2017年6月7日水曜日

福田尚武(舞台写真家)      ・“心の眼”で撮る歌舞伎役者

福田尚武(舞台写真家)      ・“心の眼”で撮る歌舞伎役者
1944年(昭和19年)山梨県生まれ。
映画とカメラ遊びの好きな少年時代を過ごし、小学5年生の時に上京。
高校大学時代は芝居に興味を持ち民間の同好の人たちで作る歌舞伎研究会に入りました。
歌舞伎座に出入りしながら写真を撮り始めて居ましたが、17代目中村勘三郎の写真を撮ったことが縁で本格的に舞台写真を撮るようになったとのことです。
15年ほどで歌舞伎役者全員のプロマイド写真を撮るようになりましたが、52歳の時に重い糖尿病が原因で視力の著しい低下と両足切断という事態に見舞われました。
その後、心臓病も患い義足と車椅子の生活を送っていますが、ハンディーを克服して、現在も歌舞伎の舞台写真を撮り続けて居ます
これまでに坂東玉三郎の舞台写真集を2冊出しているほか、2年前には自分が住んでいる東京豊島区で歌舞伎写真展を開いています。

今、ひと月に1劇場に行って1週間から10日ぐらいかかってしまいます。
11時から仕事を始めて9時から9時半ぐらいまでかかります。
間に休憩が15分~30分ぐらいなので、体力勝負です。
歌舞伎座が新しくなって、撮りやすくなったところと撮りにくくなったところとがあります。(いけなくなってしまった場所もあります)
車いすだと色々支障があります。
一時期、失明寸前まで行きました。
カメラも色々変えながら今日に至りました。
ミラーレスのカメラを使っていてモニターを見ながら撮影が出来るので、普通の一眼レフのようにファインダーから見ることがないので比較的楽です。

山梨県切石で生まれ、引っ越してきて豊富村で5年生まで育ちました。
母親始め兄弟が豊富村に住んでいて、父親は東京にいて、東京に遊び行くとボックスカメラがあり遊んでいました。
カメラ屋からカメラを借りて撮るようになりました。
犬を撮った時に写真募集があり送ったら入選してしまいました。(アルバムを貰いました)
映画も大好きで、毎週見て居ました。
高校の時に写真部に入ろうと友達に誘われて、写真部に入りました。
チャンバラ映画が好きで、舞踊会を見に行って舞台の写真を撮るきっかけになりました。
歌舞伎研究会がありそれに入りました。
その会長と話をして、いきなり歌舞伎の舞台を撮れるようになってしまって、竹之丞、猿之助、由次郎さん等の写真を撮ることになりました。

その後歌舞伎研究会に行ったときに17代目中村勘三郎さんの来られる日で、今まで撮った写真をスクラップブックにしていましたが、その中に勘三郎さんの写真もあって、勘三郎さんのものを見せて手の口元への位置について離れて居るのだがどうしてかと質問したら、それはシャッターチャンスの問題だと指摘されてしまいました。
11代目団十郎さんの写真もあり、しばらく見て居て僕の写真も撮ってくれないかと言われました。
1週間後に写真を撮りに行ったら何のことでしょうかといわれてしまいましたが、説明したらそれから本格的に撮れる様になりました。
ファンのかたから猿之助さんにも紹介されて、撮影も始まりました。
二枚目であればあるほど欠点は撮ってはいけない、まずその人の欠点(小さな欠点ですが)を探します。
役者に全て写真を見せて、OKになったもののみ使えることになっています。

元々きまりきったところを撮るのが厭で、芝居の流れの中で決まりと決まりがあるが、その中間にも必ずいい場面があるはずだと思っていて、女形には興味がなく、立役には動きがありその動きの途中が好きで立役を専門に撮っていました。
或る時、玉三郎さんにあなたの写真には動きがあるのでとてもおもしろいと思いますと言われ、女形にも動きがあるのかと思うようになり、女形も積極的に撮影するようになりました。
52歳の時に重度の糖尿病になり闘病生活に入り、両足切断、視力も低下することになる。
最初眼に来て、暗い場面をみると見えなくて医者に行って治療をするように言われて、レーザー光線で焼いて血を止める治療をしましたが、血は止まったが暗めに見えるようになりました。
眼から足に来まして、治療してよくなって治ったと思ってしまって、治療に行かなくなり、悪化してきてしまって歩けなくなって寝て居るような状態になってしまいました。

足を両方とも切りますと言われて、足の先を切るのかなあと思っていたら、段々起きられるようになって見たら足がなくてこんなに切ったのかなあと思いました。
その時も写真を撮る事は諦めることはありませんでした、未来に対する希望であふれて居ました。
20年前に入院して、退院してから写真を撮って写真を見てみたら、いつも黄色い衣装でやっている者が紫色に見えて、写真仲間に聞いてみたら変えて居ない黄色だといわれてしまいました。
以前の写真も黄色ではなく紫に見えて居ました。
右目はほとんど見えなくて、左目を使ってその場をしのぎました。
2度目に心臓病で入院して手術した後は、まるっきり動体がうまく見えない。
一日目は撮れなくて段々撮れるようになってきて、どうやったらいい写真が撮れるか、それには使いやすいカメラを考えなくてはいけないと思ってミラーレスに行きつきました。

玉三郎さんとは40年近い付き合いになります。
役者全員の写真を撮れるようになって、玉三郎さんと知り合ったばっかりの時、何百枚持って行くが4~5枚しかOKにならなかった。
或る日、「あなたはいい写真を撮ろうと思って狙ってるでしょう、狙っているからいい写真が撮れない、自分の思う通りにシャッターを切ってご覧なさい、そうすればいい写真が撮れるようになると思う」と言われました。
どうしてもわからなくて、或る時玉三郎さんが斜め後ろを向いてそれを何気なく撮ってみたらその写真を大変気に入ってくれて、3階から撮ってみたらそれも気に入ってくれました。
玉三郎さんはどこからでも撮れるのかなあと思って、正面、横、1階、3階とかいろいろのところから撮ってみようと実行したら玉三郎さんのOKがたくさん貰えるるようになりました。

それから気持ちが楽になって、撮る場所だけ考えて後は何にも考えずに撮りまして、OKがどんどん出ました。
30年間ぐらいになりますが、玉三郎さんほど楽に取れる役者はいませんでした。
ほかの役者も数人いますが別の意味で玉三郎さんは楽でした。
玉三郎さんの写真集の三冊目を出そうと思って急いで準備をしています。
撮った回数だったら何百万枚と云うことに成りますが、いいと言ったら何百あるかどうか、数えたことはありません。
死ぬまで歌舞伎の写真は撮っていきたいと思っています。