2017年6月29日木曜日

稲田信二(野菜生産会社代表)   ・植物工場の挑戦

稲田信二(野菜生産会社代表)・植物工場の挑戦
京都住まい、57歳、野菜を扱う青果卸売会社でのサラリーマン生活の後、植物工場を設立しました。
人口増加や、異常気象に依る農作物被害などで従来の気候や風土に適した生産だけでは食料を安定的に確保することが難しくなるのではないか、では今何をすべきなのか、稲田さんはこうした食料問題に、植物工場が答えることが出来ると考え事業展開しています。
植物工場は光、温度、栄養素など植物に必要な環境を高度に制御できる室内生産システムです、
天候の影響を受けずに生産できるので安定供給が可能になり、持続可能な食糧生産システムとして期待されています。
稲田さんの植物工場は2016年、世界的に優れた革新的な農業技術に対して贈られるエジソン賞金賞を受けて居ます。

レタス出荷が中心、1日に約2万1000株を生産して首都圏関西地域に納品しています。
サラリーマンから2001年に野菜の流通事業を立ちあげて、そこから事業を多角化して、2006年に生産事業である株式会社を設立しました。
生産の状況を見てみたいと思い、農家の人に話を聞いてみたら、将来に向けての展望が描けない、後継者の問題、儲からない、自身が高齢というようなことで、日本の野菜を支えて居るのは高齢者中心で、今後の日本の食糧生産に危機感を感じました。
農業は天候に左右される事業なので、そこを何とか技術革新で出来るものはないかということで探していたが、植物工場に出会ったことがきっかけです。

周りに相談したが、投資額が大きくてリスクが高いとみんな反対しました。
中長期的な視野で見るとやっておくべきだと思って、挑戦していきました。
今では周りからやってよかったなあと言われます。
初期投資が大きいと云うことで、事業を軌道に乗せることが難しいといわれています。
販売面がなかなか難しい、需要のバランスとタイミングの問題で採算が合わないと云うのが約7割が抱えている問題です。
最初は苦労しました、亀岡プラント(2007年に竣工)でレタスを大規模に生産するが、小規模の生産条件とは全ての条件が変わってきていて、確立するのに3年近くかかりました。
光、人工的な光で栽培するが、光環境を整える、均質な光を作る。
空気の流れ、温室度、呼吸するのに影響されるので温度と湿度のバランス、二酸化炭素の濃度、風の流れのスピードなどが、手探りで行ってきて、条件を作り上げて来ました。
生産物流販売全て苦労がありました、特に販売は人工的につくられるものなので、最初は抵抗があったのではないかと思いましたが、安定的な生産、品質の物と言うことで認知に時間がかかりました。

露地野菜が高くなった時に、工場のレタスに人気が集まりファンが増えていったと思います。
東日本大震災の時に安全性を求めるお客さんが増えて、農薬を使わずに栽培すると云うことで需要が一気に伸びました。
スタートして6年ぐらいは、夜も寝られないとか休みもなかなか取れないとかありましたが、段々課題をクリアしていったところ取引先も増えていって、黒字化することが可能ではないかと5年ぐらいから可能性が見えてきて、6年目には黒字化しました。
①栽培技術をしっかり確立すること、②デリバリー、鮮度の高いうちにお客さんに届ける事、③販売、この三つの要素が整って初めて植物工場が回って行くと思います。
高齢化して行って農業全体の生産力が低下して行く中で、既存農業と補完しながら安定生産できる仕組みは必要だと思っています。
グローバルな観点で見ると人口も増えるし、食糧供給も課題になっていると思います。
地球環境も変化しているので農産物に関しても影響が出てきていると思うので、気候変動によって持続可能な体制にしてゆくことは難しいということもあり、植物工場は外部の影響は受けにくいので役割は果たせるのではないかと思います。

この事業は農業とIT技術を組み合わせて、技術を高めると云う事が大きな役割であり、必要になって来ると思い居ます。
IOT、ビックデータ、ロボット化といった技術を農業に取り入れて農業の大規模化、自動化が促進されていくのではないかと考えています。
今後、30年50年考えると次世代に持続可能な社会を引き継いで行く使命があると思うので、そういったことを残してゆくために新しい技術を開発して次世代にバトンタッチしていきたいと思います。
昨年、世界各国から問い合わせがあり、300件近く色々な国から問い合わせがありました。
北米、ヨーロッパ、中東などに行って、現地の農業の現状、課題、植物工場事業がその地域にとってどう必要なのか、どういった商品が求められるのか、工場を建てるときの課題とかお話ししました。

気候変動、高齢化、人口問題など何処の地域でも課題があり、それに対して良い解決法がまだなかった。
植物工場の提案は非常に新しくて、最初は何処の地域でも抵抗感がありウエルカムではなかった。
しかし事業の仕組み、必要性、環境に配慮した農業であるとか説明すると、理解していただいて興味を持っていただけるようになりました。
テクノファームを建設中で、12月頃の完成を予定しています。
生産能力は1日3万株のレタスを生産する工場で、栽培の工程を自動化(苗作り、植え替え、収穫までの工程の自動化)し、安定生産できる。
専用のLEDを開発して、従来の30%以上のエネルギー消費量を削減、もっと厳密に温度管理もできるようにもなりました。
トータルとしては製造原価をかなり下げることが可能になり、品質もあげられ価格も安く提供できることが実現します。
水のリサイクルも実現しています。(世界で水の少ない地域でも活躍できる可能性がある)

この技術を世界中に広めていきたい。
野菜全般に広げて行きたいが、葉物を中心とした栽培方法が最適なのでホウレンソウ、ミズナ等を含めて広げていきたいと思っています。
政府への働きかけで、植物工場の標準化、基準作り、海外への発信とか積極的に取り組んでいきたいと思います。
日本の農業の活性化と云う意味では植物工場の役割は重要だと思っています。
収益を上げていかないといけないし、若い人が興味を持っていただける事業にしていかないといけないと思います。
最後まであきらめない、少しの可能性を信じて、やり遂げたいと思って現在も挑戦し続けて居ます。
潜在的なものが本質的な課題であったりするので、我々が置かれている課題をもっともっと顕在化させてそこに挑戦する、今後の事業展開のひとつの魅力であるのではないかと思います。(ただ儲かればいいとか、はやりだと云うことでやるのではなく)


































2017年6月28日水曜日

柳家喬太郎(落語家)       ・論ずるより稽古

柳家喬太郎(落語家)   ・論ずるより稽古
1963年(昭和38年)世田谷歩まれの53歳。
古典も新作もやる人気落語家です。
日本大学の落語研究会で活躍し、学生時代落研の学生チャンピオンになりますが、卒業後落語の世界に入らず、会社員になりました。
しかし1988年に退社、その翌年に柳家三嬌?さんに入門し、落語の世界に入りました。
2000年に先輩、同期12人を抜いて真打ちに昇進しました。
少年時代からウルトラマンシリーズや怪獣映画などをこよなく愛し、落語界きってのウルトラマンフリークとして知られていて、ここ数年はウルトラマン落語に取り組んでいます。
そんな京太郎さんが53歳にして映画初主演を果たしました。
タイトルは「スプリング ハズ カム」大学に進学する娘を持つシングルファーザー役、なかなか好評だったと云うことです。

親子の温かさと切なさ、優しい映画だと思います。
一番普通のお父さんを主役にしたかったと監督が言っていました。
我々は何時も一人で仕事をしているので一役になりきるのが苦手なんですね。
相手と絡んで芝居をしないので難しいのと、動く事の難しさ、反応が良かったのか悪かったのか判らないので難しかったですね。
ただ経験としてはおもしろかったです。
今度もしお話があれば特撮に出たい怪獣映画に出たいと思います。
ウルトラマン落語、自作の新作落語、これは自分が楽しけれればいいと思ってやらせてもらっています。
ダダによる座布団返し、本来これはあり得ないことですが。

1963年(昭和38年)世田谷歩まれの53歳。
ほとんど白髪なので老けて見られます。
真打ち昇進披露の時だけは黒く染めました。(真打ちの口上の時、師匠よりも老けて見られてしまうので)
老けて見られることは全然厭ではないですね。
子供時代は地味な子でした。
漫画が好きで、怪獣ごっこ、ウルトラマンごっこでした。
落語が好きになったのは中学時代からです。
友達からの影響もあったし、ラジオを聞いたときにふっと興味を持ちました。
演劇クラブで、ラジオで聞いた落語を台本貸して文化祭で上演したことがあります。
高校では落研には入らず、映画研究同好会に入りました。
高校では落語とお芝居が好きでした。。

日本大学に入って落語研究会に入りましたが、自分から入ってきたということで吃驚されました。
普段から落語口調になてしまったような先輩は一人もいませんでした、これが健全に見えました。
民放のTV番組で落研の大会があり4年生の時に優勝しました。
他の民放のラジオ番組でも優勝させてもらいました。
1987年(昭和62年)日大を卒業。
留年したら、父親から怒られて、学校辞めるか、落研辞めるかどっちかにしろと言われてしまいました。
落語家にはなろうとは思わず、書店員の道に行きました。
いくらうまくてもプロの方には勝てないと思っていました。

1年ぐらいで辞めて、落語家になろうと思いました。
1年間フリーターをやりながら、素人落語をやって入門しました。
柳家さん喬師匠は4月に紫綬褒章を頂きました。
1989年10月に入門、師匠が好きだったので入りました。
2000年に真打ち昇進しました。
真打ちの披露興行の時よりも一般興行に真打ちとして公演した時は本当に緊張ました。
芸論と云うよりも馬鹿っぱなしをしていたりする方が、身になるかもしれない。
「論ずるより稽古」と云うよりも「論ずるよりも実践」ですかね。
ぐずぐず言う前にお客さんの前で恥を掻いてこい、そういうことじゃないですかね。
新作も古典(本寸法)もやらせてもらっています。
改作などもやって行きたいと思っています。
今の時代にこそ合うと云うようなものもあるので,そういった作業も面白いです。
もう少し余裕がないと新しいものが出来ないかなあと思っています。
わくわくしながら古典を覚え、新作を作りたい、今それが一番やりたいです。















































2017年6月27日火曜日

小山実稚恵(ピアニスト)      ・癒しではなく生きる勇気を

小山実稚恵(ピアニスト)・癒しではなく生きる勇気を
チャイコフスキーとショパンの二大コンクールに入賞してデビューしてからおととしで30年を迎えました。
今年の3月にはこれまでの活動が認められて第67回芸術選奨の音楽部門で文部科学大臣賞を受賞をしました。
現在小山さんが力を入れて活動しているのは、東日本大震災の子供達を励ます、「子供の夢広場ボレロ」と言う催しです。
震災から6年たった今、この夢広場は音楽による癒しではなくさまざまな活動を通して、子供達に生きる喜びと勇気を感じ取ってほしいと開かれています。
この企画はその名前の通り、有名なボレロの曲を参加者全員で力強く演奏するだけでなく、昆虫ワンダーランドとか、ロボット教室など子供たちの好きな体験型のイベントも併せて開かれます。
夏休みの子供たちに楽しんでもらおうと毎年7月に仙台で開かれています。

「子供の夢広場ボレロ」と言う催しは今年で3回目です。
ボレロ大集合コンサートと言うのがこのイベントの基軸にあり、2日間に4回ありますが、音楽だけでない分野の楽しいイベントも盛り込んでいまして、子供たちに参加して貰いたいと思います。
ボレロの曲に少しずつ楽器が増えていって、最後にはみんなで大興奮で曲が終わる様に、この広場もそういうふうになればいいと思っています。
サイエンスショーとか珍しい昆虫を見せたり、伝統芸能等もやっています。
私はピアノに出会えて音楽が大好きですが、何かに出会えてきっかけが出来て子供たちが興味を持ったりと云う事があると思うので、色々な企画をしています。

おととし、デビュー30年で春と秋に大きなコンサートをしました。
1985年ショパンコンクールに入賞。
3月、第67回芸術選賞の音楽部門で文部科学大臣賞を受賞。
初めての本を出版 「点と魂と スイートスポットを探して」 色々な分野の人との対談集
異分野の人の考え方、そのものに打ち込んでゆくときの感じ方に興味があって、どこかで通じるところもあると思っていました。
脱力の極み、ものごとのスイートスポットを捕えられることではないかなあと思いました。
30枚目のCDを出しました、ゴルトベルク変奏曲。
鍵盤の大傑作ですし、手の届かないところにある曲なんですが弾いてみたいと、節目に演奏してみたいと思いました。

仙台で生まれて盛岡で育ちました。
こうやってピアノを続けて居られたのは東北で育ったからだとつくづく思います。
盛岡音楽院、先生は吉田美智子先生。
東北の風土が芸術的な感性をはぐくんだ事はあると思います。
高校は東京芸術大学付属高校、東京芸大に進みました。
高校時代にはバレーボール、軟式テニスも一生懸命にやりました。
1982年に23歳のときにチャイコフスキーコンクールで入賞
1985年にショパンコンクールで入賞。(NHKで特集を放送して一般の人に知られるようになる)
プロのピアニストとしてデビュー。
2006年からピアノリサイタル 年2回、12年間行っている。

2011年東日本大震災発生。
3月11日は函館の演奏会に行っていましたが、中止になり東京に戻りました。
自分が育った東北の地だったので言葉がなかったが、何とかしなければと思いました。
被災地を中心に行動したいと思って、2カ月後釜石、宮古などの被災地に行きました
避難所の学校に行って演奏しました。
生きて行くことがまず大切というような、子供達も元気にしなきゃと思って過ごしているのが伝わってきて胸いっぱいでした。
その後落ち着いてきたら段々すこしがっかりしている状況が見えてきたりしました。
2015年から「子供の夢広場ボレロ」という催しを始めて今年で3回目になります。
震災は本当に悲しいし、残念だけれど、これがあったから自分はこうしたい、こう生きたいとか、別の力にして行くことがあったら、人生何があってもやっていけるのではないかと思います。

仙台で7月29日、30日の2日間、2回づつ4回行います。
宮城教育大学のオーケストラの方も一緒におこないます。
子供たちの歌が入ったりしていてみんなで参加出来るようにしています。
モーリス・ラヴェルの素晴らしさもあるが、音楽が増幅して行って、心の中の底が湧きあがるような感じが子供たちに通じて、最後はわーっとなって終わります。
今年の指揮者は広上淳一さん、個性的で温かい人間性があり、素晴らしい力があります。
面白サンエンスショー、昆虫ワンダーランド、郷土芸能の唐舞いの獅子踊り、IT教室(ロボット)、声優体験のワークショップ、茶道などいろいろあります。
子供たちに生きる勇気を持ってほしいと思います。
リサイタルシリーズの最終年 11月25日に行います。(24回目)
今後の活動は音楽を深めていきたいと思いますが、音楽の素晴らしさを知ってほしいし、聞いてほしいと思います。




























2017年6月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)      ・【絶望名言】芥川龍之介

頭木弘樹(文学紹介者)  ・【絶望名言】芥川龍之介
「どうせ生きているからには、苦しい事は当たり前だと思え。」(「仙人」芥川龍之介
没後90週年を迎える芥川龍之介。
太宰治は芥川龍之介を大変尊敬していた。
短編小説「仙人」は23歳、翌年「鼻」を書いて夏目漱石に認められる。
「どうせ生きているからには、苦しい事は当たり前だと思え。」
は短編の中で貧しい男が鼠に向かって言っている言葉。(自分に言い聞かせる言葉)

芥川は生まれて8カ月後に母親は精神病院にはいってしまって、母親の実家に預けられて、叔母に育てられる。
芥川が10歳のときに母親が亡くなり、12歳の時から伯父の養子になって、芥川の姓を名のる。
「仙人」を書く前の親友への手紙のなか、「周囲は醜い、自己も醜い、そしてそれを目の当たりに見て生きて居るのは苦しい。」と書いている。
芥川、太宰ともに繊細で敏感な人だった。
私が病気になった時には生きるだけで大変でした。
よくよく考えるとみんなだれでも生きるのは苦しい。
文学を読むと暗い心、辛い心をとことんまで描いているが、普通に生活していると会話でそこまで心の内を見せることはない。
苦しい時に読むと自分だけではないと言う思いになるし、共感もできるので非常に救いでした。

「人生を幸福にするためには日常の些事を愛さなければならぬ。
雲の光、竹のそよぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、あらゆる日常の些事のうちに無情の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にするためには、しかし些事を愛する者は些事のために苦しまなければならぬ。
人生を幸福にするためには、日常の些事に苦しまなければならぬ。
雲の光、竹のそよぎ、群雀(むらすずめ)、行人の顔、あらゆる日常の些事の中に、堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。」
前半はささやかな細部を大切にして、美しさ素晴らしさに気付きていくことが人を幸福にして言うと云うことを言っている。
後半、道端の花の美しさに気付く人はその花が枯れて行く悲しさにも気付いてしまう。
蝶がひらひら飛ぶ事が美しいと感じられる人は虫の死骸が落ちている無残さにも気付いてしまう。
些細なことで幸せを感じる人は、些細なことで辛さも感じてしまうと、芥川は後半で言っている。(鋭い指摘だと思う)
「敏感」はいい面と苦しい面がある。
一番避けたいのは小さな幸せは感じないが、小さな苦しみだけは感じる人もいる、それだけは避けたい。

「万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。
道徳的に自殺の不評判であるのは、かならずしも偶然ではないかもしれない。
あらゆる神の属性中最も神のために同情するのは、神には自殺のできないことである。」
死が恐怖でありながら一種の救いとしても扱われている。
病気をした後は、いかに生きるか、ほうっておくと死んでしまうので病気によって首を絞められている感じがしました。
死んでしまいたいと思うようなことは、心のことだけではなく、痛いと云うこともそうで、手術のときに麻酔ミスが合って非常に痛かった。
一晩中苦しんで、これだったら窓から飛び降りると言ったら、ようやく薬を変えてもらえたが、飛び降りたくなるほどの痛みはあるということは判るので身体にしろ、心にしろいくら生きたいと思っている人間でも、耐えがたいほど死にたくなると云うことは判ります。

「人生は地獄よりも地獄的である。
地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。
例えば、餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。
しかし、人生の与える苦しみは、不幸にもそれほど単純ではない。
目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に存外楽々と食いうることもあるのである。
のみならず楽々と食い得た後さえ腸カタルの起こることもあると同時に、又存外楽々と消化し得ることもあるのである。
こういう無法則の世界に順応するのはなにびとにも容易にできるものではない。
もし、地獄に落ちたとすれば私は必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯もかすめ得るであろう。
いわんや針の山や血の池などは2~3年そこに住み慣れさえすれば、格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまうはずである。」

現世はいい事が起きるのか悪いことが起きるのかが判らない、その方が悪いことが続く方よりはましだと思うが。
芥川はそうは思わず、悪いことが起きるとわかっている方がましで、先行きが判らないと言う方が地獄よりも地獄的だと言っている。
自分が自殺する理由について、僕の場合はただぼんやりした不安である、何か僕の将来に対するただぼんやりした不安である、と友達への遺書に書いてある。
漠然とした不安が非常につらいと言っている。
あいまいさになかなか人間は耐えられない。

「災害の大きかっただけに今度の大地震は我々作家にもおおきな動揺を与えた。
我々は激しい愛や憎しみや哀れみや不安を経験した。」
大地震は関東大震災のことで31歳のときに田端に住んでした。
芥川は真っ先に逃げるが、奥さんは子供を2階から連れ出した。
奥さんは怒ったが、芥川は人間最後になると自分のことしか考えないものだと云ったとのこと。(翌日熱を出して寝てしまう)
こういう弱さを持っているからこそ文学者には必要なのではないかと思います、そうでないと人間の本当の弱さ駄目さを描けないと思う。

「自然はこういう僕には何時もよりもいっそう美しい。
君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。
けれども自然の美しいのは僕の末後の眼に映るからである。
僕は他人よりも見、愛し、かつまた理解した。
それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」(友人にあてた遺書の一説)
私は病院生活で自然の美しさを実感したが、なかなか本当に自然は美しいのだということに気付けない、死にかけるような極限状態だから初めて自然の美しさに気付ける。

「僕の今住んでいるのは氷のように澄み切った病的な神経の世界である。」
研ぎ澄まされた、張りつめた神経、それでもって世の中をとことん突き詰めた作家だと思う。
芥川は自殺するところまで、鋭い神経で世の中をとことん突き詰めて行って、書き残してくれた。
読んでおくと自分が淵まで行ってしまったときに、非常に役立って、自殺まで行かず助けになるかもしれない。













































2017年6月25日日曜日

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル
森田さんは現在69歳、北海道生まれ、東京日大鶴ケ丘高校でバレーを始めました。
日本体育大学、日本鋼管時代は194cmの長身で全日本のセンタープレーヤーとして活躍して、日本男子バレー全盛期の中心のメンバーでした。
メキシコオリンピックで銀、ミュンヘンオリンピック準決勝のブルガリア戦、決勝の東ドイツ戦でいずれも奇跡の逆転勝ちで金メダルを獲得しました。
現役引退後は、森田さんが考案した一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたされました。
日本バレーボール協会の協会委員長も務められ、現在は母校日体大特任教授です。

車はドイツでナンバープレートは8、金メダルを取った時の背番号8です。
1972年ミュンヘンオリンピック大会
12カ国が出場、A,Bに分かれて日本はBで5戦して一つもセットを落とさずに、トップ。
決勝ラウンド、A組はソビエト(優勝候補)、ブルガリア B組は日本と東ドイツ。
ブルガリアと対戦 最初2セット連取される。
(その前に日本に来て3-0、3-0で勝ったが、その時に日本の研究をしてクイック、時間差をマークされた)
松平監督が指示を出すが、「後2時間コートに立っていろ、そうすれば勝てるから」と普通に話すように語っただけでした。
(2年前にブルガリアと世界選手権で戦って、逆に日本が2セットとってそのあと逆転されて、銅メダルだったが、その時の事も言われた)

第3セットも4-7とリードされる。
松平監督がメンバーを変えて中村祐造(30歳)、南将之(31歳)ベテランを使う。
第3セットは15-9、第4セットは15-9を取り、最終セット3-9とリードされる。
ブロックをしてその後ブルガリアのバレーが変わった。(勝ちたいと云う意識)
5-9になり、5連続ポイントなどもあり12-11に逆転、14-12 マッチポイント。
私がサーバーで、来たボールを左手一本で受けたボールが嶋岡健治の所に飛んで行って、彼が後ろにジャンプしながらアタックした。
大逆転で破る。
決勝の相手はオリンプック2連覇を狙っていたソビエトを破った東ドイツ。
第1セットを11-15で落とす。
松平監督は試合前「昨日お前たちは一度死んだんだ、もうこれ以上悪いことはないから今日は思い切って行こう」と話した。
その後日本は第2、3、4セットを連続してとって、セットカウント3-2で金メダルを取る。

45年前のことですが、鮮明に覚えています。
それまでには8年計画があり、松平さんの妥協しない厳しい練習をしました。
徹底したレシーブ練習でした。
松平監督がいたから金メダルを取れたと思っています。
選手を上手くする、チームを強くするのは、①良い指導者、②良い練習をする環境、③一緒に目標を同じにする仲間、この3つだと思います。
松平さんからは、選手から良い監督と言われるようでは駄目だ、選手から徹底的に嫌われるほどの監督になってみろと言われました。
南さんはレシーブが苦手だったが先輩に対して、コーチに言われて思いっきり大古誠司らとともにアタックして練習したりしました。

北海道北見市でお姉さん4人、お兄さん一人の末っ子として生まれる。
中学は東京の狛江市で野球、陸上を、バレーと出会ったのは日大鶴ケ丘高校に入ってからです。
中学の時はハイジャンプだったので、つい身体をひねってしまい最初のスパイクは空振りでした。
2年の夏、東京都の選抜チームの合宿に選ばれ、日本の高校選抜にも選ばれる。
高校卒業直前、全日本合宿にいくように言われ、松平監督と出会う。
日体大に行くことになり、1年からレギュラーで使われて、バレーを始めて3年目で全日本12人のメンバーに選ばれて、1966年世界選手権に出場。
まだまだバレーの右も左もわからないような状況でした。
得意技、ドライブサーブ、一人時間差攻撃。
1967年ポーランドで大会があり、ドライブサーブの練習があり打っていたら松平監督から試合で使ってみるように言われました。
サインに従ってドライブサーブを打ったら、相手ははじいてしまって、それからドライブサーブをするようになりました。

ロシアでは一人時間差のことを「モリタ」と言っているようです。
メキシコオリンピックが終わって、松平さんがミュンヘンに向かってどんなことでもいいから技を開発しろと言って、ブロックを分散する方法はないかを考えた。
或る時にクイックの時にセッターが間違えて私の真上に1mぐらいの時間差のトスを上げてしまって、落ちてくるのを待って打ったらブロックがなかった。
ジャンプするふりをすることによって相手もジャンプさせておいて、もう一回ジャンプして打つ、それを改良していって、一人で時間差をつけて打つやり方を5種類ぐらい作り上げました。
一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたす事が出来ました。
33歳で現役引退、監督として日体大で大学日本一に4回なる。

バレーから得たもの「プライド」
メキシコオリンピックの前にプラハにいて、プラハの春(チェコにワルシャワ軍が侵入)があり、明けに4時ぐらいのドアを叩かれた。
オーストリアへの南の国境でチェコの国旗が立っていれば安全にスルー出来ると言う事で
、乗合バスに乗ったがチェコの選手も一緒に乗ってきて、日本の選手たちは僕らのお客さんだから、お客さんが安全な場所に行ける所まで見届ける義務がる、と云うんです。
ナショナルチームの選手は国旗を背負って、バレーボールが強くてそれだけやっていればいいんじゃないんだなあと強く思いました。
色んなことに配慮することがないと、一流のメンバーではないんだなあと思いました。

バレーから得たもの「我慢」
当時はサーブ権がないと得点にならなかったので、とにかく我慢が必要だった、松平さんから我慢しろということは強く言われました。(人生に通じる言葉です)

ここのところ日本はオリンピックへの出場が出来て居ない。
2020年は開催地で出ることはできるが、メダルを狙えるような力を付けてもらいたいと思っていますが、もう間に合わないかもしれないが。
やはりスターを作らないといけないと思います。
























2017年6月23日金曜日

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ
島袋さんは17歳のとき、ひめゆり学徒隊員に動員されました。
アメリカ軍の上陸で激しい戦闘となった時、悲惨な光景に出会い戦争のひどさ、虚しさを感じたと言います。
島袋さん達元ひめゆり学徒隊員は28年前ひめゆり平和祈念資料館を立ち上げて平和の大切さを訴え続けて居ます。

現在89歳、車も運転しています。
私たちは語り部とは言わないで、証言員と言っていて体験したことをそのまま伝える。
1989年、資料館が出来る。(61歳の時)
その前は自分たちの体験を二度とこのような戦争があってはだめだと云うことで、北海道から鹿児島まで行って、学校、一般の方に話をしたりしていました。
70歳過ぎてからは無理をしないようにと言うことで、資料館に来て下さった方に話をしています。
55歳のときに先生を退職して、それから資料館を建てるために頑張りました。
亡くなった友達の何かが見つかるかと、何でもいいからと思って、各壕に入って櫛、下敷き(名前が書いてある。)とか持っていったものが見つかり、みんな泣きながら集めました。
資料館を作るときに、それを綺麗にして展示しようとしました。

学徒隊として行った、先輩、同級生とかが学校に勤めて居ましたが、一斉に55歳で依願退職しました。
亡くなった友達、先生方の事をみんなに知らせようと、相談して、資料館を建てようと云うことになり、そのことに必死になって頑張りました。
壕に何か一つでもあればと、探し集めました。
6つの壕には一般の人が入っていましたが、軍が追い出してそこに入ったと云うことを後で聞きました。
6月18日に1kmさきまで敵が来て、解散命令が出されました。
病院が解散だから、これからは自分の自由にということで、皆一緒に死んだ方がいいと云うことで、壕から出ないと云ったがそれを軍が許しませんでした。
19日の朝までにでていかなくてはいけなくなって、何時、何処で、どんなふうにして死んだのかさえもわからない状況でした。

主に那覇、糸満など南部にいる人たちが、相談して27人が証言員として活躍していたが、28年たった今は8人になってしまいました。
建てたらこれで終わりと思っていたが、開館日が6月23日で御遺族に会わす顔がないと言う思いがあり、御遺族に生きて居てすみませんと言ったら、御遺族があなた方が生きてい
たからこれが出来たんでしょう、何処で亡くなったか、どうして亡くなったのかあなた方がいたから判ったので有難う、と言われました。
私達も生きて居ていいんだと思うようになりました。
私たちも時々ここに来て話をしようと言うことになり当番を決めて、辛いけれども話すようにしました。
まずは自分の体験のことでした。(亡くなった友達のことなど)
沖縄戦のことを段々判っていただけるようになりました。
70歳になった時に後継者を集めるようになりました。

終戦後翌年1月、先生になるための文教学校が出来て、そこに行くことにしました。
私は重症を負って右手、右足が不自由だったので、体育は持たなくていいよと言われたが、戸惑うこともありましたが受け持ってやりました。
最初受け持った子供達はみんなそれぞれ家族を亡くしていて、戦争をよく知っていた子供たちでした。
資料館での話すことは、まずは自分の体験してきたことから始まって、段々友達、戦争の事などに広がっていきました。
後継者に対しては話をして聞かせて、正しく伝える様にしました。
後継者としては学芸員が3名、説明員が3名で6名の人がやっています。
28年前の立ち上げ時からの人たちは、私を含めて8人です。

学校によって事前に勉強してくるところと、そうでもないところがありますが、今は私たちはフォローをしっかりやっています。
10年ほど前、生きていく事に悩んだ内科の女医さんが資料館を訪れて、入ったら自分の悩みは何でもないことだと判って、よし生きようと言って、自分の思いを書き残して行きました、人助けにもなっていると思いました。
戦争は災害と違って人が起こすものなので、止めることが出来ると思います。
戦争のこと、広島、長崎の事をもっと深く理解して、戦争はだめですと、言ってほしいと思います。

































2017年6月22日木曜日

小林大祐(加賀の井酒造第18代蔵元)・糸魚川大規模火災から半年(2)

小林大祐(加賀の井酒造第18代蔵元)・糸魚川大規模火災から半年(2)酒蔵復興にかける
江戸時代創業で360年以上の歴史がある加賀の井酒造も一つの蔵を残して消失してしまいました。
蔵元の小林大祐さんは会社勤めをしていた弟久洋さんに酒蔵に戻って来るように永年説得を続けて兄弟二人で新たなスタートを切ろうとした矢先に火災が起きました。
火災の直後、酒蔵の再建を目指す事を表明した大祐さん、富山県の酒蔵の設備を借りて酒作りを行い、先月糸魚川市内の酒店などで販売を再開しました。
弟の久洋さんは酒作りを学ぼうと3か月間岩手県の酒蔵で修行をしました。
火災から半年が経った今、酒蔵の建設の計画が進み、この冬には元の場所で酒作りの再開することを目指しています。
大規模火災を乗り越え加賀の井酒造の復興にかける思いを伺いました。

火事があってみんな焼けてしまったんだなあと云うような感じです。
酒屋の機能を失ってしまって寂しい気持ちはありますが、街も大分無くなり街の一員としても寂しいと感じます。
前田家の参勤交代の本陣でもあった歴史のある街でした。
これから建物は新しくなりますが、建物で伝えられない部分を私たちがしっかり伝えて行くことによって歴史が伝わって行くと思うので、しっかり伝えていかないといけないと思っています。
火事の当日は、すこし煙が見えて火事かなあと思っていましたが、前のブロックに火が点いたら声を掛けてほしいと言って酒造りの方に戻りました。(忙しい時期だった)
前のブロックに火が点いたと云うことで信じられなかったが、確認したら火が点いていて避難の準備をしました。

火事の方向には高い建物があり火事の様子があまり見えなかった。
TV放送では大規模火災の報道があり、自分たちがいる場所からは炎が見える訳ではないので、不思議な感覚、身近で起きて居ることが体感できないままでした。
焼けた臭いがすごかったのは記憶にあります。
目の当たりに見て大変な事になってしまったと思いました。
弟と一緒にやっていこうとしているところに火事が起きてしまいましたが、ここで辞めるという選択肢は無かったです。
多くのお客様から応援していただいていたので、前を向いて進めていきたいという気持ちが一番強かったです。
火事が起きてしまい、今はもう一度酒蔵を建てて酒屋に戻ると云うのが今の目標です。
会社として回せていけるのかということに関しては非常に不安を感じています。
(1年市場から姿を消しているので)

今回全てのものを失っているので、同時に進めなければならないことが余りにも多いので、復興への取り組みを一緒にやってくださる方に、どうやったら進められるのか、くじけそうな気持ちに対して、意識を変えて向き合う様にしています。
兄が頑張って来て、戻ってきてほしいとの話があり、よほど大変なんだなと思って二人で力を合わせれば、もっといろいろなことが出来るのではないかと戻ってきました。
弟は家族もあって、12月は色んな意味で節目の年だったと思います。
こういうことになってしまったが、一緒にと言ってくれたので、私は頑張らなければいけないと思いましたし、有難いと思っています。
酒米の生産者さんにとっては売り先が無くなってしまうと云うことになってしまって、他の蔵元さんとの協力などで酒米をうまく処理でき感謝しています。

弟:1月20日ぐらいの岩手県の酒蔵(廣田酒造)に勉強のためお邪魔することができました。
廣田酒造さんも東日本大震災で被害を受けて、周りからの支援があり、困っている方がいたら支援したいと云う気持があったそうです。
ゼロの状態から復活された方々のお話を直接聞くことが出来たのは、貴重な体験だったと思います。
いろんな人から声を掛けていただいて、有難いと思いました。(一人じゃないんだなと感じました。)
何でお返しが出来るのかなと思ったときに、今の現実を前に進めてしっかりやってますよと見せることがそういった方々に対しての恩返しと言うか、結果をみせることで多くの方へのお答えになるのかなあと感じています。

繋がってこなかったお客様からも応援します、との温かい言葉を頂き、印象的に残っています。
この経験を踏まえて、大変な人達とか、災害とかが起きた時に、手を差し伸べる存在にならなければいけないなあと思いました。
酒は冬場しかできないので、今年の冬には必ず糸魚川でお酒を作って、色んな方々にお届けしたいと云うのが当面の大きな目標です。
当初描いてきたスピード感でここまでやってこれたと思うので、しっかりやりきれるところまで進めて、図面にあるものを現実に持っていきたいなあと思います。
にぎわいの一つにと、期待していただけること対して、行政の方針にお応えできるような形に織りこんできたつもりです、ガラス越しに酒作りの作業の風景を見ていただけるようにレイアウトした酒蔵にしました。
何がゴールか判らないような大きな取り組みだと感じていましが、街の期待、多くの人たちの期待とかありますが、先ずはおいしいお酒を届けたい、糸魚川がよりいい街になって行くために私達に何が出来るのか、取り組んでいくことが大事だと思っています。

































2017年6月21日水曜日

山岸美隆(糸魚川商工会議所副会頭)・糸魚川大規模火災から半年(1)

山岸美隆(糸魚川商工会議所副会頭)・糸魚川大規模火災から半年(1)にぎわいふたた

昨年2月22日、新潟県糸魚川市で大規模火災が発生し、住宅や店舗147棟が焼けました。
町の中心部にある本町通り商店街も半分が被害を受けました。
現在、その糸魚川市の街作りの検討委員会などが、復興に向けて計画作りなどを進めて居ます。
今月上旬に発表された糸魚川市の構想案には消失した商店街に昔の街並みをイメージした新たな商業施設などを
建設することなどが盛り込まれました。
その検討委員会の一人が糸魚川商工会議所副会頭、山岸美隆さん62歳です。
商店街にある呉服店を経営し、店舗の一部が被災しました。
山岸さんは火災直後からにぎわいのある街作りを訴え、ご自身の考えが構想案に反映され始めたと感じていらっしゃいます。 

昨年の大規模災害でおおよそ180mにわたって店舗や住宅が焼けました。
がれきが撤去されて景色は一変しました。
この街そのものが空洞化していて、新たな店を呼び込んで商店街の再生をしたいと思っています。
煙を見て、2~3軒が焼けてしまうのかなあぐらいの感覚で見て居ましたが、なかなか放水が始まらないのでもう少し燃えてしまうのかなあぐらいの感覚でした。
途中から風が一気に出てきて、消火の手伝いなどをしていたが、飛び火がすごくて、100mぐらいずつ飛び火になり、避難指示が出ました。
昼間なので火の粉は見えなくて、風に飛ばされて屋根に落ちて瓦の隙間に火の粉が入って燃えていくパターンです。

子供のころから慣れ親しんできた町なので、一瞬で無くなると云う感覚が受け入れられなくて、暫くすると実感してきました。
一番いい時代の裕福な時代の建物がそのまま残っていたが、それが全部消失してしまったと云うのは寂しいです。
なかなか受け入れられなかった。
私の家は2階から火が出て、消火活動もあり、屋根には穴が開きましたが、全体とすれば残ったと云うことです。
仮店舗での店の再開をして、販売に間に合わせました。
成人式の着物をお正月に展示、販売することが年間のスケジュールにあって案内もすでに出してあったので、見ていただく機会をなんとか作ろうと思いました。
元の場所での再会は2月3日で、あらかじめ2月3日に日程を決めて実行していきました。

残ったところは元気にやっている姿を見せることも大事なので、早く営業してあげることが勇気づけになるのではないかと思いました。
私の店が燃えてしまった、私の店が残ったという感覚で、お互い喜んだり涙して、お客様の店に対する想いがあるのだと思って、嬉しかったです。
火災前中心市街地の空洞化があり、郊外型、インターネットでの販売などで生活の商品を商店街で調達する時代では無くなって、それに火災で追い打ちをかけられて、もう一回再生するには新たなニーズに答えられる再建がでてきたのでやり方次第だと思います。
ただハードルは高いので、ピンチをチャンスにしていきたいと言う思いは強いです。
集客、誘客のための海、新幹線があるので、ちょっとした日帰りで楽しむことができる環境作りが出来ればとの思いはあります。
2040年になると3万人を切りそうな範囲になりますし、内需だけでは右肩下がりになるので、外からのお客さんがおいでいただける街の体系を作っていただきたいと云うのが行政に対するお願いです。

日本海に面していて、新幹線の駅が近くにあり、高速インターもあるので、外から入るには好都合なので、日本海の魚、物産をたのしんでいただくため等を核にしたいと思います。
海の街ということを前面に出せる様にしたいと思います。
長い将来どうするのかとなると、変化が出てくると思っているが、共に暮らしてきた人たちなので理解、協力はでてくると思っていますが、まだ具体的な事が出てきていないが、具体的になって来ると協力が得られると期待しています。
にぎわいを出すのに、人口2万人台がいずれ来てしまうと云うこともあり、長いスパンで商人は生き続けなくてはいけないので、人を呼び込むための努力をしていくための環境作りをしていくことが、大事だと思っていたが、考え方の違う人たちもいて、方向付けに対してせめぎ合いをしたこともありました。
主張が通らない時期もありましたが、段々取り入れていただいてきました。

商工会議所内にも特別委員会を設置して8~9回委員会を開催して、内需型、観光型などもあったが、私どもの考え方を率直に話す機会が出来たことはよかったと思います。
回数を重ねることで溝が埋まってきたんだろうと思っています。
商人としてここで営んできたと云う事実があるので、災害で負けるわけにはいかないと思うので、復興した姿を見ていただくと云うのも商人のプライドだと思っています。
新しい街を作るスタートと言うことで、ゼロからのスタートなので大変な事は事実ですが
、歴史、街並みとかは戻しますが、住まいとする人、商う人は新しい方が入って貰うと云う考え方だと思います。
外に向かって商売をしようという人の集まりを作る訳なので、魅力のある店作りをやって行くと云うことで目的は重なっているので、力を合わせることはできると思っています。









































2017年6月20日火曜日

高橋はじめ(民話の語り爺)    ・民話の種をまき続けて

高橋はじめ(民話の語り爺)  ・民話の種をまき続けて
新潟県在住 83歳 長く教師として働きながら、故郷秋田の民話を語る活動を重ねてきました。
NHKのラジオでも民話語りをなさったそうです。
3年前秋田県から妻の出身地の新潟県の阿賀野市に移住して、そこでも一人でも多くの人に民話の魅力を伝えたいと奮闘しているそうです。
高橋さんは「民話の語り爺」と云う風に名乗っているそうです。

「昔っこあったぞん、子供たちが遊んでいたあ、鬼がぼーんと来たんだと、おっかねーなあ。
その鬼が何と大きなおならをしたんだと、おかしいなあ。
ところがあんまりい大きなおならをしたんで、腹破けてしまって死んでしまったんだと、かなしいなあ、これでおしまい、とっぴんぱらりーのぷー。」
「とっぴんぱらりーのぷー」は秋田の語りの最後の言葉に成っています。
重要な儀式のときに語ったのが「尊いのはらいたてまつる」としめたのが、どんどん変わってきて「とっぴんぱらりーのぷー」に成ったのではないかと思います。
訛りはもう若い人には無くなってしまった時代なので、せめて昔語りぐらいは故郷の何かが入っていたらと思いました。

「民話の語り爺」の方が親しみがわくと思います。
おばあさんが夜なべをして筵を織りながら話をする場合リズムに乗ったりするんです。
リズムに乗っているそれがどっか身体の中にしみ込んでくる、これが昔の語りでしたなあ。
TVもラジオもない昭和ひとけた生まれなので、昔話を聞くと云うのが創造力をはぐくんでくれたのじゃなかかなあと思いました。
親と子の語りは少ない、孫に語ったったところの家で語りが続いているんです。
子供のころは冬は男も女も関係なく屋根に上って雪を下ろす、これが一番の仕事でした。
小学校に行くのに、雪の道を行くので昼ごろになったこともありました。
婆さんと、兄弟4人で長男でしたので、食糧難の時は村にお手伝いをして米を貰ってきたりしていました。

私は子供のころは無口な子供でした。
高校の日本史の時に、「山の狼よりもとんどのとらよりも」と言う場面が出てくるが、とんどのとらとは何だろうと思ったが、唐土の虎と中国のことだと判ったんです。
どうして猿を嫌うのだろうと思っていたが、菜園をやって取られたり荒らされて猿の恐ろしさがようやく判りました。
しかる時にはああするな、こうするなといわれると弁解と反発しかないが、昔語りはさらりと笑わせてみたり失敗させてみたりして、あの時は親はこういう気持ちで叱ったのかとか、心のどこかに収まるようになっている。
創造力を持たせるような言葉を入れながら、語っていて素晴らしいと今になって思います。
音の面白さもあります。
基本は単純な事から、耳が心が育って行くんじゃないですか。

小学校教員を20代に放課後掃除が終わった後、必ずお話を肉声で毎日連続ものの様にして聞かせました。
自分が聞いて育ったので、聞かせたら喜ぶだろうなあと思って語ったんです。
登校拒否をしていた子も来るようになったりしました。
民話の笑い話は500位あるようです、人間の心を和らげる。
私は本格昔話を主としてやります。
こっちが一生懸命語ると、それ相応のお返しがある、まなざし、顔の表情、喜びはひしひしと伝わります、そういったことが原動力になります。
聞く方にも語る方もどっちにもいい作用するのが昔語りだと思います。

20年前の子供たちは、おばあさんは横手市の出身だとか感想文が出てきたが、よくもお話を本を見ないで出来ますね、というような感想文になり、3年前には、ほんとうに先生の昔話を読んでいただいておもしろかったですという感想文があり、語っているのではなくて読んでいてと言っていました。
今の時代は変わってしまったんだと思います。
いろり、かまど、なべで煮炊きをすると云ってもわからない、話が通用しないことが出てくる。
「闇」ということも理解できない、想像できない。(闇の怖さが判らない)
生活環境、家族構成なども変わってきてしまっている。
過疎化していって、語りなんて余裕が無くなってきて生きて行くのが精いっぱいと云うのが今の世の中だと思います。

語りについて行政が少しでもいいから眼を向けてもらいたい。
お年寄りは知識がある、しかし機会がない。
昔のお年寄りは語り伝えたいと言う気力があったから伝わってきたと思います。
昔話は言葉の博物館です、しかし突然きいても判らない、説明が必要で、ゆっくり子供たちに聞かせる、そうすると成長すると年相応に昔話を思い出す、それが種になるのではないでしょうか。
昔話の語り爺、婆をこういん童話?(聞き取れず)と結び付けて、他の人にもたくさんの人にも聞かせるようになったら、もっと役だつのではないかと言う思いが、私を今まで語らしてきたという結論になります。
種を蒔かなければ苗は育ちません。
語り手養成講座をサポートしていきたいと今やっています。
田舎から出てきて高齢者になられた東北出身の東北の昔語りをしたいと思っています
































2017年6月19日月曜日

一噌幸弘(能楽師笛方・笛演奏家)  ・【にっぽんの音】

一噌幸弘(能楽師笛方・笛演奏家)  ・【にっぽんの音】
お囃子方には、太鼓、小鼓、大鼓、笛方とある。
色んな笛を集めて吹いています。
能管がメインに成っています。(一噌流
家には笛が500本以上あります。
夜中にも笛を吹いて大丈夫なようになっています。
家は100年以上たっていて、周りは森だらけで、ぽつんと家が建っていましたが、最近は家が周りに建ってくるようになりましたが、苦情は来ていません、

唱歌(しょうが)、笛の旋律を口で伝えるもの。
譜面は能の音楽は基本的に8拍子で、8つ線が描いてあって、「おひゃーらーいーほ-ひー」とか線の上に言葉で書いてあります。
簡単なリハーサルとか打ち合わせなどでは唱歌でやったりします。
能管の中では横笛が世界一息がいるのではないかと思います、耳の裏が痛くなったり、耳鳴りがしたり、人によっては酸欠になったりもします。
素材は竹でできて居てしの竹、真竹で、それに漆を塗ります。
吹き口と最初の指孔の間に、のどというもう一つ筒が入っていますので中が狭まっていて(くびれている)、音がだしにくくなります。
能管は音量が大きいのが魅力です。(オーケストラに負けない)

「ヒシギ」、あの世とこの世を結ぶ音、開演ベルの音、最期も「ヒシギ」です。
最期は「ヒシギ」で終わってハッピーエンドと云う意味もあります。
いきなり「ヒシギ」では結構緊張しますので、危険のない笛をつかいます。
(「ヒシギ」:能管の最高音域の鋭い緊張した音で、「ヒィー」と吹く片ヒシギと、「ヒーヤーヒー」と吹く双(もろ)ヒシギがある。双ヒシギは、一声や次第など登場の囃子の冒頭と、能の終曲に吹く。片ヒシギは、早笛や狂言次第の冒頭と、一部の舞事の終わりに奏する。「日吉」「日布」「日」などとも表記する。)
道成寺から、前半のクライマックス、最も早いテンポの曲
鐘に入る前の場面、(間があるが。)
*乱拍子から急之舞 。(演奏)

安土桃山時代から続く家で、一噌流。
能管でクラシックを吹いたり、インド音楽を演奏すると云うことは、結構たいへんでした。
風当たりは大変でした。
妹、弟がいますがやっていません。
笛を持ったのは覚えていませんが、稽古は8歳ごろからでした。
勝手に吹いてみたら面白かったので、稽古を始めました。
父が弟子に稽古をしているのを見て、覚えてしまうことが多かったですね。
父からお前誰から習ったんだと言われました。
初舞台は9歳で、鞍馬天狗の前囃子でした。

この道でやっていこうと云うことはあまり意識していなくて、能管以外にいろんな笛に興味を持って、リコーダーの全盛時代はビバルディー、ヘンデル、バッハ、テレマンとかやっていました。
他の笛を吹くことによって、能管の新たな可能性もあるのではないかと思いました。
能管は特殊で西洋などにはない日本独特の笛で、音程をどう取ればいいのかと思ってしまいます。
フラメンコギターとのディユエットで  *竹田の子守唄(演奏)
笛は何をつかったかは、コンサートに来たら判りますが。
フラメンコギターを考えたのは「泣き」の要素が入っているから、合うのではないかと考えました。
能楽の囃子の新作を作っていこうと思っています。
能楽は8拍子ですが、7拍子とか、能管の協奏曲とか、いわゆる能管の可能性を広げて追及していきたいと思います、勿論古典も追及して行きたい。

7月9日、父の13回忌の公演を国立能楽堂でおこなう予定です。
1部は受けつるがれる伝統(古典)、2部は私の創造する伝統。





























2017年6月15日木曜日

小嶋希恵(元宝塚歌劇団)       ・未来のミュージカルスターを育てる

小嶋希恵(元宝塚歌劇団)  ・未来のミュージカルスターを育てる
長野県佐久市の出身、1981年に宝塚音楽学校を卒業後、雪組男役として 5年間舞台に立ちました。
しかし病気の母の看病をするため、故郷に戻ることに決めました。
25歳の時のことでした。
故郷で開いた小さなダンス教室、そこに未来のタカラジェンヌを目指して二人の生徒が入ってきた事が、プロとしてミュージカルの舞台に立つ子供たちを育てるミュージカルスクールを開くきっかけになりました。

姿勢を悪くしていると、腰も痛くなるし足も太くなる。
立ったその瞬間に、立ち姿が美しくなければ宝塚は駄目です。
宝塚に入りたいと言う子供たちが全国から来て居ます。
宝塚は30~50倍と狭き門で、そこをくりぬけて宝塚音楽学校に入学して、2年間心身ともに鍛えられ卒業した子だけが宝塚に入れます。
スクールからは月影瞳さんはじめ多くのスターが誕生。
私は5年間、雪組男役をして舞台にたっていました。
汀夏子さんに憧れて入りたいと思って、雪組に入れてたんですが、直前に退団されてしまいました。

母が宝塚が大好きで、娘を宝塚に入れたくて、背の高い父を選んで、母から耳元で宝塚に行くのよとずーっと言われて、私自身宝塚に行くものだと思っていました。
3歳からピアノをやったんですが、いまだに上手くはありませんが生徒のためには役に立っています。
小学校4年生の時にベルサイユのばらを見たときに、物凄く感動してここしかないと思いました。
宝塚音楽学校の1年目は掃除の連続でした。
そのほか廊下の歩き方、一般常識を厳しく学びました。
スターであっても上級生が優先です。
25歳のときに母が倒れてしまって、辞めて長野県佐久市に戻りました、
辞める最期の稽古の日にはずーっと泣いていました。
最期の舞台では男役としてかっこよくやりたかった。
黒木瞳さん真矢ミキさんなどが同期でこんな美人とやっていけるのかと思いました。

地元の新聞社でモデルをやりながら、取材などしていたときに町からせっかくタカラジェンヌが来たんだからということで町で教えていたら、編集長から教えることに生きていきなさいと言ってくれて、小さいダンススクールを立ち上げました。
たくさんきてくれて教えるようになりましたが、或る時、月影瞳、麻世さくらが宝塚に入りたいと言ってきて、見たらこの二人なら入ってくれるのではないかと思いました。
厳しく指導して半年後、二人とも宝塚に合格しました。
その後、宝塚に他にも送り込んでいきました。
群馬、埼玉その後東京からも来るようになって、この世界で日本一になれるのではないかと思って、1993年から長野から東京に移動しました。
プロになりたい子だけを対象に厳しく指導しました。
宝塚に入れさせたいと言う思いで怒りますが、感情では決して怒らないです。
生徒の事は自分の子供のように思っています。

この子が今何を思って何を考えているかということを、その子の立場に立って怒ることが私の一番の長所かと思っています。(その子の目線で見れる)
たとえば歌が歌えないと悔しいが、悔しいよねと言ってあげると、自分を出せる、泣いて自分を出せると、本番に強くなれる。
普段から自分を発揮できる人が、本番に強いと私は思っている。
目標を持った人は自分に悔しがる、他人へは悔しがらない。
お互いが判りあえないと私の言っていること気持ちを生徒は受け止めてくれない。
大人は悲しみ、苦しみの思いだしで泣くが、子供たちは出来なくて悔しくて感情を出すことによって泣くので成長する。

三重県亀山市で文化大使、、栃木県足利市で芸術監督をやっているが、ミュージカルをやるが、プロを加えてもらってやっています。
最初は声を出せないような子でも最後には大きな声を出せるようになります。
プロセスを大事にしていきたいと思っています。
宝塚に合格することは目標であって、大切なことは一生懸命宝塚の受験まで頑張り通すことが大事だと思っています。
こんなに頑張れることって一生のうちでそうは無いと思います。
宝塚に受からなくても違う世界で頑張れば、ほぼみんな自分の夢はかなう子は多いです。
結果はどうあれ最期までやり抜くと言うことを、子供たちに教えていきたい思います。
辛いことはいっぱいあるけどその日にとどめ、朝起きたら今日は頑張ろうと思います。
「明日は絶対朝日が昇ってくるので、朝になったら頑張ろう」と思ってやっています。
死ぬ瞬間まで目標を持って、頑張ろうかなと思っています。
スクールの50周年記念パーティーを目指して、出身者全員を集めてやりたいと言うのが私の夢です。(後20年弱)
人と居る時は笑っているといい事がいっぱい来るので、笑ってほしいと思います。





































2017年6月14日水曜日

本川達雄(東京工業大学名誉教授)  ・ナマコに学ぶスローライフ

本川達雄(東京工業大学名誉教授) ・ナマコに学ぶスローライフ
長年ナマコを研究している世界でも数少ない生物学者です。
昭和22年宮城県生まれ、大学進学では悩んだ末東大理学部生物学科に進み、30歳で琉球大学に赴任し、ナマコに出会いました。
ナマコの生態はほんのすこししか解明していませんが、本川さんはナマコは省エネに
徹し、海底で天国を作っている。
この省エネの生き方こそが今地球規模の課題となっているエネルギー、食料、環境問題の解決の糸口になるのではないかとお話になります。
東工大在職中から始めた小学生への出前授業は、ナマコ研究を通して知った命の尊さを判りやすく伝えたいと、これまでにおよそ150の教室を訪ねました。

ナマコの研究は35年ぐらいやって来ましたが、これは何の役にもたたないので研究している人はほとんどいません。
ナマコを食べるのは日本人と中国人だけです。
定年になってナマコとは縁が切れました、ナマコ的な人間にはなっています。
のたっとして何にもしない。
高校2年の時に大学を決めなくてはいけなくて、理科系の好きな人は工学部に行く人が多かった。
豊かさを追う工学部とは関係のない生物学科に行くことを宣言したが、動物は嫌いだった。
大学に行ったが、周りは生物が好きな人ばっかりだった。
最初、貝、それからナマコ、ウニ、ヒトデ、ホヤ、共通はあまり動かない、脳があまりない。(研究者は非常に少ない)

ナマコは毒を持っているが人間には効かないが、魚には効く。
触るとコリコリに皮が硬くなる。
ナマコを輪切りにすると竹輪みたいになるが、竹輪の白い部分は全部皮で、筋肉は6~7%しかない。(人間は50%が筋肉)
皮が軟らかくなったり硬くなったりします。
魚にかみつかれたらそこが柔らかくなって、腸をそこから出して、それを食べているうちに逃げてしまう。
研究するにはまずナマコの生活を一日中見て居ましたが、見て居ても何にもしない。
ナマコは砂を食っています。
砂粒の間に海藻のかけら卵がはいっていたり、バクテリアがいたりしてそれを栄養分にしている。
眼、耳、鼻などの感覚器官がないので、その情報を処理する脳もあまりいらない。
非常にエネルギー消費量が少ない、哺乳類と比べて1/100、貝類とくらべて1/10、それほど食べなくても済む。

食う心配がないと何もしなくていい、働かなくてもいい、と言うことは天国に住んでいると云うことです。
人間も天国を作ろうとせっせと働いている。
3・11の大震災、地球温暖化などエネルギー大量消費型であると地獄に行くかもしれない、その方向はよくないのではないかと思う。
現代人は時間に追われている。
ナマコを見て居ると時間が違うのではないかと思って考えると、これはエネルギー消費量に関係している。
動物の心臓の拍動時間は体重の1/4乗に比例してゆっくりになると云う関係になる。
心臓だけではなく、呼吸、食べてから排泄までの時間、血液の一巡の時間もそうだし、大人になるまでの時間も同様です。
はつかねずみは20日、人間は10月10日、象は600日以上胎内に入っている。
小さいものは早く死ぬ、大きいものは長生きです、寿命は身体の大きさでほぼ決まります。

心臓は15億回打つと象もネズミも死ぬと云う関係が生まれてくる。
身体は平等にできて居て、ゆっくり動かせば長持ちする。
身体の大きさとエネルギー消費量を調べると、体の小さい動物ほどエネルギーをたくさん使っている。
小さな動物の細胞はエネルギーをたくさん使っている。
時間の速度とエネルギー消費量はちょうど正比例する、それが動物の体のなかで起こって来る。
人間に当てはめるとだいたい41歳、しかし人間は70,80歳とか長くなっているが、老いが始まると云うことは身体にガタがくると云うことです。
老いが始まると野生の動物は大概死んでしまう。
縄文時代30歳台、昭和22年で50歳、今は90歳近くまでなってしまったが、社会の状況が変わっただけです。
感染症が無くなる、食料が豊かになった、医療が凄く効いていて、冷蔵庫の影響も大きい、冷暖房も効いていて、技術で寿命を伸ばしている。(人工生命体)

省エネに徹すると天国になる。
定年は寿命とのかかわりでガタが来て程ほどに卒業しなさいよと言うことで決まってきている。
人工生命体として尊厳のある生き方を考えたいなあと云う気がします。
出前授業、私の書いた文章が小学校、中学校、高校などの国語などの教科書に載っていて、顔を見せに行って授業をしています。
生き物のもっとも生き物らしいところは多様ということだが、しかし共通性がある、形の上での判りやすい共通性は円柱形だと云うことだ。
何故円柱形なのか。
木、枝などもしかり。
平らなものもある、掌、表面積が大きいからしっかり握れば摩擦力はおおきく、しっかり握れる、粘着テープは同様。
耳はひらたい、象は耳で熱を発散させる、特にインド象に比べアフリカ象の耳は大きい。
平たいものには意味がある、それぞれ生き物の形には意味がある。
円柱形は弱い方向がない。

資源、エネルギーは次世代が使えるようにしておかないといけない訳で、時間を長く使えばエネルギーを長く使える。
今はエネルギーをどんどん使って時間が早くなってしまっている。
食べるエネルギーの30倍をつかってしまっている。
現役は早くないと負けてしまうのでそれはしょうがない、現役は早くてもしょうがないかもしれないが、定年になったら時間の速度を落として、その分資源もエネルギーも使わなくて済むし、次の世代にも渡せるので、なるべくエネルギーを使わないように心がけたいと思っています。





















































2017年6月13日火曜日

貫行子(日本音楽療法学会評議員)  ・心を和らげる音楽の力

貫行子(日本音楽療法学会評議員)・心を和らげる音楽の力
5歳からピアノを習い音楽に関わる仕事をしたいと東京芸術大学音楽学部学理科に入学し、音楽心理学を学びました。
当時日本ではあまり知られず、研究が始まったばかりの音楽療法と出会いました。
1960年のことでした。
以来音楽療法の研究一筋に取り組み、大学や病院の協力を得て実験をかさね、音楽と自律神経、年代別のストレス解消音楽の違いなど、データで実証しました。
今では音楽療法は心のケアや高齢者の認知症予防にも効果がある事が知られるようになってきています。
来月7月には、茨城県つくば市で世界中の研究者が集まって、音楽療法の世界大会が開かれます。

子供の時はピアノを勉強していて、東京芸術大学、音楽学部楽理科に入学し、音楽史、音楽美学、音楽心理学を主に勉強して、ピアノに、歌のレッスンも毎週あります。
桜林仁先生が日本に音楽心理学を導入した先生で、お手伝いをするようになって
続けてやってきました。
聞いて癒されると考えるかもしれませんが、認知症予防、介護予防とか実際に身体をつかって貰ったりして歌ったり、楽器をつかったりして脳を活性化する方に重点があります。
中高年の方の場合はストレス解消と言うことで素敵な音楽を聞くと云うことになります。
大学卒業後、筑波大学の理療科教員養成施設に行って、生理学的反応(心拍数、脈拍、血流量を測る装置がある)を測定して、音楽を聞いたりした時の生理的反応を調べたのが始まりです。
20世紀になってからアメリカで、戦争での帰還兵の心身症がなかなか治らなくて、音楽療法が始まった経緯があります。

実際にダンスをしたり歌ったり身体を動かす、実践する音楽療法がなされていました。
93歳の女性の方、音楽療法が自分の生きがいと言っていた人ですが、昨年複雑骨折で背中が痛いということだったが、音楽療法のその時だけは痛みを忘れると云って下さって、痛みの緩和と高齢者の音楽療法の研究をまとめて今年発表することになっています。
イギリスでチェロを障害児に聞かせて、障害児への音楽療法を始めて音楽療法協会の会長をされて、日本にも来られて、著書が2冊在り、その1冊を私と桜林仁先生で共訳して、日本ではじめて「音楽療法」というタイトルで出版されました。(1969年)
研究をしてデータを出すのが好きでした。(生理的反応、脳波)
ベータ波アルファ波があり緊張するとベーター波が増え、リラックスするとアルファ波が増える。
アルファ波が増えるような音楽を提供すれば役に立つのではないかと思って、バイオミュジックとして世に出しました。
1980年代の最期の頃 発表して後にCDとなる。

データを取りだしたころはコンピューターがなくて、物差しで測って解析したりして大変でした。
大きい振幅は活性化していると言うデータ、裏付けが出せました。
聞く人の年齢差、男女差でも色々違いがあります。
クラシック、ロック、せせらぎの音を実験した時には、60代ではモーツアルトのクラシックが一番安らぎを感じて、20代ではロックミュージックで一番安らぎを感じると云う事がありました。
音楽の訓練を受けた人と受けて居ない人でもリラックスの傾向が違ってくる。
育った環境によって自分がリラックスする音楽も違ってきたりします。
クラシックが一番リラックスしたと言う人が実は秋田民謡が脳波では一番リラックスしたと云うような結果もあります。
フィーリングミュージック(癒し音楽)を使ってストレスホルモンの研究を東京大学の先生と一緒に研究したことがありますが、音楽を聞く前、直後、15分経過後の血液を採取して調査をしたら、音楽を聞いた後にはストレスホルモンが減っている事が判りました。

この研究成果は世界音楽療法大会で発表しました。
モーツアルトの曲を牛に聞かせると良いとか、胎教にいいとかありましが、乳の出方が多かったと言うが、絞る人が心地よくなって手の技がさえたのか牛なのかは判りませんが。
胎教音楽の研究もしましたが、妊娠7か月のおかあさんのベッドで色んな音楽を聞いてもらったのですが、モーツアルトよりもディズニーの音楽がお母さんは好きで、ディズニーの音楽を聞いた時の方が、超音波診断であかちゃんが好ましいような動きをしたということでした。
自分の好きな音楽が一番いいということですね。

2000年に日本音楽療法学会が出来ましたが、理事長は今年105歳の日野原先生で、昨年辞められました。
音楽療法士はそれなりの経験および資格が必要になります。
高齢者音楽、1990年頃から施設に行ってやるようになりました。
ある患者さんに色々な曲が入っているものを4週間聞いてもらって、「ヤシの実」と言う曲が入っています。
通常認知症の方は我々のまどろみの脳波、シータ波が出ているが、音楽を聞く事によって少し活性化してアルファー波になる、健常の人はアルファ波だとリラックスですが、認知症の人がアルファ波に変わったと云うことは少し活性化したということです。
音楽療法をやったあとで実際に自分が歌ったり、弾いたり、身体を動かすことをやってきて、20年ぐらいになります。
うつむいて居た方が上を向いて顔色が良くなったりして、予防医学という観点からも高齢者の音楽療法は必要だと思いました。

スキンシップをすると云うことも喜ばれます。
解放される音楽は人によって育った地域、思い出などによって違ってくる。
感覚統合理論に基づいておこなっていて、聴覚だけでなくて、視覚、触覚等たくさんの感覚刺激を同時に行うことで、いっそう脳が刺激されます。
プログラムとしては「こんにちわの歌」を歌って、挨拶をして、時、所、人を認識してもらって、体操をして、腹式呼吸をして、発声練習をします。
その後季節に合った唱歌を二つ歌います。
脳刺激のために歌いながらじゃんけんするとか、並行して色々動作するとかも行います。
回想療法、若かったころを思い出して意識の回復を促す為に昔の歌謡曲、演歌などを歌います。
器楽でテンポの速いリズミックな曲で活性化します。
そこでプログラムを終了して、クールダウンとして穏やかな曲を私が歌ったり弾いたりしています、最期にさようならの歌を歌います。
何のためにこれをやるのかということを理解してもらいます。

7月に茨城県つくば市で世界音楽療法大会が開かれます。(2000人 そのうち500人は海外から)
今はホスピスでも音楽療法が行われて居ます。
たとえ治らなくても精神的に生き甲斐を持って、人生を全うしていただけるようにと音楽療法が役立っていますが、手を握ってるだけでもいいといわれて居ます。
気持ちいいとか、楽しいとかそういう時には、幸せホルモンが出るそうです。
幸せホルモンとはβエンドルフィンというもので、痛みを忘れさせたり、気持が高揚して、脳を刺激して老化を防いでくれて、免疫力を高めてくれて健康長寿にも繋がります、と言うことを免疫学の先生から聞きました。




















2017年6月12日月曜日

鯉川なつえ(順天堂大学先任准教授)  ・炎天下のマラソンから得たもの

鯉川なつえ(順天堂大学スポーツ健康科学部先任准教授)・炎天下のマラソンから得たもの
高校生のころから長距離種目で活躍されて、現在は女性スポーツの研究をされている順天堂大学スポーツ健康科学部先任准教授、順天堂大学陸上部女子監督の鯉川さんに伺います。

今の高校生は速くなっているなと思います。
3000mを女子は走りますが、9分10秒を切って走る選手がたくさんいますし、5000mも一般の種目になりますが、15分台で走る選手がたくさんいます。
シニアになった時に強くなっているかと考えるとちょっと問題があるかもしれません。
1989年、第一回高校女子駅伝、私は筑紫女学園高等学校の2年生で出場、アンカー5区で初代区間賞でした。
中学まではバレーの選手でした。(全国大会出場)
身長が157cmしかなくて、今後続けていくには通用しないかなと思いました。
長距離もはやかったので、長距離をやってみようかなと思いました。

1984年のオリンピックから女子の正式マラソンになって行く。
オリンピックが自分の夢、目標だと思ってやっていました。
区間賞は取ってもチームとしては優勝できなかった、(第二位)
技術的なもの、メンタル的なもので自分は劣っていると思っていたので、そういうものを教えてくれる所に行こうと思って大学に進学しました。
科学的な事、血液など医学的な事をもってしてどう自分にプラスになるだろうと興味はありました。
男子の大学でしたが、女子一期生でしたが、入学に対しては周りからは大反対でした。
色々な事を学んで、食べるもの、練習のリカバリーを考えたりしたら、より競技が楽しくなりました。

大学卒業後、実業団に入り、95年の福岡ユニバーシアードの代表に成り、マラソンを走るが、30km過ぎた頃、フラフラになりました。
9月3日で残暑、湿度が高かったがとっても調子がよかったので良いタイムで優勝したら、オリンピックの代表にもなれるといわれていたが、当日のウオーミングアップが駄目でした。(後からの感想)
15km付近でスコールのような雨が降って、そのあと又照りだして湿度が98%まで上がって、30kmの給水を取ったところまでは覚えて居ましたが、そのあとは意識がないです。
脱水症状と言うより、熱中症は意識障害、脱水症、痙攣などを含めた総称なのでそれが一気に出たものだと思います。(当時は熱中症と言う言葉はなかった)
救急で搬送されたところにアメリカのドクターがいて、日本の医師が指示した酸素吸入ではなくて、全てウエアーを脱がせて氷漬けにするようにして、その後アイスマッサージをして、20分後に意識が戻って、救急病院に搬送されましたが、その時にアメリカのドクターがいなかったら死んでいたかも知れません。
点滴を受けて次の日には戻りました。

湿度の高いレースの時には、スポンジを絞って乾かして身体を拭きなさいと言う指導をしています。
コーチに成ってからはそのことが色々役立っていると思います。
26歳のときに競技は辞めました。(会社の倒産とともに陸上部も廃部になる)
1年間助手をして、自分との違いにどうしたらいいかわからなかった。
翌年大学院に入りました。
生徒と話し合いをしながら、調べて行く作業で、一つだけ駄目でも結果は出ないものだと改めて感じました。
もう少し、女性アスリートたちがもっと長く競技を継続できないものかということが一番の思いです。
怪我、結婚して出産して続ける選択肢がなかった。
女性アスリートたちが長く競技を続けられるような指導者になりたいと思いました。

①身体生理的課題、小学校3~4年生で1年間に10cmぐらい伸びる、身長スパートと呼んでいるが、一緒に体重も増えないと骨密度、筋肉も増えていかないので、この時期に、きちんと栄養が取れて居るかどうか、適切な運動がとれているかどうか、月経がきちんと来てるかどうかによって、疲労骨折とか色んな障害が出てきてしまうので、身体生理的課題を理解したうえでやりましょうと云うことです。
②心理社会的課題、女性はメンタルが弱いといわれる人が多いが、その子たちに対してどうアプローチしてゆくのか、声のかけ方が違うと云うことを中心に研究して居ます。
③組織環境的課題、妊娠、出産を経ても競技が出来る環境を作ってほしい。
この3つがクリアできれば救われるアスリートは多いと思います。

もっとも影響が大きいのは中学校の先生だと思います。
先生に言われた厭な言葉トップテン。
ご飯食べるな、揚げ物食べるな、もっと痩せろ、毎日体重を計れとか厳しいことを言われる。
ご飯を食べるなと言われて育ってきているので、大学に入ってきた人たちの一番最初にやるのはご飯を食べさせるところからです。
痩せれば速くなるといわれて学んできているので、貧血、生理が止まったり起きるので、痩せただけでは早くなれない、しっかり食べてしっかり練習することによって身体は絞れる。
インポスターシンドローム(詐欺師症候群)、自分自身をいつわるという意味合いがあり、自分が成功したことは自分の努力のおかげではなくて、自分は強くて素晴らしいアスリートではないと思い込むことが女の子の特徴らしいです。
女性の方が詐欺師症候群に成りやすい。(自分を低く見積もってしまう)

男性の指導者は強くさせたいと思い、女の子は鵜呑みにしてしまうが、自己評価を高めてあげる様なコーチングをすることで女の子は変わってくると思います。
残念ですが、全く変わっていないと思います。
海外の選手は生理がないと走ってはいけないとかあるが、日本ではごまかしごまかし来て居るような気がします。
ほとんどの選手が月経が止まった経験があるので、当たり前だとおもわないでほしい。
無月経はエネルギー不足が全ての原因だとわかってきて、食べて体重を気にせずにいかにスポーツできるかということを大事にしながらコーチしています。

私が大学生の時に、国際千葉駅伝で、ロシアの選手に区間賞に1秒差で負けて、ロシアの選手はゴール後に子供に授乳していて、こういう女性に負けたのかと、その姿に対してショッキングでした。
海外では出産の直前までトレーニングをやって、出産後1カ月半位で元の生活に戻ることを自然にやっていて、日本では妊娠したら引退するという概念があるので、妊娠してもトレーニングが出来るので引退する必要はないんだと云うことを発信してあげたい。
女性の心をわかってくれる指導者が男子でも女子でも必要だと思いますが、女性のコーチをもっと増やすことが女性アスリートの活躍には直結してくることだと思います。
JOCの女性役員の数は10%と言われているが、世界では30%位に来て居て、2020年までに40%にしましょうと云うことです。
日本ではポジションがない、自信がない、数少ない女性コーチの苦労を見て、あんな苦労はしたくないと思うらしい。

子供がいる今は9時に寝て居ますが、子供がいなかった時は10時まで大学にいて仕事をして12時、1時に寝て6時には朝練習だったのでむしろ辛かった。
コーチライセンスを作ってもらいたいと思います。
知識のない人がコーチになると不幸を招いてしまうことがあるので、特に女性の場合は知識のない人が携わらないようにしてもらいたいと思います。
2020年に向けて女性アスリートの支援に莫大なお金が付いているが、2020年の先へも継続できるようなシステムを作ってほしいと思っています。
女性のスポーツ参加率、30代、40代の女性参加率が日本では少ない。
生活の中にアクティブがあれば、それはスポーツになると言う考え方を変えることで色んな障壁、ハードルが低くなると思います。







































2017年6月10日土曜日

金城馨(関西沖縄文庫主宰)     ・大阪の“リトル沖縄”からのメッセージ

金城馨(関西沖縄文庫主宰)・大阪の“リトル沖縄”からのメッセージ
大阪大正区はリトル沖縄とよばれていて、住民の4人の一人が沖縄にゆかりがあるといわれて居ます。
中心部の商店街には沖縄の物産を扱う店が多くあり、大阪府内だけでなく、遠方からも観光客が訪れています。
関西沖縄文庫は金城さんの自宅の中に設けられ、沖縄に関する書物を読んだり沖縄の文化に触れたり出来る場所です。
沖縄の歴史は常に差別とともにあったと話す金城さん、6/23の沖縄慰霊の日を前に、金城さんに差別や暴力をなくし、平和を築くために何が必要かを伺いました。

本以外のレコード、映像を含めて1万点になります。
1985年に作って、集まって支え合う空間を作って、誰にでもこられるようにしたらいいかと思って作りました。
大阪大正区はリトル沖縄とよばれていて、住民の4人の一人が沖縄にゆかりがあるといわれて居ます。
100年前に(1910年代)日本経済が活性化してゆく時期で、大阪に紡績工場がたくさんありました。
大正区には近代紡績の発祥の地として碑が建っていて、大きな紡績工場がありました。
沖縄の産業はサトウキビで、砂糖の暴落が世界中で起こった時に、本土に働き口を求めてきたことが1920年代にありました。
大阪、沖縄航路が発達していて移動しやすかった。

求人の張り紙があったが朝鮮人、琉球人はお断りと書かれていたり、賃金が日本人よりも安いとか、結婚のことも言われるし、アパートを借りる時なども差別されていた。
住環境に適していない場所で(低い土地とか水害の発生しやすいところ)住んで居ました。
そういった時にみんなで支え合おうと云うことで、大正区の一角で沖縄人の集落が形成されてゆきました。
琉球人は日本社会の中における初期の外国人と言うことになると思います。
1879年、明治政府が併合して、日本人とは違うと云うことで、差別していった。
1990年代の人の結婚差別の話は聞きましたし、就職差別の話も聞きました。
判らないように、名前を変えたり、沖縄語を喋らなくなったりして行きました。
自由でありたいと言う人間の本質を否定される。

沖縄市生まれ、1歳のときに両親と一緒に兵庫県の尼崎市に住む。
小学校5年のクラス替えの時に、沖縄出身の金城ですと云ったときに周りがざわめきました。
それまでは何も感じなかったがそこで初めて日本人とは違うと言われました。
沖縄であることを出せなくなりました。
三線(サンシン)と言う楽器があり、泡盛があり、歌って踊っている。
食べ物もヘチマ、ゴーヤを食べて居て、そこの集落の半数以上がブタを飼って生計を立てて居る。
そういったことで違っていることがわかって行って、それが差別につながる物であると思いました。
日本人と同じでありたいと思いました。(日本人になると言うもがき)

高校で差別問題研究会を立ち上げる。
部落差別があって、差別問題研究会という形で継続的に日常的にやる組織を作ろうと云うことに成りました。
沖縄を否定する生き方は沖縄人を馬鹿にしている、もっと見えないようにする、沖縄を差別する側に成っている自分の差別性を蓋をする方法は、他に差別があって(朝鮮人、部落)そういうことに向き合ってると云うことで自分を差別をしていることをおそらく隠せる訳です。(沖縄は取り上げない)
在日朝鮮人の高校生と話す機会があり、あなたは沖縄のことをちゃんとしろと言われました。(一番逃げて居たこと)
自分の中の沖縄を出そうと思ったが、沖縄を否定してきているので、自分の中に沖縄が空っぽになっているということを実感せざるを得なかった。

在日朝鮮人では全校集会で本名を名乗り始めると云うことから始めるが、彼は沈黙をしながら涙を堪えるシーンになる訳ですがそれでも本名を名乗らなかった。
名前を名乗ると云うことは、正しい行為だが、それを押し付けて行く形で暴力として機能してしまった。
彼の沈黙によって、正しさの中に暴力があるんだと云うことを、教わりました。
いい大学に入れば、沖縄人である差別は受けないであろうと思いこんでいて、いい大学に入りたいと思いましたが、受験におちてしまい、自分探しに日本を旅することになりまし
た。
青森の下北半島にいって、猿の話を聞いていましたら、突然私たちはアイヌの子孫だという話になりました。
内容を聞いていると、坂上田村麻呂という東北を制圧をしている人がいるが、アイヌの人に女性を出せと要求して、リーダーの娘が誰が行っても不幸なので自ら行きますと言って行きます。
その娘は身ごもり、リーダーのその娘は身投げをしたと、伝説の話をしました。(1000年前のこと)
1000年たってもアイヌだと言っている訳です。

アイヌ民族と言う誇りを持っている人で、沖縄人て何なのかということを突き付けられる出会いでした。
それから思考が方向転換しました。
突然沖縄に行きたくなって翌年沖縄に行きました。
抱いていた沖縄とは現実は違っていて離島に行きたくなって、宮古島、竹富島に行ったときに原風景みたいなものを感じました。
他人であろうと言葉は出さないが、にこっと笑って擦れ違う、無視しないで他人を受け入れる。
自分が探しているものにたどり着いたような感じがしました。
公設市場のおばさんに沖縄人に見えるか、日本人に見えるか聞いて回りました。
自分自身の沖縄というのは何なのかを他人との関係で最期の整理をすることだったが結論的に言うと半々だった。

他人のまなざしはいい加減だと思って、自分自身の問題だと思いました。(周りに意識しすぎて居たことに気付いた  20歳の時)
沖縄から多くの若者が集団就職してきて、青年たちが組織化してきます。
青年のお祭りでエイサーを踊ることになり、そこで初めてエイサーに出会います。
エイサーは先祖供養の盆踊りです。
私としては異質な文化ですが、本人たちは生き生きしている訳です。
そこには土着性の凄さがあり、でも拒絶がどこかに残され居ました。
エイサーをやりながら5~6年たってから、やっている自分が野蛮だと思った時に初めて身体が喜んでいる感覚になりました。

差別を受けてもちゃんと誇りを持っていたら、跳ね返すことはできると思います。
1975年に始めたエイサー祭り、1985年には関西沖縄文庫を作りました。
若者の中で孤立して行って孤立して行く過程で、結果的に仕事が無くなって犯罪をする形であらわれてくる場合があって、皆で支援しようということになり、やっていく過程で拘置所で自殺するという事件がありました。
他にも自ら死を選んでいった仲間が結構いました。
オープンスペースの場を作ることによって、悩みを抱える人が安心できる場所にしたかった。
地域の先輩の人たちがひょこっと顔を出してくれる場所だったらいいと思って、その人たちから色々聞くことは大事だと思います。

①沖縄戦、②沖縄の先人たちの大阪での足跡、②基地問題、取り組みをしています。
沖縄は本土を守るための防波堤にするということでしか無かった、と言っている。
子供も兵士にされて、多くの命が奪われてゆく。
戦争が終わって、沖縄人は収容所に入れられる、住んでいるところを潰して基地にされていかれる。
本土復帰を果たした後も、日本にある米軍専用基地の約7割が沖縄にある。
米兵による殺人、強姦など多くの事件があるが、地位協定のもとにアメリカ軍人は守られている。
沖縄に基地を押し付けることによって得る平和、そんなに問題だと思わなってゆく、いつの間にか結果的にやっていると云う場合がある。
基地が必要だと云うことなら県外にと云うような議論が必要だと思います。








































































2017年6月9日金曜日

泰川恵吾(医師)         ・南の島でいのちを診る

泰川恵吾(医師)    ・南の島でいのちを診る
泰川さんは東京女子医大の救急医療センターの医長時代、高齢者の患者があまりにも多い事から高齢者のための在宅医療の必要性を感じて、故郷宮古島に在宅診療所 ドクターゴンを開院、そして13年前に古都鎌倉にも同じような医院を開院しました。

宮古島は沖縄本島とは300km離れて居ます。
20年ほど前に宮古島でドクターゴンを開院しました。
泰川恵吾という名前で、「けいご」ですがゴンちゃんと呼ばれていましたので、ゴンになりました。
3歳まで宮古島にいて、父が医院をしていたので、その後行ったり来たりしていました。
小学校のころから東京にいましたが、医者に成ってからすぐに救急医療センターの外科医を10年ぐらいやっていました。
その頃から高齢化が問題になりはじめて、高齢者、障害を持った人、末期の患者さんとか、本来の救急の人たちではない人が入ってきてしまって、そこから動かない状況になってしまった。(高齢者の増加)
患者を依り分けるところがなかった。

20歳ぐらいの子が大けがをしても受け入れられない状況が生じてしまった。
状況別に助ける人と助けない人を分ける必要があると云うことだが、みんな心臓は止まっていて分けることはできない、そうすると決めようが出来ない、家庭までいかないと出来ない、家の中で見て行くしかない。
医療の大概の事は出来ると思っていたので、在宅医療しかないと思いました。
当時在宅医療は日本には内科医で数人しかいなくて、外科としてやろうと救急医療の出来る在宅医療をやろうとしました。
最初新宿にと思いましたが、どうせやるなら故郷の宮古島でやろうと思いました。
宮古島は20年前も高齢化率は21%で、今でも21%で変わっていなくて、日本が10%ぐらいの時もすでに超高齢化地域でした。
団塊の世代が居ない地域が僻地になるが、宮古島はよくわかっていてモデルケースとして宮古島にし開院したが、全く反響は無かった。

3歳までは宮古島で、那覇に引っ越して、ロンドン、スコットランドエジンバラにいて、後は東京育ちでした。
小学校に入ってイギリスに行って3年生になるまで学校には行っていませんでした。
日本で学校に入った時は言葉が通じないので大変でした。(沖縄弁、英語)
救命救急センターは当時本当に3Kの仕事でやり手がなかった。
救命救急医だと言うと、廊下のはじっこを歩けといわれて、外科医、内科医、整形外科医
でもないから、一緒じゃないと言うふうに言われました。
後からマスコミなどで評価されるようになってから初めて今に到ります。
在宅医療をやると云った時にはもっと大変でした。
部下もたくさんいて、医長に成っているのに何だと云う風な状況でした。
救命救急に人気が出てきて、むしろふるい落とすような状況になって来ました。
自分では一通り出来るので後進に道を譲った方がいいと思ったし、次のことをやろうと思いました。

自分しかできないことをやろうと云うのが姿勢としては基本にあります。
看取りをやっていますが、専門は命ですと言っています。
宮古島に開業して最初は患者がいなくて2週間ぐらいは電話もなにもなかった。
現在両方合わせて70名ぐらいいますが、取り巻く人たちも何百人、何千人と居ますが、そういうのを自分で作って行くのが得意ですが、苦労は多いです。
宮古島の周りにある大神島 当時80人(現在は30人ぐらい)いたが島には医者がずーっといなくて医者はどういうことをやるのか説明して歩きました。
文化圏が全然違っています。
まずは話をして信頼を得てからのことです。
小学校の時に言葉を矯正して、今は沖縄弁は全然しゃべれませんので、地元の人は違和感を感じたと思います。
当時給与を貰ったら後輩におごって翌朝は無かったです。
開院する時には生命保険を解約してそれを使いました。
医長だったら、2000万円のベンツ買うのだったら銀行としては貸すが、宮古島で開院するのだったらびた一文貸さないと言われました。

3年も出来たら成功だなと思っていました。
3年たったら忙しかった、100人ぐらい患者さんを抱えていました。
宮古島の周りには5島あり、全部行きます。(橋で渡れるところもあり)
フェリーで行ったり、ジェットスキーでいったりしますが、ジェットスキーが便利です。(水上オートバイ)
医療道具はさまざま用意しています、超小型のもの、外科手術用とかいろいろです。
今はバリエーションがあって、普通の病院入院並みの装備を持って患者さんの所にいけます。
ほとんど全部の機械を工夫して居て、メーカーと一緒に開発したものもあります。
宮古島発の工夫と云うのはいろんなところで出ています。
不便な場所でも使える、電源がないところ(リチウム電池でとかで動く)でもいいとか、振動に強い、条件が悪くても使えるとかの工夫をしています。
血液検査もその場でできますし、心電図も出来るし、ちょっとしたことはできます。

宮古島では安定してきたが看護学校はないし、医学部もないし、スタッフを養成しようとしても難しい。
日本の高齢化の問題、私たちの10年下の子供は一番多い、団塊世代の子供より多い、そのあとは人口が減っている。
団塊ジュニアの世代の人たちが死んでゆくまでやらないと意味がないので、どこに作ろうかと考えたが、神奈川の100歳のおじいさんがいて、私の話を聞いて宮古島まで見に来て気に入って、そのおじいさんが診療所を作ったとのことで、お前にやらすからこちらに来いと言うことで、宮古島は代わりの医者を探して任せて、鎌倉で新たに始めました。
今は患者さんの数は鎌倉の方が多いです。
こちらの中核スタッフは宮古島から来ています。

宮古島20年、鎌倉13年、こういうやり方があってスタッフ自身が、幸せにやれるよと言うモデルケースを作りたい、こういう考え方だよと言うことを真似してもらいたい。
環境、文化全然違いますが、宮古島も鎌倉も、どちらも人を疑わないのが本質的に同じです。
東京の人は疑います。
ハイテク機械はできれば使いたくない、お年寄りだったら注射一本、検査一つしないで、最期を看取るまでただ行って手を握って話をするだけと言うのが一番、これは最高の技術ですが、これが出来るまでには時間がかかります。
これは教えて出来るものではなくて、雰囲気を自分の中に入れなければだめです。
医療の教育はエビデンス(効果があることを示す証拠検証結果・臨床結果を指す)といわれるが、それはそれで正しいが、高齢者を看取るにはエビデンスも必要だが、エクスペリエンス(経験)も非常に必要で、ほとんどの人が望んでいるのは静かにふっと息を引き取って死にたいと望んでいるが、望みを叶えるのであれば、何にもしない方が良いに決まっているが。
しかし、ほとんどの医者はできないと思う。
家族が後で心の底から有難うございましたと言えるような、亡くなったときに思いっきり泣いて泣いてとか、笑ってよかったねと言えるような、そういった環境作りは大事で、できたら良いなと思っています。




















































2017年6月8日木曜日

跡部治賢(オオムラサキセンター館長)・里山にはばたけ“森の宝石”

跡部治賢(北杜市オオムラサキセンター館長)・里山にはばたけ“森の宝石”
きらきらと輝くオオムラサキの羽の美しさから、森の宝石と呼ばれることもあるオオムラサキ。
日本蝶学会が日本を代表する蝶として国蝶に制定してから、今年でちょうど60年に成ったそうです。
かつては日本各地で見られて身近な蝶でしたけれども、生息地である里山が消滅したり、荒れてしまったりする中で、絶滅が心配される地域も出てきていると言うことです。
山梨県の北杜市で長年オオムラサキの保護と里山の保全活動に取り組んできた北杜市オオムラサキセンター館長にお伺いました。

タテハ蝶の種類の蝶のなかでは日本では一番大きい蝶で、オスが羽を広げると10cmくらい、メスは12cmぐらいあります。
飛び方も勇壮で、飛ぶ音もしますし、滑空もします。
テリトリー意識も強くて、鳥が来ても追いかけたりします。
紫色、コバルトブルーと言うか姿は美しくて里山の宝石とも呼ばれます。
戦後、日本を代表する国蝶を選ぼうという議論があり、オオムラサキは里山に住み勇ましい、美しいといういくつか条件があり、いいのではないかとの意見がでて居たが、なかなか決まらなかった。
昭和32年に国蝶に決まったが、その前年に日本で初めて蝶の切手を作ろうと云うことになった時に、オオムラサキを推薦した先生がいてオオムラサキが切手に成り、それが後押しをしてオオムラサキになったということです。(本当かどうかは定かでないが)

県に依ってはほとんど見られなくなってしまった県もあるが、オオムラサキは里山周りの樹液を吸って生きて居る蝶で、里山がないと生きていけない。
里山の減少、農家の人が腐葉土などを里山から得ていたが、里山に行って手入れをする人たちが少なくなったり、高齢化によって里山へ行く人が少なくなったりしてしいました。
このまま行くと絶滅してしまう種に成ってきてしまった。
昭和55年から長坂中学校の生徒が調べているが、減ってしまっているという状況が続いていたが、ここですこし復元してきている。
里山をつかって生活している人が多いのと、炭焼きで里山を大事にしているということもあります。
オオムラサキは里山の環境のバロメーターです。
クヌギなどは樹液をたくさん出すが、手入れをしないと原生林になってしまって、オオムラサキの住む環境では無くなってしまう。

複雑な里山の環境に順応してきた。(生物多様性)
樹液を出し続けることを促すような生き物もいて、複雑な生態系に成っています。
北杜市にも昔はオオムラサキがたくさんいました。
社会が便利になった半面生き物たちにとっては、住みにくくなった部分があると思います。
子供のころ見たオオムラサキが少なくなったり、里山がすこし違ってきて何かしなければと話し合ったりしたのが、昭和53,54年の頃でした。
地域の人たちが保全、保護しようと云うことは考えていませんでしたし、相手にされませんでした。
オオムラサキの羽化するシーンは生命の躍動感を感じるし、感動は見たものでないとわからないかと思うが、オオムラサキの乱舞しているものを大事にしたいと思いました。
故郷を愛しているからこそ大事にしたいなあと思いました。
やっているうちに仲間を少しずつ増やしていきました。

63年のころに、NHKとかが地域の若者が保護していると言うことをニュースにしていて、63年にオオムラサキ祭りをしようと言うことになり、行政が主導して、その頃から機運が高まって来ました。
平成4年にオオムラサキの里整備事業を行政が取り上げて、そのなかにオオムラサキセンターと云うものを活動拠点として作ろうと云うことになりました。
その前に北杜市にギャンブル施設を作ろうという話があり、それは故郷には合わないのではないかと反対の運動をしていたが、それにお母さんたち(婦人会)が賛同してくれて、段々賛同者が増えて行政の人たちも断念しました。
オオムラサキを大勢の人が見に来てくれて、地域も経済的な活動も活発になるのでということで、そういう方向もあると云うこともあったと思います。

平成7年にオオムラサキセンターが出来ました。
広さは6ヘクタールあります。(ちいさな集落があるという広さ)
オオムラサキだけでなく、虫取りしたり遊んだ体験は大人になっても記憶が残ると思うので、思い出として残してもらえるといいと思います。(体験施設)
子供たちが一時期虫に触らないようなこともありましたが、段々変ってきています。
北杜市にアカマツと広葉樹の混合林が多いがアカマツが枯れてしまうことがあり、枯れる前に伐採して放置していたが、そこにクヌギなどを1年間に1万本ぐらい植えて居ます。
荒れたところを下刈りをして、山を程良くいい状態に管理したり、健全な里山にしようと言うことで年間30ヘクタールの保全活動をやっています。
規模が大きくなったのは平成20年ぐらいからです。
北杜市は別荘が多くて薪ストーブがはやって、薪を売ったりして、そうすると地域の人にも波及してゆくということになってきて、結果として山を綺麗にする人が増えて来ました。

若い人たちに引き継いでゆくときに経済性も考えないと持続が難しいので、そういうことも考えながら若い人たちと一緒にやって来ています。
長くやってきましたが一番の原点は、オオムラサキを愛してしまった事と、故郷が好きだと云うことで次の世代に残していきたいと思っています。
羽化したばかりの美しさは言うことはないですね。




































2017年6月7日水曜日

福田尚武(舞台写真家)      ・“心の眼”で撮る歌舞伎役者

福田尚武(舞台写真家)      ・“心の眼”で撮る歌舞伎役者
1944年(昭和19年)山梨県生まれ。
映画とカメラ遊びの好きな少年時代を過ごし、小学5年生の時に上京。
高校大学時代は芝居に興味を持ち民間の同好の人たちで作る歌舞伎研究会に入りました。
歌舞伎座に出入りしながら写真を撮り始めて居ましたが、17代目中村勘三郎の写真を撮ったことが縁で本格的に舞台写真を撮るようになったとのことです。
15年ほどで歌舞伎役者全員のプロマイド写真を撮るようになりましたが、52歳の時に重い糖尿病が原因で視力の著しい低下と両足切断という事態に見舞われました。
その後、心臓病も患い義足と車椅子の生活を送っていますが、ハンディーを克服して、現在も歌舞伎の舞台写真を撮り続けて居ます
これまでに坂東玉三郎の舞台写真集を2冊出しているほか、2年前には自分が住んでいる東京豊島区で歌舞伎写真展を開いています。

今、ひと月に1劇場に行って1週間から10日ぐらいかかってしまいます。
11時から仕事を始めて9時から9時半ぐらいまでかかります。
間に休憩が15分~30分ぐらいなので、体力勝負です。
歌舞伎座が新しくなって、撮りやすくなったところと撮りにくくなったところとがあります。(いけなくなってしまった場所もあります)
車いすだと色々支障があります。
一時期、失明寸前まで行きました。
カメラも色々変えながら今日に至りました。
ミラーレスのカメラを使っていてモニターを見ながら撮影が出来るので、普通の一眼レフのようにファインダーから見ることがないので比較的楽です。

山梨県切石で生まれ、引っ越してきて豊富村で5年生まで育ちました。
母親始め兄弟が豊富村に住んでいて、父親は東京にいて、東京に遊び行くとボックスカメラがあり遊んでいました。
カメラ屋からカメラを借りて撮るようになりました。
犬を撮った時に写真募集があり送ったら入選してしまいました。(アルバムを貰いました)
映画も大好きで、毎週見て居ました。
高校の時に写真部に入ろうと友達に誘われて、写真部に入りました。
チャンバラ映画が好きで、舞踊会を見に行って舞台の写真を撮るきっかけになりました。
歌舞伎研究会がありそれに入りました。
その会長と話をして、いきなり歌舞伎の舞台を撮れるようになってしまって、竹之丞、猿之助、由次郎さん等の写真を撮ることになりました。

その後歌舞伎研究会に行ったときに17代目中村勘三郎さんの来られる日で、今まで撮った写真をスクラップブックにしていましたが、その中に勘三郎さんの写真もあって、勘三郎さんのものを見せて手の口元への位置について離れて居るのだがどうしてかと質問したら、それはシャッターチャンスの問題だと指摘されてしまいました。
11代目団十郎さんの写真もあり、しばらく見て居て僕の写真も撮ってくれないかと言われました。
1週間後に写真を撮りに行ったら何のことでしょうかといわれてしまいましたが、説明したらそれから本格的に撮れる様になりました。
ファンのかたから猿之助さんにも紹介されて、撮影も始まりました。
二枚目でればあるほど欠点は撮ってはいけない、まずその人の欠点(小さな欠点ですが)を探します。
役者に全て写真を見せて、OKになったもののみ使えることになっています。

元々きまりきったところを撮るのが厭で、芝居の流れの中で決まりと決まりがあるが、その中間にも必ずいい場面があるはずだと思っていて、女形には興味がなく、立役には動きがありその動きの途中が好きで立役を専門に撮っていました。
或る時、玉三郎さんにあなたの写真には動きがあるのでとてもおもしろいと思いますと言われ、女形にも動きがあるのかと思うようになり、女形も積極的に撮影するようになりました。
52歳の時に重度の糖尿病になり闘病生活に入り、両足切断、視力も低下することになる。
最初眼に来て、暗い場面をみると見えなくて医者に行って治療をするように言われて、レーザー光線で焼いて血を止める治療をしましたが、血は止まったが暗めに見えるようになりました。
眼から足に来まして、治療してよくなって治ったと思ってしまって、治療に行かなくなり、悪化してきてしまって歩けなくなって寝て居るような状態になってしまいました。

足を両方とも切りますと言われて、足の先を切るのかなあと思っていたら、段々起きられるようになって見たら足がなくてこんなに切ったのかなあと思いました。
その時も写真を撮る事は諦めることはありませんでした、未来に対する希望であふれて居ました。
20年前に入院して、退院してから写真を撮って写真を見てみたら、いつも黄色い衣装でやっている者が紫色に見えて、写真仲間に聞いてみたら変えて居ない黄色だといわれてしまいました。
以前の写真も黄色ではなく紫に見えて居ました。
右目はほとんど見えなくて、左目を使ってその場をしのぎました。
2度目に心臓病で入院して手術した後は、まるっきり動体がうまく見えない。
一日目は撮れなくて段々撮れるようになってきて、どうやったらいい写真が撮れるか、それには使いやすいカメラを考えなくてはいけないと思ってミラーレスに行きつきました。

玉三郎さんとは40年近い付き合いになります。
役者全員の写真を撮れるようになって、玉三郎さんと知り合ったばっかりの時、何百枚持って行くが4~5枚しかOKにならなかった。
或る日、「あなたはいい写真を撮ろうと思って狙ってるでしょう、狙っているからいい写真が撮れない、自分の思う通りにシャッターを切ってご覧なさい、そうすればいい写真が撮れるようになると思う」と言われました。
どうしてもわからなくて、或る時玉三郎さんが斜め後ろを向いてそれを何気なく撮ってみたらその写真を大変気に入ってくれて、3階から撮ってみたらそれも気に入ってくれました。
玉三郎さんはどこからでも撮れるのかなあと思って、正面、横、1階、3階とかいろいろのところから撮ってみようと実行したら玉三郎さんのOKがたくさん貰えるるようになりました。

それから気持ちが楽になって、撮る場所だけ考えて後は何にも考えずに撮りまして、OKがどんどん出ました。
30年間ぐらいになりますが、玉三郎さんほど楽に取れる役者はいませんでした。
ほかの役者も数人いますが別の意味で玉三郎さんは楽でした。
玉三郎さんの写真集の三冊目を出そうと思って急いで準備をしています。
撮った回数だったら何百万枚と云うことに成りますが、いいと言ったら何百あるかどうか、数えたことはありません。
死ぬまで歌舞伎の写真は撮っていきたいと思っています。














































2017年6月6日火曜日

須藤宰(ビニール傘製造販売会社社長)・ものづくりフォーユー

須藤宰(ビニール傘製造販売会社社長)・ものづくりフォーユー
東京のビニール傘の製造販売会社の社長、須藤さん62歳。
高価なビニール傘を販売して好調な売り上げが続いているということです。
須藤さんの先代の社長が初めて商品化に成功して、当時は月給の1/3程したという値段ですが、1980年代以降、外国からの輸入品が急増して須藤さんの会社の売り上げも大きく落ち込みました。
しかし、或る注文がきっかけとなって新しいビニール傘の開発に成功し、その良さが口コミで広がって、高価なビニール傘という新しい市場を切り開いたそうです。
須藤さんの客の顔が見えるもの作り、そこから生まれたものは何だったのか、伺いました。

1本の販売価格が7000円、ワンコインの傘との違い、全ての部分で違います。
傘はカバー、骨、手元、という3つの部分からできていますが、カバーは透明ですが、濡れてもべたつきにくくて、マイナス20度まで無変化、穴があいていて逆止弁が付いていて、内側から風が抜けて外から雨が入らない穴があいていて、骨はグラスファイバーの太い物を使っていて風速20~30mぐらいまで耐えられます。
年間1万5000本部ぐらいしか作れないが、全部売り切れて、シーズンには2カ月待ちと云うような状態です。
初代は享保6年(1721年)吉宗の時代です。
初代武田長五郎はきざみ煙草の卸業で暖簾を出しました。
2~3代目がきざみ煙草を保管する油紙をつかってカッパを作って、参勤交代などに使われるトラベルレインコートみたいになって、それがきっかけで雨具の世界に入って来ました。

和傘から明治になって洋傘を作って、売ってという形になりました。
9代目(父)がシベリアに抑留されていて、昭和24年に帰って来て、4年間の出遅れがあり後発と言うことになってしまいました。
みなさんが考えて居ないものを作ろうと画期的な物を開発して、それが傘カバーです。
当時カバーの素材は綿で色落ちしやすい防水性がない、という欠点があった。
その上にビニールでできたカバーをかぶせて傘を濡らさないで、という発想だった。
凄く売れました。
コピー商品もできたり、ナイロン素材の合成繊維が開発されて、よく売れたのは3~4年でした。
ナイロンでは傘カバーはいらなくなってしまいました。
ビニールは絶対に漏れないと云うことで、骨に直接張ることを開発しました。
アメリカの軍人家族からテーブルクロスがもたらされ、日本でも売られるようになって、その素材に着目したのが先代とビニールとの出会いでした。

最初切断して、接着したがよくなくて、文献から高周波ウエルダー加工があることを知り、それを日本で部品集めで組み立てることから、ビニール傘の開発が始まり5年ぐらいかかりました。
作った方としては大満足でしたが、販売の方からは置いていただけませんでした。
縫製職人の手をつかって作るものではないので、業界を壊すものだという評価を貰ってしまいました。(既存の販売ルートが使えなかった。)
商品が店先に出るような努力をしました。
布の傘という既成概念は変えられなかった。
東京オリンピックが行われて、アメリカの傘屋のバイヤーが着目して、アメリカで売ろうと話を持ちかけて来ました。
出来るだけ量産するラインを作らなければと言う段階になりました。
4~5年で注文がぴたりと止まってしまいました。
アメリカの業者が台湾で作ってしまうという状況になりました。

国内販売をするしかないと云うことになり、国内販売に注力しました。
デザイン、色などが外国人とは微妙に違って居ました。
透明な傘はだれでも使える傘で、いくら作っても問題がない傘と言うことで、海外で作られるようになってしまいました。
海外で作られるものの7割が日本向けになりました。
生産は最初台湾でその後中国で作られるようになりました。
私は父の会社に入ることになりましたが、その時は半年ごとに売り上げは半分に成っていくような状態でした。
国内の同業他社が段々辞めて行きました。(最大で50社ありました)
なんとか辞めないで少しでもいいからということで作っていました。
お客様の要望の傘で転機を迎えることになります。
透明で大きくて壊れない傘を作ってほしいとのことでした。(選挙のときに使用)

交通事故加害者向けの傘の強靭な骨があり、それを使って1本作りました。
加害者は現場検証に付き合わされるが、その時に2重の事故を起こしてしまい、大きい黄色い色の目立つ物を作りました。(数十本レベル)
傘にはバランスが必要、安定して持ち続けられることが必要。
注文のレベルにとどまらず当時のノウハウを全部つぎ込みました。(3か月ちょっとかかる)
大変納得してもらいまして、口こみで増えて量産レベルになりました。
お客様の顔が見えるようなもの作りをして、お客様が喜んでくれたところでゴールだなとというふうに思うようなもの作りに徹すれば、必ずニーズはあるだろうと思っています。
要望があったものに対して我々なりの提案をする中に、商機が見えるのではないかと思います。
材料を扱っている人はこちらからの課題がないと情報、ノウハウをいかし切れないので、お願いするテーマをいかにお伝えするか、と言うことによって結果は全く変わってきてしまう。

公務の場、お寺の住職が読経する時、芸能人スポーツ選手の屋外の移動の時、16本の骨の傘等色々です。
お客様の要望を聞いて具体的なものに繋がっていきます。
新しい考え方でお客様から認められるようになった来たということでしょうか。
空から降って来るものに対して人間は無防備なので、唯一対応できるのが傘だと思っていて、人を守る道具として扱うのかどうか、行く道は随分変わってくると思います。
お客様の顔を見失わないようにして、もの作りをしていけばもっと役になるものを作れるものと思います。
ビニールの折りたたみは難しいのですが、ビニールの折りたたみ傘を今提案しようと考えています。

























2017年6月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・伊藤博文【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・伊藤博文【近代日本150年 明治の群像】
神田蘭(講談師)
伊藤博文は大日本帝国憲法を作り、初代内閣総理大臣になった。
一方色好みで巧みな世渡りで出世した軽佻浮薄な人物と云うような見方もある。
本郷:現場の人、仕事をしながら自分で自分を教育して 才覚を伸ばしていったというイメージです。
伊藤博文を見て居ると学歴はいらないのではないかと思ってしまう。
本当の意味で人間に必要なのは地頭の良さ、伊藤さんを見て居るとそう思います。
神田:私の知っている人で親が付けた名前で博文という人が2人います、やっぱり英雄なのかなあと思います。
光とともに深い闇も感じる人だと思います。

講談で伊藤博文を披露
近代日本の礎を作った偉い方。
44歳2カ月で初代総理大臣、その後5,7,10代と4度にわたって総理大臣を歴任
大日本帝国憲法の立案、国民を政治に参加させようとしたアジア初の立憲政治の生みの親でもある。
女子教育の重要性を説いて東京女学館を建てた。
円という貨幣制度を作った。
山口県の貧しい農民の子として生まれ、17歳のときに松下村塾入門、吉田松陰のもとで学ぶ、尊王攘夷運動に身をささげて居た時に藩の命令でイギリスに留学。
西洋文明を目の当たりにして大きな衝撃を受け、開国論者になる。
命を狙われるようになるが刺客から博文を救ったのが、お梅、後の梅子夫人でした。
英雄色を好むごとく、女遊びが激しくなる。
政ごとに関してはだれにも話さなかったが、梅子夫人だけには打ち明けて居たそうです。

梅子夫人の写真が残っているが綺麗、下関の芸者だった。
木戸孝允の奥さん松子 、(幾松) も芸者だった。(当時の元勲たちは芸者を妻にしている人は多い)
ランドセルの原形も考案した。
ふぐ食の解禁なども行った。
イギリスに留学することによって、もの凄く大きな衝撃を受けたと思う。
教育の重要性を感じて官僚育成のための帝国大学、東京大学、女子教育も大事だと言って
東京女学館を建てた。
津田塾大学を創設した津田梅子さんとも交流があった。

伊藤博文は若い頃、テロリストだった。(人殺しもやっている)
尊王 孝明天皇(明治天皇の父親)を攘夷させるということで、塙保己一の息子の塙次郎が先例を調べて居ると云うことで暗殺してしまったと云うことである。
桂小五郎が親分だったが、大久保利通がでかい人間だと云うことになると、桂さんから離れて大久保に近づいてゆく。
明治政府の第一人者としての地位を自ら切りひらいて行った。
現実主義者だったようである。
明治10年木戸が死亡、明治11年に大久保が暗殺されて、伊藤博文がトップの方に上がってきてしまう。
大久保よりは一段下のレベルではあったようだ。

大隈重信とはライバル関係。
明治14年の政変、大隈一派を排斥する。
ここから伊藤の天下となる。
全国の各藩の優秀な人物が官僚として力をふるっており、面白いと思う。(能力主義)
明治18年近代的な内閣制度が出来て、初代内閣総理大臣になる。(44歳2カ月)
海外の憲法を学んで、憲法を作る。
明治を作った人たちは武士で何かあったら腹を切る、失敗は死であると、命を惜しまず働く覚悟があったと思う。
明治22年2月11日に大日本帝国憲法を発布する。
評価は色々あるようだが、今の学会の評価としては民権を配慮していると思う。
天皇の権利には一定の歯止めがあって、国民の権利にも目配りがされていると、学会の主流派の考えではないかと思います。

政党政治に道を開いた。
立憲政友会を自ら立ち上げる。
民主主義の第一歩にも手を貸している。
伊藤は日露戦争に関しては消極的だったといわれる。
軍部の台頭には慎重だった。
韓国統監に就任して、任期が終わったとハルビンで安重根に暗殺された。
朝鮮半島に関して宥和的な姿勢を示していたが、テロリスト(韓国では義士と呼ばれるが)に暗殺されてしまう。
女性遍歴の事に関する本などもある。
女優第一号になった川上貞奴を芸者時代に水揚げしたのが、伊藤博文だった。
(内閣総理大臣の時)
岩倉具視の娘の戸田極子さん 鹿鳴館の美人として有名だったがこの人とも浮名を流した。
下田歌子さん 当時の女性教育の第一人者とも浮名を流す。

「近代政治家評伝」の著作者阿部 眞之助 NHKの第9代の会長(かつての政治記者)の伊藤博文評価。
理想がなくて無思想の権謀術数の政治家として終始生きてきた。
あらゆる職分において初物喰いだった。(内閣総理大臣、貴族院議長、枢密院議長の初代についている)
天皇家の権勢持続のためを考えて居て、民主化と云う事はあんまり考えて居なかったのではないかと評価している。
この評価は厳しすぎるのではないかと思うが。








































2017年6月4日日曜日

増山江威子(声優)        ・【時代を創った声】

増山江威子(声優)     ・【時代を創った声】
増山さんはルパン三世の峰不二子、キューティーハニーのキサラギハニー、天才バカボンのバカボンのママなどの役で知られています。
ルパン三世の峰不二子は35年にもわたって演じてこられました。
増山さんはそれぞれのキャラクターにイメージを損なわないように、との理由でTVへの出演はほとんどされてきませんでした。

ルパン三世の峯不二子は2代目。
オーディションを2本作って、1本はのざわなちさんがルパン、私が峰不二子、広川 太一郎さんのルパンでそれも私が峰不二子をやりました。
蓋を開けてみたら、峰不二子が二階堂有希子さんに成っていて、ルパンが山田康雄さんに成っていて、結局駄目だったんです。
パート1が終わって6年経っていて、新たにオーディションがあり峰不二子への思いが強かったのでオーディションを受けてて受かりました。
キサラギハニーはサイボーグだったので、人間の色っぽい女の人の役をやってみたかったので。
絵が主役なので、絵がないと色々役をやっているので混ざってしまいます。
アニメの魅了は自分の姿がでないので、どれだけわくわくドキドキして次の役を作るかということ、そういう楽しみはあります。

ルパンのメンバーはみんな大人なのであまり私語もないし、一緒にご飯を食べに行ったりとかはなくてみんなバラバラですが、目的が一緒だとパッとまとまると言う感じでした。
昼はみんなで頂いていましたが。
全員が舞台出身なんで、仕事に対する姿勢が違います。
私は4人姉妹の末っ子で小さい時は喋ることが不得手でした。
ゆっくりしか話せなくて、コンプレックスでした。
12歳のときに、話すことをちゃんと勉強しようと思って、劇団の試験を受けて「新児童劇団」にはいりました。
麻生美代子さんが先生でした。
父が観世流の謡いをやっていまして、水道橋の能楽堂に父が出たりしていました。
劇団では周りの人がフランクに接してくれたので、自然に直りました。
ラジオドラマから入りました。
当時は生放送をやっていたので度胸は付いたと思います。

新たに劇団を作ろうと云うことに成って出来たのが劇団「山王」なんです。
浅利慶太さんの奥さんに成られた影万里江さんと一緒に「山王」にいたんです。
劇団四季にスカウトされて、私と影万里江さんが四季に行きました。(四季が出来て1年目)
四季の芝居は早口で、翻訳ものだったのでそれに付いていけなくて、外国映画、アニメなどが出てきて、そういったものをやっているうちに、結婚したので両立するにはどちらがいいかということで、声に切り替えてしまいました。
(時間的な面でTV、舞台は無理だと思いました)
全部ちゃんとやりたいので、子供のお弁当などもずーっと作って来ました。
ルパンのメンバーはみんな舞台からきているので掘り下げ方が違います。

最初の主役はハニーだと思います。
私自身が天才バカボンの絵を見たときに絶対私にぴったりだと思いました。
4シリーズやりましたが、2回までは同じキャスティングでやりましたが、3,4シリーズは全取り換えだったんですが、赤塚富士夫さんがママだけは変えないでやってほしいと言って下さってずーっと出来ました。
役に恵まれ幸せです。
宇野誠一郎さんは役者に歌を歌わせるのが好きで、そのうちにテーマなどを歌えるようになりました。
歌の喜びは得をした気分でした。(私でいいのというような感じです。)

若い人にはなるべく本をたくさん読んで色んなキャラクターの勉強をするべきだと思います。
本を読む事が少ないですね。
何十年と生き残って行くためには、アニメの声だけやってればいいと云うものではないと思います。
歌ったり踊ったりする、そういう声優もいいとは思います。
なんにでも対応出来る準備は絶対しておいた方がいいと思います。
今のヒロインはどれを観ても同じ様な気がするので、どの人も同じ様な声に聞こえてしまう事があるかもしれない。
やはり絵があってのアニメーションなので絵に合わす事が私たちの仕事ですから。
今後は高齢者が勇気を持てるような番組を出来たら嬉しいと思います。
























2017年6月3日土曜日

菅原直樹(劇団「OiBokkeShi」主宰)・“いま”をともに楽しむ

菅原直樹(劇団「OiBokkeShi」主宰)  ・“いま”をともに楽しむ~演じて輝く いのちのひかり~
岡山県を拠点に認知症のお年寄りの介護をテーマにした演劇の公演やワークショップを行っています。
老人ホームで介護職人をしていた菅原さんが実践するのはボケを受け入れる演技です。
介護者が演技をすることで認知症の人と心を通わせることが出来ると云うのです。
地域の中で介護と演劇を組み合わせたユニークな活動を続ける菅原さんにだれもが避けて通れない老いとの向き合い方を伺います。

岡山県内で劇団をたちあげたのが3年前。
劇団「OiBokkeShi」 意味は「老いとぼけと死」です。
多くのお年寄りと接しているうちに老い、ボケ、死からえる大切な事があるのではないかと気づきました。
老人ホームで暮らしている人たちの姿を見ると僕の求めている演劇の姿に近いなあと思いました。
ドラマチックな事だけではなくしずかな淡々とした日常、人間の存在そのものに価値をみいだすような演劇でした。
地域で演劇でやろうと思ったときに、参加していただく方も地域の人たちに成りました。
岡田忠雄さん 劇団の看板役者で2人が出会ったのは3年前でした。
演劇ワークショップを体験した時に物凄く生き生きと演技をしていて参加者の全員が驚きました。
岡田さんは昔から芸事が好きで定年退職後、数々のオーディションを受けてきたとのことで、劇団「OiBokkeShi」の一員なってほしいと依頼しました。

最初に会ったときに僕の事を監督と呼んでくれまして、岡田さんは役割を求めて居るのではないか、自分が俳優という役割を全うするためには、僕が監督をやるという、よし監督を演じようと思いました。
人はそれぞれ役割を持って生きてきて、老人ホームに入る事によって段々役割を持つことができなくなってしまったんではないかと思いました。
人は最期まで何らかの役割を持ちたいのではないかなあと思います。
岡田さんは舞台の上で死ねれば本望だと言っていて、岡田さんが言うとリアルだし、重いんです。
どういった芝居を作るか考えて居なくて、岡田さんの話を聞いて、介護の話を聞いていて、最近妻が徘徊して困ったと言う話があって、徘徊をテーマに演劇を作ってみようと思いました。
徘徊を入り口に認知症の人が観て居る世界を想像することが出来るような芝居が出来たら面白いのではないかと思いました。

劇はこの街そのものが舞台です。
認知症の妻が徘徊していなくなってしまって、みんなで探すが意外な事実を知らされる。
おばあさんはすでに亡くなっていて、その悲しみからおじいさんが認知症に成ってしまったということです。
観客はおじいさんの妄想の世界に付き合わされていたことに気付く。
第一回公演から地域一体型にしました。
面白い融合が地域の中で生まれました。
地域の人たちの支えは重要になって来る、地域全体で見守るようにして、認知症のお年寄りは買い物したり散歩すたりすることができるかも知れない。
認知症に対して理解していないと、家に閉じ込めたり監視したりするようになってしまう。

岡田さんは90歳に近いので、迎えにいったり、いろいろフォローをしました。
或る意味デイサービスのような感じです。
原点となったのは、広島で一人暮らしだった祖母を栃木に呼び寄せたことでした。
ボケを受けいれた方がいいか、ただした方がいいのか悩みました。
認知症を感じ始めた最初の時期でした。
現実に戻ってきてほしいと云う風な関わりをしたが、祖母はキョトンとしていました。
高校入学したときに演劇部に入り、脚本、演出の勉強をしたいと思いました。
俳優の体験もして驚きでした、僕のような人間でも居場所、役割があるんだなと気付き、演劇は面白いと思いました。
その後東京の劇団でさまざま現代の問題を見つめる舞台に立ち続けました。
特別養護老人ホームでも働き始め、介護と演劇は相性がいいということに気付きました。
ボケは受け入れた方がいいんじゃないかと思うようになりました。
ボケを正していては介護する方もされる方も、幸せにならないのではないかと思いました。

認知症の人はすぐ忘れたり、論理的にはおかしなことをしますが、感情は残っています。
論理や理屈にこだわるのでなくて、感情に寄り添う関わり方をした方がいいんじゃないかと思いました。
人を思いやる気持はしっかりあって、しかしそれは中核症状によっておかしなアウトプットに成ってしまっているのかもしれない、介護者は行動にそのまま反応するのではなくてその奥にある気持ちを察する必要があるんじゃないかと思っています。
そうすることによって、認知症のその人の気持ちを受け取ることが出来るかも知れない。
介護現場で働くことによって認知症への考え方が変わりました、認知症の人は色々な事は出来なくなるかもしれないが、今この瞬間を楽しむことが出来ると云うことに気付いたからです。
演劇という表現形式の最大の特徴は、今この瞬間を楽しむ、だと思います。
今この瞬間を楽しんでくれたらすぐに忘れてくれてもいいや、というような感じになりました。

活動するときに必ず守っていること
①相手に寄り添うこと。
②自分の価値観を押し付けず、相手の気持ちを一番に尊重する事。
劇団を立ち上げる時に長兄が自ら命を絶つ。
兄は体が弱くて、職場でも人間関係がうまくいかなくて仕事を辞めてしまいました。(3年前)
相談にのったりしていたが、自分で死を選んでしまいました。
僕は演劇とか介護に出会ったのでたまたま運よく自立できたが、兄とは共通点が多くて根っこは似て居ると思いました。
兄に対してこちら側の価値観を押し付けてしまっていた事はあると思います。
ああした方がいい、こうした方がいいとか仕事を見つけたら楽になるとか、励ましてましたが、結局は兄の心には響いていなかったんだと思います。
こっちの価値観を押し付けると云うことは、人を動かさないんだなあと、当たり前のことを知ったという感じです。

劇団を立ち上げてつっぱしろうと言う気持ちがありましたが、その矢先に兄が亡くなったのでつっぱしらなくてもいいかなあ思いました。
岡田さんのペースに合わせながら芝居が出来たらいいなあと思いました。
目標をしっかり決めずに、いまこの瞬間を共に楽しみながら、演劇をゆるゆると出来たらなあと思いました。
人は段々老い衰えて行く存在で、出来なくなってゆくが、無理をして成長させるのか。
.お年寄りは今この瞬間が一番いい状態で明日は更に衰えて行く、今この瞬間を楽しまないで何時楽しむのか、そうするとお年寄りの認知症のボケも受け入れた方がいいんじゃないのかと思ったわけです。

岡田さんは90歳を超えて居てるのでいつ何が起こるか分からない、岡田さんと一緒に作っているとこれが遺作に成るのではないのかと思ってしまって、そうすると岡田さんが輝きだすんです。
稽古の一つ一つ、この瞬間をたのしむことが大切なんだなと実感します。
次回は看取り演劇ですかね、死と向き合うと云うことになりハードですが、必ずしなければいけないテーマだと思っています。





































2017年6月2日金曜日

髙橋幸枝(医療法人社団理事長・精神科医)・100歳の女医の“さじ加減”

髙橋幸枝(医療法人社団理事長・精神科医) ・100歳の女医の“さじ加減”
現在も病院を始めリハリビ、デイサービス、就労支援施設など医療法人理事長として現役で仕事をしています。
高橋さんは人生元気に生きてゆく為には心のさじ加減が大切とおっしゃいます。
100歳の人生の先輩として、精神科医として私たちの生きるヒントになる心のさじ加減を伺いました。

あと5カ月もすると101歳です。
昔は薬を乳鉢で磨って匙で分けて居ました。
「小さなことの積み重ね」出版。
生きて行くと云うことはさじ加減を見極めて行く営みに他ならない。
全部が全部人が違うので、その時によって考えて強く言ったり弱く言ったり優しく言ったり違います。
出身は新潟で、父は医者をしていました。
男の兄弟は大学に行って、私は女学校を出て、職業婦人憧れて居ました。
東京で、海軍省のタイピストとして勤務。
退職し、中国の青島に、その後中国北京にて、日本人牧師の元で秘書として働く。
中国なら青島はいいところだと言われ、ほんとうにいいところでした。
青島の教会に行っていたので牧師さんとして清水安三氏が講演に来られて、感激してお願いして、北京の清水先生のところに変わりました。
北京で清水先生は貧しい人のために学校とか慈善事業などをやっていました。
先生が医者にならないかと勧められ、受けてみようかと思って3~4カ月勉強しました。
戦争が終わって5~6年してインターンをして33歳で医者に成りました。
ここにきてから50年に成ります。

ずーっと内科、小児科をやっていましたが、段々患者の心の中の痛みが身体に潜航するんですね、それで精神科、心の病気に興味をもって勉強しました。
骨折を2回やっています。
初めては92歳の時に大腿骨骨折、歩けるまで1カ月ぐらいかかりました。
家では3階まであるので、頑張りました。
最初の一歩が怖かったです、なにをやるにも同じですが。
一往復100段です、それで筋トレに成ります。
趣味は水彩画で80歳から始めました。(それまでは忙しくてできなかった)
出来ないことをやってみようと思い、NHK通信教育に手紙を出して、描いて送ると添削してくれました。
何ヶ月か描いているうちに楽しくなってカルチャーセンターに行って、知り合いもできました。
山で花を見たり景色を見たりして、きれいだなあと思っても、描くとなるとよく見ないと描けないので観察が細かくなっていきました。
今まで見えなかった美しさが見えるようになります。

そういったことが診察にも応用できます。
100歳になるとなかなか長く描けないし、いい作品も描けません。
数独、数字のパズルは骨折した時に暇なので病院で始めて、それがきっかけです。
食生活はごく普通です、肉、魚、野菜も均等に食べます、サプリメントみたいなものは使用していません。
食べる量は少ないですが、お茶わんに軽くいっぱいぐらいです。
人間にはたんぱく質も炭水化物も必要です。
食欲がないと云う時には抜いてしまうこともあります、身体が要求するときに食べればいいと思っています。
料理は自分でやりますし、楽しいですよ。
新玉葱を電子レンジで5から6分してマヨネーズで食べるのが甘くてうまいです。
風呂は気を付けて入ります、転んだりしてけがをしたりするので気を付けて居ます。
風呂の温度は冬は43度、今は42度にしています。

6時ぐらいには朝起きて居ます。
起きたらすぐに着替えて、朝食の準備をして、新聞を下に取りに行って食べてそれが1時間半かかります。
病院での診察はしませんが、用事があったり会議があったりします。
2回目の骨折をした昨年の3月ごろまでは診察をしていました。
薬を出すのにパソコンを使わなくてはいけないので最小限パソコンはやります。
患者で一番多いのが不眠で、あらゆる病気に関わって来ます。
鬱にしても不眠で訴えて来ます。
患者にたいしてよーく聞きます。
私も身体を動かさないので不眠に成りますが、睡眠剤を飲んだりしています、我慢するよりも飲んだ方がいいと思います。(先生に相談して飲めばいいと思います)

精神科の病気では鬱状態に成りますから、それは鬱病ではないです。
人には悩みはなかなか言えない、人に言えるようになった時は楽になった時だと思います。
先生に会って楽になったとおっしゃる方が居て嬉しく思います。
薬の使用は自分で勝手にしないで先生に相談した方がいいと思います。
よくなったからと言って薬をぱっと止めてしまわないで、徐々に薬を減らしていくようにした方がいいと思います。
私は薬はたくさんは出しません、最小限にしています。
高齢化社会を迎えて、体力、心も弱くなるのであんまり頑張らなくてもいい、自分を甘やかすということもまずいと思います。
我慢しないで苦しかったら我慢しすぎなくて良いと思います。










































2017年6月1日木曜日

笠原博司(染織家)        ・里山の手仕事をつなぐ

笠原博司(染織家)  ・里山の手仕事をつなぐ
57歳、故郷宮城県加美町小野田地区に染めと織りの工房を開いておよそ30年に成ります。
東北有数のコメどころ、宮城県加美町小野田地区はかつて養蚕が盛んで自家用に着物が織られていました。
笠原さんは使われなくなった幡織機を譲り受けたことがきっかけで、織りの世界に出会います。
そして信州松本で植物を使った染めと織りの本格的な技術を学びました。
笠原さんは自ら作品を作る傍ら後進の育成にも取り組んでいます。
染色を始め、木工、陶芸など古くから里山で行われてきた手仕事を発表する場を作って
東北の工芸界に新しい風を吹き込んでいます。

植物染料はデリケートで定着するまで不安定な時間があります。
藍染めで使うので灰汁を大量に保管しています。
たまねぎの皮、栗のイガなどもあり染めの材料に成ります。
薪を燃やした灰を回収して灰汁を使って、使い終わった灰は陶芸家に差しあげて居ます。
紫草の根をつかった染め、薬用に使われていてそれを利用して染めでも使えないかと試験染色しています。
紫草が絶滅危惧種に成っていて貴重なものです。
聖徳太子の時代に一番官位の高い人が紫を着られて、それを紫染料として取ったのが紫根といわれています。

振袖も手掛けて居て、薄い紫で構成されています。
織りは2割程度の作業で残りの8割は糸を作ったり染めたり柄をこさえたりするために糸を並べたり、下ごしらえが非常に大事で前段階に時間がかかります。
骨董好きで、古い織り機を手に入れてそれを動かしてみようと思ったのがきっかけです。
この辺全体が養蚕が盛んで町中で養蚕する家が多かったです。
この地区では一部自家消費するために自分の家で糸をつむいで、織ると云うこともしていました。
織り機を動かすために、あるおばあさん(高嶋なつゑさん)がいるから聞いてみたらと言われて、好奇心から始まりました。(23歳の頃)
この地区では生糸をそのまま白い糸で織る方法でした。
自分でデザインしたいという衝動に駆られて、山形県の学校に通って基礎を勉強して、植物で染めた色を見て、植物染料の魅力を探ってみたいと思ったときに、絹工房を探していました。
見つからず絹をおいといてまず藍染めとかすりを先に習得しておきたいと思いました。
その後紹介されて、信州松本の本郷大二さんのもとに弟子入りすることに成ります。

松本自体が凄くいい町でこういう環境で仕事が出来たらいいなと思いました。
工房を案内してもらったが、私がやりたいことを全部やっていました。
絹織物、信州紬、植物染料、糸のより、藍染めもやっていて、絶対ここで仕事をしたいと思いました。
反物にして湯のしという最期の仕上げまでやっていました。
柳宗悦さんの民芸運動を起こした方が足跡を残されていて、松本、倉敷、沖縄、益子、盛岡など、松本は松本民芸家具の池田三四郎、漆の丸山太郎さんとかが居てその中の一人に本郷大二さんがいた訳です。
色々な先生とも出会えて凄く密着度が高かったです。
息子さんの本郷孝文さんは白馬にセカンドハウス(大きな古民家)を持っていて、一緒にかやの修理、雪下ろしなどもやりました。
工芸に関わると云うことは生活にかかわると云うことですから、本郷孝文さんから色々学びました。

自分なりのものを作り上げて行くと云うことで現在に至っています。
着物と言うと伝統とか過去のものみたいなアプローチの方もいますが、最終的にはファッションで、今の生活の中で衣料としての着物をきちんと着れないといけないという考えがあるので、晴れの場で着ることが多いから、そういった環境のなかでもマッチするデザイン、色とかが必要だと思いますので、そういったものを目指しています。
伝統と言うことだけではなく今なんですよ、と言うことを押さえておかないといけないと思っています。
地域の中だけでなしえるかと言うと今は無理に成ってきて居て、伝える相手がどれだけ共感してくれるのかいうことも含めて言えば、もっともっとその広がりはあってしかるべきであると思うので、この里山の環境で行われていましたと言う事がマインドとして伝えるのも一つの方法だと思っています。

織物、染物を勉強したいと言う人が遠くから来てくれていて、この織物が広がってそこで文化の花が開いてくれればいいと思っています。
終了するまで180色ぐらいの染色資料を作って、織りは織りの色んな技術を学んで自分の作品を作ります。
着物に仕立てて着用して、みなさんに観ていただきたいと思って、動いているところを見ていただいて卒業式と言うことに成ります。
糸から染められて織られた無地の着物は非常に深みがあります。
家内が工芸ギャラリーをやっていて、若い人の発表の場があったほうがいいと思いますが、難しいのでそのためのギャラリーが必要です。
北杜工芸展を立ち上げて、「新風展」で若い人を集めて発表しています。
求める人がさまざまなのでそういうものに対応できる技術がないとできないので、そういったものを含めて工芸だと思います。
生活のなかに溶け込んで使われてなんぼ、でいて美しい、存在感があってみたいな、工芸ってそういう部分だと思います。