2017年5月31日水曜日

吉井久夫(暖房器具製造会社社長) ・みんなで“一歩前進”

吉井久夫(暖房器具製造会社社長)  ・みんなで“一歩前進”
吉井さんの経営する会社は新潟平野の水田地帯にあります。
吉井さんは地方都市にありながら石油ファンヒーターのトップ企業として、長年黒字経営を行っています。
また、社員や協力会社のひとを大事にし、地域とともに豊かにという経営方針で知られています。
吉井さんは芝浦工業大学で電気工学を学び父親と地元で電気店を営んでいましたが、石油ストーブの技術が急激に変化する時代、電気の知識、技術を買われ先代の社長にスカウトされて入社し、現在の石油ファンヒーターを作り上げました。
吉井さんは会社に関わって40年余りに成りますが、石油スト―ブという冬場にしか売れない商品を、年間を通して安定して製造販売する体制が出来たのは、社員や協力会社のお陰で次の世代にもこの経営を引き継ぎたいと言っています。

ふつう冬物は10月から12月が販売のピークですが、生産の方ははほぼ平準化して生産をやるようにしています。
必要な時に必要だけ作ると云うことになると3か月で対応しなくてはならず、今の4倍の人と4倍の設備が必要になります。
平準化すると働いている人にとっても安心しますし、協力会社さんも安定した生産が出来ます。
50%は内製で残りは協力会社さんにお願いしています。
社員は500名強いますが、協力工場さんも500名近くいます。
ストーブを始めて40年近くなりますが。20年弱前から何とかそういうふうにしようと、毎年努力しながらこういう状態に成りました。
働く人を大事にする会社ということで、2名は臨時でいますが、パート、季節社員などはいません。
小泉さんの改革の時に派遣がゆるくなったんですが、出荷担当で臨時に雇った時はありますが、臨時の人の半分を正社員にして派遣は中止にしました。
そして正社員を100%にするようにしました。

現場で生産している人も出荷が大変な冬場の時には、やりくりして手助けをするようにしました。(多能工化により平準化)
QC活動は活発にやっていると言われますが、QC活動は当たり前にやっています。
QC活動はコストダウンなどが評価されますが、当社では半分以上は難しい仕事、辛い仕事などを楽にすることも評価しています。
障害のある方も入ってきて、先生とかその後輩たちが雇用した人が長く雇用されていることを評価して、新たに雇用する様になりました。
ごく当たり前に入って仕事をしているので、あまり目立ちません。
営業担当は全国にいますが、工場を中心にして車で通える範囲の人が働いています。
地元が好きな人がたくさんいる訳で、郷土愛のためにここで生活できればという思いがあると思います。

海外生産をして利益を上げようと、新潟県内でも結構海外生産に出たところもありますが、石油ファンヒーターは日本の得意な商品なんです。
競争相手が外から来なかったということもあり、海外に出て行って生産する方がリスクが多かったと言う良い背景もありました。
自分の利益が儲かっても、ここで生活する人にはなんにも還元されないので、日本での雇用を成立させる方の価値が大きい様な気がしました。
100%海外展開した会社もありますが、雇用されていた人達は大変だろうと思って、ここの人たちと一緒に働くことが大事だと思いました。

会社創業者は佐々木文雄さんで彼にスカウトされました。
ストーブは電気の部分が50%ぐらいに成り、電気の専門家を探していて、手伝ってほしいといわれて、電気の担当を一気に引き受けました。(昭和48年)
53年前は加圧式の石油ストーブを作っていて最先端を行っていました。
芯上式はだれでも簡単に付けられるので、その新製品に駆逐されて倒産することに成ります。(社長が42歳の時)
18人で再開し、電気を使って新しい石油ストーブを開発しました。
電気を使うことで安全な石油ストーブを作ることに成功しました。
最初電気での故障が多くて、その商品が出来て2年目ぐらいの時に入ってきて、故障しないようにして急激に伸びていきました。
先代社長は倒産の危機を経験して胃潰瘍に成り、大手術をしました。
200人ぐらいの人は失業するし、倒産は絶対あってはいけないと思いました。
その後悪い時期もありましたが、先代の社長は解雇しないと云うことにしました。

倒産すると云うことは、従業員を路頭に迷わすということは、罪というか悪さは凄く感じます。
うちの会社は独自の商品でお客様に提供しようと云う事があります。
効果、効用のないものを売ってはいけないと思っています。
マイナスイオンがはやったことがありますが、本当に効果があるかどうかは証明されていないので、それはまやかしではないかと思ってそういったことで売ってはいけないと思います。
使用者に何時までも愛される良い商品を提供する。
社是で良い商品を作ることを唱和しています。
意見は自由に言えるような雰囲気になっています。
自由に言えるとか、こうなって貰いたいとか、こっち側からそういった雰囲気、環境を作ることが大事だと思います。
発揮する能力は意欲で差が出て来ると思います。
そして結果が悪いのは社長で成果は社員だと思います。
上場するときにマイカンパニー、アウアカンパニーからユアカンパニーに替わるんだと言われたが、我々の会社じゃないかと思ったが、或る時に在庫が多くなったときにうちは内部留保があったので生産をそれ程しなくても会社として問題無かったが、協力工場が50%になったらやっていけないと思って、アウアカンパニーではなくてユアカンパニーーだと言うことを実感じました。









































2017年5月30日火曜日

新村拓(北里大学名誉教授)      ・ほどほどの生を生きる

新村拓(北里大学名誉教授)  ・ほどほどの生を生きる
1946年生まれ、早稲田大学で学び、人の死、病、老い、看取りについて日本人がどのように考え対処してきたのかを研究してこられました。
医療技術の発達と社会制度の充実がもたらした高度の治療と延命、高齢化に直面している現代、新村さんはほどほどの養生によるほどほどの健康を得て生きることを生き甲斐とするのが理想ではないかと考えています。
ほどほどの生が何よりと言う新村さんのお話を伺います。

20代の半ばから生老病死を研究するようになりました。
中学生のころから自分がどう生きたらいいのかと言う、生きることの意味について非常に悩みました。
勉強しなくなって本を乱読しました。(年間300冊ぐらい)
大学を受けようとしたときに、農業しながら晴耕雨読ということを考えて農学部を受けたが落ちまして浪人生活に入りました。
哲学をやろうと思ったが裏付けがない、頭でつくりだす。
過去には人が自分なりの結論を出し死んでいった人たちが何か書き遺したものはないかと調べてみようと思って歴史を選びました。
生老病死を考える様になりました。
病気の時にどういうふうに考え、どういう行動をとったのかを調べ始めました。
医学史、医療史との分野にも入ってゆくわけです。

古代は不老長寿を理想として、中国の道教の思想が強かった訳ですが、平安時代の半ばぐらいになると、来世の思想「欣求浄土」極楽の世界を目指すと言う仏教の教えが非常に影響力を持ち始めます。
鎌倉、室町時代に成ると今までの不老長寿は否定されてくるようになり、長く生きたところでそんなに意味があるのかと、一人だけ取り残されてしまう事に成る、それよりもその日その日を大事に生きると言うことの方がいいという教えが出てくる。
それぞれの年代ごとに課題を設定しろと、それを一つ一つクリアしていけば後で振り返った時に自分の人生は充実していたと、そういう思いを持って死ねる、それが人生生きることの最大のいい生き方であろうと云うふうに変わってくる訳です。
江戸時代になると、儒教の考え方が非常に強まってきて、長生きすることは重要だと云うことで養生に努めることになる。
歳をとって人の道が成就する、老熟、人道の成就、人間の価値は老熟すること、人格の完成が生きる事の人としての目的なんだと云うことで、長生きしないと意味がないということに成るわけです。
また自分を産んでくれ親に孝行を尽くさないといけない。
親孝行するためには長生きしないといけないと云うことが言われるわけです。

養生の考え方は元々中国が源泉で、それが古代に入ってきて受け繋がれ、養生の事について書いている、貝原益軒はそれらを集大成した。
その後も養生論が出てきて内容も変化してきている。
長生きのためには日々の生活を律していかなければいけない、そのためには3つある。
①好色を慎まなければいけない。
②食欲についても慎む必要がある。
③寝ることを慎む。
欲を抑えることによって疲れもしなくなり、体調も良くなり、長生きできるということになる訳です。
自分の体は先祖から受け継いできているものなので、大事に次の世代に受け継いでゆく必要があると言うことも云われる訳です。

江戸時代の半ばから後期にかけて、長生きしてもボケてしまえば意味がないと云うことになる、ほどほどの所でいいのではないかということになる。
養生もほどほどということになる。(生活が楽しめない)
ほどほどに養生してほどほどの所で死ねばいいということに成る。
江戸時代の初めは大家族制(奉公人含め15人とか)、それが小家族制(5~6人)に移行して行く。
介護が必要になると手がないから大変で、放っておかれてしまって、そういうのを見ると迷惑をかけるし、老醜をさらすことに成り、ボケる前のほどほどにということに変わってくる。
幕末に成ると健康なんてない、十全健康と云うものはあり得ない話だと、帯患健康が普通なんだと、多少病気があっても日常生活で折り合いをつけて、不便も感じない、それが健康なんだと変わってくる。

明治を迎えると儒教思想が無くなり、生理学を裏付けとした健康論に変わってくる。
富国強兵、国のために、公益のために、と重心が移って来る。
国の為健康が強制されるようになる。(健康チェックがいろいろされるようになる)
現代は強制される健康、医療費削減という大前提のもとに自分で健康を管理する、健康の自己責任と云う事が言われ始めている。
迷惑をかけないということは非常に重要な徳目に成っているわけです。
どの程度ならいいのかということですが、貝原益軒は100歳が人間の限界だろうと云っていますが、ほどほどの限界は60歳まで生きれば結構だろうといわれる訳です。
跡取りにまかせ楽隠居が人生の目的だと、いろいろな事に縛られないで自由に生きる、それが60歳代だといわれる。

だれでも自分が住み慣れた所で最期を終えたいと云う希望はある訳です。
1990年代の終わりごろの全国調査で在宅死を希望したお年寄りが8割、今は6割を切っているようなところです。
1951年では8割が在宅で亡くなっていたが、1977年病院死の方が増える、現在は8割が病院死、在宅死が13%、7~8%が老人ホーム老人施設で亡くなっている。
希望と現実の違いが6割ぐらいあった。
在宅死を支えるのにはどうしたらいいかということを、研究のテーマとして沢山の人に協力をいただいてやっています。
歴史を踏まえて考えていった場合に、以前は家で看取る為の技術、知識を持っていた為に、家で看取れた。
病院で死ぬ方が増えて行って、77年以降は病院死が増えて行き8割程度に成り、家族地域の人たちの中から看取る為の知識、技術が無くなって行く。

20年前ぐらいから医療費が増えて行くなかで、なるべく病院にかからないように、病院で死なないように家でという方向性が打ち出されるが、知識、技術がないのでまだ家で看取る覚悟がない。
本人が家で死にたい、それを支えるためには看取りのための知識、技術を家族、地域の人達がふたたび取り戻す必要がある。
そのためには高校の授業の中で教えればいい。
昔は家政学の授業の中で、末期の症状はこうなんだ、どうすればやすらぐとか、死亡の確認はどうすればいいかとかを教えるわけです。
昔は高齢者が25%、75%は若い人が死んでいる、乳幼児の死亡も多かった。
今は亡くなるのは年寄りは9割です。

死というものに対して受容する能力が以前は高かったが、今は看取りの技術、知識も無くなって全部病院任せに成ってしまっている。
だから高校の授業で教えればいい。
人間が歳をとって死ぬと云うことはどういう状況に成って死ぬのか、ということを家族が見ることによって、人生を学べる訳です。
限りある時間の中で自分の人生を燃焼し尽くすと言う気持が湧いてくるわけです。
2000年から介護保険が始まり、それがあり助かりました。
父の介護で母と12時間ずつ担当する訳ですが、一番困ったのは人手であり、大変でした。
地域包括ケアシステムが出来つつある、医療機関、介護施設、その他の施設を統合連携して在宅で継続的に安心して療養生活が出来るシステムを立ち上げようとしているが、それは結構なことだと思います。

地域で見て行く体制、地域のかかわりが薄くなってきているので、もう少し昔にかえって見てみることも必要なんだとは思いますが、家に入ってきて他人に介入されることも厭と云うこともあります。
戦前は地域の人が家に入って結婚葬式など手伝うことがあり、その延長で看取りがあったわけです。
一日一日しっかり生きていれば何時死んでもいいという気持ちになれる訳です。
それぞれの年代ごとに目標を決めて課題を設定して、一つ一つ課題をクリアしてゆくと言う計画的に人生を生きると言う生き方をしていれば、そんなに死を恐れる必要がないかと思う。
「ほどほどの養生でほどほどの生を」ということですね。



















































2017年5月29日月曜日

松本隆(作詞家)          ・【謎解き うたことば】

松本隆(作詞家)     ・【謎解き うたことば】
松本さんの作った歌は2100を超えて居て 400組近いアーティストに歌詞を書いて居ます。
「赤いスートピー」や「ルビーの指輪」など多くのヒット曲を生んでいます。

日本語学者 金田一秀穂:「はっぴいえんど 」は衝撃的でした。
松本:はっぴいえんど から洋楽ファンがファンに成ってくれました。
金田:フォークソンブがはやったが、新しい音楽だといっていた若者がいたが、演歌みたいじゃないのとは思いましたが。
「はっぴいえんど 」の詩の様に歌う詩と詠む詩はどう違うんですか?
松本:音楽が好きでロックバンドのドラムをやっていて、詩は趣味で中学ぐらいから興味を持っていました。
混じることはないと思っていたが「はっぴいえんど 」で交差したんです。
その前に2から3の秀作はあるんですが、いきなり「はっぴいえんど 」でした。
現代詩は難しすぎて、読者には判らないと思いました。
ジャン・コクトーは判る言葉で書いていて、なるほどと思いました。
日本の詩人は中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治などが好きでした。
僕は中原中也、宮沢賢治に育てられたと思います。
中原中也に教わったのは音楽的なリズム。

日本語は表意、意味があってそれを表している、形がその中に暗に含まれている。
漢字は綺麗だなと思いました。
追求してみる価値があると思いました。
見た目が美しい様に、音としてもロックのビートに乗るように両方兼ね備えたらパーフェクトに表現できるのではないかと思いました。
「はっぴいえんど 」と平仮名で書きました。
それで70年代平仮名がはやって、いろんなものが平仮名に成って、場末のスナックなども平仮名になったりして真似されすぎました。
作曲は細野晴臣さんであの人は天才ですね。

幼児体験が大事だと思っていて、幼児の時に知っている言葉で表現していかないとリズムに乗り遅れるみたいに感じます。
一音一語に付けて行くと綺麗です。
字余りの曲はあんまりないです。
*「風をあつめて」
「風と詩」にしようかと思ったが、他に使われてしまって、アルバムのタイトルは色々考えて「風街ろまん」に成りました。
マックスロードというコーヒー屋さんが好きだった。
田舎で育った青年が上京してくると渋谷のマックスロードを探すらしいです。
今は京都と神戸の両方に住んでいます。(ずーっと東京暮らしだったので他に住みたかった)
東京は行き過ぎた都会に成ってしまっているように思う。
渋谷をガングロが占拠してしまって宇宙が近所にある様な気がして違和感を感じました。

京都のいいところは10割のうち2割が学生で、毎年入れ替わって来る。
そういう人たちに紛れ込んでいる。
神戸は港町で何となく良い風が吹いています。
山からくる風と海からくる風と切り替わります、その切り替わる時は無風状態に成り凪ぎに成ります。
日常と非日常の隙間に詩が入っていて、隙間が大事で、その隙間を掘るんですが日常も非日常もちゃんと描いてやらないといけない。
優秀な作品はみんなそれがちゃんとしている。
京都、神戸は自転車で回れるのがいいですね。

















鈴木文弥(元NHKアナウンサー)・【特選スポーツ名場面の裏側で】(H19/10/11 OA)

鈴木文弥(元NHKアナウンサー)・【特選スポーツ名場面の裏側で】(H19/10/11 OA)
平成25年1月に88歳で亡くなられた鈴木さん、戦後の昭和23年にNHKに入り、以来34年間スポーツアナウンサーとして数々の名放送を残してきました。
昭和39年の東京オリンピックのラジオの開会式や女子バレーボールの金メダル実況等、名調子の文弥節は多くのスポーツファンを魅了しました。

NHKを退職して24年、82歳。
*昭和39年の東京オリンピックのラジオの開会式の実況放送。
昨日のことのように思い出します。
私はTVをやりたかったが、呼ばれてラジオをやってほしいと言われました。
妻から「オリンピックの開会式の実況するってすばらしいことじゃない。」と言われてはっと目が覚めました。
絶対ラジオの開会式を完全にものにしようと思いました。
私は原稿を持たない、参加94カ国を全部覚えました。
163段の階段を上がる坂井義則君が一つのポイント、それから選手の入場。
国によって人数が違うのでたとえばフランスは25秒かかる、25秒間にその選手団の事が全部云えるようなアナウンスを考えるんです。
毎日94カ国を1カ月やりました。(実況の練習)

開会式の実況放送のなかで、
「開会式の最大の演出家それは太陽です。今日の主役は太陽です。」という言葉があるが、前の日は大雨で、志村正順さんから最初の文句を考えて居たかといわれて、私は考えて居なくて、志村さんが「この天気を見てみろ昨日は大雨で、これは神風が吹いた、元寇の役だ」と言って、「神風が吹きました、と言え」と言いました。
部長の命令でもさすがに神風はいけないと思って、席に座った時に青い空を見てこれは主役は太陽だと思いました。
その場でぱっと出た言葉です。
163段の階段を上がる坂井義則君の実況、「・・・聖火台の右手に立ちました。」これが53秒で、52秒でも54秒でもいけない。
そのために練習をしました、努力ですよ。
原稿は無くて目と大きな時計だけです。
1カ月以上かかりました。

「一世一代の放送をしてやろう。この開会式は自分の最高傑作であるとうぬぼれている。」と本に書いたが、人間は天才はいないと思う、努力ですよ。
王貞治さんにいろいろ教えられました。
人間って、毎日毎日努力を重ねることによって出来て来るんです。
新しい言葉が出てくる、体燥の「ウルトラC」、バレーの「金メダルポイント」
技のなかで易しい順からA,B、Cとあり、日本は二つCをやっていてダブルCにしようとしたらそれはだめということで、「ウルトラC」にしようと言うことが最終的になりました。
「ウルトラマン」はここから来ました。

「金メダルポイント」 当時女子バレーの日紡貝塚が金メダル候補だった。
大松監督は厳しくて練習風景を見せないが、私だけは練習風景を見させていただきまして、2時ごろ見に行きましたが、7時、8時に成っても終わらない、やっと終わったのが10時半ですよ。
毎日そういう練習をするんです、見て居て涙が出ました。
無敗同士のソビエトとの対戦で、第1,2セットを日本がとり、第3セット 14対9ここでマッチポイントを日本が迎えるが、その時ぱっと出たのが「日本金メダルポイントです。」という言葉ですが、その後決まらないで14対13まで追いあげられる。
6回の金メダルポイントを発言することになる。
終わった瞬間に涙があふれて止まらなかったです。
予定していた言葉と云うのは心に響かない。

昭和44年高校野球決勝の松山商業、三沢高校 延長18回で0対084時間16分の激闘)で再試合。
昭和29年から高校野球の実況を担当していましたが、こんな名勝負はいまだにはっきり頭に残っています。
あんなにしゃべりっぱなしなのは初めてでした。
本当に優勝旗が二本欲しかったという思いです。
決着がつくかどうかのボールかストライクかの場面、即時描写は遅くても早くてもいけない。

スポーツ放送の一番の魅力は筋書きのないドラマだと思います。
それをいかに描写するかがアナウンサーーだと思います。
スポーツアナウンサーの条件は4つ
①即自描写力 ②必要かつ十分なスピード ③豊富なボキャブラリー ④人並み以上の体力と気力
本を読むとボキャブラリーが増える。
普段努力しなくてはいけない。
人と同じことをしていては人と同じことしかできない。
自分のたった一回の人生で人と同じでは面白くない、そのためには努力する。
生きて居ると辛いこと悲しいことがいっぱいあるが、誰も助けてはくれない。
楽しいなあ、嬉しいなあと思うと変わってくる、自分の人生は一回しかないから。

定年退職した翌年、58歳で脳内出血で危篤状態に成り、左半身不随、言葉も十分に喋れることができなくなってしまった。
入院して言葉もしゃべれなくなってしまって、よしもう一度喋ろうと決心した。
朝起きて、あいうえお順を何回も繰り返す、毎日やる。
そうすると最初は喋れなくても段々言葉が出てくる。
人一倍の努力をしました。
「闘病生活のなかで自分の気持ちにピリオドを打ってはいけない。」というふうに本の中で書いています、そこで止まってしまったらそこでおしまいです。
生きて居る限りは人と同じ事をしてはいけない、自分の人生は自分で作っていかなくてはいけない。
「あいうえお」を忘れて居る日本人の数が増えて居るのが、日本が元気がない原因です。
「あ」は相手の立場を考えよう。
「い」は厭なことを進んでやろう。
「う」は上を向いたらきりがない。
「え」は笑顔は自分で作れ。
「お」は御礼の気持ちを忘れるな。

「あいうえお」を毎日やると人生が変わってくる、たった一回しかない人生に大論の花を咲かせてもらいたい。













2017年5月27日土曜日

山川静夫(エッセイスト)     ・美空ひばり 幻のインタビュー

山川静夫(エッセイスト)・美空ひばり 幻のインタビュー
5月29日は美空ひばりさんの80回目の誕生日、今年は美空ひばりさんの生誕80周年にちなんで、記念のコンサート、CD、DVD等のリリースが行われています。
そんな中貴重な録音が見つかりました。
1988年昭和63年4月12日、NHKの国際放送で南米向けに放送した、「この人に聞く」の録音テープでした。(日本向けには放送されず幻のインタビュー)

病気の後だったので、ガウンみたいなものを着て録音が始まりました。
弟さん二人を亡くしてお母さんを亡くして一人ぼっちの時でしかも一人で静養していた時でした。
寂しさが心をむしばんでいたが歌には情熱を持っていて、1カ月あとに東京ドームのコンサートを控えて居ました。
私の最初のひばりさんへのインタビューは昭和44年8月18日でした。
オーラがすごかった、歌にかける情熱がすごかった。
リハーサルでも決しておろそかにしなかった、「悲しい酒」でリハーサルで全部泣きました。
昭和45年8月24~28日で「ひばりの5日間」という番組があって、うちあげをして飲んだんですがその時に親しくなりました。
ひばりさんは何時も必死でした。

昭和63年4月12日でのインタビュー
今まで命として思って歌ってきた大好きな歌を歌えなくなってしまうのかと思って恐ろしかったです。
何時自分が立ち直れるのかと毎日悩んでいました。
自分の歌でも掛ける気になれなかった。
先生と話すうちに光が見えてきて、今度歌いだすのは何時だろうと考え出すと、自分が大事にしてきたことをこんなにお休みしていることが勿体なくなってきて一日も早く歌いたと思いました。
一番つらかったのは友人が来てくれて会うと、言葉がでなくてベッドの上にいるひばりが見られる自分が情けなくて胸が痛みました。
昭和23年がデビュー、40年たちました。

私の中に青春があったのかなあと考えるときがありますが、私が歌ってきたことが自分の青春だったのかなとこの頃解説できます。
母の力で防波堤に成ってもらったりしてここまで作り上げてもらえたのかなあと思います。
のんびり構えて居てもいいんですが、なにかがひばりを歌わせようとせかすんですね。
歌に対する執念ですかね。
カラオケにも行きますが他人の歌です。
自分の歌を歌うと仕事をしているみたいに成ってしまいます。
酒を飲むのは雰囲気に酔って飲んでいました。(大勢で)
田中角栄さんに歌を披露したことがありますが、批評していただいて、1番は良いが2番は良くない、3番はいいとおっしゃいました。
作詞家は歌は2番がどうしてもおとしてしまう傾向にある。

プロは出だしで失敗しても最後に取り戻そうとしますが素人にはできないと思います。
自分がこういう歌を歌いたいと自分から言ったことはないが、色々持ってこられると厭とはいえない、必ずやってみようと思います。
それが全部私の大好きな演歌にプラスに成って来ます。
古賀先生は私にとっても宝物で「悲しい酒」と言う名曲を残していただいて、いまだに「悲しい酒」を歌っています。
マンネリと思う時もありますが、「悲しき口笛」「りんご追分」などを避けて構成すると却ってファンの方々がさびしがります。
慎重派ではありますが、わがままで完璧主義者で母がいる間は私の代わりに鬼婆となってカバーしてやってくれていました。
自分が敵も作らず良い子になろうと考え出したら、美空ひばりは良い仕事はできないと思います。

美空ひばりの怖さはどういう所にあるんでしょうか?
会うととっても違いますねとおっしゃるんです。
山川:大スターと云うのは必ず何かを持ってるし、大勢の人を魅了する力を持っている、その目に見えない力に圧倒されて、必要以上に書きたてるもしますし、だからかもしれません。
4月11日東京ドームのコンサート 活躍する時期が早すぎると思うが。
親しい人からもテープでやるのと言われたりするが、生で歌っているのにテープと思われるのがかなわないので、命がけでやるのでそういうことをちらっとでも思われては困るので、スタッフに申し入れました。

「私の歩いた道」 美空ひばりの詩
9歳のころから母と二人で芸能界に漕ぎ出した。
その時から私は歌うほかには誰にも心の窓を開かなかった。
好きな歌を歌うことだけが、そんな私の生き甲斐だった。
キューピットではないけれど、みんなに幸せあげたいの。
これがそのころ私が作ったロマンチックなキューピット。
しかし本当に多くの人に幸せを与えることが出来たのかしらと私はいつでも
心の中で思っている。
私の歌をだれよりも理解してくれたのが母だった。
命を掛けて守ってくれたのも母だった。
その母も遠いところへ旅だっていった。
それでも私は歌い続けた。

歌は母が命をかけて残してくれた何物にも代えがたい遺産だから。
こんな私を置き去りにして弟たちも遠いところへ旅立っていった。
それでも歌を歌い続けた。
私っていったいなんだろう。
涙を忘れてしまったのかしら。
暗い部屋に一人ぼっちになってしまった私。
心の窓をちょっぴり開いてそっと外を眺めてみよう。
色んなことも体に感じさせてみたい。
私だって人間だもの、寂しい時だってある、悲しくって大声で叫びたい時もある。
しかし、それは私には許されない。
何故って、私はひばりだから。
いつも私は一人ぼっち。

たとえ自分を傷つけたって、笑顔で元気なひばりでいなくちゃいけない。
そのたびに心の窓を閉めてしまう私。
人は優しく言ってくれる。
ひばりちゃんゆっくり休養してくださいって。
でもこんな温かい言葉にじっとしていられない私が体の中には棲んでいる。
それは私の身体の中で今も生き続けている母。
私の心の中で今も燃えている母の執念。
そして天のどこかで私の人生に悔いのないようにと祈っていてくれる母の声。
母は私と一緒に生き返り、私と一緒に燃えている。
今度こそ心の窓を思いっきり開いてみよう。
そして広い世界を見つめてみよう。
歌の星は何時でもそっとこんな私を守ってくれるでしょう。
命よ、命を有難う、私の歌よ有難う、ファンのみなさん有難う。
(涙ぐんでいました)

録音が昭和63年2月26日 その1年4カ月後には亡くなってしまう。

























2017年5月26日金曜日

髙木聖雨(書家)         ・父に反発、でも同じ道

髙木聖雨(書家)  ・父に反発、でも同じ道
3月に28年度の日本芸術院賞恩賜賞を受賞しました。
父親は岡山県の高木聖鶴さん、かなの書家で平成25年に文化勲章受賞し、日展の顧問でもありました。
今年2月93歳で亡くなりました。
家庭的ではなった父に反発して、書家にだけはならないと心に決めて会社員を目指していました。
しかし大学受験に失敗、ふと書に掛けてみようと言う思いが湧きあがって、書の道にすすむ人が多い大東文化大学に入学、青山 杉雨(あおやま さんう)さんに師事しました。
大学卒業後は、都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授として多くの若者を指導したり、自らの作品作りをしたりしています。

日本芸術院賞恩賜賞を受賞したことは大変な喜びでした。
作品に対してはこれが最後の賞なのでこんな喜びはないです。
67歳ですが、80,90歳になるまで書道の世界のために働きなさいよと言う激励の賞でもあると思います。
父親が芸術院賞を受賞した時には意識がなくて、耳元で受賞してきたことを報告しました。
天井を紙に見立てて意識のないまま手をあげて天井に字を書いて居るしぐさを、亡くなる4、5日前やっていました。
父は会社員だったが20歳のころから書道が好きで、書の道を選んだと聞いています。
本格的に始めたのは40歳の後半で、会社を辞めて書道の道一本に絞ったようです。
書壇で頑張るには2足のわらじは難しいのでけじめをつけたんだと思います。

岡山県 昭和24年生まれ。
一人っ子で、普通の子でした。
父が書道塾を開いていて、近所の子と1~2年やりました。
野球が好きだったので中学の時に野球部に入りましたが、親の介入があり退部届が出て居て、悔しくてより反発する時期でもありました。
父親は会社から帰って、6時ごろから自分の部屋に入って夜中の2時頃まで字を書いていて一切顔を見せなかったので親子の対話は高校時代までなかったです。
10時間ぐらい字を書いていました。
当時は何処へも父親には連れて行ってもらうことはありませんでした。
父親に対しての反発は強かったです。
高校時代はサラリーマンに成りたいと思って勉強したんですが、どこにも入れず浪人しました。
浪人のときはパチンコ、マージャンをやったりしていまして、あるきっかけで書道をやろうと決めて、父親に言ったら拒否されて、「書道でもやろうか」という「でも」が良くないと言われて、本当にやるのなら「でも」を撤回しなさいと言われました。

父から「やるんだったらどうぞ、一切手助けはしない」と言われました。
大東文化大学に入学しました。
書道を徹底的にやろうと決意しました。
全くゼロから始めるので周りの人たちに追いつくのには、千倍も努力しないと追いつけないという気持ちも持ちましたし、書道に関する言葉も判らず初めて父親に聞きました。
大東文化大学の書道部だけで400人ぐらいいました。
仲間がたくさんいると言うことが、頑張れる導引になったと思います。
入ってすぐに青山 杉雨(あおやま さんう)先生に師事しました。
手あかが付いていない状態だったので、先生に言われたことはすぐ実行できる立場にあったので、書道をやっていなくて逆によかったと言うのが実感です。
父の事は先生には黙っていましたが、2年間休まず励んだので父も本気でやりそうだと感じて父が先生にお会いして初めて挨拶しました。

漢字を始めて漢字をマスターした後でかなに転向する人がほとんどで、漢字の書けないかな作家はかな作家ではないと言われている。
父親がかな作家だからいずれ岡山に帰ってかな作家をやるんだろうと先生は思っていたようですが、かな作家をやるつもりはありません、一生先生の元で漢字作家をやりますと言ったときに、先生の眼の色が変わって、本気で鍛えてやろうと思ったんだと思います。
大学4年間で先生に名前を覚えてもらえない人が結構いるほど生徒もたくさんいました。
青山先生の授業は3年にならないと受けられなくて、1週間にひとこま習うだけで、それだけで上手くなるはずはなくて、人の何倍もやらなくてはいけない。
4年生までで100人以上青山先生には弟子がいまして、熱心に指導していただきました。
父はかなの世界、私は漢字の世界に入ってゆくわけですが、「富士山を表から昇っても裏から昇っても頂上では一緒になれるから、お互いが違った道でも頑張ればいいんだ」と父の文章に書いてあって、なるほどなと思い立派な考え方だと思いました。

親子展は35年ぐらい前に岡山でやりましたが、親子という関係は表に出さずにやりました。(1回のみでした)
朝日20人展で20人選んでもらう訳ですが、それが2回目の親子の共演だったかもしれません。(4作品ずつ出展)
相当親に反発して親に迷惑かけたりして、母親をいじめてしまったこともありますが、今はよく頑張ってくれたと母は思ってくれていると思います。
日本芸術院賞恩賜賞を受賞出来たのは両親のお陰だと思います。
都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授となりました。
書道の世界としては順調に来たように思います。

書道人口はかなり減っています。
書というものに対して理解を一般国民に知らしめて居ないと言うことがあると思います。
毛筆を1年生からやらせるようにと言うことが、文科省の方針で許可された様で書道の盛んなところに持っていける一つの要因になると思います。
日本の書道文化をユネスコの世界向け文化財に登録しようと言う運動をやっていて、登録されれば書道に目を向けてくれる人が多くなると言うこともあると思うので僕のライフワークとして一生懸命やらないといけないと思っていますが、非常に将来を心配しています。
90歳の人も頑張ってやっているので、その年代に成るまで自分の技術を高め精神性も高めていい書を書きたいと思っています。
技術は自分で努力しないといけないものなので、相当根性が坐っていないとだめだと思います。
父は書道が大好きだった人なので、尊敬しています。
書道の世界での戦友のような気持が、父が亡くなった時に涙を流させた様に思います。
10時間も書を書いて努力をしていた親の背中を見せてもらって、本当に感謝しないといけないと思っています。










































2017年5月25日木曜日

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは
今年は大政奉還からちょうど 150年、立役者である坂本龍馬の名が広く知られるようになるきっかけになったのは、1962年に新聞連載が始まった司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」です。
窪内さん84歳は新聞社の後輩として司馬遼太郎と出会い、編集者として 4年1300回をこえる連載を支え、担当を外れた後も司馬遼太郎と交流を続けました。
龍馬の故郷,高知で暮らす窪内さんに今なお読み継がれる作品の執筆の舞台裏や歴史を学ぶ意味について伺いました。

産経新聞の大阪本社、昭和30年入社、社会部に配属、デスクに呼ばれ天王山についての解説を15行で書くようにいわれ、「あのおっさんのところに行って聞いてこい」と言われて、文化部の福田さん(司馬遼太郎)だった。
天王山に関して30分福田さんが話してくれました。
今後歴史的な事にぶつかると、辞書代わりに聞きに行ったらいいなあと思いました。
昭和35年1月21日、NHKのニュースを見ていたら、芥川賞、直木賞のニュースをやっていて直木賞梟の城司馬遼太郎、経歴紹介があり、本名福田定一、産経新聞大阪本社文化部部長と言う紹介があり飛び起きました。
福田さんが小説を書いていることを知りませんでした。
私は2月1日付けで北陸の福井支局に転勤になりました。
知り合いがいっぱいいるから会うように言われて、道元禅師、柴田勝家、お市の方、松平慶永(春嶽)など31人ぐらい名前を挙げて福井は歴史の宝庫だからといわれました。

昭和37年6月から「竜馬がゆく」が始まる。
支社で私だけがはしゃぎまわっていました。
坂本竜馬の知名度は少なかった。
昭和28年の初め頃、支局に新聞の購読の申し込みがどんどんかかってくる。
理由は「竜馬がゆく」が読みたいからということだった。
昭和40年2月1日付けで大阪本社文化部への転勤を命じられた。
社会部から文化部への転勤は後方部隊のような感じを抱いたが、「竜馬がゆく」を担当するように言われて、がっかりしていたのが吹っ飛びました。
一番頭にあったのは長編にしたいとのことで、維新に関することを古書店に頼んだら3000冊だった。
そこで坂本竜馬のことを書こうと思ったとのことだった。
どうして略字なのかを聞いたら、歴史学者、歴史研究者でもない、竜馬の事実とは違う、フィクションでもあるので 僕の竜馬として活躍してもらいたいと思った、ということだった。

ハンガリーのスティーブン・トロク(24歳) 旧ソ連軍がハンガリーに侵入してて アメリカに亡命、そのあと京都に来て勉強して、司馬家にやってきて、僕は将来帰ってハンガリーの大統領に成るんだと喋ったそうです。
キャラクター作りにふっきれないところがあったそうで、トロク君の亡命と、竜馬の脱藩とがだぶってきて、暗い境遇にありながら将来大統領に成るというそのキャラクターを竜馬に植え付けてみたらどうだろうと云うヒントをそこで得たと言うことでした。
人柄などは半分以上はフィクションだと思います。
身分制度が厳しい時代に家老家のおたず様と竜馬が京都の茶屋で逢引をするというようなことは当然フィクションです。
ファクト(事実)とツルー(真実)で行くと、真実は「竜馬がゆく」に関して言えば、薩長同盟、大政奉還、船中八策でいえば、長編では読者がついてきてくれなければ無意味なものに成ってしまうので、読者をひきつけておかないといけない。
そうすると面白おかしく読者が逃げないようにしてフィクションで繋いでゆくしかない。

司馬さんが一番力を入れて書いた部分と云うのは、竜馬に言わせた心情、「こういう青年を神様がこの時代必要だと思って、地上に送り出してきて、いろいろ働かしたんだ」、と言うのはどうだと言っていました。
最終回の一月前ぐらいのことでした。
結末文に関しては訂正がなかった。
相当頭の中で練っていたのではないかと思う。

結末文
天に意志があるとしかこの若者の場合思えない。
天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時惜しげもなく天に召し返した。
この夜京の天は雨気が満ち、星がない、しかし時代は旋回している。
若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。

一番大事なのは誤植なしに載せることが大事で、違う漢字一字で意味が逆になるような大失態があるので、校正は20回読めと前任者から言われました。
司馬さんは文章の流れがいいので、見逃す可能性が多分にあるので、注意しないといけない。
私の担当期間中は司馬さんに対しては全くだぶりのミスなどは無かった。
司馬さんは陸軍の戦車隊の少尉で終戦前の3月前、栃木県の佐野に引き揚げてきて、米軍を迎え撃つ訓練をしていた。
軍の参謀が激励に来ていて、「戦車で対応するときに逃げて来る国民と出会ったらどうしますか?」と福田少尉が聞いた。
しばらく考えて参謀が「曳き殺して進め」といった。

こんなくだらない人間の指揮のもとに我々は戦争をしているのかとふっと湧いていた。
これまでの日本にはずっとましな人間がいて日本を作ってきたのではないか、もし戦争が終わってそういうのを書いてみようと思ったと言っていました。
70歳のときに文化勲章を頂き、その記者会見で「私の作品は22歳の自分への手紙です」、と言ったんです。
或る時かつての日本にはもっとましな人間がいて、いままで日本をつくってきたと思った、それが22歳だった。
「竜馬がゆく」から見習ってもらいたいのは、「万事観てみないとわからん」、という精神は全ての事に通じると思う。
殺害しようとして勝海舟との面会で、竜馬は話が終わった後、先生弟子にしてくださいと言っています。
戦後70年で転機を迎えており、竜馬の存在を自分の頭に置き換えて、読者が今後の生き方についていろいろ考える、自分にあてはめながら生き方を学べるのではないかと思う。










































2017年5月24日水曜日

河瀬直美(映画監督)       ・届けたい まっすぐな光を

河瀬直美(映画監督) ・届けたい まっすぐな光を
48歳、1997年に劇場映画デビュー作「萌の朱雀」でカンヌ国際映画祭で新人監督賞を2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞しました。
河瀬さん自身が脚本を手掛けた最新作「光」が現在フランスで開催中の第70回カンヌ国際映画祭の最優秀賞パルム・ドール(Palme d'Or)を競うコンペティション部門にノミネートされ注目を集めて居ます。
今年は「萌の朱雀」から20年の節目の年、映画に掛ける意気込みと故郷奈良に寄せる思いを伺いました。

「光」は徐々に視力がなくなってゆく男性カメラマンと音声ガイドを製作している女性が心を通わせてゆく物語。
字幕などは日本語の意味合いが英語に無かったりして、そんな中言葉の選び方が思い入れのある人たちだなと思って、音声ガイドはどのぐらいの歴史があるのかと思ったら15~20年ぐらいしかなかった。
こんな人たちがいると言うことを知ってもらった方がいいのではないかと思って映画にしたいと思いました。
音声ガイドは映像を言葉で説明してゆく。
セリフは映画の中で言ってるのでいいが、部屋の状況などを説明したりするが、答えのない世界で四苦八苦している。
今回映画を作るにあたって視覚障害の人などに取材を重ねて行くうちに、町で見る接していない時のイメージと実際に接して観ると、前向きで明るくてと言う方が居て違っていて、私たちの方が気付かされることが多かったです。

生れ付きの先天盲と中途失明の方が居て、先天盲の方が私達の中にイメージとしてあって聴覚が発達してゆくとか言われるが、途中まで見えて居た人が見えなくなる人の方が見えて居た時のことに凄く執着があって苦悩されている。
そこから前向きな自分に成るまでには時間がかかる。
苦脳して自分の役割を見出すことができなくて心がすさんできたりする。
主人公雅哉は眼を使った仕事をしている、それを奪われると言うことは自分の人生が終わってしまったかのような思いをする。
雅哉はどのように前を向いて生きて行くのか葛藤がある。
具体的ではない何か「光」があるのではないかと思う、心の奥にある光の世界。

1969年生まれ、48歳になります。
40歳ぐらいから自分の役割を考えるようになり、次の世代に繋いでいかなければいけないものがあるのではないかと思うようになりました。
子供は今年中学生に成りました。
私は空想癖の或る子供でした。
両親と一緒に暮らしていたことがなくて、父親を知らずに育って、母方の遠い親戚の老夫婦のところに養女として育てられました。
自分を見るもう一つの目を小さいころから持っていたのではないかと思います。
近所に同世代の子がいなくて、一人ぼっちになってしまうので、一人で遊んだらいいと養父(おじいちゃん)から言われました。
養父は自然の中で育った人でそれに影響されて、自然、季節を感じるような日常を過ごしていました。
養父は県庁に勤めて居て、とにかく規則正しい生活をしていました。

自分にとって映画、TVは遠い世界の話でした。
高校卒業するときに、このままいい大学、いいところに就職をしてゆくことが楽しいかなと思ったらあまり楽しくなさそうだなと思って、もっと決められていないけれど楽しい世界があるのではないかと思って、自分で自分でしか作れないものを作って生きていけたらいいなあと、いずれ死んでしまう時にそれが後悔しない生き方なのではないかと考えました。
たまたま映像、映画、その時間を切り取りたいと思いました。
入った学校が映画が盛んでした。
映像の持つ力は今ではない時間を今に持ってこれると言うのは、初めて学校で8mmフィルムを撮影し、現像から上がってきた映像を見たときに物凄く驚きました、タイムマシンを手に入れたように思いました。

両親と暮らしていなかった事に対して、養父母と楽しく暮らしていたので寂しいとは思わなかった。
そのあと映画を撮り始めて、寂しくはなかったが父とは逢いたいと思っていたので、逢いたいと言う気持ちを友達など近い人たちに伝えたが伝わらなかった。
映画にしたら物凄く共感してくれて私を見る目が変わり、友達と深い話をするようになった。
これから先に出会う人とはもっと深い関係をつなげていける可能性があるわけで、過去の寂しさよりも未来の喜びの方に目を向けた方がいいじゃないですか。
この映画を撮るにあたって悲しみを見つめようとしたのではなくて、そこから先を見つけたかったからそれに眼を向けたんです。
時間って、わたしたちの中にある様でないのではないか、過去は記憶の中にあり、時間は時計が生み出しているが、実際それってあるのかなあと思います。
生も死も越えた輝きがあるのではないのかと思います。
命、魂とかは人間が言語化できたり、認識して記憶できたりするから一番すぐれた生き物のように思われるが大きな木、大地、空、星等もそういうものを持っているかもしれない。
わたしたちが計り知れないものがあるなあと思います。

なんで奈良に生まれ落ちたのかなあと思いますが、1000年の歴史の息吹が自分の中に入り込んで、そういうスケール感のある考え方に成っているような気がします。
1000年前の人が万葉集で好きな人を思ってこの川のことなどを詠んだんだと思うと、スーっと1000年の時が繋がるんです。
私の撮った映画もそうなんじゃないかと思います。
2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞し、2010年が平城遷都1300年記念、それから7年たっているが、地元の社長さんたちが協力してくれて映画祭をやろうと言うことに成って1回目終わったらほとんど辞めてしまって、やることが大変で、(カンヌでも同じで、)2回目でもやろうとして同世代の人たちがやって、海外のゲストが話題にしてくれました。
日本人のおもてなし、アテンド力は心があるんです、これが評判になって3回目になり、4回目をどうしようと言うことに成って大きくしようと言うこともあったが、そのままの規模でやることになりました。
奈良市が助成金のカットをしてしまって、開催まで半年の時で、規模の縮小なども考えたが時間がなかった、そのニュースが流れた時にこれまで以上の協賛が集まりました。

奈良では新しいことをするのなら奈良をでて行った方がいいといわれるが、ここには歴史と文化があり万葉集に歌われている川や山があり、これはにわかにお金で買おうと思っても買えないもので、これを今の時代のニーズに合うように継承していって宝物に変えて行くことはできるのではないかと思っている。
奈良では自分が出来る役割をやっていこうと思っています。
私にしか作れないものを作っている、それがユニークと言うか、とことん人と人とのつながりを描くとか、家族のありようを描いたりとか、目に見えないもの、そういったつながりを具体的なストーリーを通して描くことに共感していただくことが多い。
誰しもお母さんから生まれ、家族があり、離れてしまったり不幸な関係に成ってしまうかもしれないが、元をただすと決して一人ではなく、必ず誰かとコネクトしている、根源的な事を描いている事だと思います。
映画は表現なので誰かが評価するので、審査員のまなざしとどれだけ共有できるかということなので運とか縁とかそういうものが物凄く影響するのですが、「光」は私は世界一の映画だと自分では思っています。




















































2017年5月22日月曜日

中村仁樹(尺八演奏家)      ・【にっぽんの音】

中村仁樹(尺八演奏家) ・【にっぽんの音】 

中村:34歳に成ります。
能楽師狂言方 大藏基誠:尺八界のプリンスといわれていますね、私は25歳のころは狂言界プリンスと言われていましたが、最近は呼ばれなくなりました。
吹いている姿吹き方がきれいだなと言われますね。
中村:日本舞踊は習ったこともあり、お茶も小さい頃やっていて物の扱い方の基本みたいな事は勉強しました。
尺八は道具と云うよりも楽器と言いますが、竹と言ったりもします。
尺八は乾燥しすぎると割れてしまうし、湿気を含み過ぎても普通の場所に行っても湿度の差でわれてしまうので一定にしておきたい。
海外にいっても息を吹き込んでからしまったりして大事に扱えば割れることはそうないです。
日本の音と言うと響き豊かなさわり(障り)の音ですね。
*(尺八で表現 いろんな音が立ちあがって行く)

大藏:祖父が言っていたが「あってあわすの間」狂言もお囃子に合わせて謡いをうたうときがあるが、若干ずらした方が面白いという美学があります。
中村:日本音楽の場合はそれぞれの楽器が個性的なので、それぞれソロで聞かすために発達したものでもあるので、西洋の楽器よりも主張の強い音だと思います。
尺八の一番の魅力は日本独自の風の音を表現できるところ、それがわびさびを生む。
*(尺八で表現)
こういったものを曲に盛り込んでゆく。
尺八の穴は全部で5つあります。(民謡の音階)
これは小さい穴が2つたされていてドレミファが出せます。

プラスチック、竹の材質の差 音の硬さ、抜け、響き方が違います。
プラスチックは1万円、実際にある素晴らしい楽器を型取りして作ったものなので音もいい音が鳴ります。
楽器もあらゆるメーカーの楽器も試して、そのなかにプラスチックもあったと言うことです。
尺八は40本ぐらいありますが、実際に使うのは15本で全部竹でできています。
柔らかい材質は柔らかい音が出て、硬いものは硬い音が出ます。
長さが長くなると低い音が出ます。
近くで聞くとあまり違わないが、コンサートホールなどで遠くで聞くと音が違います。
*「祈り」を演奏。
この曲は兄の結婚式のお祝いのために作った曲です。
頭の中をまっさらにして、兄を思う、故郷を思うと言うような形でピュアな気持ちを持って作ります。(作るモードにしておく)
作ったのは100曲ぐらいになります。

作曲できると言うのは一つの強みだと思っています。
機材を自分にあったものを集めたりしています。(マイクとか)
小学校3年生の時に父親が尺八を吹いていて、その時に初めて接しました。
17歳のころまでに、クラシックピアノなどをやったり、エレキギターをやったりあらゆる音楽を聞いてきていたが、日本のものは無かった。
高校のころ父の尺八で吹き始めて、お琴もやっていていました。
3年生の時に東京芸大に行こうと決めました。
大学では師匠と1対1でお稽古を週1~2回やって、音楽や普通の国語英語などの勉強をしていました。
尺八で有名な曲「鹿の遠音」が一番有名です。
尺八は1500年前ぐらいに伝わったと言われていて、「越天楽」とかの宮中の楽部の楽器の一つとして吹かれていて、そのあとで雅楽の楽器ではなくなって、また中国からお経の称名にふしをなぞるために再輸入されてきて、700年ごろと言われて居る。
普化宗(虚無僧)が吹いていた。
禅の修行の一環として尺八を吹いていたといわれる。
法具として使われていた。

*「鹿の遠音」 (本来20分以上かかる。)
秋深い山奥で鹿と鹿同士が呼び合う様子を描いた曲。
江戸時代中期の頃の作品で口伝だったが明治期に普化宗が廃宗になったので残そうと言うことになり譜面に書き残しました。
いろんなところで僕の曲が僕の演奏で、流れるようになってくれればいいなあと思います。








































2017年5月20日土曜日

祖田修(京都大学名誉教授)     ・野生動物による被害と向き合う

祖田修(京都大学名誉教授)   ・野生動物による被害と向き合う
77歳、京都大学で農学を教え福井県立学長を最後に退職、京都府の南山城に古民家を見つけ、週末に通って農業を始めました。
7年前70歳の時でした。
研究者として各地の農村を調査し、鳥、獣などによる被害を目の当たりにした祖田さんが今自ら鳥獣害に悩まされています。
野生動物による被害の実態と日本の農業が直面する問題について伺いました。

この家は新聞広告に紹介されていて、ピッと来てここを選びました。
土地の広さはテニスコート3面分ぐらいあります。
4家族14人分の野菜を自給できないかと思って、作っています。
長持ちするものを基本に20数種類作っています。
農家に生まれて2町歩を超える農地があったので、農作業は経験をしています。
農業をやるようになって或る日、鹿が出てきて色んなものを食い散らしていて、畑がずたずたになっていました。
おもに猪と鹿が出てきます。
鹿は柔らかい部分が好きで一口ずつ食べるので野菜が全滅してしまいます。
村の対策としては山側に防止柵をしてあったが、道路側から入ったり、そちら側も柵を講じて居たが、柵を越えたりしてもしています。
池に鯉を飼ったりしていますが、鷺がきて、上手い対策が出来ずに鷺に負けました。
茶畑があるが鹿、猪は興味がないので動物の被害にはなっていません。

農林経済学のなかの農学原論(農学の哲学)地域経済論をやっていました。
国内だけでなくアメリカ、オーストラリア、アフリカなどにも行って農業を調べました。
農業改良普及員の方が自ら中山間地の農業の在り方を見えるようにしたいと稲作、栗園、シイタケ、林業、牛の飼育などを始めたが、1960年代の末ごろから熊、猿、猪が出ると言うことで経営が崩壊に近い状態に成り、鉄砲を撃ったりしていた。
補殺に対して最初に補助金を出したところですが、全国的に鳥獣害が問題になって来ました。
北海道は鹿の対策をしていて、或るところでは400kmの柵をめぐらして、人間が檻の中で暮らすと言うことでここまで事態が深刻だとは思わなかった。
岐阜県の和良町では「いのしか無えん策」(猪、鹿、猿)として、街作りを始めて特産物をうみだしたりしています。
針金のメッシュ、電気を流したり、ひらひらするものを付けたり、いろいろ工夫をしています。(鹿、猿、猪などを一気に追い出したと言う実績がある)

三重県の或る地域の場合、村全体で団結して猿を見ると追い返して、それを徹底的に繰り返して、領土意識をしみこませて来ないようにした。
香川県讃岐市、徳島県神山町などでは山と田畑の間に干渉帯を設けて木を切って空間を作ってそこに牛、羊、山羊、犬などを放して防止するなど全国それぞれの地域の考え方で対策しているが、全国では被害は200億円に達している。
被害のために意欲を無くして農業をやめてしまうと言うことがありこれも問題になっています。
昔は動物は山奥に、人間は里山を含む農業空間にお互いに棲み分けをしていたのではないか、そして頭数も少なかったのではないか。
最近は山を利用しなくなったために住みかを広げて、家の近くまで来るようになって、そこにはおいしいものが山ほどあり一遍この味をしめてしまうと、鳥獣害があっという間に広がっていったと思います。

神戸市では猪に襲われ怪我をする。(人身被害)
六甲山系があり、また瀬戸内国立公園では鳥獣保護区に成っており、動物を撃ってはいけない。
神戸市は条例を作って、被害を最小限にするために、犬にほえないように指導するとか、ゴミ置き場は網をかぶせるとか、餌を与えないとか、被害を最小限にするための条例にしました。
捕獲も対象に入って年間700~800頭と言うことで大変な数に成ります。
全国での推計値 日本鹿=約300万頭 猪=約100万頭 
生態系が崩れる可能性、人身被害、農作物被害があるので、現在の猪、鹿については半数に持っていこうと考え方が変わってきた。(農水省、環境省)
捕獲の鹿、猪の肉、皮などを利用できないかという事で、地域振興を含め色々考えられている。

新しい動物観、自然観が必要なのではないか。
食べるということは人間が持っている宿命の様なもので、畏敬、祈り、感謝これらのものがなえ混ざった「いただきます」「ごちそうさま」という気持ちが必要なのではないか。
これが原点となった新たな動物観が形成されてゆくことを望んでいます。
消費者の方には食料の安全、保障、農業の人為的でないどうしようもない農業の条件を考えていただいて、50%とか守るべき農業の下限というものがあるのではないかと考えて居て国民の理解がもっと広がってほしいと思います。
人間と動物を含む地球温暖化の問題とか、人間と自然と言うことについて私たちは考えて行くべきだと思っています。
動物と人間の適切な折り合いを見つけ出すということが必要だと思います。


























2017年5月19日金曜日

神田紅(講談師)          ・“万芸一芸を生ず”に導かれ

神田紅(講談師)       ・“万芸一芸を生ず”に導かれ
1952年生まれ、今年芸道40年を迎えました。
福岡から東京にでて女優の道を歩んでいた神田さんですが、師匠である二代目神田山陽さんとの出会いが人生を大きく変えました。
講談の世界に入った神田さんは精進を重ね、平成元年に真打ちに昇進し、明るく楽しく判りやすい芸風で、古典から創作ものまで幅広い作品を演じ人気を博しています。
現在は紅一門を率いながら日本講談協会会長を務める神田さんに伺いました。

昭和54年講談の道に入りました。
女優時代2年、講談が38年に成ります。
福岡県で生まれて、1歳に成る頃に福岡市内に移りました。
受験の途中に大失恋をしまして、方向転換をしました。
自分はいったい何をすればいいんだろうと思って、TVを観ていたら美輪明宏さんが「よいとまけけの歌」を歌っていて、歌手か役者を聞かれて、役者ですとおっしゃった。
私は吃驚して、人間は寿命はあるが役者と言う仕事をすると、役の人生を生きることが出来るので人の何倍もの人生を体験できるとおっしゃったので、これだと思いました。
役者をやれば色んな人生を体験できて本当は何をやりたかったのかが判るのではないかと思って役者になろうと、早稲田大学に行き勉強はほとんどせずに、演劇研究会というクラブで演劇をやりました。
文学座が入りやすい雰囲気だと思ったので大学2年の時に文学座に入って、大学は休学して、勉強したが上の研修科に残れなかった。(100人のうち10人が残れる)

納得がいかなくて聞きに行ったら、或る先生が間違えていたようだった。
演技さえきちっとしていれば認められると思っていたが、日常の自分のアピールをしっかりしてやらないと、こういうことも遭遇するんだなあと思いました。
間違えられた子は出席率が非常に悪かった。
自分をしっかりアピールできる人間にならないといけないと反省しました。
中村敦夫さんのプロダクションに入り、一生懸命やりました。
市原悦子さんの付き人を2年やらせていただきました。
三味線、日本舞踊、タップダンスなどありとあらゆる事をやっていました。
その当時は「中原鐘子」と云う名前でした。
舞台はいろいろやらせていただきました。
踊りはそこそこできましたが歌は下手でした。
器用貧乏で存在感がない感じでした。

仕事がなくてどうしようかと思っていたときに、舞台の音楽家の先生に講談やってみないかと言われて、神田山陽師匠(69歳)を紹介されました。
台本は漢字だらけでよくわからなかったが、2月に入門して4月には舞台でした。
タップをしてのミュージカル講談 「ヘンデルとグレテル」というのを作ってタップを踏んで演じました。
師匠からは表現方法は自由でいいよと言うことで、不思議な舞台が出来上がっていきました。
「ようやく、つ離れしました」と言うのが、その当時の本牧亭の講談の定席の人数だった。(九つ以上 即ち10人以上)
伝統芸の間に隙間が入って、女性も入ることが出来てすこしでもお客様を呼ぶことができたと言うのが師匠の狙いだったのではないかと思います。
師匠はとにかくほめ上手だった。
いない時に私のライバルをけなす訳です、そうすると師匠は私の事をわかってくれているなと思ったが、或る時にライバルがけいこ中に「紅君はここが駄目だけどその点君は素晴らしい」とおっしゃっていて上手い教え方だなあと思いました。

師匠は「万芸一芸を生ず」と云う事を座右の銘にしていました。
師匠は色んな事をやったことが一つの芸に集約されていくから、それが私の生き方でありそれを一番体現しているのが弟子の紅だと言うことを書いてくれたりしてくれました。
師匠は恩人です。
平成元年に真打ちに昇進、師匠が落語芸術協会に入れてくれて、会長が桂米丸師匠でした。
最初踊りなどでしたが、その後一本立ちして一つの話芸として、講談として入れていただきました。
落語の様に笑いを入れるようにとは師匠から言われました。
でも最後は腕だよとは師匠は言っていました。
女の芸人は歳を取って行くとどう考えたらいいのかを玉川スミ先生に聞いたら、「歳、そんなものは忘れるのよ」と言われました。

2000年に師匠がなくなって、神田陽司君が一番弟子に成り、もみじが翌年はいってきました。
なかなか弟子を育てることは思うようにはいかないが、それぞれの個性を生かすように考える様にしました。
人を育てると言うことは物凄く自分の勉強に成ります。
講談を辞めたくなると思うようなときに弟子が入ってきて、じゃあ頑張らなければいけないと思う訳です。
師匠に恩返しするのには落語と肩を並べるぐらいになれればいいなあと思いましが、それにはまず弟子を沢山育てないといけないと思います。

師匠(91歳)が亡くなり、陽司君が去年亡くなり、何かやってあげられなかったのかと悔しい思いがあります。
師匠の手拭が師匠だと思って高座に上がりましたが、陽司君が去年亡くなり、健康が一番だと思います。
健康を維持しないと弟子は育てられないので健康には気をつけて居ます。
日本講談協会、講談協会に東京は組織が分かれて居て、私の方の日本講談協会は20人で、講談協会は43人、総勢63人でそのうちの40人が女流講談師です。
23人の男性のうちほとんどは私より年上です。
落語家がブームに成り、落語は女は無理と言われていて、講談ならいいと言うんです。
講談は少しは笑いを取り入れると言う意味では、女性の方が講談には向いているのではないかと思います。

男の声で聞きたいと言うお客さんも多くなってきていると思います。
女性が今後も活躍して行くためには、題材、テーマとかを男の人ではないものを追求していく必要があると思います。
講談の全盛期は江戸末期から明治、大正期で、古典の数が多くあるが、大半が語られなくなっているので、それを復活して世に出してゆくことと、創作講談もやっていきたい。
歴史は嫌いだったが、歴史の面白さが判ってきて、歴史の楽しさを伝えていきたいと思っています。






























2017年5月17日水曜日

西村和子(俳人)          ・子育て俳句で悩みを分かつ

西村和子(俳人)     ・子育て俳句で悩みを分かつ
女性がせっかく俳句を始めても子育てで中断してしまうのは残念だと、若いお母さんたちを対象とした句会を 9年前スタートさせました。
会の名前はパラソル句会、自らも2児の母で子育て中に作った「日傘より帽子が好きで2児の母」と言うお気に入りの句からこの名前をつけたそうです。
毎月1回土曜日の午後に池袋で開かれるパラソル句会には東京都内は勿論群馬、千葉など関東一円から子供連れのお母さんたちも参加して、好きな俳句を通して子育ての悩みなど互いに話し合って心が満たされると好評です。
必死に子育てに奮闘するお母さんの句は子供たちに注がれる愛情にあふれて心いやされる句が多いと西村さんは言っています。
結婚、出産、育児と女性の先輩として俳句を作り続けてきた西村さんに、子育てに奮闘しながら俳句作りに励む若きお母さんたちへの応援歌を伺います。

俳句を始めて半世紀に成ります。
中学高校のころから少しづつ作っていましたが、大学に入ったときにクラブ活動に入ってそこから真剣に作り始めました。
楠本憲吉さん、清崎敏郎さんなどの大先輩でいまして、その方たちから熱心に指導して頂きました。(40歳台でした)
週に2回ぐらい句会をしていました。
結婚しても普通に今までのペースで句会に出て居ましたが、子供が出来ると句会にはなかなか出られなくなりました。
辞めようと思ったが、いろんな先人たちの俳句を詠んだりしていました。
「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(捨てっちまおか)」という竹下しづの女の句をみて、赤ん坊は良く泣くので、乳ぜり泣く児はおっぱいが欲しくて泣く児、そんな児を捨てちまおうかと母親の本音の心が出て居る句は無いと思いました。

その句が呼びかけてきたような気がしました。
可愛いとか嬉しいとかだけでなくて、子育ての時の本音を表すことが出来ると言う記念すべき句です。
「俳句のすすめ 若き母たちへ」という本を出版。
子供を授かった時の出産をめざす頃の俳句からその子が大きくなって結婚して、そのまた子供が生まれるまでの先人たちの俳句を集めて、紹介しながら私自身の思い出を描いたような本です。
そこには男性の句の方が圧倒的に多いんです。
その頃俳句をやっていた女性が少なかったのではないかと気付きました。
男性は可成りきめ細かく詠んでいます。
9年前、出版社が句会をやりましょうと言ってくれましたが、一般的に俳句をやっているかたは高年齢の方が多くて、20~40歳台は空洞の様になっています。
女性は子育ての時期には俳句を辞めてしまうし、男性もその頃は仕事が忙しくて俳句どころではないと言う時期です。

月に一度ぐらいは句会に参加できるのではないかと思って、「パラソル句会」を立ち上げました。
「日傘より帽子が好きで二児の母」を作って、名前の由来はそこから来ています。
清崎先生が「母と子の母の大きな夏帽子」を読んでくださって、それは一生の記念です。
俳句はその時の句を読むと凄く新鮮に思い出されます。
写真よりも俳句にしておくことは人生の記念になるのではないかと思います。
句会に出られない人たちが子供を連れても句会に参加できるように、子供をあずかってくれる会場を仲間が見つけてくれて、池袋で始めました。
インターネットでの句会も始めましたが、全国から来ます。
互選をして、オーソドックスにやっています。
句会に出るのには大変なので、1句も入らないで帰ると言うことのないように、5句からこれが一番いいと言うようにしています。

私が久しぶりに句会に出たときに「和子さん」と呼んでもらって、新鮮でした。
「春宵の母にも妻にもあらぬ刻」春の宵のほんの1時間程度ですが 自分自身に戻れる時間、それは大切な時間です。
井出野浩貴(俳人協会新人賞を貰っている)
「子が見つけわれに見えざる揚雲雀」(子供が見つけたことの嬉しさ)
「氷水父らしきこと言はざりき」(夏休み、勉強しろよとか言わない)
小澤佳世子
「怪獣の声もてなくよ風邪の子は」
松枝真理子
「昼寝の子少し大きく見えにけり」(寝ているときの子の方が大きく見える)
「キャンプから帰りてもまだ歌えけり」(キャンプの楽しさ)

西村和子
「泣きやみてオタマジャクシのような目を」 (この子はもう40歳過ぎてますが)
「風邪の子の力なき眼が我を追う」
「葱刻むこの嘘ゆるすべかりしや」(子供が嘘をついて、母親にとっては非常いショックな瞬間で、叱ったが、そのことで母親が叱る程の事ではなかったのかと悩む)
成長してゆく過程の句を集めるとアルバムの様になる。
子供の感動は大人が忘れて居たような新たな感動を教えられる。
もっともみずみずしい共感を覚えるのも、人生のその時期に差し掛かっている時だと思う。
それぞれの時期があり、人生のテーマは切り無くあります。










































2017年5月16日火曜日

岩崎勝稔 真知子(静岡県沼津市)  ・里子からもらう幸せ

岩崎勝稔 真知子(静岡県沼津市)・里子からもらう幸せ
10年前から里親になっています。
さまざまな理由で実の親と暮せない子供の里親になっています。
上から10歳の男の子、4歳の女の子、1歳の女の子のお父さんお母さんになっていると言うことです。
去年、勝稔さんが里親になった経緯や子育ての喜びなどをまとめた本を出版しました。

74歳、68歳「今まで生きてきた中で一番幸せです」と言う本を出版。
40~50代の人たちに里親に興味を持っていただいて、引き取って育ってると言うよろこびを感じてもらえればいいかなと思っています。
3人をすでに育て終わっていて、まん中の子供が金メダルを頂いたりして、普通の親では経験できないようなことを経験させてもらっていますので、でも子育てはいつの時代でも大変な思いをしながら育てて、でも育てて良かったと思うのが子育てだと思うので、少しでも皆さんが感じていただいて里親と言うものに対して理解をしていただければいいと思っています。
敬子、恭子、佐知子 2番目が1992年バロセロナオリンピック水泳女子200m平泳ぎで金メダルを受賞。(岩崎恭子

養子縁組の場合は2種類、裁判所で決められた手続きを終わって自分の実子として育てる。
私たちは何れは親元に帰るだろうと言うことで養育している、養育里親というものです。
養子縁組里親と、普通の養育している里親と、専門里親、親族里親、4つあります。
私たちは普通の養育している里親です。
短いと1年以内、親が養育できるようになった時点で帰す、最終的に帰れない場合は18歳
まで育てると言うことなっています。
うちにいる子の場合は3人とも生後すぐに引き受けました。
勝稔:ウンチが手についても汚いと言う感じはないです。

勝稔:私が物ごころついた時には母親は病院とか、離れとか寝たきりで、暗かった。
会話一つないような感じで、私は陰険な感じの子でした。
顔を合わしたことがほとんどなかったので、亡くなった時には悲しいと言う感じはなかったです。
5人兄弟でした。
小学校1年の時から自分で弁当を作っていきました。
遠足の時は周りは母親が作ってきたのを食べて、私は離れて食べてお昼の弁当の時間は辛かったです。(涙ながらに話す)
名古屋に冷暖房の設備の会社に就職して6年いて、沼津支店に転勤になって、妻の両親がやってた水道の仕事と関連があって妻と出会い、養子に入りました。
勝稔:40歳のときに病気になり輸血が必要になり、35人から鮮血を輸血して、身体がポカポカしてきて、何か感謝の気持ちというか、周りの人がいて助けてくれると言うか、その夜ベッドの中で「ありがとう」と泣きました。

真知子:その当時上の子が小学校2年、恭子が年中で、下が3歳ぐらいでした。
先生から話を聞いた時はこれからどうしようと思いました。
食べようと思っても口の中に入らなくて4kgぐらい体重が落ちました。
2~3カ月ぐらいの時に敗血症になり高熱が続いていつ死んでもおかしくないと言われてしまった。
上の子が水泳をやっていて選手コースに行かないかといわれて、行くことになり、恭子も行くことになりました。
勝稔:入院は半年ぐらいで、5年目でようやく良いんじゃないかと言われました。
通院しながら抗がん剤をやって、抗がん剤をやると吐き気があり、子供には心配をかけました。
弟ががんで亡くなっているので敬子は冷静に見て居たし、妻が長女だからしっかりするようにときつく言ったようです。

真知子:意外と親って、言ったことを覚えて居ないです。
1992年 バロセロナオリンピックに恭子が出場。
金メダルを取ってびっくりしました。
恭子の「今まで生きてきた中で一番幸せです」という言葉が注目されました。
勝稔:周りは喜んだが、14歳でしょう、私は喜べなかった。
真知子:水泳連盟そのものがアマとプロを分けて居た時代で、中学2年で金メダルをとった事に対してアマチュアなんだからこういうことをしてはいけないとか、学校側も中学生だと言うことをメインにしてほしいと言われたのですごくよかったと思います。
勝稔:急性白血病で多くの人に支えられてきて、自分一人ではないと言うことで、奉仕の活動、なんとかしたいと言うことで、中越地震があり最初は災害ボランティアと言うことで参加させてもらいました。
真知子:ボランティアは学生時代からやっていました。
沼津市でファミリーサポートセンターの立ち上げがあってかかわっていましたが、ファミリーサポートをやっていたが、里親をやってみないかと言われました。

登録してOKになったので施設の子さんを土日にあずかって家庭の味を味わっていただくと言うことから始まって、その後一番上の子をちょっと預かってほしいと言われて始めましたが、それが今は10年に成りました。
勝稔:うちに来た時に「ごめんな、ごめんな」と謝りました。
我々の年代の子供が産んだ子なので、私たちの世代が悪いと言えば悪い、保護されて家に来ましたが本当に可愛いです。
自分の子だと思って育てて居ます。
真知子:最初の子供の時は歳をとっていても50歳代の後半で、3人目の子は60歳代の後半で身体の衰えは感じます。
一人目の時は3時間おきにミルクを飲ませても寝られますが、3人目は自分の寝つきが悪くて体力の衰えは感じるが、寝顔を見ると可愛いんです。

勝稔:レスパイト この制度を利用して子供を里親さんに預けて自分たちが旅行に行くとか、里親さん同士が仲良くなると子供同士が仲良くなってお互いの家に行って寝泊まりしていろんな交流が生まれて来ます。
うえの男の子が18歳になるまでは生きて居たいと思いますが、その後はそれまでに実の親が子供を育てる環境になってほしいと思います。
真実告知 そう簡単なものではないと思う、理解するには相当時間がかかると思います。
真知子:実の子からは「お母さんは私たちを育てて居ることはそんなに優しくなかった」と言います。
別れはどこかで来ると言うことは常に思っていることなので、一応は覚悟はしています。
自立しなければいけないということは実の子にも言っていたが、親が手出しをすることは良くないことだと思っているのでなるべく自分でやって行ってくれればいいなあと思っています。
時々「やったの」と怒ってしまいますが。

勝稔:一般家庭の生活をさせてあげる、そういった面には注意して居ます。
カッとすることもありますが、抑えられると言うのがこの歳なんですね。
虐待とかいろいろな理由で親と暮らせない子は4万8000人ぐらいいると言われていて、里親で暮らしているのが4500~4600人ぐらいで、里親への委託率は少ない。
1/3は里親に委託したいと言うのが国の方針でもあります。
真知子:里親の認知率は低いと思います。
「里親」でネットで一番最初に出てくるのは犬と猫なんです。
生活費、委託費は国から頂けるので、ちょっと大変なところもありますが、子供って誰が見本になるかと云えば自分の親しかない。
家庭の中で育つと言うことは大事だと思います。
「里子からもらう幸せ」とは愛だと思います。
年金が減ってしまうと思われるかもしれないが、年金は下の方の支えで貰っていると思うので、逆に有難いのかなあと思います。
勝稔:この歳で子供からもらえるのは若さですか。
























































2017年5月15日月曜日

上治丈太郎(日本オリンピック委員会国際専門部会員)・アスリートとともに追った夢

上治丈太郎(日本オリンピック委員会国際専門部会員)・アスリートとともに追った夢
メインの活動は2020年東京オリンピックパラリンピック組織委員会の参与のたち場で色んな会議があり、そこに出席し、活動のお手伝いをしている事と、日本オリンピック委員会の国際部会員として、2020年を目指してのレベルアップの仕事がメインです。
スポーツの持つ力を以て人生が変わるとか、社会を変える力があるとか、世界をつなぐ力があるとか、未来を作る力があるとか、スポーツ省は2期目の基本法案で骨子としてまとめたもので、こういった形でお手伝いが出来ればと思います。
64年は高校3年生でした。
聖火はアテネで採火され沖縄にきて、4ルートで東京に集まる訳ですが、たまたま住んでいる近くを通り興味深く見させてもらって、国立競技場で最終ランナーがともされると言うのが余りに感動的で、将来こういった事に関われたらいいなあと思いました。

私は卓球をやっていて、ミズノによってみたら是非にと言うことで採用通知をいただいて、1965年にミズノに入りました。
最初はスポーツ施設を作る部門に配属されてそういった仕事をするようになりました。
建築の知識が必要で、早稲田大学の2部に建築本科がありそこに入って建築の勉強をしながら、織田幹雄さん、西田修平さん達が日本の陸上はどうしたら強くなるかの勉強会を開催されていて、そこに参加させてもらい話を聞かせてもらいました。
1988年のソウルオリンピックからミズノの統括リーダーとして担当しました。
ベン・ジョンソンのドーピング問題が発覚。
カール・ルイスとは1988年ローマ世界陸上から契約していました。
シューズのピンを配置するが、その位置によって力のロスが逃げなくてすむかを研究していたが、男子100mは注目されるので、日本製のスパイクが金メダルをと言う挑戦をかかげて、挑戦していました。
ジョイナー 10秒49という世界新記録を出して、ジョイナーに契約を要望した。
サンプルを渡したら良いと言うことで、ソウルオリンピックでは男女の100m、200mの金メダルを取れて感激しました。

中学生がカール・ルイスが履いているシューズをくださいということで、マーケットの動きが凄いものがありました。
1991年世界陸上でカール・ルイスが9秒86で金メダルを取ることになりました。
F1レーサーアイルトン・セナに対して2足シューズを送ったら大変気に入って、逢うことが出来て翌年から使いたいと言うことで、履いてもらうことになり、原価で10万円するものでしたが、亡くなるまでミズノを履いてもらいました。
アルペンのクロアチアのヤニツァ・コステリッチという女子の選手で長野の時は8位だったが、経済的に苦労していたようで、ウエアを提供してほしいと言われて提供しました。
2002年ソルトレイクシティーの冬のオリンピックでアルペン4種目のうち3つを金メダル、1つは銀メダルを取りました。
板とかスキーウエアーは日本のメーカーはまだまだ知らないのではないかと、海外のスキーメーカーから思われていました。
オリンピックが終わって、彼女は大統領からのお迎えもあり英雄になりましたが、サポートして良かったと思います。

非常に難しい要望が出てきて、技術者が泣かされるような要望、いくら投資したらいいんだろうというようなこともあります。
一緒に金メダルをとるんだという形で挑戦をよくやりました。
卓球の女子チームは卓球の動作解析、バレーのアタックの動作、ウエアの腕のアームの切り返し、力の伝わり方など動作分析を全部行い、そこで裁断を決めて、パフォーマンスが最も出易いものを作る。
各競技種目ごとに挑戦をします。
結果が出せたメーカーが次の市場における優位性を保てるので命がけでやっています。
レーザー・レーサー 国際連盟が公認したが、スピード社だけの水着の話題がフォーカスされるので、北島選手が「泳ぐのは私達です」というコメントを出した。
しかしレーザー・レーサーの開発競争には海外のスポーツメーカーにはしてやられたと実感としてあります。

室伏広治さんの父親とは知っていて、広治さんはやんちゃな子でしたが、成田高校の瀧田先生に預けられて、大学はお父さんのもとで頑張って、一昨年20連覇を区切りに現役を退きましたがその間いろいろな事がありました。
アメリカに修行に行ったときに、目からうろこと言ってきてこちらでやりたいとの熱望がありベースをアメリカにおいてやるようになりました。
彼が凄いと思うのはバーベルではなく漬物石をもって見て、使わない筋肉に気がついたり、赤ちゃんを手に載せて筋肉のバランスを考えたりそういう研究をし、投網の遠くへの飛ばし方などありとあらゆる普段の動きを研究していました。

オリンピックには205,6カ国が参加するが、そこで選ばれる商品は認知度が高くなる。
IOCにオフィシャルウエアーがないことで、アトランタのオリンピックの時にIOCのメンバーの服装を作ろうと言うことで、その時からIOCのサプライアーをするわけです。
そこから人間関係がずいぶん出来ました。
招致活動での人間関係と云うものの情報提供してもらいたいと言うところから招致委員会のメンバーにして貰って、活動をしてきました。
オリンピックの成功には、国際人として国際連盟の中に入り情報交換をしあって各会場で大会運営に貢献できると言うところからそういう人材を養成しようと言うことから、8か月の間に、必要なプログラムのもとに人材育成についてお手伝いさせてもらっています。

IOCは商業化をして、肥大化してきたが600万人の都市でもオリンピックを開催できるような形にしたい、14~18歳がスポーツ離れをしてユースオリンピックが作られましたが、バッハ会長は40項目の課題を出して、今改革に取り込まなくてはいけないと言うことで、ドーピング、八百長だとか不正を根絶することが大切で、健全なものにしたいと言うことで加速を掛けて分科会を設けて取り組んでいます。
選手だけでなく東京オリンピックに来られた外国人が、日本人の文化、健全性だとか日本人の良さ、色んな形で日本を見てもらって日本人の良さ素晴らしさを見てもらう、おもてなしをする、2020年を通じてさらにすばらしい国民として生まれ変われるような形になってもらえればいいと思います。






























2017年5月13日土曜日

吉崎俊三(信楽列車事故遺族会)   ・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった

吉崎俊三(信楽列車事故遺族会元世話人代表)・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった
1991年5月14日滋賀県信楽町、信楽高原鉄道線内で列車同士が衝突して、42人が亡くなり628人が重軽傷を負うと言う大事故が発生しました。
焼き物の街で知られる信楽では世界陶芸祭というイベントが行われていて連日賑わっていました。
京都から超満員の乗客を乗せて信楽高原鉄道に乗りいれたJR西日本の臨時快速列車と信楽駅を出発した信楽高原鉄道の普通列車が同時に単線区間に入ってしまい、正面衝突したのです。
事故の後、信号の設計整備の段階で両者の連絡不徹底があったことが判明、信楽高原鉄道側が赤信号なのに列車を出発させたり、手信号の手順を守らなかったり、信号トラブルが相次いでいた中で双方の鉄道会社がその原因究明をあいまいにしたまま大勢のイベント来場者を運び続けるなど信楽高原鉄道とJR西日本鉄道の両者の杜撰な運行管理が問われました。
明日でこの事故の発生から26年になります。
吉崎さんはこの事故で妻を失い、二人の娘が大けがをすると言う体験を乗り越え、他の遺族や弁護士、交通の専門家らと一緒に、鉄道事故防止の仕組み作りのために声を上げ続けました。
鉄道会社という大きな組織と向き合った日々を振り返っていただきました。

11時過ぎに喫茶店に入って食事をしようとしたところTVが事故を報道していました。
娘の旦那が航空会社なので情報を持っていると思って電話したが、出張中で、現地に行くように指示されました。
病院に行ったら娘はベッドで手も足もつっている状態でした。
姉は重体妹は重症だった。
妻はどうなっているか判らなかった。
1両目に乗っていて、姉妹は手すりにつかまっていたが妻は通路のまん中に立っていて手すりにつかまっていなかったので、衝撃で人の密集の下に入ってしまった。
病院を4か所廻ったが、亡くなった方は名前を書いていませんと言われた。
病院では死亡した人の顔写真を撮ってあった。
信楽町の町民体育館が遺体安置所になっていて、そこに行ったら顔がどす黒くて妻ではないと思って、もう一度確認に行ったら妻が着ていた服だと言うことが判り、亡くなてしまったことを確認した。

信楽高原鉄道は関係者は全部来ていたが、JRの人は課長が一番上で幹部は来ていなかった。
1ヶ月後に合同慰霊祭があり、JR西日本の態度も遺族の間で問題になった。
角田達郎社長は「鉄道運輸事業に携わる一員として申し訳ない」といってJRという言葉を濁すわけです。
説明会にJRの社長は出てこない。
信楽高原鉄道は社長以下役員が出てきたが、JRは鉄道本部長がでてくる。
1回目の説明会でもJRは鉄道本部長は「鉄道事業者としてお詫びをしますが、JRとしてはお詫びをしません」と言うわけです。
JRで買った切符なのに、何故JRが責任がないのかと思いました。
7月21日第一回目の遺族会が開かれて、JR西日本との長い戦いが始まる。
企業に立ち向かうのには弁護団が必要だと言うことになり団体の先頭に立ちました。

信号が赤から変わらないままで信楽高原鉄道の上り普通列車の出発が遅れていた。
安全を確保しないまま普通列車は赤信号を押して信楽駅を出発する。
普通列車が行き違いが出来る退避線にたどり着く前に、反対側から走ってきたJR西日本の臨時快速列車が退避線を通り過ぎてしまう。
単線区間に普通列車がいるのに、何故か信号が青になっていたのでJRの列車が進入してしまう。
何故信楽駅の出発信号が赤のままになったのか、向こうから列車がやってくるのに退避線の信号は何故青になったのか、行き違いの列車が退避線に居ないのに何故JRの運転手は
そのまま列車を進めてしまったのか、事故の日までに信号トラブルが相次いでいたのに何故両社は原因を究明せずに放置したのかなど争点になりました。

事故から9年目に、信楽高原鉄道の社員2人と信号設備会社の1人が業務上過失致死罪などで執行猶予付きの有罪判決が確定。
JRの関係者は誰も問われなかった、納得できなかった。
原因については全部が公表された訳ではなかった。
民事裁判で問うことにする。(1993年10月に大阪地裁に提訴)
鉄道安全推進会議(TASK)を立ち上げる。(1993年夏)
1992年12月に運輸省がやっと調査結果を発表するが、僅か12ページだった。
アメリカではNTSB(国家運輸安全委員会)があって、行政からも独立した団体。
アメリカに行って話を聞くことが出来ました。
そこでは電車などの構造まで言及できる。
調査内容の開示もする。

事故調査をする機関が必要だと言うことを世の中に発信できた。
信楽高原鉄道は安全性を高めた新型車両を導入することになる。
2001年に国土交通省に航空鉄道事故調査委員会が発足する。
次に事故が起きないようにするためには、どう言うことが必要なのかということに重点を置くことが大切。
2008年運輸安全委員会と言う組織に改組される。
鉄道安全推進会議(TASK)の実が結ぶことになる。
民事裁判ではJR西日本の責任も認めて遺族の全面的勝訴になる。
2003年3月にJRの社長が謝罪する、12年目の謝罪となる。
2005年4月25日福知山線で107人が亡くなる脱線事故を起こします。
組織罰(高額の罰金)についての議論が進んでいる。


































2017年5月12日金曜日

都一中(一中節宗家十二世)    ・紆余曲折の浄瑠璃人生

都一中(一中節宗家十二世) ・紆余曲折の浄瑠璃人生
本名藤堂誠一郎さんは1952年東京生まれ、6歳より父親の常磐津子之助に浄瑠璃と三味線の指導を受けました。
71年東京芸術大学音楽部邦楽科に入学しましたが、1年で中退、その後は常磐津節の三味線の修行を重ね75年に11世都一中に師事しました。
91年には12世都一中を襲名しました。
都一中さんは40歳の時に脳腫瘍にかかり、手術を受けましたがその時の体験が人生観や自分の音楽観に大きな影響を与えて居ると言います。
5年前に都一中音楽文化研究所を設立、国内外で講演会や演奏活動を通じて日本の音楽文化の普及に努めて居ます。

子供のころは音楽家になるつもりはなかったです。
今考えると有難い音楽環境でした。
父は浄瑠璃、三味線、母は芸者だったので踊りを主にやっていて、お座敷には出ていまして、おなかの中にいるころから邦楽に関する環境だったのでよかったと思います。
レコードも家にはあって、パティーページが一番好きで、テネシーワルツは暗くて厭で裏面に明るい音楽がありそれが好きでした。
3歳ぐらいから浄瑠璃は稽古していて、初舞台は3歳で三味線の初舞台は7歳でした。
中学生の時には加山雄三さんの大ファンでエレキバンドをやっていました。
高校でブラスバンドに入り、トロンボーンをやって指揮もさせてもらいました。
三味線も常磐津も上手くなくて駄目ねと言われて居ました。
父が買って来てくれたワグナーのタンホイザーの大行進曲があり、大好きですり減るほど聞きました。
指揮者になりたいとその時におもいました。

音楽のほかに日本的な枯山水の庭、長谷川等伯の松林図屏風などに心を動かされていて、その接点が父の三味線かもしれないと思いました。
東京芸術大学の邦楽科に入りました。(長唄 三味線)
長唄ではなく常磐津を早く現場で覚え、後を継ぐように1年で辞めろと強硬に父から言われて中退しました。
その間小泉文夫先生の理論に大変感銘を受けて、後半は先生だけの授業に出て居ました。

浄瑠璃は語りがありそれに後から三味線がくっついたと言う感じです。
澄んだ気持ちになる音楽、源流は平家琵琶。
17世紀の後半から盛んになる。
三味線が日本に入ったのが安土桃山時代で、それから100年後、元禄時代になって非常にはやりました。
その中に義太夫も一中もありました。(常磐津、清元なども)
初代一中の弟子に半中がいたが、一中をしのぐ大天才で宮古路豊後掾と名前を変えて江戸で爆発的に流行して、余りに流行しすぎて弾圧される。(吉宗の時代)
その弟子の筆頭が宮古路文字太夫と言う人がいて「常磐津」を、その弟弟子に富本豊前掾という人が「富本」を興して、その次に宮古路加賀太夫が「新内」を興して、その3つを「豊後三流」と言われる。
「富本」から「清元」が出来ました。

「一中節」はゆったりしていてたおやか、「常磐津」は勢いがある。
20歳のときに歌舞伎に出させてもらいました。
昭和48年4月、7代目三津五郎追善興行を8代目三津五郎さんが行い、その時に出させていただきました。
「一中節」の浄瑠璃を稽古をするように言われて、「一中節」は頭と腹で弾くんだと言われました。
最近になって、理性と感性でバランスよく働かせることが三味線を弾くと言うことなんだと思うようになりました。
11代目都一中は女性で、後の人間国宝になる。
半年は優しかったが、いきなり厳しくなり怒られました。
厳しかったが、音の真実を妥協しないで教えてもらった。
「その音でいい」と言われた時と、怒られた時の音が全然判らなかったが、今は弟子に教えるときに判ります。
その心がなければ音にでない。
一中節は三味線を弾くと言うのではなくて、音に真実を求めることが修行だと教わりました。

師匠が入院されたときがあって病室で次の一中になってもらいたいといわれましたが、とても無理だと言いましたら、この時が一番怒られました。
1週間考えさせてもらって「お受けします」と言ったら、涙を流してありがとうと言ってもらいましたが、その後元気になって継がなくて済むのではと思ったが、師匠が亡くなる直前に関係者にこの人に家元を繋ぐと言う内容で700通手紙を出しました。
家元は上座にあってはいけない、一番下座にいて、流儀の中に問題があってあなたに関係なくても謝りなさいとそれがあなたの仕事です、あなたが一番うまい必要はない、と言われた。
「一中節」を愛する気持ちだけはだれにも負けてはいけないとも言われました。
頭がすごく痛くなりCTスキャンの検査を受けたが、脳腫瘍だと言われました。
先代の3回忌の追善の最中で負担が大きすぎて居て辞められるかもしれないと思って
ラッキーだと思っていたが、手術をした後も頭が痛くて、何か自分の心に何かいけないところがあるのではないかと思い、尊敬されたい、ほめられたいとかのさもしい気持があり、これを反省すれば生かしていただけるかもしれないと思って、ひたすら皆さんに喜んでもらうことを大事にしたいと思った。

病気になって半年仕事をしなくなって、自分の為だけの勉強ができると思った。
その時間に人生を見直す、一中節をひたすら徹底的に1年間練習しました。
それからは毎年1カ月は海外に出かけて休養しました。(散歩したり一日中三味線を弾いたり)
5年前に都一中音楽文化研究所を設立、本当にやりたいことを本当にやるために音楽から学んだ日本人の精神文化、平家の怨霊のたたり、日本文化の優しさ、自分が幸せになる簡単な事は人の幸せをひたすら思うこと(漫才の原点)、笑うと言うことが幸せを作るとか、日本文化の精神を若い人に伝えていきたいと思っている。
現代の諸問題を解決する方法は全部浄瑠璃の中に入っています。
本当の教養は無意識に人を幸せにして、自分も幸せになる行動をとってしまう人が教養のある人、無意識の部分を作るのが音楽なんですね。
正当に真実をもってやらなければ絶対に事は運ばないと言うことを浄瑠璃から学んで、そういうことを若い世代に伝えたい。
ボランティアで是非手伝いたいという若い人達の思いがあります。





























2017年5月11日木曜日

佐藤一男(「日立理科クラブ」代表理事・ぼくら“理科室のおじさん”

佐藤一男(NPO法人「日立理科クラブ」代表理事 ・ぼくら“理科室のおじさん”
日立市には25の小学校がありますが、すべての小学校で行われる理科の授業に「理科室のおじさん」が派遣されてます。
おじさんたちはボランティアで、授業に使う理科室を整理整頓して実験教材の準備をするほか先生の授業の補助をしています。
おじさんたちを派遣しているのはNPO法人日立理科クラブです。
代表理事の佐藤さんは79歳、大手電機メーカーに勤めていた佐藤さんは会社を退職する際、理科嫌いの子供を何とかしてほしいと頼まれ、日立理科クラブをスタートしました。
メンバーは増え続け現在ではおよそ100人です。
おじさんたちはどのような活動をして、そこから何を得て居るのか伺います。

週2日間学校に常駐して理科室の改革その他子供たちとの科学の相談に乗っています。
おじさんは25名です、会社の現場でもの作りをやったり検査をやったりした人達が個性を生かして理科室の改善に努力しています。
平均年齢は8年たったので70歳に近くなっています。
「日立理科クラブ」には100名いて、その中から25名はおじさんになって他の人は理科授業の支援、教材の作成で頑張っています。
創設に到るまで2年間の準備が必要でしたし、お金を集めることも必要でした。
会社と学校現場と我々の企業OBの3つがそろって、日立理科クラブを旗揚げすることができました。

青森県七の戸町の片田舎に生まれて、小学校、中学校、高校とそこで過ごしました。
中学校に入るなり、電気班に入るように言われて、それが電気との関係が出来たきっかけでした。
真空管ラジオを作ろうと先生から言われて、配線図をみながら勉強してゆく過程で、電気店を通して秋葉原から組み立てキットを手に入れて、挑戦しました。
当時はラジオなどは一般家庭には無かった時代です。
2~3カ月掛かって配線が終了して、8人中3人が配線が間違っていませんでした。
驚きました。
チューナーを静かに回すと、間もなく「こちらは青森放送です」という言葉が入ってきて飛び上がりました。
音楽、スポーツ放送が聞こえてきてその時の喜びは一生忘れません。

中学で電気の世界に行きたいと思って、大学を受けたいと思って岩手大学を受けて、受かってしまいました。
奨学金を貰わないと大学生活が出来ないので、奨学金を希望したが受験時の成績が悪いので対象外だと言われてしまった。
教養学部の前期で優秀な成績だったら、可能性があると言われて、勉強して1年後期で奨学金を貰えました。
強電関係のほうにすすみまして、モーター、発電機などの勉強をしました。
3年の時にこの会社に行くようにと言われて、1か月間の夏季実習をして、その後内定の通知が来ました。
長男だったので故郷に帰らなくてはいけないと思っていたが、先生から説得されてその会社に行くことになり、大手電機メーカーに進みました。

面接で大きな電動機器を作りたいと発言したら、発祥工場の製造部門に入ることになりました。
水力発電機、火力発電機、原子力発電機、大型モーターの製造部門に入りました。
当時国内、海外から沢山の受注が入っていました。
その後本社の役員になりましたが、想像もしませんでした。
生産技術本部、品質信頼性本部等兼務してグループ全体を統括しました。
本社にいても月に2から3か所は現場の工場に行きました。
最後は専務取締役になりました。(従業員が30万人)
本社にでんと座っているだけではいい仕事ができません。
製品事故を起こしてお客さんにお詫びして、復旧工事に携わったことは何回もあります。
沢山の始末書も書きましたが、上司が栄転するときに「これを返すぞ」と始末書を返してくれました。
「お前も成長したな」と言われた時は叩かれた思いが一発で吹き飛んで感動しました。
始末書は人を育てる、私はそう思います。

2005年に会社を退職するときに、相談役に挨拶に行ったら、あなたはもの作りに従事してきたが、子供達が理科嫌いだと言っているが、理科嫌いと言うのと取り組んでみてくれないかと言われました。
日立市長、教育長に会いに行きました。
日立の子供たちも理科が嫌いかを質問したら、「嫌いではないが楽しくないと言っています」と言われました。
企業OB達を集めて子供達の理科の授業を支援しようと思い立って、日立理科クラブの創立に着手しました。
最初5~6人に声を掛けたが出来ないと言われてしまいました。
子どもと接すると物凄く感動があるよと言うことで、説得して段々参加してくれました。

理科室のおじさんは、理科室の解放、理科室の教育機材のメンテナンスから始めました。
子供たちは今まで見たことのないような教材を、理科室に飾ることが出来て段々来るようになりました。
次には理科の先生の授業の助手を務めることになり、教育現場からも愛されるようになりましたが、この二つが基盤になりました。
好奇心の湧かないような理科の授業は成功しないです。
理科が好きかどうかのアンケート調査で全国平均が69.1%、日立では79.8%と10%上でした。
評価していただいて私達も喜んだ次第です。
自分たちの手作りの教材を作って子供達も作らせて、作ったものを実験すると言う流れを自分でやっているので身に付くような実験が出来る。
そのあとに先生が教科書で原理原則をおしえると言う形になり、自然に子供達も理科が楽しいと言うふうになったと思います。

モーター、固定子と回転子があるが回転子はコイルが沢山巻かれているが、ワンターンモーターといって銅線一本で輪にして、輪に電流が流れるような仕組みにして、下に電磁石を持っていけば回転子のワンターンモーターが廻るんです。
単純なモーターを子供たちに作らせて、フレミングの法則で電流の流れと、電磁石の流れとその直角の方向に力が働くので単純に判り、法則が理解しやすくなる。
最初先生方からの抵抗がありました。
時間が足りなくて、次の日の理科の実験の準備などはできなくて、夏休みに先生のための理科教室をやって、積極的な先生を支援すると言うことで、最近は理解してもらえるようになりました。
自分の教育現場が荒らされると言うことは当然だったと思います。(5年の歳月が必要だった)
助けようと言うことを合言葉にみんな頑張りました。

他県からの見学者、文部科学省、理科大学、機械学会、電気学会などの皆さんもこられました。
東京大学の先生からは授業のやり方についての手法を教えてもらいながら、我々の教育現場で一緒に見てもらいました。
中学生の時に電気を教わった、教わり方がラジオを組み立てると言うテーマで教育してくれたことに感動しましたが、そういう体験を日立の子供たちにさせてあげたいと言うのがわたしの信念でした。
今は中学生に対して理科と数学のアカデミーを開いていて、やる気のある生徒を採用して、生徒の自主テーマでそのテーマに基づいて1年間研究、勉強しようと言うやり方に取り組んでいて、優秀なテーマについては全国大会などに派遣して頑張ってもらう。
いろんな場所で良い成績を収めて喜んでいます。
おじさんたちは子供たちと一緒に科学の不思議を発見し感動した、と言うことが最大の喜びではないでしょうか。
課題は次の時代の企業OBを育てることが最大の仕事だと思っています。
























2017年5月10日水曜日

上原淳(救急クリニック院長)    ・深夜に安心を

上原淳(救急クリニック院長)   ・深夜に安心を
川越救急クリニック 53歳 麻酔科の医師だった上原さんは川越で8年前医療機関の体制が手薄になる夜間や週末だけ、患者を受け入れる救急クリニックを個人としては日本で初めて建ち上げました。
資金面では相変わらず苦労している上原さん、患者の話を聞いてあげるだけで深夜に開いていてよかったと言ってくれると役に立っていることを実感するとおっしゃいます。
救急クリニック院長上原さんに伺います。

救急を要する医師の判断と患者の判断が大分かい離しているので、問題が出てくることはよくあります。
大学病院の救命救急センターに勤めて居て、軽傷の患者さんが結構来ます。
軽傷の患者さんは各科に振ってしまうので、振られた側の医師が悲鳴をあげてしまうわけです。
救急を受け入れたくないと言う話が出てくるわけです。
軽傷者のうけ入れを何処かに作らないといけないと思って、次の日の朝まで面倒をみて、朝に既存の医療機関がスタッフがそろうので、その状態で診てもらおうと思った訳です。
夜中の手薄なところだけをカバーしようと思った訳です。
うちに来る患者さんの98%は歩いて帰れます。
最近多いのは高齢のかたが、もともと持病を持っていて、夜になって直らないから不安になって来ると言う患者さんが多いです。
心臓系は多いです。

心電図、心臓の超音波エコーとか、採血とか、或る程度の証拠を提示して全く問題ないから心配いらないと一言言うと喜んで帰ります。
胸が苦しいと言ってきて、心電図をとり何もなくて、症状が何もなければ処方も出さないで大丈夫だと言って帰してしまうことが多いが、ほとんどの先生は何か処方を出します、処方を出すためには病名が必要で、狭心症と言う病名が着いてしまって、ニトロ(狭心症の発作を止める薬)とかを持たされて本人はますます不安になってしまうので、医師にも問題があり患者にも問題があると思っています。
夕方4時に診療を開始して10時に受付を終わって、その患者を診るのは12時ぐらいになってしまいます。
その他に救急車が来たりしていて、朝の9時までスタッフが居て、9時になると他の病院が開くので、その時点でバトンタッチします。
最初は一人で金、土、日、月の4日間やっていました。
その活動が紙面などで知って、今の副院長の木川先生が加わってくれましたが、木川君の人件費を出せなくて苦労しました、今は木川君に火、水、木をやってもらっています。

救急専門で夜間だけやるクリニックは日本では無くて、モデルにして全国で困ってるところがあったら真似をして作ってもらったら、救急事情が良くなると思って、医師会に入れて下さいと書類を出したら断られてしまって、実績がない、夜間にやっているので夜の医師会に参加できないだろうと言うことで、断られました。
今でも入っていません。
医師会に加入していれば、消防、警察、学校などの健康診断、予防接種などを行う事が出来るので、或る程度のお金が入るし、横の繋がりが出来るのでそのメリットはあります。
救急科としたかったが一般の人が判らないと思って、内科、外科、整形外科、小児科をあげて居る。(医者の免許を持っていれば可能)

一番広まったのはインフルエンザの予防接種とか、お母さんネットワークがあってそれで評判になっています。
救急をメインにやるのだから、予防医学で儲けてもしょうがないと安い値段で出したら市内で一番や安くて殺到しました。
ホームレス、身寄りの無い方、他の医療施設に断わられた患者さんなどが来たりします。
そうすると何処からお金をとったらいいか判らないこともあり、7年間で未収金が300万円を超えています。
喧嘩をして被害者が来て、そういった患者さんはお金を持ってきてくれない場合が多いです。

コンビニエントクリニックを目指しました。
基本的にはかかりつけにはしてほしくないと思っています。
慢性疾患をもっていて、悪くなって夜来るとか年末年始なども来ます。
大学で医局長をやっていたときに会議がたくさんあって、そういうので時間がとられてしまうのが一番嫌でした。
僕が救命センターに勤めて居た時におかしいなあと思ったのは、救急隊が行き場がなくて、現場で1,2,3時間と動けない、救急隊は医療が出来ない。
救急隊が困っているのならば医師が一回受けて、自分が出来なければデータを付けて紹介で受診させるというシステムを作らないと、いけないと思いました。
それが独立した一番大きなことだと思います。
いま、年間1万人の患者さんを見て居ますが、ほとんどが初めての方です。
救急は診断をつけなくて良くて、今の病態を改善してやって次の専門医につなげればいい訳です。

救急の初療、診断、検査をして今の状態を把握して、それに近い病名を付けて、紹介状を書いて専門の所に受診するように勧めて居ます。
自分の付けた病名、方向性があっていたかどうかの答えは欲しいですね。
たいていの病院では返事をくれますので、次のフィードバック出来ればいいと思っています。
トリアージ、患者さんが何処が問題で今どういう状態で、すぐに対応するのか、急がないのか仕訳を出来る医者が一番必要かなと思っています。(救急医、総合診療医など)
私は横になるとスーッと寝てしまいます。
医者になってからは似たような生活です。
世の中の日本の医師の多くは、30時間連続勤務は普通にこなされているのではないかと思います。
患者さんと会話をするのは好きです。(患者さんも愚痴るし、私も愚痴ります)

高齢で多いのは、連れ合いが亡くなって一段落するまでは気が張っているが、やる気が無くなって具合が悪くなってくる方がいます。(精神的な事)
そういう場合は薬も出さないし、30分話して頂けるのは初診料しかもらえません。
進路について高校生になると将来を語ることがままあり、社会貢献したいとの思いのなかで医者の道は納得しやすかった。
医者になって最初のうちは無我夢中でした。
エリート集団の学生から始まり一般的に医師は隔絶した社会にあり、自分が偉いと思ってる人はいますし、説明しても何で判らないんだと言う人もいます。
私は医者はサービス業だと思ってやってきていますが、そうじゃないと言う医師もいます。
医療は科学だと言われるが、医療はアートな部分があります。
今まで悔いたことは一杯あります。(違う道はバラ色に見える)
卒業するまで心臓外科医になりたかったが、麻酔科を選んだが、そのまま居ついてしまいました。

幾つまでこのままこの仕事をやれるのだろうとは思いますが、ここを継いでくれるかどうかは判らない。
若者は救急科を選ばない傾向があるので、救急科でも開業が出来る、将来的にバラ色的なものを見せたいと思っています。












































2017年5月9日火曜日

松本暁子(宇宙航空研究開発機構) ・宇宙医学を地上のくらしに

松本暁子(宇宙航空研究開発機構フライトサージャン) ・宇宙医学を地上のくらしに
日本人宇宙飛行士毛利衛さんが初めてスペースシャトルで宇宙に飛び立ったのは1992年のことです。
以来25年 日本人宇宙飛行士12人が19回のミッションをなし遂げました。
そうした宇宙飛行士の活躍を支えて健康を守る専門医をフライトサージャンと言います。
世界でも数十人しかいません。
その一人、JAXA宇宙航空研究開発機構のフライトサージャン松本さんに伺います。
松本さんは東京医科歯科大学医学部を卒業し、神経内科医として勤務した後、2001年宇宙開発事業団に入りました。
アメリカの大学院で宇宙航空宇宙医学を学んで、JAXAのフライトサージャンとして数々の宇宙ミッションをサポートしてきました。

フライトサージャンは一言で言うと、宇宙飛行士の健康管理を担当する医師で、医学的な面で研究したり健康管理をするということを専門にしている医師と言うことです。
地上から100km以上を宇宙空間と言いますが、国際宇宙ステーションは400kmのところにあります。
1961年旧ソ連のガガーリン飛行士が宇宙に行ったが、今は国際宇宙ステーションでいろんな国が参加して共同でやっています。
ISS、世界15カ国が作っている有人宇宙ステーションで、サッカー場ぐらいの大きさ。
90分で地球を一回廻るので16回朝夜が訪れます。
朝起きて地上と交信して、ミーティングを行い、一日の作業をして、運動したりもあります。
夕方ミーティングがあり、プライベート時間もあります。
作業時間は6時間半、運動時間は2時間ぐらい、エアロビックな運動と筋トレの運動します。

宇宙に行って初期のころは宇宙酔い、体液が頭の方に移動するので顔とかがむくむと言うような変化が起こります。
筋肉とか骨が弱って行くのが徐々に出てきます。
宇宙飛行士とはかなり前から担当するので、宇宙飛行士との会話などから大体わかります。
宇宙飛行士とは2週間に一回、ビデオを見ながら宇宙飛行士と医学的な会話をして健康管理をやっています。
2010年4月に山崎直子さんがスペースシャトルで宇宙に向かったときに初めてクルーサージャンをしました。
野口聡一さんがISSの長期滞在していてすでに滞在していたので、総勢13名いました。
その時に4名が女性飛行士でした。

力仕事は重力がないので負担ではなくなるので、物資の輸送でも女性が出来ますし、実験も得意な飛行士もいるので女性だから難しいと言うことは特にはないと思います。
ISSでは英語とロシア語で会話をしています。
若田光一さんが長期滞在したときにクルーサージャンとして担当して、最初はフライトエンジニア、後半は船長として行きましたが、ソチオリンピックがあったのでロシアではオリンピックトーチをソユーズに乗せて、EVA(船外活動)でリレーみたいにやってトーチを地上に持ち帰ったと言うことがあります。
若田さんはこの時4回目の飛行で、後半は全体の管理の役割をして、私自身も緊張感の高い日々を過ごしました。
188日のミッションでした。
その時宇宙船の不具合があり、EVAで処置もしました。
EVAの時は血圧、心電図とかを下からモニターしています。

スペースシャトルの場合は滑走路に戻ってきますが、ソユーズの場合は帰る時はカザフスタンのこのエリアとかだいたい決まっていて、着陸したところに我々がヘリコプターで向かう訳です。
一般的には2年ぐらいの訓練があります。
若田飛行士は11月に上がって5月に帰って来て季節としては良い季節でしたが、油井亀美也飛行士の時は5月の予定が延期されて7月になり、非常に暑くて、外の気温が40度を超えて、健康管理には気をつけます。
感染症にならないように2週間前から隔離して、関係者だけの生活になります。
宇宙ステーションには窓があり、故郷の地球が見えて宇宙飛行士の人気スポットです。

シャトルの時は数日間隔離して宇宙飛行士と一緒に打ち上げ前の日々を過ごしましが、シャトルの打ち上げは非常に迫力があり、身近で見れたのは印象に残っています。
シャトルは音も光も凄いです。
入念に計画してその通りに進めようとしているが想定外が起きて、先を考えてミッションに臨むが想定外のことが起きた時にはフレキシブルに対応すると言うことを考えています。
国が違って、言葉、文化の違いはあるが、一緒にミッションを達成する喜びは大きいです。
宇宙飛行士によってそれぞれ変えて居て、体調を感じるのは本人なのでその人がやり良いようにということでサポートするようにして来ました。
「大胆かつ繊細に」 全体を見ながら宇宙飛行士の健康管理は繊細にと言うことを心がけて来ました。
信頼関係を大事にしながら管理し過ぎないようにサポートをさせてもらいました。

子供のころは星空を見たりするのは好きでしたが、医者になって或る時に母が人体も小さい宇宙だと言った時があって、そこでちょっと結びついたようなところがあり、宇宙医学という言葉を知って、宇宙に行ったら人間の体はどうなるとか疑問に思ったのがきっかけでした。
人間の体は新しい環境に対応するようにできて居て、宇宙酔い、体液が移動すると言うことも、新しい環境への適応の段階だと言うふうに考えることもできると思います
一生懸命仕事をしていれば見て居てくれる人がいて、頼まれるようになって信頼関係が築けたのかなあと思います。
地上医学と宇宙医学は別物だはないと思っていて、それぞれ活かせると思うので双方向の成果の関係で、関わるものとして少しでもお手伝いしたいと思います。



















































2017年5月8日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・樋口一葉【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・樋口一葉【近代日本150年 明治の群像】
神田蘭(講談師)
貧乏、薄幸、近眼、頭痛持ち、若くして肺病で亡くなる幸薄い女流作家のイメージ。
神田:樋口一葉は天才、野心家(自分思っている才能を世に出したい)、初めての女性職業作家で夢がかなった幸せな人生だったのではないかと思う。

講談内容(神田蘭)
夏子と言って明治5年下級役人の娘として生まれる。
幼い頃から本を読むことが大好きだった。
7歳で南総里見八犬伝を3日で読破、小学校高等科を首席で卒業、進学を望んだが母親から諌められ、進学を断念、しかし父親は彼女の才能を買っていた。
中島歌子の主宰の和歌の塾に通わせた。
周りは華族、皇族の娘達で生活様式等一切違っていた。
新春歌会があり、最高得点を獲得する。
「打ちなびく柳をみればのどかなる朧月夜も風はありけり」(15歳の時の作品)
しかし出る杭は打たれる、先輩方から叩かれる。
田辺竜子が「藪の鶯」と云う小説を発表し華々しくデビューし、現代の額で40万円を貰ったと言う事を聞いて、小説を書くことを考える。
父が多額の借金を残して亡くなってしまって、お金の苦労、生活の苦労をすることになる。

両親は山梨出身で駆け落ちしてくる。
父親は塩山市の豪農だった。
一葉の祖父は番所調所の先生だった、父親も学問が大好きだった。
お金を出して武士の株を買って武士の列に連なることになる。

たけくらべ
「回れば大門の見返り柳いと長けれど、おはぐろどぶにともしび移る三階の騒ぎも手に取るごとく、明けくれなしの車のゆききにはかりしられぬ前世を占いて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとはようきの街とすみたる人のもうしき。
三嶋様の角を曲がりてよりこれぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたづくのきばの十軒長や、二十軒長や、・・・このあたりに大長者のうわさも聞かざりき。 ・・・・・・。」
講談は75調ですが、同じように流れるような文体で美しい。

中島歌子の主宰の萩野屋 女性ばっかりの歌の勉強会。
周りはみんな晴れ着姿であったが、晴着は着れなかった。
14歳で入門するが、良家の娘達の集まりなので才能がある一葉に対して、嫉妬などがあったのではないかと思う、つらかったと思う。
中島歌子は水戸藩の出身で、元々は農家の生まれで、女学校を経営することになる。
一葉を支えてくれたのは彼女だったのかもしれない。
17歳で父が亡くなり樋口家を支えていかなければならなくなる。
一葉(19歳)は半井桃水(なからいとうすい 30歳)という朝日新聞の専属作家と出会うことになる。
半井桃水から小説の書き方を学ぶ事になる。
一葉の処女作「闇桜」は桃水の校閲を経て『武蔵野』に発表された。
小説はなかなか売れなかった。

小説を学ぶため半井桃水に通ううちに男女の仲なのではないかとのうわさが出てくる。
神田:一葉は半井桃水に対しては物足りなさがあったのではないかと思いました。
一葉日記に半井桃水とは別れなさいと中島歌子先生に言われて、翌日どうしたら小説を世に出せるか相談している。
神田:小説家としての野心家樋口一葉像が伺える。
下谷龍泉寺の駄菓子屋で生活費を稼いでいたが、明治27年に本郷丸山福山町に転居する。
酌婦が上で身体を売る居酒屋が立ち並んでいるところだった。
ここが「にごりえ」の舞台になる。
明治27年12月に「大つごもり」を発表する。
明治28年 「たけくらべ」にごりえ」「十三夜」などを発表する。



















2017年5月7日日曜日

緒方賢一(声優・俳優)       ・【時代を創った声】第15回

緒方賢一(声優・俳優)     ・【時代を創った声】第15回
ゲッターロボ、コン・バトラーV等の悪役を始め忍者ハットリくんの獅子丸という犬の役などで知られています。
5年ほど前に腎盂癌を患いましたが、手術をされて去年放送された連続TV小説「とと姉ちゃん」にも俳優として出演するなど元気に活躍されて居ます。

声だけで悪役をしなければいけないので、どう本当に腹が立つようなキャラクターをやるか、心を鬼にして燃えました。
人観察ですね、そうやって自分以外の人間を表現するので、他人を研究しておかないとうまくなれない。
性格とか、キャラを狂暴にするのに、いろいろちょっと変えてやったりしています。
家は福岡の料亭でした。
後を継ごうと思ったが、炭鉱がどんどん傾いていき、街もさびれていって、ここで料理人になってもしょうがないと思っていたときに、仲間をかばったがとばっちりが来て、逃げました。(16歳ぐらい)
僕がしゃべると周りが笑うので、ひょうきんさを生かして、役者にでもなったらと思いました。
バイトしながら劇団を受けて、見事に軒並み落ちました。

東京で高校に入って2年勉強していなかったので判らず、定時制に行きました。
4年間高校で言葉のなまりを直そうと友達にチェックしてもらって言葉はよくなってきました。
劇団を受けたら軒並み落ちましたが、或る劇団の座長の奥さんが同郷だったので、補欠で入ることができました。
人との出会いは大きいですね。
劇団では難しいことをやっていて全然わからなかった。
パチンコ屋のバイトをしながら、児童劇団とのかかわりが出来て、やっていました。
パチンコの技は或る程度出来たので、何とか生活をしていました。
インスタントラーメン、フランスパンなどを沢山購入して食いつないでいきました。
児童劇団は3~4か所手伝いました。(東北地方がおおかった)

作品を面白く見せると言う工夫をしないと、子供たちの反応は厳しいです。
いろいろ話をして、工夫をし勉強しながらやりました。
ディレクターをやっていた人との出会いがあって、面白い声だからやってみないかといわれて、声の出演をさせていただきました。
洋画で「リンゲ」の庭師の役をやっていたと思いますが、四苦八苦しました。
ほとんど生の時代で、洋画で口の合わないのは当たり前でした。
アニメにかかわるようになってからちょっとした悪をやる様になって、良いじゃないかといわれて、段々親分の役をやるようになりました。
宇宙戦艦ヤマトではロボットのアナライザー、忍者ハットリくんでは獅子丸という忍者犬、人形劇では沼の河童など人間ではないキャラクターでした。
擬人化しないと絶対だめで、分析して役作りをします、そうしててどういう声の質かを決めていきます。

アナライザーも機械音だけでいいと言われたが、感情がないといけないでしょうと、多少感情も入れさせてもらいました。
獅子丸の場合は声質としてはアナライザーに似ているが、違ったキャラクターが出来上がっていきました。
とにかく擬人化しないとできない。
堀 絢子さんと子供たちとの言葉の遊びの番組にもださせてもらいました。
セリフを覚えて言わなくてはいけないし、子どもたちは遊びたがるので遊びながらやるのは大変でした。
カメラの前での動きは難しいです、動きが制約されました。
一休さんをやっていたころが一番忙しかったです、月に70本ぐらいやっていました。
収録中にスタジオが廻り始めて初めて倒れました。
新しい劇団を自分で作ってやり始めてからが忙しかったです。
25年ぐらいやって体調を崩したりしましたが、或る時おしっこすると血が混じったりして、結石だと思って公演後入院しようとおもっていたら、腎臓にがんがあったらしくて、腎臓片側をとって膀胱の半分取りました。
5年ぐらいたつが再発は無いです。

今の子たちはアニメ学校を出て事務所に所属して、仕事を貰った段階から、まんまの声でかっこよく喋るとか、成立して居る人もいるので、出来上がっているので先輩にものを聞く必要は無いと思うのかあるのかどうか、一緒に食事をしようなんて言うことはないです。
私は一緒に食べに行こうと自分から若い人を呼んで話をするようにしています。
スタジオの中でも交流は無いです、こんな状況でよく仕事が出来るなと思います。
私は作品に関わってその作品を越えたいと思う気持ちがあり、自分に対して厳しくあってほしいと思います。
「大根役者であれ」 それを発見した時に何て素晴らしいことだと思います。
歌舞伎などで大根は当たらない、すぐ下ろされるとかいわれて居た。
まず出発が真っ白で、いろんな手を加えることにより、色んな色になり味になり保存もきいて、ありとあらゆるものに対応できるという認識を持ちました。
「大根役者であれ」と言っています。
声は45年ほどやってきて、初心に戻ると言うか、ドラマにも出て経験できたので、緒方を知ってもらいたい生きざまを知ってもらいたいなあと思います。















2017年5月6日土曜日

小野恭靖(大阪教育大学教授)    ・ことば遊びのススメ(H26/12/6 OA)

小野恭靖(大阪教育大学教授)  ・ことば遊びのススメ(H26/12/6 OA)
58歳、日本古典文学、日本歌謡史、芸能史などを専攻する傍ら、言葉遊びの歴史的な研究に携わっています。
最近洒落を言うと若者から、おやじギャグ、寒ーいと言われてますが、古来日本人は言葉遊びが大好きで、日本語の特徴を生かしたさまざま言葉遊びを楽しんできました。

子供時代、家の近くにラーメン屋があり、999の暖簾を掛けたラーメン屋で店の名前が「サンキュー」と云う名前でして、それが最初かなあと思いました。
日本の古い時代のはやり歌を研究していまして、歌詞の研究になります。
歌詞の中にたくさんのダジャレ、謎かけなどが出てきます。
それが言葉遊びの研究となっていきました。
一般的なのが洒落です。
洒落を使った謎かけがあります。
何何と掛けて何と解く、その心は、・・・と言うようなもの。
倒言、逆さに読む。 クルミがミルク クラキマイ(倉木舞)がイマキラク(今気楽)
回文 上から読んでも下から読んでも同じもの。 トマト、
 クルミがミルクに 「が」の代わりに「と」を入れると回文、クルミとミルクになる。
ローマ字回文 小野 ONO 音声学的に非常に重要。
さかさ SAKASA 音声的には駄目だが、あかさか 赤坂 AKASAKA テープで逆回転してもおなじに聞こえる。
伊丹いい街 ITAMIIIMATI 

漢字回文  山本山 三遊亭游三 三笑亭笑三 笑福亭福笑 中村中
漢字遊びが一つのジャンルになっている。
小鳥遊→たかなしと読む 鷹無(鷹がいないので小鳥が気楽に遊べる)
十→つなしと読む 九迄は「つ」がつくから
和歌の掛け言葉
「花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」
ふる→年月が経過する、雨が降る
ながめ→長い雨、ボーっと物思いにふける。
雅な古典の和歌の世界で重要なキーワードのようになっていた。
言葉遊びは万葉集の時代までさかのぼれる。

畳語 繰り返し似たようなことを言う。 
天武天皇の歌
「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ」
恋→孤悲(こひ)と読ませる。
類音
回文の長いもの 和歌
「永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな」
なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな 回文歌
室町時代、琴歌 古都に合わせて歌ったもの
日本語に濁点が付くのは江戸時代以降。
初夢を見るときにかわら版として売り歩いたものがあり、七副神が船に乗っている絵、宝船の脇に歌が書き込まれて縁起物として庶民に広がり、正月に枕の下にして夢を見ると良い夢が正夢になると言うもの。
言霊 力があって災いを取り除いて夢がかなう、実現すると言われていた。

「へへへ・・・」 「へ」を31回重ねる。 狂歌で屁をした人を笑う回文。
笑い声のようにも聞こえる。
わらべ歌
尾張三河童遊集 江戸時代、小寺玉晁がわらべ歌をまとめたもの
「きつねがてらでかねつき」 回文
童言
子供が回文で遊んでました。
謎なぞは平安時代からあった。
「なにぞ」と言う日本語が詰まって謎になったと言う語源がある。
謎なぞは枕草紙に出てくる。
室町時代になるとなぞなぞが好きな天皇が4代続いて、なぞなぞがピークを迎えた。
問いと答えがある、二段謎。
天に張り弓なーに、答えは月。(枕草紙に出てくる。)

中御門宣胤 宣胤卿記の中に出てくる。
「梅の木をみずにたてかえよ」 という謎なぞ 答えは「海」 木→氵
「降る雨の晴れぬる後や草の露」 雨が無くなって草の露と言うことで 「蕗」が正解
雨→草冠
漢字の旁と偏を自在に変えて行くやり方。
「紅の糸腐りて虫となる」  「虹」が正解 糸→虫 (室町時代)
その後3段謎が出来て来る、洒落と連動する。
何々と掛けて何と解く、その心は・・・。
土葬と掛けて鶯と解く、その心は「梅に来て鳴く」 「埋めに来て泣く」

「次」 次の漢字の下に男の絵が描いてある。 答えは「男所帯」 姿に「女」がいない

冂(「内」の人がない部分が)出され 答えは「留守」だがそれを考えてもらう。
口 田のなかに十がない、→田中十内と読む
判じ絵 矢の脇に的の絵が描いてある →大和
輪っかの絵と雨傘の絵が描いてある→若狭
日本全国の旧国名を絵にして読ませるクイズ。
錦絵の一枚刷りの判じ絵、足の横に点々があり、魚の名前を問う、答えは鰺
太鼓の絵のまん中が空白になっている、魚の名前を問う、答えは蛸
嘘字 実際にはない字を勝手に作ってしまう。
「木へんに春、木へんに夏、木へんに秋、木へんに冬、木へんに同」5つ並べる
「春椿、夏は榎に、秋楸(ひさぎ)、冬は柊、同じくは桐」という和歌で漢字を教える。
式亭三馬の小野篁嘘字尽は、
人遍に春、秋、冬、暮もないが勝手に作ってしまう、季節に人がどういう状態かを表す。
「春浮気、夏は元気で、秋ふさぎ、冬は陰気に、暮はまごつき」

子供に日本語の勉強のきっかけになると思うので復権を果たしてもらいたい。
「伊丹の酒今朝飲みたい」 回文 伊丹、池田は酒の産地で俳句の街でもあります。
言葉遊び大会 回文、謎かけ、折り句などで毎年大会をやっています。


















2017年5月5日金曜日

横堀三千代(ファミリーグループホーム運営)  ・130人の“お母ちゃん”

横堀三千代(ファミリーグループホーム運営) ・130人の“お母ちゃん”
1932年群馬県前橋市生まれ、養護施設で 30年近く働き、夫の哲夫さんとともに昭和57年、前橋市にファミリーグループホーム横堀ホームを開設しました。
これまで35年さまざまな事情で親と暮らせない130人以上の子供たちとともに生活を共にしてきました。
ファミリーグループの開設は前橋市の山林の開墾から始まりました。
建物や畑を作り、鶏、やぎ、うさぎを飼いました。
一緒に食事を作り家事も分担して行いました。
横堀さん夫婦が大事にしたのは、子供たちみんなが自分の家にいるような環境を作ることでした。
七五三や成人式にも晴れ着で参加しました。
我が子を含め20人近い家族だった時もありました。
ホームの35年には看護士、調理師として自立したと言う子もいれば、84歳で亡くなるまで過ごしたと言うことです。

なかなか土地が見つかりませんでしたが、夫の生家の山を使ったらいいと、夫の兄夫婦に言われて開墾し始めました。
写真集を作り喜んでもらっています。
夫とともに養護施設で30年近く働きました。
養護施設と里親の中間のようなものの養育機能が必要だと気付いて、子供の声が聞こえ、生活の音も聞こえる家を作りたいと思いました。
多い時は15人ぐらいいました。
児童相談所を通して預かった子ではなくて、あちこちからやってきて、藁をもつかむ思いでやってきた人たちでした。
1年間の猶予期間を置いて、蓄えたお金も全部つぎ込んで行いました。
自分の子のことも少しは考えないといけないと親からは言われましたが、出来るだけお金を使わないように、雑木林の木を倒したり根っこを掘ったり全部二人でやりました。

鶏、やぎ、うさぎなどに接する事がなかった子供たちだったので、鶏、やぎ、うさぎを飼いました。
やぎのお産をみんなで見守って、生まれた時の感動を味わったりして、命の誕生を心から喜んでむかえ、厳粛に迎えようと一人一人の心の中に養いたいと、やぎのお産を見ながら考えました。
高校生の少年、アマチュア無線の試験があることを知り、彼がそれに合格して地方紙に載り、無線機販売業を営む人がいて、ホームに無線機を設置したいとの申し入れがあり、取り付けていただいた。
地域の方の方々の温かい支援があり、頭が下がった。
最年少の子を預かったが、泣きたいのに泣くことができない、声も出なった、この子は泣けないことで何かを伝えようとしているのだろうと思った。
しかし一度ポトンと涙がこぼれおちると、何時までも泣きつづけた。
ずーっと抱き締めて男の子が疲れて眠るまで抱き締めていた。
周りはただ無言で見詰めていた。
それを見つめて居た子が、ああいう親になるんだと、後に或る子が想いを語ってくれました。

「母の周りではいつも小さな子がそばにいて母の膝は空いていなくて、でも私(実の子)はすこしも淋しくありませんでした。
母の作ってくれた洋服には必ずどこかに刺繍がしてあり、私(実の子)はお母さんと一緒にいるようでした。
そこだけがいつも温かでした。」

27年前、或るおじさんが何処も引き取り手がないままにいたが、突然民生委員の人とともに来て、住所不定の人でしたが、夫が預かると言うことになり、シャワーを浴びてその日から家族になりました。
それから24年横堀ホームで生活して、おじさんはめされて行きました。
婚礼に招かれ婚礼の引き出物の中に末広の羊羹があった時に、20人近く居て、羊羹を狭く切ってそのおじさんにも与えようとしたら、「俺はでっかさじゃないんだよ、どんなにちっちゃくても俺をみんなの仲間に入れてくれる、それが嬉しいからでっかくなっていいんだよ、うめーなー」と言ってくれました。
おじさんが菜の花の種を土手にも蒔いてしまって、そちらのほうがよく育ったと言うようなこともあり、楽しい思い出が沢山あります。

魚の木彫を夫がたくさん作って、沢山の魚に感謝をしたいと言っていました。
何時も時間が足りないと言っていました。
「父は木の繊維が曲がっているなら曲がっているなりに、節があるならあるなりに、穴が空いていれば空いているなりに、その形に添って磨きをかけていくのである。
決して無理な形に切ることはない。
すると磨きあげられた木はこれがあの廃材だったのかと、目を疑うほどツルツルとして光った顔を見せる。
木が生まれ変わる、こんな柔らかさがあるあの木にあったのかと驚いてしまうのである。
或る時私はふっと思った、父の人間に対する考え方、見方、接し方と同じかも知れない。」(娘の文章)
夫が亡くなって15年になります。

夫が口も利けなくなったときに、口の動きで夫が「こ・ど・も こ・ど・も」と言ってこの世を去って行きました。
話したら子供たちが寄ってきて泣きました。
昭和20年8月15日 第二次世界大戦が終わりましたが、前橋は瓦礫と化してしまっていて、物のない時で、広瀬川の橋のたもとにいる男の子達には帰る家がないのだ思って、間もなく教会に通い始めて「喜ぶものと共に泣くものと共に泣きなさい」という言葉に感動して、ともに泣く人生を送りたいと思いました。
将来は子供たちと一緒に暮らそう、生きていこうという原点が与えられたと思っています。





















2017年5月4日木曜日

陽信孝(宮司)          ・短歌に託した妻への介護日記

陽信孝(宮司)   ・短歌に託した妻への介護日記
山口県萩市、78歳 15年前妻八重子さんをアルツハイマーが原因の病で亡くしました。
その間4000日に及ぶ介護日記を短歌に託し、その介護記録は映画「八重子のハミング」となり、この5月から全国公開されています。
夫婦とも離島の中学校の教師として長く尽くされ、介護時期は萩市教育長として忙しい立場にありなりながら支えてくれたのは家族の存在でした。
陽さんの日記に残した短歌を紹介しながら夫婦の純愛、家族愛、介護の難しさについて伺います。

大病して26年になります。
最初胃がんが見つかり、食道の直ぐ下に3つ出来て居て取り除いて、30日の退院予定が癒着して60日間、そのうち40日は点滴で水も飲めずに生きて来ました。
半年して痛み出して、腸に転移していました。
日赤の外科部長も3回とも助かるとは思っていなかったと言っています。
妻は廊下を泣きながら歩き出して、ビニール袋に衣類を入れたり出したり同じ動作を繰り返して、夜になると泣くわけです。
何をボケて居るんだと言って、入院の準備、支払など私が中心でやってました。
父が34,5歳のときに痴ほう症にかかって妻と一緒に見て来ました。
多少知識があったので妻に辛い思いをさせなくてよかったと思うのですが。

「湖の氷は溶けてなお寒し三日月の蔭な身にうつろう」 中学の時この短歌に触れたときに感動してそれから短歌に興味を持ち作ったりしました。
入院して、短歌を書いて1000首ぐらい出来ました。
「病みすする?背に伝わるる妻の手のぬくもりあり手再び眠る」
「一睡もせざれし看護の夜は知らぬ我妻優しき笑顔そそげり」
ほとんど離れないで夜も床に膝をついて、ずーっと背中をさすり続けてくれましたので妻のぬくもりは自分の中に残っています。
「昼夜に我が背さすりし手をのべて疲れし妻の無償の寝顔」
痛みに苦しんでいた時で妻のこと、家族のことなど考える余裕はなかったが、自分が病気になると家族も苦しむんだなあと思うようになりました。

妻は2,3年目ごろから箸が持てなくなってきて機能を失う。
若年性アルツハイマーは瞬間的なショックで脳細胞が縮んで、縮み続けて極端にいえば赤ちゃんの脳になってゆく、学習が効かない。
日常の生活が出来なくなってゆく。
動作がおかしいと疑いを持っていたが、若年性アルツハイマーという思いは無かった。
若年性アルツハイマーだと言うことを言われたときに頭の中は真っ白になりました。
「同じこと繰り返し問う妻の日々繰り返し答う我が一日」
「幼子に戻りし君の日々なれどかまのう?つなぐ日々あれかしと」
妻は徐々に言葉を忘れて行く。
こっちの接し方によって相手は変わってくると言うことを、介護される人達に対して僕自身が全てにあてはめたい。

高齢化社会に向かっている中で、今の子供たちが大人になった時に当たり前のことが当たり前として子供たちに教えられていない。
とにかく勉強すればいい、親が叱ることを知らない、有難さも判らない、思いやりの心も育たない、そんな中で大人になった時にはたして介護が出来るかどうか、物凄く心配しています。
教育が介護にも繋がってていくんだと言う事の国の連携がなされていない、日本は福祉国家ではないと思う。
ボケたのを見ながら胸をえぐられるような悲しい思い、妻がウンチをたべるのを口で吸いだしたり、残尿処理が出来ない、娘のことが判らない、しかしプライドは残っている。
いろんな生々しい現実が判って介護って大変ですねと言われる社会が構築されていかないと本当の介護、看護ができないのではないかと思っている。

山口県下の非行少年非行少女、育成学校でもお手上げの子が情の島のあけぼの寮に入りますが、そこに新任で行きました。
妻は私より2つ上で、そこには100人ぐらいいました。
妻は音楽、私は国語が専門でしたが、他に社会、英語、技術、体育でした。
生徒指導の原点を学ばして貰いました。
市長から教育長をやってほしいと頼まれました。
その頃妻はハミングで歌っていました。
童謡唱歌がいかに人の心をつかむか、日本の生活文化と言う事ですね。
「朗らかに優しく妻を導ける娘の日々に我は救わる」
妻からは笑顔しか得られなかったので、孫がピエロを演じてくれましたが、その陰に娘夫婦たちの子供たちへの厳しい教育があったからこそと思いました。

「美しき老い」が自費出版のテーマでした。
妻が徘徊しているときに母がずっと見て居てくれました。
教育長を辞める時に母が「これで安心して死ねる」と言いました。
娘は本に出すことも映画になることの公演に連れて行くことに反対でした。
或る時にお母さんは瞬間的に判るんだと言って食いついてきました、他にもバトルがいろいろありましたが、映画を作っていただき、試写会の案内が着いたときに娘は行かないと言っていましたが、2日前に出席すると言うことになり、わだかまりがスーッと消えていきました。
今は感謝感謝の毎日です。
私が妻を一緒に連れて歩くことは娘は本当に厭だったが、娘がオープンにしていてよかったねとポロっと言ったんです、サンダルを近所の人が貸してくれたり、一緒に手をつないで家まで歌を歌いながら連れて来てくれてオープンでよかったねと言ってくれました。

「優しさを婆から学び育ちゆく孫らの日々は健やかけくあり」
孫の作文が県の優秀作品になる。
「バーバはアルツファイマー病です。どういう病気かと言うと段々赤ちゃんに戻ってゆく病気です。・・・・一日のほとんどは廊下で一人で遊んでいます。・・・バーバの薬は優しさとおじいちゃんに聞きました。・・・だれもバーバの事を叱りません。・・・昔の曲を流すとバーバが笑ってくれるので嬉しくなります。・・・私の家にはヒーババとバーバがいてくれるお陰で優しさがあります。 ヒーババとバーバがいてくれてとても嬉しいです。」
笑顔が一番の財産だと思います。
原点は家庭教育だと思いますね。

介護記録映画「八重子のハミング」
介護が大変と云う映画よりも、介護に伴って来る心を作っていくのは何なのか、と言うのがテーマでずーっと流れて居て嬉しかったです。
「思い出をたどりて訪ねし旅の空流るる雲よいまひとたび」
「くずれては湧き上りくる夏雲を迎えて妻よ生きねばならぬ」
二人とも雲が大好きだった。
「雲流る」と言う題にして自費出版しました。
先の見えない介護でした、介護する方が倒れては何にもならないので施設に預けることも大切だと思います。
いかに穏やかな死を迎えさせてやるかと言うことばっかり考えて居ました。
「去りてなお笑顔残せし妻なれど向きて語るも言の葉帰らず」
「生きることは逃げないことだ」と言うことを学ばさせてもらいました。
「怒りには限界があるが、優しさには限界がない」と言うことも学ばさせてもらいました。
人間の優しさは泉の様に出てくる。
しかし優しさを続けることの難しさはある。









































2017年5月3日水曜日

樂吉左衞門(陶芸家 樂焼十五代)  ・一碗は宇宙を宿す

樂吉左衞門(陶芸家 樂焼十五代)・一碗は宇宙を宿す
東京の国立近代美術館で「茶碗の中の宇宙、楽家一子相伝の芸術」と言う展覧会が開かれています。
楽家は400年を越える歴史を持ち代々茶碗を作り続けてきました。
この展覧会には初代、長次郎から15代吉左衞門さん迄の作品が展示されており代々伝統に
根ざしながらもそれぞれが時代感覚を反映されつつ新しい美を創造してきた日本独自の茶碗の世界をうかがうことができます。
楽焼の茶碗は轆轤(ろくろ)を使わず、一点一点手捻り(てびねり))で作られ一つずつ炭火で焼きあげられます。
その赤や黒のモノトーンの世界は千利休のわびの世界を示しているとも言われています。
1949年生まれ、東京芸術大学で学び、1981年に吉左衞門を襲名しました。
大胆な削りを入れた彫刻的な造形は従来の楽焼の枠を乗り越えて居て、現代性を強く意識し表現したものとして高く評価されています。

東京展覧会の前にアメリカ、ロシアの展覧会を開催、好評だった。
アメリカは楽焼を知っていてアメリカは好評だったが、ロシアはアメリカ以上に好評だった。
ロシアでは12万人来ました。
日本人よりも遥かに楽焼に興味を持って見てくれた。
武道だけでなく茶の湯、日本の絵画などにも興味を持っています。
楽焼は特殊だしロシアで興味もつことはとても難しいと思っていたが、お茶の文化がロシアにあると言うことです。
ロシアは西洋に近いと思うかもしれないが、ロシアはアジアにまたがっています。
お茶はアジアが発祥で紅茶もそうですし、お茶の文化はインドで生まれて、中国の南方で生まれて広がった文化です。
ロシア人はコーヒ―よりもずっとお茶が好きです。
日本のお茶、中央アジアのお茶、中国のお茶、そういったお茶の文化が広がっていって家庭でもそれを日常的に飲んでいる。
茶の湯も活発に活動している、モスクワ大学に裏千家の支部があり、素晴らしいお手前をする。

日本人の指導者はいなくて彼らだけで運営している。
野だての会もするが、会の前売りの切符が取れないというほどで、茶の湯の興味と習慣が定着している。
又ロシア人は哲学的な人間だと云うことです。
「茶碗の中の宇宙」と言うタイトルだが、どういう宇宙なのだ、どういう世界なのだと聞いてきます。
レクチャーをしたが質問攻めにあいました。
黒茶碗に対してレクチャーしたが、黒の色が単なる色彩のバリエーションの中の黒ではなくて、その色の中に深い思想、哲学が含まれている、それがわび茶という美意識にもつながっているんですよと、話しましたが(2時間)、黒と言う色の世界について深い話をされたが、楽茶碗は赤茶碗もあります、赤についてはどういうふうに考えて居るかという質問が直ぐに来ました。
思索的な土壌のある国民なんだと思いました。

僅かな体験から推し量ることは間違いもあるかもしれないが、国によってずいぶん違うと思います。
イタリア人は感覚的な人間だと思います。
イタリア人は黒い色にどう言う意味があるかは聞きません。
黒と白のバランスは美しいとか、いろいろ色が混じっているとモダンだねとか、そういう風なとらえ方をします。
フランスはロシアとは違った意味の哲学性を持っています。(特にパリでは)
東洋と西洋、日本とヨーロッパとか、比較と言うことで、こういったことは日本人として欠けて居るとか、日本人が大切にしているのにヨーロッパ人は何も考えて居ないとか、これから先の世の中にとってどういう方向に歩んでいったらいいかとか、一番の大前提を考える時には日本の国内だけを見て居たのでは、とても見えてこないのではないかと思います。
そういう意味で西洋での体験は大きな影響力を持っていると思います。

茶碗は単なる器ですが、コーヒーカップと違うのはそこの中に人の思い、人生、喜び、悲しみ、迷い、憤りなどが込められる。
生きて居ることの心の動き、そういうものが茶碗の中に込められる、そういうものは世界にないと思います。
茶の湯の文化はそこに深い哲学、人生観、自然観、他者とのかかわり、生きる喜びなどが込められていることが大切な事で、世界で類例のないことだと思います。
心の宇宙だと思います。
初代長次郎が利休の話を聞き心をくみ取って黒い茶碗、赤い茶碗を作ったが、そのまま継承すると云うことではない。
新しい心の動きがあって再び長次郎の茶碗をそっくり表現すると言うことではなくて、その心を自分でもう一度くみ取りながら、新たに時代の中で自分たちが生きて行くと言うことが、そのまま茶碗の中にあらわれて行くというのが本当の伝統の継承だと思っています、時代とともに変わってゆく。

長次郎は一番の始まりで深い思想があり、2代目3代目が新たに変化してゆく、3代目はモダンです。
最初の長次郎は重たくて深くてどっしりとした存在感があって、華やか、豪華、煌びやか、賑やかそういったものを全部そぎ落として、静かな黒い茶碗に特化して行く訳です。
本質的な静けさに到りつくのが長次郎の黒い茶碗、赤い茶碗だと思います。
歴代は常に長次郎を見続けてきたと思います、そこに自分の生き方を模索してきて、3代目が到り着いた結果はモダンになり、5代目はもう一度長次郎に戻ろうと考えて錆びた茶碗を作る。
しかし決して長次郎と同じものではなく、光沢のない鉄のさびのような黒を作り上げる。
さまざまな生き方が語られていて、そこが楽茶碗の面白いところです。

僕の中にも68年間の人生の歩み方があって、茶碗も年代とともに動いている。
楽家を継いで茶碗作りをしようとようやく決心をしたのが、27歳の時でした。
作ることは嫌いではなかったが、少々のことで継いでは自分が負けてしまうと思った。
継ぐのだったらはっきりと自分の意志で継ぎたかった。
なかなか決心がつかず、大学卒業後ローマに2年間行って、茶碗を作ろうかなと思った。
そんな時に作ったものは優しい、温かい感じのするかわいらしい小ぶりの茶碗だった。
それが変わって行くが、30年ぐらい前、30代の終わりごろに長次郎の400年忌がめぐってきて、代表的な長次郎作が集まった展覧会をした。
必ず足が止まってしまう茶碗が何椀かある。(「大黒」、「一文字」、「無一物」など)
感動がこみ上げて来て鳥肌が立ってきて、何に感動するかわからないが、そこに重なってくるイメージは長次郎であるとともに利休なんだと思って、秀吉から切腹を命じられて切腹するが、利休が死に到るさまざまな心の動き、秀吉との軋轢など全てを長次郎の茶碗は背負っていると感じました。

それが岐路になり、茶碗作りが激しくなっていった。
色彩も豊かに激しくなり、全てが激しく湧きだっていくような表現になりました。
長次郎の茶碗とは反対の方向に走ってゆきました。
1990年に東京で個展をやったときに、気に入っている茶碗が4椀ぐらいありますが、激しい茶椀のはじまりでした。
その時はさんざん批判され物議を醸しました。
ものごとは激しく燃えていることがとても大切な事だと思います。
利休は激しく燃えていた、黒い茶碗はじつは激しく燃えて居る。
黒い静かな茶碗の中に激しく燃えてる物を感じたからです。
おもてなしの心 おもてなしの心の深さを考えたときに、世の中で口にされているおもてなしとはちょっと違うなあと僕は思います。
利休さんの黒い茶碗は形、色、激しさ、個性、装飾も全てそぎ落としていって、黒い静かな茶碗にたどりついたが、秀吉と言う人物が室町時代の制度が全て崩壊して、新たな世界を作り上げようとして、政治、経済、文化も定まる。

秀吉は文化の頂点の中にさえ自分がいると、長次郎茶碗を文化の制度の中に取り入れたいと思いつづけてきたと思う。
しかし掴みとることができない、それはすべてをそぎ落としているから。
利休と言う人は激しく世の中と秀吉に黒い茶碗を突き付けて居る。
利休の茶室は窓が小さく暗い。
そこにぬっと黒い茶碗が出てきて秀吉はどう思ったか、ただまっ黒い闇と一体となるような茶碗をみて、自分では理解できない物を置かれたのではないだろうか。
多分屈辱があったと思うが、その最初の出会いのギャップは埋められることはなかったと思う。
ギャップを埋められずに死を招いて行ったという宿命を長次郎茶碗は負っている、それだけ烈しく燃えて居る、相手に対して突きつけて居る、そういう世界だと思います。
自分の中にそういうものをめらめらと燃やし続けたいと長次郎の茶碗を見て思ってきました。
又最近はちょっと変わり始めて居て、赤い色など色が抜け始めて居ます。
茶碗はすべて自分の信条なり思想なりが形になってあらわれてくるので、今まで言葉を発しすぎたので言葉を少なくしたいと思って、色が抜け始めています。
















































































2017年5月2日火曜日

高橋竹山(津軽三味線奏者 二代目) ・魂の演奏を受け継いで

高橋竹山(津軽三味線奏者 二代目) ・魂の演奏を受け継いで
昭和30年東京生まれ、10歳で三味線を始めて昭和48年初代高橋竹山に師事し、25年間初代竹山とともに国内外で舞台に立ちました。
平成9年二代目高橋竹山を襲名し、それから20年初代の音色を引き継ぎながら海外公演や様々なジャンルの音楽家と積極的に共演して、津軽三味線の世界を広めようと活動しています。

東京江戸川区の生まれで寿司屋をやっていました。
末っ子でした。
民謡浪曲落語などが何時も流れていました。
家中みんなで近所の師匠に週1回来てもらって三味線を習っていました。
中学の時に三味線と歌で仕事としてやっていきたいと思っていまして、17歳のときにレコード店に入って、邦楽の方を見ていたら高橋竹山の一枚のレコードがでてきて買ってきて、聞いた瞬間にあっと思い凄い衝撃を受けました。

何を弾いても音色が美しい、甘い、柔らかい、その中にも力強さがあり、三味線の持っている限界までのいい音を出しきる奏法ですね。
今まで聞いたことのない三味線の音色ですぐ習いたいと思って手紙、電話をしましたがことごとく断られました。
父が遊びに行くと言えば会ってくれるのではないかと言うので、17歳、12月のなかばごろに青森に行き、会ってくれました。
緊張しましたが、師匠は仏像みたいに見えました。
明日帰る前に歌ってみてはといわれて鰺ヶ沢甚句の歌を歌ったら、「来てもいいかな」と言ってくれました。
内弟子になる。
師匠の家にはお客がたくさん来て酒盛りになり、そこで民謡、三味線をやったりしました。

津軽弁が判るまで3,4年かかりました。
最初から弾き語りでやれるように教えてもらいました。
「竹与」と云う名前を与えられました。
最初から師匠と舞台に立ちました。
とりあえず舞台に立たせて恥をかいたりして育てるようなやりかたでした。
舞台でひとしきり怒られてお客に笑われてしまいますが、芸は笑われて上達するものだと後年いっていました。
内弟子は18~24歳までで、その後独立しました。
私の名前でお客さんが来てくれるので、自分で背負わなくてはいけなくて気持ちは全然違います。
海外公演も師匠と一緒に行きました。

アメリカの公演は1986年、で31年前になります。
師匠の演奏をアメリカの人が聞くと、その瞬間にはっとなりました。
お客さんも毎回違って、お客さんが今回はこういう感じだとすぱっと掴んでしまって、その中でどういう風に演奏するかは、自分の中で判ってしまう。
初代は小さい頃に視力を失っていましたが、音、雰囲気で(耳の情報)でそれに合わせて演奏します。
アメリカでの公演は大成功でした。
若いころにそういう人と御一緒させてもらって、同じ舞台を組ましてもらったことは、何ものにも代えがたい財産だと思っています。
2代目を襲名が20年前、いい三味線の音をだすということを考えればいいんだとおもいました。(翌年初代が亡くなる)

襲名するちょっと前から指が変だなとは思いました。(しびれたりつったりする)
2000年に新潟県糸魚川に行って丸2年完全休業しました。(使い過ぎだったと思います)
結婚相手は糸魚川の人(登山家)です。
買い物は片道1時間半かかります。(車は使いません)
携帯も使いません。
鶯の声なども聞こえてきます。
東日本大震災の後チャリティーコンサートをしています。
災害の会った場所はそこに住んでいる人でなければ判りませんので。
改めて民謡の力を心底知りました。
民謡は地の底をはいずりまわるような、そういうものから生まれているので、そういうものを自分がどうみなさんに聞いてもらえるか、自分がどうとらえて考えてやっていくかを改めて感じさせてもらいました。

自分が苦しい時、嬉しい時にポッと出るのが民謡なので、そういったものを聞きたいと言います。
初代の竹山先生の映画の製作が進んでいます。
大西 功一さんという監督が一人で作っていて、ドキュメンタリー映画です。
「津軽のかまり」と言うタイトルで「かまり」とは津軽弁で香り、においのことです。
初代を軸に自然のこととか、人間像、初代のゆかりの地とか織り込ませながら製作されています。
2代目襲名20周年記念コンサートをピアノの方(小田朋美)とのコンサートになります。
アイルランドの詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルさんの詩集の中から、曲を付けて「ファラオの娘」と言うことでお披露目したいと思っています。
自分の気持ちとマッチしています。
音色を引き継ぐ、三味線を引き継ぐことも大切ですが、先生の生きざま、人間と云うものはこういうもんだ、ああいうもんだ、といつも先生からお聞きしていますので、そういうものを噛みしめながらやっていきたいと思っています。













































2017年5月1日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)        ・絶望名言(ドストエフスキー)

頭木弘樹(文学紹介者)  ・絶望名言(ドストエフスキー)(H28/11/8 OA)
「全く人間と云う奴は、何と言う厄介な苦悩を背負い込んでいかなければならないもんなんだろう。
人生には悩み事や苦しみ事は山ほどあるけれど、その報いというものははなはだ少ない。
絶え間のない悲しみ、ただもう悲しみの連続。」(創作ノート)
病気、事故、災害あるいは失恋、挫折、孤独、人生において受け入れがたい現実に直面した時に人は絶望します。

悲しい気持ちの時には悲しい曲を聞きたくなる、慰められる。
絶望的な言葉の時の方が心にしみて救いになることが或る。
「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などが有名。
ドストエフスキー文章はくどくどしている。
読むのを断念したことがたびたびあったが、入院して読んだ時は読みやすかった。
苦悩している時は心地良いと言うほどぴったりしている。
ドストエフスキーの登場人物はみんな渾然一体となって苦悩している。
苦悩しているときに苦悩しているものを読むとそれだけでちょっと救いになる。

「もしもどこかの山のてっぺんの岩の上に、ただ二本の足をやっと乗せることしかできない狭い場所で生きなければならなくなったとしても、しかもその周囲は底知れぬ深淵、広漠とした太陽、永遠の暗闇、永遠の孤独と永遠の嵐だとしても、そしてこの方1mもいたらぬ空間に一生涯、1000年、10000年、永久にそのままとどまっていなければならないとしても、それでも今すぐ死ぬよりは、そうしてでも生きてる方がまだましだ。
生きて生きてただ生きて居られさえすれば、たとえどんな生き方でも、ただ生きて居られさえすればいい。
何という真実だ。 ああー全くなんと言う真実だろう。」(罪と罰小説の一節)
これを読んだときに本当に死にかけたことのある人でないと書けない文章だと思います。
ドストエフスキーは死刑宣告を受けて刑場までひきだされて、銃殺刑の直前に特赦で助かったと言う経験があり、これが非常に大きな経験だった。

病院でチューブだらけになっている人を見ると健康な人は死んだほうがましだと思ってしまうかもしれないが、いざ本当にそういう状況になったら、ドストエフスキーが言っているようになると思います。
苦悩している時はドストエフスキーは信頼できる人だと思う。
病気はその人の運命で仕方ないと思いやすいが、病気で死ぬんであってもこれは他殺なんです、なんとしても払いのけたいと思う。
絶望と笑いは意外と近いものもあるかもしれません。
登山の時の命綱は普段はブランとさがっているだけだが、いざという時には大変で命綱的なものが読書であり、こういう話をしておくことだと思います。

「サナトリュウム」 さだまさしの曲(絶望音楽)
入退院を繰り返していたときに聞きました。

「その生涯で苦しい運命を体験し、ことに或る種の瞬間にその悲哀を味わいつくしたものは、そうした時に全く思いがけなく親身も及ばない同情を示されるものがどんなに甘美なものであるかをよく心得て居るものです。」(書簡集)
つらい体験は少ない方がいいと思っているが、つらい経験をしたからこそ人からの親切が判ると言うことはあると思います。
辛い時、痛い時などに手をそっと握ってくれる、やさしく微笑んでくれたりすると、痛みが和らいだり、ほっとする時があります。
同情って素敵な真理だと思います。
「我々は自分が不幸な時には、他人の不幸をより強く感じるものなのだ。」とドストエフスキーは言っている。

「僕がどの程度に苦しんでいるものやら、他人には決して判るもんじゃありゃしない。
なぜならばそれはあくまで他人であって僕ではないからだ。
おまけに人間と云う奴は他人を苦悩者と認めることを余り喜ばないものだからね。」
(カラマーゾフの兄弟の言葉)
つらい体験をしたことのマイナス面。
自分より辛くないと言うふうに相手を思うと、そんなことで騒ぐなと言う冷たさも出てきてしまうことがある。
「大きな悲しみを見ることもあろうが、その悲しみがあればこそ幸福にもなれるだろう。これがお前に送る私の遺言だ。
悲しみの中に幸福を探し求めるのだ。」(カラマーゾフの兄弟の言葉)
まだこういう境地にはたどり着けない。

絶望体験を踏まえて何かを得られれば良かったと言うこともあるが、失う一方ということもあると思う。
ドストエフスキーは苦悩の連続な人だった。
15歳のときに母を亡くし、父は無慈悲な人で18歳のときに父が治めて居た領地の農民たちの恨みを買って惨殺されてしまう。
デビュー作「貧しき人々」は評価され絶賛されたが、その後の作品は酷評されて、前のことまで否定されてしまい、反政府活動に入って死刑にされかけて死刑は免れてシベリアに流刑になり監獄で4年間過ごして、持病のテンカンがひどくなりその病気に生涯悩まされる。
最初の結婚も不幸で、生涯借金に追われて、それなのにギャンブル依存症で、子供も二人亡くしてている。
シベリアに4年間いた時に犯罪者にはそれぞれ事情がありそれぞれ苦悩をしており、受刑者の苦悩にも接して詳しくなってこの人ほど苦悩に通じて居る人はちょっといないと思う。
生きる意味、生き甲斐などを言われるが、その前にまず生きて居ること自体に価値があり素晴らしいことだと思っている。