2017年2月13日月曜日

末冨綾子(画家)        ・見えない私が描くパリ

末冨綾子(画家)        ・見えない私が描くパリ
山口県生まれ54歳 武蔵野美術大学大学院を卒業後、フランス政府の給費留学生としてフランスパリに渡り絵画と壁画を学びました。
現在もパリにアトリエをおいて創作活動を続けています。
末富さんは全盲です、病のため徐々に視力が低下し、10年ほど前に失明しましたが、試行錯誤の末、紐を使って絵を描くと言う独自の技法にたどり着きました、
去年の11月には故郷山口県宇部市のときわ動物園に末富さんのレリーフが設置され話題になっています。

11人の人物と猿が一匹、一人づつ肖像画のように描かれたものが4枚づつ三段12枚がえがかれている。
パリで知り合った友達たちで、フランスは多民族国家なのでいろんな人たちがいたり、移民の人も多くて、いろんな国が多くいて、一人づつ名前も書いてあります。
目が見えないと、どんな肌をしている判らない。
いろんな国の人たちがお互いを認めながら幸せに暮らしている。
今は時代が違って来てこういうふうではなかった、そういう理想の国であった。
この中に一匹猿が描かれているが、猿はときわ公園にいる推定42歳の猿です。

紐をつかった立体的な作品になっているが、まずパネルに石膏とか漆喰を塗ってその上に接着剤を塗って、上からドライアーをかけるとハッチングというがねちゃねちゃとしていて、紐を貼ると紐がくっついて、形を作ってその上にアクリル絵の具を何層かかけてそのあとで紐の出ている部分に黒い色を塗っていくと版木のような形になるが、黒地に白い線で描いているように仕上げています。
ヒントになるのは棟方志功の技術です。
昔は線で描いていたが後でフィードバックができなくて線を紐に置きかえると、だいたい目はこの位置とか、当たりを付けることができるので紐のアートに変わって行きました。
大学院の時に作っていたアクリル画が公募展で賞を最年少でいただいたりして、フランス人の審査員から完成していると言われたが、目が見えなくなると言う事がなったら自己の模倣で終わっていたかもしれません。
眼が見えなくなって考えることを強いられて、フランスは理屈でものを考える国であり、理屈で考えてものをつくっていかなくてはいけないと言う事を、パリの国立高等美術学校の先生達に叩き込まれたことだったので、紐のような形に変えてゆくことには何の抵抗もありませんでした。

パリに渡って作品が変わったということはそんなにないです。
子供のころ印象派の画集を絵本代わりに見ていたとか、山口県は土が黄土色で、空が青くて南仏のセザンヌがスケッチをしに歩いた道などと色調が似ています。
有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか思わなくて、芸術の心理に近づきたい、それが一番です。
中学生の時に両親がガーデニングをやりたいと言って田舎に引っ越して、片道10kmを自転車で学校に通っていて、農園道路に入ると真っ暗で見えずらいと思ってそれは街灯がないことだと思ってた。
高校2年から3年にあがるときに、家族と一緒に自転車で行くときに、私の自転車が速度が遅いと思うようになって、医者に行ったらだんだん目が悪くなって40歳ぐらいになると失明してしまうかもしれないと言われた。(言われても実感がなかった)

武蔵野美術大学に受かって、その後パリに行くことになる。
父が大学3年の時に亡くなり、大学院に進んだ時に奨学金があり、非常勤講師をやったりデザインの仕事をして卒業しました。
絵を今描きたいと言う気持があり、半年間パリに行く機会があり、フランス給費留学生になれたら2年間奨学金をもらいながら絵が描き放題で、パリの国立美術学校で勉強もできると言うことだった。
3か月でフランス語をたたき込んで、一次試験をパス、二次は面接があり、目の事は隠していた。
パリは間接照明で暗いし、地下鉄の中も暗くて最初きついと思いましたが、だんだん慣れてきました。
本もずいぶん読みました。
マティスも切り絵がありますが、眼が見えなくても切ったりできるし、作品自体マティスも眼を悪くして入院していた時の作品でした。
どんなことを考えて、どんなコンセプトで作品をつくっていくかが、フランスでは大変重要な事で、オリジナリティーを大事にする国です。

ドガが早くに見えなくなっているが、まったく見えなくなっても馬の作品などをつくっている。
ドガは失意のうちにいたが、ドガはそれをつくることによって彼の命をつないでいた。
京都大学の心の未来センターで話をしたが、希望、未来とかそういうテーマのところで呼ばれる事が多いが、私はただ淡々と仕事をしているだけです。
尾ひれのように後で自分のやったことが付いてくる、というだけで日々仕事をしているのみです。
まずはアクリル絵の具で人物などを描いていましたが、だんだん目が見えなくなって線が太くなる。
最初は繊細な作品が好きだったが、ポンピドゥー・センターの中のフェルナン・レジェの太い線が好きになって、色弱にもなって、頭の中でピンクならピンクを頭の中で決めて、ブルーならコバルトブルーにそれに白、とか赤などをちょっと入れたりして、色合わせをしてゆくことで、頭の中で考えて仕事をするようになりました。
仕事をした後に触っても色が判らなかった。

蜜蝋を使ってみようと思って、パネルに石膏とか漆喰を塗って、その上に顔料を混ぜた蜜蝋を塗って、それを彫刻刀で削っていった。
棟方志功のように木を削ろうしたが、木は硬くて駄目だと思って、蜜蝋は柔らかいので削ってゆくと出来上がった時に、目減りしてゆくので後で触るとやはり判らない。
そこでおしまいかなあと思ったが、ピアノを弾いたりして余生を過ごすしかないかなあと思ってピアノを買ったら、ピアノの調律師がタコ糸を持っていて凧揚げの会にも入っていてタコ糸をあげますといわれて、タコ糸もいろいろ種類があり弾力性もいろいろあり、それを使ってやっているうちにいつの間にかうまく行くようになり、版木のような効果もあるのでいいと思うようになり絵画に戻りました。

下絵を頭の中に思い描く様にする事が出来るので、頭の中にある絵を画面の中にコピーしてゆく。
目が見えなくなってからは確実なものを求めるのが必要になるので、フランス語の語句をパソコンで調べます。
作品を明快なものにしてゆく事になるのではないでしょうか。
1998年結婚、子供も設ける。
うちの地域はアウシュビッツで一時収容所になっていた事もある地域で、皆さんご苦労なさった方が多いので人情深いです。
フランス人の親切な人たちに助けられました。
テロの襲撃の2度目の時に、私の友達でレストランが襲撃されて何人か亡くなってしまいました。
レストランをやっていたが1年前にほかの人に譲り渡したら、レストランが襲撃されてしまった。

これまではがむしゃらに作品をつくってきたが、有名なルーブル美術館にある絵画を作った作品なども2~3点しかなくて、100年後200年後にはほとんどの作品は無くなってしまうと思うので、作った作品を確実に保存してくれる所に収蔵してもらうと言う事が大事だと思います。
少しづつでも質の高いものをつくっていきたいが、これから目指すものというよりもこれまでやってきたものからしか出てくることはないと思う。
作品を作っているところを見せる、これは新しい試みですが、見せて行くことが大事だと思います。
突然見えなくなったわけではないので、視覚障害をあまりおおげさにとらえないでほしいとは思います。
京都市の明倫小学校という廃校を改造して、芸術センターがあるが、そこで作品を作っているところを見せる、それに向けて頑張りたいと思います。