリエット」 フランスの作曲家 グノーのオペラ、ロミオとジュリエットからワルツ。
*「ロミオとジュリエット」から「ああ!私は夢に生きたい」 ソプラノ歌手 ディアナ・ダムラウ

*「ロミオとジュリエット」 モスクワ放送交響楽団 セルゲイ・プロコフィエフの作品

ウエスト・サイド物語 レナード・バーンスタイン
ロミオとジュリエットを20世紀前半のニューヨークの人種の対立として描いた。
1957年に発表のミュージカル、その後映画として世界に広がる。
*“Tonight”「トゥナイト」 映画「ウエスト・サイド物語」からホセ・カレーラスの歌

映画「ロミオとジュリエット」 ニーノ・ロータ
*映画「ロミオとジュリエット」からヘンリーマンシーニオーケストラの演奏。

*ヴェルディー 歌劇「ファルスタッフ」からフィナーレ ベルリンハーモニー管弦楽団







2017年1月28日土曜日

寺内タケシ(ギタリスト)      ・ギターは弾かなきゃ音が出ない

寺内タケシ(ギタリスト) ・ギターは弾かなきゃ音が出ないやりたいことをやろう!
寺内さんは昭和14年生まれ、5歳でギターを始め、1962年自身のバンドブルージーンズを結成されました。
運命、津軽じょんがら節などのヒット曲も多数お持ちです。
今年ブルージーンズは結成55周年を迎えます。
日本にとどまらず世界中のファンからエレキの神様といわれる寺内さん、今も2時間以上のステージをこなす現役です。
茨城大使や、茨城県政策アドバイザーを努めるなど、ふるさと茨城への熱い愛情を持ちです。

78歳になりました。
1939年土浦市生まれ、5歳でギターを始めて、電話のコイルを使ってエレキギターを発明、大学在学中からプロ活動を始めて1962年ブルージーンズを結成、今年結成55周年。
年間150ぐらいこなしています。
3月に県民ホールで3000人ぐらいの会場で行います。
2時間ぐらいのステージで疲れますが、疲れたのを気どられない様にしている。
一日に2升~2升5合とか大学1年の頃飲みましたが、これでは卒業もできないし、もっとエレキギターに情熱を注ぐのには駄目かと思い、すっぱりと18,9歳で辞めました。(?)
煙草も辞めました。
母が小唄の家元をしていました。
三味線の音色よりも6本のギターの方がかっこいいと思って、ギターを独学でやりました。
母のところには弟子が100~200人ときていました。
三味線を見ながら三味線を手本にギターに応用しました。
母からは座り方、お辞儀の仕方などを厳しく言われました。

戦争中に3台の電話を壊して自分のギターにつけてしまう、おやじが怒りましたが、やるなら最後までやれといわれました。
目の前が電信電話の公社があり、毎日コイルをくれと交渉にいきました。
メンテナンスでの麻袋にコイルが入っているのをくれました、1000個ぐらいです。
コイルを弦につけて行きました。
アンプがなくて、空襲警報のスピーカーが16本屋上にあり、夜に1本ずつつないで夜中に鳴らしたんですが、空襲警報と間違えてしまって、みんな防空壕に逃げて行きました。
高校ではマンドリンクラブをつくろうとしました。
みんなを集めて120~130人ぐらいになりました。
場所がなくて予科練の練兵所があり校庭から、父が建築会社をやっていたので、そこを買い取って、メンテナンスして余っている教室があり、練習をして、マンドリンのコンテストがあり日本で一位になりました。
勉強に関しては父から校長の家に預けられましたが、一番ビリでだめでした。
マンドリンの楽器も100人分ぐらい発注して、持てきてもらったんですが、楽器屋も父が建てた家なのでつけとければいいやと思ったので、多分代金は父が払ったと思います。

関東学院大学の電子工学部に入りました。
一生懸命やっているであろうということで、父が一軒家を建ててくれてばあやをつけてくれましたが、期末試験で最悪で1週間後に我が家に帰ってみたが更地で家がなかった。
立て札が立っていて勘当と書いてありました。
潮時だと思って、プロで食っていくと決めました。
昭和40年ベンチャーズが2度目の来日。
メンバーの子供が亡くなり帰ることになり、代演しますよと言って、メンバーの一人として何回か一緒にやりました。
エレキがブームになりTV、ラジオがエレキ一色でした。
楽器屋は作っても作っても品切れでした。
しかしエレキをやっているのは不良だというような風潮が出てきました。
学生がエレキギターのバンドができないということがあり、ハイスクールコンサートを始めました。
土浦の第三高等学校(母校)から始めました。

昔も今も高校生は10年、20年変わらない。
学校で教えるだけが能じゃない。
バンドができなければ一人で弾いていて、そのうちに増えてくる、僕の場合にはそれが100人以上になりました。
日本全国が終わり、いろんな国に行きましたが、日本人が当時行ったことはないソ連、ソチ、モスクワ、レニングラードに行きました。(会場は大きくて20万人ぐらい)
津軽じょんがら節、ロシアの民謡などをやりましたが、音楽に国境がないということが判りました。
言葉はできないのがいいと思った、身振り手振りでなんでも通じてしまう。
ブルージーンズが55周年になります。
日立の社長と話をして世界一のケーブルができました。
2001年ごろに大腸がんをしました。
心臓の手術もしました。
弾いていた曲を思い浮かべていると、心技体みたいなものが一体になった時、痛みは消えますね。
茨城県は魅力度は最下位ですが、そんなことに関係なく、一番いいところだからこの県は騒がない、こんないいところはない。
「ギターは弾かなきゃ音が出ないやりたいことをやろう!」 ハイスクールコンサートで毎回高校生に言っている。
今オファーが来て調整しているのが3年後です、ですから病気もできない、だから幸せです。
夢中になってこれで行こうと言った時の気分の良さを是非皆さん味わってください、いい人生を歩んでください。

参照
*寺内 タケシ(ギターリスト 73歳)   ・生涯現役サウンドの秘密(1)
 http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/06/73.html
*寺内 タケシ(ギターリスト 73歳)   ・生涯現役サウンドの秘密(2)
 http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/06/732.html





















2017年1月27日金曜日

江草啓介(ジャズピアニスト)    ・コンビニ・ミュージシャン

江草啓介(ジャズピアニスト)    ・コンビニ・ミュージシャン
本業はジャズピアニストですが、この50年スタジオミュージシャンを長く務めてきました。
伴奏を頼んだ歌手は、江草さんの演奏は人柄の良さが美しい音色にあらわれているので歌いやすいといいます。

コンビニエンス、ストアーは何でも揃っている、しかし車、家具、洋服等はないように、私のピアノも大きなホールでコンチェルトをやるとか、ジャズのマニアックなものをやるとかはなくて、ジャズ、シャンソン、タンゴ、ラテン、歌謡曲、歌の伴奏を一応無難にこなせるということで自らコンビニミュージシャンと呼んでいます。
ジャズをめざしていましたが。
中学2年生までは野球少年でした。(川上、千葉、青田などが好きでした)
健康診断で胸に影があるので過激な運動をしないようにと言われてしまいました。
ある時、兄から古いアコーディオンをもらって見よう見まねで弾いていました。(譜面が読めるようになる)
高校受験の時も音楽はトップだったそうで、音楽部に入るように言われました。
高校時代ピアノに触れることができていい楽器だなあと思い習い始めました。
登校する前に音楽室で弾いたり、放課後最後まで弾かせて貰ったりしました。
歌謡曲など、譜面さえあればなんでも弾けました。
ジャズも見よう見まねで弾きました。
中村八大さんが大好きで、ジャズピアニストになりたいと思いました。(昭和27,8年ぐらいから)
ジャズは学校でしかできませんでしたが、歌謡曲を含めて悪い音楽だと言われたりしました。

大学受験をしたが、浪人して、知り合いが松山のクラブでピアニストを探しているということで、毎日ピアノが弾けるということで喜んで行きました。
昼間はレコードを聴いて、ジャズのコピーをしたりして夜は演奏していました。
2年半やっていて、高松の民放の系列会社でトリオを結成してはとの話があり、結成することになりました。
藤家虹二 クラリネットの演奏者(日本の三大奏者)がピアノ奏者を探しているので行かないかといわれて、紹介されて東京に行くことになりました。(藤家虹二クインテット)
労音の全国ツアーとかがあり、そのコンサート、クラブ出演、NHK等にも出ました。
バンドを解散して渡辺貞夫さんがリーダーでバンドを組まして貰いました。(渡辺さんがバークリーに行く前)
渡辺さんからは「音楽というのはうまいのがいいんじゃないよ、いいのがいいんだよ」と言われて、歳をとってくるとその意味がだんだんわかるようになりました。
僕とやる時は最低2時間は練習してから来るようにと言われました。
バークリーから渡辺さんが戻って来てから家に教わりに行きました。

山本直純先生から呼んでいただいたときに、毎週レギュラーでやってほしいといわれて、それからフリーのミュージシャンの道を選びました。(28,9歳の時)
スタジオミュージシャンとして仕事をしましたが、非常に忙しかったです。
美空ひばりさんの「悲しい酒」とか、数万曲はやっていると思います。
西田 敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」あれは私が弾いています。
森山良子さんのリサイタルがあり、ピアノは前田 憲男さんで、サブのシンセサイザーをやらないかといわれてやりました。
そばで聞いてこれは物凄く勉強になりました。
前奏でも毎日違うが、歌いやすいように最後はコードを決めて、その間は自由なんです、素敵でした。
そのコンサートを地方でやるようになって前田先生は忙しいので先生からピアノをやらないかと言われました、それから30年になります。
その間、アレンジがいろいろありましたが、なんとかこなしていきました。
間違ったりしたことも数々ありましたが、その都度謝りました。

スタジオミュージシャンですからなんでも弾けないといけない。
継続は力なりと思います。
さとう宗幸さん、雪村いづみさん、島田祐子さん、菅原洋一さん、尾崎紀世彦さんなどともやってきました。
どういう気持ちで歌いたいのか、歌手の気持ちになって考えます。
時にはクラシックもあり、難しい曲は一生懸命勉強して演奏しました。
一番勉強になるのは下手なピアニストを聞くのは勉強になります、こんなふうに弾きたくないというピアニストはいっぱいいます。
美空ひばりさんは大体1回でOKで、その場で演奏を聴いて歌を歌いますので、一番緊張しました。
一般的には録音してカラオケなのが普通ですが、ひばりさんは同録でやります。
ほかの歌手はいませんでした。
ジャズはいまだにやっています、オファーがあればどこへも行きます。
N響のポップスコンサートにリズムセクションで入ることもあります。
佐藤 しのぶさんのオーケストラの指揮を前田先生から頼まれて、横浜のみなと未来ホールでオーケストラの指揮をしたこともあります。
作曲もしました、カラオケに10曲は入っています。
おしゃれな歌謡曲を作りたいと思っています。
主役になるとなにかと大変なので、いつもナンバー2でやりたいと思っていて、ナンバー2が好きですね。
皆さんが覚えてくれるような曲を1曲作りたいと思います。























2017年1月26日木曜日

大越 治(国立天文台広報普及員) ・日食ハンター世界をゆく

大越 治(国立天文台広報普及員) ・日食ハンター世界をゆく
64歳、日食は太陽と地球の間に入った月によって太陽が隠されて太陽が欠けて見えたり、まったく見え無くなる天文現象です。
太陽全体が隠れる「皆既」、月が太陽全体を隠しきれず、月の外側に太陽がはみ出して太陽が細いリング状に見える「金環」、太陽が一部隠される「部分」の三種類が有名です。
他に月の移動とともに日食が見える場所も移りますが、日食が見える地域のうち初めの方と終わりの方の地域では金環、それ以外の場所では皆既として見える「ハイブリッド日食」という日食もあります。
大越さんはこの日食にひかれて中学校の教師をしながら、世界各地に行き部分日食を除く日食を45回も観測をしています。
これまでに観測を訪れた国は、オーストラリア、パナマ、マダガスカル、アイスランド、キリバス等があり世界を股にかけて観測しています。
教員を退職した後は国立天文台で、天文についての相談や問い合わせに電話で答える天文台広報普及員をされている大越さんの日食に魅せられた人生について伺いますた。

行った国は同じ国で観測したことは数えるほどしかないので40カ国近くの国だと思います。
一人では行きません、荷物がたくさんあるので、一人では動きにくくて最低でも2人です。
妻も大学の天文の同じサークルだったので最初から日食に付き合ってくれています。
日食はその回その回で特徴があるので、これが一番というのは難しいです。
パプアニューギニアに新婚旅行で行きました。(そこでも日食を見ました)
1973年、大学の1年生の時に天文部の部室に行ったときに先輩たちがアフリカに皆既日食があるので、そこに出かけるという話をしていました。
先輩が戻ってきて日食の報告会があり、写真、8mmフィルムで上映したりして、見ているとおもしろいのかなあと感じました。
1年先輩が来年オーストラリアで日食があるので一緒にいかなかということで、1974年に西オーストラリアに出かけました。
日食が見られて、コロナプロミネンスが写真とか8mmで見たものと全く違っていて、もっといきいきして透明感があり美しかった。
その時から夢中になりました。
写真で見た日食と実際に自分で見たものがこれほど違うものかと思いました。

秋田で4歳の時に、父が家の外に連れ出してくれて、火星の大接近で、あそこに見えるのが火星だよと言ってくれてそれが天文に関する一番古い記憶です。(1956年 昭和31年)
多分次に大接近を見えるのは2050年です。
転勤で新潟に移って、アメリカでエコー1号という人工衛星を打ち上げて、直径が30mもある風船衛星で、父に教えてもらって見て、ますます星に興味を持つようになりました。
小学校5年生の時に東京に転勤になり、東京は全然星が見えなくて、中学1年の時に望遠鏡を買って、太陽黒点の観測がいいと本に書いてあって、太陽黒点を鉛筆でスケッチをとることを始めました。
それから17,8年は続けました。
それが日食につながっていると思います。
天文学者になりたいという夢はありましたが、高校では物理、数学が苦手で、天文学者は物理、数学に精通していなければいけないと書いてあって自分はだめかと思ってあきらめてしまいました。
大学は東京理科大の応用物理に進んで、物理の勉強をして、就職はどうするかという時に、いろいろ考えて学校の先生を選びました。
中学校の理科の教員になって、全般についての知識がないといけないので、生物、化学もやらなければいけなくて、勉強もしました。
忙しくて時間をつくるということは難しかった。
周りの先生からの協力を得ないと天文のことはできませんでした。
校長先生、教頭先生には本当にお世話になりました。

子供たちには理科の時間を利用したりして、必ず報告するようにしていました。
大人でも自分が好きなことをひとつ持っていると人生面白いよ、ということを伝えたいと思って話をしてきました。(自分の生き様)
アマチュアとして星が好きだということで今でも活動を続けている子はいます。
1977年日食情報センターを立ち上げる。
ボランティアで日食に関する情報を必要としているアマチュアに発信するのが役目です。
1977年ハワイの海でみられる日食があって、飛行機をチャーターしなくてはいけなくて、人を集めようとしたが集めることができなくて、情報発信の必要性を感じて、作ったのが日食情報センターです。
秦 茂先生、山口 正博先生を中心に8名でスタートしました。
年間100~200人が受け取ってくれて、どんどん増えていきました。
天気はどうしようもないことなので、過去の統計を調べたりしてなるべく晴れるところを選ぶというようなことをしたり、どのような準備ができるのかということを進めてきました。
日食が起きる場所は必ずしも交通がいいところではないので、安全に確実につけるのかなど、事前準備をすることが大変ですが楽しみでもあります。

ガボン アフリカの国 ハイブリッド日食がみられるが、どこで見られるのか確実ではなかった。
ハイブリッド日食のみられる範囲は非常に狭くて、ガボンの時には500mの幅の中に入らないと見られないと予想されていた。
ガボンの場合にはGPSのある時代ではなくて、地元の地図も正確ではなく皆既日食になる時間が1.7秒ぐらいの予想で、出かけました。
1984年アメリカのバージニアで金環日食に出かけたのが金環日食の最初でした。
金環になっている時間が8秒ぐらいでした。
行ったら天気が悪くなってしまって、30秒間だけ雲がかかって、雲がどいた時にはリングが見ることができず悔しくてガボンの日食につながるわけです。
ガボンの場合も天気が良くなくて、その前後10数秒間雲がどいてくれて見ることができて、印象深かったです。
観測報告書をできるだけ作るようにしています。
次に行く人の参考になるようにするため、細大漏らさず記録するようにしています。

当初と道具の様相が一変してしまって、今までできなかったことができるようになり、皆既日食のときに見られるコロナ、目で見るととっても綺麗だが写真に撮ると細かいところが皆潰れてしまって駄目だが、いまはコンピューターを使っていろいろな露出条件の写真を合成することができて目に近いコロナを画像処理が作れるようになりました。
日食情報センターでの活動目標は日食に興味を持つ人を増やすということだったが、日食値段という言葉があるぐらい高騰するのは困ったと少し思っています。
2月26日に南米で日食が見られます。
8月にもあります。
なるべく両方に行きたいと思っています。
2035年、日本で皆既日食が見られますので、見たいと思っています。(80歳は超えてしまうが)










2017年1月25日水曜日

2017年1月24日火曜日

小山やす子(書家)        ・美しき“かな”の世界

小山やす子(書家)        ・美しき“かな”の世界
92歳、去年10月文化功労者受賞されました。
書道の分野から女性として初の選出でした。
小山さんの書は特に雅なかなの世界を細やかに表現しています。
大正13年東京隅田区生まれ、子供のころから書道、お茶、お花、油絵など数々の習いごとをしてきました。
仏像、焼き物など美に触れる日々も大切にしてきました。
若い頃絵の才能を高く評価されていましたが、最後に選んだのが書でした。
平成14年毎日書道展で文部科学大臣賞、15年には毎日芸術賞、21年には毎日恩賜賞を受賞しています。
小山さんは今は筆の赴くまま書けばばいいという境地に立っているといいます。

稽古はひと月に2か所やります。(六本木で1回 自宅で4回)
空を見上げるのが好きで、功労賞をうけてせいせいして嬉しかったです。
平成 15年に旭日章綬章受賞、21年芸術院恩賜賞、25年に紺綬褒章受賞。
朝は6時に起きて、7時から8時過ぎまで寝て、昼間のお手伝いさんが来て食事をして、お稽古に行きます。
書こうと思った時は何時間でも書きます。
週に3回指導をしています。
何人いるか弟子は数えたことがないです。
厳しすぎると言われます、欠点が先に見えてしまいます。(自分のものを含めて)
展覧会の審査の時もすぐ判ってしまうので、つい直してごらん良くなるからとつい言ってしまいます。
現代の書新春展、解説の日には相当な人が集まりました。

かなの作品は繊細で雅。
かなは綺麗で優しくて、大好きです。
線を出すのが難しい、細い線がいいか太い線がいいかどうかはそのときにもより、歌の内容にもより、紙と筆にもよります。
1/3おろして書いてみると、墨の付け方にもよります。
実際に書いてみないと駄目です。
紙も今は柔らかいティッシュで拭きますが、昔は絹で拭いたんです、そうでないと墨も乗らないです。
墨も一度ではなくて、今の墨を使ったら古い墨で磨って重みを出します。
これも長くやらないとわからないです。
なるべく読めるように書きたいなあと思っています。
変体かなはあまり使わない方がいいと思っていますが、山の名前とかはその通り漢字で使わないといけない。
配置、細い線で行くか、太い線で行くか、考えると筆も変えます。
筆、紙、墨で紙と筆が大事だと思います。
新しい墨は使いません、切れが速い。(今の墨と昭和の初期の墨を使っています)
墨を買ったら寝かせなさいと言います。(3~4年)
紙の模様と入り方を考えて、文字の構成を考えることが一番楽しいです、3月も4月も掛かります。

家は元禄のころからここにありました。
戦争でうちが駄目になり、油絵などをやっていましたが、みんな無くなりました。
料理もうまかったです。
近くの駄菓子屋に行って食べて澄ましていて、お金を使うことは知らなかった。
女学校に行くのに切符を買うのを知らなくて、友達に買ってもらったことがあります。
絵が習いたいと思ってデッサンばっかりやりましたが、終戦になり辞めてしまって、その後書に向かいました。
お茶、お花、和裁、なども習いました。
20歳ごろ仏像にあこがれて、京都まで行きました、仏像をみるのが大好きでした。
焼き物も好きでしたが自分でやることはしませんでした。
李朝、魯山人とか、李朝が大好きでした。
絵の先生がいなくなってしまって、ぶらぶらしていたら書道をやるようになりました。
書道は女学校のころから好きでやっていました。

お茶をやっていたときに掛け軸が読めなくて、できないということは嫌いで、良寛のもので良寛の書も一生懸命勉強しました。
毎日書くのを止められなくなる程すきになりました。(その時には絵の道具が全部なくなっていましたし)
本も買ってきて、本物と見比べて勉強して、違いを見つけて、本物を見るようにしていきました。
(桑田三舟先生)
大きくすると筆使いとか、線の転折(筆の返し 力の入れ方等)がはっきりするわけです。
大きくしないとそういったことが判らない。
先生に付いた方がいいといわれて川口芝香先生に習いました。
かなだと線が細いので大きくしないといろんな部分が見えない。
歌の意味を頭に入れながら書かないといけない、有名なものはみんな拡大しました。
本物見ないと駄目ですよ、今の人はそれをしないから駄目ですよ。
自分で積極的に前に進む様にしないと駄目です。

気に入らないと作品を破いてしまいます。
作品によりますが10枚書くときと1枚で書き上げることもあるし、20枚書いて書けないときはやめて、寝てしまいます。
若いころはふらふらになるまで書いて寝に行きましたが。
今は楽しんでいます。
歌の意味をある程度汲んであげないといけないので、そういうことから考えて取りかかればいいなあと思います。
涙とか死ぬだとかということは書かないほうがいいと思います、明るく楽しい様なものを書くといいと思います。
本物を見なさいと言います。
みんなが個展をやるようになってそれは嬉しいことです。
教えることは、本を読まなくてはいけないし、勉強にもなります。
見て綺麗でいて何となく親しみやすい字を書きたいと思います。
つい飾りをつけてしまうが、飾りなどはいらない、何となくあげたいような気持だけ込めた字でいいんですから、「かな」って難しいと思います。
「あけぼののつき」を書くだけで20枚以上書きましたが、ずいぶん悩みました。
上に行こうか、下に行こうか5mmの差ですよ。
配置の問題はあります。(月はうえに 山は川より上にとか)















2017年1月23日月曜日

風見しんご(タレント)       ・悲しみと向き合うということ

風見しんご(タレント)       ・悲しみと向き合うということ
10年前の1月17日、風見さんは当時10歳だった娘えみるさんを交通事故で亡くされました。
娘への思いや、家族のこれまでの日々をつづった本を去年出版した風見さんに今伝えたい思いを伺いました。

自分が本を書かしていただいたのは2冊目で1冊目は9年前、娘が事故に遭いそのことつづった経験があるが、その後は考えていなかった。
10年たって、周りの方から、家族がどう過ごしていたかが興味があるといわれて書かせていただきました。
時間がたって振り返ってみると、一冊目は落ち込んでいた自分に対する叱咤激励するような部分と、娘のことが頭がいっぱいだったので、自分の娘はこの世に生きていたんですよという証を形にして残していたかったということが半分あったような気がする。
今回は読んでくださる人に対する文章で書いた本だというふうに思います。
次女は当時3歳だったので、次女に対する気持ちと長女に対する気持ちとが半分です。
この時期になると心の中を占めてくるのは不安ですね、一生わすれることのできないことが起きてしまった日なので、もう二度とないと思っているが、今年もその日を無事に越えられるのかと何か不安に思ってしまうことはあります。

その日の朝は全く普段とは変わらない日でした。
前日は塾に行っていて、娘を迎えて一緒に帰ったんですが、その日に限ってバスに乗って帰りたいと言いました。(娘とはバスだけは一緒に乗っていなかった)
横断歩道を娘の手をとって渡ったが、まさか翌日その横断歩道で娘が命を落とすなんて想像だにしなかった。
母親の作ったサンドイッチをほうばって、玄関から大きな声で「行ってきます」と言って出てゆきました。
家から100mぐらいのところを右に曲がって50mぐらいのところに昨夜の横断歩道があるが、曲がるところでおじいさんに大きく手を振ったようですが、それが最後になってしまいました。
娘が出て行ったあと、家で普通の朝を迎えましたが、近所の人が飛び込んできて、「えみるちゃん事故」と叫んでいました。
車に接触してどこか擦り剥いたのかなあとか最悪足の骨が折れたのかなあと想像していました。
現場に行ったが、角をまがった瞬間に、空気が異様だった。
娘の姿が見えないし泣き声も聞こえない。
トラックの下を覗き込んだが後輪の間から娘の足が見えて、こういうことかと、その時は覚えているのはトラックを持ち上げようとしました。
娘の為なら一人で持ち上げられると思ったが、ビクともしなかった。
体に力が入らなくて腰が抜けたのを覚えています。
引っ張り出そうとする妻の姿が見えていました。
みんなの力でトラックを持ち上げて娘を助け出しましたが、身体のすべてと言っていいぐらい体が壊れていました。
何も考えられない感じで妻と一緒に到着した救急車に乗り込んだのを覚えています。

葬式も挙げて、娘はいなくなったと判っているが、ひょっとしたら帰ってくるのではないかと本当に思っていました。
何年も娘の部屋はいじれなかったです。
玄関に置いて行ったブルーのバックも1年以上はそこに置いたままでした。(取りに来ないとは分かっていてもできなかった)
事故が起きてから1、2年の間は夫婦の救いは3歳の次女でした、生きてゆく力になった。
事故から1年と少したったころ、おめでたですと言われて、そのことも大きなきっかけとなりました。
妻も40歳を超えていて、高齢出産の領域なので、検査を受けて、遺伝子の方に障害がみられるという結果が出て、それは男の子で、子供をどうしようと思ったのが正直な気持ちでした。
妻はどうしようかとかは一切思わなかった。
長男とも向き合って、夫婦がいなくなった後も、障害というものを含めて二人がどうやって向き合って生きていけるか、親としてできる限りのことを考えようと日々が始まりました。

それまでは答えの出ない帰ってこない長女の事をずーっと考えていた。
気がつくと家族で長男、次女、将来のことを考えていた。
どうなってもいいやという思いがどうにかしなければに家族の空気がかわっていた、それが大きかった。
長男は9カ月になるすこし前に、生まれてくるまでの体に成長することがかなわなくて、妻のおなかの中で息を引き取ったといいますか、天国に帰って行きました。
長男と次女が与えてくれた時間というのは将来へ向けてのすごく大切な大きな時間になりました。
同じような心境のご家族とか、経験をされたとかの方からの励ましがあり、自分自身が救われたこともあるが、頑張っても越えられないものがある。
本当にくれぐれも頑張りすぎないで下さいと、返事する様にはしています。
乗り越えられないことはたくさんあって、乗り越えられなくても生きていきましょうということを励ましになってるのかどうかは分かりませんが、言っています。
どうやって10年間過ごしてきたのか聞かれますが、会えるという思いは以前とは違うが、いつかは必ず会えると思っていて、会えたときにお土産話はたくさんあった方がいいと思う。
大きな大事なものを失ったからこそ、最後まで生き抜きましょうと言うことですかね。
1月17日は阪神淡路大震災の日でもあるので、大切な命を失ったご家族から手紙をたくさんいただきました。
どれだけ励まされたのかと思った。
最後まで生きぬこうとしたのに旅立っていった人たちに対し、途中であきらめるのは一番失礼なんです、だから私たちは何があっても生き抜かなければいけないという思いです。(涙ながらに話す)























2017年1月21日土曜日

寮 美千子(作家・詩人)     ・心をほぐす詩の授業

寮 美千子(作家・詩人) ・心をほぐす詩の授業 ~奈良少年刑務所での取り組み~
61歳、10年前平成17年から去年9月まで、奈良少年刑務所の受刑者を対象に月一回の詩の授業を行い、受刑者たちの作品を2冊の詩集にまとめ出版しました。
授業に参加したのは皆と歩調を合わせるのが難しく極端に内気で自己表現が苦手な少年たちでした。
どんな授業が行われたのか、少年たちの反応はどうだったのか、詩を作ることにどんな効果があるのか、伺いました。

東京生まれ、コピーライターを経て、昭和60年に毎日童話新人賞を受賞し、作家活動に入り、平成17年『楽園の鳥――カルカッタ幻想曲』で泉鏡花文学賞を受賞、平成18年奈良市に移住。
地方都市に住みたいと思っていて古い歴史があって田舎くさい奈良あたりで静かに余生を過ごそうと思っていた。
明治41年に竣工した建物で明治5大監獄の一つとして建てられました。
ほかのところは改築とかほとんど残っていないとかしてますが、奈良の刑務所だけはずーっと残って当初の目的のまま使われてきました。
江戸末期開国して不平等条約を諸外国と結ばされてしまって、そのひとつが領事裁判権ということで外国人が悪いことをしても日本の司法でさばけなかった。

これを解消してほしいといったところができない、と言われて、碌な監獄もないといわれて、司法省の建築技官山下啓次郎を派遣して世界30数か所の監獄を見学して作ったのが、5大監獄だった。
奈良の監獄は大変立派でありながら威圧感がない、修道院のような感じで、心がなごむような場所です。
国の重要文化財に指定された。
取り壊しの話があったが「奈良少年刑務所を宝に思う会」をつくって会長にジャズピアニストの山下洋輔さんになっていただきました。(祖父が山下啓次郎)
17歳から25歳の人たちが入っています。
定員は696名ですが、9年前は740人入っていましたが、いまは定員より少なくなってきました。
3月で閉鎖になります。(耐震強度不足と少年犯罪自体が減ってきている)

明治の名建築があるということだが入れなくて、年に一度の公開日があるということで行ってみたら、建物も感動したが、受刑者の詩や俳句や水彩画を見てものすごくびっくりしました、とても繊細でした。
それまで抱いていた考えとはまったく違っていて、教官の方とお話をしたのがきっかけで授業をするようになりました。
2005年、6年に明治以来変わらなかった法律が変わって、教育をして更生をしてもらう教育機関としての価値が大きくなって、社会性寛容プログラムをすることになって講師してほしいとのことだった。
①絵の教室
②ソーシャルスキルトレーニング(人にものを頼む、断る、挨拶など)
③言葉を使った文学の教室
文学の教室を担当、月に1回、6回で終了、一回は1時間半。
受刑者は強盗、殺人、レイプ、放火、薬物違反者などと言われた。
心がこじれた人たちに少ない時間では効果が上がるとは思えなかった。
怖かったので夫と一緒に講師をしてきました。
みんなと歩調が合わない10人が対象者でした。
最初、衣装を着たりして絵本を読みます。
頑張ってやって拍手されたりすると段々やりたいという雰囲気になって、1時間半過ぎると雰囲気が全然違ってきます。
3回目から詩の授業をします。
彼らの作品を題材に教室をするようになりました。

心のつぶやきみたいなものでも何でもいいから書いてほしいと言って、書いてもらうようにしました。
それを2冊の本にまとめました。
「空が青いから白をえらんだのです」、「世界はもっと美しくなる」
そのなかから
「雲」(タイトル)
「空が青いから白をえらんだのです。」 1行だけの詩
薬物中毒の後遺症のある人で自分に自信がないので、いつも下を向いて早口でしゃべってしまう人でした。
みんなの耳にようやく聞こえるように読んだら、周り中から大拍手をして、急に普段はしゃべらない人が、話したいことがあるがいいですかと、話し始めた。
最初の一言が
「僕のお母さんは今年で7回忌です。
お母さんは体が弱かったが、お父さんはいつもお母さんを殴っていました。
僕は小さかったのでお母さんのことを守ってあげることができませんでした。
お母さんは亡くなる前に病院で僕にこう言ってくれました。
つらくなったら空を見てね、私はきっとそこにいるから。
僕はお母さんの事を思って気持になってこの詩を書いてみました。」
というんですよ。
空が青いから私はあなたによく見えるように白という色を選んで浮かんでいますよ、そういう意味だったんです。(胸がいっぱいになりました)

普段は感想など言わないのに、いきなり手を挙げて、「僕は○○君はこの詩を書いただけで親孝行やったと思います」と云うんです。
こんな子が殺人とか重い罪を犯すので、どうしてそんなことになっちゃったんだろうと思います。
「僕は○○君のお母さんはきっと雲みたいに真っ白で清らかな人だったんじゃないかと思います」
そんな想像力があるなら、犯罪をしたらどうなるか考えなかったのかと思うが、ぐっと抑えているとまた手を挙げて、「僕も、○○君のお母さんはきっと雲みたいにふわふわで柔らくて、優しい人だったんじゃないかと思います」
また手が挙がって、なかなか声が出なくて絞りだす様に声が出て
「僕はお母さんを知りません、でも僕はこの詩を読んで空を見上げたらおかあさんにあえるような気がします」といって、ワーッとなきだしてしまいました。
みんなが慰めてくれました。
ひとりが心の扉を開くと連鎖的にみんなの心のが開いて、優しい言葉が出てくる。
お母さんを知りませんといった子は自傷行為の子で何度も自殺未遂をした子でした。
その日からぴたりと自傷行為が止まりました。

「好きな色」
「僕の好きな色は青色です、次に好きな色は赤色です」 1行だけの詩
どう言ったらいいかわからなかったが、クラスの仲間から手が挙がり、「僕は○○君の好きな色が一つだけでなくて二つ、聞けて良かったです。」 と言ったんです。
同調する声が上がり、更に手が挙がり、何を言うのかなあと思ったら、「○○君は青と赤がほんまにすきなんやなあと思いました」と心をこめて言ってくれました。
詩を書いた子は表情も何も無くて誰の声も耳に入っていないような子で、みんなの感想を聞いて、どんな顔をするのかと思ったら初めて笑ったんです。
その日からみんなと話ができるようになったんです、ダイナミックに変わるんです。

ふんぞり返って偉そうにしていた子がいたが、話が出来ない声がでない感じの子でした。
「妻」
「面会で妻の小言に安堵する。 妻の小言に安堵する。 物言えずうなづくだけの15分
うなづくだけの15分」
この作品にはみんな共感したんです。
「小言を言ってくれるのはうれしいよなあ、まだ見離されていないような感じがするよな」というんです。
さっきまでふんぞり返っていたのが、きちんとちんまりと行儀よく座っているんですよ。
やっぱり人に受けとめてもらったと云う実感を持ったら、自分からひとは行儀よくなるんですね。
彼は偉そうにしていたのは鎧を身につけていたんです、彼は強い虐待を受けた子で、そのために言葉がよく出なかった、口を開けば叩かれる、怖くて声が出ないので、人に声をかけられないように俺様とやってたんです。
ちゃんと受けとめると思ったら鎧は必要なくなったんです。

「風」
「夏の毎朝の吹く風が気持ちい」(わざとこのような口語で言っていることを書いている)
この子はひどいチック症
この詩を発表して、「朝だけだよな気持ちいのは」と周りが言って、刑務所内は暖房も冷房もなく、夏はレンガが熱くなって夜になってもオーブンの中にいるようで、冬は底冷えがしてひび、あかぎれ、しもやけになる子がおおくいて、朝だけは気持ちがいいねと共感したら、自分でも信じられないようで、この子のチック症が止まったんです。
人ってこれっぽっちのことで癒されるんだなあと思ったし、逆にこれっぽっちの受けとめもしてもらえなかったんだとびっくりしました。

共感を得られなかった作品
「刑務j所はいいところだ」
「刑務j所はいいところだ。 屋根のあるところで眠れる。 3度3度ご飯が食べられる。 
お風呂にまで入れてもらえる。  刑務j所はなんていいところなんだろう。」
賛同者は一人もいなかった。
心配で顔を見たら満面の笑みをしている。
「みんなにいろいろ言ってもらって嬉しかったです」 といって、いろいろ言ってもらえることもなかったのかと思いました。
「いろんな感じ方、いろんな考え方があるんだなあと勉強になりました」というんです。
金子みすゞさんの「みんな違ってみんないい」と同じ様な事を彼が言うんです。
彼は育児放棄にあってご飯もコンビニの廃棄弁当をもらってきて自活して、学校にも行かせてもらえない、小学校も出ていない子で、その子が「いろんな感じ方、いろんな考え方があるんだなあと勉強になりました」と言えるんです。

最初、何かいいことを言ってあげないといけないと思っていたが、会を重ねる度にあまりなにも言わなくなった。
その詩の気持に寄り添う、共感するということを大切にして評価はしなくなりました。
受講生同士が語り合うみんなの心が開いてゆくという授業になっていきました。
詩の会になってしまいました。
人は人の中で育つんだなと、つくづく感じました。

最後の授業の詩
「出会い」
「良い出会いなんてあるわけないと思っていた。 すぐに離れてゆくと感じていた。
それならずーっと一人でいいと思い続けてきた。
でも今はすべて逆のことを感じている。  本当に人生を変えるいい出会いだと思う。
もうこれからはひとりじゃない。 こう思えたのはあなたたちがいてくれたから。
この出会いは僕の宝物です。 本当にありがとう。」
本当に泣けました、でもこれからが心配、みんながばらばらになり、もう会えないかもしれない。
「かれらは一度もきちんと受け止められたことのない子たちだが、ずーっと傷ついてきた子だが、でもここで一度でも人にきちんと受け止めてもらったという体験があれば、それはかれらの糧になり、きっといつかどこかで受け止めてくれる人がいると希望をもつ事が出来る。
ゼロが1になるというのはそれぐらい大きなことだ」と教官が言って下さいました。

「こんな僕」
「こんな未来を僕は望んだだろうか。 こんな未来を僕は想像もできなかった。 
こんな僕のどこを愛せるの。 なぜそんなに優しい目で見れるの。 大丈夫まだやり直せるよ。 
と言えるの。 こんな僕なのに。 こんな僕なのに有難う、お母さん。」
彼らは本当に傷付いてきた子で、加害者になる前の被害者であったような思いをしてきた人達がほとんどなんです。
心が癒されれば、優しさが出てくる。
このお母さんみたいな優しい気持ちで受け止めてくれたら、彼らはきっと更生できると思います。
よろしくお願いします。

まったく人を拒絶するような自閉的な感じの子がいました。
この子に「嬉しかったこと」を書いてきてほしいと言いました
「嬉しかったこと 僕が今までに一番うれしかったことは友達がいたことです」
ジーンと来てしまって、この子はこんなに人を拒絶しているみたいに見えるけど、本当は友達が欲しいんだ、こんな自閉的な子なのに友達でいてくれた誰かいたんだ、ありがとうと思いました。
このクラスを友達と思えて、友達にありがとうと言ったんですね。

詩の力も大きいと思います。
魂の言葉だと思います。
どんな言葉でもこれは詩だと思って書いて、これは詩だと思って受けとめてくれた瞬間にこの言葉は詩になり、その子の人生を変えるきっかけにすらなるんです。
私は反省しました、いい作品だけが価値があると思っていて、鼻もちならないエリート主義者でした。
言葉の力がこんなにあるとは思いませんでした。
今、言葉はあふれているが、それは消費される言葉で、魂の言葉とは別のレベルの言葉だと思います。
心を表現する言葉を吐き出し、それを受け止めてもらう様な機会をみんなが持てたらいいと思います。
この授業を彼らが刑務所に入る前に受けられたら、犯罪しなくて済んだのではないかという気がします。
困難を抱えている子たちにこの授業をしてみたい。
普通の人もみんな心に何かを抱えているはずで、仲間、友達を集めての詩の教室も開いていきたいと思っています。































2017年1月20日金曜日

大森和夫・弘子(国際交流研究所所長)・日本語普及は私の人生

大森和夫・弘子(国際交流研究所所長) ・日本語普及は私の人生
これまで28年間にわたって中国の日本語学習者向けに、日本語教材を発行し続け日本の理解に貢献してきました。
おととし、75歳になった事を節目にこれまでの活動に一応のピリオドを打ち、今度は世界の日本語学習者がだれでも無料で勉強できるデジタル日本語教材を作りそれの普及に取り組んでいます。
「日本という国」と名付けられたこの教材は日本の政治、経済、歴史、文学、日本人の生活など今の日本の姿を伝えるものでインターネット上に掲載されて、世界のどこからでも利用することができます。
この教材は大森さんの小さな部屋で作成され、全世界に向けて発信されています。
反響は大きく、アジア、ヨーロッパ、南米からもたくさんのメールが届いています。
*参照
 http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/10/blog-post_1.html
 http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/10/2_2.html


4畳半が発信地になっています。
インターネットで全世界に日本語教材が発信されている。
パソコン2台を夫婦で駆使して原稿を作って発信する繰り返しです。
国際交流研究所所長(夫)、編集長(妻)
いろんな国からメールが入ります。(日本語教材に対する感謝の言葉とか)
28年間に渡って主に中国に対して教材を作ってきました。
30年目に新聞社に勤めていたときに、各国の留学生を取材しましたが、中国からの留学生の一言が胸に刺さりました。
日本の事をもっともっと理解したいのにそれができないのが残念で、日本が嫌いになって帰国する友達や、日本に不満を持っている留学生が少なくないという話でした。
せっかく日本語を勉強して学んで頑張っているのに、それを実現できないまま帰国してしまうことは日本にとって大きな損失だと思って、何とかしたいと思いました。
日本のファンになってもらいたいと、会社を辞めて、日本語教材作りを始めました。

弘子:当時子供が3人いましたので、大変でしたが、私も協力したいと思いました。
3年のつもりでやり始めたのですが、30年近くになりました。
平成元年3月から始めました。
年4回発行してスタートしました。
イラストも私が書きました。
和夫:日本語で日本の国と日本人について判りやすく書いて日本を理解してもらうということは中国の留学生だけでなく、世界の留学生に読んでもらいたいと思って作って、その後状況が変わりましたが、創刊号は26ページぐらいですが、4万冊発行して、留学生の多い日本国内の大学、日本語学校など200か所に無料で送ったり、中国の大学など日本語学科にも無料で送りました。
おととしまでに31万冊以上、主に中国に寄贈しました。

和夫:世界中でどのくらいの人が勉強しているのかというと、おととしで137の国地域で369万人の若者が日本語を勉強しているという数字が出ている。(公式なものだけで)
外国の留学生がおととしで20万人を超えている。
400万人以上の人が現在日本語を勉強している。
大切な民間大使だと思っていて、日本を正しく理解してもらうことが重要だと思っています。
昨年9月に世界の日本語学習者が、いつでも、誰でも無料で勉強できるデジタル版の日本語教材をインターネットで公開しました。
調査していろんな所へデジタル版の教材の案内を送っているところです。

弘子:これまでの教材に加えて新しく日本の事を詳しくと思って、四字熟語、慣用句、早や口言葉などいろいろ加えて、増やしました。
和夫:日本の姿、国の形と仕組み、歴史、以前、伝統文化、日本語、文学、日本人の行動様式、和食、日本語のいろいろ、とこれだけは知ってもらいたいという内容を盛り込んでいて231ページになります。
世界各国からいろいろ反響があります。
初級者向けと上級者向け、上級者向けを電子書籍にしたもの、3つになります。
弘子:閲覧数が1万8000を超えていて、30カ国の80以上の大学の先生、学生から反響があります。
和夫:ルビをつけたり付けなかったり、そこの判断が難しいところがありました。
ルビの間違いの指摘なども頂きました。

和夫:日本語作文コンクールをやっています。
今まで留学生を対象に5回、中国の大学生を対象に16回やってきて、日本への理解が深まったという感想が来て、世界の日本語学習者を対象にやってみようと始めました。
「日本はどんな国だと思いますか?」というのがテーマです。
500~1000字以内で募集し始めました。
一部(大学生など)、二部(小学生~高校生、社会人など)に分けて募集しています。
弘子:文部科学省、国際交流基金、朝日新聞などに協力していただいています。
4月15日が締め切りになっています。
和夫:5月下旬には6人の先生に最終予選で順位を決めていただきます。
おととし75歳になり、中国との交流を終わって、77歳までには何かをしたいと思って、デジタル版の作成と日本語作文コンクールにたどり着きました。
喜寿のお祝いに優勝した国に行って表彰したいという夢があります。

和夫:作った教材が中国の大学で教材として使われていること、教材を使って勉強しているところなど目にするたびにやってよかったとしみじみ感じます。
第6回の中国での作文コンクールをやった時に、祖父が日本軍に殺されたので、もし私が日本語を勉強しなかったら一生日本を恨んで、日本を正しく理解しなかったかもしれない、という作文がありました、やり甲斐につながったと思います。
弘子:活動の幅を広げると人に迷惑をかけるのでマイペースを守るようにしました。
ボランティアではなくて日本語を勉強する学生さんと一緒に私たちも学びながら人生を豊かにしたいということが夢だったので、無理をしないでマイペースで続けてきたのがよかったと思います。
和夫:最初は退職金でやれる範囲でということでしたが、評判が良くて、私財を出したり、個人のカンパなどもあり続けることができました。
夫婦だけなので人件費はゼロなので、これが長く続けられた秘訣かもしれません。
弘子:反響も凄くて協力者も増えて、老後の資金も崩して、何とかなるでしょうということでここまで来ました。
和夫:次の世代に期待しなければいけないこともあり、誰でも活動できると思うので、若い世代は日本語で世界に目を向けてもらいたいと思います。
1年に一回は新しいデータを書き加えて更新しないといけないので、これから日本を正しく理解してもらうことは必要なので、日本語デジタル教材を引き受けてくれる若者、あるいはまったく新しい日本語デジタル教材を発信する若い世代が出てほしいと願っています。
















2017年1月19日木曜日

外間邦子(対馬丸記念館語り部)  ・姉たちの無念を伝える(H28/8/22 OA)

外間邦子(対馬丸記念館語り部)  ・姉たちの無念を伝える(H28/8/22 OA)
昭和19年8月22日、夜10時23分 学童集団疎開の子供たちを乗せて沖縄から本土に向かっていた対馬丸がアメリカの潜水艦に撃沈され、鹿児島県悪石島沖の871mの海底に沈没しました。
対馬丸撃沈事件を検証するため、遺族たちの希望で2004年8月22日、那覇市に対馬丸記念館が開館しました。
対馬丸記念館の語り部の外間邦子さん78歳の、二人のお姉さんが対馬丸に乗っていた為今も海底に眠っています。
両親もすでに亡くなった外間さんは当時小学校生だった二人の姉たちをはじめおよそ800人の無念さを知ってもらおうと、記念館開館時から語り部になった方です。

学童疎開は小学校3年生から6年生までなので私は5歳だったので、船には乗りませんでした。
私も一緒に行きたいと地団駄踏んで泣いたのを記憶しています。
憧れの大和(本土)にいけば汽車にも乗れる、桜も見られるということで、知らない友達とも一緒に勉強できると、説明を受けて疎開を決心したと思います。
サイパンが陥落して沖縄が戦場になると云うことで、戦う島にという計画が進められていた。
来年3月には戦争が終わっているということで、半年間の疎開ということで説明を受けていた。
私は両親と一緒に北部(ヤンバル)に疎開しました。
昭和19年8月22日、夜10時23分 対馬丸はアメリカの潜水艦ボーフィン号に魚雷3発を受けて撃沈されて、鹿児島県悪石島沖の10kmの沖合に沈みました。
那覇の港からずーっと潜航してつけていたということです。
対馬丸は建造30年の老朽船で一番船足が遅かったらしいです。
子供たちが約800人で大人も800人ぐらいの家族が乗っていました。(1661名)
名前が判明しているのが1480名ぐらいでした。

平成9年に船が871mの海底に沈んでいるのが発見されました。
船としては100年近くなので、ワイヤーをかけても壊れてしまうということで、船の引き上げも遺骨の収集もあきらめて記念館をつくって対馬丸の歴史を伝えていきたいということになりました。
10万人の疎開の計画があったので、県民に判ると疎開計画に支障がきたす、沖縄での戦いに対して支障があるということで、かん口令がしかれて、対馬丸に乗ったことも、沈んだことも生き残ったことも一切話してはいけないということで、対馬丸を話せなかった。
いまだに聞かないでくれという人が何人もいましたが、記念館ができてそれから徐々に語りだします。
5名ほどですが、わずかな方が語り部として、現在います。
「訓導」といわれ、先生方が子供たちの疎開を勧め、自分が助かって、その辛さもあり戦後教職を退いています。
記念館の裏に対馬丸の亡くなった方の犠牲者を祀った塔がありまして、そこへ学童と一般の方の刻銘がしてあります。
記念館は対馬丸の形に似せてあり、屋上が甲板のようになっています。
撃沈されてから60年目に記念館ができました。
シンボル展示としてランドセルを展示しています。
3隻の疎開船のうち、ほかの船に荷物が積んであったので、ランドセルがのこっていました。
写真が多いのは声なき声を聞いてほしいという思いです。
魂をこちらに来てもらって無くなった未来を、今の子供たちと一緒に平和作りをすることで、対馬丸の子供たちの未来が取り戻せるのではないかという思いもあり、記念館をつくりました。

6月は平和月間なのでひと月平和の学習があり、語り部として出かけて学校に行って子供達に対馬丸の子供たちのメッセージを届けることにしています。
いろいろ感想文をいただいたりしています。
平和は思っているだけでは来ない、今の私にできることを私はやりたい、今自分はどういうふうに生きたらいいかというような、これからの未来作りに自分はどう向き合っていくかとかの思いを書いています。
対馬丸の子供たちの無念さを今の子供たちに伝えて、平和の心を育てる、対馬丸の子供たちの役割と思って毎年 語り部として6月に学校訪問したりしています。
姉たちの気持ちになった時に、絶対に子供たちの運命を奪うような戦争があってはいけない、だから二度とそういう風な思いを子供たちに味あわせたくないと思って、姉たちからしっかりやれと言われているような気がします。
記念館に私は育てられたのかなあと思います。
ここで展示に関わって学んでいくうちに伝えていかなければいけないと思うようになって、お見えになる方と語り合う、学校を訪ねてゆくというように段階を踏んで関わってきました。
2年前両陛下が来られて、同じ時代とのことで、15名の、生存者、遺族の方々と親しくお話し下さいました。
私には展示館の事を聞かれるかと思ったら、両親のことを聞かれました。(どんなに心を痛めたかという内容など)

戦争の悲惨さをよりもっと感じてほしい。(対馬丸の被害者 0~15歳までが1016名)
1016名の子供たちの声を伝えなければということで年齢を刻みました。
森羅万象、生きとし生けるものすべて、自然を含めてのすべてのことを伝えていきたいという思いが一番ありました。
今の時代はラインだったりスマホだったり、顔の見えないコミュニケーションが多いが、否定はしないが、でも隣に座っている子供たちに関心を持って労りだったりいろんな関わりを持って行き、それが対馬丸の子供たちが一番やりたかったことではないかと、今に生きる心根、今の日常からどういう風に平和とかかわるか、平和を日常的なことから気づかせてゆくというか、子供たちに平和のありがたさを伝えていきたい。
記念館を通して子供たちとのつながりを続けていきたい。














2017年1月18日水曜日

岡村幸宣(美術館学芸員)    ・小さな美術館発 平和への願い(H28/8/7 放送)

岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) ・小さな美術館発 平和への願い(H28/8/7 放送)
原爆の図は広島県出身の画家、丸木位里さんとその妻丸木俊さんご夫妻が原爆投下直後の被爆者の姿を描いた作品です。
丸木夫妻は原爆投下を知って広島に駆けつけ救護活動にあたりました。
そしてそこで目にした光景を32年の時をかけ15の作品に仕上げたのが原爆の図です。
作品を飾る場所として埼玉県東松山市に原爆の図丸木美術館を創設しまして、夫位里さん94歳と妻俊さん87歳で生涯を終えました。
ご夫妻亡き後バトンを渡されたのが当時26歳だった岡村さんです。
大学で近現代美術を学んでいた岡村さんは原爆の図から発信される力強い平和へのメッセージに共感し、16年間小さな美術館を守り続けています。
 
来年で開館50年になりますが、丸木夫妻は晩年ズーッと美術館の隣で暮らしながら絵を描いて、美術館に来た人たちとも気さくに話をされていました。
最初のころはお客さんは多くなくて、丸木夫妻の知り合いとか、戦争体験者などがきていましたが、70~80年代にかけて、全国的に修学旅行が広島長崎に行くのが増えて、被爆体験者の話を聞いて、その前段階として丸木美術館に来て原爆の図を見るというお客さんが増えて来ましたが、近年減っていって、いままた違った流れが出てきて、2011・3・11の東日本大震災で多くの方が亡くなって、原発事故などのことで、原爆の図を見ようとする機会が増えてきました。
等身大の人間の大きさで横は7mを超えて、実体験と重なってくるようなリアリティーがあったと思うし、今の若い方が見てもとても新鮮で、絵としてとても凄いと思う人もいろいろ感想を聞きます。
丸木夫妻も最初は広島に建てたいという構想があったようですが、探していたときにたまたま東松山市の土地を紹介されて、川の風景も気に入って山々も見えて、広島の太田川の流れと中国山脈の山々に似ていて、東京から引っ越してきました。
ここに美術館を建てようと思ったそうです。
川は灯篭流しもできて、川のほとりに美術館を建てたことは大成功だったと思います。

見た後の受け止めたものは圧倒されるものがあると思います。
1作目「幽霊」
被爆したまだ生きている人たちで、幽霊というタイトルでドキッとする。
丸木夫妻の原爆の絵にはきのこ雲、原爆ドームは描いていなくて、背景は余白で真っ白で人間だけを描いている。
絵の前に必ず文章が添えられている。
絵と言葉両方で見てもらいたい、そして広島の想像力を広めてもらいたいという思いが強くあったと思う。
「それは幽霊の行列、一瞬にして着物は燃え落ち、手や顔や胸は膨れて、紫色の水膨れはやがて破れて皮膚はぼろのように垂れ下がった。
手を半ばあげてそれは幽霊の行列、破れた皮を曳きながら力尽きて人々は倒れ、重なり合って呻き死んでいったのでありました。」
一瞬にして原爆は死の扉が開くので、生と死の中間にいる、幽霊のような立場に立たされてしまった、しかし生きている人たち、絵と言葉で鋭くあらわしているように思います。
たった一人きれいな顔で眠る赤ちゃんが描かれているが、丸木夫妻は思い、希望を込めたいという思いを絵の中に描きこんでいる。

「赤ん坊がたった一人で美しい肌のあどけない顔で眠っていました。
母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。
せめてこの赤ん坊だけでもむっくり起きて生きていってほしいのです。」(未来が描いてある)
1950年に絵描いた。
米ソ大国が核実験の競争を始める時期で、朝鮮戦争もはじまり、また第3の原爆が使われるかもしれないという危機意識がある中でこの絵を描いています。(過去と未来を描いている。)
現在も未来の中にも含まれているし、今後の未来も描いている。

90年代半ば、現代美術を勉強しているときに、真逆のことを考えて実習でお世話になりました。
いきなり筍堀りを依頼されました。
その時に霧の向こうからおばあちゃんが歩いてきたがそれが、丸木俊さんだった。
挨拶して言葉を交わして去っていった、日本昔話の世界かと思いました。
展示会などもあるが誰がボランティアで誰がお客さんかわからないような壁のない筒抜けの場所で不思議だと思って、ボランティアで通うようになったのが丸木美術館との出会いで、原爆の図
を見る機会がありました。
絵は体験なんだということを原爆の図でなにか教えてもらったような気がしました。
いままで体験したことのないそれを体験する、突きつけられる、この先君は何をするのか、そういう機会だったのかと思います。

一旦常勤で働かないかと言われたが、その時は断りました。
ヨーロッパの美術館を色いろ見て回ったが、平和とか、その原点はその生活の足元にあるのではないかと思いました。
丸木美術館は大事な絵があって、守りたくて、いろいろ問題を抱えながらも曲がりなりにも時代を超えて受けつがれてきて守ってきた事はすごい大事なことではないかとわかってきた様な気がしました。
自分から働きたいということを言いました。
いろんな人たちが作品を見て、今の時代と重ね合わせて、自分がどう生きるのか、これからどういう世界を作ってゆくのか考え続けるという意味で刺激的な場所だとわかってきました。
人の痛みを想像することは難しいが、本当の意味で理解することは不可能だが、丸木夫妻はその痛みに近づこうとした。
原爆のことを考え続けてきた二人の生き方は、いま生きている我々の世代にとってもすごく重要なヒントになるのではないかと思う。

原爆の図がアメリカにわたって6月ワシントン、9月、10月がボストン、11月、12月がニューヨークと展示され1万人以上の人に見てもらいました。
1970年丸木夫妻が持って行ったが酷評されたとのことです。(見てる立場が違うので判る部分もあります)
アメリカの世代が若くなるほど、原爆が正しかったということは低くなってきている。
すんなり受け入れてしまうことにも物足りなさを感じました。(そんなに簡単に分かってもらっていいのかな)
お年寄りの退役軍人(94歳)が1日目には騒いで興奮していたが、2日目にもう一度来て静かに見ていた。
複雑な戦争の状況などに対する、葛藤、混乱とかを日本もアメリカも一緒に共有したいと思った。
学校である意味強制的に来ることがあるが、興味のない子供たちにも見てもらいたい。
ある先生が言ったことですが、原爆の図を見て笑った子がいたが、何故かを後で聞いてみて、自分の感情をどうしていいか判らなくて、その場を笑ってごまかすしかなかったと生徒は言った、ということだった。(それだけの衝撃があったんだと、先生は感じたそうです)

もう二度と未来の人におなじ体験をしてもらいたくないから丸木夫妻を描いた。
地球上の戦争、暴力にさらされる人たちの痛み、苦しみをどこかで食い止める力になる、あの絵はそれを見えないところで食い止めてきていると思う。
一番は、原爆の図をいつでもここに来れば見られるという原点をしっかり守っていきたい。
誰もが二度と体験したくない原爆ですが、原爆がどういうものかを伝えて行くか、必要な私たちの体験の場をここに残してゆくことが大切な役割だと思います。















2017年1月17日火曜日

松場登美(衣料雑貨メーカー社長) ・“里山の暮らし”が町を変える

松場登美(衣料雑貨メーカー社長)  ・“里山の暮らし”が町を変える
67歳、大森町には 10年前ユネスコの世界文化遺産に登録された石見銀山があります。
大森町には江戸時代の鉱山の最盛期には20万人が暮らしていましたが、今では400人余りに減っています。
結婚後、この街に移り住んだ松場さんは里山の暮らしの素晴らしさを活かせないかと考え端切れのパッチワークから始めた商売は今や東京、新宿など全国30か所余りに直営店をもつ人気ブランドに成長しました。
年商20億円、この会社に働きたいと県外から移住して来る若者も増えています。
人気ブランドに成長した原点となる、里山の暮らしとはどのようなものなのか、伺いました。

27年前、古民家を再生して店を始めました。(本店 古民家再生第1号)
江戸末期の建物です。(庄屋さんの家)
この街の景観を壊さない様な建物にしたかった。
土足では上がらないような形にしました。
石見焼にとっても心を魅かれて、器が呼吸するらしくて、漬け物を漬けたりとか、小鉢とかいろいろなものに使えます。
私は三重県出身です。
結婚して、この街に37年前に来ました。
若者も外に出てゆく時代で、若い夫婦が来ると言うことは珍しかったです。
自然が有り、歴史が有り、確かなコミュニティーのつながりがしっかりある、この3つが魅力でした。
子育てをしながら、端切れでパッチワークを作って、ワゴン1台を借りて行商して歩くことからの始まりでした。

大きな転機になったのは東京の大きな見本市に出す機会が有って、出展したのが転機だったと思います。
年商20億円、30店舗に成長、消費動向が変化し始めているのだと思いました。
どういう地域でどういう人がどういう思いで、デザイン、生産しているとか、ものの生まれてくるプロセスに興味をもって商品を買い求める人が増えてきたし、この傾向はますます強くなっていくと思います。
ここは余分な情報は入ってこないので、その分自分達が必要な情報とかクリアな情報が入ってくるのは幸せかと思います。
ファッション、いまや国内の総合衣料の97%は海外生産といわれる。
安価な価格で出来ると言う事で一杯出回っているが、環境にいいのか、負荷をかけるのではないかという危惧を持っています。
わが社は国内素材で国内縫製をしていて流行を追わない、その分長く着てもらえて喜んでもらっています。

古い家屋の持つ魅力、風が抜ける気持の良さ、国の重要的建造物の保存地区に指定されて30年近くになりますが、近代的な建物が無く、ここで暮らしていると、何が必要で何が不必要なのかという事がおのずと日々感じるようになります。
コンビニが無くても不便を感じません。
この街が持っている役割は重要だと感じています。
ホッとするとか、優しいねと言ってくれます。(子供たちが皆挨拶してくれます)
観光客も乗り合いのバスで来るような方法にして、最初は危惧する人もいたが、そんなことはなくて駐車場もなくこの街の品格があると思っています。
人口が少ないとかマイナスでとらえてきますが、今のこの街の人口(400人あまり)でも十分街としての機能は果たしていると思います。
外国の方もこの街に住みたいと言って、長期バカンスをしている方もいます。
500人ぐらいがいいと思っています。

定住希望地、1位山梨、2位長野、3位島根とのことです。(東京圏ではないのに選ばれている)
世界遺産登録されて、10年経ってやっと落ち着いてきて、ゆったりとした時間を観光していただける。
生地を東京で選ぶ目線と、ここで選ぶものとはちょっと違うんですね。
人間は環境に左右される生き物なので、少なからず影響が有ると思います。
便利さ、効率だけを求めない生活をやって無いと、思いが出てこない、自然とお客さまに見えてしまうので大事にしたい。
本当の里山は家畜が一緒にいる所だと思います、自然界と人間がうまくバランスを取っていた空間が里山だと思います。
持続可能な取り組みをして来たことが、評価された。
石見銀山、鉱山遺跡と自然との共生、文化的景観が入って、世界遺産になったのはとっても誇りに思っています。

今の若い人の意識は本当に素晴らしいと思っていて、若者は常にその時代に欠如したものを求めると、ある若者がいったんですが、欠如したものを求めてこの地に来たのだと思います。
ここに来た時にいろいろ周りから声をかけてくれて、或る若者はこの街に暮らしたいと言っていて、
彼がこの街に住んで日々どんな暮らしをしているかという記事を書いていて大好評です。
従業員は約150名、ここ本社が約50名です。
若い人は大森の街に住みたいと言う事で、町内会にも入って葬式とかいろいろな行事に参加しています。(20名ぐらい)
自分達の理想とする事業の経営と、自分達の理想とする人生の生き方をやってきた結果として街に貢献していたとすれば、とっても嬉しいことで、結果論しかないです、街に活力が生まれたとかは、街作りにつながったことは光栄だと思います。
昔は小学校の入学生がいないとかあったが、若者が増えてきて、この1年間で7人の赤ちゃんが生まれて、奇跡です。

小学校と幼稚園が一緒に発表会をするが、普通その家族しか見に来ないが、この街は自分の子供とか孫が出なくても見に来てくださる方がいっぱいいます。
子供の名前もみんな判りますし、犬さえも判ります。
あと5年ぐらいの間に次世代への継承を考えています。
この街だけに拘らず、日本の生活文化を守り、伝統的なものを守り、世界に向けて誇りをもって暮らしていける街になればいいと思います。
「人は人生の岐路に立った時に人の言葉よりも、いつか見た風景に励まされることが有る」といった詩人がいますが、そういう風景を次世代の人達に残していってやりたいと思います。



















2017年1月16日月曜日

緑川賢司(コマ大戦協会理事長)   ・町工場をつなぐ“コマ大戦”

緑川賢司(NPO全日本製造業コマ大戦協会理事長) ・町工場をつなぐ“コマ大戦
49歳、横浜の町工場で 20歳から働き始め、今は木型製作会社を経営しています。
これまで30年近く沢山の町工場とかかわって来て、日本のもの作り集団と呼ばれる中小企業の衰退してゆく姿を目の当たりにして心を痛めていました。
町の工場が潰れるとその技術も無くなってしまう。
これを何とかしたいと思いついたのが、昔よく遊んだ喧嘩コマ、最先端の技術を駆使して自分のコマを作り戦い合う、そして日本一を決定するコマ大戦です。
第一回大会を2012年に開催して以来、参加者が増え5年間で全国から2000の町工場が参加するまでになりました。

コマ大戦協会理事長と横浜に有る中小企業の社長、二つの顔。
木型製作は材料は木ですが、天然ではなく人工木材で、船、車などの(模型)木型を作っています。
今、10名働いています、会社は15年目になります。
リストラにあって、殆どの町工場は再建が不可能に近くて、技術が途絶えてしまう事が非常にもったいないと思って、業界全体をもりあげる方法は何かないかと思って考えていましたが、たまたま取り上げたのがコマ大戦という取り組みでした。
或る企業が飛行機の部品の展示会(フランス)に出品すると言う事で、ピ-アールするために小さな駒をつくって、来場者にプレゼントしていて、話題になった。
こういったコマならば日本のどんな工場でも作れるだろうという事で、閃いてフェイスブックに投稿したら、10人ぐらいがすぐに手を上げてくれて、これはイベントになると言う事で第一回を開催する運びとなりました。(2012年2月)

21チームが参加することになり、そこにNHK、新聞社などが目を向けてくれました。
コマを作る所から取材していただいて、本戦も取材していただきニュースとして流して頂き、反響がすごかったです。
駒は小指の爪位の大きさです。
心技隊というチームが有り、ルールをどうするか、どう言ったイベントにするかを投げかけました。
大きさは2cm以内の大きさ、2回続けて勝たないと勝ち抜けをさせないようにしようと言う事にしました。
指で回す、土俵が25cmの円形ですり鉢状になっています。
先に止まるか、土俵から出されたら負けです。
重量は制限が有りません。
トーナメント方式で、負けたら没収され、優勝者がその日のコマを総取りする仕組みです。
パシフィコ横浜で4つのブースを借りて行いました。(そのうちの2ブースでコマ大戦をしました)
最初は3チームが一緒に投げ入れると言う事を行いました。(今はやっていませんが)
その後トーナメント方式にしました。
最初の年はフランスの飛行機の部品の展示会に出展したチームが優勝しました。
大会は大成功でした。
2013年2月、第二回大会が行われました。

少年時代はガンダムがはやっていて、模型を作ることを経験していたので、木型を作る会社に就職しました。
会社が閉鎖してしまい、リストラに遭いました。
横の連携もなくても、営業マンがいなくても喰えた時代もありましたが、仕事量が少なくなっていって閉鎖に至りました。
或る企業経営者に相談しに行ったら、うちに来ないかといわれ50万円出してもいいと言われた。
もし君を雇ったとしたら若い芽を潰すかもしれないといわれて、もし会社を起こしたとしたら、同じように地域のリーダーと同じ土俵に上がれて、同じように活躍できる、という風に或る種勝手に勘違いして受け取って、賭けてみようと会社を作りました。(2002年に3人で会社を起こす)
営業の方法も判らず、ホームページを活用しました。
2008年にはリーマンショックがありましたが、その時は影響はあまりありませんでしたが、大震災では注文は減りました。

情報発信収集と連携、連帯の意識を持っていたので、売り上げが落ち込まなかった理由だと思います。
品質をより良くという面は持っていました。
最初3社あった取引先が1年後には31社になり、10年後には3000社になりました。
製造業全体でも何かできないかなっと思ってやったのがコマ大戦に繋がっていきました。
会社が無くなって技術がゼロになると言うことは、日本に取ってどれだけダメージが有るのか、付加価値を付けて売ることで経済が回っていたが、付加価値を付けて売る製造業が無くなってしまうのは国力の低下だと思って、町工場の技術を残すための土壌をどうつくるのか我々も考えているが、行政も考えて頂きたい。
第二回目は予選を行うほど、参加チーム(200チーム)が増えて、日本を7ブロックに分けて予選を行いました。
町工場で職人同士が繋がることはなかったが、コマ大戦をすることによって、横の繋がりが出来てきたと思います。
私の会社は木型屋なので土俵を作らせて貰う事にしました。

2013年から2年おいて、世界コマ大戦を目指そうとしました。
第二回コマ大戦が終わった後に、準備を進め始めました。
コマの形は同じものは一つもありません。
軽いコマは相手の廻転をもらい続けることができます、その時は左でまわして相手の廻転をもらってやるので意外と強いです。
バネで出来たコマもあります。
NPO法人になって頂き年会費をいただき協会の運営費にしたり、大会のスポンサーとしてサポートしていただいたりして運営しています。
今は会員は40~50位です。
ボランティアで全て今までやってきましたが、NPO法人になって助成金なども頂きやすくなったので、出張した旅費を出そうとかと思っています。
2015年2月に世界大会を行いました。
タイ、ベトナム、インドネシア、韓国、アメリカ、ボリビアからも来ました。
ボリビアは補助金等が無いために、来られないとの事で、日本のある女性が募金を集めて、渡航費60万円(2人分)を集めて二人を呼ぶ事になりました。

コマ大戦をすることによって人の出会いが生まれて、仕事が生まれる、仕事の融通、コマの販売とか把握しきれないぐらいの量が仕事として生まれています。
年齢層が広がって、コマを作るところから老人ホームに伺ったりしています。
子供コマ大戦、戦って負けると泣いてしまう子などもいて、親は良い体験をさせてもらったと喜んで貰っています。
高校生コマ大戦、去年11月に4年目になり、35校111チームが来て、数年したらコマ甲子園になるのかなあと期待しています。
工業高校生が強くて負けない様なレベルになっています。
2017年4月 3回目の日本全国大会が有ります。(予選は終了している 16チームが本戦に出場)














2017年1月14日土曜日

厚坊浩史(臨床心理士)     ・心のしなやかさを大切に生きよう

厚坊浩史(阪神・淡路大震災でいとこを亡くした臨床心理士) ・心のしなやかさを大切に生きよう
38歳、1995年1月17日早朝、マグニチュード7.3の直下型地震が兵庫県南部で発生し、神戸市、阪神間の都市部、淡路島の一部では震度7の揺れを観測し,6400人を越える方が亡くなり、10万棟を越える建物が全壊するなど大きな被害が発生しました。
阪神・淡路大震災から間もなく22年になります。
震災当時高校生だった厚坊さんは自宅が全壊、家族は無事だったものの、たまたま泊りにきていた従姉を亡くしました。
自分が死なせてしまったのではないかと言う自責の念にかられた厚坊さんでしたが、ボランティア活動などに携わるうちに、人の心に寄り添う仕事がしたいと言う気持ちが芽ばえました。
大学に入り直して心理学を学び、臨床心理士になりました。
この22年の想いを伺いました。

今このあたりは新しい家が随分建っていますが、木造の文化住宅が建っていましたが、みんなぺしゃんこになってしまっていました。
3階建て(地下1階)の公民館があり、当時ここが大切な場所になっていました。
愛着のある場所で、皆さんほとんど避難のためここに集まってきました。
「復興拠点の地」と書かれたモニュメント 4~5年前に建立された。
ボランティアに御尽力いただいたので感謝の意味を込めて、建立されたと思います。
2軒隣りが私の家になっています。
まだまだいろんな反応を皆さん抱えていらしゃると思います。
当時高校1年生でした。
野球部に入ってピッチャーをしていました。
地震発生の時に従姉(母親の姉の娘)が泊りにきていました。
夏は親の実家の山口県に家族が毎年行って遊びました。
従姉は大学生で19歳で社会福祉の勉強をしていました。
冬休みの時間を作って神戸に来てくれました。
16日の夜はみんなでご飯を食べてワイワイしていました。
翌日には帰ると言う事で親に楽しかった出来事などを楽しそうに電話で話していました。

早朝5時46分に地震が発生して、物凄く横に烈しく揺れていて、次の瞬間天井が目の前に有るという光景まで、記憶が飛んでいて、何が起きたのか判らなかったというのが当時の印象です。
ベッド、本棚、壁の間の三角形の空間で私も兄も救われました。
父は玄関から飛び出されていて、大丈夫かと父の声が聞こえました。、
母は台所にいて天井が落ちてきていて、しばらく脱出できなくて昼ごろまで続きました。
恭子ちゃん(西本恭子ちゃん)は普段私が寝ているところに向かって2階の部分が崩れあっという状況になっていました。
近所の方にも手伝ってもらいながら、声をかけながら居場所を探して、母は救出できたが、恭子ちゃんは大きな箪笥が倒れてきていて、箪笥をよけようとしていた状態で、身体も温かく家族で病院に運ぼうとしました。
医師が確認して、残念ながらお亡くなりになっていますと言われました。
恭子ちゃんが死んでしまったという事の実感が有りませんでした。
私は茫然としていて、父親が絶叫して泣いていたのを覚えています。
翌日両親がきて、恭子ちゃんを囲って泣き崩れて、恭子ちゃんと声をかけていました。
僕の部屋で恭子ちゃんが亡くなったと言う事で、申し訳なさ、というか胸が裂けそうと言う事ではとても足りない心境でした。
家の前の空き地にテントを張ることになり、家からいろいろ持ち寄って来て13世帯35人が住むテントが出来上がりました。(2日後)
3日目からは配給が届く様になり火も使えて暖かい食べものを食べられるようになりました。

3月頃にテント生活は解散して、父親の会社の保養所が当たってそこに引っ越しをしました。
仮設住宅に当選して、引っ越すころに家の取り壊しの連絡があり、スパイク、ユニフォームなどは最後まで出てきませんでした。
80名ぐらいの方が全国からボランティアで来てくださって、私も会館にいって共同作業をする機会が増えて、作業することが楽しかったです。
こんなことができる場所だったと実感出来る所でした。
奈良県内の経済学部の大学に通って、就職の内定も決まって、フリースクールの様な場所でお手伝いするきっかけをいただきました。
誰ともしゃべらないとか、暴れてしまうとか、しんどさを前面に出す子供が多いが、フリースクールに来ると意欲的になる子が多くて、学校とか、勉強とかのプレシャーを脇に置いておく事でこんなに元気に、活発になるんだなあと思いました。
その姿を見た時に、高校時代のボランティアの想いとも重なり、臨床心理士の先生に相談に行きました。
臨床心理士の資格が有る、悩み、辛い状況を聞いて心の元気を回復させる様な仕事、それが臨床心理士だと言われて、あっこれだなと思いました。
20歳で父を亡くしているし、母親に話しても反対されるだろうと思って話したが、貴方が思う通りに進みなさいと言ってくれて、お父さんも貴方の進みたい道を応援してくれると思うと言ってくれて、決断しました。

卒業後、別の大学に編入して、四国の大学院の修士課程に進みました。
震災があってテント生活を経験して、繋がりも生まれてみんなが凄く温かい目で見てくれる 2カ月間が有りました。
現実の厳しい環境にも出会って、辛さも経験して、恭子ちゃんにたいする罪悪感もあったりしたが、(サバイバーズ・ギルト)、ボランティア活動を通して自分の将来を考えることができて、あの時期を乗り越えることが出来て良かったと思います。
当時、死なせてしまった殺してしまったと言うような考えが有り、自分を責めてしまう事もあるが、こんなふうに生きていきたいと言う場所と人がいてくれたことが自分にとって良かったと思います。
役割を多く持てると言うことは、辛い時間とそうでない時間を行ったり来たりすることができるので、人の心にとっては大事な事ではないかと思います。

レジリエンス、もともとは家庭環境に恵まれない子供が逆境にめげることなく社会的に立派に成長していく、逆境を撥ね返す力としてレジリエンスという言葉が出てきた。
心の病を患った方が、心の病以外の健康な部分を沢山成長させる、心の病気の抵抗できる力、自然回復力という意味で使われ始めて、突然身に起きた不幸なこと、心理的ダメージを如何に
自分で克服していくか、を最近ではレジリエンスと云います。
自分の強み、ポジティブな部分に自分で気づいておく事、だれしも回復力は持っているので、誰かにヘルプを求める事等は、それだけでも逆境を切り抜けることにもなる。
人間は一人で考えていると、必ず悪循環に入ると言う事はあるので、話せると言う事で調整ができるので人とつながってゆく事はいつか自分を助けることになるかもしれない。








2017年1月12日木曜日

秋山正子(「マギーズ東京」センター長) ・がんから自分を取り戻す

秋山正子(NPO「マギーズ東京」センター長) ・がんから自分を取り戻す
66歳、去年の10月10日、東京豊洲に癌患者支援施設、「マギーズ東京」が日本で初めて開設されました。
マギーズ東京は無料でがん患者や家族がいつでも気軽に看護師や心理師などの専門職から支援を受けられる、イギリス発祥の施設でイギリスには19か所ありますが、海外では香港に次いで2か所目です。

オープンしたのは去年の10月10日で、その週に関しては1日、30人近くのかたが来所ました。
最初の1週間は予想以上に多かったです。
名古屋、四国、鹿児島、北海道などからも来ました。
長いこと治療を受けているが、生活上のちょっとした悩み、味覚が変わって食欲わかないのでもっと詳しく知りたいとか、選んでいる治療をこのまま続けていいのか、セカンドオピニオンを求めていきたいが直接に聞いていいかどうかためらう方もいるので、悩みを家族に、医者には言えないとかあり、ワンクッションおいた相談するところがなかなかないとおっしゃいます。
話せたことだけでもホッとしたと言う方もいます。
最近ではがんの治療自体は非常に進歩したので、割と直ぐに診断は人に告げられて、治療の方法なども伝えます。
最初の説明だけで頭が真っ白になってしまって、ふっと我に還った時は、えっと思ってその後の説明にたいしては耳に入ってこない事がままあります。
立ち止まって考えたいが、治療の流れがスピードアップしてきていて、そこの流れに乗らざるを得ない。
病院の外にも考える場所が必要だと思います。

あれも聞けば良かったこれも聞けば良かったと言う事が多いので、ここでは医療的知識が有る友人の様な構えで話を聞く様にとなっています。
看護師が多い、臨床心理士、栄養の相談もあるので栄養士もきています。
病院とのトラブルはないです。
患者さん、家族、友達などをも含めて相談に乗ります。
がんで家族を亡くした後の遺族の方も来て、相談することもあります。
息子をがんで亡くして4年経って悔いが残っていて、涙が止まらないとかで相談に来ますが、、看病に関してはきっと感謝していると言う様なことで、慰めたりしています。
自分の道を選んでいける、自分でちゃんと歩いて行けると言う風に変わってゆく姿が見えるのでうれしいです。

2008年に国際がん看護セミナーが有り、築地がんセンターで行われて、11月に私自身もプレゼンテーターとして、日本の癌患者の家族への支援という事で発表して、イギリスのエジンバラからマギーセンターのアンドリュー・アンダーソンという看護師が来て、マギーセンターのことについて話してくれて、これは今すぐにでも日本に必要だと思いました。
1992年から訪問看護をやって来て、もう治療が有りませんといわれた途端、放り出されるような格好で看護ケアーのほうにきて、家で過ごす時ももうすこしいろいろな情報が有って家で過ごす時もいろいろ工夫が有るのではないかと思っていました。
アンドリューさんと連絡を取り3カ月後に見に行きまして、日本に導入したいと思いました。
予約はなくていい、時間の制限はない、無料と言う事で、看護師がいつも常駐していて対応している。
マギーさん(がん患者)が病院ではないリラックスできる空間が欲しいと言う事で看護師ローラさんに相談して、ローラさんがその初代のエジンバラのセンター長です。(1996年に開設)
看護師が中心になって広げていきました。

よーく話を聞いて、聞く看護が大事だと思ったので是非にと思いました。
組織は病院とは別だが、病院も近くに有る。(マギーセンター 病院の敷地内に有る)
先ず相手の話を聞いているうちに何が一番心配なのかを段々わかって来て、そこに当人が思い当たる、それに気がついて歩きだす、それが解決出来るようにお手伝いをする。
アンドリューは男性の看護師で、前立腺がんには知識が豊富で、相談に来た時に治療のことが心配なのかと思って話をしようとしたが、それをのみ込んで聞いていたら、彼は治療ではなくて一人暮しで大事にしているペットを飼っていて、次の治療の時に入院しなくてはいけなくて、ペットの事が心配だったと言う事で、信頼出来る飼育先を見つけないと安心できない、という事で一緒に選ぶことになった。
その後情報をやり取りするようになって、アンドリューとは信頼関係が出来たと言う事です。
一緒に考えて、本人が決めてゆくプロセスを支援をする、という事です。

イギリスには19か所あります。
香港が一か所、日本ではここの一か所です。
海外でも、バルセロナ、オーストラリア、カタールなども準備をしているそうです。
ここは全部チャリティーで行われていています。(一部行政)
建物の費用は、準備で先ず仲間が集まって計画を練って、NPO法人にしてチャリティーを行ってお金を集めてこの建物を立てました。
2014年に乳がんの患者だった鈴木美穂さんが、国際がん患者の集いにウイーンに行った時に話をしたら、貴方が思っている事と同様なことをすでにイギリスのマギーがやっていると言う事で、彼女も知って、日本でも作ろうとネットで展開したら、秋山正子という名前が出てきて、そして私は鈴木さんと出会いまして、加速しました。
いろんな分野の人と一緒にプランを練るようになって、どう多くの人に知ってもらうかとか、チャリティーの有効なやり方など、多くのことをやって仲間をたくさん作り、鈴木さんは当事者でもあるので、多くの人が賛同してくれてこの形になってきました。

姉が41歳で肝臓がんで亡くなって、その時に家に連れて帰って看ましたので、余命一カ月といわれたが5カ月子供らと一緒にいれて、そして訪問看護を長くやって来て、何か足りないんじゃないのかなあという事で出会ったのがマギーセンターでした。
鈴木さんとの出会いもあり本格的になりました。
バーニーセンター長が言ったのは、その方の一番の専門家は患者さんそのものですよと、その人自身がどの様にその病気を受けとめて、どう感じ、どう考えているかを先ず大事にして、耳を傾け何を一番の不安に思うか、そこに行きつく、そのために本当に必要な情報は何かを一緒に探し寄り添ってゆく、それが大事だと言っています。
自分で病院内にある相談制度にもいって、聞いてこようとかの勇気になればいいと思うし、医師に聞く事をきちんと整理して聞く事で、治療の流れがスムースになるのではないでしょうか。
病気後の復職することに対しても、いろいろな部署と相談して、自分で考えて自分で職場の人にも話して復職する事が出来ましたと言う様な事もあります。
相談することにより、気持ちが緩んでくると大分違います。
日本にも金沢、広島、京都などにも計画とか、出来始めています。








2017年1月11日水曜日

2017年1月10日火曜日

2017年1月9日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・行財政改革(第37回)

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・行財政改革(第37回)
田中内閣以後、2年おきぐらいで変わってゆく、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸。
そのあと中曽根内閣が行財政改革に取り組んでゆく。 
昭和49年12月9日に三木内閣が誕生する。
昭和51年7月に田中前首相が逮捕される。
三木おろしの動きがあり福田内閣が昭和51年12月に誕生する。
官僚が考えている経済成長を福田さんは代弁していたので、経済的に縮める政策の代弁者と言う事が言えたと思う。
日中平和条約を締結。 昭和53年8月(日中友好共同宣言の6年後でスムースに進んだ)
10月に鄧小平副首相を迎える。
大平内閣 昭和53年12月7日誕生。
昭和54年2月 第二次オイルショックが起きる。
省エネルック、率先して対応を訴える。
昭和54年6月に東京サミット開催、エネルギーサミットとも言われた。
大平さんの読書量は政治家のなかでも抜群だったといわれる。(知性のある首相)
昭和55年(衆参同日選挙中に)亡くなる。
同日選挙で自民党が圧勝し、鈴木善幸が首相となる。
自分が率先して出るのではなくて有能な官僚、政治家を使ったと言う事が評価される。

行財政改革、行政にかかわる組織、人員、予算、管理、関係団体が膨れ上がってゆく。
放置しておくと際限なく増殖してゆくので、どこかでメスを入れないと、行政組織が平衡感覚を保てなくなる、限界に来ていた。
行財政改革を行う必要が有り(コストカッター)、しかし実際に行う事は大変で、官僚組織に手を付けるわけなので、明治維新と、太平洋戦争の後の2回しか行われていなかったので、差し迫った問題だといわれる。
第二臨調発足、会長が土光敏夫さん 行政管理庁長官中曽根康弘さん。
土光さんの名前をもって行財政改革が行われた。
石川島播磨重工、東芝などを立てなおした実績が有る。
増税なき財政再建、国鉄、米、健康保険、(3K)の赤字を解決する、地方行政組織をスリムにする、という事を要求し挑んでいった。

中曽根内閣が出来た時には、「田中曽根内閣」と揶揄されたが、中曽根さん自身は行財政改革には凄く積極的で、臨調分科会を作って、臨調方式を進める。
戦後政治の総決算、累積化している戦後の官僚組織、国鉄の赤字等を解消する為に、かなり強権的にやらなければ動かない、或る意味強権的に、議会外の臨調の組織を使いながら改革を進める。
国鉄にメスを入れる。
官房長官は後藤田正晴、後藤田さんは中曽根さんを大嫌いだと言っていたが、子供じゃないんだから仕事をすると言って、軍事的膨張する戦後見直しにはかなり歯止めを掛けたが、行財政改革には中曽根さんよりは積極的に働いたと言っていた。
国鉄の民営化は一番大きな問題で、結果的には成功しているので良かったと思います。
中曽根さんの行財政改革は土光さんの質素さ、後藤田さんの官僚出身で官僚を上手く使う、その二つの車輪で上手く廻って行って、車輪を回したのは中曽根さんだと思うが、車輪自体がそうとう使命感を持って廻ったことが成功の秘訣だと思います。
土光さんは80代になっていたと思うが侍というイメージがあった。
(朝食にメザシを食べている画像がTVにでる)
確固とした人生哲学が有り、臨調を進めていった。
国鉄の分割民営化、慢性的な赤字を抱えていることへの不満、国鉄職員の業務にたいする向き合い方に国民が不満を持っていたのは事実だったと思います。
経営側も労働組合側も(慣れ合い)反対していたが、そこにメスを入れていった。
昭和62年4月1日から国鉄が6つに分割民営化された。
体質がガラッと変わり、流れとしては民営化は国民も国鉄の経営側、労働組合側も納得して行ったと思う。

昭和50年5月16日  田部井さんが女性初のエベレスト登頂に成功している。
昭和52年9月3日  王選手が756号のホームラン世界新記録を達成。
昭和55年       山口百恵さんが引退。
昭和57年2月8日  ホテルニュージャパンの火災。
昭和57年2月9日  東京湾で日航機の墜落事故(逆噴射)
昭和58年4月    「おしん」放送(外国でも評判になる)
昭和58年10月12日 田中角栄に実刑判決












2017年1月8日日曜日

野沢雅子(声優)        ・シリーズ【時代を創った声】(第11回)

野沢雅子(声優)        ・シリーズ【時代を創った声】(第11回)
野沢さんはアニメ「ドラゴンボール」シリーズや「ゲゲゲの鬼太郎」、「銀河鉄道999」の作品に出演されています。
ドラゴンボールでは世界中に散らばった7つの玉を集めると、どんな願いでも一つだけかなえられると言う孫悟空の活躍を描いた作品です。

ドラゴンボールが始まったのは1986年。
30年経っていたとは全然思っていなかった。
悟空、悟飯、悟天をやって来たが、こうやろうとかは考えてきたことはなく、絵を見ていて出た一声が原作者の先生とかに、こうしてほしいと言われたことはないです。
悟空が成長してゆく過程は自分で違ってしまうんでしょうね。
私は多分なかに入りきっちゃうんでしょうね、考えたことがないです。
悟空と同じ気持ちでいたいから、原作を前もって頂くが、私は見たことが無いです、先を判りたくない。
終わってから読みます。
台本は今は前もって頂きますが、私達はもらえなかったです。
ドランゴンボールは自分の生活の一部だと思っています 。

3歳で子役としてデビュー。
叔母が松竹蒲田撮影所時代に大スターだったんです。
叔母が売り込んで自分の跡をつがせたかった。
劇団に入りたかったのは中学生の時です。
紹介されて行った劇団が、土のにおいのする劇団でした。(20年以上いました)
どっぷり浸かったのは高校を卒業してからです。
お客さんの反応が直ぐ自分の体に返ってくるのでそれがたまらなかった。
受けたからと言って更にやろうとすると受けない、常に無の状態でやらなければいけないことをそこで学びました。
辛いと思ったことは本当にないです。
ずーっと長い間一緒にいるので、家族以上です。
劇団では収入源が無いので、マスコミの所に行くわけですが、肩身の狭い思いで行きました。

洋画の吹き替えなどアルバイト感覚でした。
自分の「間」ではないので、結構トチリが有りました。
本番になってトイレから戻らない人がいたりしました。
急遽指されて代わりにやらされたりするので大変でした。
生本番なのでとちったりする可能性が高く少年は使えないので、青年ではすでに大人の声になっているので駄目で、女性の声帯が少年に近いと言う事で、各劇団が初めての洋画をとりいれた時に少年が出てきて、オーディションが有り、台本を渡された時に、少年の役だった。
それに受かって、出ることになりました。
少年役がどんどん出てきて、仕事をやるようになり、自然と声優の世界に入ることになり、ドラマは出れなくなりました。
声優といわれるのが大嫌いでした。(自分の中では舞台女優だと言う思いが有りました)
今はこの世界が大好きです。

洋画の役者に合わせようとしてきたが、アニメはそれが無いので活かすも殺すも本人次第なので、それが面白い。
アニメの最初は「鉄腕アトム」の中の少年役でした。
アニメの最初の主役が「ゲゲゲの鬼太郎」でした。
オーディションで最後2人になり、水木先生が選んでくれました。
鬼太郎は1期から5期まで(60~80年代)有りますが、1期から2期までやって3期目は他の方になりました。
ちょうど同じ時にドラゴンボールのオーディションが有りそちらが受かって、良かったと思います。
「銀河鉄道999」 1978年(ゲゲゲの鬼太郎の10年後)
この3作ともオーディションで受かって、原作者の先生が選んでくれました。
主人公星野鉄郎君は明るいがナイーブでそういうところがとっても好きです。
池田昌子さん(メーテル役)とは、「メーテル」、「鉄郎」で普段でも電話などで声を掛け合っていますが、周りからは不思議がられたりしています。

若い人は自分の個性、自分をもうちょっと出した方がいい、いま目をつぶっていると同じ声で同じしゃべり方が多くて、もったいないと思う。
ウオッチングをもう少しした方がいいと思う。(人間観察)
心の中の引き出しを一杯作って、そこにしまっておくといいと思います。
誰よりも自分が好きで行くと良い様な気がして、自分の中の良いものが自然と出てくると思う。
上手くやろうと言うような事が一番ダメだと思う(力が入ってしまうから)、陥り易いが。








2017年1月7日土曜日

永井伸和(不法滞在者を支援する)・ “外国人収容所”の実態から見えること

永井伸和(不法滞在者を支援する)・ “外国人収容所”の実態から見えること
大阪在住 42歳、日本国内には難民申請、出稼ぎ労働等様々な理由でやって来て不法滞在することになった外国人が6万3000人いると言われています。
永井さんはそうした外国人が収容されている国の施設の劣悪な環境や、施設から仮に出された人達の生活実態等を調べ支援を続けています。
そうした活動にはどんな意味が有るのか伺いました。

不法滞在している外国人を収容している施設が全国に17箇所あり、1000人ほどが収容されている。
在留資格がないと外国人は不法滞在となり、送還するための理由が有るかどうか取り調べ、強制送還すると決定されて、送還するまでの間を収容する施設です。
私が見られるのは面会場所のみですが、2~4人部屋に鍵を掛けられて閉じ込められて、5時間だけ共有のスペースがあり、電話を掛けたり、シャワーを、したりすることができます。
ハンガーストライキが2回あり 44名が5日間、14名が2週間から長い人で24日間行いました。
(水分、塩分のみ可)
長期間の収容を辞めてほしいと言う事でした。(2年ぐらい収容される。)
拘禁症状が出てきて、2~6ヶ月経つと体が衰弱してゆく事になる。
医療の要請にたいして対応が遅いとも言われている。
自殺未遂も結構あります。(大阪では2名自殺未遂をしている)
イラン人の難民で外にも出れないし、先行きのめどが立たなくて体調もよくなくて悩んでいた。

強制送還の対象者だが帰れない(3つに分類される)
①難民申請者(政治的、宗教的、民族的迫害をうける)、難民として認定してほしいと言う事で政府に認定されると、政府は保護しなければならないと言う形になっている、
②日本に長く滞在(80~90年代に出稼ぎに来た人々、観光ビザで来たがそのまま仕事を続けた)
3K、建築現場等は日本人の人が厭がり、イラン、バングラディッシュ、フィリピンの人達が真面目にやってくれると言う事で雇う方も歓迎していた。
③最近多い、技能実習生、(中国、ベトナムなど)中小の工場で働くが、来る前の条件とは違うと言う事で逃げる人が多くて、技術移転、国際貢献、学んでもらって日本が貢献しますよということだが、実習先から逃げてしまうと不法滞在となる。
収容施設の状況に関しては、求めているのは体調を崩して死んでしまうかも知れないのでと言う事で診察をしてほしい、狭い所に閉じ込められているので、長くなった人は出所させてほしい、といった内容。
人権を尊重してほしいと言う事もあります。

2008~2009年に掛けて隣りの街に住んでいた家族が入管出頭して、親は不法入国で日本に入り子供は日本で生まれ育って日本語しか話せない。
在留を認めてほしいと言う事で放送などもされたが、強制送還すると言う事だった。
子供だけ日本に残り、両親はフィリピンに帰国することになった。
家族が住んでいた町で日本から出て行けとか聞くに耐えない様なデモを行った。(ヘイトスピーチ)
そういったことを見て聞いてショックを受けて入管に関わる支援活動を始めるきっかけになりました。
自分自身も、小学生のころに同じ学校の子に心ない言葉を投げつけると言う様なこともあって、相手は在日朝鮮人だった。
これを背負わなくてはいけないと思って、取り組まなければ行けないのかなあと思っています。
自分が侵害したい側の強い立場になった時に、出来れば直したいなあと思って、その人と関われたらいいと思います。
大学では歴史の中で日本での優生思想など(優秀な民族を作るために悪い素質を持っている人は子供を産んではいけない)を学びました。
ナチスが障害者を虐殺、ユダヤ人を虐殺した、という事が有りましたが、日本でも強制的に行う事が有ったんです。
生きてゆくと言う権利は保障する中で生きていけたらいいと言う風に思っていますが、実際はそうなっていなくて、そういったものを無くしていけたら住み良い社会になるのではないかと思っています。

ミャンマーの人が亡くなったと言う事で経緯を調べたことが有ります。
2013年の事件、昼過ぎに泡を吹いて倒れて、仲間が病院に連れて行ってほしいと要望したが、職員が1時間近く放置してしまって、救急搬送が遅れて、5日後に亡くなりました。
くも膜下出血という診断でした。
診療許可されないということは山ほどあります。
難民申請中は出所は許されないので、長く収容が続いて行くということはあります。
キャパが有るので許可を得て出所する制度が有ります。(一時的に収容を解く)
しかし就労はできない、保証人保証金が必要、国民健康保険に入れない。
カメルーンの方が亡くなったが、お金が無くて病院には行けなくて亡くなってしまった。
ギリギリの状況で暮らしています。
2015年末の時点で仮放免者が3600人。(法務省発表)

施設の中では透明性がほしい、医療の改善の提言もしています。
収容の期限を切ることが大事と思います。
仮放免された人の支援は二つしかない。
①送還する。
②ビザを与える。
違反ではありますが、自分の身を守るために難民として逃げて来た方なので、日本は難民認定数が少ない。
2015年が7000人申請して27人、2014年が5000人申請して11人です。
緒外国と比べて極端に少なくて、2014年ドイツでは1万1000人、イギリスが9500人、フランスが9000人。
不法状態におく事で利益を得てきたのは、安い労働力を得てきた企業、日本社会であり、社会全体が負わなければいけないと思います。(相互に責任が有ると思います)
テロのイメージが先行していて、外から訳の判らない人達が暴力を持ちこんで来る報道があったりするが、テロを慎重に考えた時に、私達の社会が生み出しているのではないかなと、考えてみることをした方がいいと思います。
どん底の人を支援していかないといけないと思っています。
どういう状況になっても自分が生きているということで、それ自体が尊重されると言う社会にしないと誰にとっても生きにくい社会になってゆくと思います。
本当は支援しない状況が一番いいわけです。
























2017年1月6日金曜日

磯貝 明(東京大学大学院教授)  ・コツコツ研究“夢の新素材”

磯貝 明(東京大学大学院教授)  ・コツコツ研究“夢の新素材”
木材から生まれた新素材とはセルロースナノファイバー CNFと言います。
木材の繊維を極限までほぐして髪の毛のおよそ 1/2万の太さにしたもので、現物は繊維の姿をしたものではなく、透明でゼリー状になっています。
この新素材を10年前磯貝さんと共同研究者が開発し、おととし森林産業のノーベル賞といわれるマルクスヴァレンベリ賞を受賞し、世界的に知られるようになりました。
セルロースナノファイバーは強さや軽さで炭素繊維に匹敵し、多様な分野に活躍できる万能素材といわれ、自動車、化粧品,ガラス等様々なメーカーが実用化研究を急いでいます。
実用化されると、豊かな森林をもつ我が国は資源国になる可能性が有り地球温暖化対策にも役立つと期待されています。

マルクスヴァレンベリ賞を受賞し、年末にはホンダ賞も受賞。
マルクスヴァレンベリ賞 スエーデン国王が自ら授与される。
アジア圏ではまだ誰も受賞していなくて、意味や価値は余り知られていない。
2015年9月28日の授賞式で取材を機に、一部の新聞、TVに取りあげられてからいろいろ声を掛けてもらえるようになりました。
講演を依頼されたりする事がおおくなりました。
ホンダ賞は環境、資源の観点から次の人類に期待される技術、研究内容について評価されると言う事で、評価されたと思います。
20年前までは森林資源を使うことは環境破壊に繋がると考える方が多かったと思いますが、むしろ逆で、唯一大気中の二酸化炭素を吸ってくれるのは植物で、木が大きくなる段階で二酸化炭素を吸って自分の身体にしている。
大気中の二酸化炭素濃度を減らして地球温暖化に貢献するには
①二酸化炭素を出さないようにすること、
②二酸化炭素を吸わせてあげて、森の生産物である物を蓄積することが地球温暖化防止につながる。

成長した木を燃やさずに材料として、先端材料として蓄積する。
植林さえきちっとすれば、二酸化炭素を吸うと云う、二酸化炭素削減のサイクルをうまくできる可能性が有る。
人口減少、紙媒体を使わない、という事で住宅、家具、紙が使われなくなってきて、木を切らないし植林もしない。
成長した木がそのままでは二酸化炭素を吸わない状況になるので、それを切って新しい材料に使えば新たに植林して、二酸化炭素を吸う新しいサイクルができる可能性が有ります。
セルロースナノファイバー 木材の繊維を極限までほぐして髪の毛のおよそ 1/2万の太さにしたもので、セルロース分子が6×6の36本で出来た細い鉄筋の様なもので自分を支えていて、どの植物も同じサイズの最少単位で、それに出来るだけ近づいて行ったのが、セルロースナノファイバーで、一番細いのが3ナノm幅で、紙に使われる繊維が0.02~0.04mmですが、それを1/1万にしたレベルです。
植物が自分自身を支えているのは①セルロース、②ヘミセルロース、③リグニン
②、③は地域によって構造大きさが違うが①はどこへ行っても同じだと言う事が不思議です。

稲藁、農産廃棄物のサトウキビの絞りカス、竹、広葉樹、針葉樹でも同じナノセルロースを作る事が出来る。(身の周りにふんだんにある)
セルロースナノファイバー 透明なゼリー状。
研究には①課題解決型(青色発行ダイオードIPS細胞等) ②偶然発見型(夢追い型)、2種類ある。
炭素繊維、カーボンナノチューブ、光触媒などは日本で発見された②のタイプ
セルロースナノファイバーも②のタイプです。
炭素繊維は発見が1961年なので50年経ってようやく飛行機に使われるようになりました。
②は時間のかかる可能性が有りますが、セルロースナノファイバーを何とか早く実用化していこうと言う状況にはなってきました。
化石資源に頼らない循環型社会基盤に貢献できるようにと期待しています。

針葉樹の繊維は3mmと長いので強い紙材料に使われる。(紙パック、ダンボール等)
ちょっとした化学処理をすると繊維の形は変わらないで、色が白くなります。
1996年から化学処理の研究を始めて論文発表が2006年。
色が白くなったものを水に入れてミキサーで撹拌すると透明になった。(ナノレベルまでなる)
その発見が2006年だった。(斉藤先生が発見)
何に使ったらいいか全くわからなかった。
ナノレベルまでするには電力がかかるのに対して、化学処理を組み合わせると、電力が1/100以下に低減出来ました。
木材から生まれた新素材です。

応用については工学関係の先生、企業の方々に紹介して検討していただくことが新素材の質、量の拡大になるのではないかと思っています。
多くの方の研究者の力を借りてこの素材を広げていきたいと思っています。
①包装材、②化粧品、③ガラス、④自動車など様々な可能性が有ります。
①透明、②酸素を殆ど通さない、③熱安定性が有る(のびちじみが少ない)④増粘剤(化粧品がべとべとしない 簡単に液体の様に吹きつけられる) 自動車のタイヤ (カーボンブラックを入れるので黒いタイヤだが色の付いたタイヤができる可能性が有る。)
企業が数千社、他に多くの研究機関が新しい利用の研究を検討しています。
消臭おむつの研究もされていて、介護者の負担軽減のために消臭機能のある大人用おもつも注目されています。
インク切れのしないボールペン、ダマになってインクが出ない物がダマにならないものが実用化されています。

世界的課題、二酸化炭素削減、温暖化防止、循環型社会基盤の構築、化石燃料に頼らない社会を作ることに貢献できる素材かもしれないと言う事で基礎研究を一生懸命やっていて、応用展開を研究している所にサポートしている状況です。
若いころは数学、物理が得意だったが、周りに秀才がいたし、化学、生物学は量をこなせば、何か新しい発見が有るのではないかと思って、化学の方に行こうと思いました。
成績で或る程度振り分けられて、農学部に入って、化学はやりたいと思っていました。
水系でセルロースを高付加価値のものができないかと思っていたところに、セルロースを触媒反応でセルロースの化学構造を変化させる研究に出会いました。
でんぷんでの反応をオランダでやっていて、それをセルロースに適用しようと始めたのが1996年でした。
2002年に、齋藤継之さん 4年生が修士課程で研究が面白くなってナノセルロースにつながる研究を始めてくれました。
制限しない形が結果的にはよかったと思います。
多くの方の意見に耳を傾けてネットワークを広げて行く事が、特にセルロースナノファイバーはこういう事が必須だと思います。
セルロースナノファイバー はまだ生まれたばかりなので、未知のことがいっぱいあるので、基礎研究の基盤を整えていこうと思っています。
セルロースナノファイバーは筋のよさそうなものであると言う事が言われていて、世界の研究者も注目して追試などもしてくれています。














2017年1月5日木曜日

半藤末利子(エッセイスト)    ・生誕150年 孫娘が語る漱石一家

半藤末利子(エッセイスト)    ・生誕150年 孫娘が語る漱石一家
文豪夏目漱石、生誕150年 近代史研究家で作家の半藤 一利さんの妻末利子さんは漱石の長女筆子さんを母に持つ漱石の孫娘になります。
半藤末利子さんに漱石の弟子で父の松岡譲さん、母の筆子さん、祖母の鏡子さんのお話しを伺いながら、漱石はどんな人だったのか伺います。

旧暦の1月5日が夏目漱石の誕生日。(新暦だと2月9日) 生まれて150年。
新宿の早稲田南町 漱石が最後まで住んでいた処に漱石山房記念館がオープンする。
10年前から話が出ていて、足の便が悪い所ですが。
書斎と客間、それを漱石山房と言う事になっています。
大正5年に漱石が亡くなって、私の父は夏目に家に入るようになって、娘婿です。
山房を残さないといけないと言う事で、当時の府長さん、父が奔走した様です。
漱石記念館は大空襲で焼けてしまいました。
父は新潟県の長岡の僧侶の家で産まれましたが、インド哲学科に通っていたが文学が好きで芥川龍之介、久米正雄、菊池寛らと第四次「新思潮」とかに小説を載せたりして、作家志望になり、漱石山房に勧められて、芥川龍之介、久米正雄に連れて行かれて、芥川龍之介、久米正雄は漱石が亡くなる2年前 父は1年前に山房に通いました。
久米さんがうちの母が好きになりましたが、母はうちの父が好きだったので久米さんとの結婚はしたくないと言って訴えたかった、出来ないと言う事で御飯などは食べなかったようです。
久米さんはおっちょこちょいで惚れっぽくてどこへ行っても浮き名を流す方です。

父は筆を折ってしまってやめてしまいました。
敦煌、父が想像して調べて書いたのがそうで、壁画、仏さまの配置など寸分違わなかったという事で父が書いた通りだったと言う事で吃驚したそうです。
「漱石の思い出」 祖母鏡子さんの口述を筆録 細かくきちんと纏めている。
母はおとなしい人でした。(久米さんが嫌いで松岡が好きだと言えない人でした)
母が物ごころついた時に漱石に会ったのは、神経症を患っていたころで、理不尽なことをいろいろしたがそれは病がさせることで根は漱石は優しくていい人です。
鏡子さんのこともいじめる訳です。
筆子は兄弟中で一番かわいがられた様です。
「安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり」 筆子を産んだ時の漱石の句
鏡子は文字が下手だったので、筆子と漱石が付けた名前だったが、母も文字は上手くなかった。
母は言葉使いは厳しくしつけられて、言葉は丁寧でした。
母は女という事で、本は読まなくてもいいとか勉強しなくてはいいと言われたそうですが、男の子にたいしては厳しかったようです。

祖母は余り料理は得意ではなく、母は料理学校に行ったりして料理は得意でしたが、私は料理は余りやりません。
母は83歳の時に脳梗塞になり認知症になりました。
介護をしても私のことは忘れてしまって、母親(鏡子)だと思っていたようです。(かわいそうでせつなかった)
漱石の明治のしつけはこうなのだと思いました。
母は、あの母(鏡子)だから漱石と暮らしていけたんでほかの女性だったら暮らしていけないと、よく言っていました。
糖尿病とかいろいろ病気になり病弱なのに、あれだけの小説を書かせたので祖母はあっぱれな妻だと私は思います。
漱石が大病して長逗留した修善寺の宿の人も祖母を誉めていた様です。
大吐血した時にも泣いたりしないで、医者に来ていただいて、見舞客も大変だったが、それを失礼のない様にちゃんとおもてなしをして、やり抜いた人でした。
「病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋」 漱石の妻への句(つわりの頃)
甘い句をたくさん詠んでいました。

祖母には貫禄が有り威厳があり、絶対私などは逆らえなかった。
叔母(漱石の3女)栄子 漱石がとてもかわいがった叔母でした。
私がボーイフレンドを連れて行った時に、台所に立たない祖母がお赤飯を炊いてくれたので、後になって考えるとお祝いの意味で作ったのかなと思いました。(結婚すると勘違いした様で)
小さいころは祖母にお風呂に良く入れられごしごしこすられました。
祖母は良く人に物を上げるのが好きでした。
漱石と祖母は殆ど共通点はなかったが唯一、物凄く心根が優しいことだと思います。(神経症さえなければよかったと思いますが)

夫(半藤 一利)からのプロポーズでした。
私が本を出したのが65歳です。
もっと早くから書けばいいと思ったことはありますが。
祖母の事を書きたいと思います、両親の事も書きたいが、近すぎるし間に合わないかもしれない。





2017年1月4日水曜日

竹山 浩(盆栽職人)     ・四季を手元に

竹山 浩(盆栽職人)     ・四季を手元に
クールジャパンの代表としていまや世界から注目されている盆栽、竹山さんは欅、楓、梅、桜等四季の移ろいを楽しむ雑木盆栽の第一人者で、75歳。
雑木盆栽の大家といわれた父竹山房造さんのもとで修業を始めたのは 20歳の時。
大病を患った父の技を途絶えさせてはいけないと、父が築いたさいたま市大宮盆栽村にある盆栽園の二代目を継ぐ覚悟を決めたと言う事です。
以来、半世紀以上にわたって盆栽を作り続けています。

盆栽は大きく分けると、
①針葉樹松柏盆栽 (五葉松、黒松、蝦夷松とかの常緑樹の針葉樹)
②それ以外が雑木盆栽、(四季の変化が有るもの)
a、葉、枝を楽しむもの(楓、欅、紅葉など)
b、花を楽しむもの
c、実を楽しむもの

鉢植えは、ビニールポット、プラスチックの鉢など紅葉、梅、桜等、木作りはあまり気にしないで、それほど手を加えない。
盆栽は、木に合う鉢を使って、植えこんで、選定、針金を加えたりして、鉢の中に本格的な盆栽に仕立ててゆく。
子供のころから盆栽と一緒に育ったが、中学、高校になると、昆虫採集が好きだったので、山に行って蝶の採集をして、自然保護官になりたいと思っていました。
標本は約100箱ぐらいはあります。
高校3年の秋ごろ、父親が大病を患って、半年盆栽にかかわれなくなって、毎日の作業を母親と一緒に手伝っていましたが、盆栽をやろうと決心しました。
父親の元で修行に入りました。
夜、寄せ植え(父親が得意としていた)をやりました。
雑木では数本~数十本、奥行きを出したり、高低、太さも違うので自分の頭に描いたものに仕上がらないと、バラっと壊して 一からやり直す姿を見ていました。

父は松が主流の針葉樹松柏盆栽と同じように雑木盆栽を確立しました。
父は盆栽が好きでしたが、盆栽園ではなかったので郵便局に勤めていました。
勤めながら懇意にしていた盆栽園に通ってしていた様で、自分で盆栽で身を立てようと仕入れをして始まりました。
松柏類にたいして、半分の値段で出来たので雑木を作ろうと言う気持ちになっていろいろ研究した様で、木の太い細い、大小、長短を組みあわせて盆上に景色を作る作法も編み出した様です。
松柏盆栽と同格に育て上げました。
それには普段の木作り、枝作りが有ったと思います。
枝別れ、理想は二つ、三又は駄目だとよく言われました。
全体的な枝のバランスを取る。
修行は厳しかったが休みになると優しかった。
65歳で父は亡くなりましたが、晩年は同じ趣味(私は蝶、父はかみ切り虫)を一緒に楽しみました。

欅、まっすぐのびて半円形に枝がのびてゆくので、箒をさかさまにしたような感じです。
箒樹形が欅の樹形としては一番普通に見られる樹形、10cmぐらいでもそうします。
欅は種から作るのが多いです、自然に箒樹形になっていきますが、片方が太くなったりしますので調節はします。
葉が落ちるのも有りますが、椿等の木もあります。
木の中でも欅が好きで、冬の葉を落とした繊細な枝の柔らかな味わいが好きです。
それには培養管理が大切です。(肥料、病気など)
種類によって芽の出る時期が違うので、芽摘みを種類によってやってゆきます。
虫も木によって違っていますが、アブラムシはいろいろな木に付きます。
早い段階で見つける必要が有りますが、趣味の昆虫採集の見る目が有ったので、早い段階での発見ができます。
くちなしなど一晩で葉を喰われてしまう事もあります。
手をかけないでいると枝が暴れてしまう事が有る、樹芯部は成長が早いので、伸びすぎると元に戻すのには時間がかかります。
手間がかかりますが、その手間を楽しむことも有ります。

盆栽講習会にいろいろ呼ばれていきました。(30代前半ごろから)
大阪の万博の会場の日本庭園に入れ替えをしながら半年間展示しました。
後半にかけて大変な人気になりました、それが盆栽ブームのきっかけになりました。
1972年 沖縄が復帰して沖縄の人が盆栽協会に相談して、2年後に沖縄にも日本盆栽協会の支部が出来ました。
父も沖縄の盆栽協会設立にかかわりました。(父はその3年後に亡くなる)
その後私がバトンタッチして沖縄盆栽協会に関わって行きました。
沖縄では磯山椒 白い小さな花が咲き盆栽仕立てにはいいです。
ハリツルマサキ 沖縄独特の木、浜紫檀(はましたん)(松柏類に劣らない木だが寒さに弱い)
沖縄が復帰して日本の樹枝が増え、盆栽の幅が広がりました。

南アフリカのケープタウンに行って来て、どの程度の盆栽が有るのかと思ったが、立派なものもあり、その土地の木を使った樹形の盆栽も有りました。
欧米では米の盆栽の歴史は古いが日本に習えという感じが多いです。
中国は盆栽の発生の地ですが、中国も独特の樹形が見られます。
日本では一つの石に木を付けるのが通例ですが、中国では石を組み合わせて島の様にする方法が有ります。
吹き流し風の樹形(風に依り一方向に枝がなびく形)の大作が有ります。
海外では女性の方が多いのではないかと感じます、子供もやっています。
皆で集まって盆栽談義をするとか楽しみ方が違います。
日本の盆栽を見たいと言う人が多くなって、日本人より多いのではないかと思うほど多くなりました。
さいたま市に盆栽美術館が出来て6年近くにもなり海外にも発信しています。
世界盆栽大会、デモストレーターとしてやりますが、メインが4名、私は寄せ植えを担当することになっています。
楓を使ってやりますが、開催が4月27~30日、葉が出た後なので、普通はやらないが、冬の状態に戻してやる準備をしています。
日本では習おうとする人は今は少なくなってきましたが、海外からは逆に増えています。
将来を見据えて、盆栽アカデミーをスタートしました。
雑木盆栽の良さは四季の変化、これに尽きると思います。














2017年1月3日火曜日

丹羽宇一郎(早稲田大学特命教授)・“三方よし”の精神で

丹羽宇一郎(早稲田大学特命教授)・“三方よし”の精神で
日本中国友好協会会長
1939年愛知県名古屋市生まれ。
名古屋大学法学部卒業後、総合商社伊藤忠商事に入社し、アメリカなどからの食糧輸入や生産に関わってきました。
その後社長、会長などを勤められたほか、内閣府経済財政諮問会議民間議員や国際連合世界食糧計画協会会長などを歴任されました。
2010年から民間人として初めて中国大使をされた経験をお持ちです。
丹羽さんには商社マンとして大切にしていた言葉が有ります。
近江商人が生み出した三方よしと言う言葉です。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方が良いと言う事です。
地球は今温暖化に依る気候変動、水や食料人口問題など多くの課題に直面しています。
こうした課題をどう乗り越えたらいいのでしょうか、伺います。

経済は売り手と買い手が有って、初めて成りたっていて、商売の基本は社会に取っていいという事が必要なんです。
150年前に近江商人が実行してきたことに大変感銘してきました。
マックスウェーバーの宗教と言うものと密接な関係が有る。
近江では昔は鍵をかけないで生活をしている、浄土真宗というものを担って信仰心の篤い所で泥棒とかが最も少ない県です。
日本にはお布施というものが有って、社会に貢献している。
近代的な資本主義という様になったのは、世間よし、三方の精神が有ったからで、そういったものがなかったなら、資本主義の発展はなかったと思う。
マックスウェーバーよりも近江商人の方が早かった。

家は正進堂という本屋をやっていました。
おばあちゃんが「嘘は泥棒の始まり」とか、「おてんとうさまが見てござる」とか、「南無阿弥陀仏」とかしょっちゅういっていて、頭の中に焼き付いていました。
本は手当たり次第にたくさん読んでいました。(商売の本なので綺麗に早く読む)
大人の本も読んでいて、小さいころからませていました。
両親は厳しかったです。
本を読んできていて、正義感が強くて、高校時代から生徒会などをやり、大学に入っても、不正義を許せなかった。
安保闘争の時も誰のためにやっているんだと、先生が理不尽なことを言うと授業をボイコットしろとか、正義感で突っ走っていて就職とかを一切考えなかった。
私は委員長をやっていて先輩が委員をやっていて、超一企業に就職試験に合格してから就職の1,2カ月前に思想調査をやられて突然キャンセルされる。
どうせ駄目なら一番最初のところを受けようと思ったら(3年生の7月)、そこが伊藤忠だった。
その日の夜に電報が来て合格だった。(伊藤忠がどういう会社だったかしらなかった)
6人同じ学校から受けたが、私だけだった。

名古屋にはいたくなかったので、最初から東京だった。
ストライキをやると言うことは、経営者に打撃を与えないとだめだといって、正論を吐いたらシーンとして、人事部長がきて、白羽の矢が当たったので秘書室に移動してくれないかといわれたが、
上司が言わないのに行くわけにはいかないと言う事で断りました。
それで食糧をやるようになりました。
平和、自由、貿易 これなくして日本は生きていけない。
グローバリゼーション無くしてはこれからは生きていけない。
日本の国是として、平和を守らなくてはいけない、自由貿易で塀を作らないで自由に貿易できる体制を作らなければいけない。
食べるためにどうするか、農業は国の宝、農業がしっかりしてない国で栄えた国はありません。
日本は農業を国の宝として大事にしなければいけない。
農民が自立して競争力のある物をやって行けると言う事は、別に考えないといけない。
どういう種子をどういう土壌でどういう気象条件で育てていくかということは理論的な科学がないと駄目です。

伊藤忠がインドネシアでやったが失敗だった、密林を開拓して畑にすると動物のえさになる。
実る頃には象は来るバッタは来る、動物が来るので駄目。
農業機械を使ってやると、部品が故障してどうにもならなくて、人力でやらないと駄目で、全部工業と歩調を合わせてやらないと駄目です。
日本は農業の国際競争力を付ける、亜熱帯に向いた作物をつくる、それは米、米の値段を抑えるべく農水省の方策は根本的に間違っている、出来るだけ作らない様にする方策は間違っている。
どんどん安くして坪あたりの収穫量を増やして、安い値段で売る、だが逆のことをやってきている、減反をして値段を高くする。
たくさん作って、輸出をすることを考えればいい。
7000万~8000万人が年に人口が増えてきている。
アフリカが今10億人だが30年後には20億人になるでしょう、アジア諸国も増えてゆき、何れ資源、食べものが不足してくる。
気候が崩れてきたり、地震、大噴火が起きると地球が大凶作になる。
自給力、農民と土壌をしっかりとする、反収を上げる、農水省の予算のことばっかり考えていて、出来るだけ安くたくさん作って余ったら輸出をすればいい。
日本の農家の10%ぐらいしか専業農家はいないので、専業農家を手厚く保護しての農業で食べていけるようにすればいいと思います。

地球の温暖化、東大教授の沖大幹さん 地球上の水が100%とすると、97%は海水、使える水は3%、その圧倒的な部分が氷河で、何十年後には全部溶けてしまうだろとうと言っています。
地下水は山の氷が無くなると、地下水がどんどん減ってゆく。
年に平均1000mmの雨量が、200mmを下回ると砂漠、日本は1700mmぐらいで恵まれている。
高知県が3200mmぐらい、北京の西は500mmを切っているでしょう。
毎日お風呂に入っている国民は少ないと思います。
地球上で地下水をくみ上げて農業をやっていて、枯渇してくると大変です。
以前4年間カリフォルニアで干ばつが起きて大変でした。
日本が輸入している1年分の農産物を全部日本で作るとなると琵琶湖2.5倍の水が無くなります。
小麦を1トン作るのに、水は1100倍、牛肉だと12000倍必要です。
中国が牛肉を食べ始めたことは恐るべき事なんです。
中国では、肉は世界の1/4を消費し始めている。
豚の2頭に1頭以上を中国が消費している。

放っておいた土地は駄目なので土壌を大切にしなくてはいけない。
量、値段ではなくて、質、生産の仕方を考えてゆくと、人間の頭にお金を使わなくてはいけない。
人間の心にインフラに投資しなくてはいけない。
GDP、人口もどんどん下がってくるが、日本が流石といわれるのは頭、心の教育をするからです。
これからの気象は良くなる方向はない、悪くなる、更に原発を続けてゆく事については改めないといけない。
年3000億円利益、いまだに21兆円かかる、70年掛かるわけです。
もし事故が又有った時に誰が責任を持つのか?
現実に見ると悲観的だが、政策を良くすれば楽観的に見られる。
人間の頭の投資して、インターネット、AIを自分達が利用して日本が特別な国として生きてゆく、世界の尊敬を集める、そういう方向に舵を切ってゆく、そうすることで日本が世界から尊敬される道が開かれる。



2017年1月2日月曜日

中村東蔵(歌舞伎俳優・人間国宝) ・ただただとにかく芝居が好きで

六代目 中村東蔵(歌舞伎俳優・人間国宝)・ただただとにかく芝居が好きで
昭和13年東京生まれ、78歳。
23歳で歌舞伎の世界に入り女形と立役の両方を豊かに表現する歌舞伎俳優として活躍してきました。
以来 50年余り、ただただとにかく芝居が好きで、歌舞伎を演じ続けてきた中村東蔵さんに伺いました。

去年人間国宝に認定されました。
私でいいのかなあともやもやしていまして、責任とかを感じたくなく過ごそうかなと思いますが、そういう目を感じるような今日です。
「柳沢騒動」の桂昌院(徳川綱吉将軍の生母)役、相手が海老蔵さん(柳沢吉保役)、面と向かって芝居をしたのは初めてです。
23歳で初めて歌舞伎の世界に入りました。
父が医者(日本医科大学学長河野勝斎)で9人兄弟の末っ子でした。
芸能方面に進んだのが4人、医者になったのは2人です。
2番目の姉が藤間紫で芸能界に入りました。
高齢出産でしたが、無事生まれました。
兄、藤間大助が藤間家(藤間流)に養子に行きました。
後に6世藤間勘十郎の妻になったのが藤間紫です。
そういう環境が出来たので小さいころから踊りなどをやっていました。
藤間さんの家に父と母も一緒に住んでいて、半分は医者の系統と半分は芸事で、別に所帯には成ってましたが。
色んな人が出入りして、お芝居に興味を持つ環境には有りました。(当時は5~6歳でしたが)

慰問があり、一緒につれて行ってもらったりしていました。
昭和20年8月15日に新潟に行っている時に、終戦を迎えたのを良く覚えています。
新国劇の芝居が有り、その中の一つに子役として出たのが、デビューで藤間の姉も新国劇に出るようになりました。
大菩薩峠、丹下左膳などの子役をやってとってもおもしろかったです。
感情をだす芝居は新国劇で辰巳柳太郎さんにいろいろ教えてもらいました。
島田正吾さんはまた違った教え方をして、子供役だが非常に大人扱いしました。
その二人の影響が非常に有りました。
藤間勘十郎さんのところに市村さんが松竹の助監督として入っていまして、「薩摩飛脚」という映画を撮っていたのですが、袴をはいてもきちっとする子役はいないかという事で呼ばれて映画デビューしました。(小学校6年の頃)
高校1年の時に主役、「神州天馬侠」 藤間勘左衛門と言う名前だったが、余りよくないということで藤間城太郎という名前で出ました。
早稲田大学に入って、TVが普及してきていましたが、芝居のグループを立ち上げました。

小さい時から歌舞伎が好きで、兄の藤間大助が歌舞伎に入っていて、中村藤太郎という名前で歌舞伎をやっていまして、成駒家 六代目 中村 歌右衛門の所の芸養子にしてもらいました。
不器用でもいいから格のある役者に成れと言うことは言われました。
教わる方にとっては厳しいということはいいことです。
女形はまず女に思われないといけないので顔のお化粧の仕方については良く怒られました。
見ただけで綺麗に見えなくてはいけない、着物を着るセンス等。
立役は二枚目は綺麗に見えなくてはいけないが最後は気持、気持ちが入っている事が役者としては理想だと思います。
その人物になるという、技巧を弄さないでというのが、一番難しいですが。
汗をかいてやっていると一生懸命やっていると言う事で手を叩いてくれるが、歳を取ってから汗をかいて、手を叩いてもらわなくてもいいじゃないかなあと、そこまでしなくて相手に訴えることができたらと思いますが、ついやり過ぎてしまうということは随分ありますが。

お客さんの反応はどうかということは難しい、まだ余り芝居を見たことの無い人に受けているのか、芝居を沢山見ていたお客さんだから受けてくれるのか、難しいです。
休みの日は寄席に行ったりしています。
今の人を見ないと昔の人と比較できないので。(歌舞伎でも同じだと思っています)
調べてみたら599の役をやってきました。(ほんのちょっとしかない役を含めて)
芝翫(しかん)さんとの一緒の舞台で、女郎の役をやったが、足がしびれてしまって立てなくなって、芝翫(しかん)さんにこっそり相談したが対応してくれなくて、なんとか自力で引っ込んだ時が有るが、芝翫(しかん)さんは残っていなくてはいけない立場だったんで、どうすることもできないと後から言われました。
歌舞伎をどうやったら見てもらうか、シネマ歌舞伎もあるようで、一つ興味を持つと次から次へと色んな役者をみて頂ければと思います。
好きなことをやっているのが、一番いい事ではないかと思います。
どなたでも嫌いなことが一つあるとは思いますが、嫌いなことをクリアすれば、後は好きなことばっかりなので、好きなことをやれるようになったら、人生一番明るくなるのではないでしょうか。





2017年1月1日日曜日

直野 資(東京藝大名誉教授)  ・71歳、人生も舞台も自然体

直野 資(東京藝術大学名誉教授・バリトン歌手) ・71歳、人生も舞台も自然体
2017年 1月1日 「新年明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。」

直野さんは昭和20年生まれ石川県出身。
東京藝術大学主席卒業後、大学院に進み、後にイタリア、パルマに留学します。
帰国後、新国立劇場リゴレット二期会ファルフスタッフの舞台で活躍、1994年~2009年にかけてNHKニューイヤーコンサートに出演、コンサートソリスととしても高い評価を得ています。
東京藝術大学では20年以上学生の指導に当たって、多くの優秀なソリストを育ててきました。
退官後は昭和音楽大学大学院で教鞭をとり、オペラの舞台では公演監督を勤めてきましたが今年 2月の二期会とローマ歌劇場の提携公演トスカでは一歌手としてオーディションを受け、スカルピア役としてオペラの舞台に登場することになりました。
70歳を過ぎて久々の舞台にかけるオペラへの想いを伺います。

ヴェルディが好きですが、プッチーニは或る意味やっかい、難しい。
音楽の作られ方がベヴェリズモ・オペラに近づいている中でプッチーニは作っているので、その気もちを上手く捉えないと上手くいかない。
やりたくて、通るかどうかわからないがあえてやってみようと、オーディションを受けました。
近づいて来るとプレッシャーがあり、そのプレッシャーがいい。
大学では自分の部屋で声を出したりしています。
母親は私が学生コンクールで優勝したがもっと飛び立っていくと言う風に思った様です。(金の鳥が生まれたのを夢に見る)
子供のころは音楽は好きだったが、クラシックではなく歌謡曲でした。
春日八郎さんが好きで全部覚えました。
母親がいないのを見計らって金物のバケツに向かって春日八郎の歌を歌っていました。
「資」 大岡昇平「あすへの遺言」に出でくる「岡田 資」 こういう人になってほしいと願って父が名前にこの文字を付けました。
月に一回斎藤達雄というバリトンの先生がいて、歌を教えて貰えと言われ教えてもらって、内容が面白くなかったが、やっていました。

高校は東京に行って、音楽学校に行って試験で好きだったので「別れの曲」を歌いました。
東京音大学付属高校に合格しました。
歌は持ったものがないと駄目。
3年生の時に東洋音楽大学の学長から、「お金いらないからうちの学校に来なさい」といわれて大喜びで母親に連絡したが、「私は芸大に行くと思っているんだけどね」、それでおしまいでした。
ドイツ歌曲ばっかり聞いていて、ドイツ語のことばっかりやっていました。(大学2年まで)
歌はベルカントでなければだめといわれて、イタリア語の物を歌う様になりました。
テノールも考えたが、いろいろめんどくさいこともありこのままでいく事にしました。
歌い手になろうとは思っていませんでした。
大学院に入った時に柴田先生に、辞めたいと言ったが、相談して、修士を取らないといけないと言われたが、大学院を途中で辞めて就職しました。
ニコラ・ルッチ先生がいて貴方はイタリア的な声なので、次の定期のころにやるんだよと言われたがお断りし、BGMの音楽系の会社に入ったが、半年後にイタリアに入学したい気持ちがめらめらと起きてきて、好きな人が出来て(一人娘 一級建築士の免許もっていた)駆け落ち結婚をしました。
稼がなければいけないと思って、鞄屋さんの会社に就職しました。
子供も授かって、頑張れたのは子供のおかげだと思います。
留学するのにコンクールなど受けたが、そうはいかず、直野(妻)の父親が和解して、受け入れてくれてお金を出すことになり、一人でイタリアに2年ぐらい行きました。
ラウリ=ヴォルピという有名なテノールがいて、そのひかえとしてしていました。
ヴェルディが作った音楽院にいまして、そこに毎月行っていました。

帰って来てから、貧乏な生活で、野草で食べられる物をてんぷらにするとか、していました。
イタリアにいたころに残ったお金をお土産ではなく、御礼を述べてお金を返して、よかったと思いました。
妻もちゃんとしたところに入った方がいいと言う事で、入団試験を受け、受かったが、簡単に役はもらえるわけではなくて、セビリアは得意ではなかったが、役をいただきました。
大学でボランティアに興味が有って、世の中に貢献しなければいけないというベースが有って、そこで育ててもらった様な気がします。
林間学校とか子供達を集めるところから始めて、それは一つの社会、勧誘に行ってそこから始まり、家を建てる、それを一から始めて、林間学校が終わったら積んでテントで被せて来年まで待たせる。
学生時代はエネルギーを持っていたので,それを社会にどう貢献しようとかは、常に思っていました。
いい仲間達もいました。
スタッフさんだとか、衣装さんだとか、社会のつながりが有るので、それを理解しなければ絶対駄目だと思っていました。

トスカ 命をかけたんです、その位の思いがないとオペラは出来ない。
ヴェルディは或る決まったフォームを守って歌い続けなければいけない、プッチーニはそこから離れた処を要求してくる、発声の崩れなどを乗り越える自分を持っていないといけない。
プッチーニはリアリティーが有って、魅力を感じる。
自分がやるとなるとえらい大変です。
スカルピアはどんな声と色んな人が言いますけど、きちっとした人ではないが、人格としてちゃんとした人だと思っていて、汚しては駄目。
変なことをすることに人の目が行くが、それは絶対やってはいけない。
スカルピアは2幕で死んで、カーテンコールで一回出してもらったが、白っとしてしまった。
あれは絶対やってはいけないものだと教えてもらった。