2017年6月10日土曜日

金城馨(関西沖縄文庫主宰)     ・大阪の“リトル沖縄”からのメッセージ

金城馨(関西沖縄文庫主宰)・大阪の“リトル沖縄”からのメッセージ
大阪大正区はリトル沖縄とよばれていて、住民の4人の一人が沖縄にゆかりがあるといわれて居ます。
中心部の商店街には沖縄の物産を扱う店が多くあり、大阪府内だけでなく、遠方からも観光客が訪れています。
関西沖縄文庫は金城さんの自宅の中に設けられ、沖縄に関する書物を読んだり沖縄の文化に触れたり出来る場所です。
沖縄の歴史は常に差別とともにあったと話す金城さん、6/23の沖縄慰霊の日を前に、金城さんに差別や暴力をなくし、平和を築くために何が必要かを伺いました。

本以外のレコード、映像を含めて1万点になります。
1985年に作って、集まって支え合う空間を作って、誰にでもこられるようにしたらいいかと思って作りました。
大阪大正区はリトル沖縄とよばれていて、住民の4人の一人が沖縄にゆかりがあるといわれて居ます。
100年前に(1910年代)日本経済が活性化してゆく時期で、大阪に紡績工場がたくさんありました。
大正区には近代紡績の発祥の地として碑が建っていて、大きな紡績工場がありました。
沖縄の産業はサトウキビで、砂糖の暴落が世界中で起こった時に、本土に働き口を求めてきたことが1920年代にありました。
大阪、沖縄航路が発達していて移動しやすかった。

求人の張り紙があったが朝鮮人、琉球人はお断りと書かれていたり、賃金が日本人よりも安いとか、結婚のことも言われるし、アパートを借りる時なども差別されていた。
住環境に適していない場所で(低い土地とか水害の発生しやすいところ)住んで居ました。
そういった時にみんなで支え合おうと云うことで、大正区の一角で沖縄人の集落が形成されてゆきました。
琉球人は日本社会の中における初期の外国人と言うことになると思います。
1879年、明治政府が併合して、日本人とは違うと云うことで、差別していった。
1990年代の人の結婚差別の話は聞きましたし、就職差別の話も聞きました。
判らないように、名前を変えたり、沖縄語を喋らなくなったりして行きました。
自由でありたいと言う人間の本質を否定される。

沖縄市生まれ、1歳のときに両親と一緒に兵庫県の尼崎市に住む。
小学校5年のクラス替えの時に、沖縄出身の金城ですと云ったときに周りがざわめきました。
それまでは何も感じなかったがそこで初めて日本人とは違うと言われました。
沖縄であることを出せなくなりました。
三線(サンシン)と言う楽器があり、泡盛があり、歌って踊っている。
食べ物もヘチマ、ゴーヤを食べて居て、そこの集落の半数以上がブタを飼って生計を立てて居る。
そういったことで違っていることがわかって行って、それが差別につながる物であると思いました。
日本人と同じでありたいと思いました。(日本人になると言うもがき)

高校で差別問題研究会を立ち上げる。
部落差別があって、差別問題研究会という形で継続的に日常的にやる組織を作ろうと云うことに成りました。
沖縄を否定する生き方は沖縄人を馬鹿にしている、もっと見えないようにする、沖縄を差別する側に成っている自分の差別性を蓋をする方法は、他に差別があって(朝鮮人、部落)そういうことに向き合ってると云うことで自分を差別をしていることをおそらく隠せる訳です。(沖縄は取り上げない)
在日朝鮮人の高校生と話す機会があり、あなたは沖縄のことをちゃんとしろと言われました。(一番逃げて居たこと)
自分の中の沖縄を出そうと思ったが、沖縄を否定してきているので、自分の中に沖縄が空っぽになっているということを実感せざるを得なかった。

在日朝鮮人では全校集会で本名を名乗り始めると云うことから始めるが、彼は沈黙をしながら涙を堪えるシーンになる訳ですがそれでも本名を名乗らなかった。
名前を名乗ると云うことは、正しい行為だが、それを押し付けて行く形で暴力として機能してしまった。
彼の沈黙によって、正しさの中に暴力があるんだと云うことを、教わりました。
いい大学に入れば、沖縄人である差別は受けないであろうと思いこんでいて、いい大学に入りたいと思いましたが、受験におちてしまい、自分探しに日本を旅することになりまし
た。
青森の下北半島にいって、猿の話を聞いていましたら、突然私たちはアイヌの子孫だという話になりました。
内容を聞いていると、坂上田村麻呂という東北を制圧をしている人がいるが、アイヌの人に女性を出せと要求して、リーダーの娘が誰が行っても不幸なので自ら行きますと言って行きます。
その娘は身ごもり、リーダーのその娘は身投げをしたと、伝説の話をしました。(1000年前のこと)
1000年たってもアイヌだと言っている訳です。

アイヌ民族と言う誇りを持っている人で、沖縄人て何なのかということを突き付けられる出会いでした。
それから思考が方向転換しました。
突然沖縄に行きたくなって翌年沖縄に行きました。
抱いていた沖縄とは現実は違っていて離島に行きたくなって、宮古島、竹富島に行ったときに原風景みたいなものを感じました。
他人であろうと言葉は出さないが、にこっと笑って擦れ違う、無視しないで他人を受け入れる。
自分が探しているものにたどり着いたような感じがしました。
公設市場のおばさんに沖縄人に見えるか、日本人に見えるか聞いて回りました。
自分自身の沖縄というのは何なのかを他人との関係で最期の整理をすることだったが結論的に言うと半々だった。

他人のまなざしはいい加減だと思って、自分自身の問題だと思いました。(周りに意識しすぎて居たことに気付いた  20歳の時)
沖縄から多くの若者が集団就職してきて、青年たちが組織化してきます。
青年のお祭りでエイサーを踊ることになり、そこで初めてエイサーに出会います。
エイサーは先祖供養の盆踊りです。
私としては異質な文化ですが、本人たちは生き生きしている訳です。
そこには土着性の凄さがあり、でも拒絶がどこかに残され居ました。
エイサーをやりながら5~6年たってから、やっている自分が野蛮だと思った時に初めて身体が喜んでいる感覚になりました。

差別を受けてもちゃんと誇りを持っていたら、跳ね返すことはできると思います。
1975年に始めたエイサー祭り、1985年には関西沖縄文庫を作りました。
若者の中で孤立して行って孤立して行く過程で、結果的に仕事が無くなって犯罪をする形であらわれてくる場合があって、皆で支援しようということになり、やっていく過程で拘置所で自殺するという事件がありました。
他にも自ら死を選んでいった仲間が結構いました。
オープンスペースの場を作ることによって、悩みを抱える人が安心できる場所にしたかった。
地域の先輩の人たちがひょこっと顔を出してくれる場所だったらいいと思って、その人たちから色々聞くことは大事だと思います。

①沖縄戦、②沖縄の先人たちの大阪での足跡、②基地問題、取り組みをしています。
沖縄は本土を守るための防波堤にするということでしか無かった、と言っている。
子供も兵士にされて、多くの命が奪われてゆく。
戦争が終わって、沖縄人は収容所に入れられる、住んでいるところを潰して基地にされていかれる。
本土復帰を果たした後も、日本にある米軍専用基地の約7割が沖縄にある。
米兵による殺人、強姦など多くの事件があるが、地位協定のもとにアメリカ軍人は守られている。
沖縄に基地を押し付けることによって得る平和、そんなに問題だと思わなってゆく、いつの間にか結果的にやっていると云う場合がある。
基地が必要だと云うことなら県外にと云うような議論が必要だと思います。