2017年3月29日水曜日

大杉正明(清泉女子大学教授)    ・英語が拓いた世界への扉

大杉正明(清泉女子大学教授)    ・英語が拓いた世界への扉
長年ラジオ英会話の講師として、更にラジオ深夜便でも「名画、名曲、名セリフ」や現在は大人の教養講座でユーモラスなだじゃれを交えた軽妙な語り口で人気です。
今日は今年70歳を迎えた大杉さんの英語の原点、英語で人生を切り拓いて子供の頃の夢を叶えてきた話を伺います。

1947年生まれ 今年で70歳、静岡県伊東市の出身、明治学院大学大学院を卒業、現在は清泉女子大学英文科の教授。
NHKの語学講座にかかわったのは1982年、35歳。
1987年からNHKラジオ英会話を11年担当。
TV、ラジオで28年間NHKの語学講座を担当して、8年前「名画、名曲、名セリフ」
から始まってラジオ深夜便出演。

団塊の世代といわれて居る世代です。
当時みんな貧しいので気にならなかった。
ゆったりしている生活感でした。
英語との接点はほとんどない子供時代でした。
英語の唯一の接点は西部劇でジョン・ウエインがステーキを食べているのを見て、家に帰るとアジの干物が待っていて、アメリカは凄く豊かなんだなあとアメリカに対するあこがれはアメリカ映画を通して芽生えてきました。
これが英語の勉強に対する最初かなあと思います。
西部劇の遊びでまねるのにデタラメ英語を使って遊んでいました。
段々本物の英語を使いたいと思うようになりました。

小学校に上がるかどうかのころに家にはフォードの車がありました。
家を売ってフォードを父が買いましたが、借家暮らしとなりました。
車で遊び歩いた父親に対し母親はついに離婚して、父親の借金を背負って4人の子を育てました。
母親は難行苦行の連続でした。
姉たちも私も自分の机の持ったことがありませんで、家で勉強したことはありませんでした。
ラジオから流れてくるアメリカの音楽に心を動かされて、段々プレスリー、ニール・セダカとかのまねしようとして、流れてきたものを判らないながら一生懸命聞いて真似していました。
後で英語が判るようになりましたが、当時結構正確に覚えたと我ながらいい方法だったと思いました。

中学の時には英語を一生の仕事にしようとは思わなかったが、映画、音楽の英語は楽しいし好きだし、ただ英語を勉強することとは違っていました。
英語の時間にカッコよく発音すると廻りから、いじめられたりしました。
日本語的英語の発音をすることで和が保てました。
高校時代も自宅では勉強したことがなくて、卓球ばっかりしていました。
英語の授業の担任の露木先生と出会いまして、先生から厳しく教わって、先生のおかげである程度力もついて来ました。
全国模擬試験で英語の点数だけは200何十番で、廊下に貼り出されて吃驚しました。
3年生の頃に、先生が私の出た大学(明治学院大学)に入らないかといわれ、明治学院大学に進みました。
英語の教員になる以外に考えはほかになかった。

兄弟の中で私だけが大学に行きましたので、自主的に勉強するのが大学の4年間でした。
人間はどんな場所にいても与えられ場所で、自分の持てる力を最大限に発揮して最善を尽くすことが大事だと、教え子などにも言っています。
高校の教員になるつもりでいました。
教員免許を取るには道徳教育の研究は必修でしたが、退路を断つと云うか、後期のレポートを出すのを辞めてしまいました。(大学院に行く事に仕向けるようになってしまった)
大学院に入って、その後職を得たのが女子聖学院短期大学(ミッションスクール)の英文科に入り6年頑張ってその後清泉女子大学に移りました。
ESSの顧問をして指導していて、全国規模の英語のスピーチのコンテストがあり、審査員の先生を頼まれて行って、審査員の一人がアラン・ターニー先生、清泉の教授で漱石の研究家で世界的に有名な翻訳家の先生で、もう一人がジョン・ネイスンと云う先生でコーネル大学で日本文学を教えていた先生で、安部公房、大江健三郎の作品の翻訳で有名な先生で、3人目が無名の私でした。

1日お付き合いをしたことで、1週間後にうちの大学に来ませんかといわれて清泉女子大学
に行くことになりました。
中学~大学院の教員と学生を対象に、ある試験があり優秀な成績で合格すると全額支給でミシガン大学に行ってディスカッションをしたりすることに参加できて、その次の数名は半額支給でそれに合格して、アメリカに行くことになり、見るもの聞くもの食べるものみんな初めてなので吃驚することの連続でした。
こっそり夜中に出て行って食堂に行って、ハンバーグを頼んだり飲み物を頼んだりしてそれがアメリカでの最初の英会話でした。
ホームステーも経験し、思い出深い経験でした。
別れる時に奥さんがハグしてくれましたが、ドギマギしました。(当時はハグなど全然知らなかった)

ルート66の旅は面白い経験をした旅でした。(ところどころ寸断していて廃道になっていてしまってたが)
イギリスの大学の客員教授に1年間行きましたが50代になって、再びカルチャーショックを受けました。
いかにイギリスの国、イギリスの英語を知らなかったかと云うことに驚きました。
35歳のときに初めてNHKの語学講座をやらせていただきましたが、28年になります。
オーディションを受けさせられまして、はじめて英語表現入門というTV番組に出ました。
ラジオ英会話は伝統のある番組ですが、毎日放送する番組で大変で、講演の依頼などもあり、授業もあり、どっちが本物かと思ったときに教員だと思って、マイクの前の仕事も意義深い仕事だと思うが、生身の人間を相手にするのでいろんな指導も必要で、一介の教員として本来の教員として、引き際を考えました。
戻って行くのは教壇だと思いました。
ラジオ深夜便の「名画、名曲、名セリフ」は楽しかったです。(8年間担当)
続けて居ることに意味があるのでこれからも英語の勉強をしながら、頭の運動、身体の運動をして、「過去に学び、今日に生き、明日に希望を」そういう気持ちでこれからも生きていきたいと思っています。