2017年3月8日水曜日

今野由喜(「つながっぺ南相馬」理事長)・つながっぺ!故郷の仲間たち

今野由喜(NPO法人「つながっぺ南相馬」理事長)・つながっぺ!故郷の仲間たち
2011年3月、東日本大震災から間もなく6年が経ちます。
福島県南相馬市にお住まいの今野さんは「つながっぺ南相馬」という団体を立ち上げて、震災で離ればなれになりがちな人々に対し少しでも地元の人たち同士の繋がりや交流を続けていこうと、5年間にわたって支援活動を行っています。
今野さんは南相馬市の小高区の出身で震災前は3世代 9人の大家族で稲作を営む兼業農家でした。
震災の時自宅は大津波で流され、自分自身も車の運転中に津波に巻き込まれましたが九死に一生を得たと言います。
震災後は一時山形市に避難していましたが、その後地元に戻りこの団体を作りました。
「つながっぺ」という言葉は「一緒につながろう」と言う意味の地元の方言で、離ればなれになりがちな心や生活をつなげていこうと、サロン活動などを通じて地域社会の再建を図っています。

震災前が12800人でしたが、6か月たって1300人ぐらいまで戻ってきて、この4月になる頃は若い小学生から高校生が来て、町にも活況を与えてくれるのかなあとあと期待はしています。
南相馬小高区は福島第一原発から18kmぐらいのところです。
500日経って、一時立ち入りが自由になりました。
昨年7月に避難指示が解除されて、住民、外部から訪問される方が自由に往来が出来るようになっています。
「つながっぺ南相馬」を立ち上げる。
震災直後は20km圏内の人が鹿島区に仮設住宅が出来て避難していました。
その人たちを対象にサロンを作って、癒すとか、支援物資等も配ったりして活動していました。
避難してきた人々とは知らない人同士だったので、会っても挨拶程度だったし、情報も届かなかったという状況で、コミュニティーサロンを立ち上げました。

小高地区などは若い人たちは工場に働きに行って、サラリーマンを終えた方が農業をしたり孫の面倒をみると云うようなことが生活スタイルでした。
私は兼業農家で区長をしていました。
今でも鮮明に覚えているのは、書斎でパソコンに向かっていて、家が倒れるのではないかという恐怖を抱きました。
津波が来るなと瞬間的に思いました。
建物の基礎は残ったが上は全てもっていかれ、何トンもある庭石もどこかに行ってしまいました。
私自身は地震が収まった後、自転車に乗って避難しなさいと声かけをして、自分の自動車に乗って地区の公会堂に向かったが、ちょっと寄って自動車に乗ろうとした瞬間に津波が見えて、あっという間に車が浮いて流され始めまして、車もろとも流されたが、水が止まって九死に一生を得て、消防の方々に助けられました。
朦朧とした状態だったが認識できるまで数十秒かかったと思います。

妻は地震直後に学校に向かったので、津波の被害には会わなかった。
2日目の夕方には家族と再会できました。
息子から原発が危ないので遠くに逃げるようにとの話があったが、自分自身は原発は安全だと信じていた。
叔母の家に一旦に逃げたが、息子からとにかく遠くに逃げるようにとしかられました。
娘が山形に嫁いでいたので、避難のため車で向かいました。
放射能の脅威は実感していなくて避難したが、日が経ってくると放射能の情報がいろいろ入ってきて、段々実感する様になりました。
5月1日に単身で戻ってきて、災害FM局でメンテナンスの募集をしていたので、電子系の技術屋でもあり、若い当時はアマチュア無線もやっていたので、お手伝いをさせていただくことになりました。(南相馬ひばりFM )

家庭用のラジオでは4~5kmぐらいしか通じなくて、避難した人は鹿島区でそこまでFM局の電波が届かなくて、忸怩たる思いがあった。
鹿島区の仮設住宅に屋外のアンテナを立てて、そこの集会所では聞けるようになった。
でもそこではいろいろ問題点を抱えており、ボランティアの人たちと「つながっぺ南相馬」を立ち上げました。
2012年1月から仮設住宅でのサロン活動を始めました。
コミュニティーとしてはうまく機能してはいなかったり、ベニヤ板一枚隔てた住宅なので話し声、子供の声など音の問題とかで隣の方とうまくいかないとか、自死した方もいました。
最初の1年は無我夢中で、出来る事は何でもやりました。
コミュニティーを作らなくてはいけないという思いがあり、自治会も出来る中で半年すると自治体のコミュニティーは機能するようになったと思います。

心の問題を抱えたまま仮設住宅に入って、心の問題の緩和、取り除くことが重点課題でした。
国際ボランティアセンターとの支援で3か所やりました。
4か所目は赤十字の助成金の申請を行い2012年12月には4か所目を運営することになりました。
ひまわりサロン (小高区) お茶を飲みながら、何が足りないとか話をしたり、料理教室、カルチャー教室を開いたりもしています。
現在は被災前の1割ぐらいの人口(1200人ぐらい)で、4000~5000人ぐらいになればいいと思い
ます。

最優先事項は若い人たちが住んでいただくこと、そのためにはどうして行くかを考えています。
現在60歳以上が7~8割です。
若い世代は避難先で家を建てたりして生活基盤を築いている状況です。
外部の土地の方々と交流を深めていって、田舎に住んでみたいと云う方が出られればいいと思ってます。
働く場、人生を俯瞰できるような安定した職場が不可欠だと思います。
教育の場、保育所等を最優先でやることが必要だと思います。
外部の人に対しては何らかの住宅の供給方法の検討も必要だと思います。
長期化するのかなあとは思っています。
NPOとして何が出来るのか、行政との関係の両面作戦でやって行きたいと思います。
NPOとかかわっていただいた方々から感謝の声を聞くと、頑張ろうと云う気になります。