2017年9月30日土曜日

風吹ジュン(女優)           ・いま故郷を想う

風吹ジュン(女優)        ・いま故郷を想う
1952年富山県富山市生まれ、高岡市から京都にうつり、その後東京でモデルとしてスカウトされ、TVドラマで女優でビュー、TV、映画、舞台、CM等に幅広く活躍しています。
又来年4月からスタートする連続TV小説「半分、青い」では出演のほか、ナレーションを担当するなど活躍の場を広げています。

学校からの帰りが楽しみで、友達の家に寄ってから良く帰りました。
色々な職人の町なので仕事を見ているだけで楽しかったです。
はいはいして隣の家に行ったりしていたと言われました。
両親の離婚で兄が全部アルバムを川にすててしまって、私は手元に写真はなかったんです。
60歳のときに同窓会に呼んでもらったときに、写真を添えて頂きました。
縦割り教室(年上のお兄さん、お姉さんが遊んでくれる)で塗り絵、着せ替え人形などをしましたが皆手作りでした。
社会科の先生が戦争の話ばっかりしていました。(平和教育に繋がっているのではないかと思います)
小学校の時は、みんなとはちょっと外れていて、のんびりしていて積極的ではなかった。

中学は志貴野中学、高陵中学、3年からは京都に行きました。
自分のクラスに落ち着いていませんでした。
授業の終わりに毎日10問位のペーパーテストをやる時期があり、〇、線ひいて「失礼します」と出てゆきましたが、付いたあだ名が「ゼロ戦」でした」。
学校の帰りは高岡の大仏に潜って、地獄絵がありキャーといいながら楽しかったです。
54歳のときに柴田理恵さんと富山でのドラマに出て、「帰ろうよ」と言って下さって、富山に戻って来ました。
生まれたところの八尾に50年ぶりに行きました。
真っ暗な中におわら風の盆の先頭にいきなり立たされて、稽古をしていないのに立たされて踊りました。(50年前の話)
両親の離婚もあり、反抗する相手がないので反抗期のない時期を過ごしました。
京都に移ってからは一人で頑張らなくてはいけないと思いました。
富山の海の色、川の色が夢の中に蘇りました。

父の写真も頂いて、3人で立山に昇っている写真の事を思い出して、立山にいってみたいと思っていました。
少人数の同級生で立山に登りました。
心の山を登ったと言うか、人生での目標でもあったので、登れたことがうれしかったです。
立山に登る人は中高年の人が多いですね。
海外にも旅行によくいきまして、チベットのラサへいって、水牛に乗れることもできました。
Wi-Fiが繋がるので海外、スペインでも友達と車で旅をしたりしています。
2月に長女が長女を産んで、長男が去年産んで、孫が2人出来て、可愛いです。
母親としては子を守らなければと言うことで、口うるさくなってきます。
女性ホルモンの問題でそうなって行くようです。
私は自分の子供で鍛えられたと思います、たくましくもなります。
孫はただ可愛いです。

丈夫でいるためには疲れない身体にしてます。
疲れないための休み方、ちゃんと寝る、ちゃんと食べる。
肉などタンパク質をちゃんと取って下さい。
酵素も大事で酵素は生のものが多いので、キュウリに味噌を載せるだけでもいいですね。
人に色々出会いますが、虫が好かない人がときどきいます、苦手のタイプもいます。
「有難う」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」の4つがあります。
人間は争ってここまで繋がってきています。
戦争もありますが、何処かで人を恨んだり、人に傷付けられたり、痛い思いをされたりして、そのDNAがあり、それがあるから好きになれない人が出てきてもしょうがないと言う話で、心のなかで4つの事を唱えなさいと、そうすると口角が緩む様な笑顔に気持ちが成るのではないですか。
自分をおさえるためにも、4つの言葉を心の中でとなえることで、笑顔になれると思います。


































2017年9月28日木曜日

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】(H29/8/19 OA)

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭(H29/8/19 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_19.htmlをご覧ください

2017年9月27日水曜日

飯守泰次郎(指揮者・オペラ芸術監督)  ・オペラこそ私の人生

飯守泰次郎(指揮者・新国立劇場オペラ芸術監督)・オペラこそ私の人生
東京の渋谷に日本初のオペラハウス、新国立劇場がオープンしてから、来月10月でちょうど20年になります。
ヨーロッパのオペラハウスはその街の顔とも言うべきもので、日本でもその建設が期待されていました。
現在この劇場のオペラ芸術監督として活躍しているのが、指揮者の飯守さんです。
飯守さんは昭和15年旧満州生まれで今年77歳、幼いころから芸術に親しみ、桐朋学園大学では伝説の指揮者斎藤秀雄に師事しました。
その後海外の指揮者コンクールに優勝したことから指揮者の道に進むようになります。
大作曲家ワーグナーの生地バイロイト音楽祭では音楽助手を10年務め、ワーグナー指揮者としての名を高めました。
新国立劇場は2014年に第6代の芸術監督に就任し、10月からのシーズンは任期4年目の締めくくりの年を迎えることになりました。

オペラ芸術監督として4年目の任期の最後の年にもなりますし、『ニーベルングの指環』の4部作の締めくくりでもある訳です。
5時間以上かかる巨大な作品に取り組むのは無謀だろうと言う人もいますが、老人パワーで乗り切るほかないですね。
「神々の黄昏」で始まります。
10演目用意します、ワーグナーの神々の黄昏、ベートーベンの『フィデリオ』、細川俊夫さんの「松風」の3本は新製作です。
細川俊夫さんの松風は能の「松風」がベースになっています。
バレエが多く登場します。
オペラ芸術監督は2014年に就任しました。
オペラは人間の生きざまそのものです。
舞台や客席の熱狂なしには素晴らしい公演は成立しませんので、どうしたら舞台と客席の温度を上げるか考えています。
演出は作品の普遍的な内容と一致し、音楽と一体化してお客さんに感動をもたらすことが重要だと考えています。

最近はヨーロッパでは余りに斬新で音楽とかい離してしまっている芸術がもてはやされる。
オペラはもっと生な、単純なもので、喜怒哀楽が出てくる。
私は作品の本質に沿った演出を選ぶように心がけて来ました。
バレエにの芸術監督が大原永子さん、演劇の芸術監督が宮田 慶子さん、オペラが私が担当します。
部門が違ってもバレエ、演劇の公演にも足を運びますし、2人もオペラに来ていただいています。

昭和15年旧満州生まれ、父は裁判官。
父がクラシック好きで、静かにピアノを弾いていました。(独学)
それが凄く印象に残っていました。
母がたの祖母が日本舞踊の林流の家元で、子供の時から国立劇場の華やかな楽屋にいっていました。
3歳からピアノやバイオリンを習い始めて、ピアノはこうやまいくのしん?先生、暗譜を直ぐにして楽譜なしで弾けましたが先生は楽譜から目を離さないで弾けと言われて、そのお陰で楽譜を読む力が付いたと言うことが後で気が付きました。
高校入学をどうしようと考えたが、競争は避けられないなら音楽の道にと思って、桐朋学園ピアノ科に入学しました。
斎藤秀雄先生の指導させてもらう。
一番叩きこまれたのは、音楽は意志である、技術である、指揮者はどう演奏したいか確固たる意志を持ち、それをオーケストラの楽員にはっきり技術的に伝える、技術とは具体性、具体性が伴わなければ良い演奏が出来たとおもっても出来て居ないと言うことが先生の信条でした。
具体的な指示を出すように徹底的にしごかれました。(あんな厳しい先生は今はいないです)

藤原歌劇団でピアニストをやったきっかけで、藤原 義江さんに認められまして、オペラの指揮者としてデビューしました。
労音の公演で椿姫を51回演奏出来て、全国を回って指揮者として大事なのはオペラであると言うことにはっきり気がつきました。
最初はヨーロッパにはいかずにニューヨークに留学しました。
1966年ミトロプーロス国際指揮者コンクールに出て4位に入賞しました。
評価されてバイロイト国際音楽祭のマスタークラスに誘われてドイツに行くことになります。
バイロイト国際音楽祭はワーグナーが作ったもので、一族に受け継がれて1960年代は孫のビーラント・ワーグナーが演出などをやりました。
バイロイトで得たものは無限です。
アシスタントとして歌が出来、ピアノが弾けて、棒が振れてと言うことが完全にできなければいけない。
アシスタントの仕事を20年間しました。(ワーグナー漬け)

ワーグナーの魅力とともに毒ともいえる魅力です。
ワーグナーは作曲あであるだけでなく、台本を自分で書いていて、そういう作曲家はいません。
音響で、自分専用の劇場まで建ててしまった。
ワーグナーに心酔する人達と反ワーグナー派が常に存在していましたが、今でもそうです。
*『ワルキューレの騎行』 舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の2作目に当たる。

10月1日からはじまるが、世界的なヘルデンテノール、ステファン・グールドが『指環』4作品すべてに出演する。
『フィデリオ』 ベートーベンの唯一のオペラ。 これも指揮します。(来年5月)
ワーグナーの曾孫 カタリーナ・ワーグナー(39歳)に今回の『フィデリオ』をお願いしました。
新鮮な舞台演出を期待しています。
オペラは芸術であれ、犯罪であれ、愛の問題であれ、自分ではできないようなことがステージでは芸術の名のもとになんでも実行できる、これが醍醐味だと思います。
2014年にドイツの宝ともいえるハリー・クプファーが演出をしてくれて、宗教的な難解な作品が日本の聴衆に熱狂的な反応で受け入れられたと言うことに励まされました。
もっともっと日常にオペラを浸透させてゆくように、更に力を尽くそうと心に誓いました。









































2017年9月26日火曜日

新津春子(空港ビル清掃人)         ・掃除はやさしさ

新津春子(空港ビル清掃人)       ・掃除はやさしさ
9月24日は清掃の日、24日から来月1日までの1週間は環境衛生週間です。
羽田空港は世界最大の航空業界格付け会社から、2013年、14年、16年、17年と4回も世界で最も清潔な空港に選ばれました。
その立役者が空港ビルを清掃する新津さん47歳です。
新津さんは中国残留孤児の二世でさまざまな苦労を乗り越えて、今や掃除のプロフェッショナルとして日々の清掃の仕事はもちろん、後進の指導、セミナーや講演の講師にと忙しい毎日を送っています。
清掃の極意とは何なのか伺いました。

一日約22万人が利用しています。
お客様最優先なので、それをみなさんそれぞれ工夫してやっています。
2013年、14年、16年、17年と4回も世界で最も清潔な空港に選ばれました。
みんなの力がないと難しいです。
清掃する人は在籍で700人です。
19社の責任者がいて、常に無線とか電話でやり取りしています。
おじいさんが軍人で中国で戦争していて、引き揚げたときに父が中国に残されて残留孤児になり、母は中国の人です。
中国 瀋陽で生まれまして、17年間そこで住みました。
日本人と判った時にはいじめられました。
今思えば耐えてきたことが今日あると思います。
17歳で日本に来ました、飛行機見るのも乗るのもはじめてでした。
見るもの聞くものすべてが新鮮で衝撃でした。

ホテル住まいで直ぐにお金が無くなり、一日三食パンの耳を食べたこともありました。
学校には1年後から行きましたが、言葉が通じないところと、クラスの人たちが輪を作っていて輪の中に入れなかった。
いない間に椅子に画鋲を置かれたときもありましたが、中国と一緒だと思いました。
解決できないことなので、しょうがないと思いました。
学校へ行く前、後、休みの日、夏休み、冬休み、365日毎日アルバイトをしていました。
トイレ、床掃除の仕事、ウエートレスの仕事でした。
社長が雇ってくれて感謝しました。
きつい、汚い、危険(3K)仕事といわれるが、そんなことを云っていられる場合では無かったです、生きてゆくのに必死でした。
この会社は23年目になります。
鈴木常務が亡くなって5年になります。
鈴木さんはアピールが下手、喋るのも苦手な人ですが、清掃の事になると口が止まらない人で、清掃の事をなんでもおしえてくれました。

聞くと色んな資料を一杯くれます。
手書きで、人の付き合いがとんでもないほど広い人で、清掃の神様と言われていました。
ビルクリーニング技能士の免許を持って5年の経験がある人のコンテストがあり、1人20平米でワックス塗りする作業で、予選大会では1位を狙っていましたが2位でした。
鈴木常務に問いかけたら、あなたには相手に対する優しさがないでしょうと言われて、そういうことは考えていませんでした。(技能には自信があった)
どう優しさを出すのか分からなかった。
机、椅子はだれが作ったのか、作った人間があなたの事を見たときにどうみているのかと言われて、物でもそこまで考えることが必要なんだと判りました。
(当時はなかなか考えられませんでした)
いまやっていることはすべて鈴木さんが言ったことを守っているだけです。
先々を考えること、皆が気付く前にやっていけばハッピーです。
自分も楽しくなります。

その後全国大会があり、そこでは1位に成りました。
常務がやっていたことを引き継いで、今は部長がやっています。
日本一のハウスクリーニング会社を作りたいです。
親会社の社長に話したら良い事じゃないですか、やってください、との一言でした。
今の私は必要とされていて、来たときとは違うんだと思いました。
メーカーさんが洗剤と清掃道具を毎年新しいものを出してきますので、いいか悪いかテストしないといけないので、その時代に合ったものを使わないとだめだと思います。
清掃道具は自分で作ってしまうものもあります。
皆が意見を出し合って作っています。
臭いは隅っこ、空気の流れにくいところなどから出て来ますので、健康には良くないので健康の為に清掃します。

家では主人がよくやってくれていて、洗濯も99%、食事も主人がやっています。
中国、台湾にも今年行って、講演をやったりしているので、主人がやる様に成ってくれました。
家庭などでは1時間ときめて掃除をする、一番汚れがひどいところだけを拭いて掃除をし、その時にそばにタオルがないとだめです。
平均でみて、汚れが一番ひどい所を掃除する。
若い人に教えるのに、教えることをマニュアル化しないのが大事で、その人が得意なところを先に教える、嫌いなものはなかなか覚えられないので。
自分が体験したこと、苦労したことを伝えたいと思っています、そうすれば越えて行くと思います。
プロは毎日の積み重ね、人との出会い、こつこつやり続けること、それが結果的にプロに繋がると思いますが、プロになったからと言ってずーっとプロではなくて、プロになった時がスタートだと思います。
空港が自分の我が家だと思っています、そうするとどこでも普通にできちゃいます。
やる仕事は尽きることはない、それは楽しいこと、やりがいのある仕事です。





































2017年9月25日月曜日

橋本淳(作詞家)             ・【謎解き うたことば】

橋本淳(作詞家)       ・【謎解き うたことば】
*「ブルーシャトー」の作詞家  1967年
すぎやまこういち(椙山 浩一)先生がアメリカのヒット曲を番組で見て、ビートルズが出てきたと言うことで
椙山先生が痛く感動して、「ヒットパレード」ではアメリカのポップスをやめて、ロックをやると言うことで、井上忠夫さんと呼ばれて曲を作れと言うことだったが、作れないと言ったが、作らざるを得なくなって、世の中に出るまで2年ぐらいかかりました。
大学3年生の時に就職試験を受けることになり、シェル石油、日本航空を受けることになり、2次試験の時間にいってしまったり、メガネはダメだからとか言われて、そんなことまでして入りたくなかった。
困っていたら、友人の関係で椙山先生の御自宅に伺いましたら、譜面を渡されてこれに歌詞を付けてくるように言われて、できないと言ったが、何とか作って届けておきました。
そうしたら電話がかかってきて、採用ということだった。

最初は運転手、椙山先生のもとにいて(「大人の漫画」、「ヒットパレード」などを手がけていた)段々この世界にはいってしまいました。
歌を作ることを目的にしていなかったので、何とか逃げたいと思っていた。
小説などを書きたかったが、父親(与田凖一)から才能がないと言われてしまった。
ずるずると椙山先生のところにくっついてゆくことになった。
椙山先生からキングレコードで社員を募集しているから受けてみるように言われた。
自分の曲がレコーディングされないのはなぜかと調べてこいと言うことだった。
光文社の上にキングレコードがあったが、面接みたいになって、採用されることになる。
専属制と言う時代なのでフリーの人(椙山先生)のレコーディングはできないと言われた。
遅刻をしたり、椙山先生に呼ばれて早退したりして、一曲ぐらい仕事を取ってこいと言われて、童謡、民芸を出しているセクションは専属制ではなくて、ジェームス・ボンドの映画が大ヒットした時で「ボンド小歌」を作ることになり、作詞を担当した。
退職したいと言ったら、させてくれなくて、講談社の重役の処にいって家族で頭を下げました。

椙山先生は自分の曲をレコードにしたいと思っていて、森山加代子さんのB面だったらいいと言う話もあった。
大阪のライブハウスに観に行ったりして沢田研二さんが印象に残っていたりしていた。
「ヒットパレード」に「ザ・タイガース」を出そうと言うことになって、渡辺プロが決めたと思うんです。(「僕のマリー」と言う歌でデビューする)
その頃、僕はブルーコメッツ、ビレッジシンガーズとかいくつかやっていて、最初何が何だか判らないような状況でやっていました。
専属の時代だから、なんか判らないうちに出すと、売れてしまうような状況でした。
判らないというのは、歌を作るという行為が判らない、日本に歌謡曲があることを知らなかった。
クラシックが好きで、現代音楽とは縁遠く、歌詞が付く歌が日本にあるのかと思っていた。

「青い瞳」という言葉が新聞に載っていて、それで「青い瞳」と言うタイトルを付けて作詞しました。
「ブルーシャトー」 ピカソが青の時代とかあり、判らないから練習の時代は全部青の時代にしようと思った
「青い瞳」、「青い渚」、「ブルーシャトー」と成って行くんです。
弟が大学には行かずに、ロシア、スウエーデンにいってしまって、母親から見てきてくれと言われて、ストックホルムにいって、朝方に着いたが湖が物凄く綺麗だった。
弟とドライブした時に、これはシャトーだねと言うことになり、「ブルーシャトー」と言うタイトルを付けました。
椙山先生の所に居て、無職で結婚してしまい、妻のピアノでの収入しかなかった。
「青い瞳」が売れて、著作権協会から5万円ぐらい印税が送られてきた。
それでお金になるのだと思って、次に50万円になり、「青い渚」とか3回目で500万円になり、「ザ・タイガーズ」がやるようになってから初めて意識して歌を作る事を考えるようになりました。

どうしたら売れるかと言うことを考えるようになりました。
タイガースにガウンを着せたらどうだろうかとか、キャラクターを作っていきました。
「君だけに愛を」沢田さんが指さすと女性が失神してしまい、生まれて初めてこの光景を見て、いつかこれを意図的にやってやろうと思いました。
意図的にやっていくと、2順目、3順目になると、作曲する方が音楽的に難しくなってきて出来ない。
グループサウンズが終焉を迎えるのは、ギターを持っていれば立っているやつでもいいからバンドにしてしまえというような、悪貨は良貨を駆逐するではないが、その様な方針を決めてやったり、スタジオミュージシャンを使ってやるように成ると、メンバーの不満が出てきたりして、想定しない素人がやりだしてしまって、そこが崩壊に繋がってしまった。
次のステップはグループサウンズの音楽を黛ジュン、奥村チヨ、いしだあゆみとかが、音楽を8ビートにして変えていって上手く繋がって、女性のポップスの時代に変わって行く。






















2017年9月24日日曜日

小野喬(元五輪体操金メダリスト)     ・鬼に金棒 小野に鉄棒【特選 スポーツ名場面の裏側で】

小野喬(元五輪体操金ネダリスト)・鬼に金棒 小野に鉄棒【特選 スポーツ名場面の裏側で】
86歳、秋田県出身、旧制能代中学校から東京教育大学、慶応義塾大学を卒業し、社会人の東洋レーヨンでも体操選手として活躍、全日本選手権では7回優勝しました。
オリンピックではヘルシンキ、メルボルン、ローマ、東京の4つの大会に出場し、いずれもメダルを獲得しました。
金5個を含め、計13個のメダルは日本の歴代最多獲得数です。
特に鉄棒はメルボルン、ローマと2連覇を飾り、鬼に金棒 小野に鉄棒と言われました。
4度目の東京オリンピックでは日本選手団の主将で、開会式では選手宣誓を務めました。
東京オリンピックの翌年から妻の清子さんと二人三脚で東京都大田区に作ったスポーツクラブの歴史は50年を越えます。
現在も日本のスポーツの普及に活躍を続ける小野さんにうかがいました。

1952年昭和27年、戦後日本が初めて出場した大会、ヘルシンキオリンピック。
東京教育大学3年生で最年少で出場。
団体、規定で日本は5位、自由でも5位、種目別跳馬で竹本正男さんが銀メダル、私が3位、(上迫忠夫さんと同点で3位に成ったが、私は後で3位と知った)
当時プロペラ機で何回も着陸してスウェーデンに2日かかりました。
1956年昭和31年、メルボルン大会。
開催の2カ月程前、全日本選手権大会が行われて、男女6名が決まる。
この時は床に2位になった以外は全部トップだった。
団体規定、ソ連に0.10差の2位、個人総合ではソ連のムラトフ選手を0,05を上回るトップ、種目別鉄棒9.75で1位、平行棒、あん馬でも1位。
最終日の自由演技、団体は規定で日本2位(ソ連1位 0.10差) 自由演技ソ連団体1位、日本は2位。
個人総合、規定でトップだったがチュカリン選手に逆転されて2位。
種目別 鉄棒は規定でトップ(9.85) チトフ選手が9.70でこの瞬間、日本体操で初めての金メダルが決まる。

ヘルシンキの時に全員8mmの撮影機を手にして研究しました。
メルボルン大会の活躍は世界の体操界の話題にもなりました。
鉄棒では世界でだれもやっていなかった技を入れて着地でしっかりと止って、優勝できました。
メルボルンでは鉄棒で金、銀メダル、団体、個人総合、種目別あん馬、銅メダルを平行棒で取って5個のメダルを取る。
1960年昭和35年のローマオリンピック
(メルボルンでは種目別鉄棒で金、団体で2位、個人総合2位。)
29歳で参加。
団体、規定で好成績で1.05ソ連をリード、個人総合でもトップ(日本の選手が4~8位までを占める)
結果、ソ連に2.40の大差で日本団体初優勝、金メダルを取る。
あん馬で皮が滑るのでC難度をやるか悩んで、Bにしたが、着地でミスをしてしまった。
吊り輪でも着地をB難度に切り替えたが動いてしまって、0.05差で2位になってしまった。
種目別鉄棒では金メダルを取る。(背面車輪からフルターン、ひねり飛び越しなどを入れて優勝することが出来た)

昭和39年東京オリンピック
33歳、東洋レーヨンの所属。
(3回のオリンピックで金4、銀4、銅4をすでに獲得していた。)
日本選手団の主将を担当することになり、選手宣誓をすることになる。
宣誓文の暗記と練習を毎日のようにやりました。
右肩を故障していたので試合の時まで鍼治療をしました。
団体2連勝の成果を得ることが出来て本当に嬉しかったです。
ローマ以降段々落ちてきてしまったが、チーム6人のうちの6番目に選ばれました。
選手宣誓するときに、鳩を飛ばすことになっていて、その合図として「小野」と言った後に間をおいて「喬」と言ってほしいと言われて、こっちからもお願いがあり、宣誓台の所にメモを置いてほしいと言ったが駄目と言われてしまいました。
宣誓台のまえを見たら小さな紙が置いてあって、これを見る訳にはいかなかったが、これで安心しました。
遠藤選手が個人総合優勝する。
種目別で吊り輪で早田、跳馬で山下、平行棒で遠藤 金メダル 鶴見(銀)、徒手で遠藤(銀)、あん馬で鶴見(銀)、鉄棒ではメダルは無となる。(私は6位となってしまった)
合計メダルを13個獲得は現在も歴代最多獲得数。

昭和6年秋田県能代の生まれ。
小学校3年生の時に体操競技を見て、次の日から皆でやり始めて、どんどんのびていったが戦争で出来なくなってしまった。
終戦が中学1年で、2年から体操を本格的に始めて、新制高校3年で高校総体で優勝して体操の道を歩んできました。
中学高校は365日やっていました。
器具類は工夫して作りで作ったりもしました。
東京教育大学に進む。
東京大田区に夫婦で池上スポーツ普及クラブを創設しました。
池上スポーツ普及クラブの教え子の、教え子が今オリンピック選手になっています。

















2017年9月23日土曜日

吉田実盛(鶴林寺 真光院住職)     ・死を見つめて今を生きよ

吉田実盛(鶴林寺 真光院住職)・死を見つめて今を生きよ~「往生要集」が語るもの~
地獄、極楽と言う情景と言うものは、およそ1000年前の平安時代に世に出た往生要集という書物によって人々に広く知られるようになりました。
往生要集を書いたのは恵心僧都の尊称で知られる僧源信、源信は仏道を歩む人が悟りに近づくことを手助けしようと、あまたの経典をあたって要集をまとめました。
吉田さんはその源信の思いを現代に生かそうと、取り組んでいます。
1000年たっても通じるという往生要集が説く世界について伺います。
 
死に方のマニュアルだと言えます、裏返すと死ぬまでどうやったら生きたらいいかという、行き方のマニュアルだともいえます。
往生する、その方法は一つかと言うと決してそうではなくて、往生して行くために何をしなさいと言う方法が何種類にも書かれていて、そのうちの出来ることをあなたがすればいいんですよと、問いかけてくる、それが往生要集であり源信の姿勢になるんだと思います。
医療が進んできて、死にたくないと言う思いが強くなっている現代かもしれません。
しかし死をむかえなくてはいけないが、死を怖がらないで生きる方法が往生要集の中に見えると言うことを知っておくべきだと思います。
往生要集が完成したのは永観3年西暦985年のことと伝わっています。
内容は10章から成っている。
地獄と極楽の情景の後、極楽往生を遂げるための心得と作法が続きます。
冒頭の厭離穢土の章では地獄の恐ろしい様子が詳細に記されています。

地獄は8つの階層に別れていて、罪が重いほど下の方に落とされるとされます。
一番上は等活地獄、殺生を犯した人が落ちます。
ここでは身体が切り刻まれる苦しみを味わいます、身体がバラバラにされても、鬼が呪文を唱えると元の身体に戻り、苦しみが際限なく続きます。
最も重い罪を犯した者が送られるのが一番下の阿鼻地獄、そこまで落ちるのに2000年、地獄では焼けた鉄を飲まされたり、舌に杭を打たれたりの責め苦を受けます。
恐怖に満ちた地獄の情景、往生要集で最初に置いた源信の狙いとは何だったのか。
穢土、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界)の全てが厭離すべきも、離れて行くべきものなんだということを主張するわけです。
最初にある地獄はいかにも恐ろしい場所であるかと言うことを、鮮烈な教義がずーっと続いてきて、生き返り殺され生き返り殺されということがずーっと永遠に続いてゆく、等活地獄があるということを示して行き、どんどんその描写がより厳しいものになって行き、これが地獄の表記です。

詳しく書いた理由は2つ有り
①私たちが子の世に執着してしまって、この世で欲望の限り、ついつい悪いことをしてしまったり、本当の美しい生き方を目指さなくなってしまった。
②お経が沢山あるが、それを整理してみたら膨大な厳しい地獄の表記が次々に出てきた。
極楽、欣求浄土の章で示される。
極楽の表現の平等院鳳凰堂、本堂に再現された極楽浄土、中央には阿弥陀如来、極楽も9つに区分されている。
浄土にいく行き方が9つある。
往生して行く速さが違う、お迎えにこられる菩薩の数が違うとか、極楽で生活を始める速さが違うとかに別れている。
自分自身がどう生きてきたから、どのように報われるのかとの対応だと思います。
昔の人は素直に受け止めた。

戦争、辛いこと、病気、親切を受けることもある、そういうものがちらちらっと、地獄、極楽の場面が垣間見えて、混じりあってこの世の中がうつろいでいるような気がする。
そういう感じ方が出来ると、六道の輪廻、地獄、極楽の世界が実際に存在するんだと信じる事が出来ると思っています。
よりよい死に方を出来るようにするためには、今をどう生きなくてはならないと、今の生き方を考えるための教えとして九品などがあっただろうし、地獄、餓鬼、畜生道に落ちますよと、今をないがしろにしていると、そうなりますよという教えだと思います。
源信は天慶5年西暦942年に生まれる。
幼い時に比叡山に入り、13歳で得度、宮中でも仏教を説くようになるが、栄達よりも多くの人を救う道を選ぶ。
44歳で往生要集を完成する。
平安時代中期から後期になると三世の思想が入ってきて、正法・像法・末法 末法になるとお釈迦様の教えが伝わらない、極楽往生できない、仏教が廃れた時代になってしまうという恐怖感が滲みだしてきた時代だった。

自分が勉強してきた限りを整理しつくしたら答えが見えるのではないかと、思ったのではないだろうか。
念仏は仏に帰依する心さえあれば行える修行。
念仏の種類はいっぱいある。
往生して行くためには色んな方法がある。
万術をもって往生する、と言うことを言っている。
臨終のときに仏像から伸ばした五色の紐を手で握るなど、逝く人、送る人双方について詳しく述べている。
家族、友人、僧侶などが集まり息を引き取るまで念仏を唱える。
極楽が見えるかどうか、極楽が見えるように回りが願う。
安らかな気持ちで死を迎えられるような状況を作る。(ホスピスのような)

大学院の博士課程の終わりのころ、先生が本を書かれることになり、その手伝いの時に往生要集を読み返したことが、きっかけになりました。
生き残った人が死に対してどう見つめるか、どう寄り添っていくか、往生要集が現代の社会に呼びかけているような気がしています。
亡くなることを前提として、ここまで生き抜いてきた、生きると言うことの裏返しが、やがて来る死を安心させるものになっていることに気付きました。
ちゃんと生きる、生き抜いた後、死は怖くない、安らかに迎えることが出来る様になるにはどうしたらいいかと言うことを、臨終の行儀でちゃんと示してくれていると言うことを知りましたので、人に説かなくてはいけないと実感した次第です。

仏教では人が亡くなると、生前の行いを調べる裁判を 7日ごとに受けます。
極楽にいけるように残された人達が祈るのが7日ごとの法要です。
私は法事、仏事に関してはなるべく説明して理解してもらいたいと思ってやってきています。
そうすることによって、心配すること、不安を相談してくれると思っていたが、御主人を亡くされた方が御主人のもとに行きたいと思って自らの命を断たれてしまいました。
僧侶は仏事に関しての専門家で、仏事のことしか相談はできないのか思われたのかもしれないと思い、そのことがおおきなきっかけとなってターミナルケア等に真剣に取り組まなくてはいけないと思いました、葬式を出された直ぐの家族に対しては心を砕いて、なるべく寄り添うような活動、行為をしていかなくてはいけない、不安があったら相談してもらえるような存在でなくてはならないと思うようになりました。
そんなときに重要な意味合いを持ってきたのが往生要集でした。

源信は送る人たちのよき往生を願う心が、亡くなった人の極楽往生を助けると説きました。
それは送る人たちにとっての大切な人の死を受け入れる道乗りでもあります。
法要の際には必ず法要の意味、手順とかについて話をします。
僧侶だけに任せきりと言うのではなくて、自分たちが参画している意識、個人と繋がっている意識を確認して頂きたいと思っています。
お焼香の時にどんな思いを込めるか、少しでも思いのこもったお焼香により深くなるのではないかと思っています。
思うことで自分がどういう立場にいて、どう生きなくてはいけないかと言うことが返って来ると言うことになると思っています。
亡くなった人との距離感、時間的な経過をおいたうえでも故人をどう思っているかと言うことが大事だと思います。
自分の生き方に対する指針も見えてくるのではないかと思います。
私はこんなふうに生きてますよと、最後のところでは晴々と元気にあかるく言えるようになってもらいたいと思っています、そうすると故人があの世で笑っている姿が、本人には思い浮かべることができるのではないかと思います。

地元の子供や親を定期的に寺に招くことも取り組んでいます。(座禅体験等)
仏教を知る人は迎えてあげたいが、仏教を知らない人も仏教とはこんなに素晴らしいと、極楽で迎えてあげたい、仏教を浅く広く知ってもらう様な活動も知ってもらいたいと思った次第です。
源信の短歌
「大空の 雨はわきても そそがねど うるふ草木は おのが品々」
大空から降ってくる雨はわけへだてなく木々に当たるが、受けている方のうるおいを持つ草木、おおきな木は一杯雨を受ける、小さな草は少しだが、それぞれに十分受けて草木が育ってゆく。
仏教が大勢の人に教えを振りまいている中で、何処で芽が出てくるかわからないが、人がどんな形で受け止めるかさまざまで、仏教の面白さ、奥深さ、興味深さを発信していかないといけない、と言うふうな歌なのかなあと思っています。
死ぬことを前提にするのではなくて、生きることの延長線上に死があると言うことで、生ききった思い、もうこれ以上することがないと言う状況まで生き切ること(できないかもしれないが)、悔いを残さないような生き方を一日一日して行こうと考えた結果、臨死状態に成った時でも心おきなく死を迎えられるようになりますよと説いていたのが、臨終行事の段だと思います。
現代社会では出来ないかもしれないが、そういった心構えを自分のなかに見出すことはできるかもしれない。
往生要集は生き方マニュアルであるし死に方マニュアルでもあるわけです。






















































2017年9月22日金曜日

富丘太美子(画家)            ・鋳物工場の“美しさ”を描く

富丘太美子(画家)        ・鋳物工場の“美しさ”を描く
江戸時代から鋳物の町と知られる川口市で鋳物職人や工場の様子を描いている画家。
高度経済成長期に鋳物産業が最盛期を迎えた川口市は、映画「キューポラのある町」の舞台になるなど鋳物の町として全国に知られるようになりました。
一方、都心へのアクセスが良いことから、宅地化が進み今では鋳物工場の数は全盛期の1/10程に減っています。
富丘さんは15年ほど前から鋳物工場の様子や「湯」と呼ばれるおよそ1400度の溶けた鉄に挑む職人の姿などを描き続けています。
81歳になった今も地元の産業を残していきたいと、キャンバスに向き合う冨丘さんに伺いました。

私が鋳物工場を描くようになったのは、主人がキューポラの煙突部分とか工場を描いていたのがきっかけとなりました。
40年間教師をやっていましたが、私は趣味を何にも持っていませんでした。
子供の頃、戦後になって、絵の本があってそれを写すことなどをしていました。
中学になって同級生の顔を描いたのは覚えています。
高校は選択で書道をやっていて、大学では茶碗を描いた位です。
退職して、仕事が無くなったらどうなるんだろうと思いました。
主人が絵の教室のところに行っていたので、行ってみようかなと思いした。
主人は私が絵を描き初めて1年で急性心筋梗塞で亡くなってしまいました。
主人が亡くなってから、絵がたくさん残っていて、木枠から外して丸くなっていて、沢山あるとは知りませんでした。
息子夫婦と家族展をやろうかということで、主人の絵を調べ出したら、鋳物工場の絵が一杯あることに気が付きました。

その後遺作展をすることになり、100点ぐらい出しました。
私には何処の工場を描いたのか分からなくて、探して工場の中に入ったら物凄く湯の色がきれいでそれに魅かれました。
こんな美しいものがあるかと言うぐらい綺麗に見えて、自分も工場を描いてみようと思いました。
湯の色を中心にして働いている人を描こうと思いました。
鋳物職人がとっても鋳物と言う仕事に愛着を持っていることを感じました。
湯の美しさと、鋳物師が真剣に鋳物と向き合っている姿を描きたいと思って描き始めました。
鋳物工場で描くことは、危ないし、邪魔してしまいそうで、「吹き湯」も神聖であるし、写真を100枚位デジカメ、アイパッドなどで撮ってきて描いています。

工場は冷房が利くわけではなく扇風機で、塩をなめなめやっています。
キューポラの街と言うけど、鋳物工場は少なくなってしまってしまいましたので、鋳物師の真剣な態度、湯の色とかを残したいと思いました。
川口は鋳物の街で鋳物に関係している人達は多いです、そういう人たちがいろいろ教えてくれるんです。
絵を見に来てくれた人たちが、感想を書いてくれて、又是非見たいとか書いてくれました。
鋳物工場を描き始めてから15年ぐらいになります。
こないだの個展の時も、鋳物工場をやっていたんだとか、言ってくれたりして懐かしんでくれました。
息子の友達が来て感動してくれたりして嬉しかったです。
絵を見て小さい子が「アチチ」といったりして、私自信が描いていて熱さを感じることがあります。

回り中が鋳物工場だった時には、みんなが同じ環境にいるのでやりやすかったが、回り中が住宅になってしまって、1軒だけだと苦情が来る、臭い、粉じん、音だとかが周りの人にはやりきれないと言うことでクレームが来て、やれなくなってくる。
鋳物師は誰にでもできるものではなく、ちょっとした加減でうまく行ったり行かなかったりする。
その人は出来ないことはないといっていましたが、自信を持ってやっていた人も歳で辞めて行ってしまいました。
その人が湯を注ぐ時に力を入れては駄目だと言っていました。
父親が漆職人だったので、一徹な気風と言うのには魅かれるところがあって、そういう方がこれからは少なくなり、いなくなってしまうのではないかと思います。
描かれた人達も観にきてくれましたが、小学校の教え子の人達も観に来てくれました。
もっと実感のこもった絵を描きたいと思います。(今は50点ぐらいか)
80歳になって終活と言うことを思って100号の絵をずらっと並べたが、みなさんに凄く褒められたのでもう少し続けて行きたいと思います。
主人とは1年程絵を一緒にやったのみで、主人は亡くなってしまって、本当に残念で落ち込みました。
仲間の人に描きにおいでよと言われて、最初のころは泣きながら通いました。
癒えると言う事はなかなかないが、絵を描くことに没頭できることがよかったと思います。






































2017年9月21日木曜日

佐藤愛子(作家)            ・【特集 佐藤愛子に聞く!】2(H29/5/27 OA)

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】2(H29/5/27 OA)
今年1月に「それでもこの世は悪くなかった」を出版。
読者層は従来、50代以上の女性が多くて85%程度だったが、今回の本は10代から40代の若い世代の読者層が増えて、40%を占めているそうです。
男性の読者も増えているそうです。

40代の女性
最近キナ臭くなってきたと戦時中の人がいいますが、今をどう思いますか?
確かにキナ臭いですよね。
日本はどうするかと言うだけでなくて、それを考えるために周りの国々とのあり方と関係してくるので、だから難しいですね。
こちらの価値観だけでは動く訳にはいかない状況になっているので、政治がらみについては意見を言えない。
私たちが知っている範囲はもしかしたら端っこの方だけじゃないかと言う気もします。
そういうわけでどうしていいかわからない。

18歳の女性
佐藤さんはどのように老いることへの絶望と、自分の人生を肯定する統合性の対立を乗り越えましたか?
絶望なんて感じたことはないので、乗り越える必要がないです。
私は自然に従うことをモットーにしているので、それが自然ならしょうがないじゃないかと思うので、人間は衰えなければ死ねないんだし、死ねなきゃ地球の上に一杯になっている場所が無くなる訳じゃないですか、そういう子供らしい素朴な考えです。
若い時死ぬことが判らなかった時代には怖かったが、長く生きてくると馴れていくんですよ。
経験するとどうってことないの、自然に馴れていくんですよ。
体の衰えがそれを教えてくれるんです。
若い時に命を失うのは悲惨ですよ、エネルギーがあるから。
歳を取るとエネルギーが段々無くなるので、長生きすると言うことはありがたいことです。
死は怖くなるし、自然に衰えて消滅して行くという。

68歳の女性
92歳の母と同居して面倒を見ています。
しっかり人だったのに、ボーとしている母を見ているとブルーになってしまいます、どうしたらいいでしょう?
どうしたらいいでしょうと言われたって困りますね。
生きとし生けるものは全て滅びると言う、この基本をしっかりと自分の中に根を生やしておけば、容認できるんですよ。
医学の技術が発達しているので、病気や死ぬとかに対して、身近に感じられないんでしょうね。
何とかなると言う思いで。
自然に滅亡していくと言うのは一番有りがたい終わりではないかと思います。

75歳の女性(視覚に障害を持っていて、主人とは死別、子供や兄弟もいない、悪化して行く目の状態が不安)
孤独感があってとても生きているのが辛い、前向きに生きる生き方を教えていただきたい。
それは辛いですね。
日に日に悪化して行く事実と向き合わないといけないと言うのは、本当に強い精神力が要りますから。
簡単に頑張ってくださいと言う言葉しかない訳だけれども、そんなの頑張れないことがわかっているんですよ。
生きている者は必ず死ぬ訳だから自分一人の問題ではないけれど、こういう問題はこの方一人の問題ですから、それを一人で耐えなければいけないと言うのは、本当に同情します。
ごめんなさい、そばにいって手を握ってオーラが少しでも残っているとしたら、それがこの人に伝わるように握っているしかないですね。
励まして慰めて話し相手になってくれる人がいたとしても、それでまぎれる孤独ではないですからね。
言うのは簡単ですけれども・・・。(佐藤さんの目から涙が流れている。)

岩手県の女性
人生山あり谷あり、そんななかでゆるぎない物があるとしたら一言で言ったら何でしょうか?
私は人生を貫いているのは逃げないと言うことです、来たものは受け入れる。
そういう生き方が性分に合ってるそうです。
昭和42年に夫の経営している会社が倒産して(2億円の負債)、倒産した翌日は小学校の同窓会に行くことになっていたが、当然いけなかった。
整体の先生のところにいって診てもらったら、いつもと違うと言われて、事情を話したら、先生がこれから同窓会に行きなさいと言われて、苦しいことが来たときに逃げようとするともっと苦しくなるのでそれを受け止めて戦う、それをした方が楽なんですよと言われて、楽になると言うことが助けになって、治療後にその足で同窓会に行きました。
その後色々ありましたが逃げないで受け止めると言うことをやって来ましたので、生き続けることが出来ました。
このごろ思うには、人間は一人一人身体が違う、性質も違う、身体が作ってきた私の気質から言うと、逃げないで立ち向かったほうがいいという、整体術からの知識だったのではないかと思うんです、だれにでも言うのではなくて、それぞれ人は違うので、相手のかたがどういう性格かと言うことが判った上で返事をしないといけない。
逃げないと言うことは、私の場合、と思っています。

フランスの哲学者アランの言葉。
「なんらかの不安、何らかの情念、何らかの苦しみがなくては幸福と言うものはうまれてこないのだ。」 この言葉にとても感動した。
「幸福論」を自分が苦労を経験した後で読むと実によくわかる。
苦しみがない時に読んでも何の役にもたたないと思う。
色んな苦労があってこそ、幸福と言うものが判る。
「それでもこの世は悪くなかった」の本の中の、列車のなかで女学生がお菓子を食べているシーン、向き合って試験勉強をしている。
彼女にとっては明日の試験は好ましくない、不幸と言ってもいいような出来事だと思うが、だけどもそれは幸福なんだと言うことを、色んな事を経験してきた人間はそれが判る。
「今は辛いと思っているかもしれないけれど、今こそ幸福なのよ。」と心の中で呼びかけました。
これから辛いことが待っている、どんな現実が来るか判らない。
戦争中には幸福ついて考える人なんか一人もいなかったと思います。
幸福について考える人が増えてると言うことは、世の中が安定していると言うことだと思います。
本当のどん底の時には幸福に付いて考えたりしません、現実と戦う事で精一杯ですから、でも後になって過ぎ去って考えてみると、ああしてシャカリキに戦った事も幸福の一つなんだと、なぜなら戦う力があったと、93歳になるとそう思うんです。

佐藤さんにとって書くことは好きだからですか、生きる為ですか?
両方です。
書くことがなかったら生きている意味がないと思います、書かずにはいられないと言うか。
「晩鐘」を書きあげてから、空っぽになって、書くことがなくて何もしないで暮らしていたらうつ病みたいに成ってしまいました。
生活の全てが書くことに向かっていたんですね。




















2017年9月20日水曜日

佐藤愛子(作家)            ・【特集 佐藤愛子に聞く!】1(H29/5/26 OA)

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】1(H29/5/26 OA)
佐藤さんは大正12年生まれ、93歳、昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、お父さんは作家佐藤紅緑さん、お兄さんの詩人のサトウハチローさんら、佐藤家の一家は波乱にとんだ人生を描いた長編小説「血脈」に出ています。
「血脈」は平成12年に菊池寛賞を受賞しています。
佐藤愛子さんが昨年出版したエッセー「九十歳。何がめでたい」は大きな話題となりその歯にきぬ着せぬ物言いと、自分にいいわけしない潔い生き方は幅広い年代から支持されています。
今年の5月の放送では事前にリスナーから佐藤さんへの質問を募集し、その質門にこたえていただきながらお聞きしました。

旭日小綬章を受賞。
90歳を過ぎると色んな事に感動する感受性が鈍感になるのでちょっと途方に暮れて、野蛮人とよく遠藤周作さんから言われ、晴れがましいことは似合わないんで、そういう席に顔出しすることはちょっと忸怩たるものがあり困惑しました。
自分が楽しくて書いてきたんで、書くことは苦しいけど止むにやまれる欲求があって苦しい涙をながしながら書いたというふうなことで、そんな立派な芸術家では有りません。
軍人には金鵄勲章という大変な栄誉だった。
瑞宝章を受章した時には「血脈」に描かれているが、兄が電話を受けてきて大喜びしていました。
彼は不良少年でならした人ですから、大不良少年が勲章を頂く世の中、日本は大丈夫かなと言ったんです。
むっとしたような感じで沈黙していましたが、やっぱり大変な栄誉だったと思います。

質問を募集
279通の便りがあり、①生き方、②死をどう迎えるか、③佐藤愛子さんの作品について、④健康若さの秘訣、⑤そのほか。
年齢18歳から94歳までのお便りでした。
愛知県の山川君子さん 93歳
「血脈」を2回読みました。
90歳以上の方が10人来ました。

私はわがまま自由に生きて来ましたが、私の年代の方は女はかくあるべきという決められた観念に縛られて自分を抑えて辛抱強く生きてきた。
そういう目から見ると異端などうしようもない人間に見えると思いまして、共感を持っていただけないんじゃないかと思います。

三重県北田典子さん
70歳代のころは長生きしたいと思われたか?
70代、80代のころは歳のことを忘れていました。
ここが悪いとかあそこが悪いとか、そういうことを思うことがなくて50代、60代のような元気でいたので長生きするとか、そういうことについて忙しくて考えることがなかったです。
親に感謝するのは健康に産んでくれたと言うことです。
90歳を過ぎたころから、眼は段々見えなくなり、耳が聞こえなくなるし、歯も駄目になってきているがこれは自然であり、あちこち駄目になって死に近づいて行くんだなあと、あるべき道を踏んでいるだけだと思っています。
抵抗してもしょうがない。
健康、若さの秘訣なんてないです。
長生きとかそういうものについて考えたことはないです、健康だったからだと思います。
「それでもこの世は悪くなかった」 表紙に若々しい写真を飾る。

宮城県菅原敦子さんほか
美容健康体力作りに心がけていることは有りますか?
何かを心がけると言うことをしたことのない人間で、その時その時の必要に応じて、例えば写真が若々しく見えても、ヘアメークの人に聞いて下さいとしか言えません。

帯広市山口さん
毎日の生活の中でこれだけは欠かさずやっていますか?
何にもやっていません、何しろ無精者です。
やってはいけないと思っていることは?
栄養剤とか色んな薬はあるが、一切飲まない、健康法は無視する。
わがままに生きていると人間は元気なんでしょう。
好きなものは時に依ります、父はてんぷらは、うなぎは何処のものでないといけないと言うようなものは病人だと言っているのを聞いて育ったので、父の考え方の影響を受けていると思います。
味噌汁は具を入れるな、本来の味噌の味が損なわれると言っていました。
入れるとしたら大根おろしを一つまみ、葱をきざんだものだけで、それ以外の物を入れると叱られました。

今心を寄せている男性はいますか?
いませんね、もう私ぐらいになると男も女もおんなじですよ。
50歳代まででしょうか、寄せると言うより気にいるということだと思います。
寄せるとはほのかな言うに言えない思いがあるが、気にいると言うのははっきりしている。

理想としては大きな人間、小さいことにはあまり気を使わない男性は気にいりますが、今はみんな小さいですね。
昔は男は理性で考えて、女は感情で考えると言うふうに思っていたが、男は女性的に成り、女は男性的になってきて同じ様になってきていると言う感じです。
それがいいとか悪いとかは何とも言いません。
今は男女平等で教育を受けているが、昔は男女別々に教育を受けているので教育の質が違ってくるし、男らしさ、女らしさが有ったが、段々そういうものが無くなってきている。
包容力のある人間の男だったら一番いいと思います。
孫がへなへなを選んできたら、別に文句は言いません。
色んなものにぶつかって、へなへなが直るようなおおきなアクシデントが次々に来ない限りはへなへなのままで終わるかもしれないし、それが生きることだと思います。
人間には無縁の可能性があります。

私は静かさの中に悲しみがあるような気がします。

私は麻雀が趣味で出かけるときに夫との戦いが起こります、自分の趣味と夫の機嫌、どちらを優先したらいいですか?
カラオケに週3回出かけるのが気に入らないのでは?
一人で留守番しているのが厭なのではないか、そこのところをはっきりさせる必要があるかもしれません。
夫婦の間のことなので私に聞かれても判るわけないですよ。
どちらかが最後に諦めるのではないか、それまで待つしかないですね。




































2017年9月19日火曜日

池永康晟(日本画家)           ・新たな美人画をめざして

池永康晟(日本画家)       ・新たな美人画をめざして
1965年大分生まれ51歳、独学で日本画の画法を研究し、独自の画風を確立しました。
画家としてのデビューは遅く本格的な個展は40歳のときだそうです。
インターネットで徐々に評判が広がって2014年に出された第一画集、画集としては異例の1万2000部以上を売り上げてロングセラーを続けています。
日本の近代美人画と言うと上村 松園鏑木清方が2大巨頭で昭和では伊東 深水を最後に衰退をしてきました。
この途絶えていた美人画というジャンルの復興を目指して描き続けている池永さんです。

モデルの女性は清楚さと妖艶さを持つ複雑な表情で、服装は洋服であったり和服であったりするが、花や植物の柄が多く使われていて装飾性に富んでいる。
顔や肌の色が特徴で背景は褐色。
肌の色を出すのに25歳~35歳まで10年ぐらいかかってしまいました。
その間作品らしいものは描けなかったです。
美人画としては、書かれている女性に見た人が恋が出来るかどうかということが大事だと思います。
モデルが変わっても共通する、好みが半分入っているんだと思います。
僕の理想の造形的な女性もありますが、理想的な顔、振る舞いが私の中に有ります。
観ている人が自分の経験でその絵にかぶせてみることが多いので、内面は見る人の経験なんです。

美人画のジャンルが廃れたのは、美人画を思い浮かべるのは着物を着て、日本髪を結って、うなじを見せながらしどけなくたたずむ女性と言うイメージがあると思うが、戦後はそのような人は居なくなってしまう。
それを描き続けると嘘を描くと言うことになってしまうので、段々描く人が居なくなってしまった。
その後に現代的な女性を描くべきだったんですが、それを続けなかったということです。
グラビア的な役割、写真やグラビア雑誌の発達と同時に写真、グラビアに役割が取って替わってしまって、段々無くなっていったと思います。
今、女性が人物画を描いている人が凄く多くなってきて、男性の作家が少なくなってきた。
昔は写真は男の道具だった。
男性が女性を撮ることが主流だったが、女性の道具になり、女性が自分の暮らしを写真に撮り始めたら男性はなかなかかなわなくなる。
絵画でもそういうことが起こっているのかなあと、今思っています。

私は身の回りの女性を描き始めたが、美人画という意識はなかったです。
絵描きになりたいと強く思った事はなくて、3歳ぐらいの時に自分は絵描きだと思ってしまったんです。
自分の外の世界に気が付くと言うのが自我の目覚めだと思うんですが、その時に自分と言うものがこの世に有るんだなあと思ったときに、自分は絵を描く人なんだなあと思いこんでしまったんです。
3人兄弟の末っ子だったので、放っておかれて、鉛筆と紙だけを渡しておけば静かにしていた子だったようです。
父は絵を描いていて、母親も描いていたみたいです。
親は兄を絵描きにして私を小説家にさせたかったようです。
高校は大分芸術緑丘高校、音楽と美術のクラスだけの芸術の高校です。
日本画をやりたいと思って入ったが、サルバドール・ダリの自伝にはまってしまって、絵描きは普通じゃいけないんだと思ってしまって、絵の具を叩きつけるように人物画を描いていたら、情熱家だねと油絵の先生から言われて油絵を専攻しました。

卒業制作を2人だけ県展に出していいと言われたが、県展には人物画を100号で取り組み、卒業制作の50号には、黄土色、黒、白だけあればどんな絵も描けると言われてやってみようと思って、黄土色のコンクリートの流し台にかぼちゃを置いて蛇口を描いて、卒業制作にしました。
黄土色、黒、白は今思うと、今使っている3色なんです。
今も学校には飾ってあるようです。
美大に行くと言うのは大変だと思って、東京に行きたくて写真専門学校に行きました。
前田信三さんの写真が大好きで写真の勉強をしたいと思いました。
1年通ったが辞めて、国分寺に武蔵野美大があるが、美大にいっていた人たちの高校時代の人達のコミュニティーが出来ていて、そこに転がり込んで点々として油絵を描いていました。
しばらく風景画を描いていました。
岡田 有希子さんのファンだったが、(歌手)自殺して、それがショックで、彼女のために霞草の花束を50号に描こうと思いました。
枝が細く油絵ではどうしてもうまくいかず、友達から日本画で描くものだと言われて、日本画の絵の具をそろえ始めました。
綺麗な女性が好きで岡田さんは理想に近かったですね。
後藤久美子さんが一番の理想で、美意識の原点であり頂点ですね。

絵具の接着のし方から判らなくて、日本画は岩を細かく砕いた絵の具をゼラチンをといで描くが、紙かシルクの上に石をゼラチンで定着させる訳ですが、磨り込むというよりは置くと言う感じで、最初どうしても擦ってしまうんです。
くっつくようになるまで1年ぐらいかかりました。
絵具の分量、ニカワの濃さ、ニカワをとぐ時の温度、絵具を何回擦ったかなど、全部数字でデータを取って、どうしたらくっつくんだろうと言うことばっかりやっていました。
その間アルバイトをしたり、前田信三先生のところで仕事をさせてもらって、そこで構図のきり方の勉強になって、必要なところだけ切り取っても全体が判るんだと言うことが
判るようになり、その後の構図の取り方には随分影響があったと思います。

母の具合が悪くなり故郷に戻り、人物画を描き始め、肌色を探し続けたがどうにもうまくいかなかった。
家の前の蜜柑畑の土をニカワでミキサーにかけてキャンバスに塗り込んだが、失敗したと思ってお湯で洗い流そうと思って、お湯で洗い流した途端にぱっと肌色に発色して吃驚しました。
1年後東京に戻り、再現する事がなかなかうまくいかない。
段々肌色が再現できるようになり、作品を描き始められるようになりました。
キャンバスにまず褐色の土の絵の具を磨り込んで何度か洗って、染まったような形になりその上に肌色の土の絵の具を塗って何度も洗って、地の褐色と上の肌色と糸が織物のような表情が出るんです。
褐色と肌色の織り目があることで、見た人が織り目の表情を拾って、質感に替えてみるんです、それがとっても大事でそれが特徴だと思います。

2003年に青山のカフェで個展を開くが1枚も売れなかった。
人に見てもらえたという満足感はあったが、人物画は売れないんだなと思いました。
2005年 40歳で本格的な個展を開く。(京都のホール)
この時は作品は完売しました。
そのころホームページを始めて、作品を発表できるようになり、人物画を普通に描く人がやっと出てきたねと言う評価でした。
日本国内よりは海外からの作品の画像を使いたいと言う問い合わせが早かったです。

2014年画集「君想ふ百夜の幸福」を出す。
2015年 AKB48の総監督 横山由依さんのファースト写真集が出たが、その中に4枚の絵が入っている。
秋元さんから横山由依さんは京都美人なので日本画の美人画を是非入れたいと言うことで話を頂きました。
安心して絵で生活できるようになったのは、ここ3年ぐらいでしょうか。
貧乏で大変でしたが、自分でやったことなので楽しかったです。
2016年若い女流画家の美人画を集めた画集が出版されたが、この編集にも携わりました。
こんなに人物画を描いていると言うことを世間に見て貰わないといけないので、この本を出すと言うのは、この10年来の目標でした。
嬉しい、満足しています。
若い人は今人物画を描いています、沢山います。
ぼくらが子供のころは、絵画が生活の中に有りました、本の表紙、挿絵、お菓子のパッケージ、ポスターとかに絵画が使われていたので、又そうした時代が来るといいなあ、そうしたいと思っています。



















2017年9月18日月曜日

寺澤康行(日本鳴く虫保存会会長)     ・【にっぽんの音】

寺澤康行(日本鳴く虫保存会会長)  ・【にっぽんの音】
会員150名、今から50年前「カンタン」と言う虫の飼育が難しく誰もできなかったが、小平市の小野さんが子の飼育の成功して、「カンタン」を自分たちで飼育して戻してやろうということで、高度成長期でもあり、虫がいなくなっていて、なんとかしないといけないということとぶつかった訳です。
虫を飼育して還す活動をしています。
鳴く虫のコンクール、今年19回目、鈴虫、松虫、カンタンの三種類です。
虫の習性はそれぞれ違う。
虫の飼育に頑張り鳴く虫の文化をつないでいこうと言う2つが、基本になっている会です。
コンクールには誰でも参加できます。
暗い部屋に持ち込んで有る一定期間(40分間)で審査します。
①声が大きい
②声が長い
③声が綺麗
この三つで採点します。
トップには市長賞として表彰状が与えられます。

審査は6時~6時40分ですが、野生の虫は7時30分から8時頃から鳴くので、その時間に鳴くようにどうしたらいいか、とか環境を考えないといけない。
鳴くことは求愛なので、餌とか、色々な環境をどうしようか考えます。
私が小学4年生の時に担任の先生から、平和が来たら皆が飼うようになるからそれまで飼っておきなさいと、鈴虫を 5匹頂きました。
昭和25年は朝鮮動乱がぼっ発して、立川はジェット機が飛び交っていた時代でした。
そういうのが出発点でした。
風呂桶の古くなったものを貰ってそこで飼って、食料は動物性タンパク質、植物性タンパク質の両方を与えるといいと言われますが、多摩川で魚を釣って干して与えるとかしました。
虫を飼うようになって67,8年になります。
色々な種類の虫を飼いました。

①キリギリスの鳴き声 ②カンタンの鳴き声(一番低い周波数 2500Hz 鈴虫は3500Hz 松虫は4500~5000Hz) 
馬追い虫 1万500~3000Hzで還暦を過ぎるとほとんど聞こえなくなる。
虫は鳴き始めてから死ぬまでの間で周波数が変わって来るので、人間の年齢にすると30歳とか判りますし、収録した温度もだいたい判ります。
23,4度の声は語り掛けるような音に変わります。
鳴き方には3種類有ります。
①縄張り宣言の一人鳴き
②求愛の鳴き
③喧嘩鳴き(オス同士で餌の取り合い)

エンマコウロギ、ツヅレサセコウロギ
ツヅレサ=繕うという意味
晩秋になったら夜なべに今までボロになったところを、「肩させ、裾させ」と言うふうに縫って下さいと教えている言うふうに聞きまして、その虫の事を「つづれさせ」と言ったようです。
*観世流 能の謡「松虫」
クツワムシ キリギリス科 通称「ガチャガチャ」 庭に放っておくと忍者が来たときに鳴きやむと言われていたが、飼育してみると鳴きだしたらなかなか止まらない。
音も虫の声のなかでは最大ですが、性格はおとなしい。
和泉式部 
「わがせこはこまにまかせてきにけりとききにきかするくつわむしかな」
男の人をクツワムシに例えて詠った。

江戸時代 商売になって来る。(虫売り)
当初千葉で捕まえて江戸で売っていたが江戸末期になると、飼育方法を確立して、問屋さんに渡して、売る人間に渡して販売すると言うことが確立する。
最近は虫を飼育する人が少なくなってきた。
幕末に虫屋清次郎さんが「鈴虫のつくりよう」と言う本を出しましたが、20種類ぐらい取り扱っていた。
生活に困った武士なども飼育していたようです。
売る人は派手な格好をして売っていたようです。
虫の音を愛でることは日本独特のものです。
虫の音には癒されます。
紫式部が「鈴虫の巻」を書いたときに、鈴虫をこんな虫だと書いてますが、時代を越えて同じ声を聞いているんだなあと、そういうふうに思います。
























2017年9月16日土曜日

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)       ・いつの時も“すみれの花”咲かせて

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)   ・いつの時も“すみれの花”咲かせて
兵庫県宝塚市出身 90歳 1940年に宝塚音楽学校に入学、3年後卒業して初舞台を踏みました。
しかし、翌年、1944年太平洋戦争の激化とともに、宝塚大劇場は閉鎖、海軍に接収されました。
竹林さん達は象徴である緑色の袴を紺色の制服に着替え、移動隊として全国各地の兵舎を慰問して回りました。
戦後、ふたたび宝塚の舞台に立ち、1954年27歳で退団されるまで花組の娘役で副組長をつとめました。
3年前の宝塚歌劇団100周年の記念式典では最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。

学校に行って歌ったり踊ったりすることが楽しみでした。
宝塚歌劇団100周年の記念式典、歴代のトップスターが集まりました。
最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。
足腰が悪くてもステージに上がると足が自然に前に出ます。
その時だけ身体がしゃんとします。
2年先輩に淡島千景さん、4年後輩に八千草薫さんがいます。
お客さんを喜ばせると言うより、自分が楽しませてもらったと思います。
宝塚は私の心のふるさと、辛い時も楽しい時も母のような気持で宝塚を愛しています。

1927年横浜市生まれ、母を早く亡くして、父の仕事の関係で8歳のときに大阪に引っ越してきて、私たちは西宮市に引っ越してくる。
宝塚歌劇も見たことはありませんでしたが、担任の先生が宝塚ファンだったので、父に頼んだようで言われる通りに行きました。
歌う試験があり、何小節か楽譜を書くが、私は習っていなくて、前の方が歌う通りに歌ったら何とか歌えました。
黒い水着を着せられて、おおきな部屋に一人台の上に乗せられて、段々恥ずかしくなって赤くなって舞い上がってしまいました。
落ちると思っていたが入っていました。
父がよろこんでくれて、何もかもそろえてくれました。
学校に入って見学の時に行って、始めてみて余りの美しさにびっくりしました。
「すみれの花の咲く頃」美しく良い歌だと思います。

1940年の30期生でした。
朝一番電車で学校に行って、6時30分ごろ着いて当時掃除などは生徒はしませんでした。
ピアノが弾けて、バレエしてみたり、子供が遊んでいるのと同じ気持ちでした。
家庭訪問があり、学科は素晴らしいが実技の方がもう一つですと言われますが、私はやったことが無く、他の人たちは習った方が来るので出来るのは当たり前でした。
当時の体罰は当たり前でした、棒持っていて足を叩かれてみみずばれになる人もいましたが、でもやめないんです。
1943年首席で音楽学校を卒業。
櫻野美也子(さくらのみやこ)という名前になる。
戦争中なので派手な名前はつけられなくて、この名前を持っていったらこれにしなさいと言われました。
雪組で初舞台を踏む、「海軍」というステージでした。
アメリカの海軍の制服を着せられて点呼させられ、サーティーワンそれが私の番号で、それが初めてのセリフです。
ラインダンスも有りました。

昭和19年3月に戦況が悪化するなかで、宝塚歌劇大劇場は海軍に接収されて、移動隊として全国各地を慰問して回ることになりました。
日本ものが多かったです、人数は30人ぐらいでした。
早く戦争は終わってほしいと思いました。
鹿児島の知覧に淡島さんらと紺の制服をまとって汽車で行くんですが、満員で押し込まれて行きました。
娘道成寺を公演しますが、じーっと見ていました。(17,8歳の方たちでした)
終わると規則正しく敬礼して、白いマフラーが印象的でした。
結婚してから主人と知覧に旅行したことがありますが、若い元気な顔の写真がずらーっと飾ってあって思わず涙が出てしまいました。
皆、飛行機で自爆していったのかと思うと、言葉にならなかったです。

舞台の無い時は勤労報国隊として、軍服のボタンつけをしたりみんな頑張ってやりました。
B29が連なってきてそれが怖かったです。
足がすくんでしまって動けなかったが、青年が私を引っ張って家の壁にくっついて身を隠すようにしてくれました。
自分の身を守るだけで精一杯で、舞台に上がりたいなんて言うことは思いもしませんでした。
1945年8月15日、とにかく負けてもうれしかったです、電気が点いて明るいし、おびえないで済むし、舞台に出られるし、戦争が無くなったということは嬉しかったです。
学校の帰り、歩いていたら車に乗った米軍の兵隊がいきなり片手で担がれてしまって、製材所に連れて行かれて、食事をしていた人がいたが「助けて」と言っても助けてくれなかった。
私を降ろした瞬間に階段を降りて逃げました。
父からは坊主にしてズボンを履けと言われたが、それはできませんでした。

昭和21年4月22日に宝塚大劇場の公演が再開。
花組は夏の踊りと言う各地の民謡を集めた舞台で再開、阿波踊りをしました。
越路吹雪さんが「筏流し」を歌ったのが素敵でした。
戦争中は出し物が暗いし、観客も暗いが、華やかでみんなの笑顔が違います。
「源氏物語」で八千草さんが小紫、私が清少納言役でしたが、春日野八千代さんのお父さんが来るとの事で緊張してしまって、「姫君」と言わなければいけないところを「ひめみぎ」と言ってしまって、客席もワーッとわいてしまって、なんで笑っているのか判らなかった。
それが大失敗でした。
1954年、昭和29年27歳で結婚して退団しました。
後ろ髪を引かれる思いと、そろそろ身を固めた方がいいのではないかという事で、結果家庭に入ることにしました。
父からは「刺身につまがなかったらおいしくないだろう、つまあっての刺身だから、お前はつまでずーっと行ったらいいんだよ」と言われました。
退団の時は「すみれの花の咲く頃」を一人で歌うことが出来て、「櫻野美也子」と言って下さった方がいて本当にうれしかったです。
「戦争はいや」、その一言です。
「清く正しく美しく」 清く正しくは身にしみついていて、その通りにやってきていると思います。










































2017年9月14日木曜日

田村潤(元ビール会社副社長)       ・100年続く経営を考える

田村潤(元ビール会社副社長)   ・100年続く経営を考える
1950年生まれ67歳、大学卒業後大手ビール会社に入社、45歳で高知支店長として赴任します。
当時会社はライバル会社の革新的な新商品に押され、長年保っていた売り上げ首位の座を奪われるという危機的状況にありました。
そうした中、田村さんは起死回生を狙うためには現場を生かした営業が最も重要と考え、本社の意向とは違った取り組みをつぎつぎと展開しおおきな成果をあげます。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。
去年体験をまとめた著書を出版、サラリーマンを中心に反響を呼んでいる田村さんに伺いました。

現場から会社を変えるということができるということ、今日本の企業はいろんな問題を抱えていて、一生懸命やっても業績が上がらないというのが、大多数です。
現場に本質がある、現場にお客さんとの接点がある、徹底して現場に入ることによって見えないものが見えてきた。
そこで頑張っているうちに業績が上がってきた。
会社の都合ではなくて、御客さんに喜んでもらう、御客さんの視点で全てやっていれば、かならず成果が出てくるということが実績として証明されました。
20年前の経済的な状況が金融政策の失敗だと思っているが、日本の企業が元気が無くなってなんとかしないといけないという時に、企業の統治、ガバナンスの改革があって、短期的な利益の追求、投資効率を上げて行くとか、そういう風潮の中で時間を掛けて御客様との関係を築いていくとか、ブランド力を築いてゆくとか、お客様に喜んでいただく商品を開発してゆくとか、基礎研究を充実してゆくとか、時間がかかるけれど必要な仕事がないがしろにされて、短期の利益さえ上げればいいというそちらの流れが強化されて、会社の企画部門が強化されるとともに、現場が弱くなってきて、何のために働くのかという理念が弱くなってきた。

日本の企業の強みは御客様の為、会社のため、自分のチームのためにという理念と、現場でこつこつと徹底してやると言う、ふたつが日本の企業の強みだったのが、ふたつとも失われてきて、日本の企業の競争力が失われてくる。
人をコストとして考えるようになってきてしまっている。
イノベーションが大事だが、そこが弱くなっている、それによって新しい価値を見出すことが非常に難しくなっていることが問題だと思っています。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。

出身は東京、小学校2年から6年生まで北海道の遠軽町で育って、自然の中で育ってあそこでの生活が今の自分のバックボーンになっていると思います。
支え合うと言う文化があったんです。
自主自立の文化、昔は屯田兵からスタートしたところで自分たちでやるんだという風土がありました。
プールがなくて川のすぐそばで先生と生徒で穴を掘ってプールにしたりして、困ったら自分たちで何とかするんだという自主自立の風土がありました、それが何らかの影響をしていると思います。
当時の地元の人の集まる会(遠軽会)が有り、一流の漫画家、トップモデル、一流企業の役員、オリンピックのメダリストもいます。
豊かな自然の中で遊んでいましたが、みんなで助け合う、いじめなどは無かった。
異質の文化を受け入れる文化がありました。

高校、大学は東京でした。
山に登ったり、本を読んだり、音楽を楽しんだりしました。
当時安い二級酒を飲んだりしていて、金持ちがビールを飲むものだと思っていました。
会社には偶然はいったという感じです。
人事をやっていたので、学生を見る時にはその人間が努力を積み重ねていくことが出来るかどうか、そこに関心が有りました。
人間の能力はそんなに差がないと思っていて、努力を惜しまないで誠実に仕事をやれる、
性格がいい、そういった人間をいかに見極めるかということを重視して面接をしていました。
人柄の良さを何となく感じる、そういうことが一番大きいような感じがします。
最初は岡山県の工場に配属、労務課では現場の方と毎日のようにビールを飲んで、工場はこうあるべきだとか、自分の職場の問題はこういうふうに改善したいとか、色々話し合っていました。
人間の能力は無限にあると思いました、昨日と全然違うということがあります、愚直に
徹底的に努力しているときに、或る時に変わる、見えるようになる。
会社の業績を上げるには、個人の持っている能力を最大限に伸ばす、そうすればすべて上手くゆくということは体感としてわかったいた。
①現場に本質がある、美辞麗句、机上論はだめ。
②人間の能力は無限大にあるからこれを最大限に伸ばしてゆく。
この二つが自分のバックボーンになりました。
大事なのは情報を共有することです。
意見の対立の原因は持ってる情報量の格差に依るものが多い。
役割は違うが、平等なんだということの思想で、自分の考えを率直に述べて、議論して正しい結論を導き出して責任を持っていく、というスタイルが最初に有ってそのスタイルが営業にも活きました。

仕事は上から指示されるのではなく、自分たちで考えて良いビールを作っていこうという、そういうトライアルをした最初の工場でした。
現場の声をとにかく聞く、対等の立場、平等の原則があるので、上から目線、学歴、男女差など一切関係ないという事で、自分の与えられた役割を全うして行く。
岡山工場の文化の中で自分自身も育てられたと思います。
ライバル企業が画期的な新製品を出して段々シェアーが低下て行く。
高知支店に支店長として転勤する。
それ以上シェアーをあげると、独禁法に触れるので、会社の目標が無くなってしまった。
そうすると内向きになる。
役所的な文化が急激に出てきて、企業の体質が弱くなってきて、そんなときに他社の大ヒット商品がありシェアーが下がっていった。
御客さんからうちのビールの時代は終わったと言われてしまい、何をやってもダメだった。

ワーストワンになってしまって、本社の言うことをそのままやってもボロ負けすることはわかっていた。
すべて本社がやっていて、数字が悪いのは本社のせいにしてもしょうがないと思っていたが、何をしたらいいかわからなかった。
飲み屋さんを回り、一月の回るのを200、300と決めて、セールスを自分で決めてやっていこうと決めました。
ところが出ませんでした、そのたびにスイッチしていたら大変なので変えません。
そのうちに辞めてしまって、それはまずいと思って決めた目標はやると、又廻り始めてそっこからうまく行きました。(やっているうちに慣れて、段々面白くなってくる。)
4~5カ月で変わって来ました。
本当のうちの会社の精神、理念はちゃんとあるんだと、それを忘れたからいけないんだと、もう一度作りなおすんだと、その理念に基づいて、おいしいビールを作って御客さんによろこんでもらう、そういうメーカーになるのだと、最後の一人になってもやるんだとそういう覚悟を持てるまで半年毎日考えていました。

世界一おいしいビールを作る、作っても御客さんがおいしいと思ってくれないとだめなので、高知の人のことだけを大切にしようと覚悟を決めました。
高知限定のキャンペーンなどをして行きました。(上司の承認は得ませんでした。)
①「御客さんの為に」と明確にしました。(それまでは本社からの指示をちゃんとやる為)
今日やる仕事の意味を、何のために仕事をやるのかということを一貫させました。(理念、戦略、今日やる仕事)
②現場の基礎体力を付けることも大事です。
③自分たちで正解を見付けてそれをクリアする。
この三つをやりました。

東京営業本部長、副社長になる。
副社長になって3年目で首位奪還を果たしました。
高知でやった事を全国に広めました。
御客様の心理がどう移り変わってゆくのか、ライバルメーカの動きによって市場がどう変わってゆくのか、現場に入って判るようになりました。
ローカルに徹底的に入ることによって、本質が判るのでそれがグローバルの展開が出来る。
いろいろな変化、県民性、特有の文化を全部包含して、適切な手を打っていくことができる人間が世界のどこに行っても通用します。(本質をつかんだ人間)
首位奪還して社員が泣いていました。
仕事を通じて自分の人生が豊になるということを目の当たりにして、仕事とはとてつもなく素晴らしいものだと思いました。
講演では、「自分の足で立ちあがろう」と言っています。(自立性)
会社の使命、果たす役割を考えて行動する勇気を持とうと言っています、そのためには現場が大事です。
会社と言うのは使命があるので、御客さんに支持されてよろこんでもらう、そのためには時間をかけてより必要とされる会社に育てる。
どうしたら最短距離で御客さんに満足していただけるのか、考え続けることが大事です。
そうしてどうしたらいいかクリアになったら、そこまでやり続ける、回答はそれしかないです。
これからは世の中に御恩返しをしたい。
これまでの経験を率直に話をして、アドバイスがあればしていきたいし、良い仕事、誰かの為にやる仕事、多くの御客さんに喜んでもらう、そこに向かって仕事を集中していると、いい遺伝子がどんどん首をもたげてくるという印象がある。
仕事を通じて素晴らしい人になって行く、そういう経験をして貰いたい、それが恩返しだと思っています。

















































2017年9月13日水曜日

長谷川透(外国車修理工場経営)      ・名車の輝きをよみがえらせる

長谷川透(外国車修理工場経営)   ・名車の輝きをよみがえらせる
埼玉県川越市で外国車修理工場を経営、58歳。
1960年代から80年代にかけての英国車を中心に古い外国車の修理を手掛けています。
長谷川さんが修理をするのは、生産台数が少ない車が多く修理用の部品がないことも珍しくありません。
こういった場合、長谷川さんは可能な限り自分で部品を作っています。
修理が終わると長谷川さんはオーナーに車を引き渡します。
憧れの名車を手に入れたものの、不調が続き味わうことが出来なかった車の性能がよみがえった瞬間、多くのオーナーが喜びの表情を見せると言います。
長谷川さんの修理で名車はどのように輝きを取り戻すのか伺いました。

サイズの規格が日本と英国とは違っているので、今部品を作っています。
修理する車は1960年代から80年代にかけてのコンパクトな車が多いです。
イギリスが多いです、部品が共通されていて、長く車が生き残る為の重要な要素が非常に多いというところがイギリス車のいいところで、イギリス車を多く扱っています。
3~6か月ぐらい待っていただいてしまうこともあります。
工場は祖父の代から始まっていて3代目になります。
父の代が車の環境が一番変わった時代ですので、日本の車を修理することが多かったです。
父からはネクタイをする自動車屋に成れと言われました。(経営者に成れ)
結果として違うことになってしまいましたが、そうなったことは私にとって幸せに感じています。
自分のやりたいことと接点を持ちながらやって行くのが、長く続けられることかなあと思いました。

一時期父と一緒に仕事をしていましたが、技術を受け継ぐと言うことに対しては伝えたいものがあったのではないかと思います。
段々自分でやりたいことが国産車では生かすことが難しくなったという事はあります。
イギリス車に名刺を挟んで、チャンスがあれば自分でやってみたいとは思いました。
御客さんの車を預かって直すことは、やはりそういった関係を作るのは難しいですね。
軽井沢の方に工具を持っていって、修理をさせていただいたこともありました。
古い車が無くなっていってしまうから、この先街の電気屋さんと同じような運命をたどるのかなあとの思いもありましたが、真空管のアンプを使ったようなオーディオのマニアの方が残るということも感じていて、マニアのニーズに答えられるようにしていきたいという気持ちはありました。
人脈を広げる努力に苦労したという感覚はなくて、車が常に間にはいって、人に伝えていただいてその連鎖だったと思います。(口コミが90%以上)

車が持ち込まれて、修理内容、御客さんの要求がどのようなものなのか、一緒に食事をしたり酒を飲んだりして話をします。
趣味、こだわりの世界があるので、そのこだわりに対してどんなことが出来るのかなと思っています。
リフトで持ち上げて、まずは車を良く見るようにします。
初めてみる車があったりするので、車を観察して設計者の意図を考えたりもします。
修理の状況など見て自分の参考にしたりもします。
2日間ぐらい見ていて、手が動かない時もあります。
イギリスの車は大切にされていて、他メーカーでありながら部品が共通しているものがあり、部品が使えないものもあり、違うものを加工して使えるものにしようかということもあります。
交換部品が手に入らない時は、作れるものなら作ってみようということになります。
非常に難しいものだと相談したり、自分で創意工夫したりします。
図面はないですから現場合わせになってしまいます。
御客さんとのコミュニケーションで決めて行く内容もあります。

今の自動車は高性能、高精度、トラブルが少ないということで、旋盤、ボール盤、プレス機、溶接だとかの出番がないのが現実です。
加工することに関しては知り合いに色々聞くこともあります。
オケラ職人(なんでもできる)には一生成れないとは思います、技術が進歩し過ぎてしまったんだと思います。
修理して動くようになる、その瞬間が全てになっています、鳥肌が立つような思いもあり、御客さんがニコッと笑ってくれた充実感がこの仕事をやっていて一番だと思います。
修理を手掛けたのは約9000台になると思います。
今は一人でこなしていますが、ごまかしがきかないプレシャーみたいなものもあり、誰か見てて欲しいというような思いもあります。
プライベートではジムカーナというレースに出たりもしています。(7年前から)
自分で運転することによってより御客さんとの話が理解できるようになったと思います。
出来うる限りより古い車を見てみたい、触ってみたい、1930年代の車とか。

































2017年9月11日月曜日

大河正明(B.LEAGUEチェアマン)・【“2020”に託すもの】Bリーグが拓く未来

大河正明(B・LEAGUEチェアマン)・【“2020”に託すもの】Bリーグが拓く未来
男子バスケットボールのBリーグは日本の統一された新しいトップリーグとして、去年9月に華やかなLEDの照明を仕込んだコートでの開幕戦から始まり,今年5月に栃木ブレックスが初代チャンピオンに輝いて最初のシーズンを終えました。
そして間もなく新しいシーズンを迎えようとしています。
男子バスケットボールのチェアマン大河さんに伺います。

リーグ戦がない期間は3~4カ月ありますが、その間に新しいリーグをどうやって盛り上げて行くか、中長期ビジョンをどう作成して行くかがこの時期になります。
2015年4月に発足して、1年半後にリーグを開幕しなくてはいけなくて、お金、人がいない中よく無事に開幕したことは奇跡に近いと思いました。
開幕戦、試合中LEDが消えてしまわないか緊張はしましたが、大きなインパクトを与えられ物凄い反響でした。
田臥 勇太選手の執念で栃木ブレックスが初代チャンピオンに輝いて、Bリーグが出来て良かったと思います。
1100試合以上の試合が行われましたが、御客さんの数も226万人、B1で50%、B2で33%の御客様の増加と言うことで、50%ぐらい伸びればいいなあと思っていましたが、B1はほぼ達成、B2はもう少し入ってくれればよかったなあと思いました。

日本の男子代表が強くなったり、コーチ、審判のレベルも上げていかなくてはいけないのでまだ第一歩が始まったばっかりと思っています。
2019年中国のワールドカップの予選が始まるので、これからが真価を問われると思っています。
最初は川渕三郎さんがバスケットボール界の改革に登場されて、元々バスケットボールに携わっていた人にとってはなんでサッカーの川渕だと凄く思っていたと思います。
私もそこにも加わりサッカー界にバスケット界は乗っ取られたのかと、最初はそんな意見も多々ありましたが、着実に一つ一つ成果を出してゆく、国際試合出場停止が解除され、良い方に向かっていると感じて、今はそういったことは全く無くなったと思います。
アリーナスポーツに着目して、快適に試合が見られる、お客様との距離感も近く、ハーフタイムでの御客様の参加型のイベント、チアのダンスなど、試合以外のイベントでも盛り上がる様な気配があり、音と光を使ったエンターテイメント、豊かな楽しいアリーナスポーツにしていきたいと強く思いました。

実業団チームもあればプロとして独立して行く流れから来ているチームもありますが、選手は融合していたので、選手の気持ちにはわだかまりはなかったが、経営側が少しうち解けなかった状況だったので、ふたつのリーグが一つになって選手が正真正銘の日本一を決めるんだということなので、チャレンジする気持ちは増えてきたと思います。
今はほとんど体育館でやっていて、エンターテイメント性を最大限表現したことにチャレレンジしてくれたと思います。
24秒以内にはシュートしなくてはいけなくて、攻守の切り替えが激しい、アリーナと一体となった観戦環境があるという意味では、TVで見るよりも面白さは迫力のあるスポーツだと思います。
体育館では靴を履き替えるという処もまだ残っていて、まだ見る側に配慮している訳ではないので、アリーナは履き替えなくていいとか、飲食が出来るとか、良いシートがあるとかは大事でそちらの方向に向かっていきたいと思います。

欧米に比べると見る環境が2周、3周遅れていると思います。
もっともっと快適に見て、皆が幸せ感、地元を感じる日本にしていきたいと大きな目標があります。
支えていただいているのはそこの市民、行政、企業に支えていただいてチームが成り立っているので、地元を意識したクラブを目指してやっています。
スマホの使い方で、飲み物のオーダー、チケットの購入などを色々使えるようになりました。
単にデータを蓄積するのではなく、その利用法を双方向型のサービスを提供できるように考えています。
チケットの購入も1割ぐらいかなあと思っていましたが3~4倍も増えています。
コンサートとスポーツが一体化しているような空間を提供できるということがバスケットのいいところだと思います。

私は中学3年の時は代々木第二体育館での全国大会に出場してベスト4までいきました。
若い頃楽しませて貰ったバスケットボールに何らかの恩返しができればと思って、仕事をすることになりました。
銀行に勤めていましたが、或る時1995年銀行から執行と言うことで、サッカーのJリーグに行くことになり、(当時のチェアマンが川渕さん)又銀行に戻った後、次に執行ではなく辞めてJリーグに行きました。
そしてJリーグからBリーグに移りました。
バスケットボールがプロとして成功する芽はあると思っていました。
どういうふうに見せて行くか、どう強くしていくか、相乗効果により盛り上がると思っていました。
NBAに対するあこがれもあり、日本で出来ないことはないなあと思って、目指してやっていきたいと思っています。
NBAのアリーナ、そういった姿を日本で実現したいと思います。

Jリーグ、Bリーグの違い、両方とも地域に根差したチームを作って行く、全国に広がりが出来て行くと言う根本的な考え方は同じです。
紆余曲折があるが、経営危機に面しても色々な手段を使ってJリーグのクラブの健全経営が実現している。
Bリーグもまずは経営を健全にしてアリーナ、見る側に優しい観戦環境を目指してやっています。
2020年オリンピック オリンピックに向かって日本を世界に売り込むチャンス、スポーツ文化として根付いてスポーツを楽しむ風景、スポーツを見る風景が見られることになる、これが私の一番大きな夢です。
みんなが楽しめて見てよろこんで、これがスポーツだと思っているのでスポーツが文化として根付けば見るのに優しいものがたくさんできて、アリーナ自体が稼げる施設に変わってくれば無駄使いにならないので、そんな世界を早く実現したい、それが私の一番の仕事です。
理想のアリーナが現実にはまだないが、楽しいアリーナを日本にいくつか作っていきたいと思っています。
ワールドカップ予選に代表が活躍してバスケットボールがあるんだぞ、Bリーグがあるんだぞ、ということを国民のみなさんに知ってもらうような、2シーズン目にしたいと思っています。















































2017年9月9日土曜日

中島明子(元看護師)       ・水没したバスの屋根で生き抜いた37人

中島明子(元看護師)       ・水没したバスの屋根で生き抜いた37人
2004年10月20日の夜、台風23号に依る大雨で兵庫県や京都府の北部を中心に、被害が広がりました。
京都府の舞鶴市では由良川が氾濫し、国道175号で立ち往生した大型観光バスは完全に水没、乗客はこのバスの屋根の上に登って救助を待ち翌朝全員が救助されました。
乗っていたのは兵庫県豊岡市の公務員の退職者グループの35人と引率者、運転手、乗客の平均年齢は67歳、福井県内の温泉に泊まって永平寺を回って帰って来る1泊2日の帰り道での出来事でした。
この日のNHKニュースは、夜10時過ぎ、川からあふれた水が入り込みお年寄りを含む30人が救助を待っていると伝えました。
その後バスの中で人が立った状態で腰から胸の高さまで水が迫っている、乗客乗員全員がバスの屋根に上がって救助を待っているが、屋根まで水につかっている。
そして午前1時半ごろには膝の高さまで水が来ていてまだ増えていると報じました。
37人は台風の夜、濁流の水かさが増す中、バスの屋根の上でどのようにしてこの危機的な状況を乗り越えたのか、乗客の一人で手記を出版した元看護師の中島さんに伺いました。

このバスツアーは兵庫県市町村職員年金者連盟の豊岡市部が主催する恒例の行事だった。
私達病院から13名参加しましたが、看護師の資格を持っている人が9人いました。
市役所の職員、消防署の職員の3つの団体でした。
10月19日に出発、台風が来ている情報はありましたが、中止との情報はきませんでした。(台風のコースは違っていた)
芦原温泉に泊って帰路に着くときは、台風のコースが変わってきて早く帰りたいと話し合っていました。
短縮しながら帰ろうとしましたが、なかなかそうはいきませんでした。
夕方5時にトイレ休憩があり、バスに乗ろうとしたときに、台風接近のために5時半を持って閉店しますとの放送があり、その直後に出発しましたが、なかなか進みませんでした。
道は冠水しかかっておりましたが、バスは車高が高かったので大丈夫でした。
渋滞がすごくて、峠を越えてから由良川を渡って後から車の動きが益々遅くなってしまった。
水かさも増してきました。

今晩帰れなくなるかもしれないとの電話をしました。
175号に入って、乗用車の人達が車を捨てて避難していました。
動けない状態になりました。
9時ごろにキャーッという声が聞こえてきて、波が来るように水が流れ込んできました。
膝のあたりまでがずぶ濡れになりました。
非難するということで、非常口からまず女性、お年寄りから出ようということになり、足が付かないという声が聞こえました。
ロープはないかとの声がありましたが、ありませんでした。
窓のカーテンを使おうということになり、ハサミで切ってロープ状にしました。
水かさがさらに増してきて屋根の上に登ろうという結論になりました。
窓を開けて身を乗り出し、非常口を開けてちょうつがいに足をかけて屋根に登り始めました。
先に登った人達が協力して引き揚げたり、車内から押し上げたりして屋根に全員が昇って行きました。

その間に窓を閉めろとの声がありましたが、窓を閉めてしまうとバスが浮いてしまう可能性があるのでヤメテと大声で言いました。
私が出ようとした時には首に辺りまで水が来るところでした。
携帯電話があるのでバッグを水につからないように苦労して、引っ張り上げてもらいました。
風がひどいので身を低くするようにとの元看護師長の声があり、坐っていました。
最期の人が水に潜る様にして上がって来ました。
屋根のところまで5cmぐらいになってしまいました。
屋根の上で点呼を取りましたが、30過ぎたらごちゃごちゃになってしまいました。
逆からやってみたら37名いたことが確認できました。
益々水が増してきて坐っていられなくなりました。
午後10時20分ごろバスは水没して、膝のあたりを越えて更に上昇する。
バスの屋根は狭く、幅2.5m、長さ12mの細長いスペース。
カーテンのロープを最後部の座席に括りつけて屋根に上げ、対角線状にしてロープを握り転落しないように支え合いました。

その頃は風速20mを越えて、雨量が15mmの強い雨でした。
みなさん携帯電話で色々なところに電話するが、自分は大丈夫との声が聞こえたりしました。
10時57分ごろに119番をするが、頑張ってくださいとのことでした。
携帯電話の電池も尽きてしまいました。
午前0時前後に竹の棒が流れてくる。
竹を数本拾うことが出来ました。(一番長いのが5m以上ありました)
午前0時過ぎに2人の男性が相次いで濁流に飛び込み近くの街路樹に泳ぎ着き、バスと街路樹の間に竹の棒を渡して、一方は木の上の男性達がつかみ、一方はバスの上の人達が握ってバスが流れないようにつなぎとめていました。
横転していたら一人も助からなかったと思います。

トラックの運転手が落ちたのを見た人もいました。(後で聞いた話だと亡くなってしまったそうです)
水に浸かって下半身は感覚が無くなってしまいました。
過呼吸の人がいたが、近くにいた看護師が抱きかかえてやっていました。
身体がふらふらとなった人もいて同じように近くの人が背中に覆うようにしていました。
ある女性に異変が起きて、「なんで助けに来ないのか」と盛んに言いだして、「あのばばあ、静かにさせろ」と声が聞こえてきましたが、「少し静かにしなさい」と私がいって、それから冷静になってゆきました。
由良川の川を挟んだ処からサーチライトが見えて、助けに来てくれると思ったっら消えてしまい、駄目だったとがっかりしました。

元市役所職員の携帯電話が突然鳴りだしました。
「流れが厳しくて行けないので、夜明けを見て直ぐ救助に向かうので頑張ってください、多分6時ごろになるでしょう」、との連絡を受けました。(3時頃の時)
3時から4時は一番眠たい時間で、居眠りしてしまいそうな人もいましたので、眠らないようにしようと思って、誰かが呼吸をするためには歌を歌いましょうということになりました。
歌は苦手だったが賛成しました。
「上を向いて歩こう」を歌おうという事になったが、なかなか歌い出さないので、まずは小さい声で歌い出したら、次のフレーズからは皆がワーッと歌ってくれました。
歌詞の替え歌を歌ったたら誰かがクスッと笑ってくれて、それが又元気を貰いした。

5時には完全に屋根には水が無くなっていました。
ヘリコプターが来てくれて、みんなワーワーと言いました。
一番年齢が高く弱っていた人(88歳)から釣り上げることになりましたが、4~5m上がった時に手が上がってしまってベルトが外れて落ちてしまって、レスキュー隊の人が受け止めようとしたが、一緒にドボーンと入ってしまったが、助け上げて今度はレスキュー隊の人と一緒につりあがって行きました。
8時頃に私たちが最後に救出されました。
しばらく水が怖かったです、天井の木目が渦を巻いているようで厭でした。
バスは車高が高いからという安心感がどこかで有ったと思います。
屋根の上での連帯感があったように思います。
その場で持っているみんなの一番いい知恵を採用しようという決断もありました。
いつどこで何があるかわからないということを、常に頭に入れながら行動しないといけないと感じています。

































2017年9月8日金曜日

織田哲郎(音楽プロデューサー)   ・いつまでも変わらぬ歌

織田哲郎(音楽プロデューサー)   ・いつまでも変わらぬ歌
高校時代にバンド活動を始めた織田さんは、21歳でプロデビュー、バンドやソロシンガーとしての活動と並行して、他の歌手やバンドへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるようになります。
1990年代にはアニメ番組のテーマソングとして提供した「おどるポンポコリン」ZARDの「負けないで」「揺れる想い、自身が歌った「いつまでも変わらぬ愛を 」など、手がけた楽曲が次々とミリオンセラーとなり音楽業界で一つの時代を築きました。
一方で忙しさのあまり、心身のバランスを崩した時期もあったと言います。
傷つくことが多かった子供時代から、大好きなロックギターを弾く思いまで伺いました。

『CAFE BROKEN HEART』(カフェ・ブロークン・ハート)の反応は、自分から何も言っていないのに母親から「聞いたよ」と言ってきたのは初めてでした。
話があったときに、じっくり聞いてもらえるのを作れるなと言うのが一番最初に考えたことです。
いつもゆっくり流してもらえるということは、トータルをキチンと聞いてもらうことを前提で作れるということはありがたかったですね。
自分自身で詩はどう作っていくのかよく判らない、潜在意識のぬか床みたいなものがあるが、ぬか床に自分の思い、日々の出来事などを漬けこんでおいて、ぬか床に手を突っ込んでみると出てきたものです。
感じたことが、感じ方が強いことが投げ込まれている方が、結果的に後で良い味が出てくる。
これはどうやら昔からそうなっていたようです。
小学校の頃は漫画家になりたいと思っていて、中学の頃は画家になろうと決めていました。

とにかく何かを取り入れてはそれを外に出す、表現する手段を常に求めていて、一番身近なものに飛びついていた。(漫画、絵画)
日本に戻って来た時がフォークソングブームだった。
学校の寮に入ったらみんなギターを持っていて、弾いてみたらそこからは音楽のプロになるということしか考え無くなった。
何人かでなんかやろうとするということが音楽の場合必要になりがちで、それがすでに辛くなったということが、20代前半であり、一人だけで何か作るものの方が向いているのではないかと思って、一時期止めようと思った時期もありました。
たまたま入った喫茶店で占い師がいて、あなたは音楽とか芸能が向いていると言われて、自分の中ですっきりした物があって、やりたいことしかやらないからと宣言してやっていこうと思って、自分で事務所を作ってしまった。

当時は傍目には物凄い自信があったと言いますが、物凄く自信のないものが自分のなかにはありました。
積み重ねる事で、地に足が付いたところでのやって行き方がやっとできるようになったと思います。
子供が出来たということが、子供の成長を見て行く中で、ちょっとずつ変わっていったというのも、本質的なところで大きかったと思います。
小さい頃はほめられたことはなかった。
音楽とかでたまに褒められると嬉しかった。
子供の時は、基本的に親はすごく大きいものじゃないですか、完全なもの見たいで、完全なものに否定されるということは、とても自分が駄目なものだということになる。
自分が子供の親になると、ひどい親だなと言うところから始まる。
そうすると色んな事が解消して行く部分があった。
何かを作るということが、何かを発散できるシステムになっていたんだと思います。
子供のころはひたすら騒ぎまわっているタイプだった。
しかし、可愛いと思ってくれた女子がいました、それは支えになりました。
友達もできたし、自分の日常の中での楽しい生活スタンスは自分で作れた。
皆と言うもの、不明瞭な皆がこうしているというところに合わせなくてはいけない圧力は特に日本には強く、しかし意外に人間は気の合う人達の小さな社会でやっていければ、全然問題ないということを、そういった子どもたちに言ってあげたいと思います。

色んなめぐりあわせが上手く回っているという実感がありました。
曲がヒットするというのは何か一つの要素だけで売れるということではなくて、売れるものは条件がきちんと揃うことがヒットするということには重要です。
めぐり合わせのいい時はどれも上手くいくことばっかりが結びついてゆく。
私の場合、めぐり合わせが上手くはまるときに、とてもいい形で活動できたということだと思います。
30代の時、90年代になってヒット曲が多くて、30代に多く仕事をしていると思われがちですが、本当は20代の方がしていました。
忙しいから80点でいいやということに気が付いて、一遍休んでどうするか見つめ直そうと思いました。
自分が出来る範囲でしかやらないことにしよう、と思い到りました。
音楽界からのフェードアウトでも良いかなあとも思っていました。
休んでいる間に来た話が、ちびまるこちゃんの主題歌「おどるポンポコリン」で、音楽で子供が喜ぶことはしたことはなかった。
異様なヒットになり、ミリオンセラーになりました。

「想い出の九十九里浜」を出したら、これもヒットしてしまいました。
音楽の神様が俺にやれと言っているのかなと思って、きちんと腹を決めて戻ったわけです。
自分が楽しいことが一番じゃないの、と思いました。
40代は戻ってこれなくなってしまうので、酒に逃げるようになってしまって、仕事はしていたが心身ともにおかしくなっていたときに、スペインで首絞め強盗に会って、財布、パスポートなどを奪われて、首を強く絞められたため声が戻らなくなってしまった。
高い声だったが、病院に行ったら声帯の骨が曲がっていますと言われて、治らないと言われました。
音楽に対しておろそかになっていたと思った、仕事としてはまじめに働いていたが楽しんでいないし、忙しく自分が歌を歌うということもできなくなっていた。
音楽を義務としてやっている状態だったのを、音楽の神様がおしおきをしたんだという実感がありました。

事件があったことで、もう一回人生を考えろと言われてしまったと思って、断酒して仕事も整理して、もう一回音楽とどう向き合っていくか、見つめ直す日々を送りました。
発声練習をしながら、子供の頃の好きだった歌を歌って半年から1年やっていました。
あれがなかったら、確実に音楽家としても人間としても終わっていただろうと思っています。
来年還暦ですが、余り思いはないですね。
ただ自分で出来る時間が限られているなかで、やりたいことは全部やっておきたい、出したいという音楽は出しておきたいという思いは強くなっています。




































2017年9月7日木曜日

原和夫(銭湯経営者)        ・番台から子どもを見守る

原和夫(銭湯経営者)        ・番台から子どもを見守る
東京駒込の近くで4代続く銭湯の経営者原さんは70歳、40歳の頃サラリーマンから家業の銭湯を継いで、今まで気付かなかった地域の子供たちを取り巻く問題が見えてきたと言います。
娘さんの学校のPTA会長を引き受けざるを得なくなって以来、学校の先生とは違った立場から不登校、いじめ、親の貧困など、子供たちの抱える問題の解決に走り回る原さんの忙しい日々が始まりました。
番台に座っていても子供達から気軽に声を掛けられ、世間話から悩みの相談まで親身に聞いてくれる原さんは子供たちの人気のおじさんです。
昔ながらの風情の銭湯を訪ねて、原さんが地域の子供たちとどのように向き合っているのか伺いました。

文京区でおじいさんの代にやってたときに、空襲で焼失して、戦後こちらに移り住みました。
明治末のころからは営業してたということです。
大杉栄、伊藤野枝とかお風呂に来ていたようです。
大杉栄は恰幅が良くて、気風が良くて人気があったそうです。
「殿上湯」と言う名前ですが、将軍家の直轄地で狩りをしたとき等に、休んだりする土地だったようで、その由来から来たようです。
138mと深く井戸を掘ったので水質が凄くいいです。
備長炭を風呂の中に入れています。(ろ過する)
入湯料460円です。
おおきい富士山の絵が書かれています。(男湯と女湯にまたがっている。)

サラリーマンをやっていましたが、40歳のころに継ぎました。
低迷していて、これからは大変だとはいやっと言うほどわかっていましたが、無くしてしまうのには惜しいと思いました。
一番下の子が小学校に入っ時に祖母と母親が体調を悪くしてしまって、妻から替わりに学校に行って欲しいと言われました。
男だと目立って、そのうちにPTAの会長の話があり、受けざるを得なくなりました。
出来る範囲のサポートはしたいと思うようになりました。
不登校、非行で苦しんでいる時に、断罪して済むかと言うとそうはいかない。
否応なしに色んな事に気が付いてくる訳で、不思議と色々飛び込んできました。
我が家では、おじいさんや父親たちを見ていると、朝起きたらおじいさんが上野駅から知らない人を連れて来て、お腹がすいているということで、朝ごはんを食べさせたり、その人がしばらく家で働いているとか、そういったことがざらにありました。(子供の頃)

番台では子供達とは話を良くします。
ある子は将来はお風呂の経営者になりたいといってきて、お風呂の自由研究をさせてほしいと、母親と一緒に来たこともあります。
小学校、中学校では対応できないケースがいっぱいあります。
父親、母親が仕事がうまくいかない、失業している、病気で働かないとか、そういうときに前ならば学校がうけ皿になり得たが、今は学校は凄く忙しくて対応が出来なくなってきている。
子ども家庭支援センターとか児童相談所とかあるが、まだハードルが高い。
そういった中でPTAの会長だと、そういったことに対して話しやすい。
いきなり専門機関行くということは、なかなかしない。
不登校の子に聞いたが、学校の先生には相談しないというわけです。
教員ではないのでハードルが低い。
いろんな理由が複合的にあり、聞いたなかで最大公約数みたいなものを学校に持っていってそれでやりましょうと、言うことになりました。
キーパーソンは保健の先生です、先生のなかでは子供にとっては一番相談しやすい。

銭湯の開店前には学校にいたり地域のことなどをやります。(夜は1時になってしまう)
ボランティアで大学生たちも応援してくれました。
子供達からのSOSは夏休み、冬休みが多いです。(学校がないということが大きい)
生活上の問題で給食が命綱と言うようなことがざらにあります。
給食は凄く大切で、私は不登校の子の教室があるが、無理しても一緒に食べるようにしています。
家庭が脆弱な家庭環境にとっては夏休み、クリスマス、冬休みなどは行き場がなくて辛いと思います。
家庭のウイークポイントがさらされてしまう。
家で厭なことがあっても学校へ行けばと言うような事があるが、学校でも居場所が無くなると厳しいと思う。
不登校の居場所作りをさせてもらっています。
虐待、親が病気など大人の問題に子供が巻き込まれる。
今は学校も家庭が見えにくくなっている。
対応のノウハウを学校ではなかなか持つことは出来ない。

家出の子の親との対応も色々あります。
子供の話をちゃんと聞いてやると言うことが大事です。
基本は子供がどうしたいのかということを考えてあげる。
大人が声を掛けてあげないと何にも子供には響きませんよ。
昔面倒見た子が訪ねてくることがありますが凄くうれしいです。
辛い環境で良くこの子を高校卒業して、社会人になったという子もいますし、大学生で頑張っている子もいます。
長いスパンで声をかけ続けるということが大事です。
私が3歳の時に火事に巻き込まれたが、家族ではないどなたかが救出してくれて助かりました。
私は戦争直後に生まれましたが、母親が栄養失調から来る乳腺炎でおっぱいがでなくなり、商売柄どの人がおっぱいが出るかが判るので、色々な人におっぱいを貰いました。
いろんな方に助けられたお陰で今の私があるわけで、たまたまご縁のあった方に出来ることをしてあげられればと思っています。




































2017年9月6日水曜日

日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)・母を語る(H9/7/21 OA)

日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)・母を語る(H9/7/21 OA)
今年7月荷105歳で亡くなられた、日野原さんの話を再放送でお送りします。
明治44年に山口県で生まれ、聖路加国際病院名誉院長、聖路加看護大学学長を務め、2005年には文化勲章を受賞されました。
生活習慣病という言葉を定着させて、予防医学や終末期医療の普及に尽力した日野原さんですが、著作も多くて90歳で出版し「生き方上手」はミリオンセラーになりました。
新老人の会を立ちあげたり、小学生を対象にした「命の授業」を行うなど100歳を越えても現役として活躍したその生き方は、高齢化社会のモデル像ともなりました。
日野原さんは成人するまでに2度の大病を経験されています。
その都度、母親の看病と励ましで克服することが出来たとおっしゃいます。
自分の医師としての原点は母の生き方にあるという、お話を伺います。

あと3か月で86歳になります。
午後の回診を1時から3時まで行います。
医学生が見学実習に来ていますので、診察の仕方や患者の問診のことなどを教えています。
最初の病気は10歳のときで、急性腎炎になり、当時1年は休養しなくてはならないと言われて、腎臓炎になると生涯運動はだめだと言われていましたが、幸い3か月学校を休んで学校に出られるようになりましたが、運動は絶対だめだと言われてしまいました。
それを聞いて母親は教会にピアノを教えてほしいと頼みに行きました。
少しずつ学校に行き出したが、皆が運動しているのに見学だけしていました。
それを見た母親がピアノを習う様に話を付けてくれました。
私は好奇心は強かったので、何故か音楽には関心がありました。
私は張り切ってピアノを習いに行きました。

父親は牧師で、母親もクリスチャンでした。
母親は山口県の出身で、毛利藩の士族の出身で仏教の信者だった。
明治20年ごろ宣教師が来て、母は10歳代の時にクリスチャンになりたいと教会に行って、宣教師からオルガンを習いました。
私は教会ではピアノ、家にはオルガンがあったので、家ではオルガンで練習しました。
ピアノの先生は厳しかった。
忙しくて練習ができなくて、或る時先生に誤魔化しを言ったことがあるが、その時のことは嘘を言ってしまったということで涙を出るような思いがあり、今でもわたしが嘘を言った最初の時はピアノの誤魔化しをやったということでした。
中学の2年の時から5年までチャペルで賛美歌を歌うときは、私がピアノの伴奏をやっていました。
4人の友達をカルテットを組んで歌で演奏旅行をやってお金を取ってやっていました。
半分は旅行の小遣い、半分は世話をしてくれた教会などの施設に献金をしました。

5年生の時に母は尿毒症と言う腎臓で死にかけました。
後で判ったのは仮性尿毒症だったようでしたが、その時に危篤ですと言われ時は母が死ぬんだったら僕も一緒に死にたいと思いました。
弟が出来た時、母が弟を抱くわけですが、背中でもいいからと言っていたそうで、母親が大好きでした。
私が医者になったのは、母を助けて下さった安永先生、あんな人になりたいと思いました。
牧師の収入が少なくて、安永先生は往診料を請求しなかった。
母は私が牧師になることを望むよりも、あんな医者になってほしいと心の中に持っているんだと、子供心に察知しました。
小学校6年から神戸の名門校の一中に4人入りました。(その中に私も含まれていました。)
父が関西学院で神学を教えていたので、教職の子供は授業料免除があり、経済的な事を考えて関西学院に行こうかとも考えた。
二つ受かったが、一中ではなくて関西学院に行って、その後三高に入りました。

高校では同人雑誌を出したりしていて、刺激され文系も考えたが、医者になろうと言うことで医学部を受けてストレートで通りました。
母は最高に喜んでいました。
関西学院から三高は非常に厳しかったが、試験を受けるときに母親は経済的に厳しい中、最高級の鰻丼を注文してくれて、その時の味を今でも覚えています。
大学に入って、スキーに行って40度の熱で肋膜に水がたまってしまった。
父は広島女学院の院長になり牧師を辞めていて、私は療養のため院長館で1年間過ごすことになる。
8か月間は38度前後の熱で、寝たきりでした。
母は4時間ごとに私のベッドのそばの畳の上に寝て、熱湯で温湿布をして、慢性腎臓、高血圧で身体の弱いなか昼となく夜となく看護してくれました。
薬のない中、栄養を摂るために、1日3合の牛乳の中に1回の牛乳に卵の黄身が4個入れてくれたようです。
10か月過ぎたころから動けるようになって、ピアノの練習を始めました。(広島女学院)

音楽の先生の前で弾いたら才能があるからと言うことで、教えてくれました。
医学ではなくて音楽に転向しませんかと言われましたが、結局医学の道に進みました。
卒業して昭和16年から東京の聖路加病院に行きました。
昭和17年父が定年になり引っ越して来て、両親と一緒に住むようになりました。
翌年結婚して両親とは離れた生活をしましたが、母親の血圧が高いのでしょっちゅう診察をしました。
アメリカに留学して帰ってから2カ月後に母親が亡くなってしまいました。
病院で6時間、7時間の手術をして、翌日は患者さんは腰が痛いので腰の下に手を入れてあげると患者さんは喜ぶが、それは私に母親がやってくれた手の暖かさが支えてくれたことを思い出して、患者さんにしてあげればいいという気持ちになって来る。
断食して母はよくお祈りしていました、そして聖書をよく読んでいました。
自分を前面に出さないで、影の仕事をするということが母の生き方でした。
日本的な奥ゆかしさを持っていました。

父は28歳の時に4年間留学して、その後2年留学して、父の方はすっかりアメリカ的でした。
広島女学院が発展するためには街は駄目だからということで戦争中に8万坪の山を買って、戦後、山は開けていまはキャンパスは移って立派な広島女学院になっています。
母は強くて行動力のある人でした、それを支えていたのは純粋な信仰だと思います。
父も仏教徒の家でしたが、家を出されてクリスチャンになって関西学院に入って、アメリカから帰った時に、本間俊平さんがに金子満子さんとの結婚をさせました。
人間が真実に生きるという生き方は、母の生き方を見て飾りではない、メッキではないと言うことを、母の生活した中から教えられていると思います。
「いのちの響き」 父の遺稿集を出しました。
出会ってから、子供が生まれて歩んだ道乗りを書いてあります。
母の物凄い忙しい姿を子供の時からみているので、どんなに忙しくても母親には及ばないと思っているので、ちっとも辛くはない、努力することを母から学びました。



















2017年9月5日火曜日

砂川啓介(俳優)         ・砂川啓介さんをしのんで(H28/1/21 OA)

砂川啓介(俳優)     ・砂川啓介さんをしのんで(H28/1/21 OA)
1937年、東京生まれ、高校時代から演劇で活躍し、映画の出演、NHKの体操のお兄さん、ワイドショーの司会などでも活躍しました。
今年7月11日尿管がんで亡くなりました。
80歳でした。
大山のぶ代さんとは舞台の共演で出会って昭和39年に結婚おしどり夫婦として人気を集めました。
大山さんは2008年に脳梗塞をわずらい、緊急入院一命は取り留めましたが、会話や記憶に障害が残りました。
2015年「娘になった妻のぶ代へ」という本も発表しています。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/01/blog-post_21.htmlをご覧ください。

2017年9月4日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・津田梅子【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・津田梅子【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭

留学生の草分け、津田塾大学の創設者。
6歳でアメリカに行っている。
 
津田梅子の紹介(講談)
「1871年、明治4年 明治新政府は岩倉使節団を欧米に派遣、その中には60人ほどの留学生が含まれていた。
うちアメリカ留学に送られたのが5名の女子、その中に6歳の女の子(津田梅子)がいた。
アメリカでホストファミリーに囲まれ、10年以上生活、英語はペラペラ話せるようになる。
日本に帰るとすっかり日本語を忘れていた。
日本で女性のための学校を作るのだと、大きな志を持って帰ってきたが、日本の世間がそれを許してはくれなかった。
女性がすべきは、炊事、洗濯、針仕事、即ち結婚して母になること、梅子も結婚するようにと攻め立てられる。
彼女は生涯結婚をしなかった。

女子教育がしたいと、政府が作った華族の子女たちが通う学校で教師として働きます。
自立して社会に出なさい、使命があるはずだと説くが、自分が伝えたい指導方針とは違うと思って、再びアメリカに行く。
帰国後、明治33年、麹町に女性教育者を育てる女子英学塾を開校、10名から始まる。
(津田塾大学の前身)
資金難を援助したのが、共に使節団でアメリカに渡った、大山捨松ら。
その卒業生には多くの求人が寄せられる。
梅子が目指した女性教育とは、女性の権利を主張し要求する前に、女性が自らを高めなければならないということ。
女性は結婚するものと言う一般的な生き方に抗い、日本女性の地位向上のため教育のため、人生を全うした。」

父親は教育者になる人、教育熱心だった。
父親は津田仙、キリスト教の信奉者で海外に行っている。
進んだ見識の持ち主で、福沢諭吉の3回目の洋行の時に、津田仙も同じ船に乗っている。
5人の女の子は全員戊辰戦争の負け組の武士の娘だった。
そのなかで梅子は6歳だった。
他の女子は吉益亮(よしますりょう)14歳、上田悌(うえだてい)16歳 この二人は10カ月で帰る。
他には山川捨松(のちの大山捨松11歳、永井繁子(のちの瓜生繁子8歳だった。
3人はアメリカで自我を目覚めさせ、成長させて自分を作り上げたと思われる。
チャールズ・ランマン夫妻に梅子はお世話になる。
ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。
11年間留学、明治15年 18歳で卒業して日本に帰国する。(結婚適齢期)
女は家に入れというような事が、当時の世間の目だった。

国費で留学しているので何とか恩返しをしようという思いがあったと思う。
山川捨松は大山巌元帥陸軍大将)に嫁ぐ、永井繁子は瓜生外吉(海軍大将男爵)に嫁ぐ。
梅子は英語の先生になる。(伊藤博文の家庭教師)
私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。
明治22年再度渡米、3年間勉強、生物学を専攻する。(一緒に研究していた人が後にノーベル賞を貰う。)
明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。
明治31年 梅子34歳のときに3回目の渡米する。(ヘレン・ケラー、ナイチン・ゲール等の有名人と会う。)
少ない資金で自分の教育方針を貫く事が凄い。
明治33年(1900年) 父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立。

厳しい教育を行った。
大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。
昭和4年(1929年)に脳出血のため64歳で死去。
墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。
津田梅子の卒業式の式辞(英語での生のスピーチの録音見つかる)
「学校を卒業することは、風や波の試練に立ち向かう旅へ出発する船の進水にたとえることができます。
この学校に限らず他のどの学校においても、学校だけでみなさんの行く手にあるものに対処できる力を完全に付けてあげることはできません。
一人ひとりの人生の行路には一人で立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題があります。
わたしたちはあらゆる面においてみなさんを助ける努力をしてきました、しかし将来は皆さんの手中にあり、みなさんは実際の体験における試練と教訓を待たねばなりません。
しかし、わたしたちが願うみなさんの無事で幸せな航路には灯台の明かりと危険を知らせる信号があり、それらは行く手に横たわる危険なサンゴ礁や狭い海路にあっても、きっとみなさんを安全に導くことでしょう。
灯台や信号が指し示す進路に眼をつぶることなく、忠実にその意義を受け入れてください。・・・・・。」




















2017年9月3日日曜日

堀江美都子(アニメソング歌手・声優)・【時代を創った声】 

堀江美都子(アニメソング歌手・声優)・【時代を創った声】 
堀江さんはアニメソング歌手としてデビューして48年、アニメ「キャンディーキャンディー」の主題歌を歌われたことで知られている。
「キャンディーキャンディー」の主題歌が余りにも有名になって、自分のライブではこの曲を歌わなかった時期もあると言います。
さまざまなアニメの主題歌を歌いながら声優としても活躍している掘江さんですが、声優の難しさ、歌手とはなにかなどについて伺いました。

「キャンディーキャンディー」は1976年からTVで放送されました。
歌い始めて今年で40年になります。
レコードの売り上げが100万枚でした。
体で感じたヒットする様な予感はありました。
「キャンディーキャンディー」を歌ってヒットしたきっかけで、表舞台に出て行くアーティストとしての立場が出来て来ると、自分の歌を歌いたいという気持ちが強くなり、オリジナルの曲を出す様になるが、ライブコンサートをやるようになるが、突っ張ったところがあったようで、オリジナルとアニメを同じステージでは歌わないとか、自分の中で決めたんですが、或る日駅の構内でイベントをやるようになったが、オリジナルの曲を歌うがだれも足を止めてくれなかったが、「キャンディーキャンディー」を歌うと遠くのほうの人も集まってきて沢山の人が聞いてくれました。
改めて考えて、自分が作り出すものは、自分が自分の中を通して作りだすものに、変わりはないんじゃないかと思いました。
わだかまりは無くなり、自分が楽になりました。
「キャンディーキャンディー」の堀江美都子といわれていたのを逆転しようと思っていたが、今はそれは本当に与えられた有難いものだと思います。

1969年アニメ「紅三四郎」でデビュー、小学校6年生の頃でした。
4年生の時に「ちびっこのど自慢」に出たところ、フォークシングだったが、チャンピオンにはなれなかったが(準優勝)、TV局の合唱団に入らないかといわれてそこに入りました。
自分の歌が流れてきたのを正座して見ていました。
少年のような声でもあり、少女のような声でもあり、どんなアニメの主題歌にも合うということで歌うことになっていきました。
その後多い時で1週間に10曲近く流れているという状況もありました。
本格的に活動するようになったのは高校卒業してからです。
1978年「宇宙魔神ダイケンゴー」で声優としてもデビュー、主題歌も担当する。
オーディションを受けてヒロインの役を行う。
声優は何も分からない中で、先輩の役者さんに一つ一つ教わりながらやりました。
納谷悟朗さん、筈見純さん、石丸博也さんなどの中でやりました。

私はなにもいわれなかったが、まだ指導するレベルではないと言われてしまいました。
歌手だという看板(自分の武器)を先ず掲げないようにしようと思いました。
先輩のやることを見て色々自分なりに研究するようにしました。
リズム感と間が大事だと思いました。
「魔法少女ララベル」、「ひみつのアッコちゃん(第2期)」の時も大先輩に囲まれてやりました。
横浜の田舎から行くので、遅刻を良くしてしまいましたが、先輩を待たせて、今思うと本当に冷や汗です。
1986年「愛少女ポリアンナ物語」 どんな辛い時でもよかったと思う気持ちを探しながら生きていくんだというのをやっていく子なんです。
1週間に10曲流れた時代もあったが、何も無くなっていて、声のオーディションにいって、受かって、「良かった」というセリフが何十回とでてきて、口癖のようになって、私生活でもそうなって、気が付いたらいい方に向かって居るのではと思うようになり、キャラクターシングを歌ってみないかと言われて、歌ったら、歌が上手くなったねと言われました。

全てが良かったという方向に回り始めました。
「愛少女ポリアンナ物語」のオーディションに受かったのが、本当に自分の人生で大きな分岐点になったと思います。
主題歌を作品のイメージに合わせて歌うこと、要求されることを出来ることが一番の仕事としての役割ですが、それがうまく表現できなかったときには一番辛かったです。
その場で乗り越えられることもあるが、何年か掛けて自分が成長した自分があるとき、
今やっと歌えるという歌もあります。
歌は完壁がないと思っていて、自分が望む限りどこまでも向上できると思っている。
アニメソングは歌詞の普遍性、メロディーの素晴らしさ、歌一曲一曲のパワーとか、そういうものがいつまでも変わらないので、歌う方も歳を重ねていってもいつまでも新鮮に歌っていけるだけの歌のパワーがある事は有難いことです。
1200曲ぐらい歌った歌があります。
音楽って、感覚で伝わるものがあるんだと思います。

私が子供だった時代と環境が違ってきているので、即戦力でなくてはいけない時代で、難しいが、自分の今いる環境に受け身で無くて自分から何かをしたり、自分がそこで何が出来るのか、自分自身の充実感、満足感を得てほしい。
そこから何か新しいものが浮かんでくると思います。
聞く人に声が変わらないねと言われるように、そう歌うように自分がかわってゆくという努力をする事、自分が思うように上手くなっていきたい、教えて頂いたこと、経験したことに対して次の人たちに伝えたいと思います。






















2017年9月2日土曜日

森下伸也(日本笑い学会会長)   ・豊かな笑いの文化

森下伸也(日本笑い学会会長・関西大学教授)・豊かな笑いの文化
海外では日本人は笑わない、ユーモアがないとみられがちですが、森下さんが宗教社会学者として全国で調査したところ、神様に笑いを奉納する祭りや民俗行事が全国各地に残り、日本には古来豊な笑いの文化があったことが改めてわかったということです。
森下さんは日本笑い学会の仲間たちの調査結果も併せて、去年「笑いの民俗行事ガイドブック」にまとめました。
どんな笑いの祭りがあるのか、森下さんに伺いました。

専門は宗教社会学、宗教についてあれこれ社会学するということですが、周辺的な学問に見えるが、宗教は社会全体を束ねているような力を持っていて、社会を束ねるという意味で宗教は重要な役割を果たしている、社会学の中心的な部分だったりもする。
我執、ということに興味を持っていて、我執から宗教は解き放ってくれる。
笑いもそういう力があるのではないかと思い始めて、段々と笑いの学問に集中する様になりました。
自分から離れて自分を見ると滑稽なところが見えてくる、それが自分を成長させてくれる。
国際ユーモア学会があり、国際的にもやっている。
笑いについて本を出したら前の会長から誘いがあり、日本笑い学会にはいることになりました。

芸人、NHKの方もいます、放送作家等笑いに関係する人達もいます、笑いに関係する人たちのほかにサラリーマン、医療関係者もいます。
ユーモア療法が最近注目されて沢山医療関係者が入っています、学会全体で約1000人ぐらいです。
笑い学研究と言う学術雑誌を出していて、研究会、講演会をやります。
全国に16の支部があり活動展開しています。
小牧市に豊年祭りという変わったお祭りがあり、3月15日にあるが、田縣神社のお祭りで、男性のシンボルが出てくる、長さが2m、太さが60cmでピンク色していて、それが御神体として練り歩きます。
それが大で、中、小(50cmの長さ)があり、巫女さんたちが担いでそれに触ると、豊年万作、商売繁盛という力があるといわれる。
それを見たことをきっかけにフィールドワークをやる様になりました。
一番中心的なのは笑いそのものを神様に奉納する祭りが結構多くあります。

一番有名なのは山口県防府市の小俣八幡宮、笑い講というお祭りがあり、12月第一日曜日にやっていて、氏子代表が20人集まり大笑いをすることによって神様に笑いを届ける。
今年の豊年に感謝、来年の豊作を祈る、一年間に有った厭なことをみんな忘れる、そういった意味があります。
酒を飲んで、御馳走を食べて、向かい有った者同士がペアになり榊を見て3回づつワッハハと笑う訳です。
これは800年前から続いています。
和歌山県日高川町、丹生神社で秋祭りの一環で笑う訳です。
沿道の人たちに笑えと言って、皆が笑って、お神輿の上にいる神様に笑いを届ける。
顔に「笑い」と書いてある。
神無月に全国の神様が出雲に集まるが、丹生神社の神様も行かなければいけないが、寝坊してしまってふさぎこんでいるると、皆が笑えといって神様に陽気になってもらったという伝説があるが、伝説が本当かどうかはわからない。

名古屋の熱田神宮の酔笑人神事(えようどしんじ)、酔っぱらって笑う人、笑って酔っぱらう人という二つのパターンがある。
5月4日午後7時からやっている。
真っ暗な中、神社の4か所で笑うが、神主が17人出てくる、まず神様の面を叩いて、オホホと小さな声で笑う、わざとへたに笛を吹き、それを合図に17人全員がワハハと笑う。
1300年前から続いていると云われている。
御神体は草薙の剣だが、1300年前に盗まれたが、帰ってきてこれをよろこんで笑っていると神社の説明では言っている。

高知県の室戸市、御田八幡宮があり、御田祭り、隔年5月3日にやっている。
一年間の農耕行事を15の場面に分けてやってみせる。
演者は全部男性で、牛の恰好をして田んぼを作ったり、田植え、神様の子供を奪うとか、色々なシーンがあり、演じてそれを笑う。
800年の歴史があると言われている。
奈良県川西町六縣神社(むつがたじんじゃ)、子出来オンダという祭りがある。
水を見まわり、牛を使って田んぼを作るとか、田植えとかをやる。
神殿に小学生が30人ぐらいいて、合間に男たちに乱暴する。
怖がりながら笑いながらそれに耐えている様子が面白い。
子出来オンダ、男性が妊婦のふりをして、懐から太鼓(子供ということになっている)を出す、廻りが「ぼんできた、ぼんできた」と囃したててめでたい跡取りが出来たと、やります。
他にその近くのところでは烏帽子をかぶった男が出てきてモミを手に持って一面にモミをばらまく。
雨の代わりに砂をまいて、雨が降って田んぼが良い具合に出来ますようにという祭りがあります。
笑いのパターンは主に4つ
①笑いそのものを神様に届ける。
②漫才狂言のような形で、笑わせる芸能をやって神様に笑ってもらう。
③性的な要素が強いもの、日本には物凄くある。
④祭りのルーティーンの中で笑いがなんかのきっかけで起きて、笑いを求めて祭りをやってくるような派生的な笑い。

柳田國男 「笑いの本願」 日本人は本来笑いが好きで笑いすぎるようだと言っている。
幕末から明治に入り西洋人が入ってくるが、陽気でいつも笑っている、西洋人はそのような笑う文化にショックを受けている。
日本人は狂言、落語、など豊かな文化を育んできた。
国際ユーモア学会でこのような祭りなどについて、ユーモア学会で発表したが、海外ではないそうです。
幕末から明治初期までは笑う姿勢があったが、富国強兵で笑うと言うのは不道徳のような感じになって、笑う量が少なくなってきたのかなあと思います。
古事紀にも太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの話があり、天宇受賣命(アメノウズメ)が神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊って、まわりが大笑いした話もある。
「笑いの民族行事ガイドブック」の本を作りました。(40ぐらいの笑い祭りを纏めました。)

出来るだけ早く調査して保存していきたいと思っています。
インターネットで調査のきっかけが出来るので、出かけていき写真、ビデオ等に取ります。
私は40か所ぐらいの所に行って見て来ました。
山形県の上山市に出かけて、裸でふんどしに蓑をまとった男性たちが「かせ鳥かせ鳥 カカカア 豊年万作カカカア」と言って練り歩くが、2月の山形は滅茶苦茶寒くて、沿道の人たちはバケツに水を汲んで待っていて、ぶっかけるんです、これが豊年になるための雨の替わりみたいで水をぶっかける、何時間もやるわけです。
全国にはまだまだ沢山あると思っています。























2017年9月1日金曜日

仲川恭司(書家)         ・一文字で世界を表す

仲川恭司(書家)         ・一文字で世界を表す
昭和20年8月、新潟県佐渡市の出身、72歳。
大きな紙にひと文字や少ない文字で作品を作り上げる独立書人団理事長を務めています。
仲川さんは去年の毎日書道展で、魁と云う一文字の作品を書いて、最高賞の文部科学大臣賞を受賞しました。
佐渡高校時代、高校の図書室で中国の昔の書を見て、より深く勉強したいと卒業後、大東文化大学で学び、昭和の三筆と言われた、手島右卿(てしまゆうけい)氏の弟子になりました。
その後専修大学で教授となり若い人を指導してきました。
現在専修大学の名誉教授を務めています。

手島右卿先生が一字書をどんどん開拓された方で、その分野で私も夢中になって行って、そのところで賞を頂けたことはありがたかったです。
「魁」 文字の原点から考えながら構成して行って、自分でも納得する作品でした。
筆のタイミング、タッチの姿勢などがでてきて初めてできるんですが、右から左に移っていった時に潤渇の変化が出てきて、潤渇の変化が一つの書の美を出す大きな要素だと思います。
墨の色をこのくらいすると出来るとわかっていたのと、偶然的なものもありますが、全くの偶然ではなく、或る程度の経験、体験から出来る偶然です。
それが出てこないと自分を越えた作品にはならない。
例えば20文字でいろいろ変化を付けて、その中に山場を設けて行って、最後にまとめていって全体に潤渇変化を付けてまとめるという、多字の難しさはあるが、それを一字に持ってくる訳でそういう難しさはあります。
ゆっくり書いたりスピードを出したり、いろいろ工夫してやるわけです。

自分の独自の世界を作るためにはいろんな工夫が必要です。
ふすまの絵、屏風だとかを勉強したり、構成の面白さなどを考えていきます。
音楽がヒントになる場合もあります。
書は一つの芸術ではなくて、沢山の芸術が集まった総合的な芸術だと私は考えています。
自分の中に色んなものを取りこんで、引き出しを一杯持っているかどうかになると思います。(財産)
今は大学を退職したのでフリーになるはずですが、独立書人団理事長を務めています。
毎日書道展の理事として、書道の楽しさを海外に紹介などもしています。
佐渡には高校生まで居ました。
佐渡島は芸能、文化の豊かなところで育ったことは私を作り上げてくれたと思います。
小さい頃は鞄を置いてそのままアユを取ったり、ナマズを取ったりして家に帰ってきたりしていました。(やんちゃでした。)
小学校4年から書道の授業があり、中学は陸上競技、野球をして、高校では選択で音楽の勉強に専念する方向に進みました。

小学校ではコンクールの選抜のメンバーにも選ばれました。
書の方はそれほど真面目にはやっていませんでした。
高校の図書室に行った時に、偏と旁が整っていなくて、こんな字でいいのかと聞いたが、中国のいい字だといわれて、それまでの概念と違った字がどんどん出てきた。
字から何か迫って来るものがあり、後でも忘れられなかった。
担任の先生に選択を変えたいと言ったが、駄目だと言われた。
書道の先生の所に行って、書道をやりたいといったら、駄目と言われたが、専門家になるかといわれて、やりますと言ってOKを貰いました。
2年生の時から始めました。
本を渡されて最初から最後まで読んで真似て書いて持って来いと言われました。(特別授業だった、)
書いたものを持っていって、それを綴じて、一番上にレポートを書くわけです。
(どの時代、誰が書いたものか、特徴、感想など)
それを見ると、次のものを出されて、繰り返し繰り返しそれをやる訳です。

学校の図書館で感動したのは、中国の北魏の時代の鄭道昭(てい どうしょう)と云う人の書いたものでした。
(*道昭の作品は山に登って現地で彫っているため、その作品は全て磨崖である。)
図書館には書道の本がたくさんあり参考になりました。
臨書だけでなく創作もあり、漢詩を書くわけですが、楷書、行書、草書で書く訳です。
草書で書いたものをどう読むのかといわれて、読めなくて、一般の人には読めないのでは、そういうものを夢中にやっていても果たして広がっていくのかと思った。
字数が少ないものを書けば、楷書で書けば判るし、芸術的に書いていって、みなさんに広がっていたらいいし、海外でも1~2字だったら読めるだろうと思ったわけです。
図書館の本を調べていって、自分の考えと一致した書を書いているのが手島右卿先生でした。
本を調べると淡墨、滲んだり、濃い墨でかすれたりしていて、それが判らなくて、大学ではそういう勉強をしないといけないと思いました。
大学に行くためにはお金もなくて工面して母親には迷惑をかけて、申し訳ないという気持ちはずーっとありました。

大東文化大学に入学して手島右卿先生(大学の先生ではなかったが)に師事しました。
手島右卿先生は新古典派、古典のものを生かしてそれを作り変えて、新しい時代に合わせた作品を作るという考え方でした。
貪欲で行けと言われました。
先生の言ったことは全部ノートには書きませんでした。(咀嚼し身につけた。)
卒業後新潟に帰って教員をやりますと先生に行ったら、帰ってはだめだといわれてしまいました。
東京に残れと言われ、たまたま高島屋での書の仕事があるということで、先生に了解してもらいました。
その後、二股をかけない方がいいといわれ、講師、専任の助教授でいって、学生たちと勉強しながらやりました。
専修大学に行くことになりました。
現在は独立書人団の理事長をやっています。
今年正月に現代書道20人展に初めて選ばれて、日展にも出したことがないのに、声がかかってきたことに恐縮しました。
30年ほど前に佐渡で展覧会をやって母親にみてもらい、感激していました。
9月に個展を行います。
自分の中に色んなドラマがあり、ドラマがあることを題材にして作品にしていく、それが今回特に多いです。(大きな作品17点)