2017年1月5日木曜日

半藤末利子(エッセイスト)    ・生誕150年 孫娘が語る漱石一家

半藤末利子(エッセイスト)    ・生誕150年 孫娘が語る漱石一家
文豪夏目漱石、生誕150年 近代史研究家で作家の半藤 一利さんの妻末利子さんは漱石の長女筆子さんを母に持つ漱石の孫娘になります。
半藤末利子さんに漱石の弟子で父の松岡譲さん、母の筆子さん、祖母の鏡子さんのお話しを伺いながら、漱石はどんな人だったのか伺います。

旧暦の1月5日が夏目漱石の誕生日。(新暦だと2月9日) 生まれて150年。
新宿の早稲田南町 漱石が最後まで住んでいた処に漱石山房記念館がオープンする。
10年前から話が出ていて、足の便が悪い所ですが。
書斎と客間、それを漱石山房と言う事になっています。
大正5年に漱石が亡くなって、私の父は夏目に家に入るようになって、娘婿です。
山房を残さないといけないと言う事で、当時の府長さん、父が奔走した様です。
漱石記念館は大空襲で焼けてしまいました。
父は新潟県の長岡の僧侶の家で産まれましたが、インド哲学科に通っていたが文学が好きで芥川龍之介、久米正雄、菊池寛らと第四次「新思潮」とかに小説を載せたりして、作家志望になり、漱石山房に勧められて、芥川龍之介、久米正雄に連れて行かれて、芥川龍之介、久米正雄は漱石が亡くなる2年前 父は1年前に山房に通いました。
久米さんがうちの母が好きになりましたが、母はうちの父が好きだったので久米さんとの結婚はしたくないと言って訴えたかった、出来ないと言う事で御飯などは食べなかったようです。
久米さんはおっちょこちょいで惚れっぽくてどこへ行っても浮き名を流す方です。

父は筆を折ってしまってやめてしまいました。
敦煌、父が想像して調べて書いたのがそうで、壁画、仏さまの配置など寸分違わなかったという事で父が書いた通りだったと言う事で吃驚したそうです。
「漱石の思い出」 祖母鏡子さんの口述を筆録 細かくきちんと纏めている。
母はおとなしい人でした。(久米さんが嫌いで松岡が好きだと言えない人でした)
母が物ごころついた時に漱石に会ったのは、神経症を患っていたころで、理不尽なことをいろいろしたがそれは病がさせることで根は漱石は優しくていい人です。
鏡子さんのこともいじめる訳です。
筆子は兄弟中で一番かわいがられた様です。
「安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり」 筆子を産んだ時の漱石の句
鏡子は文字が下手だったので、筆子と漱石が付けた名前だったが、母も文字は上手くなかった。
母は言葉使いは厳しくしつけられて、言葉は丁寧でした。
母は女という事で、本は読まなくてもいいとか勉強しなくてはいいと言われたそうですが、男の子にたいしては厳しかったようです。

祖母は余り料理は得意ではなく、母は料理学校に行ったりして料理は得意でしたが、私は料理は余りやりません。
母は83歳の時に脳梗塞になり認知症になりました。
介護をしても私のことは忘れてしまって、母親(鏡子)だと思っていたようです。(かわいそうでせつなかった)
漱石の明治のしつけはこうなのだと思いました。
母は、あの母(鏡子)だから漱石と暮らしていけたんでほかの女性だったら暮らしていけないと、よく言っていました。
糖尿病とかいろいろ病気になり病弱なのに、あれだけの小説を書かせたので祖母はあっぱれな妻だと私は思います。
漱石が大病して長逗留した修善寺の宿の人も祖母を誉めていた様です。
大吐血した時にも泣いたりしないで、医者に来ていただいて、見舞客も大変だったが、それを失礼のない様にちゃんとおもてなしをして、やり抜いた人でした。
「病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋」 漱石の妻への句(つわりの頃)
甘い句をたくさん詠んでいました。

祖母には貫禄が有り威厳があり、絶対私などは逆らえなかった。
叔母(漱石の3女)栄子 漱石がとてもかわいがった叔母でした。
私がボーイフレンドを連れて行った時に、台所に立たない祖母がお赤飯を炊いてくれたので、後になって考えるとお祝いの意味で作ったのかなと思いました。(結婚すると勘違いした様で)
小さいころは祖母にお風呂に良く入れられごしごしこすられました。
祖母は良く人に物を上げるのが好きでした。
漱石と祖母は殆ど共通点はなかったが唯一、物凄く心根が優しいことだと思います。(神経症さえなければよかったと思いますが)

夫(半藤 一利)からのプロポーズでした。
私が本を出したのが65歳です。
もっと早くから書けばいいと思ったことはありますが。
祖母の事を書きたいと思います、両親の事も書きたいが、近すぎるし間に合わないかもしれない。